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其れの生まれた場、以後の方針が確定した時
――それが、主の望みであり、心であるのなら。
◆
さかのぼる事、およそ1100年前。時は平安。
都である京は栄華を誇り、そこに生きる人々もまた、心安らかに暮らしていた。
しかしそれは表の顔。
裏の京は、『平安』とはとても称せぬほどに乱れていた。
袖の下を初めとする人間同士の争いであれば、まだ可愛い。
問題は、人には抗いがたい力を有する魔物「妖怪」と、それらを率いるさらに強大な魔物「妖怪王」とが、日々現れては整然としている街並みを汚していく事だった。
命あるものはその命を奪われ、
命なきものはその形を崩され、
無念と恐怖を植えつけられたのちに、全てを壊される。
足があるものは逃げ回り、声を出せるものは悲鳴をあげ、奴らの目から逃れられる場所を血眼になって探し回らなければならなかった。
陰陽師と呼ばれる者達がいた。
彼らは数少ない、妖怪に対抗しうる術(すべ)を持つ存在。故に、自然と戦場へ送られた。
怯え震える民の期待を背に、彼らは最後の一人になろうとも、戦う事をやめはしなかった。
笑顔を取り戻してくれるのならばと、己の命を燃やし尽くした。
‥‥その火も、助かった者達の涙雨で、静かに収まりつつあった。
しとしとという降雨の音は、疲れきった人と街に安らぎを与えてくれた。とある陰陽師の功績であるとはまだ知らないままに、もう大丈夫なのだという事を感じ取っていた。
屋敷の崩壊時に気を失って以降、初めて目を覚ましたその娘も、ほっと息をついた。自分がちょうど組み合わさった梁の隙間にいて助かったからか、家族も同じように助かっているものだと、根拠もなく思い込んでいた。
崩壊した屋敷はまた建てればいい。汚れた着物は新しく仕立てればいい。まずは両親と兄に会い、互いの無事を喜びたい。
娘はどうにかこうにか体を動かし、狭い隙間から外へと這い出た。そこでようやく周囲の様子を知覚した。
がらくたのはびこる荒れ地。彼女にはそう見えた。
武家の娘として恥ずかしくない質の着物は、雨を吸って、より重くなる。だがそれを厭わず、娘は両親と兄を呼んだ。自分はここにいる。だから返事をしてほしい、と。
今朝食事を運んできてくれた侍女の無残な姿が、視界の端に焼きついて離れない。彼女は屋敷の一部に押し潰されていた。仏にすがるようにまっすぐ伸ばされた手は、彼女のもの以外にも、幾つもあった。潰されたのは食事係の侍女だけではないのだろう。
声が嗄れるまで呼んでも、誰も応えてはくれない。家族も、使用人も、誰一人として。そこでようやく彼女は悟る、自分だけが残されたのだと。
――否。残ってしまった。唯一人生き残る事は幸運でもなんでもない。
その場に膝を折った娘の双眸からは、大粒の涙が後から後から沸いて出た。上体を支えるほどの力を保てず、両腕を地についた。
戦の場で華と散るのではなく理不尽な仕打ちで命を落とした家族を想い、独りになった自分の真っ暗な行く先を憂い、おさえる事もなく嗚咽を吐き出した。
それが、いけなかったのかもしれない。
娘の涙はよからぬものを呼び寄せた。
妖怪ではなく生きている人間と出会えたのだから、どうせなら喜びたかった。それなのにゆっくりと迫ってくる男達は、明らかに下賎の者とわかる服装に、品の悪い仕草。娘を品定めする視線に、わざとらしいまでの舌なめずり。
男達の会話には、娘では理解できない単語が幾つか含まれていた。けれどそれの意味するところがどれだけおぞましいものか、そして自分がその対象である事が、嫌でもわかった。
立ち上がろうとして、着物の裾を踏まれた。娘の周囲を男達が囲む。手を、足を、押さえ込まれる。拒絶の言葉を叫べば、うるさいと頬を張り飛ばされた。手加減などない衝撃にくらりとするうちに、着物の合わせがはだけられ、胸元や脚の白い肌が露になる。男達の感嘆のため息が体にかかり、娘は吐き気を覚えた。
気持ち悪い。娘は祈るように思った。なぜ自分がこんな気持ち悪い目にあわなくてはならないのか、と。
ぴっ、と娘の頬に何かが飛んだ。娘の太腿を撫でながら彼女の反応を楽しんでいた男は、撫でる感触が失われた事に不思議そうなまま、胸を貫かれて果てた。男の手は肩口から綺麗に切り落とされていた。娘の頬に飛んでいたのは、血、だった。
男達は慌てた。周囲を見渡すが彼らと娘以外には瓦礫しかない。探す間にも、別の男の腹が切り裂かれ、また別の男の首が落ちていく。
しかし娘の目には映っていた。まさか妖怪の残党かと娘を置いて逃げ出そうとした最後の一人の背に斬りつける、一振りの刀が。
「我が主」
どういった理屈か、刀は娘に向けて語りかけてきた。
「私は貴女の懐に在った短刀。貴女が私を手に取った時からずっと共に在ったもの」
その『声』はまるで、幼子が屈託なく笑いかけるように、話していた。辺りに転がる死体を作った直後とは到底考えられない無垢さだった。
「貴女の心はどこにある? 私は貴女の心に従――」
「あ、あはっ、あははっ。おかしいわ。やはり今のこの状態はおかしいのね」
刀の『声』を遮って、娘は引き攣った笑いを始める。
「そうよ。刀が勝手に動いて人を斬るだなんて、おかしいもの。だから私が襲われたのも誰も返事をしてくれないのも屋敷が崩れたのも街が無残な姿なのも妖怪にこの京の都が襲われたのもそもそも妖怪がいる事も全部、‥‥ぜんぶ、おかしいんだわ!」
雨に打たれているこの瞬間でさえもおかしいと笑い続ける。見開かれた瞳や口へ雨粒が飛び込むのもかまわずに。かくんと上向いた頭が人形のようで、娘の中で既に何かが事切れているのだと知れた。
最もおかしいのはこの事態を許しているこの世界だと、娘の知る限りの恨みの言葉が並べ立てられる。
理不尽な事を許すこの世界は理不尽な世界。理不尽な世界はあってはならない。あってはならないものがあり続けているのはいけない。
――壊そう。
屋敷を建て直すように。着物を仕立て直すように。壊してしまえばきっと、きっと‥‥
「それが貴女の望みか、我が主よ」
娘の心を察して、刀は告げた。
しかしその『声』はもはや、娘には届いていない。
「あははははははははははははははははっ」
やまない涙。笑い声。彼女はもう、在りし日の幸せだった光景しか見えていないし、見ない。
「‥‥承知した。我が主よ、貴女の望みを叶えよう」
刀は自らを振るった。主の願いに応え、主を喰らう為に。
白が黒に染まるのは、とてもたやすい事。
それが己を捧げる相手の導きによるものであれば尚更。
生まれたばかりでまっさらだった「それ」は、主の心に染まって黒となった。
黒くなった「それ」は、主を喰らって悪となった。
それがその悪の始まり。今もなお在り続け、人の恐怖を望みそれを得る為に動く存在の、始まり。
それは悪。悪そのもの。
セカイを滅ぼす悪。主がそう望んだから。
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