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<東京怪談ノベル(シングル)>


入浴剤の罠

 それは、ファルス・ティレイラがいつものように碧摩・蓮から頼まれた物品を客に届け、店に戻ったある日の事だ。
 ティレイラは、店主の言葉に首を傾げた。
 いつもならここで報酬を受け取る訳だが、その日は少し異なっていたのだ。
「今日の報酬は商品…?」
「ああ。好きなものを持って行っていいよ」
「えーと、いいんですか?」
「いつも世話になってるからね」
 蓮の店には、様々な品が並べられている。そのどれもが何らかの曰くつきのものであるが、それ故に、客にとっては抗えぬ魅力を持っている。
 ティレイラは、棚に並ぶ品々をざっと見渡した。枠に食屍鬼と悪魔が縁取られた鏡、アラベスク模様に覆われた大きな銀の鍵、奇妙な文様が施された立方体パズル。それに…ティレイラは、ははたと目を留めた。
 小さな紙箱だ。箱は埃を被っていたが、それでも強烈な魅力を放っていた。
 妙に惹かれるものを感じる。
 棚の前に立つと、少女は紙箱を手に取り、さっと埃を掃ってみた。ティレイラはあっと驚きの声を発した。
 紙箱はクリーム色に包まれていたが、角度を変えて見てみると極彩色に輝くのだ。
 中身は何だろうか。そっと手に取ってみる。大きさと重さから察するに、石鹸が入っているのだろうか。
「これ、いいですか」
 意識が言葉となるよりも早く、口から声が発せられた。まるで、何か見えない力に動かされたかのように。
 箱とティレイラを見、蓮は微笑んだ。

 家に戻ると、早速ティレイラは紙箱を開けた。
 冷たくつるりとした触感は、予想通りのもの。
 箱の中身は、円形のシンプルな固形石鹸だ。通常の石鹸と異なるのは、その色が見たことも無い毒々しい色をしている事くらいだ。
 流石に躊躇いはあったが、意を決するとティレイラは服を脱いで小箱から石鹸を取り出し、浴室の扉を開けた。
 その石鹸が、呪われているとは露も思わずに。

 入浴は快適なものであった。確かに石鹸の色は不快なものであったが、それさえ我慢すればいいのだ。実際、石鹸の使い心地は今までの石鹸に比べて、実に気持ちよいものであった。
 彼女が身に起きた異変に気付いたのは、入浴後、ソファで寛いでいる時だった。
 何気なくん、と両手を前に突き出し、戻そうとして…ティレイラは手を止めた。腕が妙に毛深いような…?
 彼女が首を傾げた瞬間、右腕の毛穴という毛穴から毛のようなものが、勢いよく飛び出してきた。その毛は明らかに人のものではなかった。もっと冒涜的で野生的な何かの体毛だ。
 続けて、左腕も同じように変化しはじめた。
 更に口もなんだか痒い。唇が窄めた状態になり、そのまま、ぐんぐんと伸びていく。
 両脚がまるで鳥の脚のようにがさがさになり、足が異形へと変貌していく。
 ティレイラは、慄然たる恐怖にその身を震わせながら、それでも最期の希望を抱いて鏡台の前に立った。
 おお、暗黒の神々よ! もし慈悲をお持ちならば、この少女に永遠の忘却をただちに与えたまえ!
 少女の可愛らしい口は硬化し、長く鋭い嘴になっていた。
 細く長い腕は羽となり、小さな手は醜悪な鉤爪となっている。
 両脚も、鳥そのままだ。文字通り鳥肌で、足に向かうにつれて細長くなっていき、足は、ああ、完全に鳥そのものと成り果てていた。
 腹部は体毛に覆われ、
 その癖、肌の色と胸部と頭の一部…即ち鼻から上は人間のままなのだ。
 つまる所鏡に映っていたのは、鳥と人間の合いの子のようなバケモノだった。
 自分がどうなったのかを認識すると、ティレイラは失神という幸福を許されるのだった。

 どれくらい意識を失っていたのか。
 目を開いた瞬間、あの変貌は悪夢だと思った。しかし、次に視界に入ってきた嘴の先端部を見てしまうと、あれはまぎれもない現実であるという事実を認識せざるを得なかった。
 もう一度。もう一度だけ鏡台に立ってみる。
「あ、ああ…」
 ティレイラの変貌は、先ほどより更に悪化していた。
 未だ人の形は保っていたとはいえ、全身は羽毛で覆われ人である部分は最早、鼻から上しか残っていなかった。
 恐怖によろめきながらも、一度見たおかげである程度の耐性ができいたのか、ティレイラにはどうすれば元に戻れるかを考える程度の余裕はあった。

 外に出て、誰かに助けてもらうというのはどうだろうか。
 この姿を人に見られるのに?
 こんな…こんな姿を人に見られたらバケモノ扱いされ、最悪殺されるかもしれない。人間というものは、未知なる存在に対しては驚くほど残虐になれるものなのだ。
 外に出る訳にはいかない。

 次に思いついたのは、蓮に電話をして、解決方法を尋ねる事だ。
 携帯を取り出し、慣れぬ指で蓮のアドレスを探す。しかし、後は発信を押すだけというところで理性が働いた。
 この事を伝えたとして、なんになる?
 蓮はあくまで商売人だ。曰く付きの商品を扱っているが、それだけの人間だ。
 石鹸をどういう経緯で入手したかや、それがどういうモノかはともかく、解決方法を知っているとは思えない。
 ティレイラは、そっと携帯を閉じた。

 何か。何か無いか。
 本棚を漁り、もしかしてと思い、ネットにも頼ってみる。
 しかし、どの本を読んでも、どのサイトを見ても、どこにも彼女を救う手立ては載っていなかった。
 それはそうだ。石鹸を使って鳥になった時の解決法など、どこの誰が知っていようか。
 数時間費やして、結局わかったのは。現在の状況では、この事態はどうしようもない。ただそれだけだった。
 ティレイラは、幾度目かの絶望に、心を砕かれるのだった。

 夜が来た。
 鳥人間となった影響か、空が暗くなったと同時に目が見えなくなった。
 絶望に打ちひしがれながら、それでもベッドの上に横になると、ティレイラは祈った。
 翼となっている腕のせいで掌を重ねる事はできなかったが、ティレイラは祈った。
 明日には元の姿に戻っていることを。
 ただ、それだけを祈りながら。
 少女の意識は闇の中へ堕ちていった。