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<東京怪談ノベル(シングル)>


水素イオン6.5の女王

 水の中は気持ちが良い。
 それが海水ではなく、塩素のたっぷり入ったプールの水だとしても。
 肌を包む水の優しい感触。
 耳を擽る、ごぼごぼ、ぐわんとした水の音。
 足で水を蹴る時の抵抗も、水を掻く腕に掛かる重みですら、愛おしい。
 水が好き、泳ぐのが好き。
 全身でそれを堪能しながら、みなもはプールの青い水底と、カラス張りの明るい天井から差し込む太陽の光が揺れるのを見ていた。
「ぷはっ」
 けして水中でも呼吸は苦しくないのだが、一応息継ぎの『フリ』をするのは、ここが学校のプールで、今は水泳部の記録会中だからだ。
 夏休み、どれだけサボっていたのか、もしくは練習していたのかの確認でもあるのだが、みなもにはあまり関係のない事とも言える。
 その気になれば、おそらく水泳部のどの生徒と競っても、タイムで負けることはないだろう。
 さらに人魚の姿になれば、きっと世界新も夢ではないと思う。
 けれど『海原みなも』は13歳のどこにでもいる女学生で、この学校ではオリンピックを目指しているわけでも、まして人魚の血を引くような異能力者でもないのだから、そういった能力を人前に晒す必要は無い。
 人間のフリをして泳ぐこと。
 それは時にフラストレーションを溜めさせるけれど、それでも穏やかな学園生活は、この優しい水のように愛おしいものだ。

「お!みなも!自己ベスト更新!」」
 プールの縁に手を付き、水中から顔を上げると、ストップウォッチを手にしていた先輩がにっこりと笑った。
「多分……水着のお陰じゃないかと思います」
 本当はつい考え事をしながら気持ちよく泳いでしまったせいなのだが、一応水着のせいにしておく。
 今日試着している水着は、オリンピックで色々と物議を醸した競泳水着を意識した、とある有名企業からの試作品だ。
 伸縮率0、着るのも1人ではままならない、全身をぎちぎち、ぎりぎりと締め上げるような代物ではあるけれど、実際に水の中ではまるで自分の鱗のように心地よく泳げたのだ。
「そうかぁ、じゃあもう一度泳いでおく?」
 そう聞かれて、みなもはふるふると首を横に振る。
「あ、もう限界?」
「はい、私じゃない方が」
 私じゃない方。
 そう言って水着を指差す。
「やっぱり?だってもうかなり泳いでいるもんね、まだ1着目で泳いでるのはみなもだけだよ」
 うんうんと、先輩が頷く。
 プールから上がろうとして手を伸ばすと、すでに臨界点を向かえていた水着がピーっと音をたてて割け、みなもの白く柔らかな乳房がプルン、とまろび出た。
「きゃっ」
 慌てて胸元を覆って口元まで水に浸かると、先輩が声を上げて笑った。 
「某水着だって、数回着用しただけで駄目になるっていうしね。でもみなもは本当によくもった方だよ。多分うちの部で一番水の抵抗を少なく、綺麗なフォルムで泳げるからだね」
 褒められても、今、この状況ではあまり嬉しくはない。
「ぞれより……ひゃんで、こぶなごとじなぎゃいげないんでずが?(それより……なんで、こんな事しなきゃいけないんですか?)」
 ぶくぶくと水に浸かったまま、みなもが言うと、器用にも意味を解したらしい先輩がタオル片手にプール脇にしゃがみ込んだ。
「それはねぇ、例の会社がうちの学校のスポンサーだから……っていう話しを聞いた事があるけれど?でもまぁ私たちの苦労がこの水着業界、ひいては日本の水泳界の未来を担っていると考えれば、細かいことなんかいいじゃないの」
 さ、上がりなさい、と手渡して貰ったタオルを受け取り、プールから上がると、突然身体に地上の重みが襲い掛かってきて、水着が更に裂けるのを感じた。
「まぁ、下級生なら誰もが通る道だと思って諦めて、もう1着の方に着替えてらっしゃい」
 そう言って他の部員を呼び寄せると、先輩はみなもにウィンクする。
「え〜!まだ着るんですか?」
 思わず声を上げると、先輩はそのみなものげんなりとした声すら楽しそうに、けらけらと笑った。

***

 着用感はともかく、壊れやすいことも100歩譲っていいとして、この水着の一番の問題は1人で着ることが出来ない事ではないかと思う。
 一応、薄いインナーを中に着るのだけれど、これも特殊繊維とかであまり厚くはなく、むしろうっすらと肌が透け、余計に恥ずかしさが募るのだ。
「ほら、足上げて」
 ロッカーが少し薄暗いのが幸いだが、それでも同性とはいえ他人の前で、半裸を晒すのは恥ずかしい。
「ううう……っ」
 みなもは耳まで真っ赤に染めて、部員数人に水着を着せられていた。
「痛たたた……っ」
 むしろ着る、というよりも、身体を押し込む、といった方が正しいぐらいの窮屈さに思わず小さな悲鳴が洩れる。
 一度泳いで濡れた身体は、より一層水着の着用がしにくく、着る方も着せる方も一苦労だ。
 それでも通常の水着の何倍もの時間をかけて着用した水着は、先ほどの水着よりもフィット感が良く、身体を覆う面積も広かった(先ほどのは、足繰りの切り込みが深い、所謂ハイレグなデザインだった)。
 それに比べて太股まで覆うデザインはホッとするし、背中の露出も多くないので安心感がある。
 とはいえ、肌への密着は通常の水着の比ではなく、肌の輪郭を浮き彫りにする事に違いはなかった。
 特に腰のラインの切り返しや、おへその位置がはっきりとわかるのはひどく恥ずかしい。
 黒っぽい色と締め付け効果のお陰で、よりほっそりとして綺麗な身体に見えるけれど、それでも羞恥心がこみ上げてくる。
 他の下級生部員も皆これを着用しているという事がせめてものの救いだったが、お互いになんとなく目のやり場に困ってしまうのだった。
「早く、お水に入ろうっと」
 着替え終わったのと同時に、慌ててロッカールームから小走りにプールを目指すみなも。
「走ったら危な……っ」
「きゃっ」
 慌てた様な声が背後から響くのと同時、つるっと足が滑り、プールの床にスッテンとお尻を着く。
 先輩達だけではなく、同級生の笑い声も響いて、みなもは「ひ〜ん」と真っ赤な顔で目にうっすらと涙を浮かべた。
     
*** 

 それでも、なんだかんだ言っても、やっぱり水の中は楽しい。
 水着の恥ずかしさも、苦しさも、全て吹っ飛んでしまうくらいの快感。

―――あたし、水が好き。

 そう水中でふふっと笑うと、空気の泡が空へ、正しくは水面へと上がっていく。
 何故だろう、水の中にいると不思議な全能感が心を支配する。
 
「もうそろそろみんな上がりなさい」
 プール脇で先輩の声が聞こえる。

―――でも、もう少し。

「みなも!いい加減に上がりなさい」  
 結局そう注意されるまで水の中を楽しんでから、再び重力の世界に戻った。
 はぁ…と息を吐いてプール脇に膝を抱えて座ると、心地よい疲労感が身体にのしかかってきた。
 膝の上に片頬を預けて、プールを眺める。
 夕日のオレンジ色の光がきらきらと、まだ人の痕跡を残して揺れる水面を輝かせると同時に影を落としていた。
「綺麗だね」
 気がつけば、着替えを済ませた先輩が横に立っている。
「海に落ちる夕日は、もっと綺麗ですよ」
 そうみなもが呟くように言うと、先輩は頷いた。
「そうだね。夏が終わる前に来週辺り部員みんなで海に行こうか―――だからアンタ、もう少し部活出なさいよ?」
 にやりと笑う先輩。
「さ、早く着替えてきな!鍵を閉めるの私なんだから、みなものせいで今日はすっかり帰りが遅くなっちゃったわよ」   
 先輩は慌てて立ち上がったみなものお尻ペン!っと叩く。
 意地悪そうな、けれど楽しそうな笑い声がからからと、プールに優しく響いた。



fin
 
***
ありがとうございました、Siddalです。
水着でほのぼのというリクエストでしたが、如何だったでしょうか。
リテイクやご意見、ご希望が御座いましたら遠慮なく仰ってくださいませ。
また機会がありましたら、どうぞ宜しくお願いいたします。