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<東京怪談ノベル(シングル)>


戦うメイドと銀の獣


 ごう、と彼―ファングの喉が剣呑に鳴った。
 ナイフ一本、その他はほぼ身一つでその屋敷の庭に侵入せしめたファングの前に、一人の女性が立ちはだかったからだった。
 最初、ファングは屋敷のメイドが所用で外に出てきたものだと思っていた。
 ふわりとしたシルエットのその服装は、ペチコートの裾がのぞくほどのミニスカートにフリルのついた純白のエプロン、頭にはレースのカチューシャ。白のニーソックスにガーターベルトをしたその姿は数多くの男が憧れる「ちょっとエッチなメイドさん」そのもので。本職のハウスメイドにしては不自然だが、ファングとしては、一撃でメイドの喉を潰して悲鳴を上げられなくしてやれば後は興味の対象外になるはずだった。
 …はずだったのだが。
 ファングの力のこもった掌底の一撃を、メイドはひらりと後ろに飛び退くことで躱して見せたのだった。下着が見えそうになるのも構わないその動きは素人のものでは決してなくて。
 よく見れば、メイドは編み上げのロングブーツを履き、手にはグローブを填めていた。そして何よりもメイドらしくないことに、その手に諸刃の剣を握っていた。
「…貴様…」
 地を這うようなファングのうなり声に、メイドは楽しそうにふっと鼻で笑ってみせる。その様子に、ギリ、とファングの奥歯が鳴った。
「ただのメイドではないな」
 ファングの問いかけ。だが、メイドに扮した女性は小悪魔のように蠱惑的ににこりと微笑った。
「さあ、なんのことか解らないわ」
 だが、そう言いながらも、彼女は油断無く剣を構える。ファングもナイフを構えて、彼女を迎え撃った。
 メイドに扮した女性…高科瑞穂の正体は軍人だ。自衛隊の中に秘密裏に設置された「近衛特務警備課」に所属する彼女は、今回この屋敷に要人警護の為に派遣されていた。普通なら警察からSPが派遣されるのだろうが、今回は相手が「人ならざる能力」を持った者だという情報があったため、瑞穂が派遣されることとなった。
 だが、彼女はファングを見て落胆していた。
(なんだ、確かにいい身体はしてるけど、単なる人間じゃない。大した能力を持っているようにも感じないし…)

 ガッ!

 同時に間合いを詰めた二人の渾身の剣が交わる。キシキシと金属が軋む音をたてて、二人の剣が拮抗する。巨躯で筋骨の発達したファングと、女性らしい柔らかな肉体を持つ瑞穂がつばぜり合いを繰り広げる様は一種異様とも言えた。
「うぉぉぉぉぉっ!」
 ファングが吼えた。腕の筋肉が盛り上がり、徐々に瑞穂の剣を圧倒していく。
 瑞穂はこのままでは押し切られることを悟る。だが、下手に動けばファングのナイフは瑞穂の剣を弾き、簡単に頸動脈を抉るだろう。
「く…っ!」
 瑞穂は唸りながら退路を探った。だが、その一瞬の隙を突かれた。
「おおおおおおっ!」
 ファングの腕に更なる力が籠もり、瑞穂は咄嗟に後ろに飛び退るしか出来なかった。半分力負けして弾き出された格好の瑞穂の身体は、そのまま壺を持った女神像が立つ庭園内の噴水に水飛沫を上げて突っ込んだ。

 ドド…ン!

 水に叩きつけられた衝撃に、瑞穂の背骨が軋む。だが、そんなのに構っている暇はなかった。水の中で藻掻きながらも立ち上がろうとする。
 だが、そこに追い打ちをかけるように、ファングの巨大な手が瑞穂の顔を覆い、噴水のコンクリートで出来た湖底に叩きつけた!
 頭が割れそうな痛みに、瑞穂は思わず肺の中の空気をはき出してしまう。泉の縁に乗り上げた足をばたつかせる。
(くっ!)
 咄嗟に瑞穂は下半身を捻り、ファングの腰に重い蹴りを食らわせた。
「!!」
 ファングはその衝撃に瑞穂の顔から手を放し、ざあっと靴裏で地を滑る。その隙に瑞穂は立ち上がり、体勢を立て直した。
「…ごほっ…ごほ……まったく、下着までびしょびしょよ」
 気管に入った水を追い払いながら、瑞穂は愚痴る。
 姫袖もボリュームのあったフリルも、スカートも、その下の下着も、全部が身体に張り付いて気持ち悪い。体中のあちこちに張り付いた生地を引っぺがし、ぎゅうぎゅうと絞る。
 ファングはナイフを逆手に持ち、その瑞穂に攻撃を仕掛けた。ヒュンヒュンと思わぬ方向から飛んでくるナイフ。だが、瑞穂は素早く、ナイフはことごとく避けられる。瑞穂も剣を握り直し応戦する。だが、ファングのナイフは的確に瑞穂の剣をはじき返した。
 このままでは消耗戦になる。瑞穂はそう思っていた。そうなれば、体力で劣るだろう瑞穂の方に分が悪い。
 瑞穂は一度飛び退き、ファングとの距離を取る。剣をギュ、と握る。
 一撃だ。
 一撃で勝負を決めなくては…。
 二人の視線が交差する。

 キンッ。

 甲高い音がして、ファングのナイフが弾きとばされた。ナイフは回転しながら飛び、ファングの遙か背後に突き刺さる。
「チェック・メイト」
 ぽたぽたと水滴が垂れる髪を掻き上げながら、瑞穂は剣をファングの喉に突きつけた。その目は楽しそうに眇められ、れる、と赤い舌が扇情的に唇を舐める。
 ファングは暫く挽回の余地を探していたが、瑞穂がぐいとその出たのど仏に剣を突きつけると、ふと殺気を納め、全身から力を抜く。
「…んぅ?」
 不満そうな顔をする瑞穂。だが、ファングはそんな瑞穂に肩を竦めてみせる。
「なるほど、いい女だな」
「なによ、それ」
「俺は顔だけの女には興味がない。強さと美しさと兼ね備えて、初めていい女だ」
「あら、お褒めにあずかりまして?」
 そう言いながらも瑞穂は内心、ファングを見下げ始めていた。相手を褒めちぎることで恩赦を受けようとしている。彼の一連の行動を、そう取ったのだ。
 だが、その瑞穂の考えは、的を外すことになる。
「そんな貴様に敬意を表するぞ!!」
 ファングがそう吼えた瞬間、瑞穂は空間がびりびりと振動するのを感じた。
「な、何!?」
 ファングの存在感がずおっと倍にも膨らんだように感じて、一瞬だけ怯む。その隙を逃さず、ファングが素手で喉に突きつけられていた瑞穂の剣を掴む。
 血が流れた。だが、ファングはニタニタと薄ら笑いのまま、その手に力を込める。
 パキィ…!
 澄んだ音をたてて、血の玉と共に瑞穂の剣が粉々に砕けた。
「なっ!?」
 瑞穂は慌てて、バックステップでファングとの距離を取る。
 その瑞穂の視線の先で、ファングは恐るべき変化を遂げようとしていた。元々隆々としていた上半身が更に盛り上がり、着ていたアーミーカラーのシャツを易々と破る。銀色の髪が発達し、ずおりと体中に広がっていった。それは丁度獣の毛皮のようで…。

ふしゅぅぅぅぅぅ。

 ようで…ではない。
 ファングは瑞穂の目の前で、直立二足歩行をする銀色の獣に変わっていた!
「なっ!?なっ!?」
 事態の飲み込めていない瑞穂は目を大きく見開いてそれを見上げるしか出来なかった。だが、次の瞬間瑞穂は弾けるような殺気を感じて一歩だけ、本当に本能的に一歩だけ、後退った。

 シャアアアアア!

 刹那、ファングの爪が瑞穂の胸を掠める。メイド服がビビッと破れ、その下の柔肌が露わになった。瑞穂はゾッとする。今、一歩下がっていなかったら…心臓をえぐり取られていたはずだ。
 だらりとだらしなく垂れた純白のエプロンをさっと脱ぎ払い、瑞穂はファングを見上げた。ファングはその瑞穂を既に気に掛けても居なかった。その場で悠々と喉を逸らし、空気を震わせて吼える!
 その途端、屋敷の庭園内に無数の真空の刃が発生した。

 ガガガガガガガ!

 一瞬のうちに庭園内はその刃によって抉られた。咄嗟に大きな刃を避けた瑞穂も、小さいとはいえ体中に無数の傷を負い、血が溢れる。その横で跡形もなく瓦礫と化した噴水と女神像を見て、瑞穂は青ざめる。
(…うっそでしょ!?)
 女神像と自分の未来がオーバーラップする。
 折しも、ファングは追撃のためにまた喉を悠々と逸らし始めた。
(死、死んでたまるかぁぁぁぁぁ!)
 その瞬間、瑞穂は敵に全力で背を向けた。
 死んで花実の咲くものか!まだ瑞穂は若い。命を投げ出すほど無謀でもない。それに、これだけの騒ぎになれば、警護対象の要人も仲間が避難させているはずだ。
 つまり、これ以上ファングと対峙する必要は、ない。
 後付けながらもそう判断した瑞穂は、豪奢な庭園と外界を区切るための高い塀に軽々と飛び乗り、最後にくるりとファングを振り返る。そして。
「さようなら、ご主人様!もう二度と会いたくないわっ!」
 そう捨て台詞を吐いて、塀の外側に飛び逃れた。そこには仲間の車が待機しているはずだ。
 次の瞬間、先ほどまで瑞穂の立っていた場所に、巨大な真空の刃が振り下ろされていた。