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<東京怪談ノベル(シングル)>


【月下狂想曲 第一楽章 〜Intruder〜】



 これは、どうしたものか──艶のある茶の髪を靡かせて、女は鏡の前、小さく唸った。

 女の名は高科・瑞穂(たかしな みずほ)。
 自衛隊の中のひとつの組織である、近衛特務警備課という部署に所属している、つまりは軍人だ。
 彼女の所属する部隊は、国内に於ける超常現象の解決や、魑魅魍魎の類との戦いを主な任務とする特殊部隊──故にその存在は、極秘とされている。

 さて、ではその極秘部隊に所属する彼女が、何故こうして鏡と睨めっこしているかというと…

「…これを、着るのね…」
 溜息混じりに零して視線を遣った先にあるのは、紺色のワンピースにフリルたっぷりのエプロン──所謂メイド服だ。

 今回の彼女の任務は、とある豪邸の警護任務である。
 とは言え、この屋敷の何が狙われているのか、誰がこの屋敷を狙っているのか…詳しい事は何も解っていない。恐らくは財界にも強い影響力を持つこの屋敷の主を狙っての──などと想像はできるが、それはあくまで想像の域を出ない。
 いつ、どんな状況下で敵が現れるかわからない不安定な状況──ゆえにその警護は簡単なものではない。
 だが、屋敷の主は大仰な警備を厭っていた。それゆえに大々的に軍を動かすことは不可能──そこで白羽の矢が立ったのが瑞穂であった。
 彼女は若干20歳と言う年齢ながら、腕前は一般の自衛隊員の数人分にも及ぶ。その実力を買われたのと──そして、買われたのはもう一つ、若く美しい女性であると言うその部分だ。
 任務の内容はこうだ。屋敷の使用人に扮して紛れ込み、現れた刺客を撃退せよ──と。
 そこで支給されたのが、彼女の視線の先にあるメイド服というわけだ。これを着て任務に臨まねばならない。

 形の良い眉を寄せ、瑞穂は再び小さく唸る。
 正直な処、任務とは言えこのような格好をする事には少なからず抵抗がある。
 まあ、しかし、任務だ。なればそれも仕方があるまい──観念して一つ息を吐き、手にした剣を机の上に置いた。

 身に纏っている軍服をそっと解いていく。ぱさりと服が床に落ち、白磁のような滑らかな肌が露になる。
 下着姿の自分を改めて鏡映しにすると何とも言えず羞恥が沸き上がるものだが、それを今気にしている場合ではない。
 …ふと、愛用のグローブを嵌めたままである事に気がつく。少し迷ったが、メイド服にその無骨なグローブというのも不釣り合いな気がして、それも取り払って机の方へと放る。
 さて。瑞穂は気合を入れるかのように力強く頷くと、椅子に掛けられたメイド服と向かい合った。
 手に取った独特の光沢のある紺色のワンピースは、その存在を誇示するかのようにシャンデリアの光を照り返している。
 ごくりと唾を飲み込み、意を決してそれに袖を通す。誂えたかのようにそれは瑞穂の身体にぴったりとフィットした。くびれのあるワンピースが、美しいボディラインを際立たせる。
 普段の軍服も大概だが、たっぷりしたフリルのスカートはそれ以上に短かった。屈むどころか普通に立っているだけでも下着が見えてしまいそうだ。
 次に彼女が手に取ったのは、レース地のフリルで装飾された純白のエプロン。こんな可愛らしいものを…などと考えて気恥ずかしさに襲われたが、任務なのだと言い聞かせてそれを振り払う。
 肩紐に手を通し、胸の辺りを合わせながら腰紐を後ろへ回して、少しきつめに結んだ。それがまた一層、瑞穂の細い腰と豊満な胸を強調する。
 フリルのスカートをたくし上げて、黒のガーターベルトを身に着ける。…こういったものは中々慣れないものだ、などと思いながら、純白のオーバーニーソックスを履いて、ガーターベルトに括り付けた。スカートから覗くガーターベルトの細い紐が、何ともいえず背徳的だ。
 最後に革製の黒の編み上げブーツを身に付け、全ての準備を整えた瑞穂は、改めて鏡の前に立ってみた。
 紺色のワンピースの胸元はスクエアに開かれ、豊満な胸元が僅かに垣間見える。丈は短いがたっぷりとしたフリルのスカートからはすらりとした太腿が姿を覗かせ、黒いブーツはほっそりとした瑞穂の美しい脚線美を完璧なまでに彩っていた。
 …先ほどまであれほどに恥ずかしがっていたと言うのに、こうしてみると悪い気はしなくなってくるから不思議なものだ。
 レースのヘッドドレスをつけ、変装らしく眼鏡などかけてみるといよいよそれらしくなってきた。髪でも結い上げてみた方が合うだろうかなどと、何だかんだで気分が乗って来たのだろうか、瑞穂は鏡の前で長い後ろ髪を手で括り、首を傾げてみたりして──

 耳をつんざくようなサイレンが鳴り響いたのは、その時だった。

「!」
 恐らくは屋敷中に響き渡っているのであろう、けたたましい音。それが何を示すのかなどは考えなくとも解る。…侵入者だ。
 ばっと振り返る。先程放り捨てたばかりのグローブを手に取り、二の腕までを覆うそれを身に付けて行く。陶磁器のように白くほっそりとした瑞穂の両腕を、無骨な戦闘用のグローブが覆い隠す。…先ほど思った通り、この服装にこのグローブは中々にアンバランスだ。
 その間も警報はけたたましい叫びを上げ続けている。解ってる、と心中で呟いて剣を手に取った。
 腰紐に剣を結わえ、自由になった両腕をぐっと握り締め…瑞穂は部屋の外へと躍り出て、侵入者を迎えるべく駆け出した──。

+++

「そこで止まってもらうわよ」
 不意に掛けられた凛とした声に、男は踏み出しかけた足を止めた。
 屈強な体躯の、銀髪の男だ。厳めしい顔に誰何の表情を浮かべ、声の主を辿るべく豪奢な庭に視線を滑らせる──瞬間、それは思わぬところから飛来した。
「ちっ…!」
 真横から自らを狙った飛礫を、男は引き抜いた剣で弾き返す。その隙を逃すまいと、白銀色の閃きが襲いかかる。男は小さく舌打ちすると、一歩後退り返す刃でそれを受け止めた。
 刃と刃のぶつかり合う音。完全に不意を突いたはずの一撃を受け止められた事に僅かな驚愕を覚えつつも、飛び掛かった小柄な女性──瑞穂は、反撃を警戒して直ぐに飛び退いた。振るわれた相手の剣が、先まで瑞穂のいた空間を引き裂いて過ぎる。
「やるわね。完全に不意を突いたつもりなんだけど」
 男の意識を一瞬だけ逸らしたのは、瑞穂の扱う特殊な能力によるものだ。物体を手を触れずに動かす能力──それを用いて横合いから庭に転がる石を放ったのだ。
「…なかなか良い一撃だ。少しは楽しませてもらえそうだな」
 男は余裕ありげに言い放ち、真紅の眼を細めて口元を歪め、鈍く光る切先を瑞穂へと向けて構えた。
「そうね、ご期待にはそえると思うわよ。…その代わり、誰に依頼されたのだか教えてもらいたい所だけれど」
 瑞穂も余裕の声音でそう切り返すと、ふん、と男が鼻を鳴らした。
「聞き出したいのならば力尽くでやればどうだ?」
「…そうね。愚問だったわ」
 男の言葉に皮肉気に口元を吊り上げ、瑞穂が応じる。
 対峙しているだけでも、相手の発する殺気のようなものがびりびりと伝わってくるのを瑞穂は感じていた。
 だが、彼女がその余裕を崩す事はない。彼女とてベテランと呼ばれる迄に至った軍人なのだ。自らの実力には少なからずの矜持がある。
 寧ろ、強い相手であればあるほど、此方としてもやり甲斐があると言うもの──艶やかな微笑を浮かべ、男に倣うように剣を構える。

 鏡のような満月の下──戦いの序曲が鳴り響こうとしていた。