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<東京怪談ノベル(シングル)>


【月下狂想曲 第二楽章 〜Howling〜】


 鏡のような満月が、豪奢な庭を冴え冴えと照らし上げる。
 太陽の下であれば麗しく輝くであろうとりどりの花は夜闇の中その彩りを潜め、静かに佇んでいる。
 動くもののないその世界で、対峙する2つの影があった。

 剣を構えた若い女──高科・瑞穂(たかしな みずほ)は、吹き抜ける風に長い髪を揺らして、目の前の男を真直ぐに見据えていた。
 強い意思を秘めたその瞳に射抜かれて尚、対面する男は余裕の笑みを崩しはしない。

 月明かりに照らし出される厳めしい風采の男には、瑞穂も覚えがあった。
 確か、近衛特務警備課のデータベースにも記載されていた人物だ──名は、ファングと言っただろうか。
 何よりも戦いを好み、そのためならば内容に関わらずどんな仕事でも請け負うという傭兵…だと耳にした覚えがある。
 様々な武器や格闘技に通じており、今まで多くの者が苦渋を舐めさせられて来ているとも。
 …なるほど、相手にとって不足はない。
 にやりと艶めかしく口元を吊り上げると、瑞穂は先手を取るべく地を蹴った。
「はあっ!」
 横薙ぎに振るった剣は、しかし容易く受け止められ、それどころか力で勝る相手に押し返される。
 あえてそのベクトルに逆らう事はせず、瑞穂は逆に剣を引いてその一撃をやり過ごした。
 剣を下げた瑞穂に追撃を掛けようと、相手の剣が翻る。
 袈裟懸けに繰り出される一撃を飛び退いて躱し、相手が剣を振り下ろしきった瞬間を狙って再度踏み込み、武器を握るその手を狙って蹴りを繰り出す。

 小さく呻き。剣を握る相手の手が、僅かに緩む──

「…そこっ!」
 その隙をついて素早く懐に飛び込むと、裂帛の気合を込めて剣を薙ぎ払う。
 体重を乗せたその一撃は、ファングの手から剣を弾き飛ばした。

「さあ、武器はもうないわよ。観念する事ね」
 真直ぐにファングへと切先を突きつけ、瑞穂がくすりと笑みを浮かべた。
 鼻先を掠るほどに突きつけられる白銀の切先。だが、それでもファングはその顔に貼り付けた笑みを崩す事はない。
 その余裕が気に入らなかったのか、瑞穂は僅かに眉根を寄せる。
 …だが、相手がもしも泣いて命乞いをしたとて逃がすつもりなどないのだから、どうせ変わりはしまい。
 これで最後よ──呟いて、間合いを詰めるべく瑞穂が大地を蹴った──刹那。

 にやりと笑んだ男の貌が、ぐしゃりと不気味に歪む。

「!?」
 瑞穂は驚愕に息を呑んだ。本能的に危険を感じ、踏み込みかけた足を引き戻す。
 男の姿形が、変貌して行く。
 腕は、脚は膨れ上がり、銀色の体毛が全身を覆う。短かった髪は見る間に長く伸び──否。それはもう、鬣と形容した方が正しかったろう。
 男の風貌は、もはや人間のそれでは有り得なかった。形容するなればそれは、獅子。獰猛な獣そのものだった。
 異形へと変じた男は、にやりと口角を吊り上げると──目にも止まらぬ速さで、瑞穂の間合いに飛び込んで来た。
「なっ…!」
 男の変貌に気を取られた瑞穂は、完全に不意を突かれたような形になりながらも何とか剣を突き出して彼の拳を受け止める。
 ぎん、と鈍い金属音。受け止めただけでもびりびりと両腕に衝撃が走る。こんなものをまともに食らってしまっては、一撃で再起不能にもなりかねない。
 追撃を試みようとするファングから距離を取り、『能力』を発動する。銀の獣へと襲いかかる庭石の飛礫。
 しかし今度は、ファングはそれに見向きもしなかった。
 違わず彼の頭部を捉えたそれは、決して小さくはないものだったが──彼はよろめくどころか怯みもしない。
 どんな生き物と言えど頭部は弱点になり得るはずだ。今のこの男には、そんな常識すらも通用しないのか──
 ファングが吼える。ヒトでは有り得ぬ程に肥大したその脚が大地を蹴れば、瑞穂との間に開いた距離など一瞬で詰められてしまう。
 突撃の勢いのまま拳を振るわれては恐らく防御は困難。後ろに飛び退いて相手の勢いを殺しながら、剣で受けた。
 続けざまに繰り出される拳を、なおも剣で受け止める。
 だが、常人であれば到底追い切れないほどの速度で放たれるそれを、捌くだけでも精一杯だった。とても反撃に転じるほどの余裕はない。
 次第に形勢が相手に傾いて行くのを、瑞穂は感じていた。だが──負けるわけにはいかない。
「せやあっ!」
 相手の攻撃の僅かな隙をついて剣を振るった。
 僅かにそれに怯んだのか一歩を退いた男。この機会を逃す術はない。瑞穂は大きく踏み込んで──

──否。剣を弾き返す金属の身体を持つ男が、怯む?

 違和感を感じた時にはもう遅い。溜めからの必殺の一撃は最早、放たれた後だった。
「──!」
 飛び退く動作は、完全に遅れていた。抉るような拳の一撃は瑞穂の腹をまともに捉える。息が詰まって、喉から潰れたような呻きが漏れた。
 ファングは瑞穂の腹を捉えたまま、ぶん、と無造作に腕を振るう。満足な受け身も取れないまま、瑞穂は屋敷の壁に叩き付けられた。
 全身の骨が軋むような衝撃。痛みに吹き飛びかける意識を何とか引き戻して、瑞穂は立ち上がろうと腕に力を込める。
 だが、軋む身体を引き摺って身を起こし顔を上げた時には既に、眼前に白銀の獣のその姿──獰猛な獣が、醜悪に嗤って拳を振り上げる。
 殺される──そう直感的に感じ取った瑞穂は、転がるようにしてその場を逃れて──否、逃れてしまった。
 直ぐに彼女は、自分の背後にあったものに思い至って顔色を変える。だが、男の所行を止めようと身を起こした瑞穂の行動は──遅すぎた。
 ぴしり、と、白亜の壁に亀裂が入る。
 男の拳を受け止めるには余りに脆すぎた白壁は、次の瞬間音を立てて崩落する。
 守るべき屋敷が、見るも無惨に崩れ去って行く──それを瑞穂は、なす術も無く見ているしかない。
 しかし、守るべきものを失った虚無感に浸る暇すらも、彼女には与えられない。
 難を逃れた瑞穂に、尚も追いすがるファング。顔を目掛けて振り下ろされる拳を、転げながらすんでの処で躱した。
 貰ったのは一撃きりだが、その一撃が致命打だった。
 それでも果敢に瑞穂は構えを取るが、身体に植え付けられた痛みが闘争心の邪魔をする。
 結果として剣の閃きは精彩を欠き、防戦に回る以外に術はなく──遂には剣を返すのも追いつかなくなる。

 がちがちと奥歯が鳴っている。寒くもないのに身体の震えが止まらない。
 絶望が、じわじわと胸の奥から感情を侵蝕する。

 勝てない。この男には勝てない。それどころではない、このままでは──このままでは自分は。

 逃げるしかない。そう、理性は告げていた。
 だが、と感情が紛糾する。ここまでされて、この男をみすみす逃すのか──と。
 しかし瑞穂は、このまま戦っても勝ち目はないどころか、一矢報いることすらできないと解っていた。今まで培って来た感覚が、痛いほどにそれを告げていた。

 瑞穂は大きく飛び退くと、もしもの為にと携えていた閃光弾をファング目掛けて放る。
 幾ら身体能力の発達した獣と言えど、視界を奪われれば隙はできるはずだ。
 放り投げたそれがファングの足元で弾けるのと同時に、瑞穂は踵を返して走り去る。

 脇目もふらず、振り向く事もせず、瑞穂はただただ、走った。
 悔しさに、痛いほど唇を噛み締めながら。