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猫睛石〜月齢28.8
最初は宝物を見つけたのだと思った。
演劇部の衣装を捜して訪れた小さなフリーマーケット。
年齢不詳の男性が売っていた、ごちゃごちゃと素性も用途も知れないようなガラクタの中、『ソレ』を見つけた時にはまるで後光が差しているかのように見えた。
まるで本当に猫の皮を剥いで作ったのでは?と不安になるほどにリアルな作りの猫の着ぐるみ。
***
帰途についたみなもは、お気に入りのエコバックに中に窮屈そうに治まっている着ぐるみを、大事そうに自室のベットの上に広げた。
「……本当に猫で作られたりしてないよね?」
心配になってひっくり返して見ると、裏側は皮というよりポリエステル製のような、ごわごわとした質感の生地で少しほっとする。
「大丈夫っぽい…あ、でも、手触りは本当に猫の毛皮みたい」
気持ち良い。そう思いながら実際の猫を慰撫するように手を動かし、着ぐるみの表面を撫でる。
しゅ、しゅ、と微かな音と共に細かい毛が指の隙間を滑り、みなもは心地よさげに目を細めた。
「いいなぁ、一回着てみたいな」
本来は自分の役が着用する訳ではないのだが、一度くらいは袖を通してみたい欲望がふつふつと涌いてきた。
苦労して見つけたのは自分だし、そもそもユーズド品なのだから、自分が一度くらい身につけた所で誰も咎めはしないだろう。
そう思って着ぐるみを持ち上げてみる。
頭以外は一体型の作りなのに、思った以上に軽くて着心地が良さそうだ。
ますます着てみたい衝動に駆られ、味見程度にまずは左手を通してみる。
「あ、サイズぴったりかも」
着ぐるみを着た左手で自分の頬に触れると、ぷにょっとしたなんとも甘美な肉球の感触が頬に伝わってきた。
手を裏返して甲の部分で頬を撫でても心地良い。
思わずはぁ〜と幸福の吐息が唇から洩れる。
もう我慢できない、そう思って着ぐるみを一度抱きしめると、今度は片足ずつ慎重に滑り込ませてみた。
足のサイズも丁度良いし、丈もそう大きすぎ無さそうだ。
インナーベストを付けていないので胸元は余るかと思ったが、まるであつらえたようにその心配も不要だった。
背中のジッパーを上げていくと、着ぐるみと言うよりも全身タイツを着ているかのようなフィット感だ。
フリーサイズとは言い難い特徴的なサイズからみて、おそらく特注品か何かだったんだろう。
着用者が限られるので、安く売らざるを得なかったという事か。
どこから見ても安いとは思えない作りなのに、いくらフリーマーケットとはいえ安価すぎると心配していたみなもは、やっと答えが出た気がしてほっとした。
首から下はすっかりリアルな大きな猫の姿。
みなもはベットに腰を下ろし、バランス的には身体より少し大きめに作られた首を手に取る。
身体とはまた少し違う柔らかな毛並み、ピンと立った耳、ちょっとユーモラスな口元、ピョンと広がったヒゲと周りの毛穴、そしてぱっちりと開かれた緑金色の瞳としばし見つめ合う。
ガラス製ではなさそうな、まるで上等な猫睛石を使ったような輝きに見とれてしまった。
角度や光によってキラキラと変わる、針状に並んだインクルージョン。
猫の瞳そのもののようだ。
表情豊かな犬とは違って内側を覗かせない、孤独で気高い冷たい輝き。
「………」
不意にその瞳に逆に見つめられている気がして、みなもは一瞬背筋がゾクりとした。
着ぐるみの何が怖いというのだろうか。
そんな考えは馬鹿馬鹿しいと思い直したけれど、それでも漠然とした不安が頭を離れない。
このまま脱ぐべきか、それともやっぱり着てしまおうか。
ひとしきり悩んだ末、それでも結局みなもは着ぐるみの頭を装着した。
***
視界が着ぐるみによって大きく制限され、呼吸が苦しくなる―――その筈だったのに。
確かに頭を被った直後は息苦しく視野も狭かったが、それでもまず奇妙だったのは、着ぐるみ特有の隠ったような異臭がしない事だった。
あまり使用感の無い綺麗な状態であるせいかもしれないが、そんな事を考えている内に不思議と息苦しさは消え、視野もいつの間にか広がっている気がする。
何より縫いぐるみの頭を付けている筈なのに、首が重たく感じない。
あれ?と思ってみなもは着ぐるみの頭に触れた。
そう、触れたのは着ぐるみの頭にだ。
けれどその手の感触は、直接肌に触れたようにみなもの頭にリアルに伝わった。
慌てて身体の他の部分も触ってみたが、同じように素肌に触れているような実感が、掌と身体の両方に響く。
ふつふつと再び胸の底から涌いてくる恐怖に、思わず両手で自分の身体を抱きしめる。
ぞわぞわと恐怖以外にも全身に走る感覚があった。
本当に、本当に異質な感覚。
体中の毛穴という毛穴が押し広げられているような、むずむず、イライラするような痒み。
それに一瞬遅れて、冷たい異物が毛穴に進入する痛み。
衣服ごと皮膚に癒着し、浸食し、肌の下で新たに繋がり合う、何か。
着ぐるみを着ているのではなく、着ぐるみの上に自分の皮膚を纏っているような、身体が裏返ってしまったようなおぞましい感覚に、みなもは思わず悲鳴を上げた。
一生懸命体中を掻きむしり、この気色の悪い何かを引きはがそうとするが、猫の体毛が数本抜けただけで着ぐるみは剥がれない。
―――そうだ。脱げばいいんだ……。
不意にその事に気がつき、背中のジッパーを捜したけれど、先ほどまで指に触れていた小さな金属は、背中の何処をさがしても見つからなかった。
それどころか、首と身体の境目に指を入れることすら出来なくなってしまっている。
何で?どうして?とパニックに陥り、みなもは更に力を入れて己の身体を引掻く。
「痛っ!」
ギリリ…と肌の上に熱い痛みを感じて、みなもは慌てて手を引っ込めた。
おそるおそる己の手を見ると、先ほどは無かった筈の猫の鋭い爪がにゅ…と顔を出している。
ひっかいてしまった腕の部分を見ると、赤い血が流れていた。
傷は痛い。
けれど傷がついた事で、着ぐるみと自分の間に指を入れられる。そう思いついて傷口に己の指を押し当てた。
おそるおそる、傷口の表面を爪で引っかけ、持ち上げようとする―――が。
「ひあ゛ぁ…っ!」
それは己の皮膚を剥ぐのと同じ痛みだった。
激痛が全身を駆け抜け、あまりの痛みに仰け反る。
血で濡れた指先でシーツを引掻きながらベットの上に倒れ込み、みなもは嗚咽した。
「何で…何なの?」
震えながら、ベット脇のスタンドタイプの小さな鏡を手にする。
鏡の中に、無表情な猫睛石の瞳が二つ瞬きをしている。
ゆっくり鏡を下にずらしていくと、そこにはまるで映画の特殊メイクを施したような、人間の形に良く似たシルエットの猫がいた。
有名なミュージカルを思いだしたが、それよりずっと猫らしい。
女性的な丸みを帯びているのと同時に、野性的でしなやかな身体のライン。
神経質に揺れるしっぽ。
空気を嗅ぐように張られたヒゲ。
物音に細かく反応して器用にくるりと動く耳。
指先で輝く銀色の鋭い爪。
「…ふ、ふふ、くくくっ」
不意に引きつるような笑いがこみ上げてきて、みなもは身を捩った。
なんてシュールな姿だろう。
着ぐるみが脱げなくなるなんて、どんな悪夢?
ショックのあまりヒステリックな笑いが口から溢れ出し、みなもはベットの上でのたうち回る。
「そうよ、悪夢に、決まってる」
眠れば大丈夫、すぐに夜が明けて、元通りになる。
大丈夫、大丈夫、大丈夫。
呪文のように何度も『大丈夫』を唱えながら、みなもは忍び寄る暗闇の中で強く、きつく瞳を閉じた。
fin
***
ありがとうございました、Siddalです。
変身譚に絞った内容という事でしたが、如何だったでしょうか。
リテイクやご意見、ご希望が御座いましたら遠慮なく仰ってくださいませ。
また機会がありましたら、どうぞ宜しくお願いいたします。
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