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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


【東京衛生博覧会 後編】



「人にとって、美しい姿勢とされているのだろう?」
頬に血飛沫の跡を残す男が言った。
「『どうしても叶えたい願いの為に、何でもする』という事は」

「素敵な事なんだよねぇ?」
コケティッシュな笑みを浮かべ、猫は勝ち誇った。
「『夢が叶う』っていう事は」

「覚えはないんでしゅか?」
Drは、唇の端を引き攣らせた。
「『大事な誰かの為になら、どんな事も厭わない』という気持ちに」

血の濃い匂いが立ち込めていた。

豪華なオークション会場に、息をするのも煩わしい程の熱帯のジャングルに、そして、薄暗い倉庫に。


引き金は、いつ引かれたのか?
彼らの本当の目的は何なのか?
この物語は、何処へ疾走して行くのか?


何にしろ、血の花は咲いた。
後戻りの出来ない場所に、貴方はいた。


男は、猫は、そしてDrは問うた。

「さぁ、これから、どうしようか?」

まるで、子供のように。

「さぁ、これから、どうしようか?」





SideA


【 魏・幇禍 編】


「貴方にご立派な忠誠心があるなんて思えませんねぇ?」


幇禍は腹を抱えて笑い出したい自分を抑えて、そう言った。

Drの物の言いがあんまりにも、おかしかったからだ。

大事な誰か? 笑わせる。

悪党が生半可な事を口にするんじゃないよ、洒落臭い。

いけ好かない気持ちを込めて、そう言い放った声は、芝居がかっていたので、もう少し、リアルでないと空々しいか?と反省した。


リアル?


反省後、即、そんな自分を不思議に思う。

間違いなくリアルじゃないか。
目の前に人非人がいて、エマさんや、兎月原さん、それにデリクさんですら、今憤っている。
だから、俺だって、そう怒ってるんだ。
そう、だって、俺が買ったキメラ達を殺しちゃったから。


折角 お嬢さんへの お土産にしようと 思ってたのに。



なんか、おかしいのかな?
こういう考え方は、なんかおかしいのかな?

だって きっと 多分 命は 大事でしょう? 自分のも 他人のも

そう思いながら、空虚に言葉が上滑りしていく自分に幇禍は気付かないふりをした。

いつもの事だったので。
気付かないでいようとすれば、気付かないでいられるようになった。


婚約者に似ていたキメラが足元に転がっている。
冷たい、冷たい、何の感情も浮かばない目で見下ろして、俯いたまま、それでも声だけは痛ましげに「…なんて事を」と呟いた。

その声音に、「自分もお嬢さんと同じ人間でいられている」と自分で自分を誤魔化した。


少し首を傾げたまま、思案するように口をつぐんでいたエマが、漸く言い言葉を思いついたという風に軽く口を開くと、「馬鹿じゃないの?」と呟いて肩を聳やかしながらツカツカとDrの傍に歩み寄る。

そして、倒れこんでいる黒須の目の前にしゃがみ込むと、その顔を覗きこみ、「黒須さん? 黒須さーん?! 意識ある? 大丈夫?」とDrを無視し、黒須に声を掛け、それから腰に手を宛てながら此方を振り返ると、「兎月原さん、ごめん、黒須さん運んであげてくれないかしら? どうも、もう立てそうにないの」と困ったように告げた。



余りに動揺のない姿に、流石と、幇禍は感嘆しつつ「あ、俺も手伝います」と言いながら傍に行けば、慌てた様子で兎月原も黒須に駆け寄った。

「駄目でしゅ。 勝手な事しないで下しゃい!」と言い、キメラを差し向けるDr。

銃を構え、襲い掛かるキメラ達を撃ち落し、兎月原が薙ぎ払う最中、エマは「あ? いたの?」とまるで、今気付いたと言わんばかりにDrに吐き捨てて「存在感ないんだから、そのまま、せめて黙ってじっとしててくれない? とっても邪魔なの」と、腰に手を宛てたままDrと対峙し、溜息を吐き出した。


「私達、こう見えても忙しいのよ」とまるで冷静な声で言うエマを、Drが信じられない生き物を見るような目で眺める。

幇禍は、エマの態度が殊の外愉快で堪らず、血で滑り、油断すれば足元を取られそうな悪条件の中、銃を握ったままの掌でキメラを殴り倒し、地面に倒れ伏した所で容赦なく頭を撃ち抜きながら、素早くデリクを振り返った。


案の定、黙ったっきり、何某かを考えている表情で立ち尽くすデリクの姿が目に入る。

さてはて、今度はどんな手法で楽しませてくれるのやら?

彼が何か策が練り上げられるまでの時間稼ぎを意識して、幇禍は殊更派手に暴れる。
兎月原も同じ気持ちなのか、血の飛沫を上げながら、足を高く上げ、キメラを叩き落し容赦なく踏み潰す姿を目の端に捉えて心強く思っていると、エマはその騒動の最中でも表情一つ変えないままに、Drと相対し続けていた。


「…怖くないんでしゅか? 僕が」

窺うような眼差しにエマが意外な事を聞かれたというように唇の端を持ち上げ「怖い? 何が?」と囁く。

「あんたの何処が怖いの? 何を怖がれば良いの?」
エマはそう答え、Drになど構っていられないと言う風に、足元に入る黒須に躊躇いなく手を伸ばし、その血に濡れた髪を掻き分けた。

「…痛い?」

エマの問い掛けに黒須が霞んだ視線を返す。

「どっか折れてる? というか、顔色から見るに、まず、血が足りてないのかしら?」
何か言おうとして、黒須が悲しげに眉を潜め、早口で「アホか、お前は…どっかそこら辺、隠れてろ…」と答えると、エマは首を傾げ、それから、その頭を「えい!」と掌で叩いた。

「そんな場合じゃないでしょ? 今の黒須さんなんかね、最悪よ。 なんか、もう脱皮後って感じ。 蛇が脱皮し終わった後の皮って感じ。 つまり、本体が別にあるんじゃね?位の、なんか弱り具合なのよ。 そんな人にね、気遣って貰うほど、私落ちぶれていないから、どーん!と頼りにしちゃいなさい」

そう言って安心させるように笑い、それから「…助けに来たよ」と優しい声で言う。

「私も、兎月原さんも、デリクさんも、幇禍さんも、みんな、みんな、黒須さんの事、助けに来たのよ」
エマの言葉がまるで痛いという風に顔を歪めた黒須に、「にっ…」と何だか、悪戯っぽい笑みを見せ「感謝してよ」と告げると、その体を何とか抱え起こそうとした。


「あんまり、舐めた真似しないで下しゃい…」

そう言いながら、Drが懐から銃を取り出し、エマの頭に突きつけるのを黒須が目を見開いて見上げる。

「やめろ」

震える声。

「こいつは…やめてくれ……」


黒須がそう懇願する最中、エマはポンポンと黒須の肩を叩き、大丈夫という風に笑いかけると、Drに視線を向けないままに「だから、別に怖かないって言ってんでしょ」と、冷たい声で答えた。

「あんたに殺されたりするもんか。 そんな鉛玉、私には当らない。 絶対にね」

そう挑発するような言葉に、幇禍はヒヤッとし、Drの後頭部に銃の照準を合わせる。

「どうでしゅかね?」

Drが引き金を引くより早く撃ち放そうとすれども、キメラの妨害を受け、巧く的が絞れない。
「チッ!」と舌打ちすれば、デリクが手を翳して「無茶をすル!!」と叫んでいた。

「パン!」

銃を撃ち放せども、デリクが空間を歪ませ軌道を変えたせいで、弾丸はエマを霞めただけに留まり、その瞬間打ち合わせたわけでもないのに、幇禍は走りこんで、発砲の反動に仰け反るDrの即頭部を殴り飛ばすと、同時に駆け出した兎月原が強引に黒須の身柄を強奪し、抱きかかえて、一気に安全圏まで走り、運ぶ。

その間、僅か一秒足らず。
吹っ飛ぶDrを見送りもせず、幇禍はエマの手を引き走り出すと、「ありがと」と笑って礼を言うエマに舌を巻き、「怖くないんですか?」と聞いてしまっていた。

銃を頭に突きつけられて、あれ程平然としていられる理由が分からない。
それも、自分や兎月原、デリクのように己の技量に多少なりとも自信を持っている人間ではなく、エマは外見だけならば、上品で荒事なぞに関わる姿等一切想像できない知的な容姿をしているせいもあり、こういう度胸を発揮した時等はそのギャップにいつも驚かされてしまっていた。

「怖くないわ。 だって、みんなの事信じてるもの」

エマは至極当然の事のように言う。

デリクが少し怖い顔をして、「エマさン! 私が、気付かなかったラ、どうするつもりなんでス!」と言えばエマは「でも、助けてくれるって分かってたし、決して無謀のつもりじゃなかったわ。 何とか、あいつの気を逸らさなきゃ、黒須さんの奪還は無理だったしね」と軽く答え、それからデリクににっこりと笑いかけて「ありがとう」と言った。
幇禍含め、余りに綺麗な笑みに、デリクがうっと言葉を飲み込めば、そのまま、こちらに背を向け軽快な足取りで兎月原が保護した黒須の元へと走っていく。
その背中を呆然と眺めていると、デリクが隣に立つ幇禍に声を掛けてきた。

「時々思うのデスガ…」
「はい」
「我々男性陣束になっても、エマさんに叶わないのでハ?と思わされる時が、私あるんでス」

狡猾極まりない、詐欺師の魔術師の弱気な言葉に幇禍も大いに頷いて、「無敵です。 あの人」と心からの声で答える。
今は黒須の傍にしゃがみ込み、あれこれと世話を焼いてる姿を眺め溜息を吐いた後、振り返り、爪先を此方に伸ばしていたキメラの額に鉛玉の穴を開けた。
デリクも、歪の塊をぶつけ、キメラの体をぐにゃりと折り曲げている。

「何か…思いつきました?」

幇禍が、弾切れした銃に素早く弾丸を詰めながら問い掛け、どちらも利き手として活用できるよう鍛えてある左手で、キメラを撃ち落しながら問い掛ければ、「一応…。 ただ、慎重を旨とする私にしてみれバ、かなり不安定な賭けなので…もっといい手はないかと…迷っている所なんデスガ…」とデリクは、迷いのある声で呟いた。

幇禍とデリクが仕留め続けるキメラが流す血も加わり、足元を浸す血の池の嵩が徐々に増していっている気がしてしょうがない。
徐々に積もる鬱屈感に、密閉された倉庫内でこのまま埒の明かない状況を続けるより、少々危なっかしかろうが、とにかく、状況を一変させたいと思った幇禍は、「その方法を実行させる為には、どうすればいいんです?」とデリクに問い掛ける。

「取りあえズ、この攻撃を一旦止めて頂かないと、力の行使もままなりまセン。 あのDrの気を一時的にでモ、逸らさないト…」
そう眉を顰めてDrを凝視したデリク。
「観察していて気付いたのですガ、どうも、キメラ達は最早自分の意思というモノを奪い尽くさレ、Drの指示により動いているようなのデス。 つまり、Drが指揮権さえ失えば、キメラ達の攻撃は止ル」
「指揮権…を…失わせる…」
「一時的にデモ構わなイんでス。 Drの気をそらす事が出来れバ…」と言うものだから「何かに、一時でも夢中にする事が出来ればいいんですけどねぇ…」と銃を連続して撃ち放ししつつ、幇禍も思案する。
するとその呟きに、首を傾げたデリク。

「夢中…ニ?」

「はい。 夢中に」

デリクが鸚鵡返しに聞いてくるので、幇禍も全く同じ答えを返す。
眉を寄せたまま、「すごおおおく嫌なんですケド…」とデリクは溜息を吐き、それから、くるんと、倒れたままの黒須を振り返ると、「幇禍さン、もう少し持ち応えて下さイ」と言って、突然黒須の元へとスタスタと歩いて行った。
残された幇禍は、一瞬きょとんとした後、慌ててキメラ達に視線を送り、迫り来る猛攻を暫く一人で防ぐ事になる。
焦ったように兎月原が交代要員として前線に出てきて、隣に並んだので、思わず幇禍、どうしても気になって「デリクさん、何を企んでるんですって?」と問い掛けてしまっていた。
兎月原は、幇禍の援護射撃を受けながら、次々とキメラを倒しつつ、「…何か…Drの…気を引く手段を黒須さんに…相談してるみたいだ…」と言いつつ、兎月原に突進してきていたキメラを撃ち落した幇禍に、「どうも!」と律儀に礼を述べる。
「なんで、黒須さんに?」と首を傾げれば、「そもそも…黒須さんみたいな人間に、Drがこだわってること自体不思議だろう」と兎月原に言われて「あ」と気付いた。
そういえば、その通りだ。

美しい女性を気に入るのならともかく、黒須はどうお世辞を使おうとしても、執着するにはかなり、いや、とてつもなく難のある外見をしている。
扱いとて、別段丁寧であるようには見えず、大変虐げられている様子を見ると、むしろ、何か不興を買って、無駄にこだわられてしまっているように見受けられた。
Drがオークションにも出さず、研究所送りにする事に決め、あのように引きずり回しているのは、つまり、「何か…Drの琴線に触れる要素が…あった?」と幇禍が言えば、「デリクさんは、どうも、黒須さんがDrに言った言葉に、その原因があると思ってるみたいで、どんな会話をしたのか詳しく聞き出していたよ」と、息切れを見せずに説明してくれた。

確かに、あの手の人間は、自分の内面に踏み込む侮辱を行った相手に、強く執着する傾向がある。
自分の優位性や権力を相手に嫌という程思い知らせ、自分の言動を後悔させる事に全力を尽くす、人間の器の小ささが既に透けて見えていた。
そこを見越して、Drの致命傷になる台詞を引き出し、デリクは自分との舌戦に、Drの意識を集中させようとしているのなら、その作戦はかなり有効かもしれないと考えて、デリクが黒須からキーワードを聞き出すまで持ち堪えるべく、気を引き締め直す。

暫く、兎月原と二人、防衛ラインを死守していると、漸くデリクが前線に復帰してきた。

「準備はOKですか?」

幇禍が問えば、デリクは「マァ、なんとカ」と苦笑して、それから「もう暫くの間辛抱してくださイ」と囁くと、掌を翻した。

「Dr!! Dr!!」

デリクが、朗らかな声で、Drに対して呼びかける。
無造作に血の海を歩き、キメラの攻撃を潜り抜けながら「少しの間だけ、お話させて貰って宜しいでしょうカ?」と声を掛けるDrを油断ならない目で見据え、Drは首を振り、キメラに更なる猛攻を命じた。
「そんな、ツレない事を仰らずにネ?」と言えども、Drにしてみても、デリクがかなりの曲者である事は察せられているのだろう。
下手に口を聞こうものなら、相手のペースに乗せられる事を恐れてか、口を噤んだまま、頑なな調子で此方を見ようともしない。

エマに出し抜かれ、黒須を奪われた事を教訓にしているのだろう。
中々厄介な状態だと幇禍が思えども、デリクはこういった状況は十八番なのか、まさに詐欺師の如き弁舌で持って「まぁ、貴方ガそういう態度を見せるのも無理はありませン。 今は敵対関係にある間柄、ここで警戒を解くようであれば、貴方も裏組織のNo2になぞ、上り詰める事は叶わなかったでしょウ。 流石というべきでしょうカ?」と相手に理解を示してみせる。
その間も影に潜む獣は、キメラを食い殺してはいたが、今はその宿主が別の事に意識を向けているせいか、デリクには次々と鋭いキメラの爪の切り傷が付けられ始め、兎月原が、身を屈めデリクの傍にすぐ寄り添うと、その攻撃から身を挺すようにして守る。
幇禍も、デリクに協力すべく、彼周辺のキメラを撃ち落す事に集中し、二人の守護を受けながら、デリクは両手を広げると、ゆっくりと言葉に力をこめるようにしてDrに向かって演説を始めた。

「されど、同時に、Dr、私は不思議でならないのデス。 貴方、有能だからこそ、組織を一気に上り詰めタ。 キメラ開発。 素晴らしい術でス。 これは、然るべき場所で発表すれば、世界は震撼せざる得なイ。 まさに、天才。 ええ、そう呼ばせて頂きたイ。 貴方は、天才でス。 だが、何故、この裏社会の組織に、その才能を虎杰ノ為に使っているのでス? もっと、日の目の見れる場所で、その力を振るう事とて出来たであろうニ…。 その理由ハ?」

デリクの問い掛けに、Drが目を細める。

「何が狙いでしゅ?」
デリクは笑い「狙イ? いえ、純粋にお伺いしたいだけデス。 なにぶん、好奇心旺盛な性質でしテ」と答えた。
Drは暫し逡巡し、そして「そうでしゅね。 忠誠心等と言っても…そちらの人には否定されてしましましたしね…」と言いつつ、幇禍に視線を送ると、不意に笑ったまま「ねぇ、じゃあ、逆に聞きたいんでしゅけどね…? 貴方はいましゅか? その人の為ならば、何だってしてやれる位、大事な人が」と聞いてきた。

幇禍は躊躇いもせず、自分の婚約者の顔を思い浮かべ「ええ」と頷く。
にたりとDrは笑い、エマに目を向け「貴女には?」と問われれば、エマは、訝しげな表情のまま、それでも、コクリと頷き、兎月原も「貴方は?」と問われて頷いた。

再びデリクに向き直り、「いましゅか?」と端的に問うDrに、デリクは迷う様子もなく「ええ、大事な大事な可愛い人が、私にはいまス」と笑って答える。

パチパチパチと手を叩き、Drは「素敵でしゅね」と笑うと、「僕も一緒でしゅ」と肩を竦めた。

「世界を滅ぼしたって構わない。 どうしたって、守ってやりたい子が僕にはいた。 その子の夢をかなえる為に、僕は虎杰の元にいる。 それだけの話でしゅ」
そう言い、そして、虚ろに笑う。
「邪魔をしないで下しゃいとは言えましぇん。 敵の多い道である事など、とうに分かっていましたから。 覚悟なんか、ずっと前に定まっておりました。 野望っていうのは、そういうものでしょう? 覚悟を決めて、望むもの。 人を人と思わぬ事で、ここまで生きてきたんでしゅ。 今更、何の後悔もありましぇん。 正義の味方を気取って、僕を討ちにきたのなら、物語のように、正しい者が、最後立っていられるとは限らないという事を思い知って下しゃい。 僕は、あのお城を虎杰が手に入れる為ならば何だって出来ましゅ。 そう、何だって…」


Drの言葉に幇禍は、大事な人とやらが、虎杰の事を示している訳ではない事を悟ると、では一体誰の為にと思案を巡らせた。


この物語に関わるもの。
Dr、虎杰と同じ立場にある存在。


「子? ですカ? つまり、貴方よりも、年下の存在ですよネ? その大事な人とやらハ」

デリクが探るように、問い掛けて、そして笑った。

「貴方、チェシャ猫とどういうご関係デ?」

Drは、「余り、頭が回ると、他の人間が全部馬鹿に見えて、世の中つまらなくないでしゅか?」とデリクに問い掛ける。
デリクはひらひらと手を振って「イエイエ、私など、浅薄極まりない身の上。 他の方々から学ぶ事ばかりデ、貴方のようにはとてモ、とてモ」と、軽い笑みを浮かべて否定する。

「ただ…他にいないんでス。 貴方ガ、今現在、大事なと表現するに相応しい、この物語の登場人物ガ。 貴方ガ、虎杰に人質を取られ、無理矢理キメラ開発を…という訳でもなク、私達が知り得ない重要な人物がいるという事モ、あの白雪さんから情報を得ている現状では有り得ませン。 お城を望む事自体、チェシャ猫さんからの差し金だとするのなら、全て納得が行ク」

白雪…?
聞き覚えのない名に首を傾げれば、こそっとエマが「王宮にいる、鏡の化身の女の子よ。 世界の何もかもを見通す力を持っていて、こっちの世界と、王宮を繋ぐ事も出来るみたい」と教えてくれる。
知らぬ間に、そんな新たなメンツまで現れていたのかと、久しぶりに、あの城を訪ねてみたい気持ちになりつつ「ありがとうございます」とエマに礼を述べ、その時は、是非、お嬢さんも一緒に連れてってあげよう等と、一時、その場に相応しくない楽しい妄想に身を委ねかけた。

デリクが、目を細め「チェシャ猫さんは、貴方のご血縁関係にある方デスカ?」と囁く声の不穏さに、はっと意識を現実に戻す。

幇禍は矢継ぎ早にキメラを撃ち落しながら、同時に彼らの攻撃の手が弱まりつつあるのを感じた。
Drの意識がデリクに集中し始めていた。

「何故、そう思うでしゅ?」

Drが愉しげにデリクに問う。
「恋人か、それこそ、妻かも知れないじゃないでしゅか」
Drが揶揄するように言えば「男というのは、然程一途な生き物ではないという事は存じ上げてはいるのデスが、『狐さん』でしたッケ? 黒須さんからお聞きしまシタ。 前のお気に入りのキメラ。 随分と美しい女性だったようデ。 大事だの、世界を滅ぼせるだノ、それ程覚悟を決めさせる程に一途に想う女性がイテ、果たしてそういうキメラを自分に侍らせるでしょうカ? それは、余りに不義が過ぎるというモノ」とデリクがシレっと答える。
「ならば、友人関係にある人かとも考えたのですガ友ならば『子』等と、目下のものに使う形容を使わず、『人』と対当の表現を使う筈。 チェシャ猫さんが大事な人であると仮定シテ、友でもなく恋人や妻でもないとするならば、家族…あなたは子持ちにはとても見えませんし、そうですネ…チェシャ猫さんは、貴方の妹さんと見るのが妥当と思ったのですガ、如何ですかネェ?」
つらつらと並べ立てた言葉の数々。
デリクが微笑み、Drに問い掛ければ、「正解でしゅ…」と溜息混じりに答える。
黒須から引き出した情報とあわせて、そこまで推測できるとは…と舌を巻けば、Drも呆れたように「うかうかと、君と喋っていると、どんな隠し事すら暴かれてしまいそうでしゅね」と感嘆した。

「妹さんの為ニ、キメラヲ? チェシャ猫さんは、何かご病気でも患っていらしたのデ?」

更に突っ込んだ問い掛けに、Drは「…本当に嫌な、探偵でしゅ」と小さく呻く。

「だっテ、何か重大な切っ掛けがなければ、キメラ等という分野に、早々手を出しはしないでしょウ? チェシャ猫と呼ばれている事から鑑みても、人間の貴方の妹さんに、既に猫と合成するキメラ化手術が施されていると見るのが当然でス。 大事な、大事な妹さんに、そのような所業を施す理由があるならば、唯一ツ。 他の生き物の生命力を借りて、その命を生き長らえさせるしかなかッタ。 これ以外に、有り得ませン」

流れるように喋り続けるデリク。
いつしかキメラ達が、その動きを止めている。
デリクの指先が微かに揺らめき、掌の陣が微かな光を放っていた。

「妹さんの命を救う為、キメラ開発に手を染めた貴方ガ、何故、あの城に辿り着いたのカ?」
「…願いを」

「ハイ?」

デリクは笑って問い返す。

「願いを、叶えてもらう為でしゅ。 何百年前になるでしゅかね…。 時の止ったお城。 あの城に迷い込み、僕は願った」

「キメラ開発の成功ヲ?」

「そうでしゅ」

そういえば、自分も黒須から、ベイブが城の玉座に辿り着いた者の願い事を何でも叶えてくれると教えてもらって、お嬢さんとの関係について相談させて貰ったっけ?と、幇禍はぼんやり思い返す。
今思い返すと、随分と他愛ない願い事を(それでも自分にとっては、その相談は何より逼迫した悩み相談だったのだが)したものだと苦笑を浮かべた。
自分の婚約者の事を思い出すと、何故か微かに脳ミソがチリチリと痛んだ。


「どうしても巧くいかなかった。 当時の医療設備は、今よりもずっと劣っていて、頭で組み立てた論理を成功させる為に必要な物等、どうあったって揃わなかった」

「材料はどうデス?」

デリクは問う。
「実験の為の材料は?」

「それは、すぐに手に入れられました。 あの時代の闇は今よりずっと深かったのでしゅ。 夜闇に身を紛らせて、随分攫わせて頂きました」

事も無げに言うDrに、「あんた…人を攫って、キメラの実験を繰り返していたのか…」と兎月原が掠れた声で問う。

「いつから…狂ってたんだ…。 どの位の間、狂ってるんだ…」

人間は、どれ程の間狂人の状態のまま生きていられるというのだろう。


「言ったでしょう? 何百年も前に、お城に辿り着いたって。 その前からずっとでしゅ。 妹を、チェシャ猫ちゃんにしてあげて、お城で毎日愉しく暮しました。 あの頃のベイブはサイコーだった。 ずっと一緒に狂っていられた。 ねぇ? 蛇ちゃん。 お前が、ベイブと出会うまではね…」


黒須が自分の名を呼ばれた事に反応を見せゆっくりと顔を上げる。

「ああ…。 お前…まさか…ハンプティか……?」

そう途切れ途切れに問う黒須に「そう。 やっと、分かって貰えましたか。 とはいえ、顔を合わせることは一度もありましぇんでしたからねぇ…。 そうです、お前が現れる事によって、哀れにも城を追い出された、ハンプティでしゅ」とDrは震える声で答えた。

「どんな手段を使ったのやら、蛇ちゃんに会ってからというものベイブの狂気の所業はなりを顰め、深層と表層を逆転させて、僕は王宮の鍵を取り上げられ、こんな糞溜めみたいな世界に放り出された!! 浦島太郎より惨めな立場でした! 何もかも、変わり果てたこの世界で、妹とも引き離され、何処へ行く宛てもなく彷徨っていた、そんな僕を拾ってくれたのがボスでしゅ!!」
 
ヒステリックな声に幇禍は顔を顰めた。
ギシギシと、何かが引っ掛かっている音がする。

例えば、錆の浮いた歯車が、巧く回らなくなっているような。


そういう音。


止っていたものを無理矢理動かされようとしているのか、それとも、動いているものを無理矢理停止させられようとしているのか。

何にしろギシギシと、頭の片隅で変な音がしていて、Drの言葉は何もかも上滑りして聞こえていた。



何も 感じない。
感情というものが分からない。


足元をまた、見る。


キメラの死体。

赤い目をした少女の死体。


あれ? この子 ダレダッケ…?



「人情モノですか?」


意識しないまま、幇禍は喋っていた。
俯いたまま、顔が上げられない。


「反吐が出そうな話だ。 悪党っていうのは、悪党同士引き合うものなんでしょうか? 本当にロクでもない」

ダレが喋っているのかも判然としない。

誰かが、一番触って欲しくない、心の奥底に容赦なく干渉しようとしているかのような、そんな不快感が、じわじわと幇禍を苛んでいた。


「何とでも好きに言えばいいでしゅ」

Drの声。

「僕には理由がある。 守りたい人もいる。 報いるべき恩がある。 立ち止まる術はない。 そういう事でしゅよ、探偵さん?」

Drの言葉に、デリクは高らかに笑った。

「止める術? そのようなもノ! 別段、私、貴方を言葉で止めるつもりはサラサラないんでス!」

にいいと唇を裂いて、デリクは言った。

「むしロ…そう…ご忠告申し上げたかっタ。 恩に報いる等とは申してますガ、貴方、そんな風に感謝する必要性ハあるのですカ? 信頼に値する程、ボスとやらは、貴方との絆がおありになる人なノですカ? キメラの援軍が一向に来ないのは何ででス? 貴方、もう、見捨てられているんじゃないですカ?」

Drが目を見開いたまま、デリクを眺める。
エマが、デリクの意図を察したのか、冷たい声で「確かに、大事な商品であるキメラをこんな風に滅茶苦茶にして、組織にとって、貴方の価値が、今、どれ程あるのか疑問だわ?」とシレっとした声で告げた。 

「気持ちの悪い、化け物。 何百年生きましタ? その、狂気を引きずっテ。 貴方 なんか ダレも 好きにならなイ。 だって、喋ってイテも、吐き気がするんだモノ」


笑いながら、冷酷に。
Drの心を最高に傷付けるべく、デリクが言葉を刃に変えてDrを抉る。



「孤独だったでしょウ? この世界で生きるのハ。 これからモ 一人ぼっちでス。 かわいそうニ。 だから、どうぞ、一人で死んで下さイ。 死んで下さイ。 死んで下さい」

冷たい声で繰り返す。
Drの目が何度も何度も瞬いて、その体が小さく震えだした。

「い…やだ…」と子供のような声で言うのを聞いて、にんまりとデリクは笑うと、「こんなに寂しい思いをする位なら いっそ 生まれてこなきゃ よかったのにね」と、トドメを刺すかの如く穏やかに告げる。



キーワードは、一人ぼっち。


誰だって一人は寂しい。

孤独には耐えられない。


それが悪党であろうとも、人である限り。



だったら俺は?

幇禍は想う。


俺も 寂しいのか?

お嬢さんと 離れ離れになってしまったら。


キメラ達の攻撃が完全に止った。
デリクがゆっくりとDrに歩み寄る。
「虎杰にも裏切られて、何処にも、もう行き場所はないでしょう?」
Drの間近で、身を屈めてゆっくりと囁く。

「さ よ う な ラ」


まるで、何かの呪文のように、デリクは言い、その凶暴な影が、もぞりと身じろぎする。

その瞬間、Drが跳ね上げるようにデリクを見上げた。

「お前がね?」


「っ!」


突然、デリクの顔面に向かって、Drが試験管に入った薬液を浴びせかけてきた。

エマが、即座に声なき声を発し、薬液にぶつけて、四散させる。
薬液の飛沫が、デリクの咄嗟に顔を庇った腕や、服に飛び散り、ジュウッと嫌な臭いをさせて穴を開ける。

(強酸…!!)

薬液の正体に思い至りつつ走り込み、その額を撃ち抜こうとすれば、Drは、それを牽制するように、黒い小さな球体を投げつけてきた。

それが何であるのか、思考を巡らせるより早く、幇禍は爪先で、その球体を出来るだけ遠くめがけて蹴り返す。

軽い感触の黒い球は、幇禍の蹴りを受けて猛スピードで空中を飛んでいく途中で、パン!!!と花火のはじけるような音を立てて爆発する。
球体の大きさの割に、かなりの威力と見られる爆風がその場にいる人間の髪を煽り、空中に飛んでいるキメラを何匹が撃墜させた。

「あっぶないですねぇ…!」と文句を言えば、兎月原が、デリクの腕を引き、後ろに引きずるように後退させる。

「大丈夫か?!」

問われデリクは頷くと、「…最後の一言が余計でしタ」と眉を潜めた。
「最後の一言?」と訝しげに問う兎月原に、少しだけ悔しげに「つまリ、私が探り当てた関係性に加えテ、まだ、何かDrと虎杰の関係性にハ、Drを疑心暗鬼に至らせる事のなイ、強固な繋がりがあったという事デス」とデリクが言う。

そんなデリクに、Drが勝ち誇ったように告げる。

「探偵しゃん! 良い事を教えてあげましょう!!」

デリクが首を傾げた。

「まだ、見落としがありましゅ。 まだ、辿り着いてない場所がある。 虎杰は、僕を裏切らない! 僕は、絶対に一人にはならない!!」

デリクが、目を細め、そして、ぶつぶつと自分の思考が、そのまま漏れ出ているかのように何事かを呟く。

「Drハ…チェシャ猫と兄妹の関係にあリ…虎杰と…Drは、組織の上司と…部下…関係…ならバ……チェシャ猫と、虎杰の関係ハ?」

キメラが再び攻撃を開始する。

幇禍と兎月原は身構え、エマが慌てて黒須を庇うかのように、その前に立った。
だが、デリクは不意に顔を上げ、「ああ…すいませン。 夢中になっちゃいましタ!」と軽い声で言う。

その言葉の意味を掴みかねて、幇禍が視線を向ければ、デリクは両手の痣を翳し「もう、とっくに準備は出来てるんでス。 ただ、気になる事も色々あったシ、お喋りが愉しくなっちゃっテ」と言いながら、ピンと片手を挙げて人差し指を立てた。

時間稼ぎかと思われた、あの弁舌も、何もかも、全くのデリクの興味追求の為の時間だったと知り、思わず幇禍は脱力する。

「「「ええー…?」」」と疑問符をあげる三人に首を巡らせ、それから誤魔化すように笑いつつ、「兎月原さん! 黒須さんを、出来るだけ私の傍ニ!! 皆さんも、集まっテ!」と声をあげる。
兎月原が、何が何だか…という顔をしつつも黒須の傍に駆け寄った。
心臓を刺し貫いていた針を抜いて貰い、暫く落ち着かせて貰っていたからか、それとも下半身蛇の形態を保つ気力すら、最早失われたのか、黒須は人間の姿に戻り、蹲っていた。
そんな黒須を見下ろして、それから、物凄く、ものすごおおおおおく逡巡した後に「ええい! 止むを得まい!!」と断腸の声を上げ、自分のスーツの上着を被せてやると、「これは、髪の長い女性。 これは、髪の長い女性」と虚ろな目をして自分に言い聞かせるように呟き、黒須の体を抱き上げた。

「う…あ!! ちょ!! 痛ぇっ!! というか、何?!! これ?!! 何か、心も激痛!!!」
「うるさい!! 黙れ!! こちらだって不本意だ!! 本来、この運び方は、女性をベッドに運ぶ時限定なんだよ!!」
そう馬鹿な怒鳴り合いをしつつ、傷への負担を考えてだろう、通称お姫様だっこと呼ばれる抱き上げ方をして、傍によってくる兎月原に、なんか、物凄い嘘っぽい涙ぐみ方をしつつ「…兎月原さんノ…勇気に乾杯!」とデリクが親指を立てる。
「…貴方の犠牲、忘れないわ……」とエマが言い、幇禍も「この苦しみに耐えればっ!!! 良いことがきっとあるからっ! 神様が見てますからっ!!」と必死に、兎月原を勇気付け、そのそれぞれに「ありがとう!! みんな、応援ありがとう!!」と答える姿を疲れたような目で見上げ、「なぁ…俺って…何…?」と悲しい声で黒須が問い掛ける。
その瞬間、エマが目を輝かせ、「そうね…黒須さんは言うなれば…」とイキイキした声で、多分彼にとって致命傷になる言葉を並べて立てようとするエマを長い付き合いもあってか「いや、良いです。 もう、結構です。 お腹がはち切れそうです」と即座に黒須は制止、片手を挙げたままだったデリクが、ブルブルと腕を震わせながら「漫才コーナーは終了ですカ? もう、私、手が大変疲れテ、かなり痙攣!! 上げっ放しは、しんどいデス!」と、自分の苦境を訴える。
「ああ…コーナー化が定着しつつある…」と恐れるような声で呟く黒須にエマが無表情に、ブイサインして見せつつ、「じゃあ、やっちゃって!! デリクさん!!」と声を掛け、「アイアイサー!」とデリクは返事をすると上げたままの手を勢いよく振り下ろした。

その瞬間、指の軌跡に添うように、空間が切り裂かれる。

「っ! ちょっとばかり無理しまス!! 巧くいかなかったラ、ごめんなさイ☆」と、かなり不安になる発言をかまされて、幇禍の背中に鳥肌が立つ。
デリクが作り出した異空間の裂け目が皆を飲み込む寸前に、何気ない調子で、彼は黒須に尋ねた。





「ところで、黒須さン。 王宮の住人ト、この世界の人間ガ、お互いに恋に落チ、想い合う等とイう事は、可能なのでしょうカ?」




黒須が、兎月原に抱きかかえられたまま、何か答えようとした瞬間、幇禍の体は異空間の渦の中に放り出されていた。






「幇禍君」

真っ白な手が、幇禍の手を握り締めていた。

「ほら? 前言ってたでしょ? パン屋の角に捨てられてた三毛猫の話。 ウチだとさぁ、パパが、油断してる隙に、実験材料に使う危険もあるし、5匹も飼えないから、諦めてたんだけどね、あのパン屋のおじさんが、結局みんな引き取る事にしたんだって!」



だから?



という言葉を飲み込んで、幇禍は微笑みながら「良かったですね。 お嬢さん」と答える。
「随分心配しているみたいでしたから…」
そう言えば、婚約者は、何だか最近やけに見せるようになった、優しい花のような淡い笑みを浮かべて「…だから、メロンパン!」と表情に似合わない元気な声をあげた。


「…メロンパン?」
「そう! そのパン屋で買って帰ろう? パパの分も、勿論幇禍君の分も!」

ブンブンと握った手を振る、婚約者の指に光る、スタールビーの指輪に目を細める。

分からない。
分からないけど、闇雲に幸せだった。

そして、とてつもなく寂しかった。


「猫、助かって、本当に良かったね」

笑う顔に、笑い返せず「そうですね」と声ばかり、穏やかを装う。


婚約者が喜んでいるのは嬉しかった。
それ以上は、何も思わなかった。

猫が助かろうが、死のうが、別段、何の気持ちも動かない自分に知らないフリを決め込んだ。

いや、猫だけじゃない。
婚約者以外の命全て、幇禍にとって、本当はどうでも良かった。

だけど、そんな自分を認めるのが怖くて、怖くて、怖くて、怖くて、ずっと、ずっと、ずっと、この人といたいから、傍にいたいから、何処にも行きたくないから、一度失いかけた人だから、その時、心底怖い思いをしたから、彼女を離さない為にも、幇禍は自分は他人の命を尊んでいると認識し、思い込み、婚約者と同じ生き物のフリをして、「俺も、安心しました」と答えた。


嘘つき。


いや、嘘じゃない。


己の真心は全て貴方の為に。


ずっと、ずっと、貴方の為に。



気付いて欲しい。

気付かないでいて欲しい。



おいてかないで。

転がり落ちそうな言葉を飲み込んで、ぎゅっと婚約者の真っ白な掌を握り締めた。


この世界で 貴女だけが綺麗
この世界で 貴女だけが大事
この世界で 貴女だけが真実


他は何も

何もいらないのに…


彼女は、幇禍の孤独に気付かず無邪気な様子で、猫の話を続けていた。






目を開ければ、ギラギラと目を射る東京の夜景が広がっていた。

「っうう!」と呻き声をあげ、黒須が足元に蹲っている。
マジマジと見下ろして、その様子を眺めれば、胸部損傷、骨も何本かやられている。
内臓に傷がついていてもおかしくないその有り様を眺め、「この人、何で生きてるんだろう?」とぼんやりと思いかけ、そう思う自分を慌てて否定する為に、しゃがみこんで「大丈夫ですか?」と問い掛けていた。
「おう…畜生…絶好調…だぜ…」と呟きながら、青ざめた視線が彷徨い、幇禍を正面から眺めた。
「うあ…よりにもよって…お前か…よ…」と言われ、幾分むっとしつつも、確かに辺りを見回せば、他に人影はない…と、断じかけ、一人、ゆっくりと立ち上がる男の影を見る。

Dr。

「…あはは…黒須さん、よりにもよってメンバー、あと一人追加ですよ?」と言いながら、Drを指し示せば、「サイアク…」と呻き、黒須はぐしゃぐしゃと血に濡れた髪を掻き乱した。

どうも、デリクが事前予告していたように、巧く異空間を使って、皆を移動させる事が叶わなかったらしい。
一体、自分達を何処へ送ろうとしていたのかはわからないが、あのキメラの群れから逃れられただけでもありがたい。
Dr一人相手なら、おいそれと遅れは取る事はない。
むしろ、この結果はありがたかったかも知れないとデリクに感謝しつつ、不用意に接近して、先程のように妙な薬を掛けられる危険性を考慮して、銃で仕留めるべく構える。
キメラが散々邪魔をしたせいで、鉛玉を埋め込む事が今まで叶わないでいたが、この状態なら外す事等ありえない。


「チェックメイトです」

幇禍の言葉に、立ち上がったDrも青ざめ、そして背後を振り返った。


「逃げ場所なんで、何処にもないですよ?」

幇禍は引き金に指を掛け、躊躇なく引こうとする。
だが、それより早く黒須が「待て」と止める。
厭わしく思い、「…情けを掛けろとか言ったら、まず、あんたの頭からフッ飛ばしますよ?」と本気で言えば、「違う。 ただ、聞きたい事があんだよ」と掠れた声で言われた。

「…霧華……黒須霧華を知ってるか?」

霧華…? 聞き覚えのある名に首を傾げ、そして、ああ、確か黒須の殺された妻の名前と、幇禍は思い至る。
「霧華…?」と訝しげな顔を見せるDrに、「…俺と同じように、下半身が大蛇になる、髪の長い女だよ」と黒須が答え、Drは細めた目を見開いた。

「ああ…そうか…霧華ちゃん…覚えてましゅよ…綺麗な子でした…。 僕は随分、ボスに欲しいとねだったのでしゅが…人に斡旋する為に攫った子でしたからねぇ……なんでしゅ? あの子、蛇ちゃんとお知り合いでしゅか? 苗字が一緒って事は、お嫁しゃんか何かだったのかな?」
Drが問う声に黒須は答えず「誰に頼まれて、あいつをかどかわした?」と、静かに問うた。

「それは、教えられましぇん。 企業秘密でしゅから」
Drが、そう答えた瞬間、幇禍は、Drの腕を撃ち抜いた。


「っ、ぎゃあああっあっ!!!」

引っくり返り転げ回るDrの姿に驚きながら黒須が此方を見上げてくる。

幇禍はつまらなさに欠伸を堪え、「何か、知りたい事があるのなら、手伝いますから、とっとと聞きだして下さい」と黒須に言う。

気紛れというよりは、ここで、別の話を仕込めれば、帰った時に婚約者にしてやれる土産話が増えるという、それだけの思惑で手を貸す幇禍の行動に、黒須はそれでも、覚悟を決めた表情を見せ、「…言っとくが、こいつは、俺なんかじゃ、絶対に止めらんねぇからな。 とっとと喋った方が、痛い目を見ずに済む」と真剣な声で言う。
Drも、無表情のままに人を撃てる幇禍に、冗談でなく、嬲り殺される可能性に怯えたのか、痛みに震えながら「…よく…分からないんでしゅ…、依頼主とは…一度も顔を合わせませんでしたし…ボスも、よく把握してないようでした…。 ただ…き…霧華ちゃんの…情報だけ…貰って…組織の人間が…彼女を…攫ってきました……。 前金も弾んでくれましたし…ああいった生き物の取り扱いは…うちの組織が専売特許でしゅからね…。 僕は、ただ、大人しくさせる薬を打ち、飼い主に対して…反抗しないよ子になるように…躾を少ししただけでしゅ……。 礼金を…かなり弾んでもらいましたから……相手は、資産家である…事だけは…確かでしゅが…」とそこまで言い、涙のたまった目で首を振り、「ほ…本当に、これ以上は、知りましぇん!!」と叫んだ。

「…どう思います?」
黒須に問えば、肩をすくめ「お前に脅されても、こう言い張るって事は、これ以上本当に何にも知らないんだろう」と答えると、不意に、酷薄な表情になり「いいよ」と囁いた。

幇禍は「何を?」と問い返す野暮はせずに、額に照準を合わせて引き金を引いた。

呆気なくDrの額に穴が空いて、彼は絶命する。

「……あんた、これが知りたくて、ここに捕まるような真似したんですか?」

幇禍が問えば、黒須は「別段、そこまで考えちゃいないさ」と肩を竦める。
「組織に一人で挑むほど、無謀でもないし、それでどうなるか分かんねぇほど阿呆でもねぇ…。 でもなぁ…」
俯くと長い髪に表情が隠されて、黒須の感情が読み取れなくなる。
まるで、書かれた台詞を読むような、棒読みの声で「…言ったろ? K麒麟から子供を攫って逃げ回ってたって。 その後、白雪の力で、この組織が霧華は殺されっちまった件に、何らかの関わりがあったらしいって事を知ってな……」とそこまで言い、黒須は不意に幇禍を見上げ「我慢できなくなった」と、囁いた。


余りに小さな声だったので、幇禍は身を屈め、黒須に顔を近づける。


見上げたままの黒須は無表情で、そうすると、陰険な顔立ちは、肌の色を失っているせいか、益々不気味で、陰惨で、ああ、見ていられないと思いながら、それでも幇禍は視線を逸らさず、「我慢できなくなったんですか」と鸚鵡返しに呟く。

「あいつの居場所は、どうしても白雪は教えてくれなかったから、本当に偶然なんだよ、Drと会ったのは。 そうしたら、もう、どうしようもなくなって、あいつの後をつけていた。 どっか人気のない場所で、霧華に関して知ってる事、全部吐かせてやろうとして…」

「それで、逆にとっ捕まったと……」
はぁと溜息を吐き出すと、呆れたような、哀れむような、嘲るような複雑な目で黒須を見下ろす。


愚かだと思うし、情けないとも思った。
どうでも良いのは確かだが、それでも幇禍は、今から自分が示すのは優しさに他ならないと確信しながら、手を伸ばし血で汚れた頭をポンと一度だけ軽く叩くと、「…Dr…あんたに殺させてやれば良かったですね」と言ってやった。

黒須は、釣り上がったキツイ眼差しを緩ませて「ありがとう」と礼を述べた。
そのやり取りの、異常さになど、一切二人は気付かずに、その瞬間だけ、もしかしたら、今までの付き合いの中で初めて視線を合わせ、そして、次の瞬間には、もう、お互いの目など見れなくなっていた。

自分ならば、もし、自分の婚約者が同じ目にあっていたとしたら、「躾をした」等と抜かす相手を、簡単には殺してやらなかっただろう。
思いつく限りの中で、多分一番残虐な生かし方するに違いないと確信する。
死ですら生温い、地獄があるという事を、きっと、相手に思い知らせていただろう。


「さて…と、他の方々が何処にいったのかは分からないんですけどね…、この下に、オークションの会場があって、そこで、竜子さんが暴れに暴れまくっている筈です。 無事な姿を見せれば、喜びますよ」

そう幇禍が言うのを聞いて、何だか複雑な表情をし「あいつ来てんの?」と黒須は言う。
「ていうか、こういう自体に、あの人が来ない訳がないでしょう?」と幇禍が言えば「まぁ…そうだよな…」とあっさり納得して、それから、しゃがみ込んだまま、縋るように幇禍を見上げてきた。

「…なんです?」

そう半眼になって問えば、黒須は視覚的ダメージを大いに理解しているだろう陰険さでもって「立てないから…だっこv」と、小首を傾げて言ってくるうん、コロス。

流れるような思考の帰結により、躊躇なく銃を黒須の額にくっ付ける幇禍に「ぎゃーー!!! この人、本気の目をしている!!!」と黒須が喚く。
「心的外傷を蒙った損害を賠償していただく為、とりあえず、その命を頂きます。 それ位で済む事を、俺の慈悲の心に感謝してください」と真顔で告げれば、「ていうか、やめて!! 引き金に指を掛けるのは!! あと、半笑いになってるのも怖いよ!! すげぇ、怖いよ!!!」と喚き散らし、冗談でもなんでもなく、鉛玉を額に喰らわせようとした瞬間だった。
本能的に銃を握る手が跳ね上がり、中空にて視界に入った黒い小さな球体を撃ち抜いていた。

ドン!!と鼓膜を揺るがす音を立てて爆発する姿を見てから、ソレがDrが倉庫にて幇禍に投げつけてきた爆弾であった事に気付く。
爆風に煽られながら、黒煙の中立つ人影に些か驚く。


「…間に合って…良かったでしゅ…」

その声は、間違いなくDrのもので、幇禍は自分が彼を撃ち損じた可能性が万に一つもない事を確信した上で即座に、彼が「ただの人間じゃない」可能性に思いを巡らせた。

キメラを造っている人間が、自分自身をキメラ化していたとておかしくない。

案の定、黒煙の中広げられたのは大きな蝙蝠の羽。

「リミッターが完全に外れるのがもう少し遅れていたら、死んじゃうところでした」

そう言いながら、薄れゆく煙の中で、Drが立ち上がり嗤って幇禍に言う。

「残念でしたね?」

幇禍は、その言葉を効き終わるより早く、連続して銃弾を叩き込む。
寸分違わぬ同じ場所に、命中させ続けるという離れ業を見せながら、同時にDrが仰け反り、血肉を飛び散らせながらも、損傷よりも早いスピードで、その体を再生させていっているのを悟り、むしろ、直接致命傷を与えた方が良いと判断して、接近戦にシフトする。
Drが爆破したキメラ達が、首に埋められた爆弾によって死を迎えていた事を鑑みると、首、心臓等を破壊すれば、Drも命を永らえる事はできまいと確信すると、弾切れになるまで45口径の威力の高い拳銃にて連続でその体を撃ち抜き、破損の状態を少しでも深刻にしておくと、Drが再生に集中している間に走り寄り、その心臓を狙って、懐から取り出したサバイバルナイフを突き立てようとする。
だが、銃弾を喰らっても、傷一つ付かなかった蝙蝠の羽が、接近した幇禍を、その鋭い鉤爪で引き裂こうとするかのように薙ぎ払ってきて、手間取っている間に、Drの肉体は再生を終えてしまった。
何にしろ、再生のスピードが尋常じゃない。
バックステップにて、Drの攻撃から逃れる幇禍の視線に床に転がっている、空の注射器が目に入った。

「リミッターとやらの解除は、クスリで行ったのですか?」と幇禍が問えば、「自分を改造する時は、普段は人の姿を保てるように注意したんでしゅ」とDrが答える。
「任意のタイミングで、キメラ化できる薬を開発するのは一苦労でしたが、その甲斐もありました!」
蝙蝠の羽で自分を多い、幇禍の銃撃を防いだ後で、弾切れの隙を狙って、小型爆弾を投げつけてくる。
銃撃音と、爆発音の轟音が連続して鳴り響く中、黒須が、喉を震わせ唐突にDrに問うた。


「お前は!!!」


Drが、黒須に視線を向ける。


「お前は…一度もなかったか?」


「何をでしゅ?」


「後悔だよ。 キメラを造る事にだ」


Drは、不思議そうに目を瞬かせた。

「なんででしゅ? 人は、醜い。 耐え難い程に。 僕は、そんな生き物を、少しだけ綺麗に可愛くしてあげた。 感謝されこそすれ、恨まれる謂れはないし、況や後悔する理由が見当たりましぇん」
「…命を弄んでんだぞ?」
Drは益々目を瞬かせ、それから、何故か幇禍を見た。

「あんなコト言ってましゅよ?」

黒須を指差し、Drが言う。
まるで、親しい友人に言うように。
まるで、同志に意見を求めるように。

まるで、自分と幇禍が同意見であるという事を一切疑わないような声で、「命なんて この地球上には 吐き気がする程溢れていましゅ。 そんな価値のないもの、大切も何もないでしょう? たくさんあるものだから、僕の玩具になる分だって あっても何の不思議はないのに」と言って笑った。


「君も、一緒でしょ? 自分にとって、大事だと思える人以外の命なんざ ゴミと変わらないんじゃないでしゅか? 自分自身の命すら。 だって 君の目」


Drが、幇禍の金色の目を指差して「…誰を見る時も、人形の目をしていましゅ。 命のない、目」と指摘し「綺麗でしゅねぇ…ガラス玉みたいで」と微笑んだ。


一緒?
こいつと、俺が?


馬鹿な。

鼻で笑おうとして失敗した。

だって、実際分からないんだもの。
黒須が言ってる言葉の意味が。

命を 弄ぶって なんだっけ?

俺にはお嬢さんが全部だから

お嬢さんが猫が助かってよかったって笑うから同じ気持ちになるんだ

他は、何も分からない。

だって……本当は……お嬢さん以外いなくなっても、俺は平気だもの。


それっていけない事なのか?


誰がそんな事を決めたんだ?


もし、お嬢さんが決めたなら、俺は……。



俺は こいつとは 違う 絶対に。


Drに、人形の目を向ける。

「自分の命すら、大事じゃない…ですか。 まぁ、確かにそうです。 俺は大事な人が望むなら、いつ死んだって構わない。 …貴方、大事な人の為ならば、どんな事でも厭わない…と仰ってましたけどね、"どんな事"の中には、自分の命なんて入れて無いでしょ? ボスに目的を遂げさせた後、自分も生きて隣に立つって考えてるでしょ? そんな半端な貴方に、大層な口叩いて欲しく有りませんよ」
笑みを含んだ声で、幇禍は言う。

風が強くなり始めていた。
羽が強風に煽られバランスを崩すのを防ぐ為に、Drが一旦羽を折り畳む。

負ける気は一切しなかった。
何と言っても相手は、素人。
キメラだろうが何だろうが、実際の戦闘は何より経験が物を言うのだ。

Drが投げるあの爆弾。 宙を飛んでいた蝙蝠型のキメラに蹴り飛ばしたなら、一気に何匹かを撃墜させられた。
爆弾は、投げられてから爆発までに僅かなれどタイムラグがある。
その間に、あの眉間めがけてでも、倉庫での攻防と同じ要領で蹴り返してやれば、銃弾で受けるダメージを再生するよりは、Drも手間取る事だろう。
その隙に、心臓にナイフを喰らわせてやればいい。

そこまで算段し、「もう、逃げられませんよ? まぁ、ここから観念して飛び降りるっていうのなら、止めはしませんけど」と余裕の気持ちで言いながら、銃を構える。

「貴方みたいなの、嬲ったトコで大変つまらないので、ここで終わりにしましょう?」

淡々とした声。
Drの命など、斟酌するに値しない。

婚約者以外の、どの生き物に対しても、同じ気持ちを抱く幇禍は、ある意味では、酷く平等で、一つの姿勢を本人が望まざるとも貫く、近寄り難さに満ちていた。


Drは微かに笑うと「…終わり? 僕が? ましゃか…」と囁いて、それから両手を軽く広げて首を傾げた。

「ここからでしょ? 面白いのは」

コロコロコロと軽い音を立てて、足元に黒い小さな球体が転がってきた。
丁度良いタイミングで…とほくそ笑み、先程思案した作戦を実行しようとした瞬間だった。


「危ねぇっ!!」


聞いたことのある声だった。

振り返ろうとして、誰かに頭を捕まれたように体が動かなくなった。


知らずに天を仰いでいた。


祈るように。

祈るように。

いない神様を必死に探した。



つ か ま え た



運命の声が 幇禍の鼓膜を手酷く引っ掻いた。





体が浮く。
誰かに抱えられて。
仰け反る視界が、逆さまの世界の中で、一人の男の顔を収めた。





嗤い出したくなる程に


それは己と同じ顔をしていて



なのに 綺麗で 綺麗で 泣けるほどに綺麗で



もがくように手が宙を彷徨い


小さな声で 呼んでいた



お嬢さん




俺の 神様




パン! パン!! パン!! と爆弾が弾ける音が響いていた。


まるで、花火の音みたいだと幇禍は感じた。


夏祭り

一緒に行った


花火が綺麗で 彼女の横顔はもっと綺麗だった


 
遊園地も 一緒に行った

メリーゴーランドに乗る彼女を いつまでも いつまでも見ていた

プールでも一緒に遊んだ

水着コンテストにも出た

雪遊びを一緒にした

酷い風邪をひかせてしまった


今生の別れを覚悟した時もあった

彼女と一緒にいる時だけが 幇禍は自分が心底人間であると信じていられた


彼女が笑ってくれればいい


幸せでいてくれればいい


怪我をせず 病気をせず 誰よりも幸福になれるのなら


ああ 俺は


ああ 俺は


もう 傍にいられなくたって 良いのだと 分かった。




愛している



こんな時に思う



愛している 彼女を


幇禍が、唇をゆるりと開いた。
全く同じ顔の男が、全く同じ形に唇を開けていた。



会いたい 今 お嬢さんに会いたい




「「ずっと お会いしとう 御座いました」」



声が重なる。

無表情のまま、幇禍の目の淵から透明な雫が転がり落ちた。



何を想って泣いたのか、自分でも判然としなかった。

否、分かりきっている。

俺はお嬢さんの為にしか泣けない。




同じ顔の男が、同じ速度、同じタイミングで涙を一粒零した。

理。

歯車が、噛み合う音が幇禍の脳裏に響いた。

幸せに


した い


お嬢さん 俺の お お嬢さん


大事 本当に 大事 な のに


いやだ

奪わない で


他に 何も持ってないんだ 俺は


奪わないで 俺から お嬢さんを


会えなくて良いよ


もう 会えなくて良いよ

抱きしめられなくて良いよ

キスできなくて良いよ

寒い場所に閉じ込められても良いよ
体を何十遍、何百編焼かれたって良いよ
全身を刺し貫かれたって痛かないよ

あの人が泣くより 痛くないよ
痛くないよ


あの人を不幸にするくらいなら死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ死にたいんだ







「おとーさま ゆるして」



悪い 俺を 許して

そして 見逃してください


あの人を


俺の神様

俺の全て

俺の真実


俺の 俺の 俺の……

「お嬢さん……」


もう 声すら出なかった。

音にならないその言葉は、空中に四散して、東京の空を少しだけ寂しくさせた。


つまり 幇禍は 分かっていたのである。


己にこの後訪れる悲劇を



『理に殉ぜよ』


頭の中に声が響いた。


月が明るい夜だった。


金色よりも、尚濃い、蜂蜜めいた色をした月の下での出来事だった。


『幇禍君。 大好き』


世界で一番幸せな幻。


笑って、そう言いながら手を伸ばしてくる、婚約者の幻想を最後に、幇禍の意識は事切れた。



「♪Humpty Dumpty sat on a wall
 ♪Humpty Dumpty had a great fall
 ♪All the king's horses and all the king's men
couldn't put Humpty together again」


心が堕ちる。

墜ちる。

落ちる。





幻でも良いから、あの白い綺麗な掌を握り締めたかった。





「…おい!! 幇禍!! 幇禍っ!!」

体を揺さぶられ、ハッ!と意識を取り戻した。
ガバ!!と跳ね起きれば、火傷だらけの竜子がぽかんと幇禍を見ていた。

「…竜子…さん?」

パチパチと目を瞬かせた後、辺りを見回し、そこが屋上である事に気付く。

「あ…れ…? ここ…は?」
「メサイアの屋上だよ」
「…っ…あ…」

「あ?」
「熱い?! な、んか、熱いんですけど?! あと、痛い! 痛い! 熱い!! そして痛いっ!!」

そう訴える幇禍に、「いや、お前も、すっげぇ火傷してっし」と指差され、自分の掌を幾つかの水ぶくれが出来ていた。
咄嗟に髪を毛に手をやれば、チリチリと熱のせいか縮れてしまっているものもある。
「なんで、俺こんな状態なんですか? ていうか、さっきまで、俺、黒須さんといた筈なんですけど…」と竜子に訴えれば、「誠?! え? 王宮に連れてかれた訳じぇねぇの?!」と彼女が驚いた顔を見せる。
「…王宮? 千年王宮ですか?」
「おう。 ていうか、お前ら、一体何なんだよ…。 『蘇鼓』とお前はよぉ…」
そう何だか疲れたような声で言う竜子が口にした名に、幇禍はまた瞬く。

ギシリ
歯車の噛み合う音。

知っている。


『蘇鼓』を俺は知っている。


『蘇鼓』は…俺の…。


声ばかり柔和に「兄弟です」と告げていた。
「兄弟?」
「はい。 生き別れてたんですけどね、何か、ひょんなトコで再会しちゃいました」
そう軽く言う幇禍に呆れた声で「再会しちゃいましたって…」と呻く。
「なんか…決まりだとか言ってよぉ…お前の事、どっかへ連れてこうとしてたんだぜ?」
竜子に言われ、「ああ、しょうのない兄貴だ。 すいません。 なんか、後迷惑掛けたみたいで…」と形ばかり謝れば「あ…いや…」と竜子は戸惑い、そして首を傾げた。

「いい…んだよな? あたい、あんたの事、連れて行かないように蘇鼓に頼んだんだけど、それで良かったんだよな?」

そう不安げに問われ「ええ、勿論です。 あの人、強引だから、知らない間に、この国の外にすら連れ出されてたかもしれない。 助かりました」と幇禍は笑う。

歯車の音が脳ミソをギシギシと揺らしていた。

理…。

従わねばならぬ。

ああ…会いたや…会いたや…愛しい、愛しい、あの娘に、迅く会いたいものぞ。
恋し、恋しと、胸中で乞うて、幇禍は見事な月が出ている空を見上げて嘆く。


「…お嬢さん」


早く………




あの 人の全てを この手の内に。


『産まれ出ずりまする。 新たに、産まれ出ずりまする。 盟約により、新たに産まれ出ずりまする。 て、敵はいずこにおわしましょうか?』

約束したんです。


あの人を 殺すって。


『敵! ああ! おわすか! そこにおわすのか! 貴様だ! 敵だ! 敵だ! 殺す! 殺す! 殺す! 待っていろ! 必ず、殺す!』


確かに約束した。


だから、ずっと待ってくれていた。

ずっと傍にいてくれた。

ずっと あの人は 俺の手に掛かるのを待っていた。

なんて なんて 可愛い人だ!


「早く 帰らなきゃ」

あの人の元へ。

大事に 大事に 大事に 殺すために。

愛している。


だから、殺す。


理に殉じた。
己の想いも譲れなかった。

結果、歪んだ。


殺す。

愛故に。


殺す。

この上なく、大事に。


「…ケリを付けに行きましょう」

幇禍が立ち上がると竜子は、ポカンとその姿を見上げてきた。

「…どうしました?」

疑問に思って問えば、竜子は何故か呆けた顔で「…お前、幇禍だよな?」と問い返された。

幇禍が質問の意図を図りかね、「他に、俺にそっくりな人は、もういませんよ」と軽くいなす。

火傷の痕は、もう既に消え去っていて、最早その事を不思議に思う愚を、幇禍は犯さなかった。

まぁ、そういうモノであると納得する。
火傷を負っていた理由も、何だかどうでも良くなって、自分の中で、Drの爆風を受けて負ったものという風に処理する事に決め込んだ。


理やら、盟約やら、その概要は、雪崩を打つようにして脳内に溢れているが、情報の整理は全てが終わってからで構わない。
一番大事な事は、今は、あの人との約束を果たす、それだけの事。
あとは、この身の上、如何様にしてもらおうと構わなかった。

一刻も早く、婚約者との約束を果たす為にも、今の状況に決着を付けねばならない。
彼女に会いたい余りに、途中でバッくれようかとも考えたのだが、そんな結末は婚約者が許さないような気がして、きちんと最後まで見届ける事を好奇心旺盛な彼女が望むような気がして、幇禍はこれから、どう動くべきかを思案していた。

自分の中で、婚約者を想って行動する愛情と、彼女に向けられる殺意は全く矛盾せずに存在していて、無垢で純粋な殺意というのは最早愛情に似たものであるのだなという事を、彼は自らの有り様を持って具現していた。


人間として稀有な感情状態に置かれている事を鑑みて、自分が異常なである等という事実には、微塵も思い至らなかった。

とりあえず、屋上の出口に立ち「→WC」と書かれた方向を指差して「幇禍! 幇禍! こっちが会場だ! あたいに、ついてきなっ!」とウィンクまでして、自信満々に告げる竜子に「竜子さんについてく位なら、俺、棒とかを立てて、手を離してから棒が倒れたほうに進むとか、そういう運任せで進んだほうが、間違いなく目的地に辿り着ける可能性が高い気がします」と心からの声で言い、その首根っこを掴んで階段のある正反対の方向へ向かおうとする。

だが、一歩足を踏み出しかけた時だった。

背後で、コンクリートを打ち砕く、轟音が響きあたり、足元がガタガタと振るえ、思わず、幇禍は膝をついた。

「ひゃああああ!!! なんだぁぁぁぁ?!!」

竜子が素っ頓狂な声をあげつつ頭を抱えて、亀のように蹲り、煙が上り、コンクリートが砕かれた事によって発生した土煙が収まるのを待つ。

ずるりと何かが這う音が聞こえた。

視線を向けて息を呑む。


幇禍は心底驚かずにいられなかった。


何十本じゃ効かないだろう。
何百本もの腕が、その体から生えていた。

まるで、醜悪な鬣のように。

全長は何m程になるのか…。

何しろ、あの無駄に天井の高かったフロアを突き抜けて、その顔が屋上に覗いているのだ。

ヘリポートになっていた屋上の床は無残に破壊し尽くされ、その直下にある「背徳」のフロアが覗けた。
その淵から覗き込めば、下にいる、エマやデリク、それに見知らぬ若い男女の姿も見れる。
確か、薔薇姫として展示されていやしなかっただろうか?
見覚えのある、美貌の男女を仔細に観察する暇もなく、ぬたりと不穏な速度を持って、夥しい程の数の手に覆われた中に覗く、不気味な目玉こちらをぎょろりと眺めてきた。


「う…ええっえ…な…んだ…こいつ…」


竜子が吐き気を堪えるような声で言う。


歪な異物。

何百もの人を無理矢理合成したような、それはそれはグロテスクな化け物。
巨人とみるには「人の範疇」から余りに外れ、されどこれまでのように獣と人との合成とみるには、その姿に一切の獣の姿を見る事はできなかった。

よく見れば、たくさんの腕に覆われた、その顔の下に続く体には、これまた夥しい程の数の人の顔が浮かんでいる。

「…っ…あ……き…もちわる…ぅ…」

竜子が呻く声を聞いたのか、ザザザザザと不気味な漣めいた音をさせながら、顔を覆う腕が動き、その下から大きな穴の如き鋭い牙がびっちりと生えた口が覗いた。
「あ”…あ”…あ”あ”あ”…」

酷い匂いのする息を大量に吐き出しながら、唸り声のようなものを、その化け物があげる。

すると口中より、ぞろぞろと、大人の拳大程の黒に黄色い斑点の散った不気味な甲虫がぞぞぞぞ…と溢れ出てきた。

どろどろとした粘液に塗れた甲虫達は、ジジジジジと羽音を立てて空中に浮かび、
一気に幇禍と竜子二人に襲いかかり始めた。

いちいち撃ち落せる数じゃない。

速攻で判断すれば、階下よりエマが「逃げなさい!!! その蟲は、溶解液を吐き出すの!! 降りてきて、こっちに合流してっ!!!」と叫ぶ。

竜子と顔を見合わせて、幇禍は即座に状況を判断し、彼女の手を引っ掴むと、ぐいっと引っ張り、気持ちの悪い蟲の群れに突っ込んだ。

「っ!!! ぎゃーー!!! ねばねばしてるのが!! 触った!! 触ったよう!! うがぁっ!!」
喚く竜子に、「馬鹿!! 口を空けてると、蟲、食べちゃいますよ?!」と、怒鳴りながら、化け物が突き破った床より一気にフロアに飛び降りる。

途中で、竜子を抱き上げて、そのまま、床に降り立てば、何だか、「やんややんや」とそこにいたメンバーに喝采で迎えられてしまった。

「ヒーローみてぇ!!」
「凄いわ! なんか、映画とかでしか見たことないもの!!」
「いやぁ、流石幇禍さんでス!!」
そう褒め称えられ「いや、それほどでも…」と言いつつも、分かりやすく照れてしまった。

溶解液とやらのせいか、上等なスーツの所々に穴が開いてしまったが、一気に走りぬけたせいか、肉体にまで傷は負ってない。
竜子も、素肌に浴びたところから、血が滲んではいるが、いずれも致命傷ではなく、これで、彼女に、自分に婚約者の命を奪う機会をくれた恩は返せたと、幇禍は安堵した。
あそこから、階段を降りて、このフロアに向かう手段を選択していたならば、その途中で蟲に追いつかれ、溶解液にて肉塊にされていた公算が大きいだろう。

それよりは、むしろ、敵の不意をつき、攻撃の最中に飛び込んで活路を見出した方が良いと判断した己に間違いはなかったと確信しつつ、デリクが空間を歪め作り出した防護壁の中で、漸く一息ついた。

だが、そんな最中、「ていうか、あいつは、大丈夫なのか?」と凄く戸惑った真面目な声で、薔薇姫時には黒薔薇モチーフの十二単を身に纏っていた和装美少女が、化け物の屋上に突き出してしまった頭の辺りを指差した。
「曜ちゃん…大丈夫…黒須さんは、無闇矢鱈に丈夫だから…」
にこりと笑いながら、何だか、大変いい加減な調子でそう言うのはエマで、曜と呼ばれた少女が「いや…えーとだが、なんか、白目をずっと剥いてるんだが…」と、小声で訴えども「大丈夫、大丈夫」とニコニコしながら「私、黒須さんの事、信じてるもの」となんか良い台詞風の事を爽やかな声で言う。

そのやり取りの意味を掴みかね、視線を曜が指差した方向に向ければ、そこにはうぞうぞとした化け物の顔を覆う手に掴まれるようにして、なんか、下半身が大蛇のまま、逆さ吊り状態の、それだけで、うん、かなりホラーとして成立するね!!な、黒須の姿があった。

「ぎゃーー!!! 誠ーー!!がなんか、もう、なんか、えーー?!!! 凄い大変な事になってるのは分かるんだけどあたいの言葉では説明しきれない事にっ!!!!」

そう喚く竜子を他所に、「…ぶふっ…!!!」と、思わず、幇禍は噴出しかけてしまった。

檻の中での瀕死状態も、かなり爆笑ポイント高かったが、こっから更に逆さ吊り姿まで披露されて、腹が捩れ切れそうな苦しみすら味わう。

(く…くく…黒須さんのばかー!!! 面白すぎる!! 爆笑兵器か!!! 俺専用、究極の爆笑兵器かっ!! こ、このままでは、殺されてしまうっ!!!)

分かってる、笑っちゃ、まずい。
ここは、駄目だ。
そういう最低限の空気位、幇禍はばっちり、しっかり読める、そういう男でありたいと願っている。

んが、白目を剥いたままの黒須が何か、振り子っぽく、左右に体を揺らしている姿を目に納めるにいたって、しゃがみ込み、耐え切れず床を叩きながら体を震わせてしまった。

その様子を何を勘違いしたのか竜子が「幇禍…誠の為に…そんな風に怒ってくれるだなんて…お前、ほんと良い奴だな…」と頓珍漢な事を言い、更に、幇禍の爆笑に拍車をかけてくる。

(こ…殺される!! お嬢さんとの約束云々の前に、ここで、笑い殺されてしまう!!)

かなり間抜けながらも切実な幇禍の危機を救ったのは、他ならぬ、その化け物の攻撃だった。

「…っ!! 防ぎきれませン!! 皆さン、避けテッ!!!」


デリクが叫び、それぞれが、めいめい各所に四散する。

「あ”!!! あ”あ”あ”あ”ぁぁぁぁ!!」

化け物の叫び声。

「蘇鼓!!!」

そう幇禍に声を掛けながら駆け寄ってきた、ゴシックな衣装に身を包んでいた美青年が、不意に立ち止まり、「あれ? 蘇鼓…じゃねぇ?」と首を傾げる。
この人は、兄の知り合いか…と興味深く思いつつ「魏・幇禍と言います。 兄がお世話になっています」と告げれば、キョトンとした顔をして、「え? それって、蘇鼓の本名じゃねぇの? ラジオネームが蘇鼓でさ」と呟いた。

ラジオ…ネーム…?と、幇禍も同じくきょとんとすれば、突然頭上に影が掛かる。

「いっ?!」と見上げれば、化け物の顔を覆っていた腕達が、ぞぞぞぞ…と此方に向かって、触手のように伸びてきて、その掌からダラダラとこれも、溶解液だと思われる粘液を生み出し、二人に浴びせようと追ってきた。

粘液で溶かされるよりも、下手に捕まれば、あの手の群れに四肢を引き裂かれる可能性の方が高いと、本能で悟り、嫌だ、溶かされながら、八つ裂きとか、凄くいやだ!!と真っ当な感想を抱いて、とにかく逃れる為に走り出す。

夥しい腕の群れに並んで後を追いかけられながら「うぎゃああ!!」と、叫びつつも、肝が据わっているのか「お…俺は嵐! とにかくっ! お前は、蘇鼓の弟なんだな?!」と確認され、幇禍は頷きがてら、後ろを振り返りもせず、両手を素早く脇の下に通して、撃ち離す。
幾つかの化け物の腕が零れ落ち、血を撒き散らしながら、床でのたうつが、到底本体にまで銃弾が届かず、追って来る速度も変わらず、チッと幇禍は舌打ちして、それから、先程覗き見た、この怪物の目を直接射抜ければ、まだしも効果はあるだろうか?と思案する。

曜が紙の札を空中に投げ、印を結ぶと、無数の鬼が召還される。
(術者なのか……)
その術の形態に見覚えがあった為、陰陽師辺りだろうと当りをつけて、「若いのに、渋いなぁ」と感嘆する。
彼女の背後に生み出される鬼達に、「行けっ!」と曜が命じれば、一気に化け物に飛び掛って行った。

化け物の体中に飛びつき、噛み付き、その口中に放り込まれ、踏みしだかれ、鬼の肉の潰れる音、骨が噛み砕かれる音が響く。
チラリと視線を送れば、化け物に食い荒らされる鬼達という、余りに猟奇でグロな光景に「うわぁお」と外人風味に呻いてしまい、その光景を作り出す一端を担った曜が、鬼共が食い荒らされるに従って、その身に纏う力を増していっている事に、脅威を抱いた。

あの娘 化け物に喰われた鬼の 怨みつらみ 無念 苦しみ 全て喰って 己の力に換えている

「私の背後に回れ!!」

曜の言葉に従い、彼女が作り出した、無数の鬼の防壁の背後に回る最中、その背中に「あの手の中に、大きな目が見えたんです。 あすこを攻撃できれば、ダメージを与えられるかもしれない! 顔を覆っている腕を、何とか退ける事は出来ませんか?」と声を掛けた。
曜が振り返り、一瞬思案の表情を見せた後「考えてみる」と一度頷く。

そして、鬼の数を更に増やすべく、再び札を空中に四散させた。

悪夢めいた光景は陰惨を極め、階下フロアにいた人間や、ビル外の者達が騒いでいる声も聞こえてきた。
人が集まりだしている。

「不味いわね…」

駆け寄ってきたエマが、小さく呟く。
確かに、騒動になるのは、色々と差し障りが在る。
出来るだけ迅速な決着の方法を考えながら、ふと、突然目の前に現れ、追い回される事になった化け物の正体が今更気になり、口を開いた。

「…一応お聞きしたいのですが……」


幇禍は、掠れた声で聞く。

「あぁ?」と嵐が問い返すより早く「アレ…って、もしかしたら…呉虎杰だったりします……?」と、化け物を指差した。

Drには蝙蝠の羽。
王宮には、兄によってキメラ化したチェシャ猫。


だったら、この場所にて、化け物に化して自分達の前に立ち塞がるに相応しいのは、虎杰しかいないだろう。

嵐は数秒瞬いて、瞬きを続けたまま「ぴんぽーん」と低い声で言う。

「あれ…は、キメラなんですか?」

そう問い掛ければ、いつの間にか、すぐ傍に立っていたデリクが「完全体でス」と言って、にやりと笑った。

おや?と、幇禍は首を傾げる。

いつになく、デリクが憔悴しているように見えたのだ。
詭弁とロジックの魔術師の余裕のない姿に驚いて、マジマジと興味深く思って眺めていると、その視線に気付いたのか、いないのか、それでも飄々とした口調で「キメラ開発の慣れの果テ。 進化の先を目指した行き止まリ。 ねぇ、人は、もう、進化を終えているって説を、ご存知でス?」と、デリクは言った。
エマが、「ああ、聞いた事ある。 これ以上、外見上の変化は人間は齎されないっていう奴でしょ?」と
言えば、デリクは頷き、「環境にあわセ、その形態を長い年月をかけて変えていク、その『過程』を進化と呼ブ。 人間は、現状で進化の果てにアルという事が科学の力でもって証明されてしまっタわけですガ、あの男は…Drは己の仕える人間ニ、その先の生き物となる為の手術を施したのでしょウ。 材料は、獣でなクテ…『人』。 進化の果てに行き着いた同種の生き物を掛け合わセ、合成サせ、際限なく膨らませタ、異形の『キマイラ』…。 なんと醜い……。 Drが己のコンプレックスすら注ぎ込んで出来上がったあノ、異形、早く壊して差し上げねバ、むしろ気の毒というものでしょウ」と、虎杰を指差しデリクは滔々と延べる。
エマも「まぁ…早くなんとかしないと、流石に黒須さん死んじゃうかな?って感じだしね」と言いながら、はふっと息を吸い込んだ。
「……五秒、私がジェスチャーで合図を出すから、みんなそれまでしっかり耳を塞いで。 出来るかどうか、自分でも不安だけど、超音波。 あの、体の表面に浮き出ている人間の顔達。 確り見ると、耳も、ちゃんとみんなついてるのよね。 あの、顔達の耳の鼓膜を、超音波使って傷付けられるか試してみる。 巧くいけば、あの腕を退けられるチャンスを作れると思うし…」
「そうすれば、俺が、あの化け物の目を撃ち抜ける…と」
エマの言葉に続けて幇禍は呟いた。
「…隙さえ作って貰えば、後は私が斬り込む」
そう凛と告げる曜に、デリクが「ならば、出来るだけ迅速ニ、そして危険なく接近できるよウ、空間を歪めた穴でお運びしまス」と、提案する。
そんなデリクを、心配げに振り返り「大丈夫なのか? 顔色が悪い。 力を行使しすぎじゃないのか?」と案じる曜。
確かに、元より白い肌をしていたが、今は青ざめ、完全に血の気が引いている。
幇禍が覚えている限りでも、かなり無茶と言える力の使い方をしていたし、幇禍が知らぬ場所でも、きっと、随分、己が力を使って、皆をサポートしてきたのだろう。

こんなに我が身を省みないような、そんな行動が出来る男だったとは…と己の抱いていた印象と、異なる姿に少し驚く。

「…決めたのデ…。 全力を尽くすト」

そう言って笑うデリクの顔がいやに晴れ晴れとしていて、少し幇禍は羨ましくなった。

「…あたいも行く」

竜子が、マシンガン片手に、デリクに告げる。
「曜が、あいつに一発食らわせる、手伝い位は出来ると思うから、あたいも一緒に運んでくれ」と竜子が言えば「俺も、行く」と嵐が、紅色の美しい剣片手に、そう宣言した。

「俺も、全力尽くしてぇんだ」

曜を真っ直ぐな眼差しで見て言う嵐に、何かを言いかけ、困ったような顔をして、竜子と嵐を交互に見比べ、そして、「ふう…」と溜息を吐く。

「死んだりしたら…地獄まで追っかけて、お前ら二人とも、引きずり戻してやる…」

本気極まりない声で、随分怖い事を告げ、「だから、私にいらん手間を掛けさせない為にも、絶対に死ぬな。 絶対にだ」と、曜は美しい眼差しで、二人を見据えて、願うように告げると、ツイと虎杰に視線を向けて、「では、化け物退治と参ろうか」と、淡々とした声で言った。



エマが大きく息を吸い込む。

「OK?」と指のジェスチャーで見せつつエマが、周りを見回すと皆、両耳を手で塞いで頷いた。
幇禍も、しっかり耳を塞いで、コクンと頷き、エマが、やや緊張の面持ちをしつつ、虎杰に向かって口を開く。
さほど大きく開いたわけでない、エマの綺麗な形の唇からいかなる音声が漏れているのか、
エマ自身も耳を塞ぎつつ、目を細め、額にうっすら汗を滲ませながら、無表情に声を出している。

すると、最初のうちこそ、然程の変化の見られなかった虎杰が、突然その大きな体を折り曲げ、「あ”ぁぁぁっっ!!!」と耳を塞いでいても、鼓膜を揺らす苦悶の声を上げ始めた。

ゾゾゾゾと、腕がまるで反射神経であるというかのように、本体へと収縮し、そして、無数に浮き出る顔という顔についた両耳を、各々の手が塞ごうとする。
その動きによって、腕の守りが失われ、むき出しになった目玉を幇禍が視認するかしないかのタイミングで、エマが「やっちゃって!!!」と叫びながら、虎杰を指差した。

間髪いれず、幇禍は、その目玉に連続して銃弾を叩き込む。
引き金を引きながら、弾切れと同時に素早く地面に投げ捨て、全身兵器と呼ばれても否定できぬ程の数、全身に仕込んである武器を惜しげもなく披露し続けた。

目玉が弱点の見た幇禍の予想は当り、痛みに身を捩じらせ、その猛攻を前に、虎杰が首を仰け反らせ、ガスン!!と轟音を立てて膝をつく。

「今でス!!」

デリクが叫び、素早く空間の歪を作り出せば、一気に竜子、嵐、そして曜の順番で飛び込んだ。

虎杰の頭上に、バチバチと空気を切り裂く時の摩擦音なのか、耳障りな音を立てながら黒い穴が生まれ、中から、まず竜子が飛び出す。
落下しながら、目の周囲を守る腕に銃弾を当て、派手な光を撒き散らしながら、その動きを止めると、ついで現れた嵐が、その剣を、目玉を切りつけた。

火花が弾けるような派手な音と、閃光に目玉が細まり苦しげな咆哮が響き渡る。


「黒須さんっ!!! お願いっ!!!!」   


エマが、突然叫ぶ声に、逆さ吊りにされていた黒須がいつの間にか、その長い尻尾を使って、ぐるりと無数の腕の間を掻い潜り、虎杰の首をミシミシと、骨の軋む音が聞こえる程に締め上げ出す。

にいっと笑う、その顔は血に濡れ、何処か狂っていて、それは間違いなく、黒須の顔なのに、見間違いようもなく、黒須誠の姿をしているのに、その顔に、美しくも艶やかな、一人の女の顔が重なって見えた。

にいいいっと裂かれた唇から「観念するんだな…」と、怖気を奮うような、何処か甘美な声が漏れる。


「お仕置きの時間だよ…」


女とも、男ともつかぬ声が黒須の唇から零れ落ち、幇禍は本能で察した。


「霧華さん…」

憎い敵を前にしたからか、黒須の体の中に眠る、彼女の魂が表出している。

幇禍の呟きに、エマが反応し、此方に顔を向けてきた。

幇禍も、エマの顔を正面から見返して、ああ、エマさんは、少し、霧華さんに似ている…と、黒須の顔に重なった霧華の面影を思い浮かべて、幇禍は心の中で呟いた。



そして


穴の中から


長い髪をたなびかせながら

全ての幕引きを請け負った少女が一人、虚空より降り立つ。




剣を真下に構え、「覚悟!!」と叫んで、曜が容赦なくその目玉に剣を突き立てる。



パキン!!!とガラスが割れるような音がまず聞こえ、そして、一気に、その目玉から真っ赤な血飛沫が吹き出した。



「あ”あ”あ”あ”ぁぁぁ!!!!!」

断末魔の声を虎杰が上げる。





曜は振り返りもせず、素早く黒須を横抱きにして、床に降り立ち、そのまま虎杰から、一目散に離れた。




虎杰が硬直したまま、前のめりになり、そして轟音を立てて崩れ落ちたその姿を息を呑んで見つめていた。



すると、暫く後、ゆっくりと、その体が溶けるように分解され始める。

無理矢理に合成されたと思わしき人の体が一人、また一人と本体から崩れ落ち、そして風に吹き荒ばれ、粉に変じて消えて言った。

サラサラサラと風に吹かれ、どんどん小さくなってく虎杰の、その核に、元の姿と思わしき一人の男が倒れている。


これが、虎杰の人間時の姿。

倒れ伏したまま動かぬ姿に、息絶えたか?と思えども、虫の息なれど、まだ微かに意識はあるのか、その掌がザリザリと音を立てて床を這う。


「…あ…かね…茜……茜……」


繰り返し、誰かの名前を呼んでいた。

「…それが…お前の特別な人の名前か?」


嵐が静かな声で問う。

ゆっくりと、虎杰が顔を上げると、曜の攻撃の影響か、無残に潰れた目があって、それでも嵐の方をしっかり向くと、「そうだ」と静かに答えた。

諦念の滲む声。


「…茜。 それがチェシャ猫の名前ですカ?」


デリクが、穏やかな声で問い掛ける。

「……ああ」

途切れ途切れの掠れた声。

「…彼女に…一目なりとも…会いたかった…」


呟く声の温度は、彼がチェシャ猫をどう想っているかという事が一目瞭然の熱が篭っていて、ああ、つまり、そういう話だったのかと、これで、全てのピースを手に入れた満足感に幇禍は満たされた。

デリクが今や、鬼や人の血が入り混じった血の池と化した床に掌を翳す。


「…真実を下さイ。 白雪サン」


そうデリクが声を掛けて、その表面に掌を浸せば、波紋が広がり、そして突然銀色に変じた血の池に猫の耳が生えた一人の女と、大きな姿身越しに相対する一人の男の姿が映し出された。

それは、今よりも若き日の虎杰の姿。

白雪の力を、デリクが自身の力を使って、こちら側に呼び込んだのか…。


「逢瀬。 チェシャ猫さんト、貴方の…で間違いないデスよネ?」

デリクの問い掛けに「無粋な。 覗き見るものではないだろう…」と虎杰は憮然とした声で答える。



一枚の大きな鏡に手を這わせ、チェシャ猫は頬を染めて向こう側を覗いていた。
鏡の向こう側の虎杰は、チェシャ猫と同じく鏡に手をあてて、彼女と顔を突き合わせていた。

「鏡よ 鏡 世界で一番 美しいのは だぁれ?」

無邪気な声でチェシャ猫が問う。
鏡の向こうの虎杰は少し笑って、それからチェシャ猫を指差した。

「ふふふ」と肩をすくめ、掌を唇に当てて「嘘。 違うわ」と言って、それから自分の猫の耳に手をあてる。

「だって、こんなものが生えてる」
すると虎杰は首を振って「関係ないよ」と囁いた。
「尻尾もあるのよ?」
「それも、可愛いじゃないか」
「わっち、人間じゃないの。 お城の化け物なのよ?」
「それでも、お前は美しいよ」
虎杰の言葉に、また「ふふふ」と笑い、それからピタリと鏡に張り付く。

「世界で一番?」
「ああ、世界で一番」
「わっち、お姫様になれるの?」
「俺がしてやる。 お前をお姫様に」

何度も何度も瞬いて「約束」とチェシャ猫が言えば、虎杰も頷き「ああ、約束だ」と答えた。



つまり、チェシャ猫と、虎杰はこのようにして、通じていたという事か。

恋仲。

愛しい女を お姫様にする為に。

この男は数々の悪行を働いてきたのだろう。

「この…鏡は…?」

嵐が、訝しげに呟けば「白雪。 現世と、城を繋ぐ鏡なんて、あいつ以外ありえない」と竜子が答える。
「チェシャ猫サンは、白雪サンを通じて、虎杰さンと出会い、そして恋に落ちた」と、面白がるような声でデリクは言う。


「チェシャ猫さンの為に、虎杰サンは、千年王宮を手に入れるあリトあらゆる方法を探しタ。 少しでも城に近づく為ニ、力を手に入れようと裏の世界に身を投じ、チェシャ猫さんに会いたい一心デ、組織のトップにまで登り詰メ、そシテ、彼女と同じ『獣』と『人』を融合する技術と知識を有シタ一人の男を自分の傍らに置イタ」

「それが……Dr…」
エマが呟けば、デリクは「正解」と静かに答え、「Drが、貴方が自分を裏切らなイと断言した理由が分かりまシタ。 確かに、大事な大事な恋人の兄ヲ、裏切れる筈がナイ」と、呟く。

「最後のピースは、貴方と、チェシャ猫さンとの関係性だっタんでス」

と言って、溜息を吐き出した。

「もっと早くに思い至れバ、余り遠回りをセズに済んだのデスが…」

そう悔しげに呟くデリクに「そうか…あいつは、あいつで、俺を信じてくれたのか…」と虎杰が穏やかな声で言う。
「悪党には悪党の絆がある。 人非人、外道、非道、悪逆を…尽くそうとも人は…一人では生きられない…。 笑うか? アレは、私にとって唯一信頼に足る、本当の友であったのだ…」

そう独白し、そして、虎杰は嘆いた。

「夢なんぞ…やはり、叶うもんじゃ…ないな…どんな…事もしてきたが…それでも彼女には届かなかった……」

その瞬間、嵐が爆発するような声で「この…糞馬鹿野郎っ!! 詭弁言ってんじゃねぇよ! 『何でもする』と『何でもしても良い』は全然違うだろ?!」と喚いた。

拳をぎゅっと握り締め、全身を震わせながら、虎杰をギリリと睨み据える。



「友達がいて…好きな人がいて…お前、なんでこんな事出来るんだよ?」

虎杰が嵐にまた顔を向けた。


「人を好きになる事を知ってる奴が!!! どうして、人を傷付けられるんだっ!!!」

叫ぶような声。


「だったら!!! なんで、考えない!!! お前が殺した人達にはなぁ! お前が、キメラの材料として踏みつけにしてきた人達にはなぁ!! みんな、それぞれ、大事な人が、特別な人が、誰に奪われる事も許される筈のない未来が、あったんだよっ!!」


地団太を踏む。


いつの間にか赤い色に戻っていた、床を浸す血の池が、パシャンと嵐の足元で飛沫を上げた。


「飯食って!! TV見て!! 仕事帰って酒のんで!! 嫁さんとケンカしたり、恋人とメールしあったり!! 友達と遊ぶ約束を楽しみにしたり!! 下らない漫画読んで笑ったり!! 嫌な事を電話で、田舎の母ちゃんに愚痴ったり!! そういう普通をさぁ…!!」


悲鳴のような声だった。


「そういう普通を…なぁ…誰が滅茶苦茶にして良いっつうんだよ…そんなの……誰にも許されねぇよ……っ!」

虎杰が何度も瞬いて、「何故…? なぁ、お前、なんでそんなに怒る必要が…ある? 自分の特別な人間に比べて…、そんな、取るに足らん…斟酌するに足りない命など…」と問う虎杰を、嵐は「命は比べられねぇよ」と呻くように否定した。

「自分にとって、その人の大切さという意味での価値ならば、比べてしまうのが、人間っつう生き物だ。 俺だって、ダチや家族は他の奴らより大事だよ。 それは否定しねぇよ。 でも、だからって、命を比べて、そいつらの為なら、誰かを殺して良いなんて、俺は絶対思わねぇ…。 俺のダチや家族も、そんな事は望んじゃいねぇ。 それが、俺の誇りだよ」

嵐は一歩踏み出し、言い聞かせるような、それでいて、悔いるような声で言う。

「なあ、虎杰。 お前、特別、特別っつうけどな…特別なんかじゃない、普通が、実は一番大変なんだぞ? 普通に働いて、普通に人を好きになって、普通に家族を作って、普通に幸せになって……普通は、偉いんだ。 普通は、並大抵の努力じゃ手に入んねぇんだ。 誰にも、そういうのを馬鹿にしたり、ないがしろにしたりなんて、されちゃならねぇもんなんだ。 お前みてぇな、弱虫なんか比べもんにならねぇ程な、普通っつうのは…尊いんだよ…」


幇禍は嵐を優しい男だと、思った。

だから、一切、嵐の言う言葉が理解できなかった。

命の話をしていた。
けれど、幇禍の思う命の認識と、嵐の語る命の認識が余りにも違いすぎて、嵐が喋っている言葉が命についての話などという事を、頭で理解していても、心が納得できていなかった。


普通も特別も己も何もかも全て。

命は等しくゴミである。

わざわざ労を掛けて刈り取る事もないが、いざ奪うとなった時、誰が相手とて、微塵も躊躇なぞ生まれないだろうし、自分が殺される時とて、死を恐れるという感情が生まれるとは思えなかった。

ただ、婚約者の息の根をきちんと止めてあげられてから、是非死にたいものだと、幇禍はぼんやり思った。

「あんたが王宮を欲しがる理由は分かったよ。 だから尚更譲れない。 惚れた女のために、屍の山築いて、それで女を姫様になんざ仕立てあげたって、そんなの虚しいだけだろう? 寂しいだけだろう? 人を好きになるっつうのは…もっと…こう、あったけぇもんだ。 もっと、こう幸せなもんだ。 もっと……もっと、優しいもんだよ、本当は」


嵐が、不意に、慈悲に満ちた、それはそれは静かで、綺麗な、穏やかな声で言った。


「人を好きになる事の本当の喜びを、お前は知らないんだ。 可哀想に」

虎杰は、嵐に顔を向けたまま、不意に弱り果てた、子供のような声で言った。


「お前遅いよ」

「……」

「もっと早くに 俺に会いに来てくれていれば」



もしくは?







いや、そんな未来は



ない






「♪Humpty Dumpty sat on a wall
 ♪Humpty Dumpty had a great fall
 ♪All the king's horses and all the king's men
couldn't put Humpty together again」



王様の馬みんなに 王様の家来みんな合わせても
ハンプティを元には 戻せやしなかった


壊れた 卵は もう元には戻りません!






空から合唱が微かに聞こえてきた。



見上げれば、東京の夜空。
星の見えない夜空。



堕ちる。

墜ちる。

猫が。


落ちる。


チェシャ猫が、天から銀色の剣に刺し貫かれて落ちてきている。


どうやら、王宮の者達も、無事勝利を収めたらしい。


如何なる者が、彼女を天から蹴り落としたのか?


虎杰が、どこにそんな余力が?と驚嘆せずにいられない精神力でもって、よろよろと立ち上がった。




「一度も想い人に会えた事等なかったようなのデ、本望でしょウ」


デリクが淡々と虎杰に告げる。

虎杰は、もう、何も聞こえず、何も見えない様子で、ただ、天を仰ぎ、彼女を待ちかねていた。

キメラという禁忌の術で持って、裏組織のトップに立った男。

ただ、恋の為に。

ただ、恋の為に。
滅ぶか。


ならば、俺と一緒だ。
幇禍は夢想する。




彼女を殺した後はいっそ 

自分自身も、滅んでしまいたい


彼女のいない世界は
益々自分にとって生きるに値しない

退屈な姿に変わるのは間違いがなくって

故に


滅びたいと願った


何故か、自分の命を奪う相手も、婚約者だと決めていて

彼女を殺してしまっては、彼女が自分の命を奪う事はないという当たり前の結論に達すると

それすら吐き気がする程につまらない事実だと、唾棄したい気持ちになった。


満身創痍で、それでも、天を仰ぎながら、酷く明るい、悲しいほどに明るい、幸福そうな笑みで虎杰が両手を広げる。




羨ましい


心底想う幇禍を誰が責められよう?





チェシャ猫が笑った。
最期の意識で。


「やっと…会えた…」


小さく猫は呟いた。


「ずっと会いたかった」


虎杰も笑って応えた。



猫の胸を刺し貫いている銀の剣が、そのまま虎杰の心臓も刺し貫いた。
落下した猫を虎杰は抱きしめ、そして、地上に倒れ伏す。



現世と王宮、たった一度として、直接、触れ会う事もなく、鏡越しで想いを育んだ、憐れな、憐れな、恋人同士。
漸く、最期の、最期、この上ない悪辣と、暴虐の果てに、二人は抱き合う事が出来た。


悲恋の結末である。 
悲しい終末である。


しかし、悪党の恋であった。

悪党の最期であった。



「いいなぁ…」


幇禍がそう小さく嘯く。
こんな死に方が良い。
一緒の剣で貫かれたい。
同じ時に、心臓を止めたい。

心底の望みの言葉は風に掻き消え、誰の耳にも届きはしなかった。





「お見事!! お見事!!!」



パチパチパチと手を叩いて、「よっこらせ」という言葉と共に、何処からともなく道化が現れる。


「…っ!! お前!! なんで?!」

竜子が叫んで道化を指差せば、「さっき、魔術師殿と白雪が通じ合った時にちょっくらね」と言いつつ、そこに立つ面々を見回す。

「いやぁ、今回は君達の活躍のお陰で、本当に助かった! 礼を言う」と言いながら頭を下げる道化師に「あ、お礼は良いから、ねぇ、早く、彼、なんとかしてあげて?」とエマが指差す先には、下半身蛇の姿のまま完全に伸び切っている黒須がいて、竜子が慌てて駆け寄り「誠!! 大丈夫か?! 誠!!」と必死の声で呼んでいた。

「う…る…せぇ…」

そう言いながらも手を伸ばし、竜子の頭に手を伸ばすと、その金色の髪を優しくなでて「喚くな…響くんだよ…」と弱った声で黒須が言う。

「…ああ…よかった…」と安堵の声を漏らす竜子。

その首根っこに齧り付こうとして、今の黒須に飛びつくことすら躊躇したのか、どうして良いのか分らないと言う風に涙の堪った目を緩めて「えへへ…」と竜子は小さく笑った。

「…生きてる」
「当たり前だ」
「すっげぇ、心配したんだぞ」
「おう。 悪かったな」

黒須がそう答えながら無心になったように竜子の髪を撫で続ける。
竜子は猫のように目を細め、「みんな…が助けてくれなかったら…お前、ほんとに死んでたんだからな」と言う言葉に、黒須は頷き、それから、こちらに目を向けてくると「世話になった」と言って頭を下げた。

実のところ、黒須の生死など、どうでも良かった身の上なので、頭を下げられる謂れはないような気がするのだが、彼のせいで、こんな騒動に巻き込まれてしまったのも確かだし、そういう気でなくても、黒須の危機を救った事には変わりないので、まぁいいかと、素直にその礼に頷き返す。

「とっととお城に帰ってあげなさいな」とエマが言い、嵐が「向こうの連中にもヨロシクな」と竜子に声を掛けた。
曜が「燐に、なるだけ早く戻ってくるように伝えてくれ」と心配そうな顔で言う。
幇禍は……別段何も言うべき事が思い当たらなかったので、笑顔で手を振っておいた。

「竜子さン…ちょっとばかり、私、お城に用事がありますのデ、一緒に向かわせて頂きたいのですガ、宜しいですカ?」


そうデリクが言えば、竜子は頷き、「じゃあ、あたい、さっきの事もあるし、一足先に道をきちんと繋いでおくよ。 デリクは、その後を追ってきてくれ」と告げて、小指の鍵の力を使い、千年王宮に向かう。
竜子の姿が掻き消えたのを確認すると、デリクは道化を振り返り「貴方もご苦労様でしタ」と鮮やかに笑って告げた。


「いやいや、何々。 中々コキ使われて大変だったが、そこそこ楽しかったよ」

道化がそう言い「じゃあ、私もそろそろ戻ろうか」と言って、黒須の傍に向かう。

「いやぁ!! 酷い有り様!! ジャバウォッキー!! まぁ、丈夫なお前のこった! 大丈夫だろう、その位? ほら、とっとと帰るよ?」と手を伸ばし、その体を抱え上げようとする背中に、デリクが笑って声を掛けた。




「何処へデス? アリス」




空気の温度が、少しだけ下がった。



「道化師アリス。 ジャバウォッキーを何処へ連れて行くつもりでス? 駄目ですヨ、折角我々が助け出したのニ、貴方の手で、何処かにその人を葬られてしまってハ、元も子もありまセン」

デリクが道化を指差せば、道化は首を少しだけ傾けて笑うと、その瞬間カシャンと音を立てて、その体が崩れ落ち、黒須の上に散らばる。


「っ!!」


悲鳴めいたものをあげようとしたらしい黒須が辛うじて、叫ぶのを止め、そして、自分を連れて行こうとしていた物の正体に「んだよ…これ?!」と混乱したように喚いた。


関節という関節がぐにゃぐにゃと在り得ない方向に折れ曲がっている。

赤い糸が、その節々から垂れ下がっていた。


まるでマリオネットのように。

まるでマリオネットのように。


「いややわ…。 バレてもうた。 まぁ、流石っちゅうトコやねぇ…名探偵さん?」

道化の背後から、灰色の肌に、真っ赤な唇。 真っ黒なウェーブのかかった髪を肩まで伸ばし、白いリボンのあしらわれた、大きなヘアバンドを髪につけ、黒のエプロンドレスのワンピースを身に纏った、何処か見るからに不吉な少女が現れた。

「アリス…?」

その名は、あの城を創ったとか言う、呪われた魔女の名前。
彼女は城の玉座に磔にされている筈なのに、何故、ここに?

幇禍と同じ疑問を抱いているのだろう。
アリスの名を訝しげに口にするエマに、「ひひひ」と口を歪めて下品に笑うと少女は「初めまして!! では、ないなぁ。 道化の格好して、色々とお喋りさせて貰うたさかい、そういう風に、びっくりした目で見られると、何や、申し訳ない気分になるわ」と言って、デリクの前に立った。

「何処までお見通し?」
アリスに問われ、「然程。 知れば知った分だケ、謎は細分化し、枝分かれをして増えていク。 いっそ、今、全て、教えてくれませんカ? 大魔女アリス」と、強請るデリク。
「…あんたは…『千年魔法の構成理論』の魔術書を持ち出しとったねぇ…なぁ、あれ、全部読めた?」
アリスに問われデリクは一度首を振る。
「そう…」とにんまり笑うアリスに「ただ、私、昔カラ、本は『あとがき』から読む癖がありマシテ」とデリクはシレッとした声で告げ、アリスは、一度ポカンとした顔を見せた後、ククゥと喉の奥で笑うと「イケズやわぁ。 その物の言い」と、何だか少し嬉しそうに言う。

「ちょっ!! ちょっと待て!! 悪い、話についてけねぇんだけど?」と嵐が訴え、曜が頷く。
「その…大体、君は誰だ? アリスというのは…?」と問われ、アリスは、ポリポリと頬を掻き、「そうか。 あすこを知らん子には不親切やったね」と頷いて、「色々説明するのも面倒臭いから、とりあえず、千年王宮を作った張本人と覚えて貰えりゃ充分や」と、アリスは簡単に説明した。
「王宮を…作った人? なんか…スケールが大きな話になってきて、余計に訳わかんなくなっちまった…」と、嵐が困ったように頭を掻く。
「じゃあ…なんで、こんな人形を…?」
そう曜の問い掛けに、「そっちの兄さんは、分ってるんやろうけどね…」と言ってデリクを指差すと、「もう、とっくに、本物のアリスは封印されっちまってるからねぇ…うちは、ただの幻。 ベイブが自分の心の中に抱いている幻想なのさ。 アリスは、ベイブに討たれて、お城に封じられたんだ。 ベイブは、そのせいで、アリスの呪いに掛かり、千年王宮に千年縛り付けられる呪われた王様になった。 ベイブはうちをどうしようもなく憎んでいる。 だから、うちの姿を目の当たりにする訳にはいかないし、うちはベイブの心の深層に閉じ込められて、自由に動くことは叶わない。 せやで、この人形を依巫にして、うちはずっとベイブを守り続けてきたっちゅうワケやね」と答えた。
嵐はきょとんとした顔のまま、「よく分かんねぇけど…じゃあ、あんたはその、ベイブとかいう王様の心の中にいるアリスなのか?」と問い掛ける。
「その通り」とアリスは頷くと、「どうしてなんだ? 自分を城に閉じ込めたような魔女を、どうして心の中に?」と曜が疑問を投げかけた。
幇禍も、王宮の天井に磔にされているアリスを見ているし、彼女に対して、今も怯えている様子のベイブを目の当たりにしている。
そんな相手を後生大事に、ベイブが心の中に抱き続ける理由が分らず身を乗り出せば、アリスは事も無げに言い放った。



「だって、あの子はうちに惚れとるんやもん」



嬉しげに、惚気るような声に、幇禍はぽかんと口を開ける。
霧華と黒須、チェシャ猫と虎杰、男女の仲というのは、何だか一筋縄では行かないものだという事を己の身を振り返っても重々承知はしているのだが、それにしたって「アリスとベイブ」というのも、かなり強烈だ。
アリスがベイブを想う余りに、城に囚われの身とした事は分っていたが、そんな相手を「想い人」としていたとは、益々ベイブという狂人に対しての不思議が募る。
己は、己が手で、想い人の命を絶つ事を命題としている身の上で、その異常さを省みず「ベイブさん、変わってるなぁ…」と呟けば、デリクは、不意に歌を口ずさむ。




「♪Humpty Dumpty sat on a wall
 ♪Humpty Dumpty had a great fall
 ♪All the king's horses and all the king's men
couldn't put Humpty together again」



マザーグースの中の「Humpty Dumpty」


魔女が問う。

「道化師が、うちやっていつから気付いてた?」

「今朝、貴方に会った時に思い至りましタ。 城の何処でも自由に行き来が出来テ、外の世界にすラ出て行ケル。 ある意味、ベイブよリ自由ダ。  だからこソ、今回のような時に、彼を救える為に奔走でキル。 この城の王様でスラ、制御できていない存在。 この城の王様を、千年王宮内ですラ越える存在。 そんなの、一人しかいナイ。 この城を作った人間しカネ?」
デリクがつらつらと並べ立てれば、アリスは「ウラが賢い子に育ったのも、分る」と頷いた。

「うちは、うちであって、うちやない。 所詮は、あの子が心の中に作り出した『理想のアリス』。 狂おしくあの子を想って殺されっちまった、可哀想な女の影。 それでもね、あの子を想う気持ちは本物。 だから、道化師になって、ずっとあの子の傍で、あの子を見守ってきた」
踊るような足取りで、アリスは血の池の化した床を、ゆっくりと歩き回る。

エマは、そのアリスをゆっくりと目で追いながら「…黒須さんを連れて行ってどうするつもりだったの?」と囁いた。

「次の人形にしよか思て」

エマの声に、アリスは笑みを深める。


「人形? こんな風に?」
黒須の上で無残な姿を晒す道化師人形をエマが指差せば、「今、一番ベイブの身近にいるんは、その男やで、バラバラに一回切断して、赤い糸をつけて、うちの思い通りにしたろうと考えたのに…」と言い、恨みがまし気にデリクを横目で見る。

「普段のジャバウォッキー相手なら、いかなうちとて早々好き勝手は出来へんけど…」
そこまで言ってアリスがついと掌を翻す。

「…こんなジャバウォッキーなら、抵抗なんて許さない!! 一度人形にしちまえば、笑うも踊るも歌うも殺すも、何もかも私の思い通りさ!」
ガバリとその身を起こし、人形が黒須の肩を掴んで、その顔を寄せる。
黒須が目を見開いて、「は…離せっ!」と、逃れるように仰け反ると、エマが慌てた様子で、道化の肩を掴み「これ以上、もう、黒須さんを苦しめないで」とアリスに叫んだ。
だが、アリスは戸惑うように首を振り、腕をだらんと下に落とす。
すると、道化も、また元のように人形の姿に戻り、アリスは少し顔を顰め「こいつは、長く依巫にしすぎた。 人形は、唯でさえ、意思を宿しやすい媒体。 最近勝手な動きを見せる事があんねん。 そこら辺の関係もあってね、新しい人形が欲しかったんやけど…」と惜しそうに黒須に目を向け、溜息を吐いて「残念やわ…」と呟く。

「そんなに傍にいたいのでスカ? ベイブさんの傍ニ」

デリクが、愉快そうに問う。

アリスは当然という風に頷くと、灰色の目を細めて問うた。

「なぁ? そんなうちって気が狂っとる?」

デリクは、まるで、望まれているという風に頷いて「エエ。 とってモ、とってモ、気が狂ってまス」と笑い答える。


アリスは、まるで、デリクが満点の答えを出したように手を叩き、「うちは気が狂っとる。 あの子もや。 正気の者など、あの城にはいない! 一人だって! 一人だって!」と叫んだ。

アリスの言葉を聞きながら、幇禍はあの城の歪みを思う。


完璧なキメラだという、虎杰は、とても醜悪な姿をしていた。
欠けたるもののない完璧さというものは、実はとても醜いものなのかもしれない。

眼帯に隠された目玉に手を馳せる。

生まれ出でた、俺の目玉。

欠けていたものが、いつの間にか満ちていた。

これは、俺の醜さの証か。

それとも、自分で欠く、魂の拠り所の代わりのつもりなのか。


ここまで来れば、幇禍にも分った。


アリスが一体何者であるのかを。


時の大魔女アリス。

狂った女アリス。


人を強く想うという事は、何にしろ、気が違っているという事だ。


あの城は、アリスが作った揺り篭。
赤子を千年の眠りにつかせる為の綺麗な揺り篭。



ねぇ? 揺り篭の中に赤ん坊を寝かしつけるのは、誰の役目?




答えは、簡単。




「貴方の出番はもうありまセン。 揺り篭に帰りなさイ。 ベイビーがお待ちカネですヨ? マム」





母親が、息子を愛する事に理由はいらない。



息を呑み、シンと静まり返る空気の中で、デリクが朗々と語りだす。


「かって、時の大魔女アリスは、自身が生きる悠久の時の中で、誰の子か明らカニなっていナイ、一人男の子を孕み、産み落としタ。 生まれながらにして数奇な運命と数多の謎を背負ウ、その子供は生後間もなく、聖CAROL教会が有する聖騎士団の手により保護されたが、自分の血を分ケタ、最愛の息子を奪わレル事となったアリスは悲しみに沈み、時の迷宮の中で自らの心を癒す為に長い眠りにつイタ。 アリスの子ハ、その間、母親から譲り受ケた魔法の才と、誰かは分からぬ父譲りの剣の腕にて、騎士団にて頭角を現し、団長の地位にまで登りつめ、1700年代初頭に行ワれた《魔女狩り》ニて、皮肉にも己の母の討伐を命じらレル。 激しい戦いの中、宿敵としてお互いの正体を知らズニ出会ったアリスとその息子は、更なる悲劇! 狂気と禁忌の恋に落ちてしまったのであっタ…」

デリクは口を噤み、それから「私が、あの王宮より頂いた、貴女がお書きになられた、『千年魔法の構成理論』の巻末に記された、大魔女アリスの略歴の一文です」と言う。

そして「母と子の禁断の恋…なんテ、余りに陳腐デ初めて目にした時は、思わず笑ってしまいマシたヨ。 許されざる感情か否カハ、世間一般というものから、どうニも、ズレているそうなノデ、私にハ貴女に言うべき言葉一つ見当たりませんガ…」とそこまで言ってデリクは肩を竦めた。

「…貴女が、どんな狂った母親だろうガ、女だろうガ、今は黒須さんを、無事、あの城に帰してやるノガ得策でス。 貴女には、ジャバウォッキーは無理ですヨ。 魔女。 所詮、幻に過ぎぬ貴女が表出し、悪戯に現世を掻き乱すモノではなイ。 道化人形一つ、制御しかねル貴女には、ベイブの側仕えハ荷が勝ちすぎル。 とっとト、引っ込みなさイ」

そうデリクが言えば、アリスは突如高らかに笑い始めた。




狂ったように腹を抱え、ひーひーとけたたましい声を発する。




アリス。

ベイブの母の名前。


アリス。

時の大魔女の名前。



アリス。


息子への、禁忌の恋に狂った、憐れな、哀れな女の名前。



アリス。



ALICE.






「生意気だよ。 魔術師」



突如笑いをピタっと止めたアリスが、無表情にそう囁いて、そしてその体が掻き消えた。

黒須に折り重なるように倒れていた、道化がずぶずぶと血の池に沈んでいった。

黒須が混乱極まる顔で、「な…んなんだよ…」と呻く。

幇禍も一体何が何なのか、分りかねる事ばかりだが、所詮は己に関係のない城の話。
どうでもいいやと、感情の外に投げ捨てた。

嵐が気の毒気に黒須を見下ろし「よくは分かんねぇけど、ややこしい立場みてぇだな。 おっさん。 何か、相談事があるなら、電話して来いよ。 また、話聞いてやるから…」と明らかに同情丸出しな声で言いつつ、携帯番号が書いてあるらしい紙を渡している。

なんだか、ガクリと肩を落として、その紙を握り締める黒須の肩をポンとエマが叩き、「まさか…アリスが、ベイブさんのお母様だったなんてね…」と呟いて、「どうすんの? これから」と黒須を見下ろす。

「どーするも、こーするも、ベイブがすげぇマザコンだろうが、あの道化の正体がアリスだろうが…俺にゃあ、どうしようもねぇ話だよ。 せいぜい、これまで以上に道化に寝首を欠かれぬように気をつけるだけさ」

そう黒須が投げやりに答え、デリクが肩を貸して起き上がるのを助けてやりながら、「それガ賢明でしょうネ…」と頷いた。

「幻とは言え、アレはアリス。 現世ならともかく、あの城で振るう力は絶大なモノと思われまス。 とはいえ、あの道化人形自体、自らの意思を持チ、貴方を自分と同じ、人形に仕立てようと狙っテいるのも、真実」
何だか聞けば聞くほど…な状況に、「上司は、ドS気味の犯罪級マザコンで…同僚はそんな上司命!!な意思疎通困難鏡娘に、中の人は上司のお母さんでした☆、ケド、最近は自分自身で動けるようになってきて個人的にもお前の命狙い撃ち♪な人形男。 一緒に城で暮らす唯一の心の拠り所になる筈の竜子ちゃんも、天災的トラブルメーカーだし、なんか…なんか…」と言いつつエマは、若干半笑いになって「ガンバッテ★」と両手拳をぐーにする。

「他人事だろ? 凄い他人事だろ? しかも、面白がってるだろ? 最早面白がってるだろ?」

半眼になり、そう言い募る黒須に、幇禍も同情を禁じえず、「俺も、そんな黒須さんの力になりたいんで辛くなったら、是非ここに電話して下さい」と言いつつ思いっきり「117」と書かれたメモを手渡す。
「ほーう…お前は、俺に困った時に、時報を聞かせてどうしたいんだ?」と黒須に問われ、チロっと舌を出すと、「昔は、交換機の仕様で、同時に時報へ電話をかけてきた人と会話ができるという現象が起こったそうなので、せいぜい、何度も、何度も掛けなおして、そこで繋がった人にでも相談してはいかがでしょう?という俺の優しい心です」と照れた仕草を見せつつ幇禍は言う。
「うわー、懐かしい!! 流行った! それ、俺が若い頃、すげー流行したし、その現象を知ってるお前が凄く怖い!!ていうか、今はもう、絶対、そういう事起こらないらしいけどね! だから、何回掛け続けても、そんな見知らぬ相談相手に繋がる事はないけどね!! そもそも、見知らぬ人に、こんな状況どうやって相談すればいいか一切見えないんだけどね!! そして、お前が『え? 結局、それ、絶対相談に乗ってやんねぇよ!って事じゃん?』みたいな台詞を、なんで照れながら言うのかも全然見えない!」
そう黒須が、現在見るからに「瀕死!」の状況ながら命懸け的鬼気迫る勢いでツッコンでくるのを、カラカラと笑いながら「わぁ! この勢いが鬱陶しい!」と爽やかにいなす。

ぜいぜい肩で息をしながら「もう…いやだぁ…」と心からの声で呻く黒須を、嵐と曜が暖かな、なんか遠い、凄い遠い目で見下ろすと、「よかったな、おっさん。 良い友達に恵まれて」と、かなりの棒読みで言い放ち、曜も「感謝する事だ。 人間関係は、何よりも貴い財産だからな」と、これまた、棒読みで黒須に告げた。
完全に見捨てた!!という態度を明らかにした二人に黒須がヨロヨロと手を伸ばせど、デリクが、そんなやりとりを一切無視し「サァ! 黒須さン! 遊んでないで、行きますヨ?」と腰に手を当て、やけに張り切った声で告げる。
「遊…ばれては…いたな…」と項垂れつつ、黒須が自分の舌にある鍵穴に、霧華の小指を突っ込んだ。

「んじゃ…本当に助かった…ありがとう」

そう素直な声で告げ、小指の鍵を捻った瞬間、黒須とデリクの姿が掻き消える。
普段なら、折角なので自分もつれてって欲しい程度は思う幇禍だが、今はそれどころではない。
面倒事が終了し、さて、ではやっとお嬢さんのところへと踵を返しかけたその瞬間、タッタタッタと複数の足音が聞こえ「周囲への警戒を怠るな!」「爆発に気をつけろ!」等の声が聞こえてくる。

「騒ぎが収まったのを見て、警察が踏み込んできちゃったみたいね…」

こんなところで、警察なんぞに関わって、無駄な時間を喰うのは御免蒙りたかった。

エマが眉を寄せ「さぁて、面倒な事になっちゃったわ?」と小首を傾げると、それぞれメンツを見回した。

そしてコクンと頷き、一人一人の顔を覗きこみながら「みんなも多分、聞いた事があると思うんだけどね?」と何だか呑気な声で語り始める。
その口調に引き込まれ、三人身を屈めるようにエマの顔を見返せば、「小学校の遠足で、全ての日程が終わってさぁ、解散という時に、先生は、こんな名台詞を口にしたものよ…」と、そこで一回息を吐いた。


「お家に帰るまでが 遠足です」


真顔で告げられた言葉に、何だか三人、言葉以上の重みを感じて、コクンと再度揃って頷く。

「ここで、誰か一人でも捕まって、興信所との繋がりを知られるとエマさんは、とっても、とっても困ります。 とはいえ、皆さん、もう、立派な大人! 自分の身は自分で何とかしつつ、ここで、先生は解散を宣言させていただきます。 あとは、それぞれ、無事に帰宅して、この遠足をきちんと終わらせてください」

そうまさに先生口調で言い終えると、据わった目で一声叫んだ。




「とっとと、ズラかるわよ!!」







さてはて、そんなこんなで、踏み込んできた警官に紛れるようにして、難なくビルを脱出した幇禍。
屋上に顔の突き出した、虎杰の目撃証言もきっと、かなりの数出るだろうが、こういった事件は大体集団ヒステリーによる妄想と片がつけられるのが常だった。
とはいえ昨今は、予期せぬ事態を目にすると、携帯等で動画を収めている者がいたりするものだし、至る所に散らばるキメラ達の屍骸や、『背徳』にて眠ったままの今日の客達から、オークションの事やキメラの事が明るみになる日も近いだろうと推察する。
そうなれば、あのような馬鹿な組織が生まれる事もなくなるだろうし、K麒麟を完全に壊滅させられるだろうという事を考えると、何だか退屈な結末だが、それが人の世のルールに則った正しい結末だったとも言えるのだろうと頷いた。



まぁ、この先は、K麒麟がどうなろうと、世間がどう騒ごうと、幇禍には関係ない。



遠足は お家に帰るまでが 遠足です




エマの言葉を引用するならば、幇禍の人生はずっと遠足だったという事だろう。

帰る場所等何処にもない。

婚約者と共にいる時間は、ずっと、ずっと遠足だった。


まだ、終わらない。

いや、むしろ、いよいよこれからだとも言える。


「♪Humpty Dumpty sat on a wall
 ♪Humpty Dumpty had a great fall」

幇禍は、夜の東京を、愛車を飛ばし、走り抜けながら知らず鼻歌を歌う。

壊れてしまったものは、もうどうにもならぬ。



さぁ 早く お家に帰らなきゃ

遠足の続きをする為に




懐の中に収めた銃に手を這わせる


「お嬢さん。 今、帰ります」



そう呟く、その声音は、愛しい女を思う、男の声そのもので、なのに、うっすら笑うその顔には、べったりと狂気が張り付いていて、やはり、耳の奥には繰り返し、繰り返し、「Humpty Dumpty」の歌が流れていた。


理に縛られた 悲しい悲しい盟約の物語。

魏幇禍の悲劇の幕が とうとう 上った。


されど、月も、東京のネオンも、余所行きの顔をして、彼は、誰にも咎められず、繰り返し狂った歌を歌い続ける。

「♪Humpty Dumpty sat on a wall
 ♪Humpty Dumpty had a great fall」


愛してます。

殺します。

愛してます。


一緒に滅んでしまいたいほど。










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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【3432/ デリク・オーロフ  / 男性 / 31歳 / 魔術師】
【3343/ 魏・幇禍 (ぎ・ふうか) / 男性 / 27歳 / 家庭教師・殺し屋】
【0086/ シュライン・エマ / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【7521/ 兎月原・正嗣 / 男性 / 33歳 / 出張ホスト兼経営者 】
【3678/ 舜・蘇鼓 (しゅん・すぅこ) / 男性 / 999歳 / 道端の弾き語り/中国妖怪 】
【4582/ 七城・曜 (ななしろ・ひかり)/ 女性 / 17歳 / 女子高生(極道陰陽師)】
【2380/ 向坂・嵐/ 男性 / 19歳 / バイク便ライダー】
【2863/ 蒼王・翼  / 女性 / 16歳 / F1レーサー 闇の皇女】
【3427/ ウラ・フレンツヒェン  / 女性 / 14歳 / 魔術師見習にして助手】
【4236/ 水無瀬・燐 (みなせ・りん)  / 女性 / 13歳 / 中学生】

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■         ライター通信          ■
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お届けが大変遅くなって申し訳御座いませんでした!
前編・後編共にご参加頂けた事を心より感謝します。

それでは少しでも楽しんでいただけたら幸いです。

momiziでした。