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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


【東京衛生博覧会 後編】



「人にとって、美しい姿勢とされているのだろう?」
頬に血飛沫の跡を残す男が言った。
「『どうしても叶えたい願いの為に、何でもする』という事は」

「素敵な事なんだよねぇ?」
コケティッシュな笑みを浮かべ、猫は勝ち誇った。
「『夢が叶う』っていう事は」

「覚えはないんでしゅか?」
Drは、唇の端を引き攣らせた。
「『大事な誰かの為になら、どんな事も厭わない』という気持ちに」

血の濃い匂いが立ち込めていた。

豪華なオークション会場に、息をするのも煩わしい程の熱帯のジャングルに、そして、薄暗い倉庫に。


引き金は、いつ引かれたのか?
彼らの本当の目的は何なのか?
この物語は、何処へ疾走して行くのか?


何にしろ、血の花は咲いた。
後戻りの出来ない場所に、貴方はいた。


男は、猫は、そしてDrは問うた。

「さぁ、これから、どうしようか?」

まるで、子供のように。

「さぁ、これから、どうしようか?」



SideC

【 水無瀬・燐 編】



血。
血。
血。

屍骸。

屍骸。

屍骸。


それは余りにショッキングな光景だった。

眩暈を覚え、大きく息を吸い込めば、その瞬間鼻腔を通る、血の濃い匂いに、余計に気分が悪くなる。

眩暈がひどい。
ふらつきながら手を伸ばし、ベイブの背中に縋りつく。

振り返り「おい…」と心配げに問い掛けられ「大丈夫じゃ」と答えかけて、そのまま燐は為す術もなくバタンと引っくり返った。


突然殺された。


キメラ達が。


暖かな血の雨に打たれる感触は一生忘れられないだろう。

悪夢。

酷い悪夢。

地獄のような光景達。



ぐるぐると脳が揺れる。

子供もいた。
女もいた。
弱いもの。
強いもの、関係なかった。

無差別大量虐殺。

そんな光景を目の当たりにした、実は繊細な燐の心が、悲鳴をあげていた。

耐えられない。

耐えられない。

このまま、目を覚まさずにいれば、もう、何も怖いものは見ずに済む?



だが、そんな弱気になる燐の脳裏に、曜の声がよぎる。



『…キミに、此処に行って貰ってよかった』


ここに倒れていたままならば、曜先輩は燐のことをきっと弱虫と思うじゃろう。





その瞬間、ブレーカーを戻したかのごとくパチリと燐は目を見開き、ガバリと起き上がる。

状況は極めて厳しい。
光景は、これ以上ない程陰惨。

だが、使命がある。
約束がある。
燐には、ここで立ち続けねばならない理由もあった。

突如目を覚ました燐を見て、覗き込んでいたらしい白雪が「アラ」と声を零して、唇に手を当てる。

どうやら気絶していたのは、ほんの一瞬の間らしく、視線を向ければ魔物達相手に翼は孤軍奮闘していた。

四の五の考えていたとて、状況は何も好転せぬ!!

燐は、曜先輩より、この城のピンチを救うために遣わされたのじゃ。

何が出来る?

今の自分に何が出来る?

幼き頃より、逆境に見舞われ、命からがらの修羅場を幾度も潜ってきた燐の心の強さが、今発揮されていた。

だが、その強さの余り、途中経過を色々考えるのが面倒臭くなり、とにかくチェシャ猫を倒せば、何とかなるんじゃね?と単純結論に即座に達する。

翼は、キメラ達の顛末に精神的にもダメージを受けているのか、明らかに憔悴の色が濃い。
チェシャ猫が高らかに笑いながら「翼!!  どうしたの? 翼が守ってやれなかった可哀想なキメラ達の事を気にしてるの?」と、翼を口でも責め立てる。

「馬鹿ね? しょうがないじゃない? それだけ、翼が弱かっただけの事! 翼は何にも守れないんだよ。 この城も、仲間も何もかも!! だって、翼は弱いもの!」

そうチェシャ猫が揶揄する声に、翼が辛そうに眉を潜めた。

まーずーいー!と燐は立ち上がる。
大体、チェシャ猫の物の言いは、理不尽で、滅茶苦茶で、聞くべき事など何もない。
腹の底からムカムカし、燐はそんな翼に向かって、「難しい事はあの痴女を張り倒してから考えるのじゃ! 翼!!!」と大声で呼びかけた。

はっとしたように翼がこちらに視線を向けてくる。

「良いか?! 今、後悔をして、色々と悩めば、更なる後悔を重ねる結果になる!! 翼のせい等というものは、何もない!! 何一つじゃ! 惑わされぬな! 敵は誰じゃ? 翼は何の為に、この城に来た!」

そう燐の叫ぶ声に、翼がこくりと一度力強く頷く姿に、燐自身勢いづき、そのまま吸精後の脱力から復活し、今の自分に出来ることを思案する。

(燐の特技はなんじゃ? …えーと、妖怪を手懐ける…はここでは、役に立ちそうもないし、そういえば最近、姉さまに教えて貰ったリリアン編みは上達したのう…って、尚更役に立たんじゃろう! 後は、緩衝材のプチプチを素早く潰す事、動物の雄雌を素早く見分ける事、曜先輩の居場所を素早く察知出来る事って…)

そこまで思考を繰り広げ、パタンと燐は膝をつくと「え? 燐ってもしや、もしや、超弩級の役立たず?」と震える声で呻いてみる。

「後は…逃げ足が早い事位しか…」と虚ろに「ふふふ…」と笑いながら呟いて、ハタと燐は顔を上げた。

逃げ足!!

こうなったら、翼がチェシャ猫を素早く叩けるよう、他の魔物達を己に引き付け、囮になって逃げるのが唯一、自分の出来ることだ。

怖くないと言えば嘘になるが、ここでじっとしているより何ぼかマシだ。


ベイブと白雪が、そんな燐の一人芝居劇場を興味深げに観察している事に気付かずに「うーっしゃー!! やってやるのじゃー!!」と気合を入れ、そして誰が止める間もなく、燐は結界の外に飛び出す。

「お嬢様?! 何を?!!」と白雪が悲鳴めいた声をあげるも、燐は無視し、「魔物共! 燐の事を捕まえられるものなら、捕まえてみい!」と大声で宣言した。

何しろ、魔物達に取っては、極上の血肉を有する燐相手だ。

ゾロリと魔物達が燐に一斉に視線を向けた。

「馬鹿!!! 早く結界に戻れ!!!」と翼が叫ぶ声に背を向けて、燐は一目散に駆け出し、その自慢の逃げ足を披露する。

その瞬間、魔者達も一気に燐を追い出した。
燐の後をおぞましい魔物の一群が追跡し続ける。


一瞬背後に目を向けて、ああ、見なきゃよかった、見なきゃよかったと、高所恐怖症の人間が高い所に上る最中、思わず足元を見下ろした時と同じ感想を燐は抱く。


もう、なんか、魔者達すげー必死。
超必死。

そして、中々誰にもお分かりいただけないが、必死な魔者達というのは、追われてる人間からすれば、即座に心臓が止りそうな程には、恐怖を掻き立てるものだった。

触手を伸ばし、燐の足を絡めとろうとするもの。
空中から、その体を捕まえようとするもの。
ねばねばとした気持ち悪い粘液を吐き出し、燐にぶつけ、その足を止めようとするもの。

その全ての手から、燐は天性の勘と、これまで培ってきた「逃げ技術」を駆使して、逃れ続ける。

傍から見ていれば、思わず拍手喝采物のその姿を白雪がハラハラしたように眺め、ベイブも竜子に念を押されている手前、何とか救おうとしているようだが、余りに燐が素早く動きすぎるため、手を出しあぐねているらしい。

されど、燐の体力とて無尽蔵では勿論ない。

「つ…翼は…翼は如何な状況なのじゃ?」と視線を向けども、チェシャ猫と一騎打ちの真っ最中で、その決着はまだまだ着きそうになかった。

燐の体力が尽きかけているのを悟ったのか、翼が、チェシャ猫に背を向け、こちらにかけてこようとするのを、燐は「来るな!!!」と叫んで制する。

翼がこちらに来てしまっては、囮役となった意味がなくなる。

「燐は…大丈夫じゃ!!」と気丈にも告げた瞬間だった。
翼に気を取られていた燐の足が、何者かに掴まれた。

「っ!!!」

悲鳴を飲み込みながらも為す術もなく転倒する燐の視界に、床から突き出した、白い掌が自分の足を確りと掴んでいる姿を確認する。

不味いともがこうとした瞬間、体中に気味の悪い色合いの花を咲かせた、正体不明のスライムが、ずるりと、燐の体に圧し掛かってきた。

「ひきゃああ!!! あっ!! うわぁぁっ!! ああ!!」

悲鳴をあげ、逃れようとすれども、ずっしりと圧し掛かる粘体に四肢を絡め取られて動けない。

大きな牙を生やした大きな蜥蜴のような生き物が踊りかかる姿を目にした。


ここまでか…!!

無念の余り、唇を噛む。


曜先輩…姉上…っ!!!


心の中で、大事な人の名を呼んで、それから燐はぎゅっと目を閉じた。

翼…後は頼んだぞ…!!!

彼女がチェシャ猫を、倒してくれる事を信じつつ、燐は覚悟を決め、息を止める。

ザクリ。

激痛が喉を引き裂いた。


ああ、可憐なる天使、ここに散る…と、燐は自分で自分の死のモノローグなんかを胸中で呟いた瞬間だった。


全身が、一気に熱くなった。

目を見開く。

「あ…!! ああっ!! うわああっ!!!!」


喚けば、燐の体を押さえ込んでいたスライムが、まるで、消え去るように蒸発した。

燐の喉笛に噛み付いたらしい大蜥蜴も、見るも無残に、引き裂かれる。

「うあぁあ…キァァッアアアアッ!!!」


喚く喉から漏れたのは、甲高い鳥のような鳴き声。

視界が高い。

手を振り回せば、宝石めいた光を放つ真っ白鱗に覆われ、鉤爪のついた腕が、魔物達を振り飛ばし、引き裂いて一掃した。

「キァァァァウゥゥゥッ!!!」

燐が鳥の声で吼え、辺りをゆらりと睥睨する。

そこいたのは、燐のもう一つの姿。

幼くも美しく、強大な力を持つ幼竜となり、人間時と同じ、真っ青な目を瞬かせると、死の瞬間に味わった痛みせいで、暴走状態に陥っている燐は、一気に空を飛びそして、大きく口を開ける。

「キァァァゥゥゥアァアゥッ!!」

一声吼えた瞬間だった。

凄まじい雨が突如降り始め、キメラ達の血を洗い流し、みるみる間に、熱帯雨林と貸した城内が水没し始めた。

ただ、暴走状態の最中でも、味方を傷付けぬよう無意識の配慮が働き、翼と、ベイブ達の周囲だけは水が避けるようにぽっかりと穴が開く。

「…燐?!」と戸惑うように、燐を見上げる翼の姿が目に入るが、暴走真っ最中の燐は、全く気にせず、一気に津波を引き起こす。

見る間に波に飲まれ、溺れる魔物達を見下ろし、燐は再び天に向かって吼えた。
そして、一気に下降し、魔物達を噛み砕き、爪で引き裂き、一頻り暴れ、それから、ハタっと我に帰る。

気持ちよく暴れている場合じゃないと、とりあえず津波を引かせ、チェシャ猫を探せば、津波の最中、高い木の上に登り難を逃れている姿を目にして、「小癪な!!」とばかりに、その後を追った。

「にゃぁ?!! こ、こっち来るにゃあ!! っていうか、竜になるなんて、反則だよ!!」と勝手なこと喚きつつ、床に降り立ち逃げ回るチェシャ猫を追い回しながら、(完璧に忘れておったがそういや命の危機に瀕した際は、竜になれたのであった…)と思い出し、なんか、凄くかっこよく覚悟を決めてしまった自分を振り返って、ちょっと恥かしく思う。
ちょこまかと逃げ回る猫は、大きな体の燐には捕まえ難くまどろっこしくなって、首を巡らせ翼に視線を向けると「キァゥッ! キュゥ!!(こいつの相手はお前に任せたのじゃ!)」と告げ、雑魚の一層に専念する事にした。
勿論燐が何ていったかなんて、まるっきり竜語(?)であった為に翼に伝わっていないのだが、それでも、燐の言わんとしていた事を察したのか、チェシャ猫に駆け寄り、燐とすれ違い様に「凄い特技を隠し持ってたじゃないか!!」と感嘆の声を上げつつ、ぽんとその体を軽く叩いてくれる。

「キァウ!(いや…そんな…)」と照れつつも、翼の言葉に調子にのって、燐は縦横無尽に飛び回り、雑魚を掃討しまくった。
先ほど、燐を追い回しまくってくれた魔物達を今度は逆に追い掛け回し、踏み潰し、払いのけ、牙にかけ、尻尾で叩く。

まさに、怪獣映画の如き暴れっぷりに、感銘を受けたかのように無表情のまま「まぁ、凄い」と白雪が拍手しており、ベイブも、興味深げに燐の活躍を見守っていた。

翼も、燐が魔物達の相手をしている甲斐があり、チェシャ猫との戦いに専念出来ているようだ。

一気呵成にチェシャ猫を追い詰めている姿を確認すると「行け!! そのままやっちまえなのじゃ!!」と心の中で応援しつつ、目の前にいた魔物を、ぷちっとその腕で軽く潰した。

不意に、金色の輝きが燐の目を射た。

きゅっと目を細めた視界に、チェシャ猫が、細いレイピアの剣先で、翼の胸に掛かっていた金色のロケットを引っ掛け、奪う姿が目に入る。

その衝撃で、蓋が開いたロケットの中身。
幼竜化する事で、普段よりも飛躍的にUPした視力でもって、はっきりと確認した、ロケットの中に収められていた写真には一人の男が写っていた。


派手な色に染めた髪をした、精悍な顔立ちの男。

(あれは…一体?)

その正体に思いを馳せれば、チェシャ猫が後生大事に、そのロケットを自分の胸に掛け、ぎゅっと両手で握り締めていた。

余程大事に想う相手なのだろう。

そう察せども、これ以上眺めていても、埒が明かぬと、自分に出来る事をする為に、再び魔物達の殲滅に集中する。

先ほどの津波を逃れたものも、あらかた、その爪の餌食にし終え「ふっふっふ…この燐の実力思い知ったか!! そうそう、そちらの餌なんぞになってやる燐ではないわ!」と胸中で勝ち誇った瞬間だった。

プツンと何かスイッチが切れたような、音が頭の中に響いた。

「うにゃ?」と小さく呟いた自分の声が人の声になっている事に小首を傾げる。
その瞬間、ふと下を見下ろせば、大変高い所に自分が浮いていて、しかも、何だか物凄い疲労感が自分の体に満ちている事を悟った。

「あ…これは…どうも、スタミナ切れじゃ…な…」と自己確認し、自分が人間の姿に戻っている事に気付いた瞬間、一気に体が落下する。

「にぃぃぃぃぃあああぁぁぁぁ!!!」

悲鳴を上げつつ落ちる燐に向かって、翼が振り返りざまに指先を振るえば、ふわりとその体を風が受け止め、ちょいちょいと指先を折り曲げ、ベイブの元へと振るえば、燐の体もふよふよと指先の方向へと浮遊していった。

そのまま、ぱふんとその膝の上におちれば、ベイブにぐいっと額を押され「無茶をする…」と呆れたように言われてしまう。
「う…いや、然し、見よ!! 魔物共の姿は、殆ど見えなくなったぞ!!」と燐が宣言した瞬間、「まぁ…時間稼ぎにはなったが…」と虚ろにベイブは告げ、ひょいとベイブが指差せば、その指先に視線を向ければ這い出すようにして、地面より、また、うぞうぞと魔物達が湧き出てくる様子が目に入り、燐は青ざめた。


「…とはいえ、再び、先程のような一軍が形成されるまで、暫く時間は掛かるだろう。 よくやった」とベイブに言われ、「そ…そうか…」と呟き、無駄骨ではなかったことに、ほっと安堵する。

全身の倦怠感のせいか、動く気になれず、ベイブの膝の上にちょこんと座り込んだまま戦局を見守れば、チェシャ猫と翼は一進一退の攻防を続けていた。
新たに湧き出た魔物達の妨害もあり、翼はかなり苦戦している。

風の力を行使し、善戦はしているものの、やはり一人で複数の敵を相手にしつつ、手練であるチェシャ猫を追い詰めるのは至難の技なのか、徐々に数を増す魔物達の勢力の増強に従って、彼女の憔悴の色は濃くなっていった。

「く…くそう…なんとか…なんとかせねば…!!」

そう呻き、這うようにして再び結界の外に出ようとする燐をむんずと白雪が捕まえて、自分の胸の中に引き寄せる。
絡みつくように首に手を回されて、何だか物凄く怖い声で「…何処へ行かれる気です?」と囁かれた。

ぶわっと全身に鳥肌を立てつつも、「き…決まっておろう…再び囮となるのじゃ…。 つ、翼をなんとしても助けてやらねばならん…!」と燐は訴えた。

白雪が深い溜息を吐き「足腰も立ってないような囮など、囮と言わずに獲物と呼ぶのです」とかなり酷い事を言ってくる。
そして、何だか諦念の滲む声で「それに…もう少し辛抱なさいませ。 もうすぐ、この状況は一変します」と白雪は予言めいた声で言った。


「一変?」と疑問符をあげる燐に白雪は頷き、「忌々しい話ですがね…」と言って、天井に磔にされている女を見上げた。


「…ベイブ様」

白雪が、低い、低い、寂しげな声でその名を呼ぶ。

その瞬間だった。

ベイブは、無意識ではなかろうか?と燐が思わずにいられないような、全くの呆然とした表情のまま腕を大きく振った。

その瞬間、光の波のようなものが起こり、床から湧き出始めていた魔物達の一切、すでに生まれ出で、翼との先頭に身を投じていた魔物達も全て静止する。
チェシャ猫が「何?! 何なの?!!」と混乱したような声を上げた。
天井から、薔薇の花びらがハラハラと散り、落ちてくる。
燐は、視線を上げ、そして目を見開いた。


磔にされた女の腹から白い、子供の手が突き出ていた。
一輪の薔薇を握り締めているその掌から目が放せず、じっと凝視し続ければ、その手はずずずと腕を伸ばし、腕に繋がる肩が見え、体が見え、そして身を起こしたその姿を見て、燐は息を呑み、へたり込んだままの体から更に力が抜けていく。




「磔にされた女の腹から生まれ出でた」。



ウラが。




キメラ達との戦闘の最中、「アリスを迎えに行く」という謎の言葉を残して消えた仲間が、磔になった女の腹から現れている。



ウラがずるり、ずるりと、身を起こし、その光景を見てチェシャ猫が、引き攣った声で叫んだ。


「アリス!!!」


また、アリス。

アリスとは一体何者なのか?


白雪が、カッと目を見開きヒステリックな声を上げる。


「忌々しき、魔女!! とうとう、来た!! とうとう来てしまった!!」



夥しい程の量の薔薇の花びらが、ウラと共にアリスの腹から零れ落ちた。


それは、まるで、深紅の血のような…。


そのままずるんとアリスの腹から落下するウラを、翼が慌てて腕を振るい、強い風を吹き起こして、その体をやんわりと受け止めさせる。
そのまま、ふわりふわりとした速度で、ウラは地上に無事降りてくるその体を、手を伸ばし、抱きかかえるように受け止めた翼が、「どう…して…アリスのお腹から……?」と掠れた声で呻くように、燐も気になって仕方のない事を問えども、ウラは「フフン」と鼻で笑い「あたしに、どうして?なんて野暮な問い掛けは禁物よ。 ただ、あたしは連れてきただけ。 アリスを。 ベイブの想い人を」とだけ答え、それから、天井を見上げた。


大量の薔薇の雨が降り続けていた。

濃い緑色をした世界を、赤い薔薇が埋め尽くし始める。
足元にも、見る見るうちに薔薇のカーペットが敷かれ始め、グロテスクな色合いの植物達が、サラサラと白い砂に変じて崩れていく。





「…Good  mourning Baby」 

ベイブの背後から灰色の手が伸びる。
目を見開き、まるでそのまま倒れこんでしまいそうな程に仰け反るベイブの背中からまるで、生えているかのように、その身を出現させた少女がベイブ顔を覗きこんだ。

灰色の肌に、真っ赤な唇。 真っ黒なウェーブのかかった髪を肩まで伸ばし、白いリボンのあしらわれた、大きなヘアバンドを髪につけ、黒のエプロンドレスのワンピースを身に纏った、何処か見るからに不吉な少女。

燐は自分のすぐ隣で発生している出来事に、思考が突いていけず硬直したまま、ただただ、何が起こっているかを見つめ続ける。

「…ひっ! ひいっ!! いやっ! あっ!! ああっ! なんで?! アリス!! なんでぇっ?!! 何で?!!」

取り乱し、指差しながら叫ぶチェシャ猫に視線を送りアリスと呼ばれる少女がにんまりと笑いかけた。

「Good bye!  The Cheshire Cat」

そうひらひらっと、チェシャ猫に手を振り、それから白雪に笑いかける。

「Thank you Snow white」

ひらりと道化と同じ仕草で頭を下げ、また、アリスはベイブの顔をうっとりと覗きこんだ。

「…会いたかった」
  
ベイブが目を見開いたまま、アリスを凝視し続ける。


「寂しくなったのね、ベイビー。 あんたが呼んだ。 だから、ここまで来れた」

ベイブが引き攣けを起こしたかのように全身を痙攣させる。

見開いた目から涙が止め処もなく零れ落ち、半開きになった唇から不明瞭な呻き声とも、悲鳴ともつかない声がだらだらと流れ出た。


何が起こっているのじゃ?

これは、一体何なのじゃ?

訳が分からず息を呑めば、そんな燐の体をぎゅうっと白雪が抱きしめ、そして、アリスの顔を視線だけで貫きそうな程の迫力で睨み据えていた。

城がガタガタと大きく揺れた。

チェシャ猫頭を抱え「痛い!!! 痛い!! 痛い!!! いやだ!! 助けてっ!!!」と悲鳴を上げて転げ回る。
見渡せば、並み居る異形の生き物達も、皆、その身をのた打ち回らせていた。

これは、アリスの力なのか?
アリスの出現によって、何か、城が変わりつつあるのか?

先ほど白雪が言ってた、状況が一変するという予言は、今、言葉通りの姿で、燐の目の前に広がっていた。

「さぁ、あの時言い損ねた言葉を頂戴」

アリスが乞い、ベイブが手を伸ばすと、その細い首に腕を回した。

ベイブが何度も瞬いて、それから、不意に真っ白な、無邪気な笑みをくしゃっと顔を歪めて浮かべると、その喉から紛れもない子供の声が飛び出した。



「ママ 大好き」



『かって、時の大魔女アリスは、自身が生きる悠久の時の中で、誰の子か明らかになっていない、一人男の子を孕み、産み落とした。 息子の名は【  】。
生まれながらにして数奇な運命と数多の謎を背負う、その子供は生後間もなく、聖CAROL教会が有する聖騎士団の手により保護されたが、自分の血を分けた、最愛の息子を奪われる事となったアリスは悲しみに沈み、時の迷宮の中で自らの心を癒す為に長い眠りについた。 【  】は、その間、母親から譲り受けた魔法の才と、誰かは分からぬ父譲りの剣の腕にて、騎士団にて頭角を現し、団長の地位にまで登りつめ、1700年代初頭に行われた《魔女狩り》にて、皮肉にも己の母の討伐を命じられる。 激しい戦いの中、宿敵としてお互いの正体を知らずに出会ったアリスと【  】は、更なる悲劇! 狂気と禁忌の恋に落ちてしまったのであった』(ロリィナ・アリス著 「千年魔法の構成理論」巻末付録 大魔女アリスの略歴より抜粋)







「♪Humpty Dumpty sat on a wall
 ♪Humpty Dumpty had a great fall
 ♪All the king's horses and all the king's men
couldn't put Humpty together again」


合唱が聞こえる。

燐は、ベイブの言葉の意味を図りかね、混乱のまま、何度も、何度も瞬きをする。
そして「ふにゃぁ」と潰れたような声をあげ、「どういう事じゃ?! どういう事じゃ?! あのおなごは、ベイブの母御なのか? 何故、母御がこの場に?! この歌声は何じゃ?! そもそも、この城は…!!!」と耐え切れず、疑問を並べ立て、それから言葉を失くしている翼に視線を向けた。
だが、彼女も、燐に答えをくれる気はないらしい。



「母…親…?」


何度も、何度も瞬き、翼が掠れた声で呻く。

そして、秀でた美しい形の額を掌で押さえると、固く目を閉じ「そんな…」と震える声で呟いた。


「…間違って…る…」
「何が?」
ウラが優しい声で問い返す。


「だって、彼らは…!」
「そうね。 でも、しょうがないわ」
「しょうが…ない?」
「今、この状況を打開するにはこの方法しかないって意味でもあるわ」


ウラは、一歩、二歩と足を踏み出す。


「ねぇ、翼。 それに、見て」

首をかしげてウラはクヒッと笑い、両手を広げてクルリと回ると、「さっきまでの世界より、今の世界の方がずっと綺麗!」と快哉をあげた。

まっしろな世界。

赤い薔薇だけが降り注ぎ続けている。

ベイブの真っ白な唇に、アリスの深紅の唇が重なった。





「It's Showtime!!!」とウラが叫んだ瞬間、チェシャ猫を残し、無尽蔵と思われた魔物達が一斉に掻き消えた。

「っ!! なんじゃぁ?!」

そう喚きあたりを見渡せば、ウラの髪や、翼の髪にまるで、誰かの手がそっと挿したかの如く、一輪の薔薇が飾られた。
燐が自分の髪に手を伸ばせば、そこにも薔薇が挿されていて、燐はヒュウと甲高い音を立てて息を吸う。

子供の笑い声が響き渡り、不思議な音楽で世界が満たされる。



「Mother-Alice. 彼女が、この城の創造主。 物語の結末は、ここからよ」


ウラが、そう言いそれからチェシャ猫に視線を向けた。

この城の創造主という事は、あのアリスとやらが、この城を創った者なのだろうという事を、燐は察し、今目の前で繰り広げられている、ベイブやウラの言葉を信じるのなら、どうも「母と息子」の、だがその関係性から見れば、余りに濃密なキスシーンから目を逸らす。

その背徳の香りは、燐には余りにもキツ過ぎて、もう、なんでもいいから早く終わって欲しいと、そればかり一心不乱に考えた。


「所詮ただの幻が…」

震える声で、自分を押さえ込むように、白雪が呟く。

「幻…?」と燐が問い返せば、「…そう…アリスは、とっくの昔に、ベイブ様の手により封印されております。 ほら、あのように」と、天井の磔になった女を指差した。
確かによくよく見れば、灰色の少女と全く同じ顔をしている。
「このアリスはただの幻。 ベイブ様がご自分の心の中に抱いている幻想なのです。 ベイブ様はアリスをどうしようもなく憎んでおります。 ですから、アリスの姿を目の当たりにせぬよう、アリスはベイブの心の深層に閉じ込められて、自由に動くことは叶わなかった。 だが、あのアリスは、それでも、ベイブ様のお傍に、浅ましく侍ろうとし、道化師の人形を依巫にして、この城の中でベイブ様に仕え続けていたのです。 ですが、ここに来て、とうとう、幻そのものが表層に上ってきてしまった…」 

あの、道化師が、この目の前におる、アリスとな?!
驚きの余り口を開閉した後に、はふっと溜息を吐き出す。

「その…何故、それほど、アリスをベイブは忌避しておるのじゃ?」

そう燐が問えば、白雪は一度頷き、流れるように言葉を続けた。

「アリスは、ベイブ様に討たれて、この城に封じられた。 ベイブ様は、そのせいで、忌まわしいアリスの呪いに掛かり、千年王宮に千年縛り付けられる呪われた王様になっりました」
燐は、チラリと、ベイブとアリスの様子に視線を走らせ「然し、仇の間柄なれど、二人は愛し合っており、しかも親子関係にあったという訳なのじゃな。 故に、ベイブは、心の奥底に、アリスの面影を抱き続けた…」と分ったように呟けば、そのくだりは大層白雪の気に障ったのか「愛し…合っていたなどと…私は…認めておりませぬ…」と軋む声で否定された。

その声の迫力に、思わず燐、「うん! 燐も、そう思っておった! やっぱ、親子は不味い!! 余りにも不味すぎるでのう!!」と白雪に訴える。

「う…そだ…アリス…が…来るなんて…そんなの…ありえない…ありえないっ!!」
悲痛な声をあげ、それからチェシャ猫は、翼から奪い取った金色のロケットを、ぎゅうっと握り締める。

アリスが、ベイブから唇を離すと、ウラを見てにっこり笑った。


「…うちが出来るのはここまでや。 おおきに、ウラ。 やっと、この子に会えた。 やっと、この子を捕まえられた。 やっと、ずっと一緒にいれる。 この先は、あんたら次第。 あんじょう、気張りや」


そう言った瞬間、その体はベイブの背中に吸い込まれ、ベイブは仰向けに倒れる。

白雪が、自分の髪にも挿された薔薇を忌々しげに手に取ると、クルリと宙に翳し、そして後ろへ放り投げた。

「いずれ…ベイブ様の…お心から追い出してやる…息子を恋うなど…正気の沙汰のとは思えない…私が…ベイブ様を…お守りしなくては…色情狂の…気が狂った…魔女め…」
そうブツブツと思いつめたように呟きながら、ベイブが張っていた結界の外へと足を踏み出し、白雪は冷たい声でチェシャ猫に言った。

「さぁ? お前は、これからどうするの?」

チェシャ猫は目を見開き白雪を見つめ、そしてウラ、燐、翼に順繰りに視線を送り、何度も何度も瞬く。

翼が剣をチェシャ猫にむけて構え、燐もさっきまでの疑問や混乱は一旦脇に置き、キッとチェシャ猫を睨み据えた。

ウラが腕を組んで「だーれもいなくなっちゃった! 誰一人もよ?」と言って「クヒッ」と笑う。

「脆いもんね。 あんなにたくさんいたのに、『ママ』一人に誰も勝てやしなかった! お前がベイブに齎した狂気なんてものはねぇ、アリス一人で吹き飛んじゃうようなチンケなもんだったのよ」

ウラの言葉に翼が「だから、彼女をここまで導いたの?」と問い掛けてくる。
ウラは一度頷いて「アリスなら、この状況を打開出来ると思った」と答え、それから、不意に表情を苦しげに歪める。 

「香奈は死んだわ」
「香奈? 誰じゃ、それは」

燐の質問にウラは「パパとママがいて、きっと、呆れる位平和に暮していた筈の、ただの女の子よ」と肩を竦めた。

「クソっ垂れな奴らに捕まって、クソっ垂れな目にあって、クソっ垂れな殺され方をしてしまった。 あたしは、だから、怒ってるの」

そう言う最中、ウラの身から、バチバチと音を立てて、青い稲光が発生し始める。

察するに、香奈も、この城に送り込まれたキメラの一人だろう。
ウラを乗せて走って言った、キメラのペガサスの名かも知れぬ…と考えて、燐は痛ましげに顔を顰める。

思い出さないように、深く考えないように、今はしていた。

亡くなった、たくさんの命の事をきちんと考えると、辛くて立ち上がれなくなりそうで、今は、まだ、思い返してはならぬと、自分を強く戒めた・

「そう、怒ってるのよ、お前、聞いてる? 容赦はしないわ。 どうしても、出来ない」

青い稲光が、バチバチとウラの周囲で瞬く。


「どんな手段を使っても、あたしはこの城を守りたいと思ったし、可哀想な香奈の為にもお前の事は許せないと思った。 だから、アリスを連れてきた。 結果、お前は一人ぼっちよ。 誰もいない。 お前には、誰もいない!」

ウラが勝ち誇ったように告げれば、チェシャ猫は何度も何度も首を振り、金色のロケットを強く握り締めた。

「違う!!! いる!!! わっちだっている!! わっちの仲間が!! わっちの王子様がいる!!」


悲鳴のような声。


「自分達ばかり絆があると思うな! 自分達ばかり愛されていると思うな!! 自分達ばかりっ!! 自分達ばかりっ!!! わっちだって生きている!! 生きているんだ!!!」

涙を目に滲ませ身を捩らせるチェシャ猫に対し、翼が、悲しげな表情のまま「だったら!!」と血を吐くような声で言った。


「だったら、何故、君はっ!!!」


金色の髪をくしゃっと自分の掌で握り、苦しげに囁く。


「…どうして…人を愛する事を知っていて……他の人の命を粗末に扱えるんだ……!!」

燐は、翼の言葉に思わず視線を向ける。


「…愛する?」


そう呟けば、翼が一度頷き、ずっとへたり込んでいた燐は、あのロケットの中に収められていた写真の男の事を翼は言っているのだと察し、よろよろと立ち上がり、チェシャ猫に問い掛けた。



「そのロケットの中身の男が、お主の想い人か?」と燐が問えば、翼が震える声で呻いた。



「…K麒麟の首領…呉虎杰の写真が入っていた…。 君の想い人の正体は、彼で間違いないね?」


燐は目を見開いたまま硬直する。
まさか、そんな…。
あの写真の男が、K麒麟の首領?


「なんじゃ、それは? 何故じゃ? この城の者と、何故、外の世界の人間が……?」



千年王宮の住人であるチェシャ猫と、K麒麟との繋がりが、まさかそんな形であるとは想像しておらず、ただただ、ポカンとし続ける。

全ての疑問にはチェシャ猫よりも白雪の方が的確に答えられる気がして、彼女に視線を向ければ、嘲笑うような酷薄な笑みを浮かべたまま「所詮、猫は猫。 お前には王子様なんて訪れはしない」と囁いた。

そして一歩、一歩と、チェシャ猫に近付きながら、自分の胸に手を這わせ、そして、ずぶずぶと押し開く。



その瞬間、再び世界は一変した。



城と赤のコントラストで埋め尽くされていた世界が、万華鏡をくるりと回した時の如く鮮やかに変化を遂げ、鏡張りの銀色の世界に姿を変える。
四方が鏡に覆われた、その空間には、その四方にチェシャ猫が映し出されていた。


「逢瀬。 馬鹿な猫と馬鹿な男の、馬鹿な逢瀬の光景で御座います」

白雪が虚ろな声で、誰にともなく説明する。


一枚の大きな鏡に手を這わせ、チェシャ猫が頬を染めて向こう側を覗いている。
鏡の向こう側には、一人の年若い男がいて、チェシャ猫と同じく鏡に手をあてて、彼女と顔を突き合わせていた。

「鏡よ 鏡 世界で一番 美しいのは だぁれ?」

無邪気な声でチェシャ猫が問う。
鏡の向こうの男は少し笑って、それからチェシャ猫を指差した。

「ふふふ」と肩をすくめ、掌を唇に当てて「嘘。 違うわ」と言って、それから自分の猫の耳に手をあてる。

「だって、こんなものが生えてる」
すると鏡の向こうの男は首を振って「関係ないよ」と囁いた。
「尻尾もあるのよ?」
「それも、可愛いじゃないか」
「わっち、人間じゃないの。 お城の化け物なのよ?」
「それでも、お前は美しいよ」
男の言葉に、また「ふふふ」と笑い、それからピタリと鏡に張り付く。

「世界で一番?」
「ああ、世界で一番」
「わっち、お姫様になれるの?」
「俺がしてやる。 お前をお姫様に」

何度も何度も瞬いて「約束」とチェシャ猫が言えば、男も頷き「ああ、約束だ」と答えた。


「…鏡は…お前ね? 白雪」

ウラが問えば、白雪が頷き「私が自我を持つ事を許されたのは極最近の事ですから…、この頃は、ただ『全てを見通す鏡』として存在しておりました。 しかし、この頃私が見聞きした出来事全て、私の記憶の中に確りと存在しております。 チェシャ猫は、私を通じて、あの男と出会い、そして愚かにも恋に落ちた」と冷ややかな声で言う。


「愚かなチェシャ猫の為に、あの人間の男は、この城を手に入れるありとあらゆる方法を探した。 少しでも城に近づく為に、力を手に入れようと裏の世界に身を投じ、チェシャ猫に会いたい一心で、組織のトップにまで登り詰め、そして、彼女と同じ『獣』と『人』を融合する技術と知識を有した一人の男を自分の傍らに置いた」


「それが……Dr…」
翼が掠れた声で呟く。


ウラは細い指を顎にあて、「…つまり、Drも、この城に何らかの関わりのある人間だという事でいいのかしら?」と白雪に問い掛けた。

確かにウラが言う通り、チェシャ猫と虎杰が恋人関係にあるのなら、この件に深く関わる、もう一人の登場人物Drも千年王宮の関係者であり、それが故に、K麒麟という組織に加わったと考えるほうが、自然だろう。
キメラに爆弾を埋め込んだのも、Drに違いないと確信しつつ、チェシャ猫、Dr、K麒麟の首領の関係性が、まるで糸を解くかのように明らかになっていく事燐はゾクゾクと身震いした。

正直ややこしい話は好かないのだが、今回ばかりは、真実を把握せねば、後々気が済まなくなるだろうというのが予想され、燐は曜に後で話が出来るようにする為にも、じっと口をつぐんで耳を澄ます。


白雪はウラの問い掛けに頷くと、「Dr…あの男も、数奇な運命の果てに、この城に辿り着いた愚か者では御座いました」と密やかに笑う。

「今は、ジャバウォッキーと女王がぬけぬけとベイブ様のお傍に侍ってはおりますが、以前は、チェシャ猫とDrが、その座にいた時期があった。 永きに渡って、この城が狂気と殺戮に満ちていた時代です。 あの男は、ジャバウォッキーと同じく、切なる願いを抱いてこの城に導かれた。 あの男の望みは、唯一つ。 己の妹の命を救う事」


妹…?
少し首をかしげた燐は、「まさか…」と呟き、チェシャ猫に視線を送る。


「彼は、生まれた折より不治の病を患い、成人を迎える事なく死出の旅へと送り出される事が運命付けられていた自分の妹を、別の生命体と融合、合成させる事によって、命を救おうと医学の限界に挑み破れていた。 何度もの人体実験。 人を攫い、動物と掛け合わせては、数多もの陰惨な死を齎していた、死神。 あの頃の日本は、今よりも闇が深う御座いましたから、実験材料は簡単に攫えたようでございます」

淡々と説明し続ける白雪の言葉に、街燈等というものの存在しない真っ暗闇の中、人を攫い続ける白衣の男の姿を思い浮かべて、「まるで…怪談じゃ…」と小さく呟く。

「…されど、現代医学ですら為し得ていない人と動物の合成なぞ、その時代に成功する筈は御座いません。 彼は、殺人鬼と成り果て、狂気の人体実験の果てにベイブ様に出会い、そして乞うた。 キメラを作る術を。 人と動物の合成を作る為の技術を。 ベイブ様は、その望みに答え、そして、その結果生まれたのが……」

白雪は、そこまで言ってチェシャ猫を指差し「…あの愚かな猫で御座います」と嘲笑うように告げた。


「幾人もの死の果てに命を繋いだ呪われた娘。 その後、ジャバウォッキーに出会う事によって、変遷を遂げたベイブ様の手によりDrはこの城から放逐され、チェシャ猫は深層奥深くへと閉じ込められました。 その頃は、まだ、深層にてただの鏡として存在していた私を通じ、チェシャ猫は、あの男と通じ合い、そして、この城の簒奪という恐ろしい目論見を企てた訳なのです」

これで、何もかもが腑に落ちたと燐は一人頷く。
まぁ、例え筋が通っていなかろうが、燐にとってどうでもいいっていうか、深く考えない性質も相まって聞いたところで、そうそう覚えてられるとは思えないややこしい話ではあったが、それでも、謎が全て明らかになったお陰で、幾分スッキリしたような気持ちを味わう。

「しかし、本当にふざけている。 汚れた、醜い、化け物風情が。 この城で、ベイブ様に侍り、更に幾千もの死を喰らったお前に王子様が来るだなんて、そんな筈ないのに」

チェシャ猫の目に涙が溜まっている。

「違うわ! 来るもの! あの人は、絶対に、来る! そして、このお城で、わっちはお姫様になって、王子様とお兄様と一緒に、ずっとずっと幸せに暮らすの。 その為ならなんだって出来る。 どんな事だって厭わない。 悪い王様は、地下牢に閉じ込めるの。 魔女は、熱い鉄の靴を履かせて殺してやる。 お前は!!」

白雪を指差し、チェシャ猫が唸る。


「お前は、その身を喰ってやる。 ソテーにして、美味しくね」

唸るチェシャ猫を眺めながら、彼女と正面で相対する翼が見る見る青ざめていくのが分かった。
息がうまく吸い込めないかのように、ひくり、ひくりと細い喉が蠕動している。
泣き出しそうに歪んだ顔が、胸に痛くて、ああ、翼は苦しんでいるのだと燐は理解した。

優しい翼だから。
ただ、ただ、優しい翼だから。


理由なき悪など、ない。
物語にしかない。

悪の限りを尽くそうとも、罪を犯す人間には、それぞれが、それぞれに、何某かの理由があり、事情がある。

それが、他者から見れば納得のいくものであろうか、理不尽極まりないものであろうか、罪を犯す人間は、等しく犯した罪を背負わねばならない。


たくさんの人が、チェシャ猫個人の欲望のために死んだ。

それは、決して美しくない。
ただ、ただ醜い、許されざる現実。


燐は、どうしても堪えかね、「どんな事を…しても良いなんて…そんな筈はなかろう」と、チェシャ猫を見つめながら、困り果てた声を出した。

燐の幼い倫理ですら、チェシャ猫の言動は身勝手が過ぎると明確に判断できた。

「それは、間違いじゃ。 猫よ」

最初の頃に見せた、強引で、我が道を行くような声音ではなく、自分でも迷いながら、それでも、信じている言葉を自分自身にも言い聞かせるように燐は口を開く。


「自分の欲望のために、人を踏みつけにするような事はあってはならん。 他人の犠牲の上に、為される大儀等ありはせんのだ。 人を愛した。 その事が罪なのではない。 人を愛したその気持ちを…何故…お主はもっと……もっと優しい事に…」

死んでいったキメラ達。

散った、あのたくさんの命。


それぞれの生活があり、それぞれの人生があった。


世の中は平等なんかじゃない。

そんな事燐にも分っている。

それでも、命の尊厳だけは、その貴さだけは等しいと、燐は思っていて、だから、尚更チェシャ猫は許せなかった。


人を好きになるという事は、優しい事だと思ってた。

暖かで幸せなことだと思ってた。


こんな悲劇を生む恋を、燐は自身の幼さゆえにチェシャ猫の想いを、「恋」などとは認めたくなかった。

どうしても認められなかった。


だが、届きはしないのだろう。

どれだけ真摯な言葉を吐こうと、燐の言っている事は、チェシャ猫には届きはしないだろう。

この上なく悟る。

チェシャ猫と、己は、余りに違う生き物で、だから、きっと、どこまで行っても平行線でしかありえない。

それでも言葉を重ねずにはいられなかった。

誰のためでもなく、自分自身のために、祈るように燐はチェシャ猫に言葉を送っていた。

「うるさい!!! うるさい!! うるさいっ!!!」

頭を振り、ヒステリックに喚いたチェシャ猫が、レイピアを振り回すようにして、翼に突進する。


「…君は…あのキメラ達をどう思ってるんだ?」


滅茶苦茶な攻撃。
それは、最早翼にとっては何の脅威でもないのだろう。
青ざめたまま、チェシャ猫の必死な攻撃を受け流し、静かな声で問い掛けた。

「彼らがあんな風に死を迎えた事を、君はどう思った?」

「どう…って?」

チェシャ猫が、まるで思いもよらない事を聞かれたという風に首を傾げる。



「それは、お兄様がやった事を言ってるの?」



キンッ!と高い音を立てて剣と剣がぶつかりあい、小さな火花が散る。
抜き様に交差し、間髪入れずお互いに振り返り、再び剣を構えた。

「だって…しょうがないじゃない? わっちがお姫様になるのを邪魔してきたんだよ? お兄様は、わっちを、怖い事や、辛い事から守ってくれるってお約束してくれているんだ。 所詮、お兄様の手によって作られた存在の癖に、わっちに牙を剥くだなんて、生意気だわ。 馬鹿げてる! なぁに? 翼? どうして、そんな事を気にするの?」

ふふふっと笑いチェシャ猫は、狂った声で「変な子ね。 翼。 頭がおかしいんじゃない?」とのたまい、その瞬間、燐は、ああ、あの猫の心は、完全に狂い果てているのだと諦念した。


四方の鏡に映し出される男が言う。

「何があっても、迎えにいく。 どんな事をしてでも、お前に会いにいく。 待っててくれ」

鏡越しに、チェシャ猫と男が口付けを交わした。


美しい思い出。

猫の、大事な思い出。


この美しい思い出が作り出した、罪は余りにも重い。


呪われた恋。


そういう恋もあるのだろう。

だが……。


「もう、我慢ならん!!」


そう言いながら、燐は地団太を踏む。

苛々とムカムカが限界に達していた。


キッとチェシャ猫を睨み据え、「お主のような女が、燐はいっちばん嫌いなのじゃ!!!」と燐は喚いた。
「甘ったれてんじゃない!!」
燐は、鏡の中のチェシャ猫を指差してそう叫ぶ。



「誰かを傷つけなきゃ、誰かを踏みつけにしなきゃ、自分の望みを叶えられないなんて、んな筈はないじゃろう。 それは、白雪の言う通り、愚か者のすることじゃ! 弱虫のする事じゃ! 阿呆のする事じゃ!! このお城がいやだというのなら、こんなトコで、男が迎えに来るの待たずに、とっとと逃げ出す術を探すほうが、ずっと、ずっと賢明なのじゃ! 祈ったって! 助けを求めたって! 届かない場所はある…! だが…お主はいかん…一番いかん事をした…!」
「じゃあ! どうすれば良かったっていうのよっ!」

チェシャ猫の問い掛けに、燐は即座に答えた。

「そんなもん、知らん」

あっけらかんとしてすらいる燐の物の言いに、チェシャ猫が思わず言葉を失う。

「皆、それぞれに絶望を知り、苦労をし、辛い目にあって、それぞれに這い上がっている。 皆、自分で考えた。 自分で道を切り開いた。 燐も、翼も、ウラもじゃ。 他の二人の事は、燐も今日出会ったばかりで、そうそう、何も知る事はないのだが…多分そうだ! うん、いや、知らぬのだけど、この冴え渡る第5感が言っておる!」
言い募る燐に、とりあえず、呆然とした声ながらも、最早条件反射となっているのだろう。

「そこは、何故…普通に第6感じゃ駄目なのかな?」

そう律儀に突っ込む翼に、ああ、普通に一つ数を間違えた!と気付き、だが、それを説明するのも億劫で、とりあえず誤魔化す為に、意味もなくブイサインを翼に対して返しておく。

そして、燐は、そのブイサインのポーズを、どのタイミングで引っ込めたら、一番、かっこ悪くなくて済むのか、既に取り返し持つかない程、間抜けだよ?という状況には気付かないまま、言葉を続けた。
「どうしようもない、足掻きようのない絶望もあろう。 やり直しが聞く失敗の方が世の中には少ない。 そんな事は、燐とて知っておる。 だが、聞く限り、お主の置かれた状況が、殺戮に走るに足る絶望を齎していたとは、燐にはどうしても思えん。 いや、違う。 猫よ。 例え、どんな理由があろうとも、人の命を奪う事は許されぬ事なのだ。 だから…」とそこまで言って言葉を切り、燐は真摯な目で翼を見つめた。

「背負う。 燐も」

この苛立ちもムカつきも、それすなわち、優しさゆえに、決断を下せぬ翼のせい。
彼女が、燐とウラ、二人の存在すら気遣って、目の前で自分達のチェシャ猫を「殺す」事に、躊躇しているのだという事は、燐は重々承知していた。


そこまで気遣われる、自分に対してすら苛々する。

「翼、お主は優しすぎる。 だが、今は、迷う時ではない。 一緒に背負う。 行け。 もう、救えん。 救えんよ、この猫は。 裁く等とおこがましい物の言いはせん。 だが、こやつは殺し続けるだろう。 罪もなき者達を、無垢な命を…、後戻りはせん、もう、心は彼岸を渡っておる。 そういう命もある。 行け。 肉体も、心に添わせてやれ。 燐が…許す」


それは、まるで、託宣の如く、城に響き渡り、その覚悟にウラが微笑みながらパチパチパチと拍手しながら小さく「ブラヴォー」と呟いた。


「…翼。 あたしも背負うわ」

微笑を深め、翼に囁く。

「もし、貴方が辛いのなら、いっそ、全部あたしに背負わせたって構わない。 あたしは悪い魔女よ。 誰かに責められる時があったなら、魔女にたぶらかされたって仰い」

そう告げれば、翼は首を振り、「…違う。 これは僕の罪だ。 君達には、微塵も背負わせてなんてあげない。 大丈夫。 僕は、僕の役目を果たす。 それだけだ…」と呟き、それから、その真っ青な瞳は、チェシャ猫を貫いた。

「…行くよ」

翼の言葉に、チェシャ猫は、まるで、今までの狂乱が嘘のように静かな静かな表情を見せ、翼の顔を正面から見つめる。


「…ごめんね。 君にもっと早く出会えていれば、僕は君を救ってあげられたのに。 寂しい場所に、ずっと一人ぼっちにし続けた。 大丈夫。 お姫様。 迎えに来たよ。 僕が」

悲しい顔。
優しい声。
痛みに堪えるかのように、翼はぎゅっと剣の柄を握り締めている。

やはり、翼は、優しすぎる。


そう思いながら、それでも自然燐は両手を組み合わせ祈っていた。

勝利をではない。


ただ、祈る。


誰にでもなく。


何をでもなく。


翼の為に。


竜の祈り。


「…翼…ありがとう。 でも、あんたじゃないんだ。 わっちの王子様は、ずっと前から決まっていて、その人のお姫様にしか、なりたかないんだ。 だから、わっちは行けない」


チェシャ猫は、静かな、静かな声でそう告げて、それからレイピアを構えた。


「あの人を、待っている。 そういう約束だから」


彼女は、ずっと、この約束を信じて生きてきたのだろう。
この狂気の城で、自分自身も狂いながら。

「約束したもん。 分かんないよ、あんたらには。 ずっとこの場所の深層で、閉じ込め続けられる寂しさなんて、分からない。 いきなり、深層に追いやられて、真っ暗闇の中で一人ぼっちだった。 王子様だけが、わっちの光だった。 狂ってる。 そりゃあ、そうだよ。 だって自分の息子に恋をするような女が生み出したお城に住んでいるのだもの。 だけど、あと少し。 あと少しで、救われる。 わっちも、この城に棲んでいる者達、みんなもよ? 王子様が助けてくれるの。 そして、わっちをお姫様にしてくれる。 王子様は、このお城の王様になるの。 ずっと昔からの約束なの。 わっちは、あの人に会いたいだけなの。 この城に閉じ込められている、わっちを救い出してくれるのは、あの人だって決まってるの」

言い募り、そして唇を噛む。

「邪魔しないで」

そう告げると、銀色のレイピアを振りかざし、チェシャ猫は一気に駆ける。
翼も剣を構え、そして、二人はぶつかり合った。

喉元を正確に突きに来るチェシャ猫の剣先を下から掬い上げるように跳ね上げれば、くるりと、翼の背後に回りこむように半回転し、肘を素早く、その後頭部に打ち込もうとしてくる。
翼が、身を屈め、その肘を掴むと、体を添わせるようにして、片腕だけで、その体を投げ飛ばした。
クルンと身軽な様子で宙返りし、着地から間髪入れずに、また翼に突き込んでくる。
翼は指先を振るい、風でその突進の速度を落とさせると、指先で、一瞬自身の剣を撫でた。
その瞬間、剣の色が紅玉の如き赤色に染まり「行けっ」と翼が命じるかのような声で言いながら剣を振るえば、まるで羽を広げた鳥の翼の如き赤い斬撃がチェシャ猫の腹に命中する。

「ひにゃあっ!!!」

為す術もなく吹っ飛ぶチェシャ猫を見送り、銀色の色に戻った剣を構え、「ありがとう」と小さく呟くと、「君達が無碍にした命の力だ。 痛いだろう? でも、彼らはもっと痛かった」と震える声で言った。


「燐の言う通り、僕だって裁くなんて言うつもりはない。 『殺す』んだ。 君を『殺す』んだ。 自分を誤魔化すつもりは毛頭ないよ」

翼の声に、ゆっくりと腹を押さえたままチェシャ猫は立ち上がり「わっちと一緒になるんだね。 翼も」と薄く笑う。
翼はコクリと頷くと、再び銀色の剣を指先で撫でた。
紅く染まる剣。
チェシャ猫は目を細め、「ああ…本当は…綺麗なまんまで…王子様に会いたかったけど…しょうがないね…翼強いんだもん。 このままじゃ、わっち、お姫様になれない」と言い、そして、チェシャ猫は胸の谷間から「人間の耳」を取り出した。


「これは…王宮の鍵…」


その瞬間、跳ね起きるようにして倒れたままだったベイブが起き上がり、自身が腰に差してあった大剣を抜き去ると、無言のまま横なぎに勢いよく振るった。
燐は体が吹き飛びそうになるのを、手近にあった柱に掴まり何とか食い止める。


「…誠と竜子がいるから お前は もう いらない」


ベイブが子供のような声でチェシャ猫に言った。


剣圧に吹き飛ばされ、ガン!と強く壁に背中を打ち据え、床にへたり込んだチェシャ猫が、肩を揺らしながら小さく笑う。

「それはわっちの台詞さね」

そして、鋭い爪で、自分の着ているスーツの太ももの部分を引き裂き、滑るような色合いをした、その艶めかしい皮膚に小さく開いた穴に、その耳たぶを突っ込んだ。


「っ…あれは…何を?!」

振り返り、白雪に問う翼に「ジャバウォッキーや、女王が持つ『小指』と同じ、現世とこの城を繋ぐ鍵です!! 自身の肉体の一部を、現世に住まう人間が、この城の奴隷となった際、その証として王宮の鍵の力を付与しているのです!! ハンプティからは、放逐の際に取り上げてはおりましたが、あの猫は、未だこの城の住人ゆえ、鍵を返させる事が叶わなかった…!」と白雪が常にない焦った声で説明する。

「お前! 何を…『呼ぶ』つもりなの?!」

白雪の問い掛けに「見通して御覧なさいな。 その鏡で」と嘲るように言い放ち、差し込んだ「耳」の鍵をガチャリと捻った。


「深層では現世に扉を開く事は叶わなかったけど、表層まで来れば、この『鍵』を使う事が出来る! さぁ、よくも、離れ離れにしてくれたねぇ、あんた達。 何を呼ぶかなんて、決まってるでしょ? 『鍵』で王宮に任意に招く事が出来るのは、『鍵』の使用者の血縁関係にある者だけ…!」

にたりと笑って、チェシャ猫は高い声を上げた。


「お兄様っ!! わっちを助けてっ!!」


まるで、チェシャ猫の呼び声に応えるかのように、床に眩く光る円形の文様が浮かび上がる。

青白い手がゆらりと這い出され、そして、床に手をつくとぐぐぐっと、一人の男が現れた。

血に塗れ、陰惨な表情をした、異様に目玉の大きな小男が、まるで悪魔が召還されたの如くのおどろおおろしい様子で這い上がり、ゆっくりと床の上に立つ。
血飛沫の跡が残る白衣を翻し、男はチェシャ猫を振り返ると、満面だからこそ不気味な不気味な笑みを浮かべ、その体を抱きしめた。

あの男がDr。
想像以上の、薄気味悪さに燐の背筋がゾゾゾと震え、思わず傍にいた白雪にしがみついた。
白雪が、ゆっくりと燐を見下ろして、それから白い手で、優しく燐の頭を撫でる。


「何年ぶりでしゅか? あの忌々しい王様に引き離されてから」
「もう、覚えてないよ。 でも、もうじきだよ。 もうじきだよ、お兄様。 王子様と、わっちと、お兄様が、ずっとこのお城で暮せるようになるまで、あと少しなんだ」

チェシャ猫が、うっとりとした声で言う。

「そうしたら、また、あの時みたいに毎日愉快に過ごそうよ。 血の海の中で、思うがままに、人間を玩具にして」

狂気の微笑を浮かべあう姿にウラが、気に入らなそうに顔を顰め、Drに向かってタン!!と強く足を踏み鳴らし、雷を落とす。
その瞬間、Drの背中から大きな蝙蝠の翼が生え、チェシャ猫と自分ごと覆い、その雷を撥ね退けた。

なんと?! あの男、自分の事もキメラにしておる!と慄き、正気の沙汰ではないと、身震いする。
いやしかし、妹の為に人を攫い、人体実験を繰り返していたという、その神経自体が正気ではない。
年季の入った狂人が、己の体に改造手術を施しているなんぞという事は、むしろ、然るべき流れであったのかもしれない。

「っ!! 燐!! あたしに血を!!」
ウラが自分の力を増強すべく、そう言いながら、燐の元へ走り寄ろうとする。
燐も、その声に答え、自分の指の皮膚を歯で食い千切り、ウラに差し出そうとした瞬間、Drが無造作な調子で燐とウラの間に小さな黒い球体を投げ込んだ。


「っ!! 危ないっ!!!」

翼が悲鳴めいた声をあげ、そして、右手を大きく振る。
その瞬間、二人の間で炸裂した爆撃から守るように風の壁が立ちはだかり、燐は爆撃に煽られ横倒しに倒れた。

「ウラ!! 燐!! 大丈夫かい?!」

翼の問い掛けに「こんなもの、なんでもないわ」と憎まれ口を叩きながら、ウラがヨロヨロと立ち上がる。
燐はその声を聞きウラの無事に安堵しつつ、体中がズキズキ痛み、火傷も負っていたが、心配をかけないでおこうと掠れた声で「大丈夫じゃ!」と、精一杯元気に返事をした。

白い煙が上る最中「にゃぁうっ…」と低い地を這うような猫の声が聞こえてきた。


ガリリガリリと不可解な音が聞こえてくる。
その不穏な音に、燐が目を見開き、視線を向ければ、そこにはピンクと紫色の縞模様の、見上げるほどに、大きな大きな猫がいた。


「にゃぁぁおうぅうぅうぐるるるぅぅぅ…」


低く唸る声が空間を揺らす。
鋭い牙を剥き出しにし、尖った爪で何度も、何度も床を引っ掻く。


「…これが、この子の本来の姿でしゅ。 可愛いでしょう? 僕は、充分この姿のままで良いと思うんでしゅが、猫ちゃんがイヤだって我が儘を言うものだから、お薬で女の子の姿に止めてあげていたんでしゅ」

長い尻尾が、ゆらりと揺らめき、Drの体に緩く巻きつく。
その柔らかな毛に頬を摺り寄せ、Drは「でも…この姿にならなきゃ、勝てない相手がいるようでしゅね…。 中和剤を、さっき打たせて貰いました。 猫ちゃんは、しゅごく、しゅごく強いんでしゅ。 何てったって、僕が全霊を込めて作り上げた傑作でしゅからね。 あなた達には勝てましぇん。 何があっても」と勝ち誇る。

「にゃあおう」と、チェシャ猫はまた鳴くと、ゆっくりと燐達を見下ろし、にいいっと猫にあるまじき、歯を剥いた陰険な笑みを浮かべ、そして手を振り上げた。


「っ!!! 喰らいなさい!!!!」


そう言いながら、ウラが手を叩き、くるりと回って雷撃を猫に落とす。
翼が、再び剣を紅く染め、斬撃を放った。

だが、その身の巨大さと、厚く覆われた体毛に弾かれ、肉体にまで攻撃が届かない。
今の力のままでは、チェシャ猫は倒せないと即座に判断した燐は、歯で自分の指先を噛み切ると、まずウラに突き出した。

「早く!!!」


燐に呼ばれ、また駆け寄ろうとするウラの足元に、チェシャ猫の長い尻尾が打ち据えられる。

「きゃあっ!!!」

ウラが悲鳴をあげ、転んだその体に、チェシャ猫が振り上げた掌を打ち下ろそうとしているのを目の当たりにすると、燐は頭が真っ白になり、反射的にウラの体に覆い被さっていた。



「っ!!! 何やってるの!!!」

そう大声で怒鳴るウラに、燐はきっと引き結んだ表情を見せ、固く、固く目を閉じる。


二度目の竜化。

成功するか否かは分からない。
成功したとて、その瞬間、憔悴の余り、命を落とす可能性も高い。

だが、目の前でウラの命が奪われるのを黙って見ていられるはずもなかった。
計算でもなく、思慮でもなく、ただ、自然に、当然の事のように、僅かでも生き残る可能性のある自分の命を賭して、燐はウラを守ろうとした。


曜先輩。


目を閉じる。


大丈夫です、燐は無事、無事、曜先輩の元へと戻ります。




「やめろおおおっ!!!!!!」



翼が悲鳴を上げたその瞬間、ベイブが「やむをえん!!!」と怒鳴り、そして「来い!!!!」と何かを手招きした。

先ほどチェシャ猫が作り出したよりも遥かに大きな白く光る文様が空中に作り上げられる。


極彩色の翼が、文様から生えるように開かれ、その羽を撒き散らした。

背中が大きく開いた金糸にて龍の刺繍が大胆に施された光沢のある中国服を身に纏った男が、ゆっくりと現れた。
黄金色の、波打つ目に眩しい程の光を放つ髪や目は、見るものの目を射るのに、見つめ続けていたくなるような、それでいて畏怖の念を抱かざる得ない程の輝きに満ちている。


キメラではない。

そんな不自然な生き物ではない。


金色の角が、頭部より二本生えている。
首筋や、肘より先の腕が金色の鱗で覆われていた。

金の燐粉を振りまいているかの如く、その身の周囲がほんのりと黄金色に輝いて見える。

白い肌。
赤い唇。
酷く美しい顔を、燐は、まじまじと凝視する。


奇跡のように美しいその男は、床に下り立ち、まるで、辺りを睥睨するかの如く首を巡らせ、赤い唇を曲げて、緩やかな笑みを見せる。

チェシャ猫が、攻撃の手を止めて、硬直したまま、その姿に魅入られていた。


「さぁて……逃げても無駄だぜ?」

嘲るような声だった。

「『神の目』からは、逃れられねぇ。 例え何処へ行こうともだ」


そう言いながら、スタスタ歩く男の隣に、白い文様から次いで、表れ、まるで、男に従うかのように赤い血にところどころ染められながらも、白と黒の縞模様も美しい真っ青な目をした羽の生えた虎が下り立ち、Drを見据えながら歩く。
その後ろをパタパタと、何だか、やけに汗まみれになりながら、肌色の肉団子に小さな手足が生えたような、不可思議な生き物が飛んでいた。

「観念しろよ。 この、畜生」

そう言う男が羽を広げ、まるで、ふざけてるみたいな声で「神の裁きって奴を味わいな」と言い、自分の言葉を馬鹿にするかのように、「ケケッ」と奇妙な声で笑った。

ウラが、チェシャ猫が男に圧倒され、立ち竦んでいるのを確認し、ゆっくりと立ち上がると腕を組んで、ジロジロと男を眺め回した。

「あなた…何者?」
高飛車な声で呼びかけられれば、男はウラに視線を向け、にたっと笑って「神様だよ」と告げた。

「…神様…?」
掠れた声で燐が呻く。

「馬鹿な…」


されど、確かに燐は祈った。
何者でもない何かに。


竜の祈り。


答えはこれか。


竜が呼び込んだ神はバカバカしい程にド派手で、禍々しいほどに美しかった。

翼が目を見開いたまま「君は…幇禍さん…ではないね?」と、意味の分からない問い掛けを行えば、「違うね」と男はにべもなく答える。
「あいつと、俺は全く違う。 てめぇは、幇禍の知り合いか?」
男の問い掛けに、翼は頷くと、「じゃあ、君は…?」と問う彼女に、面倒臭げに「…だぁから、言っただろ? 神様だって。 ま、どうしても、呼び名が知りたいってぇなら、舜・蘇鼓と呼んでくれ」と答えた。

ふざけた答えではあるが、強ち嘘と笑い飛ばすには、登場のタイミングから、その姿に至るまで、何から何まで出来すぎてて、燐は、蘇鼓の正体などどうでも良いと思っている自分に気付く。

神様だろうが、悪魔だろうが、関係ない。

問題は、蘇鼓が、この城の危機を救う力を持っているかどうかが重要なのだ。

ついと、蘇鼓がウラと燐どちら共に視線を向ける。

「保護者が随分心配してたぜ?」

なんだか、笑みを含んだ声。
「くれぐれも力になってやってくれって頼まれちまったぜ。 俺を此処に送ってくれた、いんちき臭い魔術師と、曜にな」
肩を竦めて言われ、ウラと顔を見合わせると、敵か味方かすら、いまいち判じかねていた蘇鼓が、曜によって遣わされたものであるのならと、安心する。
咄嗟に「曜先輩は無事なのじゃな?!」と、顔を輝かせれば、「ったく、やっぱ、人間は訳が分かんねぇ」と言って、蘇鼓は少しだけ困った顔をした。
「なんで、てめぇ以外の他人をそんなに大事に出来んのか、俺には理解不能だよ」と言いながら、少しだけ寂しげにも見える、その美しい顔を凝視すれば、さっと色を刷いたように、愉快でたまらないといった風な悪餓鬼めいた表情に一変させ、漸くチェシャ猫に向き直る。
そして、恐れる様子もなくチェシャ猫のすぐ前までスタスタと歩いていくと、「で? 何、これ? 化け猫?」と言いながら、その巨体を指差した。

チェシャ猫の傍らに立つDrに、蘇鼓は「それとも、てめぇが創ったの? こんな悪趣味なもん」と言いながら、ケケケッと喉を鳴らす。

「おっもしれぇ。 竜子、こんなんがいるトコで暮してんの?」と愉快気に言うと、「フーッ!!」と唸り声をあげる猫に向かって、「躾がなってねぇなぁ!」と楽しげに毒づいた。


「…力を貸してくれるんだね?」
翼の問い掛けに、「ま…約束したからな」と答えた瞬間、蘇鼓の傍らにいた白い虎が、我慢しかねるといった様子で一声吼えると、一気呵成にDrへと飛び掛った。
チェシャ猫が腕を振るい、虎を叩き飛ばそうとすれば、その攻撃を、羽を羽ばたかせ高く飛び上がり、素早い動きで避けて、Drに迫る。
Drも自身の羽を使い、高く飛べば、笑いながら、、「虎しゃん、そういえば、お前生きてたんでしゅか! あはははっ!! それは、それはっ!! なんて、生意気なんでしょう!!」と言いながら、燐とウラに投げつけてきたものと同じと思わしき、球形の爆弾をバラバラと一気に巻いた。

パン!!!っと、ポップコーンが弾ける音に良く似た、しかし、よっぽど鼓膜を揺るがす轟音が連続して聞こえてくる。

「時間が…ないわ!! ベイブ!!! あたし達を守りなさい!!!」


ウラがそう叫べば、ベイブが物憂げな仕種で、それでも、指先で複雑な文様を宙に描けば、チェシャ猫と燐達の境界線上に光の壁が立ちはだかる。
防護壁は、Drの爆撃を防ぎ、こちらに向かって踏み出そうとするチェシャ猫の体を押し止めていた。


「ただの時間稼ぎなど、無駄な足掻きでしゅ!」


そう吼えるDrに視線を送りベイブは、醒めた眼差しで「煩い」とだけ呟く。
「喚くな、頭が痛くなる…」

掠れた声。
未だ本調子でないのだろう、視線が不安定に彷徨い、胸の辺りに手を這わせると「胸がざわざわする…」と呟いた。

バチバチバチ!!っと、電撃音がし、チェシャ猫が「うにゃん!!」と悲鳴のような声をあげて、光の壁から飛びずさった。


「自身の力を、制御…出来ていないのか?」

眉を潜め燐が言えば、ウラは同意するかのように頷いた。
これも、アリスのせいなのだろうか?
動揺の激しい表情で、ベイブは顔を顰め、しきりに掌を握ったり開いたり繰り返す。

「…はぁっ…はっはぁっ…っ!!」

ベイブの額に汗が浮かんでいた。
視線がまたブレ、バチバチと光の壁が暴走する。

ウラが、そんなベイブに走り寄ると、その腕を掴み、必死に揺すって「もうじきよ!!」と怒鳴った。

「もうじき、デリクが女王とジャバウォッキーを連れてきてくれるわ!! だからっ!! だからっ!!」

ベイブの視線がぐるりとウラを眺め、それから小さな声で「ウラ…」と呟く。

「…そうよ…大丈夫。 あなたは一人じゃない。 味方がいる。 大丈夫」

呪文をかけるかのように、ウラは、ベイブの目を見て、何度も、何度も呟いた。

「きっと、デリクが誠と竜子を連れてくるわ。 デリクが来てくれるの。 そうよ…だから、大丈夫…大丈夫よ…」

声が震えていた。
如何な気丈な娘とて、この状況は過酷が過ぎる。


燐も、自分自身もう、限界が間近である事を悟っていた。

今もし、曜に会おうものならば、きっとみっともなく泣き喚き、その体にしがみ付いて、甘えてしまう自分にも気付いている。

「怖かったのじゃ!」

そう訴えれば、曜はきっと止め処もなく、燐を甘やかしてくれるだろう。
抱きしめてくれるだろう。

だが、今はまだ、その時じゃない。

まだ、自分の二本の足は立ち上がれる。

まだ、ここで、倒れる訳には行かない。


約束をした。

曜と。

だから、まだ、燐はへこたれなかった。


にいっとウラが唇を裂いて無理矢理のように笑った。


「てめぇも、あんなチンケな野郎相手に、そんなうろたえてる場合じゃねぇんだよ、このスカポンタン。 おら、もっと、気張って見せろよ!!!」

そう口汚く怒鳴りつけるウラを、ベイブは驚いたように見下ろした。

不敵な笑みを益々深め「…誰が、今お前の傍にいると思ってるの? 無様な姿を見せないで。 見苦しいわ!!」と声高に言い放った。




燐の唇も、にんまりと釣り上る。

辛い時こそ、笑え!!





「ひあっはははっはははっ!! 言うねぇ!! お前、サイッコー!!」
蘇鼓が体を折り曲げ一頻り笑って、ウラに親指を立てると、ベイブはぎゅっと眉根を寄せ、光の壁は、再び静寂を持って、チェシャ猫達とこちら側の間に厳然と立ちはだかった。


「おい!! てめぇ、あの壁、もっと厚く出来ねぇか? こっちの声が一切向こうに届かねぇように」
蘇鼓の言葉に、ベイブは眉を顰め「人使いが…荒い…」と溜息混じりに呟いて、更に複雑な文様を描き出す。

すると光の壁は、その色合いの濃さを増し、金色の壁に変じて向こう側の様子すら見えない状態になった。

「これで…こちら側の…声は一切向こうには…届かん…。 だが…白雪…」

そう、ベイブが呼びかければ「あの防護壁は、保って…数分程…」と白雪が即座に答える。

「とっとと……ケリをつけろ…」

ベイブの言葉に蘇鼓は「充分だ」と笑って答える。

「うし。 てめぇら、耳の穴かっぽじって、ようく聞きな。 ありがたくって泣けてきちまうようなモンを特別に披露してやる」

そう言いながら、ぐるりと燐達を眺め、そしてゆっくりと目を閉じる。

そして、顎を上げ、両手を広げると、蘇鼓の周囲を覆う、淡い光のオーラが更に強まり、突然、彼は、美しい、少女めいた程に可憐な声で、高く歌い始めた。


息を呑む。


悪辣な物の言いの目立つ、お世辞にも上品とは言えないような男の唇から、天上に住まう迦陵頻伽を髣髴とさせるような見事な歌が響き渡った。


まさに、神の歌声。


空気が一斉に澄み渡り、薔薇の匂いが濃く、甘く、燐の鼻腔を擽った。

息を吸う。


体内が浄化され、ゾクゾクと這い登るように、得体の知れない力が湧いてくる。


全身に負っていた火傷や、擦り傷が癒えていく。

蘇鼓が短い曲を一曲歌い終える頃には、完全に体中の傷は快癒し、疲労感が全身から消え去っている事に気付いた。

ベイブに壁を厚くさせたのは、この歌声をチェシャ猫達に聞かせぬ為かと合点がいきながら、燐はハッと思い至り、指先に、再び針で穴を開けると、翼に向かって駆け出す。

「飲め! 早う! 時間がないっ!」

燐の言葉に、翼は一瞬呆然とした後頷いて、美しい形の唇を、その愛らしい指先にそっと寄せる。

「チュッ」と小さな音を立てて、燐の血を口に含んだ翼に、次いで、ウラは「その剣を翳しなさい」と告げた。

「…何を?」と訝しげに首を傾げる翼に「その剣は、かなりの代物のようだし、今のコントロールなら、多分成功する。 じっとしてなさいよ?」と言いながら、針を通すような最新のコントロールでもって、翼が翳した剣に雷を落とした。

「っ!!」

驚く翼達の表情を眺め、ウラが満足げに頷く。

翼の剣に、青白い雷撃と思わしき光がバチバチと音を立てて帯電する。

ウラの雷撃に、聞くものを回復させ、その力を増進させるらしい蘇鼓の歌。

そして、燐の血液。


青白い光を放つ剣を、翼がすっと指先で撫でる。

バチバチバチ!!と一際派手な音を立てながら、剣がまた紅色に染まった。


「…っ!! もう…保たん!!」

ベイブが、ずるりと床に崩れ落ちた。
光の壁が、ゆっくりと崩れゆく。

「タイムリミットでしゅ」

Drが勝ち誇ったように告げるのを聞いて、燐が満面の笑みを浮かべて叫んだ。

「お主のな!!!」


翼が、地面を蹴り、宙に飛ぶと、息を呑むようなスピードでチェシャ猫に突進する。


「「行けぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!」」

ウラと燐が声を揃えて叫び、白雪が両手を組み合わせ祈った。

ベイブが、虚ろな表情で笑う。




金色の髪が乱れ、美しい目を見開いたまま、翼は、まるで呪われた城を救いに来た騎士の如くの凛々しくも美しい姿でチェシャ猫に肉薄した。



バチバチバチバチバチ!!!!!!!


翼が突き出した剣が、狙い過たずチェシャ猫の胸に突き刺さる。


「…さよなら」


翼が厳かな声で告げ、剣に宿らせた全ての力を解き放った。



赤い稲光が、部屋を明滅させるほどの光を放ち、鼓膜を打ち破らんばかりの音が燐の耳を劈く。
咄嗟に耳を塞ぎ目を閉じてうずくまる。




赤い光が、鏡の部屋を覆いつくし…そして、恐ろしい程の沈黙が、暫くの間、その場を満たした。




まだ、チカチカと明滅しているような瞼を押さえつつ、それでもゆっくりと目を開けば、そこには鏡の壁に突き刺しにされているチェシャ猫の姿があった。

女の姿に戻っているチェシャ猫は、それでも小さくもがき、首を振り。
「っ…う…そよ…うそ…うそよ…」と弱弱しい声で呻く。

ひびの入った鏡に映る、歪み、何体にも分裂したチェシャ猫が、断末魔の痙攣を見せた。

「…だ…って…こんな…の…聞いた…事…ないもの…。 お…御伽話の最後は…いつだって…王子様と…お姫様が結ばれて…幸せに暮らす…んだもの。 わ…わっちは…わっちは……お姫様…に…」

白雪が、ゆっくりとチェシャ猫に近付いていく。
そして、チェシャ猫が串刺しにされている背後にある鏡に自分の身を映した瞬間、その姿が掻き消え、自分の身を映していた場所から出現したかの如く、チェシャ猫の背後に立った。

開かれた胸に映る鏡に、翼の剣の切っ先が吸い込まれ、ずぶずぶずぶとチェシャ猫を貫いたまま飲み込まれていく。

翼が目を見開き白雪を見上げた。


「猫はお姫様にはなれない」

残酷な微笑み。

チェシャ猫を抱きしめ、白雪が歌うように言う。

「猫は猫。 ただの猫」

そして、チェシャ猫の顎を無理矢理持ち上げると、唇を近づけて、嘲るように、言い聞かせるように言った。

「…夢は夢。 絶対に叶わない。 絶望なさい。 分不相応な望みを持った事、ベイブ様に出会った事、生まれた事すら悔いなさい。 さようなら、性悪猫」

白雪の真っ白な唇が、チェシャ猫の唇に重なる。



死の 接吻。


お姫様が王子様の口付けで目覚めるのなら、白雪の口付けはチェシャ猫に永遠の眠りを齎した。


チェシャ猫の体が鏡の中に沈む。


顔を上げた白雪の唇から、真っ黒な液体がツルツルと零れ落ちた。

「…それは……」

燐は、その正体に思い至り、掠れた声で問い掛ける。

「燐が、鏡を通じてこの城へと来れるようにした…あの薬と同じものか…?」


燐の震える問い掛けに、白雪は満面の笑みを浮かべ「『鏡渡り』の秘薬に御座います」と密やかに答えるうちにも、ずぶりとチェシャ猫は鏡に飲み込まれ、そして四方を囲む鏡に高い空に放り出され、落下するチェシャ猫の様子が映し出された。



「♪Humpty Dumpty sat on a wall
 ♪Humpty Dumpty had a great fall
 ♪All the king's horses and all the king's men
couldn't put Humpty together again」



王様の馬みんなに 王様の家来みんな合わせても
ハンプティを元には 戻せやしなかった


壊れた 卵は もう元には戻りません!


合唱が微かに聞こえてくる。

堕ちる。

墜ちる。

猫が。


落ちる。


「あの猫は、一度も想い人に『会えた事等なかったので』本望でしょう」


残酷に白雪が言う。


「私の慈悲です」


地上に、一人の男が立っていた。
ロケットの中に入ってた写真の男と同じ顔をしていた。
あれが、K麒麟の首領。


満身創痍で、それでも、天を仰ぎながら、酷く明るい、悲しいほどに明るい、幸福そうな笑みで両手を広げる。



猫も笑った。
最期の意識で。


「やっと…会えた…」


小さく猫は呟いた。


「ずっと会いたかった」


男も笑って応えた。



猫の胸を刺し貫いている翼の剣が、そのまま、男の心臓も刺し貫きながら、落下した猫を男は抱きしめ、そしてそのまま、地上に倒れ伏した。



現世と王宮、たった一度として、直接、触れ会う事もなく、鏡越しで想いを育んだ、憐れな、憐れな、恋人同士。
漸く、最期の、最期、この上ない悪辣と、暴虐の果てに、二人は抱き合う事が出来た。


悲恋の結末である。 
悲しい終末である。


しかし、悪党の恋であった。

悪党の最期であった。



「悪党にしては出来すぎの結末じゃ」


燐がそう小さく呟くと、フラフラとDrが壁に取り縋り、震える声で「…虎杰……茜…」と、男とチェシャ猫の名らしきものを呟く。


「ふ…ひっ…ひぁっ…ははっ…あはははっ…はっははははっ!!!」


そのまま膝を付き体を震わせながら笑うDrが、狂気に霞んだ目で辺りを見回し、そしてポツンと「一人ぼっちに…なっちゃいました…」と呻いた。


「…いやでしゅねぇ…一人…は…とても…寂しいでしゅ……」


狂った声。

ぐるるるる…と唸りながら蘇鼓が連れてきた羽の生えた虎が、Drへと近付いていく。


「…しょうがないから……あの二人の所へ行く事にしましょう……」


俯きながら呻いたDrは、懐から真っ白なカプセルの詰った薬瓶を取り出すと、突然、自分の掌にザラザラと錠剤をぶちまけ、口中に放り込んだ。

(毒でも飲んだのか?!)と、驚けば、どうにも、Drという男、そこまで潔くはなかったらしい。


「…君達も…連れてね……?」


そう呟いたのを最後に、突然、Drの体が膨れ上がり、一瞬にして人間の姿を失う。

白衣が弾け、ぶよぶよと膨らんだ肉の塊が床を寝食し始めた。

にいいっと肉に埋もれかけた唇が歪むのを見て、燐は嫌悪感に後ずさる。


このままじゃ、間をおかず、この部屋があの肉に埋め尽くされる。

ただ自殺するのなら、まだ可愛げがあるものを、どうして、ああいう手合いは他人を巻き込みたがるのだろう!!!と歯噛みしたい思いにかられながら、あんなものに触れるのもいやじゃ!!と、怯える燐の目に、白い虎が、その肉の塊の中心に飛び込んでいく姿が見えた。

「やっちまえ!!! 兎っ!!!!」

蘇鼓が叫び、「兎?」と疑問符をあげる間もなく、突然虎の背中の上に跨る男が現れる。

「兎月原さん?!!」

翼が叫び、兎月原と呼ばれた男が、躊躇いもなく拳を突き出して、肉の中にその腕を埋もれさせた。


「往生際が…悪いんだよ…!!!」


そう鬱陶しげな悪態をつき、ぐいっと兎月原が手を引けば、掌の中にドクドクと脈打つ気持ちの悪い心臓めいたものが掴まれているのが見える。

「おえっ!」と舌を出してウラが言えば、燐は青ざめたまま「…夢に…出そうなのじゃ…」と呟いた。


眉一つ顰めず、その心臓を兎月原が握り潰す。


その瞬間肉の膨張が止み、ずるするすると、その中心に這い戻ると、胸に大きな穴を開けたまま横たわるDrの姿現れた。

ベイブが指先をツイと振れば、周りの様子が一変し、これぞお城!と納得できる豪奢で無闇に広い、玉座の間に姿を変える。

いつの間に現れたのか、三つの首を持つ大きな黒犬ケルベロスがパクンとDrの物言わぬ体を平らげる。
そして満足げに舌なめずりを見せると、ベイブに対し、三つの頭を同時に下げ、それからノソノソと城の奥へと消えていった。

正直普段なら、童話でしか見たことのない魔犬の姿に、もう少し顕著な反応を見せられたのだろうが、観たことのない世界を、連続して目の当たりに燐にしてみれば「ほー、ケルベロスのう…」と今や自然に流してしまう精神状態に陥っており、燐はそれよりも…と新たな登場人物に注目すべく、視線を向けた。


「…気持ち悪」と、さしてそうは思ってもいないような口調で呟き、べちゃりと音を立てて、兎月原がその潰した心臓を床に投げ捨てる。

「いいとこ取ってくじゃねえかよ…」と揶揄するように蘇鼓に言われ、「いや、ていうか、俺がいなくても、綺麗に話が終わりそうだったもんで、今更どうやって出てけば良いのか分からずに、俺はかなり焦ってたぞ。 第一声は『実はお邪魔してました!』とかでいいのかな?とか、凄い考えたんだからな!」とかなり本気の声で蘇鼓に訴え、それから「重かったろ? すまなかった」と言いつつ、白い虎の頭を撫でた。

ぐるぅ…と唸り、その身に体を摺り寄せる虎に、「大五郎…お前ほんとに男前に弱ぇのな…」と呆れたように蘇鼓は言う。

「…大…五郎?」

余りに燻し銀な名に「なんで…大五郎…」と燐が白い虎を凝視しながら疑問を口にすれば、あまつさえ「メスの虎っつうのは、みんなそうなのかよ?」と蘇鼓が問い掛けるに至って、「メスなの?!」「女の子で、なんで大五郎?!」とウラと燐は交互に言い立てた。
だが、男前世界選手権で充分トップを狙える男装美少女翼にしてみれば、虎の性別を見抜いている事など、当然の事だったらしく、「…彼女には、そんな無骨な名は似合わないよ」と憮然とした調子で蘇鼓に抗議している。
マジマジと姿をよく見れば、これまた極めて大人の色気が漂う美男子であった兎月原も、極めてナチュラルに「俺は女性の上にしか乗らない主義なもんで…君みたいに綺麗な子と一緒にいれて楽しかった」等と翼と同じ人種らしい事をシレっとのたまい燐を呆れさせた。

呆れついでに燐は、蘇鼓の歌で回復していたものの目まぐるしい出来事に連続と、危機的状況を脱した安堵感に、全身の力が抜け、何だか、早く現世に戻り、曜の顔を見たいと切実に願う。

「そもそも…お前…どこにいたのよ? 虎の背中には、誰も乗ってなかったわ」

ウラがそう兎月原に言えば、にこりと見惚れるしかない笑みをウラに見せ、それからふいに視線を上げると「君の王子様に、空間を歪める力を使って姿を隠して貰ってたんだ。 さぁ…お迎えが来たよ?」と言った。

ウラが、その言葉に振り返る。

するとそこには、デリクの姿があって、「ウラ。 よく、頑張りましたネ」と言いつつ両手を広げた。
その瞬間、生意気そうな表情の一切が形を顰め、ウラが一気に、走りより、デリクの胸に飛び込んでいく。

そんな姿が羨ましく、燐は曜先輩に一杯抱きしめて貰おうと決意をすれば、勢いよく翼に飛びつく、折角のドレスをボロボロにして、泣き喚いている竜子も目に入って、何だか、何だか、その平和な姿に、頑張ってよかったと、燐は心から思うことが出来た。

一頻り翼と抱き合った後の竜子が燐の傍に駆け寄り「燐…だよな?」と確認を取ってくる。

必殺人見知り!!のスキルを発動し、黙ったまま、ぎゅっと硬い表情で頷けば、そんな燐を覗き込み「えーと…大丈夫か? 怪我ないか?」と尋ねてきた。
燐がもう一度頷けば、優しい手つきで両手を広げ、竜子がふわりと燐を安心させるかのように抱きしめてくる。

「悪かったな。 怖い目に一杯合わせた。 もう大丈夫。 すぐ、曜のトコへ返してやるからな?」と言ってくれた。

その暖かな感触に、緊張の糸を緩めかけた瞬間、なんか、もう見るだけで、「ひっ」と小さな悲鳴をあげすにはいられないような、不気味で陰険な男が、ジトリと燐を眺め近付いてくると、「何だよ? こんな子供まで、巻き込んじまってたのか」と呟いた。

誰じゃ、これは?!

ていうか、これ、敵じゃないのか?
このまま放置してもよいのか?とブルブルと警戒すれども、信じがたい事に、この男が、黒須・ジャバウォッキー等とベイブやチェシャ猫達に呼ばれていた、竜子と同じ、この城の住人であり、今回、K麒麟に攫われ騒ぎの発端となった男らしいと察すると、この男を助ける為に、皆が、必死に駆けずり回ったのか…と何だか脱力したくもなった。

だが、何とも幸せそうな、どうしようもなく安心しきった表情で、「そんな言い方せずに、ちゃんと礼を言え!」何て、竜子が言い、黒須が「ありがとな」と真面目な声で、燐の目を覗きこみながら告げる声を聞くと、「悪くない結末だ」なんて、思ってしまう自分の心にびっくりする。


ベイブと、白雪も傍に来て、まずベイブが燐の頭を撫で「本当に助かった。 礼を言う」と言い「精気も美味であった」と、うん、なんか、それは、そんなに嬉しい言葉じゃないな…な褒め言葉を口にして、白雪も柔らかな微笑を浮かべ、燐の手を取ると、「この白雪、お嬢様へのご恩は一生忘れません」と優しく告げた。
そうやって穏やかな表情をすれば、白雪はたおやかで大人しげな女性にしか見えず、燐は鷹揚に頷いて「まぁ、また何かあれば、燐を頼るがよい!」とええ格好をしてしまう。

だが、その言葉を聞いた瞬間だった。

白雪の目が獲物を捕らえた肉食獣のような輝きを放ち「真でございますね」と小さな声で囁いた。

「…へ?」

余りの表情のギャップに飲まれ、燐が冷や汗を掻きつつ問い返せば「真に、何かの際には、お嬢様をお頼りすれば、その精気をベイブ様に提供下さるのですね?」と更に問いを重ねてくる。

「う…や、え? いや、何も手助けとは、その精気の提供ばかりではなく、この燐のミラクルなパワーをだのう…」と言い訳めいた事を口にしようとすれども、その一切を無視し、「…また、次のお越しを心よりお待ちしてます」と静かな割にかなり強引な口調で白雪は宣言し、燐の手をぎゅうっと、「あれ? この握り方は異常じゃない? ていうか、痛い!!」という程の力で握り締めた。

なんか、物凄い怖い約束を、無理矢理させられてしまったような気がする……

目を泳がせながら、燐がよろめき、白雪が気を抜いた隙を狙って、傍にいた翼の後ろに隠れれば、竜子が「燐! ほら、こっちへ来な。 送ってやるよ」と声を掛けてくる。

一刻も早く、曜の顔が見たいと切望した燐は、慌てて竜子の傍にパタパタと駆け寄った。
そんな燐の様子を、にこにこと眺め、猫か何かにするように頭をぐりぐりと撫でてきつつ、「曜が大事にすんのも分るなぁ…」と呟く。
「あう?」と言葉の意味が分らずに首を傾げれば、「もう一回、抱きしめて良い?」と言いつつ、許可も取らずに、ぎゅうっと燐を抱きしめて「曜に宜しくな? また、今度は、曜と二人で遊びにきな。 あたいが城を案内してやるよ」と言った。
竜子の体の温度は、何だか凄く心地良くて、曜と二人で来れるのなら、また来てやっても良いかな?なんて、燐は考えてしまった(ただ、その時は、なるべく白雪と顔を合わせたくないというのもばっちり本音☆)



無事現世に送られて、出口となった公園のブランコに揺られながら、燐は公園の入り口をじっと見つめる。

数分ほど経過しただろうか?

随分と長い間待たされたような気がしたが、実際には然程の時を経ずして、視線の先に待ちかねた姿を、燐は見つけた。

竜子に言われていたのだ。


ここで、曜を待つようにと。

ブランコから飛び降り、転げるようにして、燐は曜に駆け寄る。
曜も、満面の笑みを浮かべながら、駆け寄って、燐の小さな体を抱きしめた。


何を言おう?

燐は悩む。


頑張ったよ?
怖かった?
会いたかった?


どれも真実だった。
だが、どれも第一声には相応しくないような気がして、燐は、愛らしいその眼差しで、曜を一心に見上げると、「曜先輩!! 燐はクレープが食べたいのじゃ!!」と、強請ってしまっていた。









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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【3432/ デリク・オーロフ  / 男性 / 31歳 / 魔術師】
【3343/ 魏・幇禍 (ぎ・ふうか) / 男性 / 27歳 / 家庭教師・殺し屋】
【0086/ シュライン・エマ / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【7521/ 兎月原・正嗣 / 男性 / 33歳 / 出張ホスト兼経営者 】
【3678/ 舜・蘇鼓 (しゅん・すぅこ) / 男性 / 999歳 / 道端の弾き語り/中国妖怪 】
【4582/ 七城・曜 (ななしろ・ひかり)/ 女性 / 17歳 / 女子高生(極道陰陽師)】
【2380/ 向坂・嵐/ 男性 / 19歳 / バイク便ライダー】
【2863/ 蒼王・翼  / 女性 / 16歳 / F1レーサー 闇の皇女】
【3427/ ウラ・フレンツヒェン  / 女性 / 14歳 / 魔術師見習にして助手】
【4236/ 水無瀬・燐 (みなせ・りん)  / 女性 / 13歳 / 中学生】

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■         ライター通信          ■
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お届けが大変遅くなって申し訳御座いませんでした!
前編・後編共にご参加頂けた事を心より感謝します。

それでは少しでも楽しんでいただけたら幸いです。

momiziでした。