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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


【東京衛生博覧会 後編】




「人にとって、美しい姿勢とされているのだろう?」
頬に血飛沫の跡を残す男が言った。
「『どうしても叶えたい願いの為に、何でもする』という事は」

「素敵な事なんだよねぇ?」
コケティッシュな笑みを浮かべ、猫は勝ち誇った。
「『夢が叶う』っていう事は」

「覚えはないんでしゅか?」
Drは、唇の端を引き攣らせた。
「『大事な誰かの為になら、どんな事も厭わない』という気持ちに」

血の濃い匂いが立ち込めていた。

豪華なオークション会場に、息をするのも煩わしい程の熱帯のジャングルに、そして、薄暗い倉庫に。


引き金は、いつ引かれたのか?
彼らの本当の目的は何なのか?
この物語は、何処へ疾走して行くのか?


何にしろ、血の花は咲いた。
後戻りの出来ない場所に、貴方はいた。


男は、猫は、そしてDrは問うた。

「さぁ、これから、どうしようか?」

まるで、子供のように。

「さぁ、これから、どうしようか?」




SideA

【 兎月原・正嗣 編】



何を言ってんだ? この狂人は?

それが兎月原の偽らざる感情だった。

まるで、勝ち誇るかのように、ふんぞり変えるDrの顔をマジマジと眺め、その意味の分らなさに首を捻る。

相手が馬鹿である事は分った。

どうしようもない屑である事は、まぁ、今回の件の概要を聞いた時点で察している。

結論として、兎月原は胸中で「興味なし」と呟いた。全く持って興味が持てない。
故に問いに答える必要性もなく、兎月原は当初の予定通り、自分は自分の役目を精一杯果たすだけに集中する事に決めた。

起こってしまった事を後悔する暇は、今はない。

死に絶えたキメラ達の為を思うからこそ、兎月原は、その一切に今は心を囚われないよう留意し、冷静さを保ち続けた。

濃い血の匂いが満ちる中、兎月原は黒須に視線を送り、とりあえず、あの男を救い出さねば、一向に話が進まないと考える。
人質を取られた状況で、些か慄くほどに、メンバーは黒須に対して無頓着に振舞っていて、そいういうノリとかって決まってるのかな?なんて、他の三人は自分よりも、黒須との付き合いが長そうだったので、流れに任せてはいたが、さすがに此処までくると、何とかしてやらねばと気も急いてくる。

だって、明らかに、何か凄い瀕死。

ていうか、死ぬんじゃないかな?レベルの弱りっぷりを見せる姿に、色々心配してしまってる自分が幾分、いやかなり厭わしい。

別段、黒須に対して、そんなに気を揉んでやる必要性も義理も、人情すらも、持ち合わせはないはずなのだが、目の前で死なれたら目覚めが悪いしな…なんて建前めいた言葉では、自分のごまかしきれない程には、今、自分が黒須を気にしてやってる事に気付き、何でだよ…と逆に何だか腹立たしくすらなった。



「貴方にご立派な忠誠心があるなんて思えませんねぇ?」

幇禍が嘲るように言う。


そして、随分と彼に懐いているようだった、銀色の髪をして天使のように羽の生えた少女を見下ろし、俯いたまま痛ましげに「…なんて事を」と呟いた。

少し首を傾げたまま、思案するように口をつぐんでいたエマが、漸く良い言葉を思いついたという風に軽く口を開くと、「馬鹿じゃないの?」と呟いて肩を聳やかしながらツカツカとDrの傍に歩み寄る。

そして、倒れこんでいる黒須の目の前にしゃがみ込むと、その顔を覗きこみ、「黒須さん? 黒須さーん?! 意識ある? 大丈夫?」とDrを無視し、黒須に声を掛け、それから腰に手を宛てながら此方を振り返ると、「兎月原さん、ごめん、黒須さん運んであげてくれないかしら? どうも、もう立てそうにないの」と困ったように頼んできた。

余りに動揺のない姿に、驚き反応が遅れれば、「あ、俺も手伝います」と言いつつ幇禍が走り寄り、慌てて兎月原も黒須に駆け寄った。

「駄目でしゅ。 勝手な事しないで下しゃい!」と言い、キメラを差し向けるDr。

襲い掛かるキメラ達を兎月原が薙ぎ払い、幇禍が撃ち落す最中、エマは「あ? いたの?」とまるで、今気付いたと言わんばかりにDrに吐き捨てて「存在感ないんだから、そのまま、せめて黙ってじっとしててくれない? とっても邪魔なの」と、腰に手を宛てたままDrと対峙し、溜息を吐き出した。


「私達、こう見えても忙しいのよ」とまるで冷静な声で言うエマを、Drが信じられない生き物を見るような目で眺める。


兎月原は、エマの態度が殊の外愉快で堪らず、血で滑り、油断すれば足元を取られそうな悪条件の中、キメラを蹴り飛ばし、地面に叩きつけ、容赦なくその頭を踏み潰しつつ、背後のデリクを振り返った。

案の定、黙ったっきり、何某かを考えている表情で立ち尽くすデリクの姿が目に入る。

さてはて、今度はどんな手法で楽しませてくれるのやら?

彼が策が練り上げられるまでの時間稼ぎを意識して、兎月原は殊更派手に暴れる。
幇禍も同じ気持ちなのか、銃を連続して撃ち話し、グリップを握ったまま、キメラを殴り倒す姿を目の端に捉えて心強く思っていると、エマはその騒動の最中でも表情一つ変えないままに、Drと相対し続けていた。


「…怖くないんでしゅか? 僕が」

窺うような眼差しにエマが意外な事を聞かれたというように唇の端を持ち上げ「怖い? 何が?」と囁く。

「あんたの何処が怖いの? 何を怖がれば良いの?」
エマはそう答え、Drになど構っていられないと言う風に、足元に入る黒須に躊躇いなく手を伸ばし、その血に濡れた髪を掻き分けた。

「…痛い?」

エマの問い掛けに黒須が霞んだ視線を返す。

「どっか折れてる? というか、顔色から見るに、まず、血が足りてないのかしら?」
何か言おうとして、黒須が悲しげに眉を潜め、早口で「アホか、お前は…どっかそこら辺、隠れてろ…」と答えると、エマは首を傾げ、それから、その頭を「えい!」と掌で叩いた。

「そんな場合じゃないでしょ? 今の黒須さんなんかね、最悪よ。 なんか、もう脱皮後って感じ。 蛇が脱皮し終わった後の皮って感じ。 つまり、本体が別にあるんじゃね?位の、なんか弱り具合なのよ。 そんな人にね、気遣って貰うほど、私落ちぶれていないから、どーん!と頼りにしちゃいなさい」

そう言って安心させるように笑い、それから「…助けに来たよ」と優しい声で言う。

「私も、兎月原さんも、デリクさんも、幇禍さんも、みんな、みんな、黒須さんの事、助けに来たのよ」
エマの言葉がまるで痛いという風に顔を歪めた黒須に、「にっ…」と何だか、悪戯っぽい笑みを見せ「感謝してよ」と告げると、その体を何とか抱え起こそうとした。


「あんまり、舐めた真似しないで下しゃい…」

そう言いながら、Drが懐から銃を取り出し、エマの頭に突きつけるのを黒須が目を見開いて見上げる。

「やめろ」

震える声。

「こいつは…やめてくれ……」


黒須がそう懇願する最中、エマはポンポンと黒須の肩を叩き、大丈夫という風に笑いかけると、Drに視線を向けないままに「だから、別に怖かないって言ってんでしょ」と、冷たい声で答えた。

「あんたに殺されたりするもんか。 そんな鉛玉、私には当らない。 絶対にね」

そう挑発するような言葉に、兎月原はヒヤッとし、如何なる公算が、エマにあるのか?と興味深く思う。

「どうでしゅかね?」

Drが引き金に指を掛ける。

その瞬間、デリクが手を翳して「無茶をすル!!」と叫んでいた。

「パン!」

銃を撃ち放せども、デリクが空間を歪ませ軌道を変えたせいで、弾丸はエマを霞めただけに留まり、その瞬間打ち合わせたわけでもないのに、幇禍が走りこんで、発砲の反動に仰け反るDrの即頭部を殴り飛ばすと、同時に駆け出した兎月原は強引に黒須の身柄を強奪し、抱きかかえて、一気に安全圏まで走り、運んだ。

その間、僅か一秒足らず。


腕の中に引っ張り込み、下半身が蛇のままの体を引きずるようにして運ぶ。
兎月原が素早く視線を走らせれば、痩せた体の至る所に付けられた傷の痛ましさに、眉を顰めた。

しかし、エマが銃を頭に突きつけられて、あれ程平然としていられる理由が分からない。
それも、自分や幇禍、デリクのように己の技量に多少なりとも自信を持っている人間ではなく、エマは外見だけならば、上品で荒事なぞに関わる姿等一切想像できない知的な容姿をしているせいもあり、こういう度胸を発揮した時等はそのギャップにいつも驚かされてしまっていた。



とにかくキメラ達から一番遠い場所に黒須を横たわらせ、その顔を覗きこむ。

憔悴した様子の黒須は意識が朦朧としているのだろう、虚ろな声で「…逃げ…ろ…早く…逃げろ…」とうわ言めいた事を呟いており、その乾いた唇に耳を近づければ「ヒュー、ヒュー」と発作を起こしているかのような不規則な呼吸が耳についた。

どうすれば良いのか分らず、惑えばエマが兎月原の隣に座り、黒須の瞼を捲って、その瞳孔を確認すると、浮言を繰り返す黒須の頬を軽く叩き、「黒須さん? 黒須さーん? 大丈夫? しっかりして?」と冷静な声で呼びかけ続ける。

突如、手を高く上げ、もがく様にして暴れだす黒須。

「あぅっ! っあっ! ちく…しょうっ!! やめ…っ! 逃げろっ…!! 早くっ!!」

叫び、身を捩る黒須が何を見ているのか。
兎月原は咄嗟に思い至り「キメラの事は、あんたのせいじゃない!!」と叫んでいた。

暴れる手を掴み、押さえこみ、自分自身の声の資質を自覚しながら、その心の奥深くに届くよう「いいか? Drの言葉に惑わされるな!! あんたの為に、皆が犠牲になったんじゃないんだ! 皆、闘った!! 生きる為に! 抗った! あの人達は、精一杯生きた! あんたが悔いる事は何もない! 何もないんだ!!」と、兎月原は必死に訴える。


罪悪感。


それが、黒須を苦しめるものの正体。

カッと目を見開いて、ぎゅっと兎月原の掌を掴み返す。


「…俺が…生まれて…来なければ…あいつら…」

そう囁く黒須は明らかに正気じゃなくて、かなり強めに兎月原はその頬を叩くと「…馬鹿じゃないのか?! そんな訳ないだろう」と即座に否定した。

エマが黒須に顔を寄せ、「違うでしょう? 黒須さん、違うでしょう?」と訴える。


「ココに怖い事なんて何もないでしょ?」

言い聞かせるような声音をエマが直接耳に吹き込むようにして言えば、不意に黒須の体が静止した。

「…そう。 怯えないで。 大丈夫。 私がいるよ。 皆もいるから。 大丈夫、怖いもんなんか、こんな場所に何もないわ。 阿呆な男が言った、阿呆な言葉、間に受けてどうすんのよ、しょうもない」

呆れたようにエマは言い、兎月原がそっと手を離せば黒須は一度両手で顔を覆い、それから唸るように「悪ぃ。 みっともねぇとこ見せた」と詫びる。

「いえいえ」とエマは軽く答え、兎月原が「落ち着いたか?」と聞けば、指の隙間からその顔を見返して、「エマはともかく、あんたが来るとは思わなかった…」と、黒須が掠れた声で言った。

自分も、散々、何で自分が黒須を助けなきゃならんのだ?等と最初疑問に思った自分を忘れ、その物の言いにムッとすると「悪かったな。 来て」と皮肉気に言ってやる。
「いや…手数をかける」と黒須が言うので、エマと兎月原は一旦顔を見合わせて、それから「他人行儀なのよ」とエマは自分のハンカチを取り出し、黒須の顔に付着している血を拭ってやりながら、「ねぇ? 兎月原さん」と同意を求めてきた。

まぁ、実際、こんな修羅場に巻き込まれて「手数」も糞も何もない。

「ちゃんと、見返りは貰うから」と、至極当然のように言ってやれば「うぇ…高いもんとかは無理だぞ?」と物を強請られると決め込んだような事を言われてしまい、俺は、客に物を強請るキャバ嬢か!と、更に憮然とさせられた。


「状態ハ?」


突然、デリクがにゅっと顔を突き出して、エマにそう問いかけた。
エマは驚いた顔を見せつつも、「薬のせいで、意識がまだ、はっきりとしてないみたい」と答えを返す。
「大丈夫…さっきみてぇな…酷い事には…ならねぇ……」と呻くように言い、「何の用だよ?」と黒須がデリクに問い掛けた。
「教えて欲しいんデス。 覚えてる限りで良イ。 キーワードが欲しいんでスヨ。 Drの意識を私に集中させる言葉ヲ」
デリクの言葉にエマが首を傾げ、「何をするつもりなの?」と問い掛けた。

「キメラの攻撃も鬱陶しいでスシ、逃げたところで、追跡は苛烈を極める事が予想されマス。 ですノデ、援軍を振り切る為ニ、Drを含む皆さんヲ、丸ごと空間を切り取って異空間を作り出し、キメラ王宮へと送り込むことにしまシタ」

そうシレっと凄い事を告げられて、思わす兎月原は目を白黒させてしまう。

今から、俺は、千年王宮とやらに連れて行かれるのか?

そう思えども、デリクは兎月原の戸惑いには頓着せず、「私としてハ、やはり、あの城に今いるウラの安否がどうしても気になりマスし、黒須サンがベイブさんに会う事さえ出来レバ、ベイブサンの状態の回復が見込まれるのであらバ、力を取り戻したベイブサンによって、Drを倒し、その上向こうに巣食っているチェシャ猫とかいう敵も、やっつけちゃおウ☆という一挙両得な展開が望ましいと思われるのデス」と、滔々と指を立てて説明する。
エマは少し考えた表情を見せた後「確かに、それなら、一番今厳しい状態であり、崩壊すればこの世界への影響が大きいと予想されるお城の安全が、まず確保されるわね。 その後、デリクさんや、黒須さん、それに白雪嬢の力で、またメサイアに送り返して、総力戦で竜子ちゃん達が相対している、虎杰やキメラ達を一気に叩ければ、一番速やかに事態を収束出来るかもしれない…」と、口にした。
エマの言葉を聞くと、何だか、それが最善の選択のような気もして、見知らぬ場所に連れていかれる恐怖感も薄らいでしまう。
「ただ、ソレほど大掛かりな空間を作り出すには、どうしてモ、あのキメラ共の、小うるさい攻撃を、一時的にでもストップさせなけれバ、空気の乱れによって、力を安定させる事が難しくなりマス」
デリクが、微妙な表情でそう告げるので、「キメラの意識系統自体、Drの支配下にあるようだから、Drの意識を自分に集中させる言葉が知りたい…そういうことで良いのか?」と、デリクに問うた。

どうも先ほどから見ていると、今敵対しているキメラには、己の意思などというものが、失われ尽くしている印象を受けたのだが、それはどうやら正解だったらしい。
デリクは兎月原の問い掛けに、満足げに頷いて、「エエ。 まったくその通りデス」と答えると、「如何でス?」と黒須に聞けば、「ちょっと…待て…思い出すから…」と眉を顰めて呻いた。
そんな黒須にデリクは心からの声で、「そもそモ…黒須さんみたいな人間ニ、Drがこだわってること自体が異常なんデス。 美醜の判断は、キメラを好む異常性が見られるモノノ、極一般の感覚を有しているヨウですし、わざわざ、黒須さんのヨウな人に、執着する理由と言えば、貴方が、あのDrと交わした、会話にしか求められまセン」と、かなり酷い事を述べる。

ただ、兎月原も、それは頷かざる得ない説得力に満ちていて、黒須自身も、デリクの言葉に、顔を顰めて見せはすれども、取り立てて反論をする事はなかった。


一体、黒須はDrに何を言って、こんな目に合う羽目に陥ったのだろうと興味深く思っていると、ふと背後を振り返ったデリクが、兎月原の肩をぽんと叩き、「何か、一人で大変そうなので、是非、駆けつけてあげて下さい」と言いつつ、幇禍を指差してくる。

兎月原は一瞬目をパチクリさせて、それから、デリクと同じように振り返り、幇禍一人で全キメラの防衛ラインを守っている姿を目にすると、確かにデリクまで、ここにいては、彼しか、キメラを防いでいないのだという単純な事実に思い至り、慌てて立ち上がると、一目散に幇禍の元へと駆け出した。

「デリクさん、何を企んでるんですって?」

隣に並んだ瞬間、幇禍に好奇心一杯の声で問われ、キメラを直接殴りつけつつ、「…何か…Drの…気を引く手段を黒須さんに…相談してるみたいだ…」と、答えてやる。
援護射撃をしてくれる幇禍が、兎月原に突進してきていたキメラを撃ち落してくれて、「どうも!」と律儀に礼を述べれば、「なんで、黒須さんに?」と、幇禍が首を傾げた。

「そもそも…黒須さんみたいな人間に、Drがこだわってること自体不思議だろう」と端的に兎月原が言ってやれば、それはそうだという風に幇禍が「あ」と口を開けた。
それで兎月原の言いたい事を全て察せ他らしい幇禍が「何か…Drの琴線に触れる要素が…あった?」と問いを重ね、「デリクさんは、どうも、黒須さんがDrに言った言葉に、その原因があると思ってるみたいで、どんな会話をしたのか詳しく聞き出していたよ」と、一気に説明する。

確かに、あの手の人間は、自分の内面に踏み込む侮辱を行った相手に、強く執着する傾向がある。
自分の優位性や権力を相手に嫌という程思い知らせ、自分の言動を後悔させる事に全力を尽くす、人間の器の小ささが既に透けて見えていた。
そこを見越して、Drの致命傷になる台詞を引き出し、デリクは自分との舌戦に、Drの意識を集中させようとしているのなら、その作戦はかなり有効かもしれないと考えて、デリクが黒須からキーワードを聞き出すまで持ち堪えるべく、気を引き締め直す。

暫く、幇禍と二人、防衛ラインを死守していると、漸くデリクが前線に復帰してきた。

「準備はOKですか?」

幇禍が問えば、デリクは「マァ、なんとカ」と苦笑して、それから「もう暫くの間辛抱してくださイ」と囁くと、掌を翻した。

「Dr!! Dr!!」

デリクが、朗らかな声で、Drに対して呼びかける。
無造作に血の海を歩き、キメラの攻撃を潜り抜けながら「少しの間だけ、お話させて貰って宜しいでしょうカ?」と声を掛けるデリクを油断ならない目で見据え、Drは首を振り、キメラに更なる猛攻を命じた。
「そんな、ツレない事を仰らずにネ?」と言えども、Drにしてみても、デリクがかなりの曲者である事は察せられているのだろう。
下手に口を聞こうものなら、相手のペースに乗せられる事を恐れてか、口を噤んだまま、頑なな調子で此方を見ようともしない。

エマに出し抜かれ、黒須を奪われた事を教訓にしているのだろう。
中々厄介な状態だと兎月原が思えども、デリクはこういった状況は十八番なのか、まさに詐欺師の如き弁舌で持って「まぁ、貴方ガそういう態度を見せるのも無理はありませン。 今は敵対関係にある間柄、ここで警戒を解くようであれば、貴方も裏組織のNo2になぞ、上り詰める事は叶わなかったでしょウ。 流石というべきでしょうカ?」と相手に理解を示してみせる。
その間も影に潜む獣は、キメラを食い殺してはいたが、今はその宿主が別の事に意識を向けているせいか、デリクには次々と鋭いキメラの爪の切り傷が付けられ始め、兎月原は、身を屈めデリクの傍にすぐ寄り添うと、その攻撃から身を挺すようにして守ってやった。
とにかく、今はデリクが、突破口となり得る術を持っているのだ。
なんとしてでも守り抜かねばと心に決めれば幇禍も、デリクに協力すべく、彼周辺のキメラを撃ち落す事に集中してくれる。
デリクは、二人の守護を受け、両手を広げると、ゆっくりと言葉に力をこめるようにしてDrに向かって演説を始めた。

「されど、同時に、Dr、私は不思議でならないのデス。 貴方、有能だからこそ、組織を一気に上り詰めタ。 キメラ開発。 素晴らしい術でス。 これは、然るべき場所で発表すれば、世界は震撼せざる得なイ。 まさに、天才。 ええ、そう呼ばせて頂きたイ。 貴方は、天才でス。 だが、何故、この裏社会の組織に、その才能を虎杰ノ為に使っているのでス? もっと、日の目の見れる場所で、その力を振るう事とて出来たであろうニ…。 その理由ハ?」

デリクの問い掛けに、Drが目を細める。

「何が狙いでしゅ?」
デリクは笑い「狙イ? いえ、純粋にお伺いしたいだけデス。 なにぶん、好奇心旺盛な性質でしテ」と答えた。
Drは暫し逡巡し、そして「そうでしゅね。 忠誠心等と言っても…そちらの人には否定されてしましましたしね…」と言いつつ、幇禍に視線を送ると、不意に笑ったまま「ねぇ、じゃあ、逆に聞きたいんでしゅけどね…? 貴方はいましゅか? その人の為ならば、何だってしてやれる位、大事な人が」と質問した。

幇禍は然程間を空けず「ええ」と一度頷く。
にたりとDrは笑い、エマに目を向け「貴女には?」と問いかければ、エマは、訝しげな表情のまま、それでも、コクリと頷き、兎月原にも「貴方は?」と問いかけてきた。

咄嗟に、自分が雇っている、女性事務員の顔を思い浮かべて、コクリと頷く。
そこに別の顔も、入り込みそうになり、慌てて首を振り霧散させている間に、Drは再びデリクに向き直り、「いましゅか?」と端的に問うた。
デリクは迷う様子もなく「ええ、大事な大事な可愛い人が、私にはいまス」と笑って答える。

パチパチパチと手を叩き、Drは「素敵でしゅね」と笑うと、「僕も一緒でしゅ」と肩を竦めた。

「世界を滅ぼしたって構わない。 どうしたって、守ってやりたい子が僕にはいた。 その子の夢をかなえる為に、僕は虎杰の元にいる。 それだけの話でしゅ」
そう言い、そして、虚ろに笑う。
「邪魔をしないで下しゃいとは言えましぇん。 敵の多い道である事等、とうに分かっていましたから。 覚悟なんか、ずっと前に定まっておりました。 野望っていうのは、そういうものでしょう? 覚悟を決めて、望むもの。 人を人と思わぬ事で、ここまで生きてきたんでしゅ。 今更、何の後悔もありましぇん。 正義の味方を気取って、僕を討ちにきたのなら、物語のように、正しい者が、最後立っていられるとは限らないという事を思い知って下しゃい。 僕は、あのお城を虎杰が手に入れる為ならば何だって出来ましゅ。 そう、何だって…」


Drの言葉に兎月原は、大事な人とやらが、虎杰の事を示している訳ではない事を悟ると、では一体誰の為にと思案を巡らせた。


この物語に関わるもの。
Dr、虎杰と同じ立場にある存在。


「子? ですカ? つまり、貴方よりも、年下の存在ですよネ? その大事な人とやらハ」

デリクが探るように、問い掛けて、そして笑った。

「貴方、チェシャ猫とどういうご関係デ?」

Drは、「余り、頭が回ると、他の人間が全部馬鹿に見えて、世の中つまらなくないでしゅか?」とデリクに問い掛ける。
デリクはひらひらと手を振って「イエイエ、私など、浅薄極まりない身の上。 他の方々から学ぶ事ばかりデ、貴方のようにはとてモ、とてモ」と、軽い笑みを浮かべて否定する。

「ただ…他にいないんでス。 貴方ガ、今現在、大事なと表現するに相応しい、この物語の登場人物ガ。 貴方ガ、虎杰に人質を取られ、無理矢理キメラ開発を…という訳でもなク、私達が知り得ない重要な人物がいるという事モ、あの白雪さんから情報を得ている現状では有り得ませン。 お城を望む事自体、チェシャ猫さんからの差し金だとするのなら、全て納得が行ク」

デリクが、そして目を細め「チェシャ猫さんは、貴方のご血縁関係にある方デスカ?」と不穏な声音で囁いた。

兎月原は続けざまにキメラを叩き落しながら、同時に彼らの攻撃の手が弱まりつつあるのを感じる。
Drの意識がデリクに集中し始めていた。

「何故、そう思うでしゅ?」

Drが愉しげにデリクに問う。
「恋人か、それこそ、妻かも知れないじゃないでしゅか」
Drが揶揄するように言えば「男というのは、然程一途な生き物ではないという事は存じ上げてはいるのデスが、『狐さん』でしたッケ? 黒須さんからお聞きしまシタ。 前のお気に入りのキメラ。 随分と美しい女性だったようデ。 大事だの、世界を滅ぼせるだノ、それ程覚悟を決めさせる程に一途に想う女性がイテ、果たしてそういうキメラを自分に侍らせるでしょうカ? それは、余りに不義が過ぎるというモノ」とデリクがシレっと答える。
「ならば、友人関係にある人かとも考えたのですガ友ならば『子』等と、目下のものに使う形容を使わず、『人』と対当の表現を使う筈。 チェシャ猫さんが大事な人であると仮定シテ、友でもなく恋人や妻でもないとするならば、家族…あなたは子持ちにはとても見えませんし、そうですネ…チェシャ猫さんは、貴方の妹さんと見るのが妥当と思ったのですガ、如何ですかネェ?」
つらつらと並べ立てた言葉の数々。
デリクが微笑み、Drに問い掛ければ、「正解でしゅ…」と溜息混じりに答える。
黒須から引き出した情報とあわせて、そこまで推測できるとは…と舌を巻けば、Drも呆れたように「うかうかと、君と喋っていると、どんな隠し事すら暴かれてしまいそうでしゅね」と感嘆した。

「妹さんの為ニ、キメラヲ? チェシャ猫さんは、何かご病気でも患っていらしたのデ?」

更に突っ込んだ問い掛けに、Drは「…本当に嫌な、探偵でしゅ」と小さく呻く。

「だっテ、何か重大な切っ掛けがなければ、キメラ等という分野に、そうそう手を出しはしないでしょウ? チェシャ猫と呼ばれている事から鑑みても、人間の貴方の妹さんに、既に猫と合成するキメラ化手術が施されていると見るのが当然でス。 大事な、大事な妹さんに、そのような所業を施す理由があるならば、唯一ツ。 他の生き物の生命力を借りて、その命を生き長らえさせるしかなかッタ。 これ以外に、有り得ませン」

流れるように喋り続けるデリク。
いつしかキメラ達が、その動きを止めている。
デリクの指先が微かに揺らめき、掌の陣が微かな光を放っていた。

「妹さんの命を救う為、キメラ開発に手を染めた貴方ガ、何故、あの城に辿り着いたのカ?」
「…願いを」

「ハイ?」

デリクは笑って問い返す。

「願いを、叶えてもらう為でしゅ。 何百年前になるでしゅかね…。 時の止ったお城。 あの城に迷い込み、僕は願った」

「キメラ開発の成功ヲ?」

「そうでしゅ」

城の主だとか言う、ベイブは、迷い込んだ人間の願いを叶えるような、そんな酔狂な事をやってるのか…?と兎月原は首を傾げる。
しかも、話に聞いてる限りじゃ、金ではなんともならないような、奇跡の力を振るっているらしい。

「どうしても巧くいかなかった。 当時の医療設備は、今よりもずっと劣っていて、頭で組み立てた論理を成功させる為に必要な物等、どうあったって揃わなかった」

「材料はどうデス?」

デリクは問う。
「実験の為の材料は?」

「それは、すぐに手に入れられました。 あの時代の闇は今よりずっと深かったのでしゅ。 夜闇に身を紛らせて、随分攫わせて頂きました」

事も無げに言うDrの言葉の意味を察すると、「あんた…人を攫って、キメラの実験を繰り返していたのか…」と兎月原は掠れた声で問う。

「いつから…狂ってたんだ…。 どの位の間、狂ってるんだ…」

人間は、どれ程の間狂人の状態のまま生きていられるというのだろう。


「言ったでしょう? 何百年も前に、お城に辿り着いたって。 その前からずっとでしゅ。 妹を、チェシャ猫ちゃんにしてあげて、お城で毎日愉しく暮しました。 あの頃のベイブはサイコーだった。 ずっと一緒に狂っていられた。 ねぇ? 蛇ちゃん。 お前が、ベイブと出会うまではね…」


黒須が自分の名を呼ばれた事に反応を見せゆっくりと顔を上げる。

「ああ…。 お前…まさか…ハンプティか……?」

そう途切れ途切れに問う黒須に「そう。 やっと、分かって貰えましたか。 とはいえ、顔を合わせることは一度もありましぇんでしたからねぇ…。 そうです、お前が現れる事によって、哀れにも城を追い出された、ハンプティでしゅ」とDrは震える声で答えた。

「どんな手段を使ったのやら、蛇ちゃんに会ってからというものベイブの狂気の所業はなりを顰め、深層と表層を逆転させて、僕は王宮の鍵を取り上げられ、こんな糞溜めみたいな世界に放り出された!! 浦島太郎より惨めな立場でした! 何もかも、変わり果てたこの世界で、妹とも引き離され、何処へ行く宛てもなく彷徨っていた、そんな僕を拾ってくれたのがボスでしゅ!!」
 
ヒステリックな声に兎月原は顔を顰めた。
幇禍が冷たい声で「人情モノですか?」と、Drの興奮に水を差す。

「反吐が出そうな話だ。 悪党っていうのは、悪党同士引き合うものなんでしょうか? 本当にロクでもない」
兎月原が吐き捨てるような声で言えども「何とでも好きに言えばいいでしゅ」Drはじっとりとした目で、デリクを凝視しながら平然とした声で答える。

彼の意識が今、デリクに集中している事は、見ているだけでも察せられた。

「僕には理由がある。 守りたい人もいる。 報いるべき恩がある。 立ち止まる術はない。 そういう事でしゅよ、探偵さん?」

Drの言葉に、デリクは高らかに笑った。

「止める術? そのようなもノ! 別段、私、貴方を言葉で止めるつもりはサラサラないんでス!」

にいいと唇を裂いて、デリクは言った。

「むしロ…そう…ご忠告申し上げたかっタ。 恩に報いる等とは申してますガ、貴方、そんな風に感謝する必要性ハあるのですカ? 信頼に値する程、ボスとやらは、貴方との絆がおありになる人なノですカ? キメラの援軍が一向に来ないのは何ででス? 貴方、もう、見捨てられているんじゃないですカ?」

Drが目を見開いたまま、デリクを眺める。
エマが、デリクの意図に添うように、冷たい声で「確かに、大事な商品であるキメラをこんな風に滅茶苦茶にして、組織にとって、貴方の価値が、今、どれ程あるのか疑問だわ?」とシレっとした声で告げた。 

「気持ちの悪い、化け物。 何百年生きましタ? その、狂気を引きずっテ。 貴方 なんか ダレも 好きにならなイ。 だって、喋ってイテも、吐き気がするんだモノ」


笑いながら、冷酷に。
Drの心を最高に傷付けるべく、デリクが言葉を刃に変えてDrを抉る。



「孤独だったでしょウ? この世界で生きるのハ。 これからモ 一人ぼっちでス。 かわいそうニ。 だから、どうぞ、一人で死んで下さイ。 死んで下さイ。 死んで下さい」

冷たい声で繰り返す。
Drの目が何度も何度も瞬いて、その体が小さく震えだした。

「い…やだ…」と子供のような声で言うのを聞いて、にんまりとデリクは笑うと、「こんなに寂しい思いをする位なら いっそ 生まれてこなきゃ よかったのにね」と、トドメを刺すかの如く穏やかに告げる。



キーワードは、一人ぼっち。


誰だって一人は寂しい。

孤独には耐えられない。


それが悪党であろうとも、人である限り。


キメラ達の攻撃が完全に止った。
デリクがゆっくりとDrに歩み寄る。
「虎杰にも裏切られて、何処にも、もう行き場所はないでしょう?」
Drの間近で、身を屈めてゆっくりと囁く。

「さ よ う な ラ」


まるで、何かの呪文のように、デリクは言い、その凶暴な影が、もぞりと身じろぎする。

その瞬間、Drが跳ね上げるようにデリクを見上げた。

「お前がね?」


「っ!」


突然、デリクの顔面に向かって、Drが試験管に入った薬液を浴びせかけてきた。

エマが、即座に声なき声を発し、薬液にぶつけて、四散させる。
薬液の飛沫が、デリクの咄嗟に顔を庇った腕や、服に飛び散り、ジュウッと嫌な臭いをさせて穴を開ける。

(強酸…!!)

薬液の正体に思い至れば、視界の端で幇禍が、素早くDrの額に照準を合わせるのが見えた。
だが、Drは、それを牽制するように、黒い小さな球体を投げつける。

闇雲に危険な予感を察知し、焦って幇禍に視線を送れば、彼は驚異的な反射神経でもって、足を振り上げ爪先で、その球体を蹴り返す。

黒い球体は、幇禍の蹴りを受けて猛スピードで空中を飛んでいく途中で、パン!!!と花火のはじけるような音を立てて爆発した。

球体の大きさの割りに、かなりの威力と見られる爆風がその場にいる人間の髪を煽り、空中に飛んでいるキメラを何匹が撃墜させた。

兎月原は、その爆風に紛れるように、デリクに走り寄ってその腕を引き、後ろに引きずるように後退させる。

「大丈夫か?!」

問えばデリクは頷いて、「…最後の一言が余計でしタ」と言いつつ眉を潜めた。
「最後の一言?」と訝しげに問えば、少しだけ悔しげに「つまリ、私が探り当てた関係性に加えテ、まだ、何かDrと虎杰の関係性にハ、Drを疑心暗鬼に至らせる事のなイ、強固な繋がりがあったという事デス」とデリクが言う。

そんなデリクに、Drが勝ち誇ったように告げる。

「探偵しゃん! 良い事を教えてあげましょう!!」

デリクが首を傾げた。

「まだ、見落としがありましゅ。 まだ、辿り着いてない場所がある。 虎杰は、僕を裏切らない! 僕は、絶対に一人にはならない!!」

デリクが、目を細め、そして、ぶつぶつと自分の思考が、そのまま漏れ出ているかのように何事かを呟く。

「Drハ…チェシャ猫と兄妹の関係にあリ…虎杰と…Drは、組織の上司と…部下…関係…ならバ……チェシャ猫と、虎杰の関係ハ?」

キメラが再び攻撃を開始する。

兎月原と幇禍は身構え、エマが慌てて黒須を庇うかのように、その前に立った。
だが、デリクは不意に顔を上げ、「ああ…すいませン。 夢中になっちゃいましタ!」と軽い声で言う。

その言葉の意味を掴みかねて、兎月原が視線を向ければ、デリクは両手の痣を翳し「もう、とっくに準備は出来てるんでス。 ただ、気になる事も色々あったシ、お喋りが愉しくなっちゃっテ」と言いながら、ピンと片手を挙げて人差し指を立てた。

時間稼ぎかと思われた、あの弁舌も、何もかも、全くのデリクの興味追求の為の時間だったと知り、思わず兎月原は脱力する。

「「「ええー…?」」」と疑問符をあげる三人に首を巡らせ、それから誤魔化すように笑いつつ、「兎月原さん! 黒須さんを、出来るだけ私の傍ニ!! 皆さんも、集まっテ!」と声をあげる。
兎月原が、何が何だか…という顔を隠さずに、とりあえず黒須の傍に駆け寄った。
心臓を刺し貫いていた針を抜き去った甲斐もあり、暫く落ち着かせていたからか、それとも下半身蛇の形態を保つ気力すら、最早失われたのか、黒須は人間の姿に戻り、蹲っている。
そんな黒須を見下ろして、それから、物凄く、ものすごおおおおおく逡巡した後に、彼を運ぶのに最善の抱え方が、例のアレしかない事に対して観念すると、「ええい! 止むを得まい!!」と断腸の声を上げた。
まず、全裸な黒須に自分のスーツの上着を被せてやると、「これは、髪の長い女性。 これは、髪の長い女性」と虚ろな目をして自分に言い聞かせるように呟き、黒須の体を抱き上げる。

膝の下に腕を差込み、その背を支えながら胸に抱え込んでやれば、振動が響くのか、「う…あ!! ちょ!! 痛ぇっ!!」と一度黒須が喚き、自分の状態を認識すると「というか、何?!! これ?!! 何か、心も激痛!!!」と再度叫んだ。

「うるさい!! 黙れ!! こちらだって不本意だ!! 本来、この運び方は、女性をベッドに運ぶ時限定なんだよ!!」

そう馬鹿な怒鳴り合いをしつつ、傷への負担を考えて、通称お姫様だっこと呼ばれる抱き上げ方を黒須に対してしている自分が情けなくって情け泣くって、幾分涙目になってしまう。
皆の元へと黒須を抱えたまま足早に寄れば、なんか、物凄い嘘っぽい涙ぐみ方をしつつ「…兎月原さんノ…勇気に乾杯!」とデリクが親指を立てた。
「…貴方の犠牲、忘れないわ……」とエマが言い、幇禍も「この苦しみに耐えればっ!!! 良いことがきっとあるからっ! 神様が見てますからっ!!」と必死に、兎月原を勇気付けてくれて、そのそれぞれに「ありがとう!! みんな、応援ありがとう!!」と、兎月原は、なんか熱い声で答える。
そんな兎月原を疲れたような目で見上げ、「なぁ…俺って…何…?」と悲しい声で黒須が問い掛ければ、その瞬間、エマが目を輝かせ、「そうね…黒須さんは言うなれば…」とイキイキした声で、多分彼にとって致命傷になる言葉を並べて立てようとした。

長い付き合いもあってか「いや、良いです。 もう、結構です。 お腹がはち切れそうです」と即座に黒須はエマを制止し、片手を挙げたままだったデリクが、ブルブルと腕を震わせながら「漫才コーナーは終了ですカ? もう、私、手が大変疲れテ、かなり痙攣!! 上げっ放しは、しんどいデス!」と、自分の苦境を訴える。
「ああ…コーナー化が定着しつつある…」と恐れるような声で呟く黒須にエマが無表情に、ブイサインして見せつつ、「じゃあ、やっちゃって!! デリクさん!!」と声を掛け、「アイアイサー!」とデリクは返事をすると上げたままの手を勢いよく振り下ろした。

その瞬間、指の軌跡に添うように、空間が切り裂かれる。

「っ! ちょっとばかり無理しまス!! 巧くいかなかったラ、ごめんなさイ☆」と、かなり不安になる発言をかまされて、兎月原の背中に鳥肌が立つ。
デリクが作り出した異空間の裂け目が皆を飲み込む寸前に、何気ない調子で、彼は黒須に尋ねた。





「ところで、黒須さン。 王宮の住人ト、この世界の人間ガ、お互いに恋に落チ、想い合う等とイう事は、可能なのでしょうカ?」



黒須は、兎月原に抱きかかえられたまま、呆然とした顔を見せ、「無理だろ。 基本的に、あすこの住人は城から出れない。 それこそ、白雪とかを通じでもしねぇと、この世界の人間と、向こう側の住人が会えるなんて事はねぇよ」と答えた瞬間、兎月原の体は渦に飲み込まれていた。


渦を潜り抜ける最中、朦朧とした意識の中で、腕に抱えていた、何か凄く大事なものが、強い力に引っ張られ、奪い去られたような気になった。


空虚な喪失感。


複雑な気持ちになる。

そんなに大事なものじゃないだろう?


自分にそう言い聞かせれば、いや、大事なんだと、即座に自分の中から否定の言葉が帰ってくる。

一体これは何とした事だろう?
苦悩するほど逼迫はしてなくて、でも捨て置くには余りに、寂しくて仕方なかった。

いつもふわふわと夢見がちなのに、時々どうしようもなく鋭い事を言う、大事な大事な兎月原の雇った事務員ならば、こんな状態の兎月原を的確に言語化してくれるような気がして、無性に彼女に会いたくなった。


不意に兎月原の耳にエマが、「っ!! 高っ!!! 本当に予想外に高っ!! ていうか!! ちょっと、これっ!!! 誰か?! 誰かぁぁぁぁぁ?!!」と叫ぶ声が聞こえてきた。

何を言っているんだろうと、意識が明瞭とした瞬間、自分自身「ええええぇぇぇえ?!!! 高すぎない?! これ、高すぎない?!」と大いに喚きつつ為す術もなく落下する羽目に陥る。

されど、そこは流石兎月原と言うべきか。
くるりと体勢を変えて着地の体勢を整え、衝撃に備えれば、そんな彼の腰の辺りの衣服を誰かが捕まえ、ぐいっと力強く持ち上げる気配に驚いた。

首を巡らせれば、白い毛並みの美しい虎が、兎月原の腰の辺りの衣服を咥えて飛んでいる。
羽を羽ばたかせる姿に、そういえば、こんな虎がK花市に出品されていた事を思い出し、あの、Drの陰惨な爆破処理より生き残ったキメラがいた事を、兎月原は大層嬉しく思った。

エマも、随分と派手な色彩の空を飛ぶ男に抱えられており、無事であった事にほっとする。
確か、あの男は、幇禍そっくりの顔をした、極彩色の羽の生えていた異形の薔薇姫。

竜子と潜入していたメンバーの一人だったのかと思いつつ、視線を巡らせれば、薔薇姫の中でも一際目を引いていた、黒薔薇の和装に身を包んでいた美少女と、ゴシックな衣装をこれ以上なく着こなした見事な薔薇姫姿を見せてくれていた向坂嵐の姿も見えた。
空中から、更に、周囲の観察に努めれば、そこには、倉庫のキメラと同じく、無残にも爆破処理されたらしい、キメラや、薔薇姫の姿も目に入った。
ここでも虐殺は行われたのか…と陰鬱な気分になり、次いで目に入る、竜子達と戦闘状態にある敵キメラの群れの姿に眩暈めいたものを感じた。


何処も同じ、状況か…。


エマが、自分を抱えている男の顔を確認し、「蘇鼓さん?! え?! 何?! ちょっ、ここは?! 千年王宮じゃないの?! ていうか、デリクさん?! デリークさーん?!」と、必死に呼びかける。
あの薔薇姫がエマの知り合いであったらしいことに、その顔の広さに驚きつつも、彼が蘇鼓という名である事を兎月原は知る。

確かに、デリクは千年王宮に送るといっていたのに、ここはオークション会場であった「背徳」に間違いなくて、虎に床に降ろしてもらった後「ありがとう」と心から例を述べ、その頭を優しく撫でてやると、兎月原はどういう事なのか疑問を乗せた視線をデリクに送った。

若干視線を逸らしつつ、デリクはエマに、テヘッ☆と舌を出して笑い掛けると「スイマセーン! ベイブさんに、私が向こうに向かおうとしているのがバレて、邪魔されちゃいましタ」と、爽やか口調で朗らかに言い放っている。

何だ、そりゃ?

兎月原の頭の中に、「?」マークがたくさん浮かぶ。
だって、こちとら、城の危機を救うために、向こうに向かおうとしていたのに、それを邪魔する理由が一切見えない。
だが、それはそれで、こちらの与り知らぬ理由があるのか、エマが「バレたって…」と一度絶句するものの、それ以上は何も言わず、自分を助けてくれた蘇鼓を見上げ「助かったわ…ありがとう」と疲れた声で礼を述べる。

「どーいたしましてっ!」と、飄々とした返事を返し、蘇鼓がエマを床に降ろせば、彼女は一目散に駆けてくる竜子に向き直ると、両手を広げ、飛び込んでくるその体を抱きしめた。

「っ!! 姐さんっ!!」

竜子の言葉に「だから、姐さん呼びはやめなさいっって!」と突っ込みつつもエマがぎゅっとその体を抱きしめる。
「大丈夫? 怪我はない?」
エマの問い掛けに、うんうんと頷いて「姐さん達は?!」と竜子が問い返せば「大丈夫よ」と笑い返して、周りを見回す。
「嵐君も、曜ちゃんも元気そうで安心した。 それに、蘇鼓さんもね?」
エマの呼びかけに、美少女の名が曜である事を兎月原は知り、女性の名だからという訳ではないが、きちんと脳に刻み付けておいた。
「ていうか、てめぇらどうして突然ここに?」と蘇鼓が問い掛けてくる。
「えーとですネ…」
そう言いながら、蘇鼓の問い掛けに、エマより先に、デリクは口を開く。
「まず、初めまして…で宜しいですよネ? えーと、蘇鼓さン?」
そうデリクが声を掛けたのは、やはり、その容貌が見れば見るほど、幇禍にそっくりだったからだろう。
薔薇姫姿を目にしているとはいえ、会話を交わすのは初めてであるのは確かなのに、強烈な違和感はどうしても拭えず、身に纏う色彩のせいか、幇禍よりも何だか華やかな印象は拭えない蘇鼓から目を逸らせなくなる。
「ソレに…嵐さンと、曜さんモ…薔薇姫姿の時には、此方から一方的に拝見させていただいてはおりますガ…ご挨拶は初めてさせて頂きマス」とデリクが頭を下げつつも、自己紹介などしあっている状況でないのは確かであって、このフロアにも、所狭しと、キメラが暴れ回っている状況なのだ。
些かうんざりする気持ちを抑えきれないながらも、味方が増えたのは喜ばしい限りで、三人のうちの誰の手によるものかは分からないが、敵キメラ達に勇猛果敢に飛び掛っている鬼達の姿も見受けられた。
一体、これがどういう原理の生き物なのかはさっぱり分からないが、鬼も味方なのだと把握して、とにかく、倉庫での状況よりは良くなったのだと、自分に言い聞かせる。
夥しいといって良いほどの数の鬼達が、キメラを食い殺していく様は圧巻で、お陰でとりあえず現状をお互いに確認しあう余裕だけはありそうだった。

それでも、鬼の防衛ラインを突破したキメラを、兎月原は、蹴り飛ばし、投げ飛ばしながら、ついと、虎杰と思わしき、キメラの群れを率いる男に視線を向ける。

派手な色に染めた長めの髪を、後ろに撫でつけ、オールバックにした、精悍な顔立ちをしていた。
ヒリヒリとした危険味を感じさせるその容貌は、Drのようなタイプの人間とは全く違うのにも関わらず、何故か同種の狂気を感じさせる。

類は友を呼ぶという奴だろう。

デリクが、虎杰を眺めつつ「ここに来るつもりはなかったのでスガ、ある意味好都合かも知れまセン」と口にする。
そして、竜子達に向き直り自分達が、このフロアに出現した理由を説明し始めた。

「簡単に説明すると、私、普段はしがない英語学校の講師をしているのですが、先日、ある雨の日。 特売の日にスーパーに買い物に行く途中、突如雷に打たれてしまいまシテ、その際、何と奇跡的に第六勘に目覚メ、空間を歪める能力を手に入れる事が出来ましタ。 その能力を行使して、千年王宮とこちらを行き来する事が出来ており、今回も渦中のあの城へDrと黒須さんを含め、お運びしようとシタのですが、うっかり、私ってば、あの城の王様に嫌われてしまっておりまシテ…」

えへへ…という風に頭を掻くデリクに、竜子が「すげー!! お前の力って、そうやって手に入れたモンだったのか!! なんか、アメリカの映画みてぇ!!!」と感激したような声を上げている。


余りに出鱈目ばかりなので、聞いてて頭痛を覚えたのだが、竜子の素直馬鹿な言葉に更に、その痛みが増した気がした。
デリクの説明の中で兎月原に有用だったのは一点のみで、デリクが千年王宮の王ベイブに嫌われているというのはあながち嘘ではないのだろうと推測する。

だから、デリクは千年王宮へ皆を送り届ける事を断念し『背徳』へと急遽移動ポイントを変更した。

しかし、こんな事態でも、訪問を拒否されてしまうとは、デリクはベイブに一体何をして、ここまで嫌われたのだろう?と好奇心を抱きつつ、デリクの嘘を素直に信じる竜子を、嵐が「いや、明らかに嘘だから。 間違いなく嘘だから」と、最早優しい位の声音で正してやる。
エマが「ねぇ? どうして? この時点で、言ってる事の訳八割が嘘!!という荒業を行使できるの? もう病なの? そういう体質とか、呪いとか掛かってるの? そういう一族なの? 一子相伝の秘密とかがあるの? ねぇ? ねぇ、ねぇ?」と真顔でデリクを問い質していた。
「いえ! そんな、八割が嘘だなんテ!!」
その言葉に心外そうな顔を見せ、「基本私は9割の打率を心がけていマス!」と言い切るデリクに、エマがガクリと膝をつき、曜がその一切の騒ぎに関与しないといった声音で「ところで、キミが一緒に運ぼうとしていた、その肝心のDrと黒須さんとやらは…何処に?」と問い掛けてきた。


へ?


思わず兎月原は自分の手を見下ろてしまう。

そういえば、ここへ来る途中、何かを奪われた記憶が朧気にあるのだが、あれは、黒須であったのかと思い至れば、そんな兎月原の認識を裏づけするかのように、デリクが「あ…落っことしちゃいマシタ」と、軽い声音で呟いた。

その瞬間、自分でも驚くべき素早さで兎月原は「何処に?!」と叫んで、デリクの肩を掴む。

デリクが驚いた顔をしつつも、「多分…」と言い、眉を顰め、一瞬口を噤むと「このビルの屋上デス」と答えを聞くや否や、兎月原は脱兎の如くフロアの出口を目指してしまっていた。
行く手を塞ぐキメラ達を殴り倒し、フロアをあっという間に飛び出す背中に「…でも、一緒に、幇禍サンもいる筈ですから、滅多な事にはなってませんヨー!!!」とデリクが叫ぶ声が聞こえるが、兎月原は振り返りもせず、走り続ける。

俺、何でこんなに必死?とそんな自分を滑稽に思いつつ、屋上に続く非常階段を駆け上れば、突如「なぁ、兎! 黒須とか言う奴って、お前の親友かなんかな訳?」と声が掛けられた。

ぎょっとしつつも顔を向ければ、いつの間にか蘇鼓が自分と併走している。
彼のペットか何かなのか、兎月原を助けてくれた羽の生えた白い虎と、肉団子に手足と羽の生えたような小さく奇妙な生き物も、蘇鼓の後をついてきていて、その何か、訳の分からない組み合わせに、「っ?! なんで、一緒に来てるんだ?!」と疑問の声をあげ、次いで「その虎は、お前の何なんだ?! ていうか、何か訳の分んない生き物もついてきてるんだけど?!」と、虎達を指差した。

蘇鼓は真面目に答える気などないというのが丸分りの声で、「いや、俺、実は先日、とある雨の日、郵便局に出かける途中で雷に打たれて、超獣使いの能力に目覚めてな…」等とデリクと同じ種類の出鱈目を口にするので、「うん、どうでもいいっ!!!」と即座に一刀両断しておく。

どうも、蘇鼓は聞いた事への答えを教えてくれる気はないらしいと思えども、虎達の事はともかく、蘇鼓が自分と一緒に向かう理由は、黒須ではなく幇禍だろうと確信した。
あれほど容貌が似通っているのなら、何らかの関係があって然るべきだと兎月原は察し、それから、蘇鼓が「兎」等と言う、未だかってされた事のない呼び方を自分に対して行っていた事に気付き、「ていうか、なんだ、兎って? 俺の名前は、兎月原・正嗣だからっ!」と、唸るように名乗っておく。
「いや、なんか、兎月原とかって呼びにくいので…」と、蘇鼓が訴えるものだから、「いや…それにしたって…あんまりだろ…その略し方は…」と不満げな顔をしてしまった。
途端、「じゃあ、分かった。 ラビット・正嗣でっ!」と、素敵なあだ名思いついた☆的口調で提案され、思わず全力で「何を分かったんだー!!!っていうか、余計に、面倒臭い呼び名になってるよな?! この面倒臭さは相当だよな?! ていうか、ラビット・正嗣の方が呼びにくいよな?!」とツッ込んでしまう。

初対面ながら、丁々発止と言って良いやりとりを繰り広げ、兎月原は、多大な疲労感を覚えつつ、「いや、そもそも、ラビットネタで『クスッ』と出来る人、相当限られてるよね?! 昭和のネタだよね?!」と、更に言葉を続けた。
「じゃあ、やっぱ兎で」と人差し指を立てて蘇鼓が言ってくるので、何が、「じゃあ…」なんだよと心中で呻きつつ、然程、この先付き合いがあるとは思えない相手の事だしと諦め、「好きにしろ…」と言いつつ項垂れる。
そのまま、無言になって階段を駆け上がる、兎月原の姿に何か思うところがあったのか、突如、蘇鼓は「…黒須って、確か男なんだよな?」なんて、兎月原にとっても、最大に触れられたくない疑問を口にした。

思わず凄絶な位の眼差しで蘇鼓を睨み、「ああ!」とその事すら気に入らないという気持ちを込めた声で返事をしてしまう。
「え? その、なんか、家族関係とか? さっきも、聞いたけど親友とか?」
そう問われれど「違うっ!!」とこれも即座に否定して、本当に一体、じゃあ、なんで俺はこんなに懸命なんだ?と自分を問い質したくなった。

まるで、兎月原の気持ちに応えたかのように「お前、恋人でも親友でも家族でもない奴の為に、なんでそんな一生懸命なんだよ?」と蘇鼓が兎月原に問うてくるものだから、兎月原は相当迷った挙句、一瞬だけ立ち止まり、それから絞り出すような声で「自分でも意味は分かってないんだが、あの人は俺にとって『特別』なんだよ」とだけ答える。

他に、答えの出しようがなかった。

この感情の名は知らないが、とにかく、何とかしてやりたいと、心底思ってしまっていて、だから、もう、黒須は特別なんだと、そういう曖昧な言葉で、彼に対する感情に一旦の決着を付ける事にした。

そして、再び、階段を一気に駆け上がり、漸く辿り着いた屋上の扉を、蹴り飛ばすようにして開け放つ。


屋上の扉の先にはヘリポートとなっている、「H」の大きな文字が描かれたコンクリートの殺風景な光景があって、兎月原が足を踏み出せば、強い風に白衣の裾を翻しているDrがいた。
此方に背を向けてDrと対峙しているのは、間違いなく幇禍で、兎月原は視線を彷徨わせ、黒須が倒れているのを見止めると、慌てて傍へ駆け寄った。


頭上に広がる、東京の空は相変わらず不自然なほど明るい。

大きな月が出てはいたが地上を埋め尽くす、夥しい人工のネオン達が、月の儚い光を押し返し、ギラギラと光の海を地上に形成していた。

兎月原は黒須の体を抱き起こしてやる。
血に汚れながら、それでも絹のように美しい髪がサラサラと流れ落ちた。
目を細め、黒須が兎月原の姿を見て、少し笑った。


「お前さ」


唐突に口を開く黒須に驚きつつ、「何だ?」と問い返せば「…変わってるってよく言われるだろ?」と聞かれる。
質問の意味が分らず首を傾げれば「…なんで来たんだよ」と問いを重ねた。

それは、今屋上を指しているのか、それとも、このメサイアビルに黒須を救出に来た事自体を指しているのか分らずに、それでも何だか素直な声で「あんたを助けに来たんだよ」と言ってしまっていた。

それは嘘偽らざる理由だったので、全く隠し立てするつもりもなかったのだが、黒須は、戸惑うように目を伏せて、「変な奴」と呟いた。


助けに来た人間に、この言い草は、ないだろう?と不満に思いながら、それでも、何だか、もう何も、黒須に言うべき事はないような気がして、「そうだよ、変なんだよ」とだけ答えておく。

実際変だよ、俺はと認め、それから、何だかもう、黒須を見ていられないような、そんな気持ちに襲われたその瞬間だった。


「危ねぇっ!!」

と、蘇鼓が叫ぶ声がして、幇禍を抱えて宙に浮いた。
視線の先には、黒い球体。

Drが、幇禍に投げた、あの爆弾。

兎月原も、黒須を抱え、出来るだけ、爆弾からはなれた場所に飛びのけば、

パン!! パン!! パンッ!!と連続して破裂音を響かせながら黒い球体たちが爆発する。

蘇鼓に抱えられた幇禍が、何故かぐったり脱力した様子なのが気にはなったが、今は、Drへの警戒を怠るべき時ではない。

されど、先程視界を過ぎった、蘇鼓と幇禍は、今は身を寄せ合っているからか、余計に同じ生き物としか思えない程、同じ姿をしていて、月灯りの下並ぶ、二人の尋常ならざる美貌に、怖気を奮ったのも事実だった。



まるで、この世の風景ではないような…。


月が明るい夜だった。


金色よりも、尚濃い、蜂蜜めいた色をした月の下での出来事だった。



爆発の最中、Drが高笑いをしていた。


兎月原は、Drを睨み「火遊びはそこまでだ。 どうにもならん。 もう、これ以上は。 分かるだろ?」と言ってやる。

そう、彼は今、一人きりで、どうしようもなく追い詰められた状況の筈だった。

「ツケを払ってくれ。 横暴のツケをだ。 お前らは巧くなかった。 悪党にしては……」

そこまで言って兎月原は言葉を見失い、少し首を傾げ思案すると、Drに相応しい言葉を見つけ出して頷き、「純粋が過ぎたよ」と囁いた。


実際、これ程、混じり気のない狂気等、お目にかかった事はなかった。
家族の為、友の為、彼は純粋に狂人になったのだろう。

巧くない。
それは、巧くないよDr。


Drは、兎月原の言葉に、Drには、まるで似合わない、優しいような、寂しいような笑みを浮かべて、こちらを眺める。


「…ありがとう」


その言葉は幻聴か。


Drが告げた言葉が信じがたく、確かめねばと思いつつ兎月原は目を見開き、虚空をもがく様に身を乗り出す。

だが、何を確かめねばならないのか、兎月原には分らなかった。


ただただ、確かめねばと強く思った。

兎月原に抱えられたまま黒須が首を仰け反らせ、「…行くな!!」と掠れた声で叫んだ。

Drは笑う。

「蛇ちゃん、一足先に、お城で猫ちゃん達と一緒に待ってましゅ。 王様が交代したら、すぐに呼んであげましゅからね? 女王様も、王様も、蛇ちゃんにも、たっぷり愉しい思いを味合わせてあげるから、期待していらっしゃい」
そう嬉しげに言い、それからDrは宙を飛ぶ蘇鼓と、幇禍、そして兎月原に視線を向けると手を振って「さよなら」と囁いた。

「逃がすものか!!」
そう叫び、黒須をおいて後を追う兎月原にDrは笑いかける。

それはやっぱり優しいような形をしていて、何だか強く兎月原は胸を突かれるような心地がした。


純粋な狂気。

手を伸ばす兎月原を見つめたまま、Drは、突然大きな、大きな蝙蝠の羽を背中に生やす。

Drもキメラだったのか?!

そう驚く兎月原を他所に、Drは一気に走り出し、ビルから躊躇なく飛び降りた。

その瞬間、空中に真っ白な文様が現れ、Drはその陣の中に飛び込んでいく。

「っ!! やべぇ!! 城に行かれたっ!!!」


黒須が叫び、兎月原が「城?! 千年王宮にか?!」と問い掛ける。

焦ったように頷いて、「多分、チェシャ猫が呼んだんだろう。 こりゃ、厄介な事になったぞ…」と呻き起き上がろうとして、黒須はあえなく崩れ落ちた。

「ちくっ…しょ…」と呻く黒須の肩を叩き、兎月原が「無理をするな…」と呆れて告げる。

自分の体の状態を全く把握できていないのだろう。

さて、どうしたものか?、背徳に戻るべきか、それともここで黒須についてるべきか悩む兎月原の目の前に、デリクが造り出す、真っ黒い異空間の渦が出現した。


「?」と首を傾げれば、渦の中からデリクの声が聞こえてくる。

「後を…追ってくださイ!!」

デリクの唇から放たれているとは、俄には信じ難い、切羽詰った必死な声。


「お願いしまス! 渦の中に飛び込めば、千年王宮に辿り着けまス! 向こうに、ウラという女の子がいるのでス! Drが向こうに向かった事は、千年王宮にとって、危機的状況を齎しマス!! 私は…私は、彼女を失いたくナイ!!! とても大事な、私にとって特別な子なんでス!! だかラッ!!!」


その必死の声に胸打たれた。


「蘇鼓!!! それに兎月原さんっ!!! 頼む!! お願いだ、燐を…燐を、助けてやってくれ!! 頼む!!!」

泣きそうな声。
曜も、向こうに燐という、大事な人間がいるらしい。
女性の頼みを無碍に断わるわけにもいくまいと、既に決意を固める兎月原にダメ押しのように「あの子に、何かあったら…私はっ!!」と、曜が叫ぶ。



大切な人を失うのは、みんな怖くて。


特別な存在が誰にでもいて。
 

人は、そうやって生きている。

みんな、一人は寂しい。
きっと、寂しい。



兎月原は「黒須さんは、ここにいてくれ」と声を掛け、躊躇のなく渦へと足を向けた。

「…兎…てめぇは行くのかよ」

蘇鼓が問い掛けるので、当然とばかりに「ここで、終われないだろう?」と答えておいた。

「あんたは?」

兎月原に問われ、蘇鼓が一瞬息を呑む。

すると渦の中から、狡猾な、手段を選ばないと決めたような冷静な声で「…蘇鼓さン、貴方ガお連れしていった虎ノ大五郎さン…でしたッケ? どうも、キメラ化をさせられているようでスガ、Drが手術の際に体に保険として施したのハ、爆弾だけじゃなかったようですヨ? 爆発処理をしなけれバならない程、緊急の事態でない状態で、購入したキメラに飽き、処理したいと望んだ場合、手術時に体内に仕込んである物質が、何か特定の成分を含むものを口にすると、化学反応を起こし、毒素となってキメラの命を奪うように処置してあったようデス。 一体、何の成分を引き金に、その物質が毒素に変じるのかは分からないのですが、キメラ化させた生物はそこら辺の毒物では、到底命を奪えぬ程に、極めて丈夫に作り変えていたようデスので、それは、それは大変強力な毒素になるみたいデスヨ? 大五郎さん、聞けば蘇鼓さんの大事な幼馴染だそうデ、物質は、Drが持っている薬剤を摂取さえすれば、無効化も可能なようですガ…このまま、千年王宮に逃げ込まれてしまえば、薬剤を手に入れる事は難しいですヨネ?」と、並べ立てるデリクの声が聞こえてきた。

その言葉に、蘇鼓が何だか堪えきれないというような笑みを浮かべる。

魔術師の嘘にしては、稚拙が過ぎるといったものだった。
きっと、蘇鼓を千年王宮に向かわせる為の出鱈目だろうと確信しつつ、デリクが何だか、健気だったから兎月原も笑みを浮かべる。

蘇鼓が降参という風に表情を緩め、「ちーきしょう。 俺ぁ、賽銭一つ上げて貰ってねぇのによう…」と面倒臭そうに意味の分らない事を呻いて、大五郎という余りに渋い名前らしい白い虎と肉団子のような奇妙な生物を振り返った。
肉団子が、蘇鼓の頭に飛びつき、「行こう!」と促すかのように、ペシペシはたいている。

その仕草が、ちょっと可愛いかも…と眺めていると、、まるで、楽しくてたまらないという風に蘇鼓は唇を釣り上げて、「…何の成分を摂取したら、おっ死んじまうか分かんねぇっつうのなら、この先、大五郎はおちおち飯も、安心して食えねぇって訳か…」と呟いて、それから「しょうがねぇなぁ…行ってやるよ!!」と穴に向かって怒鳴り声を張り上げる。



兎月原は、ポンと蘇鼓の背中を叩き「よく言った」とえらっそうな事を言って笑いかけると、そのまま、穴の中にひょいと飛び込んだ。



「♪Humpty Dumpty sat on a wall
 ♪Humpty Dumpty had a great fall
 ♪All the king's horses and all the king's men
couldn't put Humpty together again」



穴を堕ちる。

墜ちる。

落ちる。



渦の中で、ずるずると闇の中を落下していく。


浮遊しているような、唯落下しているだけのような、不思議な状態に身を置く兎月原の目の前に突然道化が現れた。

「?! 何でここに?」と疑問を投げかける兎月原に、道化は煮たりと笑いかけ「まぁ、それが私という存在さ!」と要領を得ない言葉を返してきた。

「よかったねぇ、兎君! ジャバウォッキーを無事救出できて」

揶揄するような言葉を吐く道化を睨みつけ、「うるさい」とだけ兎月原は吐き捨てる。

「何故? 君の優しさに、私は胸打たれてるっていう、それだけの話さね! あんな男の為に必死になるなんざ、呆れたボランティア精神だと言わざる得ないよ」とからかう様に道化は言葉を続けた。

兎月原は、益々不機嫌になりながら、彼の不意を突くように「ていうか、なぁ? 実際のところ、あんた誰なんだよ」と問い掛ける。
道化は、益々にたりと笑うと、「道化さぁ!」と即座に答えた。

「道化でしかない! どうしようもなくね! ただ、そうさね、別の名前で呼ばれていた時もある」

そこまで道化は言って、それから首を少しだけ傾けて笑うと、その瞬間カシャンと音を立てて、その体が崩れ落ちる。

関節という関節がぐにゃぐにゃと在り得ない方向に折れ曲がっている。

赤い糸が、その節々から垂れ下がっていた。


まるでマリオネットのように。

まるでマリオネットのように。


そして、動かぬ道化を置き去りに、流され続ける兎月原の目の前に、今度は一人の少女が現れた。


「昔は、こう呼ばれていたんだ。 『アリス』 時の大魔女、アリスって…ね?」

灰色の肌に、真っ赤な唇。 真っ黒なウェーブのかかった髪を肩まで伸ばし、白いリボンのあしらわれた、大きなヘアバンドを髪につけ、黒のエプロンドレスのワンピースを身に纏った、何処か見るからに不吉な少女。

これが、道化の正体。


「アリス…?」


その名を訝しげに口にする兎月原に、「ひひひ」と口を歪めて下品に笑うとアリスは「まぁ、聞き覚えがないのも仕方ないやね。 そこそこ、有名人じゃあ、あるんやけど、何にしろあんたは、今まで、魔術だの、何だのっつう世界とは無縁に生きてきたお人や」と頷いて、「色々説明するのも面倒臭いから、とりあえず、千年王宮を作った張本人と覚えて貰えりゃ充分や」と言った。

「その、城を創ったとかいう大魔女様が、何で、あんな人形使ってるんだ?」と兎月原が問い掛ければ、「もう、とっくに、本物のアリスは封印されっちまってるからねぇ…うちは、ただの幻。 ベイブが自分の心の中に抱いている幻想なのさ」とアリスが少し寂しげに答える。 
「アリスは、ベイブに討たれて、この城に封じられた。 ベイブは、そのせいで、アリスの呪いに掛かり、千年王宮に千年縛り付けられる呪われた王様になった。 ベイブはうちをどうしようもなく憎んでいる。 だから、うちの姿を目の当たりにする訳にはいかないし、うちはベイブの心の深層に閉じ込められて、自由に動くことは叶わない。 せやで、この人形を依巫にして、うちはずっとベイブを守り続けてきたっちゅうワケやね」と答えた。
兎月原は、益々意味が分らなくなり、「何故、そのベイブって人は、自分を呪った憎い女を、後生大事に、心の奥底に抱えてなんかいるんだ」と問い掛ける。







アリスは、事もなげな様子で「だって、あの子はうちの息子やもん」と答えた。






『かって、時の大魔女アリスは、自身が生きる悠久の時の中で、誰の子か明らかになっていない、一人男の子を孕み、産み落とした。 息子の名は【  】。
生まれながらにして数奇な運命と数多の謎を背負う、その子供は生後間もなく、聖CAROL教会が有する聖騎士団の手により保護されたが、自分の血を分けた、最愛の息子を奪われる事となったアリスは悲しみに沈み、時の迷宮の中で自らの心を癒す為に長い眠りについた。 【  】は、その間、母親から譲り受けた魔法の才と、誰かは分からぬ父譲りの剣の腕にて、騎士団にて頭角を現し、団長の地位にまで登りつめ、1700年代初頭に行われた《魔女狩り》にて、皮肉にも己の母の討伐を命じられる。 激しい戦いの中、宿敵としてお互いの正体を知らずに出会ったアリスと【  】は、更なる悲劇! 狂気と禁忌の恋に落ちてしまったのであった』(ロリィナ・アリス著 「千年魔法の構成理論」巻末付録 大魔女アリスの略歴より抜粋)



兎月原は、息を呑み、それから「息子?」と鸚鵡返しに問い返す。
アリスはコクリと頷いて、「でも…うちはあの子に惚れとるし、うちもあの子を惚れられてるからね…惚れた男の為に一肌脱ぐんは、女の最低限の矜持やから、こうして出張らせて貰うとるわけよ」と、あっさりとした声で答えた。


それは禁忌じゃないのか?

実の母親と息子ならば、間違いなく。



アリスが無邪気に言う台詞に、うまく言葉を返せなければ、アリスは「あんたが深刻に考える事は何もないんやに?」と言ってにんまり笑う。

「聖騎士団の連中は、何やらぐっちゃらぐっちゃら煩うて、堪らんかったけど、今は、もう、封印された身の上や。 禁忌に触れるような事は、何にもでけへん。 何にもな…」

そう寂しげに言い、それから「んじゃ、巻き込んだお詫びってぇんじゃないが、あんたが城に辿り着くまでの間に、一つ面白い昔話でもしようかね」とアリスは囁いた。


その瞬間、兎月原の周りの世界が一変し、銀色の鏡張りの姿に変じた。
そこに映るは、兎月原自身ではなく頭に猫の耳が生えた一人の女と、大きな姿身越しに相対する一人の男。 

今よりも若き日の虎杰の姿。



「逢瀬。 馬鹿なチェシャ猫と馬鹿な男の、馬鹿な逢瀬の光景だよ」

アリスが愉快げな声で、兎月原に説明した。
あの女が…チェシャ猫。



一枚の大きな鏡に手を這わせ、チェシャ猫は頬を染めて向こう側を覗いていた。
鏡の向こう側の虎杰は、チェシャ猫と同じく鏡に手をあてて、彼女と顔を突き合わせていた。

「鏡よ 鏡 世界で一番 美しいのは だぁれ?」

無邪気な声でチェシャ猫が問う。
鏡の向こうの虎杰は少し笑って、それからチェシャ猫を指差した。

「ふふふ」と肩をすくめ、掌を唇に当てて「嘘。 違うわ」と言って、それから自分の猫の耳に手をあてる。

「だって、こんなものが生えてる」
すると虎杰は首を振って「関係ないよ」と囁いた。
「尻尾もあるのよ?」
「それも、可愛いじゃないか」
「わっち、人間じゃないの。 お城の化け物なのよ?」
「それでも、お前は美しいよ」
虎杰の言葉に、また「ふふふ」と笑い、それからピタリと鏡に張り付く。

「世界で一番?」
「ああ、世界で一番」
「わっち、お姫様になれるの?」
「俺がしてやる。 お前をお姫様に」

何度も何度も瞬いて「約束」とチェシャ猫が言えば、虎杰も頷き「ああ、約束だ」と答えた。



つまり、チェシャ猫と、虎杰はこのようにして、通じていたという事か。

恋仲。

デリクの黒須への問い掛けを思い出す。


千年王宮の住人と、現世に住まう人間との恋。


「この…鏡は…?」

兎月原が問えば「白雪。 現世と城を繋ぐ事の出来る、魔法の鏡や」とアリスは答えた。
兎月原が知る白雪とは、鏡に映る真っ白な女の姿をしていたが、この大鏡こそが本性らしい。
黒須が他に手段がないと言っていた通り、虎杰とチェシャ猫は白雪を介して通じ合ったのだ。
Drが、あれほど、虎杰との絆に対して自信を持っていたのも頷ける。
恋人の兄であるのなら、裏切られる等という可能性は極めて低いと考えられた。

「愚かなチェシャ猫の為に、虎杰は、この城を手に入れるありとあらゆる方法を探した。 少しでも城に近づく為に、力を手に入れようと裏の世界に身を投じ、チェシャ猫に会いたい一心で、組織のトップにまで登り詰め、そして、彼女と同じ『獣』と『人』を融合する技術と知識を有した一人の男を自分の傍らに置いた」

「それが……Dr…」
兎月原が思い至れば、アリスは「正解」と愉しげに答え「…ここにいた頃の名はまた違ってね、あいつは『ハンプティ』と呼ばれていた」とアリスが言えば、兎月原は頷いて「本人も、そう名乗ってくれたよ」と答える。
ヒヒヒとアリスは笑い「さよか…。 まだ、あの頃の自分に未練があるんやねぇ、あいつは」と呟いて「馬鹿な奴や」とまた笑う。

そしてアリスは「ハンプティ、壊れた巨大な卵の名前。 私とは、散々意味論について、議論を交わしたっけねぇ?」と口にすると、懐かしげに遠い目をした。

それから不意に視線を上げ「ああ、もうそろそろ到着や」と呟いた。
「兎…あんたは、自分を真っ当やと思ってるみたいやが、中々、此処が面白い事になっとる」と言いつつ、アリスがその指で、トントンと兎月原の頭を突く。

「ベイブと、少し似てるよあんた」

そう愛しげに言われ、頬をそっと撫でられると、「じゃあ、せいぜい気張りや」と言ってアリスの姿が掻き消えた。

兎月原はアリスの言葉を反芻し、「似てる? まさか」と、Drの言葉を思い出すならば、かっては狂気の限りを尽くしたような男と自分が似ている筈がない等と、笑い飛ばし、そして、不意に、暖かな手に自分の掌を捕まれるのを感じた。

「兎月原さん!」

響く声は、竜子の声。

「竜子さん?」と兎月原が驚きの声を上げれば、「悪ぃ! なんか、ベイブの野郎、向こうで何があったのか、妙な力をつけやがって、白雪の鏡の道にまで干渉できるようになってやがる! どうもデリクとあいつ相性悪くってさぁ…とにかく、あたいがあんたを、導くから…」とそこまで言い、「んあ? っていうか、あんたは、どうも順調に来れてたみたいだな」と言って、進む先を指差した。

そこには光の扉が浮かび上がり、「どうも、蘇鼓のが心配だ。 あたいはちょっくら探してくるよ。 あんたは先に、城に行ってくれ」とつげ、竜子の気配は掻き消える。

光の扉に辿り着き、押し開こうと手を伸ばせば、今度はデリクの声が頭に響いた。

(貴方の周囲の空間を歪メ、人の目から隠れられるようにしておきまシタ。 機会を見て、Drの息の根を止めて下サイ)

そんな事が可能なのかと辺りを見回し、姿は見えないながらも、デリクに向かって「助かる」と礼を述べる。

何だか、重大な役目を済し崩しに任された気がしないでもないが、自分はこうなる運命だったのだろうと、Drの顔を思い浮かべ、むしろ、自分の手であの男に止めをさせる事に、何だか安堵の念を覚えてしまった。


扉を開き、その向こうに下り立った兎月原は周囲を見回し「へぇ…」と小さく声を漏らす。

そこは、四方を鏡に囲まれ、頭上から止め処なく薔薇が降り注ぐ、不可思議な空間だった。

城というには、余りに殺風景過ぎないか?と思いつつ、更に辺りを見回せば、まず数人の人影が目に入った。
見知っている顔は、白雪と、それから前回チーコに纏わる旅路で、道行を共にした、蒼王翼の姿が見える。

後は、ゴシックロリータファッションに身を包んだ、洋のものとも和のモノともつかぬ人形めいた要望をした美しい少女と、小柄で、髪をポニーテールにした小動物めいた愛らしさを有する少女。

どちらかが、デリクにとって大事な娘のウラで、猛片方が曜がその身を案じていた燐の筈だ。

それに、真っ白な肌をした、虚ろな表情の大柄な一人の男。


間違いない、あれがベイブと確信し、マジマジと眺めた後(確実に俺の方が男前)と、アリスの言葉を完全に否定する。
似通ったトコ等微塵もないと思いつつ、視線を巡らせ、今度は、酷く凶々しい表情をし、ずらりと尖った牙を剥いた、一匹の巨大な化け猫とその傍らに立つDrを視界に納めた。

思うに、あの化け猫こそ、チェシャ猫であるのだろう。
アリスに見せられた女の姿とは随分違ってしまっているが、Drが傍らに立ち、身を寄せている姿や、今、翼達に相対している敵が、Drとその化け猫のみであることから鑑みて、兎月原は確信を抱く。

そして最後に、地面に倒れ伏す、夥しい数のキメラ達の残骸が目に入った。


ああ、つまり、そういう事か…と即座にキメラ爆破の真の理由を兎月原は察した。

全ては、愛しいチェシャ猫の為に。

彼女の脅威になり得る、彼女と敵対する存在を破壊する事に、何ら躊躇を覚えない、その狂気的な有り様に、「狂ってる」と兎月原は呟く。


狂ってる。

まぁ、だが、だからこそ、世界を揺るがしかねない所業が行えたのだろう。

デリクの言葉どおり、兎月原の姿は誰にも見えなくなっているらしく、一向に誰も此方に気付くい様子はなかった。
この機会に、兎月原は現在どういう状態なのかを察する為に、状況把握に努めていると、不意に背後に気配を感じた。

振り返れば、白く光る文様が空中に作り上げられる。


極彩色の翼が、文様から生えるように開かれ、その羽を撒き散らした。

ゆっくりと現れたのは蘇鼓で、大五郎と肉団子も勿論一緒についてきている。
ふと、大五郎がクンと一度鼻を鳴らし、それから、兎月原に気付いたのか、スリスリと擦り寄ってきた。

何だか懐かれてしまっている兎月原。

その反応を見て、大五郎という名などつけられてしまっているが、間違いなく、虎がメスである事を確信する。
昔から、動物にさえ、オスには敬遠されたり、意味もなく敵意を向けられるのだが、メスにはちょっと面白い程に分りやすく懐かれた。
そして、大五郎が「ふぐぅ…」と声をあげて、蘇鼓の傍らに立ち、何か言いたげにその横顔を見上げる。
蘇鼓が大五郎に「んだよ」と問うのを聞いて、出来るだけ驚かせないよう、その腕をちょんちょんと引いた。
目を剥き、辺りを見回す蘇鼓に、小声で「蘇鼓…俺だ…兎だ…」と、不本意な名前を仕方なく名乗る。
「兎のおっさん?」とこれまた小声で言い返され、(ああ、更に嫌な呼び方にパワーアップしている)と、流石に許容しかねて「おっさんじゃない! まだ!」とそこは、今、こだわらなくていいんじゃないかな?というような文句を言っておいた。
「な…んだよ、なんで、てめぇの姿が見えねぇんだよ?」と聞く蘇鼓に「デリクさんが、空間を歪めて他の人間から、姿を見えないように隠してくれた。 このまま、息を潜めてDrの隙を突く。 あんたは、あの化け物の相手をしてくれ」と言っておいた。

兎月原の言葉に顔をあげ「うっひゃぁ…なんじゃありゃ?」と、巨大な猫の姿が目に入ったのだろう、素っ頓狂な声を上げる。

そして「ケケケッ」と蘇鼓が奇妙な笑い声を発すると、チェシャ猫が、硬直したまま、己を凝視しているのを無視し、その傍らに、Drの姿があるのを見止めると、嘲り声で「さぁて……逃げても無駄だぜ?」と宣告した。

「『神の目』からは、逃れられねぇ。 例え何処へ行こうともだ」


そう言いながら、スタスタ歩く蘇鼓の隣を、恨みの篭った唸り声をあげながら大五郎が歩いていく。

その後ろをパタパタと、空飛ぶ肉団子が胸を張りつつ偉そうについていっていた。

改めてみても、これは何のご一行なのか、よく分からない。
すると、大五郎が途中で兎月原を振り返り、「くう…」と何だか愛らしい声を上げて、一旦伏せると、首を巡らせ、自分の背中を指し示した。

「…乗れって…言ってくれてるのか…?」

兎月原が問えば、大五郎がコクンと頷く。
確かに、猫は音や気配に聡い。
不用意に歩き回るより、大五郎の背に隠れ、足音を立てず異動し、気配を紛らせて貰った方が身を隠す側としては、安全だろうと考えると、「ありがとう。 助かるよ」と微笑みかけ、遠慮なくその背中にしがみ付いた。

兎月原を気遣ってだろう、ゆっくりと立ち上がる大五郎。

そして、「保護者が随分心配してたぜ? くれぐれも力になってやってくれって頼まれちまったぜ。 俺を此処に送ってくれた、いんちき臭い魔術師と、曜にな」と二人の少女に向かって言っている蘇鼓のすぐ傍に立てば、蘇鼓の言葉に二人は顔を見合わせる姿が目に入った。
小柄な愛らしい少女が「曜先輩は無事なのじゃな?!」と、顔を輝かせているので「こっちが、燐か…」と兎月原は察すると、何より曜の無事を確認しようとするその態度にの健気さに、つい微笑んでしまう。
蘇鼓が「なんで、てめぇ以外の他人をそんなに大事に出来んのか、俺には理解不能だよ」と言いながら、チェシャ猫に向き直り、そして、躊躇なくその巨体のすぐ前までスタスタと歩いていった。

「で? 何、これ? 化け猫?」と言いながら、その体を指差し、それから猫の傍らに立つDrに、蘇鼓は「それとも、てめぇが創ったの? こんな悪趣味なもん」と言いながら、ケケケッと喉を鳴らす。

「おっもしれぇ。 竜子、こんなんがいるトコで暮してんの?」と愉快気に言うが、チェシャ猫は蘇鼓の物の言いが気に入らなかったのか「フーッ!!」と唸り声をあげた。
蘇鼓が、「躾がなってねぇなぁ!」と楽しげに毒づく。


「…力を貸してくれるんだね?」
翼の問い掛けに、「ま…約束したからな」と答えた瞬間、大五郎は余程Drに恨みがあるのか、我慢の限界を迎えたという風に一声吼えると、一気呵成にDrへと飛び掛っていった。


(え?! えええええ?!!!)

堪らないのは、兎月原で、突然の大五郎の暴走に振り落とされないよう、しっかりその背中にしがみ付く。
チェシャ猫が腕を振るい、虎を叩き飛ばそうとする度に、兎月原は寿命が大幅に縮む思いを味わい、大五郎は羽を羽ばたかせ高く飛び上がり、素早い動きで攻撃を避けながらDrに迫った。
Drも自身の羽を使い、高く飛べば、笑いながら、「虎しゃん、そういえば、お前生きてたんでしゅか! あはははっ!! それは、それはっ!! なんて、生意気なんでしょう!!」と言い、屋上でばらまいて見せた、球形の爆弾をバラバラと一気に撒いた。

パン!!!っと、ポップコーンが弾ける音に良く似た、しかし、よっぽど鼓膜を揺るがす轟音が連続して聞こえてくる。

大五郎は、その爆風に押されるように一時撤退を決めたらしく悔しげに唸りながら、再び蘇鼓の傍に降り立った。
正直、ありがとう! 俺生きてる…!!と神に感謝しつつ、ペタンとそのふかふかの背中に顔を伏せる。

「時間が…ないわ!! ベイブ!!! あたし達を守りなさい!!!」


ウラがそう叫べば、ベイブが如何にも物憂げな仕種で、それでも、指先で複雑な文様を宙に描いた。
横目で観察していると、チェシャ猫と兎月原達の境界線上に光の壁が立ちはだかる。
防護壁は、Drの爆撃を防ぎ、こちらに向かって踏み出そうとするチェシャ猫の体を押し止めていた。


「ただの時間稼ぎなど、無駄な足掻きでしゅ!」


そう吼えるDrに視線を送りベイブは、醒めた眼差しで「煩い」とだけ呟く。
「喚くな、頭が痛くなる…」

掠れた声。
どうも本調子ではないのか、視線が不安定に彷徨い、胸の辺りに手を這わせると「胸がざわざわする…」と呟く。

バチバチバチ!!っと、電撃音がし、チェシャ猫が「うにゃん!!」と悲鳴のような声をあげて、光の壁から飛びずさった。


「自身の力を、制御…出来ていないのか?」

眉を潜め燐が言うのに、ウラは頷いている。

本当か?と、兎月原は額を汗で濡らすベイブの姿に、そこそこシャレにならない状況である事を改めて察すると、さて自分はどうすれば言いのだろう?と思案に暮れた。

折角姿を消されている関係上、できればもう少し事態を見守りたい。
どうしようもなくなった時に、姿を現せば良いだろうと判断して、再びベイブに視線を送れば、随分辛そうな姿が目に付いた。


「…はぁっ…はっはぁっ…っ!!」

ベイブの呼吸が荒い。
視線がまたブレ、バチバチと光の壁が暴走する。

突然ウラが、そんなベイブに走り寄ると、その腕を掴み、必死に揺すって「もうじきよ!!」と怒鳴った。

「もうじき、デリクが女王とジャバウォッキーを連れてきてくれるわ!! だからっ!! だからっ!!」

ベイブの視線がぐるりとウラを眺め、それから小さな声で「ウラ…」と呟く。
余程、ベイブに信頼されているのか、ウラを視界に納めた瞬間、ベイブの光の壁の暴走が少し穏やかになった。

「…そうよ…大丈夫。 あなたは一人じゃない。 味方がいる。 大丈夫」

呪文をかけるかのように、ウラが、ベイブの目を見て、何度も、何度も呟いている。

「きっと、デリクが誠と竜子を連れてくるわ。 デリクが来てくれるの。 そうよ…だから、大丈夫…大丈夫よ…」

声が震えていた。

無理もない。
まだ、見るからに年端もいかない少女にとって、この状況は余りに厳しすぎる。

今にも泣くかと思われたその矢先、にいっとウラは唇を裂いて無理矢理のように笑った。


不敵な、生意気極まりない笑み。
何だか、アリスの笑い方にも良く似ていた。


「てめぇも、あんなチンケな野郎相手に、そんなうろたえてる場合じゃねぇんだよ、このスカポンタン。 おら、もっと、気張って見せろよ!!!」

そう口汚く怒鳴りつけるウラに兎月原は、思わず目を見開く。
ベイブは驚いたようにウラを見下ろし、口をぽかんと開けていた。

不敵な笑みを益々深め「…誰が、今お前の傍にいると思ってるの? 無様な姿を見せないで。 見苦しいわ!!」と声高に言い放ち、ウラは昂然と顎を上げる。


その声、仕草、態度、その全てが、兎月原には好ましく思い「10年後が楽しみだ」と思わず小声で呟いた。


「ひあっはははっはははっ!! 言うねぇ!! お前、サイッコー!!」
蘇鼓が体を折り曲げ一頻り笑って、ウラに親指を立てて見せると、ベイブはぎゅっと眉根を寄せ、光の壁は、再び静寂を持って、チェシャ猫達とこちら側の間に厳然と立ちはだかった。
「おい!! てめぇ、あの壁、もっと厚く出来ねぇか? こっちの声が一切向こうに届かねぇように」と、突然蘇鼓がベイブに問い掛ける。
その言葉に、ベイブは眉を顰め「人使いが…荒い…」と溜息混じりに呟いて、更に複雑な文様を描き出した。

すると光の壁は、その色合いの濃さを増し、金色の壁に変じて向こう側の様子すら見えない状態になった。

「これで…こちら側の…声は一切向こうには…届かん…。 だが…白雪…」

そう、ベイブが呼びかければ「あの防護壁は、保って…数分程…」と白雪が即座に答える。
「とっとと……ケリをつけろ…」と、ベイブが告げ、蘇鼓は「充分だ」と笑って答えた。

そして、「うし。 てめぇら、耳の穴かっぽじって、ようく聞きな。 ありがたくって泣けてきちまうようなモンを特別に披露してやる」と、蘇鼓は言いながら、ぐるりとベイブ達を眺め、そしてゆっくりと目を閉じる。

顎を上げ、両手を広げると、蘇鼓の周囲を覆う、淡い光のオーラが更に強まり、準備が整った蘇鼓は、美しい、少女めいた程に可憐な声で、高く歌い始めた。

悪辣な物の言いの目立つ、お世辞にも上品とは言えないような蘇鼓の唇から、天上に住まう迦陵頻伽を髣髴とさせるような見事な歌が響き渡った。


まさに、神の歌声。


空気が一斉に澄み渡り、薔薇の匂いが濃く、甘く、兎月原の鼻腔を擽った。

聞く者の体内が浄化され回復力を増し、その攻撃力を倍増させる奇跡の歌。


蘇鼓が短い曲を一曲歌い終える頃には、皆の表情が一変している。
ベイブに壁を厚くさせたのは、この歌声をチェシャ猫達に聞かせぬ為かと合点がいった。

兎月原自身、これまでの攻防にかなりの疲労を感じて射たのだが、その一切の倦怠感が掻き消え、体中に力が漲っている事を認識すると、今の自分なら、確実に仕損じなくDrの息の根を止められるだろうと確信する。

燐が、指先に、針で穴を開けると、翼に向かって駆け出す。

「飲め! 早う! 時間がないっ!」

燐の言葉に、翼は一瞬呆然とした後頷いて、美しい形の唇を、その愛らしい指先にそっと寄せる。


彼女の血にも何か不思議な力があるのだろうか?と兎月原がその行動を怪訝に思えば、いつの間にか傍らにいた白雪が「燐お嬢様の血は、蘇鼓様の歌声同様、摂取した人間の力を増させる効果があるのです。 この城の中で、今、最もチェシャ猫の命を奪える力を有するのは翼様」と言いながら翼をを指し示す。
流石全てを見通す鏡だけ合って、兎月原の存在はお見通しかと感嘆したまま黙っていると、白雪は「皆様は、己の全ての力を、翼様に託そうとなさっているのです」と説明してくれた。


「チュッ」と小さな音を立てて、燐の血を口に含んだ翼に、次いで、ウラは「その剣を翳しなさい」と告げる。
片手に提げていた、美しい銀色の剣を見下ろし、「…何を?」と訝しげに首を傾げる翼に「その剣は、かなりの代物のようだし、今のコントロールなら、多分成功する。 じっとしてなさいよ?」と言いながら、ウラが突如指先を頭上に翳しえいと振り下ろした。
その瞬間、翼が翳した剣に雷が落ちる。

「っ!!」

驚く皆の表情を眺め、満足げに頷くウラ。
翼の剣に、青白い雷撃と思わしき光がバチバチと音を立てて帯電する。
屈強さの欠片もない少女ばかりなのに、中々どうして侮れない力の持ち主らしいと、見た目には華奢で可憐にしか見えない面々を見回す。

燐の血と、蘇鼓の歌。

そして、ウラの雷撃。


青白い光を帯電している剣を、翼がすっと指先で撫でる。

ずるとバチバチバチ!!と派手な音を立てながら、剣が紅色に染まった。


「…っ!! もう…保たん!!」

ベイブが、ずるりと床に崩れ落ちた。
光の壁が、ゆっくりと崩れゆく。

「タイムリミットでしゅ」

Drが勝ち誇ったように告げるのを聞いて、燐が満面の笑みを浮かべて叫んだ。

「お主のな!!!」


翼が、地面を蹴り、宙に飛ぶと、息を呑むようなスピードでチェシャ猫に突進する。


「「行けぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!」」

ウラと燐が声を揃えて叫び、白雪が両手を組み合わせ祈った。

ベイブが、虚ろな表情で笑う。

兎月原は、翼の気迫に圧倒されながら、その時点で結末を確信した。


金色の髪が乱れ、美しい目を見開いたまま、翼は、まるで呪われた城を救いに来た騎士の如くの凛々しくも美しい姿で化け猫に肉薄する。



バチバチバチバチバチ!!!!!!!


翼が突き出した剣が、狙い過たず化け猫の胸に突き刺さる。


「…さよなら」


翼が厳かな声で告げ、剣に宿らせた全ての力を解き放った。



赤い稲光が、部屋を明滅させるほどの光を放ち、鼓膜を打ち破らんばかりの音が兎月原の耳を劈く。
咄嗟に耳を塞ぎ目を閉じて大五郎の背中に顔を埋める。




赤い光が、鏡の部屋を覆いつくし…そして、恐ろしい程の沈黙が、暫くの間、その場を満たした。




まだ、チカチカと明滅しているような瞼を押さえつつ、それでもゆっくりと目を開けば、そこには鏡の壁に突き刺しにされているチェシャ猫の姿があった。

ここへ来る途中にアリスに見せてもらった、頭に猫の耳が生えた女の姿に戻っているチェシャ猫は、それでも小さくもがき、首を振り。
「っ…う…そよ…うそ…うそよ…」と弱弱しい声で呻く。

ひびの入った鏡に映る、歪み、何体にも分裂したチェシャ猫が、断末魔の痙攣を見せた。

「…だ…って…こんな…の…聞いた…事…ないもの…。 お…御伽話の最後は…いつだって…王子様と…お姫様が結ばれて…幸せに暮らす…んだもの。 わ…わっちは…わっちは……お姫様…に…」

白雪が、ゆっくりとチェシャ猫に近付いていく。
そして、チェシャ猫が串刺しにされている背後にある鏡に自分の身を映した瞬間、その姿が掻き消え、自分の身を映していた場所から出現したかの如く、チェシャ猫の背後に立った。

白雪の胸がぱっくりと開かれている。
そこには、一枚の鏡が在って、翼の剣の切っ先が吸い込まれ、ずぶずぶずぶとチェシャ猫を貫いたまま飲み込まれていった。

正に鏡の化身と納得せざる得ない白雪の姿に兎月原は息を呑む。


翼が目を見開き白雪を見上げた。


「猫はお姫様にはなれない」

残酷な微笑み。

チェシャ猫を抱きしめ、白雪が歌うように言う。

「猫は猫。 ただの猫」

そして、チェシャ猫の顎を無理矢理持ち上げると、唇を近づけて、嘲るように、言い聞かせるように言った。

「…夢は夢。 絶対に叶わない。 絶望なさい。 分不相応な望みを持った事、ベイブ様に出会った事、生まれた事すら悔いなさい。 さようなら、性悪猫」

白雪の真っ白な唇が、チェシャ猫の唇に重なる。



死の 接吻。


お姫様が王子様の口付けで目覚めるのなら、白雪の口付けはチェシャ猫に永遠の眠りを齎した。


チェシャ猫の体が鏡の中に沈む。


顔を上げた白雪の唇から、真っ黒な液体がツルツルと零れ落ちた。

「…それは……」

燐が掠れた声で問い掛ける。


「燐が、鏡を通じてこの城へと来れるようにした…あの薬と同じものか…?」


燐の震える問い掛けに、白雪は満面の笑みを浮かべ「『鏡渡り』の秘薬に御座います」と密やかに答えた。

ずぶりとチェシャ猫は鏡に飲み込まれ、そして四方を囲む鏡に高い空に放り出され、落下するチェシャ猫の様子が映し出された。



「♪Humpty Dumpty sat on a wall
 ♪Humpty Dumpty had a great fall
 ♪All the king's horses and all the king's men
couldn't put Humpty together again」



王様の馬みんなに 王様の家来みんな合わせても
ハンプティを元には 戻せやしなかった


壊れた 卵は もう元には戻りません!



合唱が微かに聞こえてくる。

堕ちる。

墜ちる。

猫が。


落ちる。


「あの猫は、一度も想い人に『会えた事等なかったので』本望でしょう」


残酷に白雪が言う。


「私の慈悲です」


地上に、一人の男が立っていた。
虎杰。


キメラという禁忌の術で持って、裏組織のトップに立った男。

ただ、恋の為に。

ただ、恋の為に。
滅ぶか。


満身創痍で、それでも、天を仰ぎながら、酷く明るい、悲しいほどに明るい、幸福そうな笑みで虎杰が両手を広げる。



チェシャ猫も笑った。
最期の意識で。


「やっと…会えた…」


小さく猫は呟いた。


「ずっと会いたかった」


虎杰も笑って応えた。



猫の胸を刺し貫いている翼の剣が、そのまま、虎杰の心臓も刺し貫く。
落下した猫を虎杰は抱きしめ、そして、地上に倒れ伏した。



現世と王宮、たった一度として、直接、触れ会う事もなく、鏡越しで想いを育んだ、憐れな、憐れな、恋人同士。
漸く、最期の、最期、この上ない悪辣と、暴虐の果てに、二人は抱き合う事が出来た。


悲恋の結末である。 
悲しい終末である。


しかし、悪党の恋であった。

悪党の最期であった。



「中々、美しい恋の終わり方だ…」と、兎月原は、淡々とした声で呟くと、フラフラとDrが壁に取り縋り、震える声で「…虎杰……茜…」と、虎杰の名と、チェシャ猫の名らしきものを呟く。


「ふ…ひっ…ひぁっ…ははっ…あはははっ…はっははははっ!!!」


そのまま膝を付き体を震わせながら笑うDrが、狂気に霞んだ目で辺りを見回し、そしてポツンと「一人ぼっちに…なっちゃいました…」と呻いた。


「…いやでしゅねぇ…一人…は…とても…寂しいでしゅ……」


狂った声。

ぐるるるる…と唸りながら大五郎が、Drへと近付いていく。


このまま、物語は終わってしまうのかと思ったが、さあて、とうとう出番らしい。
息を殺し、身を伏せながら、Drをじっと睨み据える。

「…しょうがないから……あの二人の所へ行く事にしましょう……」


俯きながら呻いたDrは、懐から真っ白なカプセルの詰った薬瓶を取り出すと、突然、自分の掌にザラザラと錠剤をぶちまけ、口中に放り込んだ。

不穏な足掻きを見せるかと思いきや、Drの意外な行動に(毒でも飲んだのか?)と、「え? 俺の出番は? ていうか、Drが自殺したら、俺どの面下げて姿を現せばいいの?」と不安になれど幸い(?)、どうにも、Drという男、そこまで潔くはなかったらしい。


「…君達も…連れてね……?」


そう呟いたのを最後に、突然、Drの体が膨れ上がり、一瞬にして人間の姿を失う。

白衣が弾け、ぶよぶよと膨らんだ肉の塊が床を侵食し始めた。

にいいっと肉に埋もれかけた唇が歪むのを見て、兎月原は無表情に「今笑うか」と、何だかDrが哀れでならない感想を抱く。

こんな時に笑う相手の可哀想さに思いを馳せつつも、このままじゃ、間をおかず、この部屋が肉に埋め尽くされる事に危機感を覚え、ただ自殺するのなら、大人しく死んでおけばいいものを、どうして、他人を巻き込みたがるのだろうと呆れるような気持ちになれば、大五郎が、背中に兎月原を乗せたまま、一気に、その肉の塊の中心に飛び込んで行った。

兎月原は身を起こし、不意に声を出す。


「Dr」

ブルリと、肉が震えた。


「…あんたは確かに一人じゃなかった」


兎月原の言葉に、また、ブルリと肉が震えた。


「一人ぼっちより、ずっと寂しい場所にいたんだな」


肉の震えが激しくなる。
「やっちまえ!!! 兎っ!!!!」と蘇鼓が叫ぶ。
その瞬間デリクの術が破れ、姿が皆にも視認出来るようになったらしい。
「兎月原さん?!!」と、翼が叫ぶ声が聞こえた。

兎月原は躊躇いもなく拳を突き出して、肉の中にその腕を埋もれさせた。


「往生際が…悪いんだよ…!!!」


そう鬱陶しげな悪態をつき、ぐいっ手の中に脈打つ熱い肉の塊を掴み取る。
思いっきり兎月原が手を引けば、掌の中にドクドクと脈打つ気持ちの悪い心臓めいたものが掴まれているのが分った。

「じゃあ…な」

そう囁いて、眉一つ顰めず、その心臓を兎月原は握り潰す。


その瞬間肉の膨張が止み、ずるするすると、その中心に這い戻ると、胸に大きな穴を開けたまま横たわるDrの姿が現れた。

ベイブが指先をツイと振れば、これぞお城と言われて納得できる、絨毯張りの豪奢でだだっ広い玉座の間に姿を変える。

いつの間に現れたのか、三つの首を持つ大きな黒犬がパクンとDrの物言わぬ体を平らげる。
そして満足げに舌なめずりを見せると、ベイブに対し、三つの頭を同時に下げ、それからノソノソと城の奥へと消えていった。

ああ、もう普段ならそこそこ驚いて上げられるのに感覚が麻痺しちまって何も思わないや…とそんな自分にがっかりしつつ、「…気持ち悪」と、淡々とした口調で呟き、べちゃりと音を立てて、兎月原はその潰した心臓を床に投げ捨てる。

血に塗れた掌をブンブンと振れば、「いいとこ取ってくじゃねえかよ…」と揶揄するように蘇鼓が言ってきた。
「いや、ていうか、俺がいなくても、綺麗に話が終わりそうだったもんで、今更どうやって出てけば良いのか分からずに、俺はかなり焦ってたぞ。 第一声は『実はお邪魔してました!』とかでいいのかな?とか、凄い考えたんだからな!」と、チェシャ猫が倒された辺りから、抱いていた不安をかなり本気の声で訴えておく。

そして、「おら」と言いつつ、兎月原は、心臓を抜き取りがてら一緒に失敬した薬の瓶を蘇鼓に渡した。
「彼女に飲ませてやれ」と大五郎に視線を向ける兎月原に首を傾げれば「解毒剤。 デリクさんが言ってただろう? 毒物が仕込んであるって。 どうせ、あんたを動かす為の、出鱈目だろうと思っていたのだが、強ち嘘じゃなかったらしい。 懐に大事に忍ばせてあった」と言ってやる。
ビンの中には、真っ白な錠剤が入っていた。

全てを見通す鏡だという白雪に兎月原が視線を向ければ頷いて「虎のお嬢様の血液内に、不穏な成分が混入してございます。 このまま放置すれば、いずれは命を奪う事になるかと」と答えてくれる。
「…この薬でなんとかなんのか?」
蘇鼓が問えば「はい。 間違いなく」と頷かれ、その自信たっぷりな物の言いに、間違いはないかと察したのか、「命拾いしたな?」と大五郎に声を掛けた。
彼女自身意外だったのか、ポカンとしつつも頷く。

「重かったろ? すまなかった」と言い、大五郎の頭を兎月原は撫でた。

ぐるぅ…と唸り、その身に体を摺り寄せる大五郎に、「大五郎…お前ほんとに男前に弱ぇのな…」と呆れたように蘇鼓は言う。

「…大…五郎?」
その余りに燻し銀な名前に燐が大五郎を凝視しながらそう疑問符を口にし、あまつさえ「メスの虎っつうのは、みんなそうなのかよ?」と蘇鼓が問い掛けるに至って、「メスなの?!」「女の子で、なんで大五郎?!」とウラと燐が交互に言い立てた。
だが、翼はそのフェミニストぶりを発揮して、当然の事と言わんばかりに、「…彼女には、そんな無骨な名は似合わないよ」と憮然とした調子で蘇鼓に抗議してくる。
兎月原も、「俺は女性の上にしか乗らない主義なもんで…君みたいに綺麗な子とそれから、何だか気に入らなそうに睨んでくる翼に微笑み返しておいた。

「そもそも…お前…どこにいたのよ? 虎の背中には、誰も乗ってなかったわ」

ウラがそう兎月原に言うので、にこりと見惚れるしかない笑みをウラに見せ、それからふいに視線の先に、白い文様の中から現れる、デリクの姿を見つけると「君の王子様に、空間を歪める力を使って姿を隠して貰ってたんだ。 さぁ…お迎えが来たよ?」と言った。

ウラが、その言葉に振り返る。

デリクは余裕たっぷりの笑みを浮かべて「ウラ。 よく、頑張りましたネ」と言い、先程まで、小生意気な表情を見せていたウラが一気に、走りより、その胸に飛び込んだ。

デリクに導かれるように、竜子と黒須が現れ、そして、竜子が飼い主に飛びつく犬のように翼に抱きつく。 折角のドレスをボロボロにして、泣き喚いている竜子と、大分憔悴しているようだが、そんな様子を呆れたように笑ってみている黒須。
翼から漸く離れた竜子と、黒須、二人纏めてベイブがぎゅうっと抱きしめると、漸く何もかも安心できたかのように、「…ああ…疲れた」と彼が呻くに至って、兎月原は、さて、じゃあ、ハッピーエンドまで見届けた事だし、お暇しようかねと思い立った。
デリクが、こちらに気付き、きっとここに向かった事に対してだろう。
ついと頭を下げてくる。

どうやって帰れば良いのか、デリク辺りに尋ねてみるかと思えば、黒須がそんな兎月原に気付き、よろつきながらも、傍に寄って来る。

「よう」

そう言いながら、トンと兎月原の胸を軽く拳で叩くと、「大活躍だったみてぇじゃねぇか?」と言って、それから「さんきゅうな」と、穏やかな声で礼を述べてきた。


言葉を交わさず、現世に戻るつもりだったのに、そんな風に礼を言われてしまうと、もう、どうしようもなくて、はぁと溜息を兎月原は吐き出すと、「畜生」と小さく呻く。

「ん?」と黒須が笑いながら顔を覗きこんでくるので、「…なんか」と兎月原は呟いた。
「なんだよ」

「あんたが助かってよかったと思って」

「……」

黒須が、兎月原の言葉に黙り込み、それから、はふっと息を大きくは気だと「お前、変な奴だぞ?」と屋上で言った言葉を、ここでも投げつけてくる。

「うん、いや、だから分かってるよ」と兎月原は言い返すと、首を傾げ「ていうか、まぁ、だからさぁ…」と言い、ポンと黒須の肩を叩いて「あんたも、少なくとも俺に優しくされる事に慣れろ。 今まで、どういう扱い受けてきたのか、まぁ、言動とか? 性質とかで察してやるけどさぁ、俺は、どうも変な奴らしいから、俺自身望んじゃいないが、どうもお前に優しくしちまうみたいだぞ」と、常にない朴訥とした調子で訴えてしまう。


「は…?」


と大きく口を開け、黒須が呆然とする顔が無性に腹立たしくて、「まぁ、そういう事だから、じゃあな!!」と言って背を向け手を振ると、竜子が「おーい!! 外まで送ってやるから、こっち来てくれ」という声に従い、とっととと、小走りで逃げるように黒須から離れた。
「曜が、すげー感謝してたぞ? くれぐれもヨロシクってさ」と竜子に言われ頷きつつ、つまり、そういう事なんだと兎月原は深く納得する。

何か、優しくしてしまうのだ、黒須があんまり可哀想だから。

とにかくそういう結論を出すと、自分の不可解な心の動きも無事言語化出来たような気がして、それで、兎月原は、漸くすっきりする事が出来た。










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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【3432/ デリク・オーロフ  / 男性 / 31歳 / 魔術師】
【3343/ 魏・幇禍 (ぎ・ふうか) / 男性 / 27歳 / 家庭教師・殺し屋】
【0086/ シュライン・エマ / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【7521/ 兎月原・正嗣 / 男性 / 33歳 / 出張ホスト兼経営者 】
【3678/ 舜・蘇鼓 (しゅん・すぅこ) / 男性 / 999歳 / 道端の弾き語り/中国妖怪 】
【4582/ 七城・曜 (ななしろ・ひかり)/ 女性 / 17歳 / 女子高生(極道陰陽師)】
【2380/ 向坂・嵐/ 男性 / 19歳 / バイク便ライダー】
【2863/ 蒼王・翼  / 女性 / 16歳 / F1レーサー 闇の皇女】
【3427/ ウラ・フレンツヒェン  / 女性 / 14歳 / 魔術師見習にして助手】
【4236/ 水無瀬・燐 (みなせ・りん)  / 女性 / 13歳 / 中学生】

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■         ライター通信          ■
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お届けが大変遅くなって申し訳御座いませんでした!
前編・後編共にご参加頂けた事を心より感謝します。

それでは少しでも楽しんでいただけたら幸いです。

momiziでした。