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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


【東京衛生博覧会 後編】


「人にとって、美しい姿勢とされているのだろう?」
頬に血飛沫の跡を残す男が言った。
「『どうしても叶えたい願いの為に、何でもする』という事は」

「素敵な事なんだよねぇ?」
コケティッシュな笑みを浮かべ、猫は勝ち誇った。
「『夢が叶う』っていう事は」

「覚えはないんでしゅか?」
Drは、唇の端を引き攣らせた。
「『大事な誰かの為になら、どんな事も厭わない』という気持ちに」

血の濃い匂いが立ち込めていた。

豪華なオークション会場に、息をするのも煩わしい程の熱帯のジャングルに、そして、薄暗い倉庫に。


引き金は、いつ引かれたのか?
彼らの本当の目的は何なのか?
この物語は、何処へ疾走して行くのか?


何にしろ、血の花は咲いた。
後戻りの出来ない場所に、貴方はいた。


男は、猫は、そしてDrは問うた。

「さぁ、これから、どうしようか?」

まるで、子供のように。

「さぁ、これから、どうしようか?」





SideB

【 七城・曜 編】





よくぞここまで。


素直な感想といえば、これに尽きた。


よくぞここまで。


曜は己の因業因果も全て認識していたし、己が清らかな身の上でない事なんざ、重々承知の上だったが、それにしたって、余りに虎杰は自分の理解に範疇の外にあると認識せざる得ない。

この行為に、現時点では何のメリットも曜は見出せずにいたからだ。

無為な殺戮なんぞというものは、リスクばかりが多くて、行った側には何の利益も齎さないものだ。
極道の世界に生きるからこそ、重々承知している話ではあるのだが、暴力というものや、荒っぽい行為はみだりに乱用するものではなく、『ここぞ』という時に行使して、最大の効果を発揮するよう心掛けるのが得策なんて事は、当たり前以前ののだった。
それを、こんな風に意味もなく披露して見せる虎杰とは、なんて愚か者なんだろう…と呆れるような心地にもなる。

キメラという生き物自体、開発に如何程予算が掛かるのか曜には与り知らないし、曜の組では取り扱うのはご法度としていたが、それこそクスリのしのぎにでも励んだ方が、よっぽど手っ取り早く儲かるのは間違いなくて、かなり酔狂な商売だと曜は感じていた。


そもそも。


曜は思った。

そもそも、K麒麟という組織事態、何処かマフィアと見るには合理性を欠き、狂気が過ぎて、利益よりも、もっと不可解なものを追求しているように見える。
何だか当初から曜が抱いていた微かな違和感は、虎杰が述べる言葉を聞いて、漸く一つの結論を出せた。

そう、よくぞここまで。

狂い果てたものだという、そういう話だ。
理解の範疇の外にある。
ここには常人の思考では追いつけない世界が繰り広げられていた。

「…んだよ…これ…っ!!」

掠れた声で嵐が呻く。

ぐしゃぐしゃと曜が綺麗に整えてやった髪をかき乱し、痛みを堪えるように、ぎゅうっと目を閉じ、唇を引き結ぶ。
混乱が激しいようだと曜は思う。

無理もない。

嵐は喋っているだけで分るほど、無愛想だが、気の優しい、今時稀有な程に純粋な人間だった。

己とは 違う。

それを明確に自覚する。

分からないものを、理解しようとは思わない。

ただ、討つ。

最早一秒とて、虎杰の命が長らえる事、許し難い。

「外道が…」

静かな声。
血に塗れながら、剣呑という言葉をそのまま具現化したかの如き表情で、曜は虎杰を見つめた。

「何が目的かは知らんし、知りたくもない。 お前が望むものが城だろうが、他に何があろうが、そんな事はどうでもいいんだ」

曜は、苛烈な怒りの最中にあった。

自分の目の前で行われた殺戮。

間近に見た、子供の死。

狂気の域に堕ちた虎杰に対し、研ぎ澄まされ、不純物を一切含まない、純粋な殺意を秘めた肉食獣のような微笑を浮かべて見せる。
その笑みは、修羅の如く凄絶でありながらも美しく、むしろ、こういう惨劇の最中だからこそ、際立つその凛々しさは、血に塗れた会場の中で、更に輝いて見えた。

「…ただ、よくも私の目の前でやってくれたもんだ。 ここまで歪で虚ろな人間は裏でも珍しいが……一途な外道など生きてるだけで世間の迷惑だ。 お前も、他者の理解など最初から期待していまい。 お前はここで望みを叶える事なく散れ!」

ビリビリと肌が痺れるような殺意に満ちた声で吼え、懐から数枚の札を取り出し、曜は素早く印を結びだす。

蘇鼓が、虎杰の問いにヘラリと笑い、「生き物ってのは際限なく欲を積み上げていくもんさ」と軽い口調で言い放った。

「どんだけお題目口にしようが、悲壮な顔して語ってみようが、結局はただの性(さが)。 美しくも醜くもねぇよ。 でも知ってるだろ? "願い"ってのは頑張れば叶うって訳じゃねぇ事よ。 お前がこれまで他人の願いを潰してきたように、お前の夢もぷちっと横から潰されちまうのが世の定めってな?」と暗に、自分達が虎杰の夢を潰すと宣言する。
コキリと腕を回して骨を鳴らし、「文句はねぇだろ? 己が今まで積み重ねてきた所業の結果さ。 因果応報だっけ? ケケケッ! 俺ぁ、あんま好きな言葉じゃねぇがな! でも、お前の末路にゃ相応しいよ。 潰してやるよ。 夢ごと、その命も」と言って、高みから虎杰を見下ろした。

竜子が、真っ赤に染まったフロアに立ち尽くし、泣きそうな声で喚いた。

「…お前…何者なんだよ…っ!! なんで、王宮の事を知ってるんだよ…!! 一体、何の為にっ!! これは!! こんな事を!! 一体何の為にっ!!」


竜子の声に、虎杰は静かに笑うだけで何も答えず、「お前達はどう思う?」と、誰にともなく問いかける。

「…ぁあ?」
低い震える声で、虎杰を睨み据えながら、質問の真意を嵐が問う。

「命の価値の話だ」

「…命の…価値?」

唸り声。
震える声で一歩踏み出し、嵐が「何が言いたい」と問い掛けた。

「平等ではない、それは分かっているだろう?」
「…だが、尊厳は平等だ」
嵐は言う。
「確かに生まれや育ちや国や才能や容姿や学歴や…、まぁ、面倒臭い色々で、人間が皆平等なんざ、無邪気な物の言いを俺だってしやしねぇよ。 だが、その差で『殺して良い人間と、そうでない人間』がいるなんて考え方はねぇよ。 そんな頭の悪ぃ理屈は何処にも通用しねぇよ。 他人の命をこんな風に奪って良い理由なんざねぇんだよ、どれだけ探したってな」
虎杰は言い募る嵐の顔をしげしげと見返し「お前には『特別な人』はいるか?」と問うた。
突然の問い掛けに、目を見開き、嵐は何度も瞬く。
「何をおいても守りたいもの。 その存在があれば、どのような困難にも立ち向かえると思える人間はいるか」と、問いを重ねる虎杰。
嵐は暫し逡巡した後、ゆっくりと頷く。

「かけがえのない存在か?」

穏やかな声。
嵐は戸惑いを隠さないまま、それでも再度頷く彼に対し、にいと虎杰は唇を裂き、「家族…恋人…友人…まぁ、どんな関係性でも構わない。 全くの赤の他人より、そういった存在の方がお前にとっては大事の筈だ。 いや、お前だけでない、お前も、お前もだ」と言いつつ、順繰りに蘇鼓と曜を指差してきた。


「何が言いたい?」

嵐は我慢しかねるという風に唸る。
曜も、虎杰の言葉に苛立ちを覚えずにいられない。

詭弁を弄されている気がしてならなかった。
狂った屁理屈。

子供の我が儘。

「…何も、立場や生まれを言いたい訳ではない。  そんな不平等感なんざ、今や、年端もいかないガキすら分かってる事だしな」

そう語る虎杰の言葉は嵐と同じ意味を持つのに、嵐の語彙に含まれる感情とは間逆の虚無感に満ちていて、遠い場所を見るような眼差しをして虎杰は、言葉を続けた。


「だが、加えて、人というものは、感情を有するが故に、区別をする。 博愛主義。 聖人等と呼ばれ、この世の者全てを愛しているという人間は言い換えれば、『誰も愛して等いない』人間なんじゃないのか?と、俺は思うわけだ。 誰だって、誰かを『特別』に思う。 他の誰かよりもな。 平等は既にない。 人間一人一人が、人間を区別し、順位をつけ、自分にとって守るべき人間を決めて、その選別から漏れた人間の為に、命を懸ける事はしない。 どれ程優しい人間等と言われていても、ニュースで流れる悲惨な出来事に対し、その場で眉を潜めるだけで、実際の行動に移れる人間なんざ、そうはいないんだ」

そうだろ?とばかりに首を傾げる虎杰を睨みながら、嵐が「だからなんだってんだよ?」と言った。

「だから、こういう事をして良いって言うのかよっ!!!」

語気荒く詰め寄る嵐の顔を見つめたまま、表情を変えずに虎杰は言葉を続ける。

「そもそも、他者の為に自らの命を賭けて行動する事、そのものが『選別』である事も、見逃してはならない事実だろう? 一人の人間が救える人間は余りにも少ない。 誰を救うか? どの国の為に助力をするか? どの悲惨な現実に、助けの手を延べるかすら、それは選択の内にあり、誰かを救うという事は、手を延べなかった誰かを見捨てるという事になる。 生きとし生ける者全てが愛しい人間というのは、誰も愛していない人間であり、全てを救いたいと思う人間は、何もしない人間だ。 何も選ばずに生きる事は、神以外には為し得ない。 誰も特別に思わずに、ただひたすらに、平等に人を愛せる人間はいない。 つまり、なぁ、お前。 俺は、例え自分が間違っていようが、この行為が呆れる程の悪行であろうが、お前がどれ程俺を非難しようが、悔い改める事はないんだ」


だから、なんだっていうんだ。


曜は、胸中で清々しいまでに一刀両断する。

歳は幾つか知らないが、青臭い事を真面目腐って言い募る、その口調に吐き気がした。

何一つ、届かない。
どれ一つとして、理屈がない。

「特別な人がいる。 その人の為ならば、どれ程の悪行も俺は平然と行えるし、その覚悟はとっくの昔に決まっていた。 特別な人に比べれば、他の人間が屑に見える。 世界中で、あの娘だけが美しい。 だから、言葉は、俺には、届かない。 何も」

特別な人間がいるからこそ、他人に優しくしようと思えない、その心が厭わしかった。
特別な人という言葉を免罪符に、自分の罪をまるで、信念のように語る態度が、腹立たしかった。

人を想うという事は、お前が語れるほど安いものじゃないと曜は胸中で吐き捨てる。

覚悟があるなら、こちらとて、一切の油断も、躊躇も、手加減も差し控えさせて貰おうじゃないか。

曜は、冷たい眼差しで虎杰を貫き続けながら、そう決意する。
曜とて覚悟はとっくの昔に決めていた。

己の信念に従い生きる覚悟をだ。

そして曜はおいそれと、外道に敗北するような、やわな信念は持ち合わせていなかった。

「…俺を止めたいのなら、俺を殺せ。 スイッチはずっと前に押してあるんだ。 もう、止る事も、引き返す事もない。 俺も思っちゃいないよ。 俺の言葉で、お前達の心を動かそう等とはな」

静かな声。
言い訳の効かなさはご本人も重々承知って事か。
曜は心の内で呟いて「余計に性質が悪い」と更なる憤りを感じる。

曜は、「望む所だ」と囁くように告げ、そして、ピン!と揃えて立てた中指と一指し指で札を撫でた。

覚悟を決めた悪党程、手に負えない代物はない。
大義名分や、譲れない理由等という耳障りの良いものを後生大事に抱えて、平気で狂い続ける恥知らず。
他人様に迷惑掛けずに自分に酔ってろと辛辣に思うのだが、最早、そんな言葉すら、虎杰に対し掛けてやるのを惜しんでしまう。

潔いなんて言葉は、褒め言葉として使われがちだが、悪事を働く事に躊躇のない覚悟を指して言われる潔さを、賞賛の言葉として口にする人間はいないだろう。

何より、身勝手過ぎると曜は思った。
それも承知だというのなら、まぁ、しょうがない。

(私が討つまでさ)

それは、まるで、自明の理のように。
曜は、己があの男を倒すのだろうと理解した。

他にはいない。

自分以外、他にはいない。

嵐や竜子に殺させる訳にはいかなかった。
蘇鼓は、そんな面倒を望まぬ性質に見えた。

私の役目さ。

荒涼とした気持ちで嘯く。

そうさ。

人殺しは、鬼姫の役目さ。


「端から、貴様を許すつもりなぞない…」


曜は真っ白な札を空中に放り投げる。
バラバラと舞い散る札に記された文字が眩い光を放つ。

「急急如律令!!(急げ! 律令の如く)」

曜が、そう咒文を唱えれば、大量の死によって汚れ、淀んでいた陰気を七星剣が吸収し始めた。

剣を介在し、自身の力に変じていけば、徐々に場が清浄化し始めるのを感じる。
体中に漲っていく力に、曜は目を細める。
ジジジ…と不穏な音を立て、時折蜃気楼の如き揺らぎを起こしながら、周りの空間を歪んで見せる程の、尋常ならざる力が七星剣に宿った。

虎杰が、曜の様子に危機感を抱いたのだろう。
部下であるキメラ達に指示を下し、一気に襲い掛からせてくる。


キメラ達には、既に、人としての感情はないのか、この惨状や、明らかに自分達の事すら「捨て駒」として認識している己の首領についての発言も意に介さないように躊躇のない様子に見えた。

百鬼夜行。

無数の鬼を、曜は召還し、既に召還済みの鬼達に加えて兵力を増員させる。

苛烈さを増すキメラの攻撃に脅威を覚え「竜子!! 余り私から離れるな!」と言えば、彼女は青ざめながらも頷いて、曜は竜子を庇うようにしてキメラを退け続けた。

だが、嵐はまるで現状を理解できていないかのように呆然と佇み続け、竜子が慌ててマシンガンを撃ち放しながら「嵐っ?!!」とその名を叫んだ。

一体、どうしたというのだろう?

その様子にヒヤリとしたものを感じ、曜は彼に駆け寄ろうと身を翻す。
だが、それより早く、蘇鼓が嵐に素早く駆け寄ると、その体を横抱きにして、一気に飛び上がった。
その刹那、キメラの群れが雪崩込むように嵐の立っていた場所を覆い尽くす。

ほっと安堵しつつ、嵐の様子を気にかけながらも、キメラ達の相手を鬼にさせ、再び虎杰に切り込もうと目論めど、今度はそう簡単に曜の接近を許すつもりはないらしく、酷く皮膚の厚い、獣や、甲羅や鱗をで全身を覆ったキメラに自分の周りを囲ませ、鉄壁の守りを築くと、その中から曜の奮闘の様子を愉しげに眺めていた。

その表情を腹立たしく思いながら、吸収した陰気を術に変え、鬼を召還し続ける。

キメラの数には限りがあろうが、曜の召還できる鬼の数は無限。

向こうに勝ち目は無いと確信し、それでもゆめゆめ油断等をする事無く曜は、自身も剣を振るい、全力でキメラに立ち向かい続けた。

とにかく更に陰気を吸収し、自身の力の増強を図るため、己が召還し、命を落とした鬼の陰気すら吸収する。

そもそも、外道の生み出した陰気を己の力に変えること自体真っ当ではないのだ。
今更、何を躊躇おう。

陰気とは、死に際の怨みつらみ、嘆き苦しみより発する負のエネルギー。
誰もが敬遠し、触れたがらぬ死の力を駆使して、また人に死を齎す。
そもそも、死を司る、北斗七星の加護を受ける身の上だ。
死に魅入られているといっても過言ではない己の事を、自嘲せずにいられない事は多かれど、やはりその力は強大で、曜は自身の力が増すに従って使役する鬼共の力も増し、より凶悪になっている事を、恐れるような気持ちで眺めていた。

鬼とキメラが食い合う、壮絶な地獄絵図の中で、まるでそこだけ台風の目であるかのように曜の心は、キメラを倒せば倒すほど、どんどん凪いでいっていた。
酷く静かな心で想う。


私も既に狂人なのかも知れぬと。


蘇鼓が嵐を抱えたまま、こちらへとやってきた。
鬼に守られているこの場所ならば、多少なりとも嵐の身の安全は図れる。

何処か様子がおかしかったが、怪我でもしているのだろうか?と不安になり、降り立つ嵐に駆け寄って、「無事か?」と問い掛けた。
視線を巡らせる限り外傷はなく嵐がコクンと頷くのを見て、曜はほっと安堵する。

だが、やはり嵐は何処か浮かない顔をして、こんな状態の嵐を最前線に置く事は出来ないと判断すると、「キメラの攻撃が苛烈化している。 とにかく、私の傍を離れるな」と言い聞かせるように言っておいた。
嵐は、そんな曜の顔を見て、「なぁ…曜」と、静かな声でその名を呼んでくる。

「お前、虎杰の事を殺すのか?」

ああ、これが、嵐の不調の原因か。
悟れば、なる程と納得せざる得ない理由だった。

嵐は曜から見れば、眩しい程に純粋で、真っ当だったので、きっと、自分が躊躇なく誅殺すべきだと決めた虎杰にすら、情けをかけずにはいられないのだろう。

人の命を奪うという事は、きっと嵐のように悩み、戸惑う事こそが正常で、ああ、やはり私は真っ当じゃないと、むざむざと嵐の有り様を見て自分の異質を察してしまう。

だが、嵐の問いに、曜は真っ直ぐな眼差しで彼を見返して、「そのつもりだ」と淀みのない声で答えた。
迷うわけにはいかなかった。
それが曜の生きてきた道で、これからも生きていかねばならない道だった。

「…嵐。 お前のような人間からすれば、私が非道に見えるだろう。 そんなお前の感情を、私は否定する気はない。 私は非道だ。 人非人だ。 虎杰を非難する事は出来ない。 所謂、ご同類というものだ。 だからな、嵐。 お前が、哀しい顔をする事はないんだ。 非道が非道を殺す。 どうせ、どちらも地獄行きの身の上だ。 早いか遅いかだけの事。 醜く、蹴落としあうだけの、滑稽な見世物だよ。 嵐には関係のない話なんだ」

曜は嵐に言い募る。

哀しい事を言っているという自覚はなかった。

嵐の純粋さや、優しさは、今どき稀有な程だったし、そういう彼の性質を曜は好ましく思ってて、だから、嵐には今回の事で何も背負わせたくなかった。
汚したくもなかった。
何も気に病んでほしくなかった。
これから行う、虎杰殺害を、他人事のように思ってて貰ってかまわなかった。
今から、曜の行いに対し目を瞑ってくれるだけでかまわなかった。
今回の出来事によって、嵐が歪む事だけは避けたかった。
嵐が今のまま変わらないでいる為ならば、全部、何もかも、全部曜が背負う覚悟は出来ていた。


傷付けたくなかった。

嵐を傷付けたくなかった。

それでも、虎杰を生かしておく訳にはいかなかった。
救えない魂というのが確かにある。
ここで息の根を止めねば、無辜の命がまた奪われる。
殺されていったキメラや薔薇姫達を思う。

こういう風にしか報えない。

死に際の無念全て、この鬼姫が請け負った。

眠れ。
安らかに。

眠れ。


虎杰は、ちゃんと地獄に送っておくよ。

曜の力とはそういうものだ。
陰気として死者の無念の力を借りるが故に、晴らさねばならぬ怨みを血で汚れながらも、自らの剣で晴らして清め、濯ぐのだ。

そもそも、生き物として違う。

嵐と自分は違う。



「関係なかねぇよ」

不意に嵐が口を開いた。
頑なな口調に微笑んだ。

「関係なかねぇよ」

頑固なところが少し燐に似ていると思った。
今頃あの子は、あの城で、自分自身が出来ることを精一杯やっているのだろうか?

怪我なく、無事戻ってくれば良い。

見回す。

血の匂いと、累々と横たわる屍骸にキメラ。

全く私が似合いの場所だ。


嵐も、燐も、竜子も本当は、関わるべき場所じゃないのだろう。



突然、広間の空中に突然渦を巻く空間の歪が出現した。

「?!」


目を凝らす。

一体、何が起こるのかは知らないが、正直、これ以上の厄介が、ここに重なるのは避けて欲しかった。
ぎゅっと唇を引き結んだまま、これから何が起こるのか、経過を見守ってみれば、「あーーらよぉット!!」となんか、無闇矢鱈に軽快な声と共に、突然、一人の男が渦の中から飛び出し「ア! スイマセーン! 若干目測を誤りましタ!! 予想外ニ、何か、高いデス!! 高いデスー!!」と、落下しながら、これまた軽快に渦に向かって注意する。

その、注意している本人はと言えば、掌になにやら不思議な文様を浮かび上がらせると途端足元の空間が微妙に歪み自分の落下速度を調整して、ゆっくりと地面に下り立ち、「ふぃー」とわざとらしい仕草で額を拭った。
だが、後から続くものは、そうは巧くいかない。


「っ!! 高っ!!! 本当に予想外に高っ!! ていうか!! ちょっと、これっ!!! 誰か?! 誰かぁぁぁぁぁ?!!」と叫びながら、為す術もなく落ちてくるのはシュライン・エマで、次いでやけに大人の色気の漂う顔立ちをした見知らぬ男が「ええええぇぇぇえ?!!! 高すぎない?! これ、高すぎない?!」と喚きつつも、くるりと体勢を変えて着地の体勢を整える。
その底抜けに間抜けな響きの喚き声達に、咄嗟に反応に遅れ、思わずぽかんと眺めた後に、男の方はともかく、エマの危険を考えて、一体、どうすれば?と慌ててみれば、蘇鼓が一気に跳び寄ってエマの体を掴んで、床に激突の危機から救う。

男も、大五郎に腰の部分の衣服を咥えられて、救出されていて、道化が口にしていた、ここにエマと共に黒須を救出する為に潜入していたメンツの名が「デリクと、兎月原」だった事を思い出すと、きっと彼はそのどちらかなのだろうと曜は察した。


エマが蘇鼓の顔を見上げると、「蘇鼓さん?! え?! 何?! ちょっ、ここは?! 千年王宮じゃないの?! ていうか、デリクさん?! デリークさーん?!」と、先に下り立った男に、必死に呼びかける。
となれば、虎に咥えられている男は、兎月原か……。

デリクと呼ばれた男はエマに、テヘッ☆と舌を出して笑いつつ「スイマセーン! ベイブさんに、私が向こうに向かおうとしているのがバレて、邪魔されちゃいましタ」とデリクは群青色の長い睫に覆われた綺麗な目を瞬かせ、爽やかと言ってすら良い口調で言い放つ。
結構美形にも関わらず、全身から放たれる「私、胡散臭いでス!」のオーラに掻き消され、かなり宝の持ち腐れな事になっているデリクに、エマは「バレたって…」と一度絶句し、それから蘇鼓を見上げ「助かったわ…ありがとう」と礼を述べた。

「どーいたしましてっ!」と蘇鼓が飄々とした返事を返しつつ床に降ろせば、一目散に駆けてくる竜子に向き直ると、両手を広げ、エマは飛び込んでくるその体を抱きしめた。

「っ!! 姐さんっ!!」

竜子の言葉に「だから、姐さん呼びはやめなさいっって!」と突っ込みつつもエマがぎゅっとその体を抱きしめる。
「大丈夫? 怪我はない?」
エマの問い掛けに、うんうんと頷いて「姐さん達は?!」と竜子が問い返せば「大丈夫よ」と笑い返して、周りを見回す。
「嵐君も、曜ちゃんも元気そうで安心した。 それに、蘇鼓さんもね?」
エマに言われて蘇鼓が肩を竦めると「ていうか、てめぇらどうして突然ここに?」と、嵐も気になっていた事を問い掛ける。
「えーとですネ…」
そう言いながら、蘇鼓の問い掛けに、エマより先に、デリクが口を開く。
「まず、初めまして…で宜しいですよネ? えーと、蘇鼓さン?」
そう声を掛けられ蘇鼓が頷けば、「ソレに…嵐さンと、曜さんモ…薔薇姫姿の時には、此方から一方的に拝見させていただいてはおりますガ…ご挨拶は初めてさせて頂きマス」と頭を下げた。
だが自己紹介などしあっている状況でないのは確かで、キメラが次々と襲い掛かってくる最中、デリクは、自身の影に何か潜ませているのか、キメラを一呑みにさせるという驚異的光景を作り出しながら、ついと、虎杰を眺め「ここに来るつもりはなかったのでスガ、ある意味好都合かも知れまセン」と頷く。

「簡単に説明すると、私、普段はしがない英語学校の講師をしているのですが、先日、ある雨の日。 特売の日にスーパーに買い物に行く途中、突如雷に打たれてしまいまシテ、その際、何と奇跡的に第六勘に目覚メ、空間を歪める能力を手に入れる事が出来ましタ。 その能力を行使して、千年王宮とこちらを行き来する事が出来ており、今回も渦中のあの城へDrと黒須さんを含め、お運びしようとシタのですが、うっかり、私ってば、あの城の王様に嫌われてしまっておりまシテ…」

えへへ…という風に頭を掻くデリクに、竜子が「すげー!! お前の力って、そうやって手に入れたモンだったのか!! なんか、アメリカの映画みてぇ!!!」と感激したような声を上げている。

竜子は…素直が過ぎる……。

思わずこの先の彼女の人生まで心配になりつつも、そんな竜子を、嵐が「いや、明らかに嘘だから。 間違いなく嘘だから」と、最早優しい位の声音で正せば、エマが「ねぇ? どうして? この時点で、言ってる事の訳八割が嘘!!という荒業を行使できるの? もう病なの? そういう体質とか、呪いとか掛かってるの? そういう一族なの? 一子相伝の秘密とかがあるの? ねぇ? ねぇ、ねぇ?」と真顔で問い質す。
「いえ! そんな、八割が嘘だなんテ!!」
心外とばかりに握り拳を固め、「基本私は9割の打率を心がけていマス!」と言い切るデリクに、エマがガクリと膝をつき、初対面ながら、出会って二秒でデリクの信用ならない具合に呆れさせられてしまいつつ、曜はその一切の騒ぎに関与しないでおこうと固く心に決意した。

なんか、巻き込まれたら、途方もなく面倒!という予感がしたし、今はそれ以上にちょっと気になる事もある。

もう一度確認し、やはり現状おかしい事を確信すると、曜は、デリクに対し、とても、とても静かな口調で、「ところで、キミが一緒に運ぼうとしていた、その肝心のDrと黒須さんとやらは…何処に?」と問い掛けた。


渦から出てきたのは、デリク、エマ、それに兎月原の三人のみだ。

デリクが口にしていた、黒須も、Drも、ここには影も形も存在しない。



デリクが、曜の顔をきょとんとした顔で見返し、それから周囲を見渡して「あ…落っことしちゃいマシタ」と、軽い声音で呟いた。

その瞬間、周囲の人間も驚かざる得ない反応を見せたのは兎月原で「何処に?!」と叫んで、デリクの肩を掴んだ。
キョトンとしながら、「多分…」と言い、眉を顰め、一瞬口を噤むと「このビルの屋上デス」と答える。
その言葉を聞くや否や、呆気に取られる程の速度で兎月原がキメラ達を殴り倒しながら走り出し、「…でも、一緒に、幇禍サンもいる筈ですから、滅多な事にはなってませんヨー!!!」とデリクが、その背中に声を掛けども、彼は振り返りもしない。
曜は何で、そんなに必死に…と、驚いて、ポカンと見送る事しかできなかった。

そのまま兎月原は、まさに脱兎と呼ぶに相応しい走りを見せてあっという間に、フロアから消え去った。

兎月原は、まさに脱兎と呼ぶに相応しい走りを見せてあっという間に、フロアから消え去った。

兎月原は、黒須という男とそれほど仲が良いのだろうか?
まぁ、男の友情という奴も、かなり熱いものがあるしな…と、曜は自分の組の構成員を思い浮かべ、うんうんと頷いて、「仲良き事は美しき哉」等と、明らかに、17歳ではないよね?というような台詞をかなり渋い声で呟いた。

すると、曜と一緒のようにぽかんと兎月原を見送っていた蘇鼓も思うところがあるのか、突如身を翻すと、彼の後を一目散に追いかけ始めた。
大五郎と、帝鴻も蘇鼓と一緒にフロアを飛び出していく。
え? 蘇鼓に至っては、自分と同様黒須と会った事はなかった筈だよな?と考え込みかけたところで、ふと、デリクが兎月原の背中にかけた言葉が気になった。

確か、黒須と一緒に、幇禍もいる筈とか何とか言っいた。
幇禍とは、蘇鼓の本名ではなかったのか?
色々疑問が頭に浮かべども、竜子はその一切を気にしていないのか「っていうか、あたいも行く!!!」と宣言し、遅ればせながら、黒須を案じて走り出そうとするが、その行く手をあえなくキメラ達に阻まれる。

彼女の活路を開いてやりたいのは山々だが、とにかくキメラと鬼の群れは一進一退の攻防を繰り広げており、曜は更なる鬼を呼び寄せる。
同時に自身も、華麗な剣技を披露し、キメラを叩き潰しつつ、時折、苛烈な目で虎杰を見据えた。

とにかく、メンツが増えた事はありがたい。

中々、巧く接近できないのが苦しいところだが、デリクは頭が回るようではあったし、エマの有能さも重々承知しいている。
何か良い策ででも授けて貰おうと考えた時だった。
突如、悲鳴めいた声を竜子があげた。


「っ!!!! 不味いっ!!!」

胸元に手を這わせ、目を閉じて、それから竜子がブンブンと首を振る。

「やばい!! やばい、やばい、やばい!!」

泣きそうな声。
その切羽詰った様子に驚いたように「何があったの?!」とエマが問い掛ける。


「Drが行っちまった!」


「何処ニ?!」

デリクが勢い込んで、竜子に尋ねる。

「千年王宮に…チェシャ猫が召還した?! どういう事だ?! 直接城に呼ぶなんて、鍵の力がないと、出来る筈がない!!」

そう混乱した声で喚く竜子の言葉の意味が分らずに、曜は首を捻りながらも、何だか余りよくない事態に見舞われている事だけは何とか察する。

燐に、何か、困難な事態が降りかからねば良いが…と心底願いつつ、曜は二人の会話に耳を澄ませる。

「いえ!! 出来マス!!」とデリクは叫ぶ。

「チェシャ猫は、鍵の持ち主でス!! 彼女は、元は現世の人間だっタ!」

驚いたような顔をして竜子がデリクの顔を見返してくる。

「…こっち側の人間…って事ぁ、あたいと同じような立場って事か?!」

竜子の言葉に、曜も目を剥いた。
だって、曜が千年王宮で見た女には、猫の耳と尻尾が生えていた。
あれが、もし、元は人間だったとしたら…あの女も……キメラ?

「そウ、だから、彼女が、ベイブさんに鍵を付与されている可能性ハ、大いに高いでス」とデリクが答える。
「で…でも、それにしたっておかしいんだ。 鍵の力を持ってしても、せいぜいこっちの世界で条件の一致する場所に王宮への入り口を開けられる位で、今回みたいに任意の場所への召還なんて、そんな事…鍵の持ち主の、血縁者や余程心を通わせた相手にしか出来ない」と竜子が言えば「血縁者なのよ!」とエマが叫んだ。

「チェシャ猫は、Drの妹なの!!」

鍵というものを巡るやりとりにはさっぱりついていけなかったが、エマの叫んだ言葉の意味は、痛い程に理解できた。

「っ!!! んだよ、それ! どういう事だよ!」と嵐が叫び、「詳しく説明が聞きたい」と曜も唸るように乞う。

エマが、こちらに向き直り、竜子も交え事態の説明を行ってくれた。

「まず…何処から説明すれば良いのかしら? とりあえず、鍵の話からさせてもらうとね…」とエマが言えば、竜子が頷きながら、自分の胸元より、コロンと一本の「小指」を取り出す。

「う…あ…」
「何故、小指なんかを?」

曜と嵐、それぞれ戸惑った反応を見せれば、竜子は「これが、王宮の鍵なんだ」と驚くべきことを告げた。

「王宮の鍵っていうのは、あたいや誠みてぇな、現世の人間が王宮にて生活する事になった場合に、ベイブから渡される、現世とこの城を繋ぐ鍵なんだ。 この鍵は、王宮中のありとあらゆる場所の扉を開ける鍵にもなるし、この鍵を持ってりゃあ、中には性質の悪いやつもかなりいる城での生活の安全が保証される。 鍵っつうのは、自分自身の肉体の一部じゃなきゃいけなくってな、あたいは自分の小指に鍵の力を授けて貰った」
「って…でも、お前、小指生えてんじゃん」と嵐が竜子の両手が、どちらも五本指が揃ってる事を指摘すると「まぁ、それは、色々あったんだよ」と説明してくれる気はないらしく、サクサク話を先に進める。
竜子が鍵の説明を終えるのを待って、エマが「つまり、Drとチェシャ猫っていうのは、昔、城の住人だった。 今の、黒須さんと竜子ちゃんみたいにね? でもベイブさんは、ある時期Drを現世…つまりこっちの世界に放逐し、チェシャ猫を城の奥深くに閉じ込めた。 Drは現世に戻される際に、鍵は取り上げられたそうなんだけど、チェシャ猫はまだ王宮の住人だから、その鍵は彼女が持っている」とそこまで説明すれば、竜子が自分に語り掛けるかのように「ああ、そうか。 鍵を使って、こっちと道を繋ぐことが出来るのは、城の表層での使用に限られる。 チェシャ猫は、今回反乱を起こして、城の表層まで出てきちまった。 だから、Drを城に召還できたんだ」と呟き、「んで、Drと、チェシャ猫が兄妹っつうのは、どういう事なんです?」とエマに尋ねた。

「どういう事も何も、言葉通りよ」とエマは肩をすくめ、それから舌先で唇を湿らせると「これは、デリクさんが、Drとの舌戦にて引っ張り出した情報なんだけどね?」と前置きする。
「千年王宮って、迷い込んだ人の願いを一つだけベイブさんが叶えてくれてるらしいのよ。 どういう気紛れだかは知らないけどね? で、Drは、どうしても叶えて貰いたい願いがあってあの城に迷い込んだ」

「願い?」

曜がそう問い返すとエマは一度頷いて、「Drの望みっていうのはね、自分の妹の命を救う事だったの」と答えた。

嵐が、息を呑む音を聞きながら、曜も動揺を隠す事は出来なかった。

チェシャ猫がDrの妹で、Drはチェシャ猫の命を救うために、あの城を訪れた…。

「Drは、生まれた折より不治の病を患い、成人を迎える事なく死出の旅へと送り出される事が運命付けられていた自分の妹を、別の生命体と融合、合成させる事によって、命を救おうと医学の限界に挑み破れ続けていたそうよ。 何度も、何度も人体実験を繰り返してね? 人を攫い、動物と掛け合わせては、数多もの陰惨な死を齎していたみたい。 当時はね、きっと、今よりも街燈が少なくて、夜の闇が深かったからDrは然程労せずに、人を攫えていたのでしょうね」

「そんな…狂ってる…」

曜が呻く言葉にエマも頷く。

「まぁ、まさに、マッドサイエンストだったってわけよ。 だけど、現代医学ですら為し得ていない人と動物の合成なんて、その時代に成功する筈はないわ。 彼は、殺人鬼と成り果て、狂気の人体実験の果てにベイブさんに出会い、そして乞うた。 キメラを作る術を。 人と動物の合成を作る為の技術を。 ベイブさんは、その望みに答え、そして、その結果生まれたのが……チェシャ猫、そして彼らが開発し続けてきたキメラよ」

はふっと息を吐き出し「まぁ、ここまでが、私達が今分ってる事よ」とエマが言えば、「ていうか、これをどうやってDrから引っ張り出したのか、俺はそいつも気になるよ…」と言いつつ、嵐がデリクの背中に怖いものを見るような視線を送る。

確かに、愚直なところのある曜にしても、とてもとても、人から此処までの情報を口先三寸で引っ張り出す等、その方法すら思いつかずに、ただただ感嘆するしかない。

「あいつはとにかくすげえ口が回るかんなぁ…。 絶対口喧嘩しねぇほうが良いぞ?」と、それは微妙に役には立たないというようなアドバイスを竜子から聞きつつ、曜は今知りえた情報を何とか頭の中で整理をしようと四苦八苦した。
嵐が、竜子に「なんか、城での生活って…大変そうだな…」と言うのに心の内で同意する。
とにかく鍵の説明一つとっても、なんだか、ところどころ引っ掛かりを覚える不穏さがあって、そんな場所で暮し続ける苦労を思わずにはいられなかった。

「んあ? いや? まぁ、住んでみたら、結構楽しいぜ?」と竜子は笑ってはいるが、自分がその城に住め等といわれても御免蒙りたいものだと心底辞退してしまうだろう。
肝が据わっているのか、怖いもの知らずなのか…。


虎杰が、Drが城に召還されてという事に対して、「そうか、あいつが城へ向かったか!」と嬉しげに手を打った。

デリクが虎杰に視線を向け「…どうなるんでス?」と低い声で問う。

「つまり、城が私の手に落ちる公算が、高くなったというだけさ」と嬉しげに虎杰は言った。

「チェシャ猫…彼女は普段は美しい女性の姿をしているが、本来の姿は、別にある。 巨大で、力強く、しなやかな獣。 強大な力を持つ、彼女にかかれば、あんな城等一たまりもない。 キメラ化の際、彼女の要望で、普段は人の姿でいられるように、Drが力をセーブするよう造ったそうだが、ある薬を投与すればリミッターは解除され、本来の姿を取り戻す。 Drしか持たぬその薬。 彼が向かうという事は、彼女が本来の姿、実力を持って、城を制圧に掛かるという事。 勝ち目はない。 お前達に。 そしてこの世界に」

その言葉に、曜は青ざめ、他の面々も、同じく動揺の激しい表情を見せる。
つまり、Drが城に向かうことによって、とんでもない化け物が向こうで目覚めてしまうという事で、城が壊れてしまえば、何もかもが御仕舞いだという風に道化から聞いていた曜。
だが、今脳裏にあるのは燐の事ばかりで、恐ろしいピンチに見舞われるらしい城の事、そして燐の事を思うと、全身から血の気が引いた。
「燐…」と小さく呟くと、ぎゅっと拳を握り締める。

デリクも、油断ならぬ表情は形を顰め、瞳を険しくさせると、爪を噛み、何かを思い悩んでいる。
そして、デリクは地を這うような声で「…好き勝手は…させまセン。 あの城を、守ると決めてる子がいるんでス」と低く唸る。

そして、デリクはその掌を翻し、そこに痣のように浮かび上がる魔法陣に淡い光を放たせた。

「デリク…さん?」

不思議気に問い掛けてくるエマに、「今…幇禍サン達のいる、屋上に、千年王宮に繋がる入り口を作り出しまシタ…」と呻く。

目を見開き、デリクは異空間を操ると、出鱈目なエピソード交じりに話していたが、王宮とこちらの道を繋ぐ能力があるのかと驚く。

「大丈夫なの?」と先ほどの事を鑑みてだろう、エマが問い掛けると、デリクは眉を下げ、少し曖昧な表情を見せた。

見れば随分と顔色が悪い。
ここまで随分と無理を重ねてきたらしい。

すると、竜子がデリクの不安を察したのだろう。
「いいよ、あたいが道巧くあいつらが辿りつけるよう、ベイブに乞うて道を繋ぐ。 ここに同じ入り口を作ってくれ」と言った。
城の住人というのは、随分色々出来るのだなと感心しつつ、奇跡の方向音痴人間竜子に、道を繋ぐとか出来るのだろうか? 繋いだ先が、チョモランマとかだったら、兎月原や蘇鼓達はどうなるのだろうか?と、とんでもないようでいて、竜子を知る者なら皆、深く納得してくれる心配をしてしまう。
デリクは竜子の言葉に頷いて、再び痣を光らせ、先程兎月原達が現れたのと同じ渦を出現させると、こちらの渦と、屋上に作った渦というのをつなげてあるのか、蘇鼓達にコンタクトを取るべく渦に向かって声を出した。

「後を…追ってくださイ!!」

デリクの叫び声が届いたのかどうか…。
デリクが必死の声で言葉を続ける。
「お願いしまス! 渦の中に飛び込めば、千年王宮に辿り着けまス! 向こうに、ウラという女の子がいるのでス! Drが向こうに向かった事は、千年王宮にとって、危機的状況を齎しマス!! 私は…私は、彼女を失いたくナイ!!! とても大事な、私にとって特別な子なんでス!! だかラッ!!!」

その声を聞いていると我慢ならなくなり、曜も渦に顔を突っ込むようにして、「蘇鼓!!! それに兎月原さんっ!!! 頼む!! お願いだ、燐を…燐を、助けてやってくれ!! 頼む!!!」と叫ぶ。

泣きそうな声。
惰弱な!と思えど、燐の命が掛かっているのだ。
どれだけみっともなかろうが、向こうにいる面々の心を動かす事が出来れば構わない。

「あの子に、何かあったら…私はっ!!」

その痛ましいまでの声の切実さに、兎月原が「黒須さんはここにいてくれ…」と言う声が聞こえてきた。

「…兎…てめぇは行くのかよ」
蘇鼓が、兎月原に尋ねる声が聞こえる。

「ここで、終われないだろう?」

当然という風に答える兎月原に、曜は両手を組み合わせ、心から感謝する。
デリクも顔を輝かせ、「あんたは?」と彼に問われ、返事をしない蘇鼓の様子に、即座に眉を顰める。
そして、難しい表情のまま「すいまセン、お二人は、蘇鼓サンと一緒にいた虎について何かご存知ですカ?」と小声で曜と嵐に問い掛ければ嵐は、「大五郎の事か?」と呟いて、「確かあいつは、蘇鼓の幼馴染らしいぜ?」と教えた。

その情報が、何の役に立つのかは分からない。
とにかく、どんな方法を使ってでも、デリクの言葉で蘇鼓を王宮に向かわせて欲しかった。

デリクが、「ありがとう御座いマス」と礼を述べ、なふり構っていられないといわんばかりの表情ながらも、冷静な声で「…蘇鼓さン、貴方ガお連れしていった虎ノ大五郎さン…でしたッケ? 忠告というノハ、何ですガ…少し気になる事がありましテ、どうも、キメラ化をさせられているようでスガ、Drが手術の際に体に保険として施したのハ、爆弾だけじゃなかったようですヨ?」と、明らかな出鱈目を自信たっぷりに並べ立てる。
「爆発処理をしなけれバならない程、緊急の事態でない状態で、購入したキメラに飽き、処理したいと望んだ場合、手術時に体内に仕込んである物質が、何か特定の成分を含むものを口にすると、化学反応を起こし、毒素となってキメラの命を奪うように処置してあったようデス。 一体、何の成分を引き金に、その物質が毒素に変じるのかは分からないのですが、キメラ化させた生物はそこら辺の毒物では、到底命を奪えぬ程に、極めて丈夫に作り変えていたようデスので、それは、それは大変強力な毒素になるみたいデスヨ? 大五郎さん、聞けば蘇鼓さんの大事な幼馴染だそうデ、物質は、Drが持っている薬剤を摂取さえすれば、無効化も可能なようですガ…このまま、千年王宮に逃げ込まれてしまえば、薬剤を手に入れる事は難しいですヨネ?」と、言い募った。

よくもまぁ、これだけベラベラと口からでまかせで喋れるものだと呆れつつ、彼の必死さに、今の自分の焦燥を重ね合わせる。
頼む蘇鼓と祈れば、「ちーきしょう。 俺ぁ、賽銭一つ上げて貰ってねぇのによう…」と面倒臭そうに彼は意味の分からない事を言い、それから、笑いを含んだような声で、「…何の成分を摂取したら、おっ死んじまうか分かんねぇっつうのなら、この先、大五郎はおちおち飯も、安心して食えねぇって訳か…」と呟いて、それから「しょうがねぇなぁ…行ってやるよ!!」という喚き声が渦の中から聞こえてきた。

明らかに安堵の表情を浮かべつつ、デリクは竜子を振り返る。

「竜子さん、デハ、お願いしまス」と頼めば、彼女は硬い表情で頷いて、「ここに飛び込みゃ、いいんだな?」と言い、それから渦にその身を躍らせた。

そして一息つく間もなく次にデリクは、今度は曜に視線を向けてる。


「…曜さん!」


そう呼びかけられ「虎杰に接近さえ出来れば、彼を仕留める自信はありマスカ?」と問い掛けてくるデリク。
今度は何を企んでいるのか、されどここは躊躇なく「勿論だ!」と、即座に、曜は自信を持った声で返答する。
もし、隙をついて接近出来れば、万が一にも仕留め損ねる事はないという自負が確かに曜にはあった。
デリクが満足げに頷くと「…接近するチャンスなら、私作ってあげられるかも知れない」と、そうエマが呟きながら、懐からスイッチを一つ取り出す。

「…それは?」

「このビルのブレーカーと、予備電源に自動発火装置を仕掛けてきたの」

にやりと笑うエマに驚いたように、「いつの間ニ?」とデリクが問えば、「通気口から、倉庫通路に侵入しようとしている時にちょっとね」といって彼女は笑った。
侮れない…というか、ちょっと凄すぎる。
曜は尊敬の念をもってエマを見つめてしまう。
「それで、このフロアの電気を一斉に落とすつもりですネ?」とデリクが聞けば、「オフコース」とエマは頷き、「一瞬とはいえ、真っ暗になれば、キメラ達や、虎杰の動揺を誘えるでしょ。 その間に、曜ちゃん、虎杰に接近できる?」と彼女に問い掛ける。
曜は頷き、それから嵐を自分の傍に手招くと、自分の位置から、虎杰までの距離を測り、そして「このフロアが、もうじき真っ暗になる。 8秒、心の中で数えた後、嵐はその剣を何処にでもいいからぶつけて光を作ってくれ」と頼んだ。

彼が、虎杰殺害に懐疑的な気持ちを抱いている事は分かっていたが、今は嵐の力が必要だった。

竜子から嵐が貰ったらしい紅色をしたあの剣は、攻撃の際に派手な光を放つという特性がある。
嵐は迷うような顔をしていたが、事が動き出せば、間違いなく嵐は協力してくれると信じ、エマが「準備は良い?」と曜に問い掛けてく事に対して「コクン」と頷く。

エマがスイッチのボタンを押した

暫くは、フロアに何の変化もなかったが「落ちるわよ」とエマが呟いた瞬間だった。

一気にフロアが暗くなり、曜は消える寸前に確認したキメラ達の位置を脳内でなぞりながら、一気にフロアを駆け抜ける。
行く手に存在しているキメラは斬り伏せ、潜り抜け、混乱激しいフロアを突っ切ると、虎杰へと一気呵成に迫る。

パァン!!と派手な炸裂音が聞こえ、眩いばかりの光が目を劈いた。

嵐はやはり、応えてくれた。


一瞬の光の中、曜は虎杰の姿を確認する。
「そこだ!!!」と叫び、虎杰の腹を狙い過たず刺し貫こうとした瞬間だった、
虎杰も、嵐の光と、曜の声音から即座に、此方の位置を把握したのだろう。
懐から抜き去った銃を曜に突きつけてきた。

「危ないっ!!!」

エマが悲鳴をあげた瞬間だった、再び闇に包まれる寸前、虎杰の背後に一人の髪の長い女が立つ姿が見えた。

美しい顔をしていたが、その下半身はぬらぬらと濡れ光る大蛇の格好をしていて、その突如として現れた不気味な存在に曜は咄嗟に悲鳴をあげそうになる。

「…っ?!」

まるで、怪談めいた現象。
そのまま闇にフロアが沈んだが、嵐はまた剣を何処かに打ちつけ光を作り出してくれた。

フラッシュのように光る世界の中で、下半身が大蛇の、黒髪の女が、虎杰に絡みついて、噛み付いていた。
一瞬、ぬるりと此方を見上げた視線の不気味さに背筋が寒くなる。

曜の剣が、突進の勢いそのままに、虎杰の腹を刺し貫いた。

肉を貫くいつまで経っても慣れぬ感触に、身震いしながらまた、剣を抜き去る。


どうもこちらに協力してくれたようだったが、あの女は一体何者だというのだろう?

キメラの一人が、あの爆発から何らかの手段で生き残り、こちらに加勢してくれていたのか?

何にしろ、虎杰は致命的な傷を受けた。
キメラ達の動揺が伝わり、虎杰の呻き声が聞こえてくる。

断末魔の声。

曜はそう確信していた。


だが、くぐもった虎杰の笑い声が闇の中に響きだすに至って、ヒヤリとした今まで感じたことのないような恐怖感が、曜を襲った。


「…阿呆…共が…もう…助かるまい…」

「お前がか?」

曜は暗闇の中、動揺の滲む声で、それでもなんとか冷静を装い皮肉気に言い返す。
間違いなく、虎杰の命を奪った。
あの傷では、絶対に助からない。

だが、虎杰は笑っていた。
死に瀕して、更に狂気の奈落に落ちたのか?

予想外の虎杰の反応に動揺を隠せぬ声で、「無駄だ。 強がろうと、失血死は免れない」と曜が言えば、また、虎杰は低く笑った。

「鬼姫」と、曜に呼びかけて、「お前と遊べて、中々楽しかったよ。 出来れば、意識を保ったまま、お前の殺してやりたかったが、そうはいかないみたいだ」と、苦しげながらも、余裕のある声で言い、「…では…さようなら…」と静かな声で囁いた。

ミシリ…と何かが歪む音が聞こえた。


ミシミシミシと、フロア内の空気が膨張するような息苦しい感覚に曜は襲われる。


ここにいてはならない!!

本能が喚き、曜は一目散にその場を離れた。


一体何が起こっている?


突然、上空からコンクリートを打ち砕く、破壊的な音が聞こえ、ついで、瓦礫フロアに雨のように降り注ぎ始めた。

上空にある月の光や、街の光が差し込み、漸く曜は今の事態を視認出来る。

だが、その光景は出来れば現実のものとは思いたくない姿をしていた。




何十本じゃ効かないだろう。
何百本もの腕が、その体から生えていた。

まるで、醜悪な鬣のように。

全長は何m程になるのか…。

何しろ、無駄に天井の高いフロアを突き抜けて、その顔が屋上に飛び出しているのだ。



歪な異物。

何百もの人を無理矢理合成したような、それはそれはグロテスクな化け物。
巨人とみるには「人の範疇」から余りに外れ、されどこれまでのように獣と人との合成とみるには、その姿に一切の獣の姿を見る事はできなかった。

よく見れば、たくさんの腕に覆われた、その顔の下に続く体には、これまた夥しい程の数の人の顔が浮かんでいる。


「…虎…杰?」

震える声で曜が呟く。


ザザザザザと不気味な漣めいた音をさせながら、顔を覆う腕が動き、その下から大きな穴の如き鋭い牙がびっちりと生えた口が覗いた。

口の中に、夥しい数のキメラ達が見える。

虎杰が咀嚼すれば、酷く耳障りな音が聞こえ、手を伸ばし、手当たり次第に触れるキメラ達を、虎杰は口の中に放り込み、己の力に換えているようだった。
見る見る間に、己が味方である筈のキメラを食い散らかす虎杰の姿を見て、曜は慄きながらこれもキメラなのか?と、疑問を胸に抱く。

先ほど、虎杰が言っていた。
チェシャ猫のリミッターを外す薬液をDrが持っていると。
虎杰自身も普段は力を抑え、人間の姿を保ちつつも、この本性を隠し持っていたのだろうか?
命の危機に瀕し、自身のリミッターを解除して、この姿になったと言うのだろうか?


しかし、キメラと見ようとしても、これは余りにも醜悪で吐き気を催さずにはいられない姿をしていた。



「ひゃああああ!!! なんだぁぁぁぁ?!!」

竜子の素っ頓狂な声が屋上から聞こえてきた。

見上げれば、大きく開けられた穴の淵に、竜子がへたり込んでいる。

巧く、二人を誘導できたのだろう。

竜子の傍にはスーツ姿の眼帯をした蘇鼓と全く同じ顔の男がいて、曜は思わず、「蘇鼓? 何故、スーツに? しかも、髪の色まで変えて…」と首を傾げずに入られなかった。


「う…ええっえ…な…んだ…こいつ…」


竜子が吐き気を堪えるような声で言う。


嵐も、その醜悪さに耐えかねたというような声で「気持ち悪…っ」と小さく呻いた。

すると、虎杰が大きく口を開く。
そして、酷い匂いのする息を大量に吐き出しながら、唸り声のようなものをあげた。


「あ”…あ”…あ”あ”あ”…」



口中より、ぞろぞろと、大人の拳大程の黒に黄色い斑点の散った不気味な甲虫がぞぞぞぞ…と溢れ出てくる。


体内で、喰い散らかしたキメラを養分に変え、あの生き物を造りだしたのか?

どろどろとした粘液に塗れた甲虫達は、自分の口からも、汚らしい液体を吐き出していた。
すると、その粘液に打たれたフロアの床に敷かれたカーペットがじゅうっと不穏な音を立てる。

視線を向ければ、白い煙をあげながら、カーペットに穴が開いていて、それが極めて危険性の高い液体である事を曜は察した。

甲虫達が、ジジジジジと羽音を立てて空中に浮かび、
一気に男と竜子二人に襲いかかり始める。


あんなの、対応できる数じゃない。

エマが「逃げなさい!!! その蟲は、溶解液を吐き出すの!! 降りてきて、こっちに合流してっ!!!」と叫ぶ。

竜子と顔を見合わせて、蘇鼓と同じ顔をした男が彼女の手を引っ掴むと、ぐいっと引っ張り、気持ちの悪い蟲の群れに突っ込む。

「っ!!! ぎゃーー!!! ねばねばしてるのが!! 触った!! 触ったよう!! うがぁっ!!」
喚く竜子に、「馬鹿!! 口を空けてると、蟲、食べちゃいますよ?!」と、怒鳴りながら、化け物が突き破った床より一気に男がフロアに飛び降りてくる。

途中で、竜子を抱き上げて、そのまま、床に降り立つその姿に、思わず感嘆してしまう曜。
それは他のメンツも同じらしく一瞬事態を忘れ、「やんややんや」と皆、喝采を上げつつ男を迎えた。
何にしろ、味方であることは確からしいし、この状況で、戦力が増すのは何よりも有り難かった。

「ヒーローみてぇ!!」
「凄いわ! なんか、映画とかでしか見たことないもの!!」
「いやぁ、流石幇禍さんでス!!」
皆が褒め称えれば、「いや、それほどでも…」と言いつつも、分かりやすく男が照れる。
とはいえ、またしても、デリクはこの男を「幇禍」と呼んだ。
この男が幇禍ならば、つまり、蘇鼓であるという事になるのだが、どうもその仕草、様子を眺めていると、蘇鼓だとは思えない。
何より口調が全く違った。

幇禍と呼ばれる男は溶解液のせいか、上等なスーツの所々に穴が開いてはいるが、一気に走りぬけたせいか、肉体にまで傷は負ってないようだし、竜子も、素肌に浴びたところから、血が滲んではいるが、いずれも致命傷ではなさそうだ。
デリクが再び痣の力を使って、異空間の防護壁を作り出してくれたので、その防護壁の中で、とりあえず作戦を立て直すことにする。

だが、不意に虎杰に向け、ふとある違和感に気付いた曜は、大きく目を見開いた。


えーと…何で、あんなところに?と思えども、見つけてしまった限りは仕方がない。

下半身が大蛇となった男が、いた。

何か、捕まってた。

キメラか?と思えど、敵キメラとみるには、何故捕まったままなのか、咀嚼もされず、捕らえられたままなのかが分らず、うぞうぞとした化け物の顔を覆う手に掴まれるようにして、なんか、逆さ吊り状態の、それだけで、うん、かなりホラーとして成立するね!!な、男の姿を視認して、曜はどうにも、こうにも頭痛を覚える。

男の容貌もいけなかった。

陰気で、陰険そうな、不気味な姿。

だが、酷い扱いを受けている様子からも、何か、これは、皆に知らせてやらねばいけない気がして「ていうか、あいつは、大丈夫なのか?」と凄く戸惑った真面目な声で、曜は、彼を指差し皆に問い掛ける。

曜の指先に視線を向けた面々が面白いように固まった。


「曜ちゃん…大丈夫…黒須さんは、無闇矢鱈に丈夫だから…」
にこりと笑いながら、何だか、大変いい加減な調子でエマが言い、曜は、(あれが、黒須?!)と、まぁ、初対面にしては、余りに酷すぎる状況にすらげんなりしつつ、「いや…えーとだが、なんか、白目をずっと剥いてるんだが…」と、小声で訴えども「大丈夫、大丈夫」とニコニコしながら「私、黒須さんの事、信じてるもの」となんか良い台詞風の事を爽やかな声で言う。

エマが闇雲に前向きな発言を繰り返す表情に良いのだろうか?と戸惑いつつ、では、先程、暗闇で、虎杰に噛み付き、こちらに手を貸してくれたのは彼であったのか…と、思い返した。

いや、しかし、アレは確かに女であったような…。

「ぎゃーー!!! 誠ーー!!がなんか、もう、なんか、えーー?!!! 凄い大変な事になってるのは分かるんだけどあたいの言葉では説明しきれない事にっ!!!!」と、竜子が黒須の姿をあわあわと眺めながら喚き散らす。

「…ぶふっ…!!!」と、明らかに、それは噴出したんだよね?というような声を漏らしつつ、幇禍が肩を震わせた。
どうも、黒須の有り様が、彼のツボにHITしたらしい。
白目を剥いたままの黒須が何か、振り子っぽく、左右に体を揺らし出すに至って、幇禍はとうとうしゃがみ込み、耐え切れないと言った様子で、床を叩きながら体中を震わせ出した。

その様子を何を勘違いしたのか竜子が「幇禍…誠の為に…そんな風に怒ってくれるだなんて…お前、ほんと良い奴だな…」と頓珍漢な事を言い、更に、幇禍は体を大きく揺らす。

だが、そんな間抜けなやりとりのせいで、何の計画も立てられないまま、虎杰が数百の腕を振り上げ、こちらに振り下ろそうとするモーションが曜の視界の端に引っ掛かった。

「…っ!! 防ぎきれませン!! 皆さン、避けテッ!!!」


デリクが叫び、それぞれが、めいめい各所に四散する。



「あ”!!! あ”あ”あ”あ”ぁぁぁぁ!!」

虎杰の叫び声。


曜は紙の札を空中に投げ、印を結ぶ。

鬼共では歯が立たぬ相手と見るが、むしろ、自身の力の増強のために、鬼の陰気が欲しかった。

殺すために呼ぶ。

非道な事だと、他人事のように思う。

だが、ここには守らねばならぬ人がいて、城には大事な燐がいた。

負けるわけにはいかなかったし、勝てるためなら何でも出来た。


曜は更なる無数の鬼を召還する。
背後に生み出される鬼達に、「行けっ!」と曜が命じれば、一気に化け物に飛び掛って行った。
息もつかずに召還し続ける。
案の定、虎杰は、無数の鬼達を鷲掴み、溶かし、踏み潰し、口の中へと招きいれ、あっという間に平らげてしまった。

陰気が満ち、曜の体中にほの暗い力が吸収され続ける。
鬼は尽きずに招かれて、虎杰が尽きずに食い続け、曜はひたすら強くなる。

地獄のような循環。

悪夢を断ち切るために、曜はあえて、地獄を作る。
鬼姫。
修羅を行く姫君の、本領が此処で発揮されていた。


こんな姿を燐には見せたくないものだと、鬼を呼びつつ自嘲する。

図らずも、数奇な導きにより黒麒麟と敵対し、その壊滅に力を貸すことにはなったが、曜の組は黒麒麟より小さく、全く異なる道を行けども、こういった事態に鬼姫が関わり、そして相手首領の首を取ったという事が、裏社会に噂としてだけでも流れれば、組自体にとって利益になる事を曜はきちんと計算していた。

信念を貫くためには、多少の処世術も必要であるという事を、曜は知っていたのである。

組の力を勢力拡張に使わず任侠道を愚直に貫く姿勢を示す事で、おいそれと手出しの出来る組ではないと周囲に示し、また、任侠道を外れたものに対し、こうして制裁を下す事によって、非道な横暴が表の世界に住む者に及ぶ事のない社会作りへの貢献を、非合法な手段ながらも曜は行っている。

他組織から恐れられても危険視されてしまえば、数を頼りに潰される。
幾ら精鋭が揃い、曜自身強大な力を持とうとも、組のものを人質に取られれば、手も足も出せなくなるし、横の繋がりのない裏組織ほど脆弱なものはないのだ。

女子高生の身の上で、日本の極道界に、その人ありと恐れられるまでになったのも、ただただ、自分達の稼業の人間が無辜の人間に手出しをする事まかりならぬという、自分の信念を貫くため。

今回の、この騒動も、巡り巡って、鬼姫の伝説の一つとなるのだろう。

虚しい。


曜は目を閉じ、ただ思う。

虚しい。

このような手段を講じねば、人を守りきれぬ己の立場も含めてだ。
いっそ、極道の家などに生まれなければと思えども、それが己が宿命ゆえ、鬼姫は、時折戦場にて、散る命の儚さを目の当たりにし、唇を噛み締め、思うのである、

虚しい、と。


燐は今頃、どうしているだろう?

ふと、思う。

無事で、ただ無事で、そして、余り、このような、地獄をあの子が見ていないよう、一人祈る。

関わらせるのではなかった。
そう思いもしたが、城で、どのような苦境にも強く相対していた燐の姿を思うと、彼女を信じる気持ちにもなり、お互い必ず無事で会おうと胸中で語りかけた。

曜は数限りなく呼び寄せた鬼達によって防壁を形成する。

虎杰の攻撃から逃れるべく、こちら向かってくる、嵐と蘇鼓と同じ顔をした男に「私の背後に回れ!!」と曜は叫んだ。

「うぎゃああ!!」と、嵐が叫びつつも、「お…俺は嵐! とにかくっ! お前は、蘇鼓の弟なんだな?!」と確認するような声が聞こえてくる。
曜は、マジマジと、その男の顔を眺め「兄弟だったのか…」と納得すると、それにしたってよく似ていると感嘆せずにはいられなかった。

蘇鼓の弟は頷きがてら、後ろを振り返りもせず、両手を素早く脇の下に通して、撃ち放す。
その堂に入った動作に、蘇鼓とはまた別タイプの手練である事を、曜は悟るが、彼の銃撃によって、幾つかの化け物の腕が零れ落ち、血を撒き散らしながら、床でのたうっているが、到底本体にまで銃弾が届かず、本体にもダメージは与えられなかったようで、追って来る速度も変わってはいない。

あの化け物を、どう打ち倒せばいいか…? 充分陰気は体中に巡り、力は蓄えられたのだが、どこを叩けば、有効な攻撃となるのかが一向に分らない。

化け物の体中に飛びつき、噛み付き、その口中に放り込まれ、踏みしだかれ、鬼の肉の潰れる音、骨が噛み砕かれる音が響く。
そんな様子を眺めれば、化け物に食い荒らされる鬼達という、余りに猟奇でグロな光景に、自分がそれを作り出していると知りながらも、顔を顰めずにいられなかった。

鬼の防壁の背後に駆け込んできた幇禍が、曜とすれ違い様に、「あの手の中に、大きな目が見えたんです。 あすこを攻撃できれば、ダメージを与えられるかもしれない! 顔を覆っている腕を、何とか退ける事は出来ませんか?」と声を掛けてきた。
そこが弱点だろうか?と、思いつつ曜は振り返り、どうすれば良いのか見当がつかないものの「考えてみる」と、とりあえずは頷いておいた。

目玉は人間にとっても急所の一つだ。
やってみる価値はある。

では、とにかく、向こうに少しでもダメージを負わせておかないと…と考え、鬼の数を更に増やすべく、再び札を空中に四散させた。

悪夢めいた光景は陰惨を極め、階下フロアにいた人間や、ビル外の者達が騒いでいる声も聞こえてきた。
人が集まりだしている。

「不味いわね…」

駆け寄ってきたエマが、小さく呟く。
確かに、騒動になるのは、色々と差し障りが在るし、警察に関わるわけにはいかない立場だ。
あまりじっくり策を練ってる暇もない…と焦る曜の耳に、「…一応お聞きしたいのですが……」と、幇禍が嵐に問い掛けている声が入った。

「あぁ?」と嵐が問い返すより早く「アレ…って、もしかしたら…呉虎杰だったりします……?」と、虎杰を指差す。

そうか、彼は、虎杰の変異の場に立ち会っていなかったっけと思い至り、嵐が数秒瞬いて、瞬きを続けたまま「ぴんぽーん」と低い声で答える。

「あれ…は、キメラなんですか?」

そう、幇禍の重ねての問い掛けにデリクが「完全体でス」と答えてにやりと笑った。

デリクの言葉に視線を向ければ、「キメラ開発の慣れの果テ。 進化の先を目指した行き止まリ」と歌うように告げ、「ねぇ、人は、もう、進化を終えているって説を、ご存知でス?」と、デリクは問うた。
エマが、「ああ、聞いた事ある。 これ以上、外見上の変化は人間は齎されないっていう奴でしょ?」と
言えば、デリクは頷き、「環境にあわセ、その形態を長い年月をかけて変えていク、その『過程』を進化と呼ブ。 人間は、現状で進化の果てにアルという事が科学の力でもって証明されてしまっタわけですガ、あの男は…Drは己の仕える人間ニ、その先の生き物となる為の手術を施したのでしょウ。 材料は、獣でなクテ…『人』。 進化の果てに行き着いた同種の生き物を掛け合わセ、合成サせ、際限なく膨らませタ、異形の『キマイラ』…。 なんと醜い……。 Drが己のコンプレックスすら注ぎ込んで出来上がったあノ、異形、早く壊して差し上げねバ、むしろ気の毒というものでしょウ」と、虎杰を指差しデリクは滔々と述べる。

エマも「まぁ…早くなんとかしないと、流石に黒須さん死んじゃうかな?って感じだしね」と言いながら、はふっと息を吸い込んだ。
「……五秒、私がジェスチャーで合図を出すから、みんなそれまでしっかり耳を塞いで。 出来るかどうか、自分でも不安だけど、超音波。 あの、体の表面に浮き出ている人間の顔達。 確り見ると、耳も、ちゃんとみんなついてるのよね。 あの、顔達の耳の鼓膜を、超音波使って傷付けられるか試してみる。 巧くいけば、あの腕を退けられるチャンスを作れると思うし…」
「そうすれば、俺が、あの化け物の目を撃ち抜ける…と」
エマの言葉に続けて蘇鼓の弟が呟いた。
「…隙さえ作って貰えば、後は私が斬り込む」
そう凛と告げる曜に、デリクは「ならば、出来るだけ迅速ニ、そして危険なく接近できるよウ、空間を歪めた穴でお運びしまス」と、提案する。
だがデリクは、どうも、見るからに調子が悪そうで、元より白い肌をしているが、今は青ざめ、完全に血の気が引いている。
曜は心配げに振り返り「大丈夫なのか? 顔色が悪い。 力を行使しすぎじゃないのか?」とその身を案じてしまった。

「…決めたのデ…。 全力を尽くすト」
そう言って笑うデリクの顔がいやに晴れ晴れとしている。
その顔を見て、それ以上、何も言えなくなった曜は、「…あたいも行く」と、竜子がマシンガン片手に、デリクに告げるのを聞いて、心臓がドキリと震えるのを感じた。
「曜が、あいつに一発食らわせる、手伝い位は出来ると思うから、あたいも一緒に運んでくれ」と竜子が言うのに続き、嵐も「俺も、行く」と、宣言する。

「俺も、全力尽くしてぇんだ」

曜を真っ直ぐな眼差しで見て言う嵐に、曜は関わらせたくない、危険な目に合わせたくないと思いながら、そんな言葉に自分の決意を曲げる二人でない事は今日一日でようく分ってしまっていて、だから、困ったような顔をして、竜子と嵐を交互に見比べ、そして、「ふう…」と溜息を吐く。

「死んだりしたら…地獄まで追っかけて、お前ら二人とも、引きずり戻してやる…」

掛け値なしの本気で、随分怖い事を告げ、「だから、私にいらん手間を掛けさせない為にも、絶対に死ぬな。 絶対にだ」と、曜は美しい眼差しで、二人を見据えて、願うように告げると、ツイと虎杰に視線を向けて、「では、化け物退治と参ろうか」と、淡々とした声で言った。






エマが大きく息を吸い込む。

「OK?」と指のジェスチャーで見せつつエマが、周りを見回すと皆、両耳を手で塞いで頷いた。
嵐も、しっかり耳を塞いで、コクンと頷き、エマが、やや緊張の面持ちをしつつ、虎杰に向かって口を開く。
さほど大きく開いたわけでない、エマの綺麗な形の唇からいかなる音声が漏れているのか、エマ自身も耳を塞ぎつつ、目を細め、額にうっすら汗を滲ませながら、無表情に声を出している。

すると、最初のうちこそ、然程の変化の見られなかった虎杰が、突然その大きな体を折り曲げ、「あ”ぁぁぁっっ!!!」と耳を塞いでいても、鼓膜を揺らす苦悶の声を上げ始めた。

ゾゾゾゾと、腕がまるで反射神経であるというかのように、本体へと収縮し、そして、無数に浮き出る顔という顔についた両耳を、各々の手が塞ごうとする。
その動きによって、腕の守りが失われ、むき出しになった目玉を嵐が視認するかしないかのタイミングで、エマが「やっちゃって!!!」と叫びながら、虎杰を指差した。

間髪いれず、幇禍が、その目玉に連続して銃弾を叩き込む。
引き金を引きながら、弾切れと同時に素早く地面に投げ捨て、素早く武器を懐から引っ張り出し、持ち替え、撃ち放し続ければ目玉が弱点の見た幇禍の予想通り、痛みに身を捩じらせ、その猛攻を前に、虎杰が首を仰け反らせ、ガスン!!と轟音を立てて膝をついた。

「今でス!!」

デリクが叫び、素早く空間の歪を作り出せば、一気に竜子、嵐、そして曜の順番で飛び込んでいく。

渦の中をあっという間に通り抜ける。

ぎゅっと剣の柄を握り締めた。

今度こそ、殺る。

絶対に、仕留める。

全てが曜の剣に掛かっていた。
体中に満ちる陰気を研ぎ澄ませ、殺意に変えて解き放つ。

絶対に負ける訳にはいかなかった。
曜が背負う者達が、彼女の敗北を許しはしなかった。


まず、竜子が渦から飛び出すと、落下しながら、目の周囲を守る腕に銃弾を当て、派手な光を撒き散らしながら、その動きを止めた。

次いで嵐が、その剣で、目玉を斬り付ける。
火花が弾けるような派手な音と、閃光に目玉が細まり苦しげな咆哮が響き渡る。

「黒須さんっ!!! お願いっ!!!!」   


エマが、突然、黒須に向かって叫んだ。
身を潜めた渦の淵より視線を向ければ、逆さ吊りにされていた黒須がいつの間にか、その長い尻尾を使って、ぐるりと無数の腕の間を掻い潜り、虎杰の首をミシミシと、骨の軋む音が聞こえる程に締め上げ出す。

にいっと笑う、その顔は血に濡れ、何処か狂っていて、それは間違いなく、男の顔なのに、見間違いようもなく、不気味な男の姿をしているのに、その顔に、美しくも艶やかな、一人の女の顔が重なって見えた。

にいいいっと裂かれた唇から「観念するんだな…」と、怖気を奮うような、何処か甘美な声が漏れる。


「お仕置きの時間だよ…」


女とも、男ともつかぬ声が黒須の唇から零れ落ち、曜は、訳も分からず、それでも悟った。


さっき闇の中で見た女は、この人だ。


女がいる。

黒須の中に。


艶やかで、しなやかな女蛇の気配。


黒須とどういう関係かは分らぬが、彼の中に潜む女が今、表出している。


そして、その女が、曜をゆっくりと見上げてきた。

恐ろしい顔をしていたし、美しい顔をしていた。
どちらにしろ、その女は、驚くべき程に明るい、きらきらと光る笑みを見せて、曜に言った。

「あとは、お願い!!!」

その声は、情景の陰惨さに反して余りにも底抜けに朗らかで、曜は訳も分からず頷いて、それから剣の柄を握り直す。

バチバチバチっと、一際大きな音を、異空間の歪が立てる。




そして


穴の中から


長い髪をたなびかせながら

全ての幕引きを請け負った曜が、虚空より降り立つ。





強い風に吹かれ、髪をたなびかせながら、剣を真下に構え、「覚悟!!」と叫んで、曜は容赦なくその目玉に剣を突き立てた。



パキン!!!とガラスが割れるような音がまず聞こえ、そして、一気に、その目玉から真っ赤な血飛沫が吹き出した。



「あ”あ”あ”あ”ぁぁぁ!!!!!」

断末魔の声を虎杰が上げる。



曜は振り返りもせず、素早く黒須の体に手を伸ばす。
触れた瞬間、本能的な嫌悪に鳥肌が立ち、爬虫類めいたその肌の感触に、ブルブルブルっと全身を震わせる。
とはいえ、見捨てる訳にもいかず、ぐったりとしている彼を横抱きにして、床に降り立ち、そのまま虎杰から、一目散に離れた。

虎杰が硬直したまま、前のめりになり、そして轟音を立てて崩れ落ちていく気配を背後に感じる。



漸く安全圏まで離脱して振り返ると、ゆっくりと、虎杰の体が溶けるように分解されていく姿が見えた。

無理矢理に合成されたと思わしき人の体が一人、また一人と本体から崩れ落ち、そして風に吹き荒ばれ、粉に変じて消えて言った。

サラサラサラと風に吹かれ、どんどん小さくなってく虎杰は、瞬く間に元の人の姿に戻る。

倒れ伏したまま動かぬ姿に、息絶えたか?と思えども、虫の息なれど、まだ微かに意識はあるのか、その掌がザリザリと音を立てて床を這った。


「…あ…かね…茜……茜……」


繰り返し、誰かの名前を呼んでいた。

うつ伏せになったままの虎杰は、何かを探すかのように、床に手を這わせ続けていた。

「…それが…お前の特別な人の名前か?」


嵐が静かな声で問うた。

ゆっくりと、虎杰が顔を上げると、曜の攻撃の影響か、無残に潰れた目があって、それでも嵐の方をしっかり向くと、「そうだ」と静かに答えた。

憔悴の滲む声。


「…茜。 それがチェシャ猫の名前ですカ?」


デリクが、穏やかな声で問い掛ける。

「……ああ」

途切れ途切れの掠れた声。

「…彼女に…一目なりとも…会いたかった…」


呟く声の温度は、彼がチェシャ猫をどう想っているかという事が一目瞭然の熱が篭っていて、ああ、つまり、そういう話だったのかと、曜はこの物語の全容を悟った。


デリクが今や、鬼や人の血が入り混じった血の池と化した床に掌を翳す。


「…真実を下さイ。 白雪サン」


そうデリクが声を掛けて、その表面に掌を浸せば、波紋が広がり、そして突然銀色に変じた血の池に猫の耳が生えた一人の女と、大きな姿身越しに相対する一人の男の姿が映し出された。

それは、今よりも若き日の虎杰の姿。

鏡の化身であるという白雪の力を、デリクが自身の力を使って、こちら側に呼び込んだのか…。



「逢瀬。 チェシャ猫さんト、貴方の…で間違いないデスよネ?」

デリクの問い掛けに「無粋な。 覗き見るものではないだろう…」と虎杰は憮然とした声で答える。



一枚の大きな鏡に手を這わせ、チェシャ猫は頬を染めて向こう側を覗いていた。
鏡の向こう側の虎杰は、チェシャ猫と同じく鏡に手をあてて、彼女と顔を突き合わせていた。

「鏡よ 鏡 世界で一番 美しいのは だぁれ?」

無邪気な声でチェシャ猫が問う。
鏡の向こうの虎杰は少し笑って、それからチェシャ猫を指差した。

「ふふふ」と肩をすくめ、掌を唇に当てて「嘘。 違うわ」と言って、それから自分の猫の耳に手をあてる。

「だって、こんなものが生えてる」
すると虎杰は首を振って「関係ないよ」と囁いた。
「尻尾もあるのよ?」
「それも、可愛いじゃないか」
「わっち、人間じゃないの。 お城の化け物なのよ?」
「それでも、お前は美しいよ」
虎杰の言葉に、また「ふふふ」と笑い、それからピタリと鏡に張り付く。

「世界で一番?」
「ああ、世界で一番」
「わっち、お姫様になれるの?」
「俺がしてやる。 お前をお姫様に」

何度も何度も瞬いて「約束」とチェシャ猫が言えば、虎杰も頷き「ああ、約束だ」と答えた。



つまり、チェシャ猫と、虎杰はこのようにして、通じていたという事か。

恋仲。

愛しい女を お姫様にする為に。

この男は数々の悪行を働いてきたのだろう。

「この…鏡は…?」

嵐が、訝しげに呟けば「白雪。 現世と、城を繋ぐ鏡なんて、あいつ以外ありえない」と竜子が答える。
「チェシャ猫サンは、白雪サンを通じて、虎杰さンと出会い、そして恋に落ちた」と、面白がるような声でデリクは言う。


「チェシャ猫さンの為に、虎杰サンは、千年王宮を手に入れるあリトあらゆる方法を探しタ。 少しでも城に近づく為ニ、力を手に入れようと裏の世界に身を投じ、チェシャ猫さんに会いたい一心デ、組織のトップにまで登り詰メ、そシテ、彼女と同じ『獣』と『人』を融合する技術と知識を有シタ一人の男を自分の傍らに置イタ」

「それが……Dr…」
エマが呟けば、デリクは「正解」と静かに答え、「Drが、貴方が自分を裏切らなイと断言した理由が分かりまシタ。 確かに、大事な大事な恋人の兄ヲ、裏切れる筈がナイ」と、呟く。

Drという男は、そんなに、虎杰を信頼していたのか…。

嫌になる程、それは人間らしい有り様、


それを、でも、曜は肯定する気はなかった。


罪は罪だ。


人殺しは人殺しで、大量虐殺者は、大量虐殺者なのだ。

「最後のピースは、貴方と、チェシャ猫さンとの関係性だっタんでス」

デリクが、溜息を吐き出した。

「もっと早くに思い至れバ、余り遠回りをセズに済んだのデスが…」

そう悔しげに呟くデリクに「そうか…あいつは、あいつで、俺を信じてくれたのか…」と虎杰が穏やかな声で言う。
「悪党には悪党の絆がある。 人非人、外道、非道、悪逆を…尽くそうとも人は…一人では生きられない…。 笑うか? アレは、私にとって唯一信頼に足る、本当の友であったのだ…」

そう独白し、そして、虎杰は嘆いた。

「夢なんぞ…やはり、叶うもんじゃ…ないな…どんな…事もしてきたが…それでも彼女には届かなかった……」

その瞬間、嵐が爆発するような声で「この…糞馬鹿野郎っ!! 詭弁言ってんじゃねぇよ! 『何でもする』と『何でもしても良い』は全然違うだろ?!」と喚いた。

拳をぎゅっと握り締め、全身を震わせながら、虎杰をギリリと睨み据える。



「友達がいて…好きな人がいて…お前、なんでこんな事出来るんだよ?」

虎杰が嵐にまた顔を向けた。


「人を好きになる事を知ってる奴が!!! どうして、人を傷付けられるんだっ!!!」

叫ぶような声。


「だったら!!! なんで、考えない!!! お前が殺した人達にはなぁ! お前が、キメラの材料として踏みつけにしてきた人達にはなぁ!! みんな、それぞれ、大事な人が、特別な人が、誰に奪われる事も許される筈のない未来が、あったんだよっ!!」


地団太を踏む。


いつの間にか赤い色に戻っていた、床を浸す血の池が、パシャンと嵐の足元で飛沫を上げた。


「飯食って!! TV見て!! 仕事帰って酒のんで!! 嫁さんとケンカしたり、恋人とメールしあったり!! 友達と遊ぶ約束を楽しみにしたり!! 下らない漫画読んで笑ったり!! 嫌な事を電話で、田舎の母ちゃんに愚痴ったり!! そういう普通をさぁ…!!」


悲鳴のような声だった。


「そういう普通を…なぁ…誰が滅茶苦茶にして良いっつうんだよ…そんなの……誰にも許されねぇよ……っ!」

虎杰が何度も瞬いて、「何故…? なぁ、お前、なんでそんなに怒る必要が…ある? 自分の特別な人間に比べて…、そんな、取るに足らん…斟酌するに足りない命など…」と問う虎杰を、嵐は「命は比べられねぇよ」と呻くように否定した。

「自分にとって、その人の大切さという意味での価値ならば、比べてしまうのが、人間っつう生き物だ。 俺だって、ダチや家族は他の奴らより大事だよ。 それは否定しねぇよ。 でも、だからって、命を比べて、そいつらの為なら、誰かを殺して良いなんて、俺は絶対思わねぇ…。 俺のダチや家族も、そんな事は望んじゃいねぇ。 それが、俺の誇りだよ」

嵐は一歩踏み出し、言い聞かせるような、それでいて、悔いるような声で言う。

「なあ、虎杰。 お前、特別、特別っつうけどな…特別なんかじゃない、普通が、実は一番大変なんだぞ? 普通に働いて、普通に人を好きになって、普通に家族を作って、普通に幸せになって……普通は、偉いんだ。 普通は、並大抵の努力じゃ手に入んねぇんだ。 誰にも、そういうのを馬鹿にしたり、ないがしろにしたりなんて、されちゃならねぇもんなんだ。 お前みてぇな、弱虫なんか比べもんにならねぇ程な、普通っつうのは…尊いんだよ…」


曜は嵐を優しい男だと、思った。

そして、優しすぎるとも…。

生き難かろう…これ程純粋である事は…。

嗚呼。

わたしとはちがう。




「あんたが王宮を欲しがる理由は分かったよ。 だから尚更譲れない。 惚れた女のために、屍の山築いて、それで女を姫様になんざ仕立てあげたって、そんなの虚しいだけだろう? 寂しいだけだろう? 人を好きになるっつうのは…もっと…こう、あったけぇもんだ。 もっと、こう幸せなもんだ。 もっと……もっと、優しいもんだよ、本当は」


嵐が、不意に、慈悲に満ちた、それはそれは静かで、綺麗な、穏やかな声で言った。


「人を好きになる事の本当の喜びを、お前は知らないんだ。 可哀想に」

虎杰は、嵐に顔を向けたまま、不意に弱り果てた、子供のような声で言った。


「お前遅いよ」

「……」

「もっと早くに 俺に会いに来てくれていれば」



もしくは?







いや、そんな未来は



ない






「♪Humpty Dumpty sat on a wall
 ♪Humpty Dumpty had a great fall
 ♪All the king's horses and all the king's men
couldn't put Humpty together again」



王様の馬みんなに 王様の家来みんな合わせても
ハンプティを元には 戻せやしなかった


壊れた 卵は もう元には戻りません!






空から合唱が微かに聞こえてきた。



見上げれば、東京の夜空。
星の見えない夜空。



堕ちる。

墜ちる。

猫が。


落ちる。


チェシャ猫が、天から銀色の剣に刺し貫かれて落ちてきている。



如何なる者が、彼女を天から蹴り落としたのか?


虎杰が、どこにそんな余力が?と驚嘆せずにいられない精神力でもって、よろよろと立ち上がった。




「一度も想い人に会えた事等なかったようなのデ、本望でしょウ」


デリクは淡々と虎杰に告げる。

城も、勝利を収めたか。

少し安堵を覚えつつも、燐の安否だけが、気がかりだった。

虎杰は、もう、何も聞こえず、何も見えない様子で、ただ、天を仰ぎ、彼女を待ちかねていた。

キメラという禁忌の術で持って、裏組織のトップに立った男。

ただ、恋の為に。

ただ、恋の為に。
滅ぶか。


満身創痍で、それでも、天を仰ぎながら、酷く明るい、悲しいほどに明るい、幸福そうな笑みで虎杰が両手を広げる。


チェシャ猫も笑った。
最期の意識で。


「やっと…会えた…」


小さく猫は呟いた。


「ずっと会いたかった」


虎杰も笑って応えた。



猫の胸を刺し貫いている銀の剣が、そのまま虎杰の心臓も刺し貫いた。
落下した猫を虎杰は抱きしめ、そして、地上に倒れ伏す。



現世と王宮、たった一度として、直接、触れ会う事もなく、鏡越しで想いを育んだ、憐れな、憐れな、恋人同士。
漸く、最期の、最期、この上ない悪辣と、暴虐の果てに、二人は抱き合う事が出来た。


悲恋の結末である。 
悲しい終末である。


しかし、悪党の恋であった。

悪党の最期であった。



「これにて 一件落着か」

虚しさを堪えて呟く。


「お見事!! お見事!!!」



すると突然、パチパチパチと手を叩いて、「よっこらせ」という言葉と共に、何処からともなく道化が現れた。


「…っ!! お前!! なんで?!」

竜子が叫んで道化を指差せば、「さっき、魔術師殿と白雪が通じ合った時にちょっくらね」と言いつつ、そこに立つ面々を見回す。

「いやぁ、今回は君達の活躍のお陰で、本当に助かった! 礼を言う」と言いながら頭を下げる道化師に「あ、お礼は良いから、ねぇ、早く、彼、なんとかしてあげて?」とエマが指差す先には、下半身蛇の姿のまま完全に伸び切っている黒須がいて、竜子が慌てて駆け寄り「誠!! 大丈夫か?! 誠!!」と必死の声で呼んでいた。

「う…る…せぇ…」

そう言いながらも手を伸ばし、竜子の頭に手を伸ばすと、その金色の髪を優しくなでて「喚くな…響くんだよ…」と弱った声で黒須が言う。

「…ああ…よかった…」と安堵の声を漏らす竜子。

その首根っこに齧り付こうとして、今の黒須に飛びつくことすら躊躇したのか、どうして良いのか分らないと言う風に涙の堪った目を緩めて「えへへ…」と竜子は小さく笑った。

「…生きてる」
「当たり前だ」
「すっげぇ、心配したんだぞ」
「おう。 悪かったな」

黒須がそう答えながら無心になったように竜子の髪を撫で続ける。
竜子は猫のように目を細め、「みんな…が助けてくれなかったら…お前、ほんとに死んでたんだからな」と言う言葉に、黒須は頷き、それから、こちらに目を向けてくると「世話になった」と言って頭を下げた。

だが、曜は、燐の事を想う余り、気が急いているのもあって、そんな事より、早く城から燐を返してくれと言いたい気分になる。
すると、まるで、そんな曜の気持ちを代弁するかのように、「とっととお城に帰ってあげなさいな」とエマが言い、嵐が「向こうの連中にもヨロシクな」と竜子に声を掛けた。
曜が「燐に、なるだけ早く戻ってくるように伝えてくれ」と心配でしょうがない気持ちを込めて頼み込む。
幇禍は……別段何も言うべき事が思い当たらなかったのか、笑顔で手を振っていた。

デリクが、「竜子さン…ちょっとばかり、私、お城に用事がありますのデ、一緒に向かわせて頂きたいのですガ、宜しいですカ?」と、声をかける。

竜子は頷き、「じゃあ、あたい、さっきの事もあるし、一足先に道をきちんと繋いでおくよ。 デリクは、その後を追ってきてくれ」と告げるので、曜は慌てて「すまないが、あと、向こうの皆さんに、燐の事、どうもありがとうございましたと伝えてくれ」と、まるで母親の如くの声で頼んでおいた。

仲良くして貰ったり、守って貰ったり、きっと、色々手数をかけたはずだから。
すると竜子は笑って「きっと、みんな、燐が来てくれて良かったと思ってるよ。 礼なんか言わなくても、大丈夫だと思うけどね」なんて言いつつ、頷き「分った伝えとく」と約束してくれる。
そして、よく曜と燐が二人で遊びにいく際に、待ち合わせ場所にしている公園に彼女を送ってくれることを約束してくれると、竜子は小指の鍵の力を使い、千年王宮に向かった。
竜子の姿が掻き消えたのを確認すると、デリクは道化を振り返り「貴方もご苦労様でしタ」と鮮やかに笑って告げる。


「いやいや、何々。 中々コキ使われて大変だったが、そこそこ楽しかったよ」

道化がそう言い「じゃあ、私もそろそろ戻ろうか」と言って、黒須の傍に寄る。

「いやぁ!! 酷い有り様!! ジャバウォッキー!! まぁ、丈夫なお前のこった! 大丈夫だろう、その位? ほら、とっとと帰るよ?」と手を伸ばし、その体を抱え上げようとする背中に、デリクが笑って声を掛けた。




「何処へデス? アリス」




空気の温度が、少しだけ下がった。



「道化師アリス。 ジャバウォッキーを何処へ連れて行くつもりでス? 駄目ですヨ、折角我々が助け出したのニ、貴方の手で、何処かにその人を葬られてしまってハ、元も子もありまセン」

デリクが道化を指差せば、道化は首を少しだけ傾けて笑うと、その瞬間カシャンと音を立てて、その体が崩れ落ち、黒須の上に散らばる。


「っ!!」


悲鳴めいたものをあげようとしたらしい黒須が辛うじて、叫ぶのを止め、そして、自分を連れて行こうとしていた物の正体に「んだよ…これ?!」と混乱したように喚いた。


関節という関節がぐにゃぐにゃと在り得ない方向に折れ曲がっている。

赤い糸が、その節々から垂れ下がっていた。


まるでマリオネットのように。

まるでマリオネットのように。


「いややわ…。 バレてもうた。 まぁ、流石っちゅうトコやねぇ…名探偵さん?」

道化の背後から、灰色の肌に、真っ赤な唇。 真っ黒なウェーブのかかった髪を肩まで伸ばし、白いリボンのあしらわれた、大きなヘアバンドを髪につけ、黒のエプロンドレスのワンピースを身に纏った、何処か見るからに不吉な少女が現れた。

「アリス…?」

一体、誰だ?
ここへ来ての新たな登場人物に、曜は頭がついていかずに混乱した。


アリスの名を訝しげに口にするエマに、「ひひひ」と口を歪めて下品に笑うと少女は「初めまして!! では、ないなぁ。 道化の格好して、色々とお喋りさせて貰うたさかい、そういう風に、びっくりした目で見られると、何や、申し訳ない気分になるわ」と言いつつ、彼女はデリクの前に立った。

「何処までお見通し?」
アリスに問われ、「然程。 知れば知った分だケ、謎は細分化し、枝分かれをして増えていク。 いっそ、今、全て、教えてくれませんカ? 大魔女アリス」と、強請るデリク。
「…あんたは…『千年魔法の構成理論』の魔術書を持ち出しとったねぇ…なぁ、あれ、全部読めた?」
アリスに問われデリクは一度首を振る。
「そう…」とにんまり笑うアリスに「ただ、私、昔カラ、本は『あとがき』から読む癖がありマシテ」とデリクはシレッとした声で告げ、アリスは、一度ポカンとした顔を見せた後、ククゥと喉の奥で笑うと「イケズやわぁ。 その物の言い」と、何だか少し嬉しそうに言う。

全く何の話か分からない。

このまま置き去りにされるのは勘弁して欲しいと思い、「ちょっ!! ちょっと待て!! 悪い、話についてけねぇんだけど?」と嵐が訴え、曜が頷く。
「その…大体、君は誰だ? アリスというのは…?」と曜に問われ、アリスは、ポリポリと頬を掻き、「そうか。 あすこを知らん子には不親切やったね」と頷いて、「色々説明するのも面倒臭いから、とりあえず、千年王宮を作った張本人と覚えて貰えりゃ充分や」と、アリスは簡単に説明した。
千年王宮を造るとなれば、それは尋常な存在ではないに違いない。

混乱を隠せずに「王宮を…作った人? なんか…スケールが大きな話になってきて、余計に訳わかんなくなっちまった…」と、嵐が頭を掻く。
「じゃあ…なんで、こんな人形を…?」
そう曜の問い掛けに、「そっちの兄さんは、分ってるんやろうけどね…」と言ってデリクを指差すと、「もう、とっくに、本物のアリスは封印されっちまってるからねぇ…うちは、ただの幻。 ベイブが自分の心の中に抱いている幻想なのさ。 アリスは、ベイブに討たれて、お城に封じられたんだ。 ベイブは、そのせいで、アリスの呪いに掛かり、千年王宮に千年縛り付けられる呪われた王様になった。 ベイブはうちをどうしようもなく憎んでいる。 だから、うちの姿を目の当たりにする訳にはいかないし、うちはベイブの心の深層に閉じ込められて、自由に動くことは叶わない。 せやで、この人形を依巫にして、うちはずっとベイブを守り続けてきたっちゅうワケやね」と答えた。
嵐はきょとんとした顔のまま、「よく分かんねぇけど…じゃあ、あんたはその、ベイブとかいう王様の心の中にいるアリスなのか?」と問い掛ける。
「その通り」とアリスは頷くと、「どうしてなんだ? 自分を城に閉じ込めたような魔女を、どうして心の中に?」と曜が疑問を投げかけた。
恨みに思う相手を後生大事に、ベイブが心の中に抱き続ける理由が分らない。
曜の疑問に、アリスは事も無げに言い放った。



「だって、あの子はうちに惚れとるんやもん」


嬉しげに、惚気るような声に、曜はぽかんと口を開ける。
敵同士だけど、恋仲だったという事か?

チェシャ猫と虎杰も、離れ離れで、しかも住む世界が違う者同士、何だか厄介な恋をしていたが、これはこれで、何処かのメロドラマにでもありそうな話じゃないか。

自分を閉じ込め、呪った相手を「想い人」としているとは、益々ベイブという男に対しての不思議が募る。
ちらりと姿を見る限りは、無気力極まりない男にしか見えなかったが、まさに人に歴史ありといったとこなんだろう。

まぁ、人の恋路を邪魔する奴は…との諺もある事だし、別段深く関わりたい話でもないな…と、曜が思えば、デリクが、不意に歌を口ずさむ。






「♪Humpty Dumpty sat on a wall
 ♪Humpty Dumpty had a great fall
 ♪All the king's horses and all the king's men
couldn't put Humpty together again」



マザーグースの中の「Humpty Dumpty」


魔女が問う。

「道化師が、うちやっていつから気付いてた?」

「今朝、貴方に会った時に思い至りましタ。 城の何処でも自由に行き来が出来テ、外の世界にすラ出て行ケル。 ある意味、ベイブよリ自由ダ。  だからこソ、今回のような時に、彼を救える為に奔走でキル。 この城の王様でスラ、制御できていない存在。 この城の王様を、千年王宮内ですラ越える存在。 そんなの、一人しかいナイ。 この城を作った人間しカネ?」
デリクがつらつらと並べ立てれば、アリスは「ウラが賢い子に育ったのも、分る」と頷いた。

「うちは、うちであって、うちやない。 所詮は、あの子が心の中に作り出した『理想のアリス』。 狂おしくあの子を想って殺されっちまった、可哀想な女の影。 それでもね、あの子を想う気持ちは本物。 だから、道化師になって、ずっとあの子の傍で、あの子を見守ってきた」
踊るような足取りで、アリスは血の池の化した床を、ゆっくりと歩き回る。

エマは、そのアリスをゆっくりと目で追いながら「…黒須さんを連れて行ってどうするつもりだったの?」と囁いた。

「次の人形にしよか思て」

エマの声に、アリスは笑みを深める。


「人形? こんな風に?」
黒須の上で無残な姿を晒す道化師人形をエマが指差せば、「今、一番ベイブの身近にいるんは、その男やで、バラバラに一回切断して、赤い糸をつけて、うちの思い通りにしたろうと考えたのに…」と言い、恨みがまし気にデリクを横目で見る。

「普段のジャバウォッキー相手なら、いかなうちとて早々好き勝手は出来へんけど…」
そこまで言ってアリスがついと掌を翻す。

「…こんなジャバウォッキーなら、抵抗なんて許さない!! 一度人形にしちまえば、笑うも踊るも歌うも殺すも、何もかも私の思い通りさ!」
ガバリとその身を起こし、人形が黒須の肩を掴んで、その顔を寄せる。
黒須が目を見開いて、「は…離せっ!」と、逃れるように仰け反ると、エマが慌てた様子で、道化の肩を掴み「これ以上、もう、黒須さんを苦しめないで」とアリスに叫んだ。
だが、アリスは戸惑うように首を振り、腕をだらんと下に落とす。
すると、道化も、また元のように人形の姿に戻り、アリスは少し顔を顰め「こいつは、長く依巫にしすぎた。 人形は、唯でさえ、意思を宿しやすい媒体。 最近勝手な動きを見せる事があんねん。 そこら辺の関係もあってね、新しい人形が欲しかったんやけど…」と惜しそうに黒須に目を向け、溜息を吐いて「残念やわ…」と呟く。

「そんなに傍にいたいのでスカ? ベイブさんの傍ニ」

デリクが、愉快そうに問う。

アリスは当然という風に頷くと、灰色の目を細めて問うた。

「なぁ? そんなうちって気が狂っとる?」

デリクは、まるで、望まれているという風に頷いて「エエ。 とってモ、とってモ、気が狂ってまス」と笑い答える。


アリスは、まるで、デリクが満点の答えを出したように手を叩き、「うちは気が狂っとる。 あの子もや。 正気の者など、あの城にはいない! 一人だって! 一人だって!」と叫んだ。

アリスの言葉を聞きながら、曜は無性に千年王宮という場所を恐ろしく思った。

この女は狂ってる。

心の底からそう思う。

何を根拠に自分がそう思うのかは分らなかった。

だけど、間違いないと曜は確信した。


時の大魔女アリス。

狂った女アリス。


人を強く想うという事は、何にしろ、気が違っているという事だ。


デリクが言う。



「貴方の出番はもうありまセン。 揺り篭に帰りなさイ。 ベイビーがお待ちカネですヨ? マム」



曜は、驚くよりも先に、「ほらね」という気持ちになった。


母親が、息子を愛する事に理由はいらない。


されど、アリスの愛は歪だろう。

慄くほどに歪だろう。


ほらね? この女、狂ってる。




息を呑み、シンと静まり返る空気の中で、デリクが朗々と語りだす。


「かって、時の大魔女アリスは、自身が生きる悠久の時の中で、誰の子か明らカニなっていナイ、一人男の子を孕み、産み落としタ。 生まれながらにして数奇な運命と数多の謎を背負ウ、その子供は生後間もなく、聖CAROL教会が有する聖騎士団の手により保護されたが、自分の血を分ケタ、最愛の息子を奪わレル事となったアリスは悲しみに沈み、時の迷宮の中で自らの心を癒す為に長い眠りにつイタ。 アリスの子ハ、その間、母親から譲り受ケた魔法の才と、誰かは分からぬ父譲りの剣の腕にて、騎士団にて頭角を現し、団長の地位にまで登りつめ、1700年代初頭に行ワれた《魔女狩り》ニて、皮肉にも己の母の討伐を命じらレル。 激しい戦いの中、宿敵としてお互いの正体を知らズニ出会ったアリスとその息子は、更なる悲劇! 狂気と禁忌の恋に落ちてしまったのであっタ…」

デリクは口を噤み、それから「私が、あの王宮より頂いた、貴女がお書きになられた、『千年魔法の構成理論』の巻末に記された、大魔女アリスの略歴の一文です」と言う。

そして「母と子の禁断の恋…なんテ、余りに陳腐デ初めて目にした時は、思わず笑ってしまいマシたヨ。 許されざる感情か否カハ、世間一般というものから、どうニも、ズレているそうなノデ、私にハ貴女に言うべき言葉一つ見当たりませんガ…」とそこまで言ってデリクは肩を竦めた。

「…貴女が、どんな狂った母親だろうガ、女だろうガ、今は黒須さんを、無事、あの城に帰してやるノガ得策でス。 貴女には、ジャバウォッキーは無理ですヨ。 魔女。 所詮、幻に過ぎぬ貴女が表出し、悪戯に現世を掻き乱すモノではなイ。 道化人形一つ、制御しかねル貴女には、ベイブの側仕えハ荷が勝ちすぎル。 とっとト、引っ込みなさイ」

そうデリクが言えば、アリスは突如高らかに笑い始めた。




狂ったように腹を抱え、ひーひーとけたたましい声を発する。




アリス。

ベイブの母の名前。


アリス。

時の大魔女の名前。



アリス。


息子への、禁忌の恋に狂った、憐れな、哀れな女の名前。



アリス。



ALICE.






「生意気だよ。 魔術師」



突如笑いをピタっと止めたアリスが、無表情にそう囁いて、そしてその体が掻き消えた。

黒須に折り重なるように倒れていた、道化がずぶずぶと血の池に沈んでいった。

黒須が混乱極まる顔で、「な…んなんだよ…」と呻く。

曜も一体何が何なのか、分りかねる事ばかりだが、正直現状「これ以上面倒は御免です」という気持ちになっている城の話だ。

よし、忘れよう、と先ほどまで聞いていた、かなり濃い目のエピソード含めて、そう心に決めた。

だが、竜子よりも更に何だか難しい立場にあるらしい黒須への同情は禁じえず気の毒気に眺めてしまう事は抑えられない。
嵐も「よくは分かんねぇけど、ややこしい立場みてぇだな。 おっさん。 何か、相談事があるなら、電話して来いよ。 また、話聞いてやるから…」と同情丸出しの声で、携帯番号が書いてある紙を渡していた。

なんだか、ガクリと肩を落として、その紙を握り締める黒須の肩をポンとエマが叩き、「まさか…アリスが、ベイブさんのお母様だったなんてね…」と呟いて、「どうすんの? これから」と黒須を見下ろす。

「どーするも、こーするも、ベイブがすげぇマザコンだろうが、あの道化の正体がアリスだろうが…俺にゃあ、どうしようもねぇ話だよ。 せいぜい、これまで以上に道化に寝首を欠かれぬように気をつけるだけさ」

そう黒須が投げやりに答え、デリクが肩を貸して起き上がるのを助けてやりながら、「それガ賢明でしょうネ…」と頷いた。

「幻とは言え、アレはアリス。 現世ならともかく、あの城で振るう力は絶大なモノと思われまス。 とはいえ、あの道化人形自体、自らの意思を持チ、貴方を自分と同じ、人形に仕立てようと狙っテいるのも、真実」
何だか聞けば聞くほど…な状況に、「上司は、ドS気味の犯罪級マザコンで…同僚はそんな上司命!!な意思疎通困難鏡娘に、中の人は上司のお母さんでした☆、ケド、最近は自分自身で動けるようになってきて個人的にもお前の命狙い撃ち♪な人形男。 一緒に城で暮らす唯一の心の拠り所になる筈の竜子ちゃんも、天災的トラブルメーカーだし、なんか…なんか…」と言いつつエマは、若干半笑いになって「ガンバッテ★」と両手拳をぐーにする。

「他人事だろ? 凄い他人事だろ? しかも、面白がってるだろ? 最早面白がってるだろ?」

半眼になり、そう言い募る黒須に、蘇鼓の弟も同情したような声で、「俺も、そんな黒須さんの力になりたいんで辛くなったら、是非ここに電話して下さい」と言いつつ思いっきり「117」と書かれたメモを手渡していたって、それ時報の番号やん。
「ほーう…お前は、俺に困った時に、時報を聞かせてどうしたいんだ?」と黒須に問われ、チロっと舌を出すと、「昔は、交換機の仕様で、同時に時報へ電話をかけてきた人と会話ができるという現象が起こったそうなので、せいぜい、何度も、何度も掛けなおして、そこで繋がった人にでも相談してはいかがでしょう?という俺の優しい心です」と照れた仕草を見せつつ蘇鼓の弟は言う。
「うわー、懐かしい!! 流行った! それ、俺が若い頃、すげー流行したし、その現象を知ってるお前が凄く怖い!!ていうか、今はもう、絶対、そういう事起こらないらしいけどね! だから、何回掛け続けても、そんな見知らぬ相談相手に繋がる事はないけどね!! そもそも、見知らぬ人に、こんな状況どうやって相談すればいいか一切見えないんだけどね!! そして、お前が『え? 結局、それ、絶対相談に乗ってやんねぇよ!って事じゃん?』みたいな台詞を、なんで照れながら言うのかも全然見えない!」
そう黒須が、現在見るからに「瀕死!」の状況ながら命懸け的鬼気迫る勢いでツッコンでくるのを、カラカラと笑いながら蘇鼓の弟が「わぁ! この勢いが鬱陶しい!」と爽やかにいなす。
ぜいぜい肩で息をしながら「もう…いやだぁ…」と心からの声で呻く黒須を、嵐と曜が暖かな、なんか遠い、凄い遠い目で見下ろすと、「よかったな、おっさん。 良い友達に恵まれて」と、かなりの棒読みで言い放ち、曜も「感謝する事だ。 人間関係は、何よりも貴い財産だからな」と、これまた、棒読み黒須に告げた。
完全に見捨てた!!という態度を明らかにした二人に黒須がヨロヨロと手を伸ばせど、デリクが、そんなやりとりを一切無視し「サァ! 黒須さン! 遊んでないで、行きますヨ?」と腰に手を当て、やけに張り切った声で告げる。
「遊…ばれては…いたな…」と項垂れつつ、黒須が自分の舌にある鍵穴に、王宮の鍵らしい小指を突っ込んだ。

「んじゃ…本当に助かった…ありがとう」

そう素直な声で告げ、小指の鍵を捻った瞬間、黒須とデリクの姿が掻き消える。

はふっと息を吐き出して、ひとまず決着ついたかな?と思った瞬間、タッタタッタと複数の足音が聞こえ「周囲への警戒を怠るな!」「爆発に気をつけろ!」等の声が聞こえてくる。

「騒ぎが収まったのを見て、警察が踏み込んできちゃったみたいね…」

エマが眉を寄せ「さぁて、面倒な事になっちゃったわ?」と小首を傾げると、それぞれメンツを見回した。

そしてコクンと頷き、一人一人の顔を覗きこみながら「みんなも多分、聞いた事があると思うんだけどね?」と何だか呑気な声で語り始める。
その口調に引き込まれ、三人身を屈めるようにエマの顔を見返せば、「小学校の遠足で、全ての日程が終わってさぁ、解散という時に、先生は、こんな名台詞を口にしたものよ…」と、そこで一回息を吐いた。


「お家に帰るまでが 遠足です」


真顔で告げられた言葉に、何だか三人、言葉以上の重みを感じて、コクンと再び揃って頷く。

「ここで、誰か一人でも捕まって、興信所との繋がりを知られるとエマさんは、とっても、とっても困ります。 とはいえ、皆さん、もう、立派な大人! 自分の身は自分で何とかしつつ、ここで、先生は解散を宣言させていただきます。 あとは、それぞれ、無事に帰宅して、この遠足をきちんと終わらせてください」

そうまさに先生口調で言い終えると、据わった目で一声叫んだ。




「とっとと、ズラかるわよ!!」







さてはて、そんなこんなで、踏み込んできた警官の目を掻い潜って何とか逃れた曜は、とにかく、一目散に公園に向かっていた。

きっと心細かっただろう。
自分の顔を見た後は、大泣きをしてしまうかもしれない。

出来るだけ彼女の我が儘をかなえてやろうと決意しつつ、全速力で曜は走り続ける。

まるで、燐を思って、急いでいるようで、実は曜は唯一刻も早く、燐の顔を見たいだけだった。
あの小さな体を抱きしめて、血に塗れた悪夢を振り払いたいだけだった。

守っているようで守られていた。
救っているようで救われていた。


公園の入り口に立つ。

ブランコに座って揺られている燐の姿を見つけ、自分でも制御しようのない安堵と喜びに背中を押され、彼女に駆け寄った。
燐も此方に気づき、慌てた様子で走ってくる。
そして、その小さな体を抱きしめ力いっぱい抱きしめると、愛らしい顔を見下ろし微笑みかけた。

燐が可憐な唇を開く。

泣き声を覚悟し、顔を覗きこんだ曜に、燐は第一声、「曜先輩!! 燐はクレープが食べたいのじゃ!!」と元気に叫んだ。











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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【3432/ デリク・オーロフ  / 男性 / 31歳 / 魔術師】
【3343/ 魏・幇禍 (ぎ・ふうか) / 男性 / 27歳 / 家庭教師・殺し屋】
【0086/ シュライン・エマ / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【7521/ 兎月原・正嗣 / 男性 / 33歳 / 出張ホスト兼経営者 】
【3678/ 舜・蘇鼓 (しゅん・すぅこ) / 男性 / 999歳 / 道端の弾き語り/中国妖怪 】
【4582/ 七城・曜 (ななしろ・ひかり)/ 女性 / 17歳 / 女子高生(極道陰陽師)】
【2380/ 向坂・嵐/ 男性 / 19歳 / バイク便ライダー】
【2863/ 蒼王・翼  / 女性 / 16歳 / F1レーサー 闇の皇女】
【3427/ ウラ・フレンツヒェン  / 女性 / 14歳 / 魔術師見習にして助手】
【4236/ 水無瀬・燐 (みなせ・りん)  / 女性 / 13歳 / 中学生】

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■         ライター通信          ■
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お届けが大変遅くなって申し訳御座いませんでした!
前編・後編共にご参加頂けた事を心より感謝します。

それでは少しでも楽しんでいただけたら幸いです。

momiziでした。