コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


     夢つなぎの通い路
 
 夕闇の森には獣人たちが駆け回り、雪のように花びらの舞う月光の水辺では人魚たちが歌い、空に浮かぶ島では翼人たちが飛び交っている。
 コウモリ娘のみなもにとっては、見慣れてしまったいつもの光景。
 だけどいつもと違うのは、海辺の空に長机と椅子のようなものが浮かんで、赤い絨毯に乗った人たちが数人、並んでいるということ……。
「人魚の水辺、イルカ、女性ね」
 ぺたんと赤いスタンプの押された紙を手渡される。
 みなもは「はい」と答えて、絨毯に乗ったままの人魚を先導して下降していく。
「イルカの女性、一人お願いします」
 紙を見せながら水辺から顔を出している人魚に声をかけ、絨毯の上にいる女性に水に飛び込んでもらう。
 そしてまた上にあがって、別のところへ――。


「お疲れ様、今日の分はこれで終了だよ」
 一流に言われて、みなもはほっと息をつく。
 水辺の夜が明けて、森には夜の帳が下りている。
 夕陽に包まれた浮島では、夜が苦手な鳥たちが地面から逆さに生えた家の中へと戻っていく。
 その中には、見慣れないものたちもいた。
 今日から『移住』してきた人たちだ。
 ――それは、集団で一つの夢を見ることもあるらしいという妹の言葉を受けて、みなもが提案したことだった。
 観光旅行としてではなく、現実の世界の人たちをこちらの世界に移住させることはできないかという提案。
 移住とはいっても、二度と現実世界に戻れないというわけではなく、夜の間……というより夢を見ている間こちらで暮らす、ということだ。
 現実で一人一人にコンタクトをとるのではなく、夢使いの一流が夢を渡って人々を連れてくる。
 そして移住を希望する人たちを仮の住人として登録して、住まいを与える。
 そのときの姿、居住区は本人の希望を優先する、とのことだ。
 今日は、その計画を初めて実行に移した日。
 案内に説明にと、慣れないことをしたため、どっと疲れてしまった。
「けど思ったよりも沢山いたね。やっぱネットの力ってすごいんだな〜」
 一流はリストを片手に、感心する。
 夢を渡るといっても、何のあてもなくさまよい歩くわけのでは大変だ。
 そのため、インターネット上にサイトをつくり、夢世界の風景や生活を公表することにした。
 最初の頃は全く人がこなかったものの、サーチに登録することによって、ぽつぽつとお客さんが見られるようになってきた。
 2人ともネットには詳しくないので手探りの状態だし、色々と弊害はあるかもしれない。
 それでもサイトをつくることには、大きな意味があった。
「しかし、大変だったね。画像つくるのは。ネットのこととかも全然わかんなかったし、苦労したよ」
 自分で自分の肩を叩きながら、一流は大きなため息をつく。
「お疲れ様です」
 みなもはそれに、労いの言葉をかける。
 用意した画像に関しては、普通にCGだと思われているようだ。ネットを見てその世界が本当にあると信じる人は少ないだろう。
 だがその映像を見た人たちが、夢の中でそのことを想うようになれば、それでいいのだ。
それを辿って、一流が住人候補を探しているのだから。
「当分の間は、様子見が必要だろうね。移住を許可した人は、昼寝だろうが居眠りだろうが、望めばこっちにこれるように夢と夢をつないでおいたから。僕だけじゃ不安だし、みなもちゃんもできるだけ顔を出してくれるかな」
「はい」
 勿論、みなもはそのつもりだった。
 移住してきた人たちと元からいた地元の人との不和も心配だったし、何より……新しくこの世界にやってきた人たちに、できるだけ楽しんで欲しいから。ここを好きになって欲しいから。
 夕闇の浮島を飛んでいると、新しく入ってきた人々のところには人だかりができていた。
 みなもはそれぞれの家に挨拶だけをしてまわった。
 説明はまた後日、聞き漏らしを確認ついでにした方がいい。それよりも皆と仲よくなってもらうことが先決だ。
 ――うまく、いくといいな。
 みなもは心の底からそう願った。


 HP『夢つなぎの通い路』を見に行くと、昨日に比べて一気に来客数が増えていた。
 BBSにもいくつか書き込みがある。「昨日マジでここに行く夢見た。なんと住民登録しちゃったよ」というコメントに、「本当ですか!? 私もなんですけど、あれって本当に夢なんですかね?」
「絶対本物だよコレ。昨日は詳細見てなかったけど、今見直すと夢と設定まるで同じだったし」などと興奮ぎみの発言が続く。
 どうやら、昨日来てくれた人たちらしい。互いに、どこの地域にいったのか情報交換をしたりしている。
 だが好意的なものばかりでもなく、「影響されすぎ。夢でなきゃなんだってんだ。アリエナイ」「なんだここは、サクラばっかで見苦しいな」というような厳しい書き込みなどもあった。
 こういう人たちが実際に夢世界に来たら、信じるようになるのかもしれない。
 けれど移住させるには心配が多いため、あえて誘いにはいかないことになっている。
 HP自体も更新されていて、移住者が数名登録された報告があった。
 それから獣人の森の作物の初収穫の写真や、登録スタンプの写真なども更新されている。
 住民たちの声として、地元の人たちのインタビューなども。
 一流が友人のサポートを受けつつ(その人は物語の設定をあげたサイトだと思っているらしい)HPの管理、更新をしているが、インタビューや写真撮影はみなもの役目だ。
 夢世界の写真を現実には持ってこられないので、一流が写真を見て現実で具現化したものをもう一度撮影する、という二度手間になっている。
 自分のしたことが形になっているのを見ると、照れくさいけれど少し嬉しい。
 ――もっと、頑張らないといけないな。
 寝ても覚めても夢世界のことを考えるのは大変ながら、何だか楽しかった。


 その夜も、当然のように夢世界に向かう。
みなもの夢にも直通の道を設けているので、一流の手を借りなくてもそこにいけるようになっている。
「やぁいらっしゃい、ネット見た?」
「見ました。何人か書き込みしてくれてましたね」
「そうなんだよね。今日早速、他にコメントしてた人たちがいるかどうか聞かれちゃったよ。一応プライバシーもあるんで、いますよって報告だけしといたけど、なんかオフ会やりたいとか言ってた」
 確かに、同じ夢を共有している人が現実にいると思ったら、あってみたいと思うものなのかもしれない。
 みなもは微笑ましく思った。
「あ、それとね。同じく移住してきた人の提案なんだけど、水辺には獣人の森まで通じる飛び石みたいなのがあるでしょ。だから、浮島まで続く階段をつくってくれないか、って意見が出てきてるみたい」
「階段、ですか?」
「うん。浮島にある石は基本的に浮かぶようになってるみたいだから、それを材料に使えればつくれるとは思うけど……一応、浮島の人たちの意見を聞いてみてもらえるかな?」
 確かに、階段をつくれば獣人たちが浮島近くまで来ることができる。
 建物は地面から逆さに生えているから、そこを歩いて建物をまもるのは無理だけど、連絡通路としてなら効果的なのかもしれない。
「わかりました」
 答えて、みなもは早速浮島へと飛んでいく。
 まだ青空が広がる浮島は目に痛かったけれど、元々有視飛行のオオコウモリは昼間でも行動できないことはない。
 大きな建物に飛び込んで、休息をとる。
 そこは翼人たちの学校の校長を務める長老の家でもあり、いつでも万人に解放されていた。
 もっとも、手を使えない鳥系の翼をもつもののために、どこの家の玄関も大きく開け放たれているのだけど。
「これはまた、可愛らしいお客さんじゃな。昼間に来るとは珍しいが、どうかしたのかね」
 巨大カラスの長老が逆さになった天井をちょこちょこと歩いてやってくる。
 みなもは床に備えつけられた止まり木にぶらさがって、その姿を逆さに眺め、一流の言葉をそのままに伝えた。
 すると長老は、渋面をつくった。
「それは、どうじゃろうな。わしはかまわんが、他のものたちがどういうか……」
「反対されますか?」
 みなもは意外に思って聞き返す。
「水の中に住むのは人魚のみ。森の大地を踏みしめるのは獣人のみ。そして空は、翼人のみの領域じゃからな」
「けれど、浮島で生活はできないというのは同じです。建物の中には入れませんし」
「それでも、快く思わんものは多い。階段ができれば飛ぶのに邪魔になるしの。何より……困るのは、わしら鳥族じゃ。お前さんにとっても、他人事じゃなかろう」
「え?」
 鳥族、つまり昆虫の翅ではなく翼を持つものたち。虫族とは違って人の手足を持たない種族のことだ。
 ――あたしたちが、困る……?
 首を傾げていると、長老は少し困ったような笑みを見せた。
「わしらは、虫族とは違って器用ではないが、立派な翼を持つので配達の仕事を任されておるじゃろう。お前さんらは夜の便を受け持つはずじゃ。しかし、階段ができて獣人たちがすぐ傍に来れるようになってみなされ」
「あ……」
 そうしたら、あたしたちの役目が、必要ないものになってしまう……。
 確かにそうなってしまうのは少し、寂しい。
「……そう、ですか」
 役目といっても、この世界ではお金のやりとりもないのでお礼にちょっとした食べ物をもらえる程度のことだ。
 それがなくなっても生活に困るほどのことではない。
 だけど、人のために何かをして、助け合って生きておくというのは、あたしたちにとって大切なことなのだ。
「一応、他のものにも聞いてみるといいがね。言い出したのが移住してきたものならば、ここにやってきた移住者も同じ考えかもしれん。ただそれを反対するだけでは不和が生じるじゃろうし、きちんと話し合う必要がある」
 長老の言葉に、みなもは小さくうなずいた。
 そうだ。反対があるからダメだなんて、一方の意見だけを尊重するわけにはいかないんだ。
 お試し期間とはいえ、あの人たちも住民の一人なんだから。
 多数決とはいえ、ただ抑えつけるようなことはしちゃいけない。
 みなもは一先ず浮島に住む移住者のところにいって、階段のことについて意見を聞いてみる。
「そりゃあった方がいいよ。この浮島って、一番閉鎖的じゃん。獣人は水辺への道があるし人魚は川遡れば森までいけるけどさ。こっちはどこからもこれないもんな。自分から行くしかないっていうか」
 新しくやってきたトンボの少年は、何故か腕組みをしながら偉そうに答えた。
 ……確かに、それも正論なのかもしれない。
「階段ができるんなら、人間の姿でもいいよな。行こうと思えば全部のところに行けるし。ほら、あの案内人、なんか一人だけ色々できてずるいよな。人間の姿で空飛んだりさ」
「藤凪さんは、案内をするためにも必要ですし……パフォーマンスは他の方を楽しませるためですから」
「楽しませるっていうなら、オレも色々できるようにしてほしー。せっかくこんな世界に来てるんだから、制約なんてなく遊びたいじゃん。顔きくんだったら言っといてくれない?」
 制約なしに遊びたい。階段が欲しいという意見も、そういうところからくるものなんだろうか。
 確かに空を飛べる代わりに大地を踏みしめることも水中深くにもぐることもできなくなったわけだけれど……この世界では普通のことだから、それほど不便とは思わなかった。
 この翼で3つの世界の空を飛び回ることができるのだから、それで十分なのだと。
 だけど……そうは思わない人もいるんだ。
「一応、伝えてはおきますけど」
「よかった。ところでさ、君は現実にもいる人? 移住した人は全員そうだって聞いたんだけど、現地の人はまた別なのかな」
 みなもは、どう答えていいのかよくわからなかった。
 現実にもいるのだけど、こっちの世界での記憶も持っていて、家族もいる。
自分が元々よその世界の住人だということを、ここの人たちは知らないのだ。
「――ごめんなさい、よくわからなくて……」
 嘘をつくことに心を痛めながらも、みなも申し訳なくつぶやいた。
 相手は本当に知らないと思ったのか、意外にもあっさりと退いてくれた。
 それからよその地域にも顔を出したが、大体は似たような意見だった。
 移住者全員がそう思うのならば、これから一緒に暮らしていく以上、改善の余地も考えてみるべきなのかもしれない……。
 一流と相談をし、そのような流れに決まっていった。
 いつまでも仲介してばかりではまとまるものもまとまらないだろうと、浮島の住民たちと移民たちとを集めた会合を開くことになった。
 他の場所に住む地元民たちは、興味があるので顔を出してはみるものの、階段の建設に関してはどちらでもいい、浮島の人たちの判断に任せる、とのことだった。
「だから、私たち配達の仕事をしているものにとっては……」
「仕事っていっても、それで食ってるわけじゃないんでしょ。なくなっても困らないじゃないですか」
「そうそう。むしろ、楽できていいんじゃない?」
 どうやら、優勢なのは移住民たちの方らしい。
 人数自体は原住民の方が多いのに、言葉数では圧倒的に負けてしまっている。
 しかもどれだけ真面目に話そうと軽く流されてしまうので意味がない。
「階段ができたって、空は広いんだから。そんなに邪魔になることもないでしょ」
 その言葉に、反論するものはなかった。
 みなもも何も言えず、ただ黙り込んでしまう。
「……そうじゃな。そこまで必要とするものがおるのなら、つくってみてもいいかもしれん。じゃが、何か問題が起きれば撤去する、ということでどうじゃろうな」
 長老の言葉に、とりあえず話はまとまった。
 移住民の皆はわぁっと歓声をあげる。
 話し合いの後も、一緒になって現実世界のことなどを話しているようだった。
 現実世界ではどの辺りに住んでいるのか、向こうでも一度会えないか、など……。
 オフ会、という言葉が頭に浮かんだ。
 他の世界の人たちとも仲良くなるのはいいことだけれど……なんだか、引っかかるものがあった。


 ネット上の書き込みは、増えていく一方だった。
 BBSはほとんど移住民たちの交流の場になっていた。
 自分のブログにもそうした記入をしている人もいるらしく、噂が広がり、新しい移住希望者は瞬く間に集まっていった。
 その中から厳選して面接のようなことをしてから、数人ずつを各地域に振り分けていく。
 最初に入ってきた人たちが特に問題はなさそうだったから移住は続けるけれど、一気に増えるのは危険だと案じてのことらしい。
「突然人が増えすぎると、食べ物の確保や住むところの少なさも問題になってくるしね。自然をあまり荒らされないためにも、これ以上の移住は控えておかないと」
 夢世界を慌しく飛び回る中、一流がそんなことを言い出した。
 みなもも、その方がいいだろうと思いうなずいてみせる。
 階段の建設はほぼ終わっていて、浮島の周囲には四角に切り取った石段が弧を描いて水辺へと続いていた。
「でも、自分の友達を連れてきたいとか、家族が信じてくれないから呼んで欲しいって要望が多くてね……ちょっと困ってるところ」
 そう。問題がないというのは、目に見えた悪影響がない、という意味で。
 実際には移住者の人たちはことあるごとに一流やみなもを呼び出してああして欲しい、こうしてくれ、などと無理難題を押しつける。
 また、彼らは他人のためには何もしないのに他人の育てたものや狩りをして捕まえたものを当然のようにもらっていくので、住民たちから不興を買っているようだった。
 この世界の人たちには基本的に奉仕の精神があるが、それは互いに助け合っている環境から生まれたものだ。
 一方的に利益を貪ろうとするものが好まれないのは当然だろう。
「あたしも注意はしたんですけど……夢の中でどうして働かなくちゃいけないんだって、返されてしまって」
 どうしていいのかわからず、すっかり混乱していた。
 彼らにとっては現実こそが『本当の世界』で、ここはあくまでも仮想現実なのだ。
 抑圧された現実とは違って、何でも思い通りになるのが夢の世界……そんな風に考えているのかもしれない。
 そしてそれが、不和とまでいかなくとも微妙なすれ違いを生みつつあるのだ。
「そういえばさ。BBS以外の書き込みって見た?」
「えっと、ブログとかですか? ちらっとだけ……」
「いや、ここの住人たちのじゃなくてさ。集団で同じ夢を見て、その内容がサイトにアップされてるって、巷ではちょっと有名になってきてるらしいんだよね。それでなんか、うちのHPのことで色々と書き込みされてるっていうのを聞いて……」
 ちょっと待ってよ、といって、一流はパソコンを取り出す。
 夢世界のものを現実世界には持って出られないが、現実世界のものを夢世界に再現することは簡単らしい。
「あまり、嬉しい報告ではないんだけどね」
 軽く苦笑を浮かべて、画面を見せてくれる。
 そこには『集団催眠』だとか、『新興宗教』などといった言葉が多く見られた。
 ――催眠術で皆に同じ夢を見させている可能性が高い。かけた本人は決めた夢を見せているんだからサイトが夢と同じでも不思議はない。目的は不明だが、こんなことが本当に行なわれているのなら、かなり危険な存在だ。
 ――これは新興宗教だ。サイトを信じるがあまりにその夢を見て、それを確認し合うことで本当だと更に信じ込む。サイトの管理者はそれをあおっている教祖だといえるだろう。
 単なるヤラセやサクラとしてではなく、このサイト自体に不信感をもっているというような内容だった。
「……こうした書き込みは、今までにもあったらしい。サイトのこと教えてくれた友達にはパスワードも教えてたから、ずっと消してくれてたみたいで」
「前から……言われていたんですか」
 こんなことを。
 ただ楽しんでもらいたいと、それだけを願っているのに、こんな風にとられてしまうなんて。
「まぁ、仕方ないことだとは思うよ。だけどまぁそれもあるから……BBSだけを残してHPを閉鎖した方がいいかもしれないとも思ってる。これ以上は移住民も増やせないし、ちょうどいい機会かも」
「……そう、ですね」
 だけどそれだけで本当に、治まるんだろうか。
 不安が頭をもたげたが、このまま放置しておくよりはきっとましだろうと、みなもはうなずいて見せた。
「あ、みなも〜! 案内人さんもいるわね。ちょうどよかった、ちょっとこっち、来てちょうだい」
 不意に、水辺に顔を出した人魚に大きく手を振られる。
「どうかしたんですか?」
 二人で下降して、質問する。
「あのねぇ、聞きたいことがあるんだけど。移住してきた人ってあまりここにはこれないって、前にいってたわよね」
「そうですね。長くても半日以上は……」
「それが、こないだから、ずっと帰らない人がいるんだけど、大丈夫かしら?」
「えっ!?」
 予想外の言葉に、2人して顔を見合わせる。
「ちょっと見てくる!」
 一流は叫んで、半魚の姿になって水の中に飛び込む。
 みなもは追いかけようとして、とどまった。
 ――そうだ。ここでのあたしは、人魚じゃない。コウモリの姿じゃ、水底までもぐることはできない……。
 握りしめる手ももたず、ただ軽く歯を食いしばる。
 この世界の制約が、こんなにも不便に感じたのは初めてだった。
 ――お願い。早く、戻ってきて……。
 焦る思いで、そう祈った。
「ダメだ……全然言うこと聞いてくれない」
 しばらくすると、状況報告をするために一流があがってきた。
「本人の意志で残り続けているんですか? そんなことって……」
「できないわけじゃないよ。過眠って睡眠障害もあるし、睡眠薬とか使えば尚更ね。……たまにいるんだ。現実よりも夢がいいって、ひきこもろうとする人」
 その言葉に、みなももドキッとしてしまう。
 自分も一時、悩んだことがある。
あまりにも居心地のいいこの場所に、ずっと残れたらどれだけいいかと……。
「それでも、ちゃんと現実を見て受け入れられる人ならいいんだ。そこに何か大事なものがある人は。だけど、それがないと……植物状態になってしまいかねない」
「そんな……っ」
「勿論、そうならないようにできる限りのことはするよ。現実を否定させるためにここに連れてきたわけじゃないんだから……」
 バランスをとるのは難しいことなのだと、実感する。
 現実を持ち込まずにはいられない人。現実ではできないことをしようとする人。そして、現実から逃れようとする人。
 現実と夢を行き来するというのは、やっぱり難しいことなんだろうか……。


 それから、一流は住民たちに呼びかけて、何度も彼女を説得しにいった。
 かといって自分まで現実に戻らないわけにはいかないので、夜の間だけ。
 みなもは水の中から出てこない人魚の説得に立ち会うことはできず、その代わり一流の分もパトロールを入念しておいた。 
 2、3日経つ頃には、眠り続ける彼女が『夢つなぎの通い路』の来訪者で、しかもその夢にとても惹かれていたということが話題になり、マスコミまでが新興宗教と催眠術の線を後押しし始めた。
 その頃にはすでにサイトは閉鎖していたけれど、それが余計に怪しく思われてしまったらしい。
 中学にあるパソコンを使っていたし、多分自分が管理人だったとバレることはないだろうと一流は言っていたが、現実でも夢の中でもへとへとになっているようだった。
 夢の世界の移住者たちも植物状態の恐怖のためか、それとも夢世界に飽きてしまったのか、足が遠のき始めていた。
 残った人たちの中にはおもしろがって彼女の様子を見にいこうとしたり、夢世界の状況を悪質なサイトに横流しする人もいたので、一先ずは全員を入ってこられないようにしてしまった。夢の世界にしがみついている彼女だけを残して。
「……すみません。藤凪さん、あたしがこんな提案をしたせいで……」
 そんなことを口にするのはずるいと思いながらも、耐え切れず声にしてしまう。
「それは違うよ。そういう危険もあるって知っていながら、何もできなかったのは僕の責任だ。後は、厳選の仕方だね。軽い面接程度じゃなくて、その人がどういう人なのかをもっとちゃんと確認しておくべきだった」
 一流の言葉に、みなもは首を振る。
 互いに自分自身を責めている。そうせずにはいられないのだ。
 だけど一流はみなもに対し何とか笑顔をつくってみせた。
「なんて、悔やんでも仕方ないよね。よし、みなもちゃんにも協力してもらおう。コウモリ姿でも着れるような潜水服を用意して、人魚たちの助けを借りれば大丈夫でしょう。もしくは潜水艦に乗るか……」
「何でもいいです。あたしにできることがあるなら」
 懇願するような言葉に、さっきよりも柔らかな笑みを向けられる。
 用意されたのは、特殊な形をした潜水服だった。
 そんなものを着て水に入るのは初めてだったので、何だか妙な感じがする。
 人魚たちの住む珊瑚の家々。その一つに、彼女の家はあった。
 水の中の皆が、心配そうに様子を見に来ている。
 それは最初にみなもが案内した、イルカの女性だった。
「――どうして、現実に戻りたくないんですか?」
 みなもの質問に、彼女は黙ったままだった。
「向こうの世界はおもしろくないから、嫌なことばかりあるから、とは言ってたみたいだけど」
 一流がそれに、こっそり耳打ちをする。
「僕は、人が笑える場所をつくりたいと思っているから、彼女がどうしても残りたいというのなら、止めることはできない。だけどそれは現実での彼女を殺すことにつながるんだ。できれば、それだけは避けたいから……頼むよ」
 切実な言葉。彼には、嫌がる人を無理に追い出すような真似はできない。それはみなもも同じだった。
 だからこそ、説得するしかないのだ。
「……ここを、気に入ってくれたのはすごく嬉しいです。だけど、ずっと現実に帰らないと、あなたは植物状態になってしまうんですよ」
「構いません。私は、もう戻りたくはないんです」
「……どうしてですか。何故そこまで」
「仕事ではミスばかりだし彼氏に振られるし、何のとりえもないもの。それだけじゃない、ここで会った現実世界の人たちにも悪口を言われるし……でも、ここの人たちは違う。みんな優しくて、この自然いっぱいの風景を大事にしてるの、すごく素敵だもの。他の人たちにはないわ。現実の人たちは、皆、自分ことばっかり……」
 ぼそぼそと、愚痴を言い始める。
 その考えは確かに、わからなくもない。だけど……。
「その優しい人たちを、心配させてばかりでいいんですか?」
 尋ねかけると、彼女は周囲の人たちを見渡して、わっと泣き声をあげる。
「それに……現実にも、悪い人ばかりじゃありません。案内人の藤凪さんだって、現実世界の人です。だけどあなたのために……みんなのために、こうして頑張ってくれているじゃないですか!」
 ミスくらい、誰にだってある。振られたことのある人だって沢山。悪口を言われることくらいは当たり前。
 その一つ一つが、どれだけつらかったかというのは、本人にしかわからないことだろうけど。
 この世界なら絶対にそうしたことがないというわけでもない。
 何故なら皆、それぞれに自分の考えを持って、生きているから。
 決して失敗することなく、好きな人と必ず結ばれて、皆から愛される――なんて、この世界でだって簡単なことではないのだ。
「ここを好きなのはいいけれど、お願いですから逃げ場にはしないでください。皆この場所で、懸命に生きているんです」
 少し厳しい言い方なのかもしれない。
 だけどここで生きていきたいと思うなら尚更、それを知っておいてもらわなくちゃいけない。
「……そうだね。現実世界でも、夢は見られる。何ならまた僕の『手品』を見に来てください。この世界ほどすごいことはできませんけど」
 一流も明るく言葉を添える。
 女性はしばらく考え込んでいたようだったが、やがてこくりとうなずいた。


「意外と、激しいとこもあるんだね」
 水辺からあがるなり、一流がいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「だ、だってあれは……」
 急に恥ずかしくなって、みなもは赤面してしまう。
「かっこよかったよ。あの言葉はきっと、ここで暮らす君にしか……そして現実を知る君にしか、言えなかったものだと思う」
「そ、そうでしょうか」
「うん、ありがとう。助かったよ」
 自分にしか、言えなかった言葉。
 本当にそうなのかはよく、わからないけれど。
「彼女……大丈夫でしょうか」
 みなもは夢世界から旅立って女性を想って、3つに区切られた空を見上げた。
「多分ね。目を覚ましたら、自分を心配してくれる人は現実にもたくさんいるって気づけるだろうから」
 確信したような言葉に、少しだけほっとする。
 無理に追い出してしまったように思って、少し心配だったのだった。
「とりあえず、移住計画は一旦中止、だね。失敗した、とまでは言わないけど改善の余地アリって感じ」
「……もしかして、また移住のこと諦めてません?」
「当ったり前でしょ」
 Vサインで答える一流に、みなもは思わず笑ってしまう。
 ――挫けてなんて、いられない。
 どんな困難にぶち当たろうと、どこまでも真っ直ぐに進んでいく。
 手探りで、路を確かめていきながら。
 そうすれば、またいつか。
 この通い路がひらくことがあるのかもしれない。
 夢と現実がうまく折り合い、共存していくことができるのなら……。