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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


【東京衛生博覧会 後編】


「人にとって、美しい姿勢とされているのだろう?」
頬に血飛沫の跡を残す男が言った。
「『どうしても叶えたい願いの為に、何でもする』という事は」

「素敵な事なんだよねぇ?」
コケティッシュな笑みを浮かべ、猫は勝ち誇った。
「『夢が叶う』っていう事は」

「覚えはないんでしゅか?」
Drは、唇の端を引き攣らせた。
「『大事な誰かの為になら、どんな事も厭わない』という気持ちに」

血の濃い匂いが立ち込めていた。

豪華なオークション会場に、息をするのも煩わしい程の熱帯のジャングルに、そして、薄暗い倉庫に。


引き金は、いつ引かれたのか?
彼らの本当の目的は何なのか?
この物語は、何処へ疾走して行くのか?


何にしろ、血の花は咲いた。
後戻りの出来ない場所に、貴方はいた。


男は、猫は、そしてDrは問うた。

「さぁ、これから、どうしようか?」

まるで、子供のように。

「さぁ、これから、どうしようか?」



SideA

【 シュライン・エマ 編】




シャットアウト。

エマがとるもとりあえず、自分を守る為に行ったのは、感情を麻痺させる事だった。
今、冷静さを失えば、もっと事態はどうしようもなくなる。
ただでさえ、然程、戦闘的な能力を有していない身の上で、こういう場に足を踏み入れると決めた以上、取り乱し、喚いて足を引っ張るなどという事は言語道断。

泣くも喚くも後悔も、全てが済んでから行えば良いと、今まで数々の修羅場に瀕した際に自分に厳しい姿勢を強いてきた。

感情を抱かない。

目の前の光景を、現実の物と見ない。

今やるべき事は、何か。
今は黒須さんを救う事。
人質に取られたまんまじゃ、何も話は進まない。

何が出来る?

考える。
血の匂いも、屍骸も目に入らないようにしてエマは考える。

自分自身の情の脆さや、命に対してその尊厳が如何に貴いかを理解しているからこそ、あえて取った手段だった。

だって、ここで、私が蹲ったって、誰が生き返ってくる訳でもないでしょう?
可哀想にと頭を撫でて、この状況から誰かが救ってくれる訳でもないでしょう?

道化師に人手がいると言われた時から覚悟はあった。
黒須さんに、友達だよって言った時から決めていた。

弱音は、死んでも吐かない。
自分で選んだ道だ。

取り乱してなんか、してやんない。

弱ったままの黒須を見つめる。

大丈夫。
このエマさんが来たからには、これ以上、Drに馬鹿な振る舞いなんか許しはしない。


「貴方にご立派な忠誠心があるなんて思えませんねぇ?」

幇禍が嘲るように言う。


そして、随分と彼に懐いているようだった、銀色の 髪をして天使のように羽の生えた少女を見下ろし、俯いたまま痛ましげに「…なんて事を」と呟いた。


とにかく、Drと会話をしたかった。
そこから、何か糸口がつかめるかもしれない。
観察している限り、精神力は然程強そうに見えないし、動揺を誘えば突破口を得られるかも知れない。
そう決心し、さて、第一声は何をくれてやろうと思案して、少し首を傾げたまま、口を噤んでいたエマは、漸くDrに相応しい台詞を思いつき、軽く口を開くと、「馬鹿じゃないの?」と呟いて肩を聳やかしながらツカツカとDrの傍に歩み寄った。

Drがこちらを目を見開いて眺めてくるのを無視し、倒れこんでいる黒須の目の前にしゃがみ込むと、その顔を覗きこみ、「黒須さん? 黒須さーん?! 意識ある? 大丈夫?」と、黒須に声を掛ける。

ピクリとも動かない様子に、少し不安を覚えて立ち上がると、腰に手を宛てながら皆の方を振り返り、「兎月原さん、ごめん、黒須さん運んであげてくれないかしら? どうも、もう立てそうにないの」と一番力がありそうな兎月原に頼み込んだ。

男性陣が一様にポカンと此方を眺めてくるので、「ん?」と不思議そうに眺め返しておく。

幇禍が慌てたように「あ、俺も手伝います」と言い傍に走り寄り、兎月原も黒須に駆け寄ってきてくれた。

漸く事態に気付いたように、「駄目でしゅ。 勝手な事しないで下しゃい!」と言い、キメラを差し向けるDr。

銃を構え、襲い掛かるキメラ達を撃ち落し、兎月原が薙ぎ払う最中、漸くDrに視線を向け、エマは「あ? いたの?」とまるで、今気付いたと言わんばかりに吐き捨てて「存在感ないんだから、そのまま、せめて黙ってじっとしててくれない? とっても邪魔なの」と、腰に手を宛てたままDrと対峙し、溜息を吐き出した。


「私達、こう見えても忙しいのよ」とまるで冷静な声で言うエマを、Drが信じられない生き物を見るような目で眺めてくる。

「フン」と鼻息を荒く吐き出すと、これ以上は、構っていられないと心底思い、また黒須に向き直り「もうじき、安全な場所まで運んであげるから、もう少しの辛抱よ?」と言いつつ、Drが着けたらしい、悪趣味な首輪を四苦八苦しながらも外してやった。

「…怖くないんでしゅか? 僕が」

Drが窺うような眼差しで問うてくるものだから、エマは心底意外な事を聞かれたというように唇の端を持ち上げ「怖い? 何が?」と囁く。

「あんたの何処が怖いの? 何を怖がれば良いの?」
エマは面倒臭そう答え、足元にいる黒須に躊躇いなく手を伸ばし、その血に濡れた髪を掻き分けた。

「…痛い?」

エマの問い掛けに黒須が霞んだ視線を返す。
ああ、意識は戻ってきたらしい。
とにかく、そこに安堵して、再び気絶状態になるのを防ぐ為、間断なく語り掛け続ける。

「どっか折れてる? というか、顔色から見るに、まず、血が足りてないのかしら?」
何か言おうとして、黒須が悲しげに眉を潜め、早口で「アホか、お前は…どっかそこら辺、隠れてろ…」と答えてくるもんだから「生意気な!」とエマは柳眉を逆立てると、首を傾げ、それから、その頭を「えい!」と掌で叩いた。

「そんな場合じゃないでしょ? 今の黒須さんなんかね、最悪よ。 なんか、もう脱皮後って感じ。 蛇が脱皮し終わった後の皮って感じ。 つまり、本体が別にあるんじゃね?位の、なんか弱り具合なのよ。 そんな人にね、気遣って貰うほど、私落ちぶれていないから、どーん!と頼りにしちゃいなさい」

そう言って安心させるように笑い、それから「…助けに来たよ」と優しい声で言う。

この男は、どうにも不憫な性分で、何しろ人の優しさっつうものに、飢えて、飢えて、一周回って過敏な程に臆病になってるらしいので、エマは、自分が出せる限りの声の中で、もっとも優しい声を選ぶ。

「私も、兎月原さんも、デリクさんも、幇禍さんも、みんな、みんな、黒須さんの事、助けに来たのよ」
エマの言葉がまるで痛いという風に顔を歪めた黒須に、「にっ…」と何だか、悪戯っぽい笑みを見せ「感謝してよ」と告げると、何とか自分で運べないかしら?と、その体を抱え起こそうとした。


「あんまり、舐めた真似しないで下しゃい…」

そう言いながら、Drが懐から銃を取り出し、エマの頭に突きつけるのを黒須が目を見開いて見上げる。

「やめろ」

震える声。

「こいつは…やめてくれ……」


黒須がそう懇願する最中、エマはポンポンと黒須の肩を叩き、大丈夫という風に笑いかけると、Drに視線を向けないままに「だから、別に怖かないって言ってんでしょ」と、冷たい声で答えた。

「あんたに殺されたりするもんか。 そんな鉛玉、私には当らない。 絶対にね」

そう挑発しつつ、素早く状況を判断し、そして、デリクに視線を送る。

空間を歪ませ、鉄壁の壁を作る事が出来ていたデリクだ。
銃弾を逸らす事位出来るだろうという、全くもって憶測のみでの判断だったが、「お願い」という懇願を視線に乗せれば、デリクは予想外!とばかりに、慌てふためく様子を見せた。

あの百戦錬磨を慌てさせた自分に「フフン」と満足すれば、「どうでしゅかね?」Drが引き金に指を掛け、銃弾を撃ち放してくる。

デリクは構えた両手の魔法陣が光を放ち、エマがいる方向に向かって、手を翳しながら「無茶をすル!!」と叫んでくる。

そもそも、ここに来る事事態、無茶・無理・無謀といったものだ。
命を懸ける位の覚悟を決めなきゃ、挙げられない成果もある。

それに…信じてたしね。
デリクさんの事。

デリクが、エマの周囲の空気を歪ませる。

「パン!」

Drが銃を撃ち放せども、デリクが空間を歪ませ軌道を変えたせいで、弾丸はエマを霞めただけに留まり、その瞬間打ち合わせたわけでもないのに、幇禍は走りこんで、発砲の反動に仰け反るDrの即頭部を殴り飛ばすと、同時に駆け出していた兎月原が強引に黒須の身柄を強奪し、抱きかかえて、一気に安全圏まで走り、運ぶ。


その間、僅か一秒足らず。

流石!!と唸り、即席メンバーながらも、そのコンビネーションに快哉をあげたくなるエマ。

吹っ飛ぶDrを見送りもせず、幇禍がエマの手を引き、皆の元へ連れて行ってくれて、エマは黒須の救出が成功した喜びに「えへえへ」と、ちょっと表情を緩めれば、デリクと幇禍に呆れたように見られてしまった。

「怖くないんですか?」と問う幇禍に、エマは即座に「怖くないわ。 だって、みんなの事信じてるもの」と、至極当然のように答える。

デリクが、少し怖い顔をして、「エマさン! 私が、気付かなかったラ、どうするつもりなんでス!」と怒ってくるも「でも、助けてくれるって分かってたし、決して無謀のつもりじゃなかったわ。 何とか、あいつの気を逸らさなきゃ、黒須さんの奪還は無理だったしね」と軽く答えておく。

勿論、ここまでの勝算を確かに見込んでいたわけじゃないが、どうも、慎重な性質のデリクには、まるで、計算通り!という風に振舞うのが、一番納得して貰えるだろうとエマは計算していた。
ダメ押しに、デリクににっこりと笑いかけて「ありがとう」と礼を述べる。

うっと、言葉を呑むデリクに背を向けて、黒須の元へと走っていく。

黒須の様子を覗き込めば、薬の影響か、意識混濁の状態に陥っているらしく、「…逃げ…ろ…早く…逃げろ…」と浮言めいた事を呟いていた。
「ヒュー、ヒュー」と発作を起こしているかのような不規則な呼吸が繰り返され、パニック症状の予兆である過呼吸状態にあるらしいと判断すると、黒須の瞼を捲って、その瞳孔を確認し、浮言を繰り返す黒須の頬を軽く叩いて、意識の明瞭化を図った。
「黒須さん? 黒須さーん? 大丈夫? しっかりして?」と冷静な声で呼びかけ続ける。

突如、手を高く上げ、もがく様にして暴れだす黒須。

「あぅっ! っあっ! ちく…しょうっ!! やめ…っ! 逃げろっ…!! 早くっ!!」

叫び、身を捩る黒須が何を見ているのか。

兎月原が、突然、その腕を掴み、押さえ込むと「キメラの事は、あんたのせいじゃない!!」と叫んだ。


ああ、この人、今、爆破されるキメラの幻を見ているのだ。

ふっと襲い掛かりそうになる、後悔や、悲しみや、憤りの嵐を息を詰めてやり過ごす。
共振し、自分までパニック状態になってはならないと戒めて、何度も何度も呼吸を繰り返して気持ちを落ち着けた。

兎月原が、自身の持つ魅力的で深く心に作用する声で「いいか? Drの言葉に惑わされるな!! あんたの為に、皆が犠牲になったんじゃないんだ! 皆、闘った!! 生きる為に! 抗った! あの人達は、精一杯生きた! あんたが悔いる事は何もない! 何もないんだ!!」と、必死に訴える。


罪悪感。


それが、黒須を苦しめるものの正体。

カッと目を見開いて、ぎゅっと兎月原の掌を掴み返す。


「…俺が…生まれて…来なければ…あいつら…」

そう囁く黒須は明らかに正気じゃなくて、エマは時折黒須を見ていると胸を突く、その「不憫」さに息を呑む。
兎月原が「…馬鹿じゃないのか?! そんな訳ないだろう」と即座に否定する言葉に同意しつつ、エマは黒須に顔を寄せ、「違うでしょう? 黒須さん、違うでしょう?」と訴える。


「ココに怖い事なんて何もないでしょ?」

耳に唇を寄せ、言い聞かせるような声音を直接吹き込むようにすれば、不意に黒須の体が静止した。

ああ、この男はやはり、何が真の恐怖かというのを、知っているのだ…と、また、不憫に思った。

「…そう。 怯えないで。 大丈夫。 私がいるよ。 皆もいるから。 大丈夫、怖いもんなんか、こんな場所に何もないわ。 阿呆な男が言った、阿呆な言葉、間に受けてどうすんのよ、しょうもない」

呆れたようにエマは言い、兎月原がそっと手を離せば黒須は一度両手で顔を覆い、それから唸るように「悪ぃ。 みっともねぇとこ見せた」と詫びる。

「いえいえ」とエマは軽く答え、兎月原が「落ち着いたか?」と聞けば、指の隙間からその顔を見返して、「エマはともかく、あんたが来るとは思わなかった…」と、黒須が掠れた声で言った。

お、私は助けに来ると思っていたわけ?と、なんか、軽く見られているような、信用して貰っているような、複雑な気持ちになりつつも、やはり、頭数に入れてもらってなかったと言うのは、それはそれでムッとくるものなのだろう。
「悪かったな。 来て」と兎月原が皮肉気に言う。
「いや…手数をかける」と黒須が言うので、エマと兎月原は一旦顔を見合わせて、それから「他人行儀なのよ」とエマは自分のハンカチを取り出し、黒須の顔に付着している血を拭ってやりながら、「ねぇ? 兎月原さん」と同意を求めた。

まぁ、ここに来るのを選んだのは自分でもあるし、その気持ちに「手数」も糞も何もない。

兎月原はシレっとした顔で、「ちゃんと、見返りは貰うから」と、至極当然のように言い、途端黒須が顔を顰め「うぇ…高いもんとかは無理だぞ?」と、情けない事を言った。

ううん、確かに、兎月原さんが強請るものって高く付きそう!と、エマもイメージのみながらも、かなり強い確信を持って黒須を気の毒に思う。


「状態ハ?」


突然、デリクがにゅっと顔を突き出して、エマにそう問いかけてきた。
エマは突然の問い掛けに驚きつつも、「薬のせいで、意識がまだ、はっきりとしてないみたい」と答えを返す。
「大丈夫…さっきみてぇな…酷い事には…ならねぇ……」と呻くように言い、「何の用だよ?」と黒須がデリクに質問した。
「教えて欲しいんデス。 覚えてる限りで良イ。 キーワードが欲しいんでスヨ。 Drの意識を私に集中させる言葉ヲ」
デリクの言葉にエマは首を傾げ、さて、この魔術師、今度はどんなお手並みを披露してくれるのやらと、少し楽しみにも思いつつ、「何をするつもりなの?」と問い掛けた。

「キメラの攻撃も鬱陶しいでスシ、逃げたところで、追跡は苛烈を極める事が予想されマス。 ですノデ、援軍を振り切る為ニ、Drを含む皆さんヲ、丸ごと空間を切り取って異空間を作り出し、キメラ王宮へと送り込むことにしまシタ」

そうシレっと凄い事を告げられて、思わすエマは目を白黒させてしまう。

そんな事、本当に可能なの? そう思えども、デリクはエマの戸惑いには頓着せず、「私としてハ、やはり、あの城に今いるウラの安否がどうしても気になりマスし、黒須サンがベイブさんに会う事さえ出来レバ、ベイブサンの状態の回復が見込まれるのであらバ、力を取り戻したベイブサンによって、Drを倒し、その上向こうに巣食っているチェシャ猫とかいう敵も、やっつけちゃおウ☆という一挙両得な展開が望ましいと思われるのデス」と、滔々と指を立てて説明する。
エマは思考を巡らせて、デリクの案のでデリット、デメリットを考慮する。

「確かに、それなら、一番今厳しい状態であり、崩壊すればこの世界への影響が大きいと予想されるお城の安全が、まず確保されるわね。 その後、デリクさんや、黒須さん、それに白雪嬢の力で、またメサイアに送り返して、総力戦で竜子ちゃん達が相対している、虎杰やキメラ達を一気に叩ければ、一番速やかに事態を収束出来るかもしれない…」

口にしつつも、確かに悪い提案ではないと納得すれば「ただ、ソレほど大掛かりな空間を作り出すには、どうしてモ、あのキメラ共の、小ウルサイ攻撃を、一時的にでもストップさせなけれバ、空気の乱れによって、力を安定させる事が難しくなりマス」と、デリクが、微妙な表情でそう告げる。

「キメラの意識系統自体、Drの支配下にあるようだから、Drの意識を自分に集中させる言葉が知りたい…そういうことで良いのか?」と、兎月原がデリクに問い、確かにキメラ達に、自分の意思などあるように、今の状態では見受けられないとエマも気付くと、兎月原の観察眼に感嘆した。

デリクは兎月原の問い掛けに、満足げに頷いて、「エエ。 まったくその通りデス」と答えると、「如何でス?」と黒須に聞けば、「ちょっと…待て…思い出すから…」と眉を顰めて呻いた。
そんな黒須にデリクは心からの声で、「そもそモ…黒須さんみたいな人間ニ、Drがこだわってること自体が異常なんデス。 美醜の判断は、キメラを好む異常性が見られるモノノ、極一般の感覚を有しているヨウですし、わざわざ、黒須さんのヨウな人に、執着する理由と言えば、貴方が、あのDrと交わした、会話にしか求められまセン」と、かなり酷い事を述べる。

ただ、エマも、それは頷かざる得ない説得力に満ちていて、黒須自身も、デリクの言葉に、顔を顰めて見せはすれども、取り立てて反論をする事はなかった。


一体、黒須はDrに何を言って、こんな目に合う羽目に陥ったのだろうと興味深く思っていると、ふと背後を振り返ったデリクが、兎月原の肩をぽんと叩き、「何か、一人で大変そうなので、是非、駆けつけてあげて下さい」と言いつつ、幇禍を指差してくる。

そういえば、デリクがここにいるという事は、幇禍が今は孤軍奮闘状態にあるという事に他ならない。
大丈夫なのかしら?と振り返れば、流石というべきか、三面六臂の活躍を見せてはいるが、それにしたって、敵の数が多すぎる。
むしろ、ここまで、防衛ラインを死守してくれてたことに驚嘆しつつ、兎月原も前線に復帰し、エマは心の中で「デリクさんが良い策練り上げるまで、もう少しがんばって!」と心の奥底から応援した。

デリクがヒラヒラと兎月原を手を振って見送った後、黒須が思案の果てに口にした言葉は、「薬や後ろ盾がなければ、誰とも口も利けないような分際で」「耳が腐る」「吐き気がする」「気持ち悪い」といった、確かにかなりキツイ台詞。
あの手の人間は、自分の内面に踏み込む侮辱を行った相手に、強く執着する傾向がある。
自分の優位性や権力を相手に嫌という程思い知らせ、自分の言動を後悔させる事に全力を尽くす、人間の器の小ささが既に透けて見えていた。

この台詞から導き出されるキーワードが、彼の弱点、致命傷となり得る筈だ。

しかし、まぁ、中々……。

エマは、その台詞の数々の痛快さに、思わず微笑み「…へぇ…そんな事、Drに言っちゃったの」と揶揄する。
それでも、やはり、囚われの身で、そんな態度は不味かろうと、「馬鹿ね。 捕まってる立場なのに、黒須さん、わざわざ相手の神経逆撫でしちゃって」と呆れたように指を指せば、「カッとなったんだよ」と黒須が言い、やはり冷静さこそが、窮地の際には必要なのよね…と自分自身にも言い聞かせた。

「そう言われた後、Drはどうなりましタ?」とデリクに問われ、黒須は思い出したくないように、顔を顰めつつ、それでも掠れた声で「一緒に連れてきた、キメラの女をぶっ殺しちまったよ。 ヒステリーみたいな状態になってな…」と苦しげに言う。
エマが、無表情に「Drって、聞けば聞くほど最悪ね」と呟くが、デリクは「女性連れだったんデスカ?!」と別の所に意外な反応を示した。

その答えの、何が彼に琴線に触れたというのだろう?

エマとデリク、得ている情報に然程の差異はないだろうに、デリクは、もう既に何某かの真実を見出しているらしい。

デリクが勢い込んで問うて来る姿にびっくりしたように黒須は身を引けど「おお、なんか、えらく色っぺー、狐のキメラ女連れてたよ。 『狐ちゃん』とか呼んでな」と言う。
所謂、キメラの愛人という奴だろうか?
とはいえ、こんな場所に連れて来られ、脅され、人間でない姿にされて、生きてく為の処世術であったのだろうと思うと、エマはその女性に対しても気の毒が募ってしまう。

ニヤリとデリクは唇を緩ませた。

「ありがとうございマシタ」

不敵な笑み。
さて、どうするつもりよ…と、黒須の言葉から、さしたる真実等掴めなかった事に、なんだか悔しい気持ちになりつつも、名探偵とDrに揶揄された、デリクの弁舌を、拝聴する時を待つことにした。

デリクが再び前線に立つのを見送り、膝を抱えてしゃがみ込むと、キメラ達との攻防の最中些か呑気だと自覚せずにはいられぬ声で、「ねぇねぇ、私が助けに来る事は、分ってたって事は、他に誰が来るとかって、考えた?」と聞いてみる。
そこそこ付き合いは長いのだが、この男が一体誰を頼りにしたり、気を許しているのかとか、そういう人間関係がさっぱり見えてこないものだから、好奇心にかられて聞いてみる。

「…いっとくけどな」
半眼になった黒須に、「何よ?」と聞き返せば「お前が無茶したり、敵に突っ込んでくのは、俺は全然ありがたがってねぇからな」と言ってきた。
どうも、さっきのDrとのやりとりを指しているらしい。
「虎穴に入らずんば虎穴を得ずよ」と言い返せば、「旦那には何て言って来たんだよ?」と問われる。
「旦那…って…」と一瞬絶句してそれから「ちゃんと、友達がピンチだから助けに行くって言ってきました。 ていうか、ここに皆で潜入できたの、武彦さんの協力のお陰でもあるんだから、ちゃんとお礼言っておいてよね?」と伝えておく。
「まぁた、世話かけちまったか…」と呟いて、「まぁ、あの人、人の世話焼くのが趣味みたいなもんだから」とエマが苦笑すれば、黒須が「似たもの夫婦って訳だな」と言った。

似たもの……?

首を傾げ、「え? 私はそんな世話焼きじゃないわよ」と言えば、黒須は少し黙り込み、それから「…自分の事は、自分では分からないもんなんんだなぁ」と何かムカつく声で独白する。
この野郎、助けにきてやったのに!!とちょっとひっかいてやろうかしら?と手をシャキーンと猫の手にした瞬間、「んで? お前はなんかないの?」と聞かれてしまった。

「ん?」

「あいつじゃねぇけど、見返りとか」

兎月原を指差して言う黒須に「お? 何でも良いの?」と身を乗り出す。
「う…。 高いもんじゃなかったらな?」と黒須がちょっと怯んだ様子で言うので、エマはにこりと笑いかけ「あのね、ずーっと前から気になってたんだけど…黒須さんの牙の毒が、ちょっと欲しいかなー?ってね」と言いつつ人差し指を立てた。
「成分とか研究してみたいし、具体的にどういう効果があるのか知りたいのよ」
そうエマが訴えれば、黒須は何とも気の抜けた顔をして「…そんなんで良いなら」と了承してくれる。
わぁい!と喜んでみせるエマに「ふっつうさぁ、年頃の女なら、なんか、服とか? 鞄とか? そういうのを欲しがるんじゃねぇの? 色気ねぇ」と黒須が呆れたように言い、エマは「そういうのはね? 武彦さんが、いつか、凄く大きなお仕事をこなして、たくさん報酬を貰った時に、おねだりするって決めてんの」とニコニコしながら言えば、黒須は、不意に黙り込み、じっとエマの顔を見つめて、それからまた不意にニヤリと笑うと「んじゃ、一生、お前男にそういうモンを強請れる機会はないだろうな」といって、「ヒヒヒ」と意地悪く笑った。

くそう、いちいちムカツク男ね!!

何か文句を言ってやろうと口を開きかけるエマの耳に、「Dr!! Dr!!」とデリクがDrに呼びかける声が聞こえる。


いよいよ始まるらしい。

エマが、不測の事態に備えられるよう、黒須を背に庇うようにして立ち上がる。

無造作に血の海を歩き、キメラの攻撃を潜り抜けながら「少しの間だけ、お話させて貰って宜しいでしょうカ?」と声を掛けるデリクを油断ならない目で見据え、Drは首を振り、キメラに更なる猛攻を命じた。
「そんな、ツレない事を仰らずにネ?」と言えども、Drにしてみても、デリクがかなりの曲者である事は察せられているのだろう。
下手に口を聞こうものなら、相手のペースに乗せられる事を恐れてか、口を噤んだまま、頑なな調子で此方を見ようともしない。

エマに出し抜かれ、黒須を奪われた事を教訓にしているのだろう。
中々厄介な状態だとエマが思えども、デリクはこういった状況は十八番なのか、まさに詐欺師の如き弁舌で持って「まぁ、貴方ガそういう態度を見せるのも無理はありませン。 今は敵対関係にある間柄、ここで警戒を解くようであれば、貴方も裏組織のNo2になぞ、上り詰める事は叶わなかったでしょウ。 流石というべきでしょうカ?」と相手に理解を示してみせる。
その間も影に潜む獣は、キメラを食い殺してはいたが、今はその宿主が別の事に意識を向けているせいか、デリクには次々と鋭いキメラの爪の切り傷が付けられ始め、兎月原が、身を屈めデリクの傍にすぐ寄り添うと、その攻撃から身を挺すようにして守れば、幇禍も、デリクに協力すべく、彼周辺のキメラを撃ち落す事に集中し始めた。
デリクは、二人の守護を受け、両手を広げると、ゆっくりと言葉に力をこめるようにしてDrに向かって演説を始めた。

「されど、同時に、Dr、私は不思議でならないのデス。 貴方、有能だからこそ、組織を一気に上り詰めタ。 キメラ開発。 素晴らしい術でス。 これは、然るべき場所で発表すれば、世界は震撼せざる得なイ。 まさに、天才。 ええ、そう呼ばせて頂きたイ。 貴方は、天才でス。 だが、何故、この裏社会の組織に、その才能を虎杰ノ為に使っているのでス? もっと、日の目の見れる場所で、その力を振るう事とて出来たであろうニ…。 その理由ハ?」

デリクの問い掛けに、Drが目を細める。

「何が狙いでしゅ?」
デリクは笑い「狙イ? いえ、純粋にお伺いしたいだけデス。 なにぶん、好奇心旺盛な性質でしテ」と答えた。
Drは暫し逡巡し、そして「そうでしゅね。 忠誠心等と言っても…そちらの人には否定されてしましましたしね…」と言いつつ、幇禍に視線を送ると、不意に笑ったまま「ねぇ、じゃあ、逆に聞きたいんでしゅけどね…? 貴方はいましゅか? その人の為ならば、何だってしてやれる位、大事な人が」と質問した。

幇禍は然程間を空けず「ええ」と一度頷く。
にたりとDrは笑い、エマに目を向け「貴女には?」と問いかけてくる。
エマは、質問の意図を図りかねつつも、コクリと頷き、兎月原も「貴方は?」と問われて頷いていた。
Drは再びデリクに向き直り、「いましゅか?」と端的に問うた。
デリクは迷う様子もなく「ええ、大事な大事な可愛い人が、私にはいまス」と笑って答える。

パチパチパチと手を叩き、Drは「素敵でしゅね」と笑うと、「僕も一緒でしゅ」と肩を竦めた。

「世界を滅ぼしたって構わない。 どうしたって、守ってやりたい子が僕にはいた。 その子の夢をかなえる為に、僕は虎杰の元にいる。 それだけの話でしゅ」
そう言い、そして、虚ろに笑う。
「邪魔をしないで下しゃいとは言えましぇん。 敵の多い道である事など、とうに分かっていましたから。 覚悟なんか、ずっと前に定まっておりました。 野望っていうのは、そういうものでしょう? 覚悟を決めて、望むもの。 人を人と思わぬ事で、ここまで生きてきたんでしゅ。 今更、何の後悔もありましぇん。 正義の味方を気取って、僕を討ちにきたのなら、物語のように、正しい者が、最後立っていられるとは限らないという事を思い知って下しゃい。 僕は、あのお城を虎杰が手に入れる為ならば何だって出来ましゅ。 そう、何だって…」


Drの言葉にエマは、大事な人とやらが、虎杰の事を示している訳ではない事を悟ると、では一体誰の為にと思案を巡らせた。


この物語に関わるもの。
Dr、虎杰と同じ立場にある存在。


「子? ですカ? つまり、貴方よりも、年下の存在ですよネ? その大事な人とやらハ」

デリクが探るように、問い掛けて、そして笑った。

「貴方、チェシャ猫とどういうご関係デ?」

Drは、「余り、頭が回ると、他の人間が全部馬鹿に見えて、世の中つまらなくないでしゅか?」とデリクに問い掛ける。
デリクはひらひらと手を振って「イエイエ、私など、浅薄極まりない身の上。 他の方々から学ぶ事ばかりデ、貴方のようにはとてモ、とてモ」と、軽い笑みを浮かべて否定する。

「ただ…他にいないんでス。 貴方ガ、今現在、大事なと表現するに相応しい、この物語の登場人物ガ。 貴方ガ、虎杰に人質を取られ、無理矢理キメラ開発を…という訳でもなク、私達が知り得ない重要な人物がいるという事モ、あの白雪さんから情報を得ている現状では有り得ませン。 お城を望む事自体、チェシャ猫さんからの差し金だとするのなら、全て納得が行ク」

白雪の名に訝しげに首を傾げる幇禍に、そうか彼は白雪嬢とは会った事なかったっけ?と、こそっとエマが「王宮にいる、鏡の化身の女の子よ。 世界の何もかもを見通す力を持っていて、こっちの世界と、王宮を繋ぐ事も出来るみたい」と教えておけば、幇禍は嬉しげに「ありがとうございます」と礼を述べてきた。

そんな様子を見て、満足する自分の性質を鑑み、「ううん…やっぱ私って世話焼きなのかしら…」と黒須の言葉を認めざる得なくなる。

デリクが、目を細め「チェシャ猫さんは、貴方のご血縁関係にある方デスカ?」と不穏な声音で囁いた。

エマは息を呑み、デリクが暴く真実に聞き入りながら、同時に彼らの攻撃の手が弱まりつつあるのを見て取った。
Drの意識がデリクに集中し始めていた。

「何故、そう思うでしゅ?」

Drが愉しげにデリクに問う。
「恋人か、それこそ、妻かも知れないじゃないでしゅか」
Drが揶揄するように言えば「男というのは、然程一途な生き物ではないという事は存じ上げてはいるのデスが、『狐さん』でしたッケ? 黒須さんからお聞きしまシタ。 前のお気に入りのキメラ。 随分と美しい女性だったようデ。 大事だの、世界を滅ぼせるだノ、それ程覚悟を決めさせる程に一途に想う女性がイテ、果たしてそういうキメラを自分に侍らせるでしょうカ? それは、余りに不義が過ぎるというモノ」とデリクがシレっと答える。
「ならば、友人関係にある人かとも考えたのですガ友ならば『子』等と、目下のものに使う形容を使わず、『人』と対当の表現を使う筈。 チェシャ猫さんが大事な人であると仮定シテ、友でもなく恋人や妻でもないとするならば、家族…あなたは子持ちにはとても見えませんし、そうですネ…チェシャ猫さんは、貴方の妹さんと見るのが妥当と思ったのですガ、如何ですかネェ?」
つらつらと並べ立てた言葉の数々。
デリクが微笑み、Drに問い掛ければ、「正解でしゅ…」と溜息混じりに答える。
黒須から引き出した情報とあわせて、そこまで推測できるとは…と舌を巻けば、Drも呆れたように「うかうかと、君と喋っていると、どんな隠し事すら暴かれてしまいそうでしゅね」と感嘆した。

「妹さんの為ニ、キメラヲ? チェシャ猫さんは、何かご病気でも患っていらしたのデ?」

更に突っ込んだ問い掛けに、Drは「…本当に嫌な、探偵でしゅ」と小さく呻く。

「だっテ、何か重大な切っ掛けがなければ、キメラ等という分野に、そうそう手を出しはしないでしょウ? チェシャ猫と呼ばれている事から鑑みても、人間の貴方の妹さんに、既に猫と合成するキメラ化手術が施されていると見るのが当然でス。 大事な、大事な妹さんに、そのような所業を施す理由があるならば、唯一ツ。 他の生き物の生命力を借りて、その命を生き長らえさせるしかなかッタ。 これ以外に、有り得ませン」

流れるように喋り続けるデリク。
いつしかキメラ達が、その動きを止めている。
デリクの指先が微かに揺らめき、掌の陣が微かな光を放っていた。

「妹さんの命を救う為、キメラ開発に手を染めた貴方ガ、何故、あの城に辿り着いたのカ?」
「…願いを」

「ハイ?」

デリクは笑って問い返す。

「願いを、叶えてもらう為でしゅ。 何百年前になるでしゅかね…。 時の止ったお城。 あの城に迷い込み、僕は願った」

「キメラ開発の成功ヲ?」

「そうでしゅ」

確かにベイブは、迷い込んだ人間の願いを叶えるような、そんな酔狂な事をやっていた。
随分前は、余り性質の良い主ではなかったという事も知っている。

叶えたのだろう。
ロクでもないDrのロクでもない願いを。

「どうしても巧くいかなかった。 当時の医療設備は、今よりもずっと劣っていて、頭で組み立てた論理を成功させる為に必要な物等、どうあったって揃わなかった」

「材料はどうデス?」

デリクは問う。
「実験の為の材料は?」

「それは、すぐに手に入れられました。 あの時代の闇は今よりずっと深かったのでしゅ。 夜闇に身を紛らせて、随分攫わせて頂きました」

事も無げに言うDrの言葉の意味を察すると、「あんた…人を攫って、キメラの実験を繰り返していたのか…」と兎月原は掠れた声で問う。

「いつから…狂ってたんだ…。 どの位の間、狂ってるんだ…」

人間は、どれ程の間狂人の状態のまま生きていられるというのだろう。


「言ったでしょう? 何百年も前に、お城に辿り着いたって。 その前からずっとでしゅ。 妹を、チェシャ猫ちゃんにしてあげて、お城で毎日愉しく暮しました。 あの頃のベイブはサイコーだった。 ずっと一緒に狂っていられた。 ねぇ? 蛇ちゃん。 お前が、ベイブと出会うまではね…」


黒須が自分の名を呼ばれた事に反応を見せゆっくりと顔を上げる。

「ああ…。 お前…まさか…ハンプティか……?」

そう途切れ途切れに問う黒須に「そう。 やっと、分かって貰えましたか。 とはいえ、顔を合わせることは一度もありましぇんでしたからねぇ…。 そうです、お前が現れる事によって、哀れにも城を追い出された、ハンプティでしゅ」とDrは震える声で答えた。

どうやら、会話で黒須に痛い所を突かれて執着したという以上に、何か因縁がある間柄らしい。

「どんな手段を使ったのやら、蛇ちゃんに会ってからというものベイブの狂気の所業はなりを顰め、深層と表層を逆転させて、僕は王宮の鍵を取り上げられ、こんな糞溜めみたいな世界に放り出された!! 浦島太郎より惨めな立場でした! 何もかも、変わり果てたこの世界で、妹とも引き離され、何処へ行く宛てもなく彷徨っていた、そんな僕を拾ってくれたのがボスでしゅ!!」
 
ヒステリックな声に兎月原は顔を顰めた。
幇禍が冷たい声で「人情モノですか?」と、Drの興奮に水を差す。

「反吐が出そうな話だ。 悪党っていうのは、悪党同士引き合うものなんでしょうか? 本当にロクでもない」
兎月原が吐き捨てるような声で言えども「何とでも好きに言えばいいでしゅ」Drはじっとりとした目で、デリクを凝視しながら平然とした声で答える。

彼の意識が今、デリクに集中している事は、見ているだけでも察せられた。

「僕には理由がある。 守りたい人もいる。 報いるべき恩がある。 立ち止まる術はない。 そういう事でしゅよ、探偵さん?」

Drの言葉に、デリクは高らかに笑った。

「止める術? そのようなもノ! 別段、私、貴方を言葉で止めるつもりはサラサラないんでス!」

にいいと唇を裂いて、デリクは言った。

「むしロ…そう…ご忠告申し上げたかっタ。 恩に報いる等とは申してますガ、貴方、そんな風に感謝する必要性ハあるのですカ? 信頼に値する程、ボスとやらは、貴方との絆がおありになる人なノですカ? キメラの援軍が一向に来ないのは何ででス? 貴方、もう、見捨てられているんじゃないですカ?」

Drが目を見開いたまま、デリクを眺める。
エマも、デリクの意図に添うように、冷たい声を作り出し「確かに、大事な商品であるキメラをこんな風に滅茶苦茶にして、組織にとって、貴方の価値が、今、どれ程あるのか疑問だわ?」とシレっとした声で告げた。 

実際、落札商品(この表現には胸が痛むのだが…)までも破損させた事により、彼の利用価値が未だ、組織内で在るとは考え難い。
それに、オークション会場で受けた虎杰の印象だと、キメラ自体に彼は然程の興味を持っているようには思えなかった。
異形たちの住まう城を望むからこそ、異形を身の回りに置きたかったのかとも思ったのだが、城がもうじき手に入ると思い込んでいるであろうこの段階で、Drの造る人工の不自然なキメラが、王宮の住人達の魅力に勝るとは思い難いし、Drはもう、虎杰にとって不必要な存在に成り下がっている事実は間違いないだろう。
その不安を本人も抱いている筈と見越して、言い放ったエマの言葉にデリクも頷き、「気持ちの悪い、化け物。 何百年生きましタ? その、狂気を引きずっテ。 貴方 なんか ダレも 好きにならなイ。 だって、喋ってイテも、吐き気がするんだモノ」と、黒須から引き出した言葉を交えつつ、辛辣な言葉を投げ掛ける。


笑いながら、冷酷に。
Drの心を最高に傷付けるべく、デリクが言葉を刃に変えてDrを抉る。



「孤独だったでしょウ? この世界で生きるのハ。 これからモ 一人ぼっちでス。 かわいそうニ。 だから、どうぞ、一人で死んで下さイ。 死んで下さイ。 死んで下さい」

冷たい声で繰り返す。
Drの目が何度も何度も瞬いて、その体が小さく震えだした。

「い…やだ…」と子供のような声で言うのを聞いて、にんまりとデリクは笑うと、「こんなに寂しい思いをする位なら いっそ 生まれてこなきゃ よかったのにね」と、トドメを刺すかの如く穏やかに告げる。



キーワードは、一人ぼっち。


誰だって一人は寂しい。

孤独には耐えられない。


それが悪党であろうとも、人である限り。


キメラ達の攻撃が完全に止った。
デリクがゆっくりとDrに歩み寄る。
「虎杰にも裏切られて、何処にも、もう行き場所はないでしょう?」
Drの間近で、身を屈めてゆっくりと囁く。

「さ よ う な ラ」


まるで、何かの呪文のように、デリクは言い、その凶暴な影が、もぞりと身じろぎする。

その瞬間、Drが跳ね上げるようにデリクを見上げた。

「お前がね?」


「っ!」


突然、デリクの顔面に向かって、Drが試験管に入った薬液を浴びせかけてきた。

エマは、思考するより早く、咄嗟に声なき声を発し、薬液にぶつけて、四散させる。
薬液の飛沫が、デリクの咄嗟に顔を庇った腕や、服に飛び散り、ジュウッと嫌な臭いをさせて穴を開ける。

(強酸…!!)

薬液の正体に思い至れば、視界の端で幇禍が、素早くDrの額に照準を合わせるのが見えた。
だが、Drは、それを牽制するように、黒い小さな球体を投げつける。

闇雲に危険な予感を察知し、焦って幇禍に視線を送れば、彼は驚異的な反射神経でもって、足を振り上げ爪先で、その球体を蹴り返す。

黒い球体は、幇禍の蹴りを受けて猛スピードで空中を飛んでいく途中で、パン!!!と花火のはじけるような音を立てて爆発した。

球体の大きさの割りに、かなりの威力と見られる爆風がその場にいる人間の髪を煽り、空中に飛んでいるキメラを何匹が撃墜させた。

エマは、咄嗟に庇うように、黒須の上に覆いかぶさる。
「っ!!」
身じろぎする黒須を落ち着けるために、トントンとその肩を叩いてやり、爆風が治まる頃に身を起こせば、眉を顰めて「アホ」と罵られてしまった。
「なんでよ」とエマが唸れば、「庇われなくても、俺は無闇矢鱈に丈夫だから、お前は自分の身を守る事に専念しとけ」と言われてしまい、その生意気な口調に、「えーえー、じゃあ、今度は、何があっても、もう庇ってあげない!」とエマは言い返した。


「大丈夫か?!」

兎月原に、安全圏まで引っ張られ、問われたデリクが頷いて、「…最後の一言が余計でしタ」と言いつつ眉を潜めた。
「最後の一言?」と訝しげに兎月原が問えば、少しだけ悔しげに「つまリ、私が探り当てた関係性に加えテ、まだ、何かDrと虎杰の関係性にハ、Drを疑心暗鬼に至らせる事のなイ、強固な繋がりがあったという事デス」とデリクが言う。

そんなデリクに、Drが勝ち誇ったように告げる。

「探偵しゃん! 良い事を教えてあげましょう!!」

デリクが首を傾げた。

「まだ、見落としがありましゅ。 まだ、辿り着いてない場所がある。 虎杰は、僕を裏切らない! 僕は、絶対に一人にはならない!!」

デリクが、目を細め、そして、ぶつぶつと自分の思考が、そのまま漏れ出ているかのように何事かを呟く。

「Drハ…チェシャ猫と兄妹の関係にあリ…虎杰と…Drは、組織の上司と…部下…関係…ならバ……チェシャ猫と、虎杰の関係ハ?」

キメラが再び攻撃を開始する。

兎月原と幇禍は身構え、エマも再び黒須を庇いつつ立ち上がった。
だが、デリクは不意に顔を上げ、「ああ…すいませン。 夢中になっちゃいましタ!」と軽い声で言う。

その言葉の意味を掴みかねて、エマが視線を向ければ、デリクは両手の痣を翳し「もう、とっくに準備は出来てるんでス。 ただ、気になる事も色々あったシ、お喋りが愉しくなっちゃっテ」と言いながら、ピンと片手を挙げて人差し指を立てた。

時間稼ぎかと思われた、あの弁舌も、何もかも、全くのデリクの興味追求の為の時間だったと知り、思わずエマは脱力する。

「「「ええー…?」」」と疑問符をあげる三人に首を巡らせ、それから誤魔化すように笑いつつ、「兎月原さん! 黒須さんを、出来るだけ私の傍ニ!! 皆さんも、集まっテ!」と声をあげる。
兎月原が、何が何だか…という顔を隠さずに、とりあえず黒須の傍に駆け寄った。
心臓を刺し貫いていた針は抜き去った甲斐もあり、暫く落ち着かせていたからか、それとも下半身蛇の形態を保つ気力すら、最早失われたのか、黒須は人間の姿に戻っている。
そんな黒須を見下ろして、それから、物凄く、ものすごおおおおおく逡巡した後に「ええい! 止むを得まい!!」と断腸の声を上げ、自分のスーツの上着を被せてやると、「これは、髪の長い女性。 これは、髪の長い女性」と虚ろな目をして自分に言い聞かせるように呟き、黒須の体を抱き上げた。

「う…あ!! ちょ!! 痛ぇっ!! というか、何?!! これ?!! 何か、心も激痛!!!」
「うるさい!! 黙れ!! こちらだって不本意だ!! 本来、この運び方は、女性をベッドに運ぶ時限定なんだよ!!」
そう馬鹿な怒鳴り合いをしつつ、傷への負担を考えてだろう、通称お姫様だっこと呼ばれる抱き上げ方をして、傍によってくる兎月原に、なんか、物凄い嘘っぽい涙ぐみ方をしつつ「…兎月原さんノ…勇気に乾杯!」とデリクが親指を立てる。
この流れに私がが乗らない筈がない!とばかりに「…貴方の犠牲、忘れないわ……」とエマは言い、幇禍も「この苦しみに耐えればっ!!! 良いことがきっとあるからっ! 神様が見てますからっ!!」と必死に、兎月原を勇気付け、そのそれぞれに「ありがとう!! みんな、応援ありがとう!!」と答える姿を疲れたような目で見上げ、「なぁ…俺って…何…?」と悲しい声で黒須が問い掛ける。
その瞬間、待ってましたとエマは目を輝かせ、「そうね…黒須さんは言うなれば…」とイキイキした声で、黒須にとって致命傷になる必殺の一撃を言葉に変えて並べ立てようとした。
毎度お馴染みの、スーパーエマ★タイムに、長い付き合いもあってか「いや、良いです。 もう、結構です。 お腹がはち切れそうです」と即座に黒須はエマを制止し、片手を挙げたままだったデリクが、ブルブルと腕を震わせながら「漫才コーナーは終了ですカ? もう、私、手が大変疲れテ、かなり痙攣!! 上げっ放しは、しんどいデス!」と、自分の苦境を訴える。
「ああ…コーナー化が定着しつつある…」と恐れるような声で呟く黒須にエマが祝☆コーナー・レギュラー化の意思を込めて無表情に、ブイサインして見せつつ、「じゃあ、やっちゃって!! デリクさん!!」と声を掛け、「アイアイサー!」とデリクは返事をすると上げたままの手を勢いよく振り下ろした。

その瞬間、指の軌跡に添うように、空間が切り裂かれる。

「っ! ちょっとばかり無理しまス!! 巧くいかなかったラ、ごめんなさイ☆」と、かなり不安になる発言をかまされて、エマの背中に鳥肌が立つ。
デリクが作り出した異空間の裂け目が皆を飲み込む寸前に、何気ない調子で、彼は黒須に尋ねた。





「ところで、黒須さン。 王宮の住人ト、この世界の人間ガ、お互いに恋に落チ、想い合う等とイう事は、可能なのでしょうカ?」


黒須が、兎月原に抱きかかえられたまま、何か答えようとした瞬間、エマの体は異空間の渦の中に放り出されていた。





浮遊感に身を委ね、エマはぼんやりと意識に隙間を作ると、途端に雪崩を打ちそうな死んだキメラへの感情をシャットアウトし続ける。


泣くだろうか?

私は全てが終わったら。

喚くだろうか?

武彦さんの胸の中で。


考えた後首を振る。

半ば強引に、我が儘のようにして、ここにくるのを許してもらった。


この件で溜め込んだ心の澱を、武彦に吐き出すまでの甘えを、エマは自分に許したくなかった。

ただ、美味しい料理を作ってあげたいと無性に思った。
武彦の好物を無心になって作りたいような、そんな気がしてしょうがなかった。


不意にエマの耳に、デリクが、「ア! スイマセーン! 若干目測を誤りましタ!! 予想外ニ、何か、高いデス!! 高いデスー!!」と呼びかける声が飛び込んできた。

高いって、まぁ、でもそんな、私に対して呑気に注意できるくらいだし、ぎょっとする程高いって事は……と思いつつ渦から飛び出し速攻エマは、超ぎょっとしつつ「うん! これは高いね☆」と思わず親指を立てたい気分になるって言うか、マジ高い。

「っ!! 高っ!!! 本当に予想外に高っ!! ていうか!! ちょっと、これっ!!! 誰か?! 誰かぁぁぁぁぁ?!!」と叫びつつ、一瞬空中で無駄になんか、漫画みたいに足掻いてみるも、ニュートンが法則を発見してくれやがった重力の力に引っ張られ、エマは為す術もなく落下する。

上空から、「ええええぇぇぇえ?!!! 高すぎない?! これ、高すぎない?!」と喚く兎月原の声が聞こえるが、彼はなんか、イメージ的にもシュタッ!て感じで見事な着地を披露する事も出来そうだが、エマにはそんな事、絶対無理なわけで、「ひあああ!!」と悲鳴をあげつつ落ちている所を、極彩色の羽を広げて飛ぶ何者かに抱えられて救われた。

見れば、兎月原も羽の生えた白い虎に腰の辺りの布を加えられて浮かんでおり、とにかく助かった事に安堵する。

だが、一息ついたその瞬間、眼下に広がるのはウェイトレスとして潜入したオークション会場でもある「背徳」で、「え? お城に送ってくれるんじゃなかったっけ?」と戸惑いつつ見上げれば、自分を救ってくれたのは薔薇姫として潜入していた蘇鼓である事に目を剥いた。
「蘇鼓さん?! え?! 何?! ちょっ、ここは?! 千年王宮じゃないの?! ていうか、デリクさん?! デリークさーん?!」
そう呼ばわりつつも首を巡らせれば曜や嵐、竜子の姿が目に入り(次いでに見たくなかったが、ここもキメラの群れで溢れており、そのキメラを率いている虎杰の姿も目に付いた)一体これはどういう事なんだろう?と首を捻る。

そんなエマから若干視線を逸らしつつ、デリクは、テヘッ☆と舌を出して笑い掛けると「スイマセーン! ベイブさんに、私が向こうに向かおうとしているのがバレて、邪魔されちゃいましタ」と、爽やか口調で朗らかに言い放った。

エマは「バレたって…」と一度絶句する。


邪魔 された だとお??!!


あのトンチキ王様め!!!!


千年王宮に住まうベイブとデリク、そういや天敵と言っても良い間柄で、とくにベイブはデリクに会う事すらご法度だったと思い出しつつ、地団駄を踏みたい気持ちになる。

こちとら助けにいってやろうつってんのに、それを妨害するなんて、ほんっと、何考えてるんだか!!と憤りながらも、口にし出すと、とめどもなくなりそうなので、それ以上は何も言わず、自分を助けてくれた蘇鼓を見上げ「助かったわ…ありがとう」と疲れた声で礼を述べた。

「どーいたしましてっ!」と、飄々とした返事を返しつつ、蘇鼓がエマを床に降ろせば、タッタッタと猪めいた速度で突進してくる気配を感じる。
エマが気配の方向に向き直ると、案の定そこには竜子がいて、咄嗟に両手を広げ、飛び込んでくるその体を抱きしめた。

「っ!! 姐さんっ!!」

竜子の言葉に「だから、姐さん呼びはやめなさいっって!」と突っ込みつつも、金色の髪に頬を摺り寄せ、エマはぎゅっとその体を抱きしめる。

この様子だと元気そうだ。
それが何より嬉しくて、「大丈夫? 怪我はない?」と問えば、うんうんと頷いて「姐さん達は?!」と竜子が問い返してくる。
中々、皆疲れも溜まり、至る所にエマも含めて傷を負ってはいるが、それはきっと竜子達も同じ事。
「大丈夫よ」と笑い返して、周りを見回す。

他の三人もどうやら無事だ。

「嵐君も、曜ちゃんも元気そうで安心した。 それに、蘇鼓さんもね?」
エマの呼びかけに、それぞれ頷き、蘇鼓が「ていうか、てめぇらどうして突然ここに?」と問い掛けてくる。
「えーとですネ…」
そう言いながら、蘇鼓の問い掛けに、エマより先に、デリクは口を開く。
「まず、初めまして…で宜しいですよネ? えーと、蘇鼓さン?」
そうデリクが声を掛けたのは、やはり、その容貌が見れば見るほど、幇禍にそっくりだったからだろう。

エマも今日気付いたばかりだが、それにしたって似すぎていて、何だか、初対面じゃないのに、違和感を感じずにはいられなかった。


「ソレに…嵐さンと、曜さんモ…薔薇姫姿の時には、此方から一方的に拝見させていただいてはおりますガ…ご挨拶は初めてさせて頂きマス」とデリクが頭を下げつつも、自己紹介などしあっている状況でないのは確かであって、このフロアにも、所狭しと、キメラが暴れ回っている状況だ。
些かうんざりする気持ちを抑えきれないながらも、味方が増えたのは喜ばしい限りで、多分陰陽師である曜が使役しているのだろう。
敵キメラ達に勇猛果敢に飛び掛っている鬼達の姿も見受けられた。
夥しいといって良いほどの数の鬼達が、キメラを食い殺していく様は圧巻で、お陰でとりあえず現状をお互いに確認しあう余裕だけはありそうだ。

デリクが、虎杰を眺めつつ「ここに来るつもりはなかったのでスガ、ある意味好都合かも知れまセン」と口にする。
そして、竜子達に向き直り自分達が、このフロアに出現した理由を説明し始めた。

「簡単に説明すると、私、普段はしがない英語学校の講師をしているのですが、先日、ある雨の日。 特売の日にスーパーに買い物に行く途中、突如雷に打たれてしまいまシテ、その際、何と奇跡的に第六勘に目覚メ、空間を歪める能力を手に入れる事が出来ましタ。 その能力を行使して、千年王宮とこちらを行き来する事が出来ており、今回も渦中のあの城へDrと黒須さんを含め、お運びしようとシタのですが、うっかり、私ってば、あの城の王様に嫌われてしまっておりまシテ…」

えへへ…という風に頭を掻くデリクに、竜子が「すげー!! お前の力って、そうやって手に入れたモンだったのか!! なんか、アメリカの映画みてぇ!!!」と感激したような声を上げている。

竜子ちゃん…あんたって子は…やっぱりおばかさんっ!!

デリクの言葉が余りに出鱈目ばかりなので、聞いてて頭痛を覚えたのだが、竜子の反応に更に、その痛みが増した気がする。

デリクの嘘を素直に信じる竜子を、嵐が「いや、明らかに嘘だから。 間違いなく嘘だから」と、最早優しい位の声音で正してやる。
エマは最早、不思議にすら思い、「ねぇ? どうして? この時点で、言ってる事の訳八割が嘘!!という荒業を行使できるの? もう病なの? そういう体質とか、呪いとか掛かってるの? そういう一族なの? 一子相伝の秘密とかがあるの? ねぇ? ねぇ、ねぇ?」と真顔でデリクを問い質していた。
「いえ! そんな、八割が嘘だなんテ!!」
その言葉に心外そうな顔を見せ、「基本私は9割の打率を心がけていマス!」と言い切るデリクに、エマは「敵わない…」と胸中で呻き、ガクリと膝をついてしまう。
すると、この中で最年少である曜がその一切の騒ぎに関与しないといった声音で「ところで、キミが一緒に運ぼうとしていた、その肝心のDrと黒須さんとやらは…何処に?」と問い掛けてきた。


へ?


思わずエマは辺りを見回す。

あ、ほんとだいない。
黒須さんと、Drだけじゃなくて幇禍さんもいない。


デリクも、曜の顔をきょとんとした顔で見た後、周囲を見渡し、それから「あ…落っことしちゃいマシタ」と、軽い声音で呟いた。


その瞬間、周囲の人間も驚かざる得ない反応を見せたのは兎月原で「何処に?!」と叫んで、デリクの肩を掴んだ。
キョトンとしながら、「多分…」と言い、眉を顰め、一瞬口を噤むと「このビルの屋上デス」と答える。
その瞬間、呆気に取られる程の速度で兎月原がキメラ達を殴り倒しながら走り出し、「…でも、一緒に、幇禍サンもいる筈ですから、滅多な事にはなってませんヨー!!!」とデリクが兎月原に呼びかける声を掛けども、彼は振り返りもせず、エマは何で、そんなに必死に…と、驚かずにいられない。

そんなに仲良かったっけ?と振り返り、それでも、何だか凄く兎月原が黒須を心配していたような様子も思い出すと、「男の友情ってヤツかしらね…」と頷いて、その後、明らかにありとあらゆるステータスが特上級!な兎月原と、色んな意味で全部底辺!!な黒須の間に、そんなものが成立するのかしら??と益々首を傾げた。

兎月原は、まさに脱兎と呼ぶに相応しい走りを見せてあっという間に、フロアから消え去る。

すると、エマと一緒のようにぽかんと兎月原を見送っていた蘇鼓も思うところがあるのか、突如身を翻すと、彼の後を一目散に追いかけ始めた。
彼のペットか何かなのか、羽の生えた白い虎と、いつも彼が連れている空飛ぶ肉団子のようなフォルムが愛らしい帝鴻も、彼と一緒にフロアを飛び出す。
多分彼の理由は、黒須ではなく幇禍だろう。
あれほど容貌が似通っているのなら、何らかの関係があって然るべきだとエマは察した。

竜子が…「っていうか、あたいも行く!!!」と遅ればせながら、黒須を案じて走り出そうとするが、その行く手をあえなくキメラ達に阻まれる。


エマはとにかく、状況を把握しようと視線を巡らせた。

曜の生み出す鬼は数に限りがないのか、無限に等しい数湧き出てきており、その圧倒される能力に舌を巻きつつ 同時に自身も、華麗な剣技を披露し、キメラを叩き伏せている。
かなりの実力者である事が一目瞭然である彼女は、苛烈な目で虎杰を見据えており、彼女が、何某か虎杰に対して思うところがあるらしいとエマは察した。
嵐も、紅色した美しい剣を振り回しており、滅茶苦茶には見えるが、自身の運動能力の高さのお陰か、派手な音と光を撒き散らしながら、次々とキメラを地に沈めていっている。

竜子も、派手な音のするマシンガンを周囲にぶっ放しまくっていて、今のメンツの戦力と能力を大体把握すると、次にどう行動すべきかエマは思考をめぐらせ始めた。

とにかく、とっとと、ここでの攻防にケリをつけ、屋上にてDrとの攻防戦を繰り広げているだろう黒須達と合流したい。

城の状況も気になる事もあり、エマが、焦燥感を覚えると、突如、悲鳴めいた声を竜子があげた。


「っ!!!! 不味いっ!!!」

胸元に手を這わせ、目を閉じて、それから竜子がブンブンと首を振る。

「やばい!! やばい、やばい、やばい!!」

泣きそうな声。
その切羽詰った様子に驚いたように「何があったの?!」とエマが問い掛ける。


「Drが行っちまった!」


「何処ニ?!」

思わずデリクも勢い込んで、竜子に尋ねる。

「千年王宮に…チェシャ猫が召還した?! どういう事だ?! 直接城に呼ぶなんて、鍵の力がないと、出来る筈がない!!」

そう混乱した声で喚く竜子に、「いえ!! 出来マス!!」とデリクは叫ぶ。

「チェシャ猫は、鍵の持ち主でス!! 彼女は、元は現世の人間だっタ!」

驚いたような顔をして竜子がデリクの顔を見返してくる。

「…こっち側の人間…って事ぁ、あたいと同じような立場って事か?!」
竜子にしては素早い把握を、エマは褒めてやりたい気持ちになり、デリクも大きく頷いた。
「そウ、だから、彼女が、ベイブさんに鍵を付与されている可能性ハ、大いに高いでス」
「で…でも、それにしたっておかしいんだ。 鍵の力を持ってしても、せいぜいこっちの世界で条件の一致する場所に王宮への入り口を開けられる位で、今回みたいに任意の場所への召還なんて、そんな事…鍵の持ち主の、血縁者や余程心を通わせた相手にしか出来ない」と竜子が言えば、今度はエマが「血縁者なのよ!」と叫ぶ。


「チェシャ猫は、Drの妹なの!!」


「っ!!! んだよ、それ! どういう事だよ!」と嵐が叫び、「詳しく説明が聞きたい」と曜も唸るように乞うてくる。

確かに、何の事情も分らぬままじゃ気持ち悪かろうと、エマは三人に、自分自身の復習も兼ねて今まで分ってる事の説明を始めた。

「まず…何処から説明すれば良いのかしら? とりあえず、鍵の話からさせてもらうとね…」とエマが言えば、竜子が頷きながら、自分の胸元より、コロンと一本の「小指」を取り出す。

「う…あ…」
「何故、小指なんかを?」

曜と嵐、それぞれ戸惑った反応を見せるのに、そりゃそうよねとエマは頷き、竜子が「これが、王宮の鍵なんだ」と告げた。

「王宮の鍵っていうのは、あたいや誠みてぇな、現世の人間が王宮にて生活する事になった場合に、ベイブから渡される、現世とこの城を繋ぐ鍵なんだ。 この鍵は、王宮中のありとあらゆる場所の扉を開ける鍵にもなるし、この鍵を持ってりゃあ、中には性質の悪いやつもかなりいる城での生活の安全が保証される。 鍵っつうのは、自分自身の肉体の一部じゃなきゃいけなくってな、あたいは自分の小指に鍵の力を授けて貰った」
「って…でも、お前、小指生えてんじゃん」と嵐が竜子の両手が、どちらも五本指が揃ってる事を確認すると「まぁ、それは、色々あったんだよ」と説明する気はないらしく、サクサク話を先に進める。
竜子が鍵の説明を終えるのを待って、エマは「つまり、Drとチェシャ猫っていうのは、昔、城の住人だった。 今の、黒須さんと竜子ちゃんみたいにね? でもベイブさんは、ある時期Drを現世…つまりこっちの世界に放逐し、チェシャ猫を城の奥深くに閉じ込めた。 Drは現世に戻される際に、鍵を取り上げられたそうなんだけど、チェシャ猫はまだ王宮の住人だから、その鍵は彼女が持っている」とそこまで説明すれば、竜子が自分に語り掛けるかのように「ああ、そうか。 鍵を使って、こっちと道を繋ぐことが出来るのは、城の表層での使用に限られる。 チェシャ猫は、今回反乱を起こして、城の表層まで出てきちまった。 だから、Drを城に召還できたんだ」と呟き、「んで、Drと、チェシャ猫が兄妹っつうのは、どういう事なんです?」とエマに尋ねた。

「どういう事も何も、言葉通りよ」とエマは肩をすくめ、それから舌先で唇を湿らせると「これは、デリクさんが、Drとの舌戦にて引っ張り出した情報なんだけどね?」と前置きする。


「千年王宮って、迷い込んだ人の願いを一つだけベイブさんが叶えてくれてるらしいのよ…。 どういう気紛れだかは知らないけどね? で、Drは、どうしても叶えて貰いたい願いがあってあの城に迷い込んだ…………」





自分自身が持っている情報を全て反芻しつつ、エマが、倉庫にて知りえた情報を全て三人に説明し終える頃、虎杰が、Drが城に召還されてという事に対して、「そうか、あいつが城へ向かったか!」と嬉しげに手を打った。

デリクが虎杰に視線を向け「…どうなるんでス?」と低い声で問う。

「つまり、城が私の手に落ちる公算が、高くなったというだけさ」と嬉しげに虎杰は言った。

「チェシャ猫…彼女は普段は美しい女性の姿をしているが、本来の姿は、別にある。 巨大で、力強く、しなやかな獣。 強大な力を持つ、彼女にかかれば、あんな城などひとたまりもない。 キメラ化の際、彼女の要望で、普段は人の姿でいられるように、Drが力をセーブするよう造ったそうだが、ある薬を投与すればリミッターは解除され、本来の姿を取り戻す。 Drしか持たぬその薬。 彼が向かうという事は、彼女が本来の姿、実力を持って、城を制圧に掛かるという事。 勝ち目はない。 お前達に。 そしてこの世界に」

その言葉に、エマは青ざめ、他の面々も、同じく動揺の激しい表情を見せる。
つまり、Drが城に向かうことによって、とんでもない、化け物が向こうで目覚めてしまうという事で、城が壊れてしまえば、何もかもが御仕舞いだという風に道化師から聞いていたエマ。
王宮でたくさんの魔物相手に奮闘していた翼や燐、それにウラの身を案じ、次いでベイブや白雪達の事も思う。

あの城が、此方の世界に影響を及ぼす事を考えれば、いてもたってもいられない気分になるのも無理はなかった。

デリクも、油断ならぬ表情は形を顰め、瞳を険しくさせると、爪を噛み、何かを思い悩んでいる。
きっとウラの事を想ってだろう。
デリクは地を這うような声で「…好き勝手は…させまセン。 あの城を、守ると決めてる子がいるんでス」と低く唸る。

そして、デリクはその掌を翻し、そこに痣のように浮かび上がる魔法陣に淡い光を放たせた。

「デリク…さん?」

不思議気に問い掛けるエマに、「今…幇禍サン達のいる、屋上に、千年王宮に繋がる入り口を作り出しまシタ…」と呻く。
王宮への道には、ベイブの妨害が、またあるのでは?と心配し、「大丈夫なの?」と先ほどの事を鑑みて、エマが問い掛けると、デリクは眉を下げ、少し曖昧な表情を見せた。

見れば随分と顔色が悪い。
ここまで随分と無理を重ねさせてしまった。

すると、竜子がデリクの不安を察したのだろう。
「いいよ、あたいが道巧くあいつらが辿りつけるよう、ベイブに乞うて道を繋ぐ。 ここに同じ入り口を作ってくれ」と言った。
城の住人というのは、随分色々出来るのだなと感心しつつ、奇跡の方向音痴人間竜子に、道を繋ぐとか出来るのだろうか? 繋いだ先が、チョモランマとかだったら、兎月原や蘇鼓達はどうなるのだろうか?と、とんでもないようでいて、竜子を知る者なら皆、深く納得してくれる心配をしてしまう。
デリクは竜子の言葉に頷いて、再び痣を光らせ、先程兎月原達が現れたのと同じ渦を出現させると、こちらの渦と、屋上に作った渦というのをつなげてあるのか、蘇鼓達にコンタクトを取るべく渦に向かって声を出した。

「後を…追ってくださイ!!」

デリクの叫び声が届いたのかどうか…。
デリクが必死の声で言葉を続ける。
「お願いしまス! 渦の中に飛び込めば、千年王宮に辿り着けまス! 向こうに、ウラという女の子がいるのでス! Drが向こうに向かった事は、千年王宮にとって、危機的状況を齎しマス!! 私は…私は、彼女を失いたくナイ!!! とても大事な、私にとって特別な子なんでス!! だかラッ!!!」

すると、曜も渦に顔を突っ込むようにして、「蘇鼓!!! それに兎月原さんっ!!! 頼む!! お願いだ、燐を…燐を、助けてやってくれ!! 頼む!!!」と叫んだ。

泣きそうな声。
曜が、凛として、あれ程の強さを誇る曜の声が不安と恐怖に震えていた。

「あの子に、何かあったら…私はっ!!」

その痛ましいまでの声の切実さに、兎月原が「黒須さんはここにいてくれ…」と言う声が聞こえてきた。

「…兎…てめぇは行くのかよ」
蘇鼓が、兎月原に尋ねる声が聞こえる。

「ここで、終われないだろう?」

当然という風に答える兎月原に、デリクが顔を輝かせ、「あんたは?」と彼に問われ、返事をしない蘇鼓の様子に、即座に眉を顰める。
そして、難しい表情のまま「すいまセン、お二人は、蘇鼓サンと一緒にいた虎について何かご存知ですカ?」と小声で曜と嵐に問い掛けた。
嵐が素直な声で、「大五郎の事か?」と、虎の名前にしたって余りに渋すぎる名を呟いて、「確かあいつは、蘇鼓の幼馴染らしいぜ?」と教えてやっていた。

デリクが、「ありがとう御座いマス」と礼を述べ、なふり構っていられないといわんばかりの表情ながらも、冷静な声で「…蘇鼓さン、貴方ガお連れしていった虎ノ大五郎さン…でしたッケ? 忠告というノハ、何ですガ…少し気になる事がありましテ、どうも、キメラ化をさせられているようでスガ、Drが手術の際に体に保険として施したのハ、爆弾だけじゃなかったようですヨ?」と、明らかな出鱈目を自信たっぷりに並べ立てる。
「爆発処理をしなけれバならない程、緊急の事態でない状態で、購入したキメラに飽き、処理したいと望んだ場合、手術時に体内に仕込んである物質が、何か特定の成分を含むものを口にすると、化学反応を起こし、毒素となってキメラの命を奪うように処置してあったようデス。 一体、何の成分を引き金に、その物質が毒素に変じるのかは分からないのですが、キメラ化させた生物はそこら辺の毒物では、到底命を奪えぬ程に、極めて丈夫に作り変えていたようデスので、それは、それは大変強力な毒素になるみたいデスヨ? 大五郎さん、聞けば蘇鼓さんの大事な幼馴染だそうデ、物質は、Drが持っている薬剤を摂取さえすれば、無効化も可能なようですガ…このまま、千年王宮に逃げ込まれてしまえば、薬剤を手に入れる事は難しいですヨネ?」と、言い募った。

よくもまぁ、これだけベラベラと口からでまかせで喋れるものだと呆れつつ、それだけ必死に、ウラを救いたいのか…とエマが感嘆すれば「ちーきしょう。 俺ぁ、賽銭一つ上げて貰ってねぇのによう…」と面倒臭そうに蘇鼓が意味の分からない事を言い、それから、笑いを含んだような声で、「…何の成分を摂取したら、おっ死んじまうか分かんねぇっつうのなら、この先、大五郎はおちおち飯も、安心して食えねぇって訳か…」と呟いて、それから「しょうがねぇなぁ…行ってやるよ!!」という喚き声が渦の中から聞こえてきた。

明らかに安堵の表情を浮かべつつ、デリクは竜子を振り返る。

「竜子さん、デハ、お願いしまス」と頼めば、彼女は硬い表情で頷いて、「ここに飛び込みゃ、いいんだな?」と言い、それから渦にその身を躍らせた。

そして一息つく間もなく次にデリクは、キメラ達の防衛線となってくれている曜に視線を向ける。


「…曜さん!」


そう呼びかけ「虎杰に接近さえ出来れば、彼を仕留める自信はありマスカ?」と問い掛けたデリク。
「勿論だ!」と、即座に、曜は自信を持った声で返答するのを聞いて、エマはふと、自分の懐に仕込んである、「切り札」の存在を思い出した。
「…接近するチャンスなら、私作ってあげられるかも知れない」と、そうエマが呟きながら、自動発火装置のスイッチを一つ取り出す。

「…それは?」

「このビルのブレーカーと、予備電源に自動発火装置を仕掛けてきたの」

にやりと笑うエマに驚いたように、「いつの間ニ?」とデリクが問えば、「通気口から、倉庫通路に侵入しようとしている時にちょっとね」といってエマは笑った。
皆が信じがたい生き物を見るような目で眺めてくる事に「ふふふ、よきにはからえ」等と、自分でも訳の分からないテンションになりつつ、「それで、このフロアの電気を一斉に落とすつもりですネ?」とデリクに聞かれて、「オフコース」とエマは頷く。

「一瞬とはいえ、真っ暗になれば、キメラ達や、虎杰の動揺を誘えるでしょ。 その間に、曜ちゃん、虎杰に接近できる?」

曜は頷き、それから嵐を自分の傍に手招くと、自分の位置から、虎杰までの距離を測り、そして「このフロアが、もうじき真っ暗になる。 8秒、心の中で数えた後、嵐はその剣を何処にでもいいからぶつけて光を作ってくれ」と頼んだ。

どうやら嵐の持つ剣は、攻撃の際に光を放つという、不思議な効果があるらしい。

エマが「準備は良い?」と曜に問い掛けた。
彼女が頷くのを確認して、エマはスイッチのボタンを押す。

発火後に、ブレーカーを破壊するまでのタイムラグがあるせいで、暫くは、フロアに何の変化もなかったが、そろそろだろうと時間を計り「落ちるわよ」とエマが呟いた瞬間だった。

一気にフロアが暗くなり、傍にいた筈の曜の気配が掻き消えた。
虎杰へと迫っているのだろう。
行く手に存在しているキメラを斬り伏せる音だけが聞こえる。


真っ暗なフロア内、目を凝らせど、暗闇に慣れぬ目には何も映らず、そして明かりが消えてから8秒後、パァン!!と派手な炸裂音をさせながら嵐が壁に剣を打ちつけ、突然眩いばかりの光が目を劈いた。

一瞬の光の中、曜が「そこだ!!!」と叫び、虎杰の腹を狙い過たず刺し貫こうとする。

しかし、その光は、同時に虎杰に曜の位置を知らせる事にもなったらしく、懐から抜き去った銃を彼女に突きつけた。

「危ないっ!!!」

エマが悲鳴をあげた瞬間だった、再び闇に包まれる寸前、虎杰の背後に一人の髪の長い女が立つ姿が見える。


「…っ?!」

息を呑む。
まるで、怪談めいた現象。
嵐が、また、剣を壁に打ち付けた。

フラッシュのように光る世界の中で、下半身が大蛇となった、黒髪の女が、虎杰に絡みついて、噛み付き、曜の剣がその腹を刺し貫く情景が見える。


「…黒須…さん?」

長い髪。
下半身が蛇の姿。


彼しか思い当らぬと思いつつ、然し、何故か、あれは女性だったとエマは確信していた。

髪の隙間から覗いた顔立ちも、美貌と言って良いほど整っていたし、どうしても黒須とは思えない。

だとすれば、あれは、きっと、霧華さん。

黒須さんの、殺された奥さん。


何故、彼の内に眠る彼女が今、表出しているのか。


エマは一つの可能性に思い至る。

キメラ、異種族を攫い、商売の道具にしていたK麒麟。
黒須が、何故、ここに捕まったのか。
唯の油断?
彼の生来の運の悪さのせい?


もしくは、黒須には黒須なりの、何か目的があったとか?

霧華さんの死に、この組織は何か関係があったのかもしれない。

何にしろ、虎杰は致命的な傷を受けた。
キメラ達の動揺が伝わり、虎杰の呻き声が聞こえてくる。

これで、ここの決着は付いた。
とっとと、この暗闇を抜け出して、屋上に向かおうと考えたエマ。

だが、くぐもった虎杰の笑い声が闇の中に響きだすに至って、ヒヤリとした今まで感じたことのないような恐怖感が、エマを襲った。


「…阿呆…共が…もう…助かるまい…」

「お前がか?」

曜が暗闇の中、少し上擦った声で問い掛けている。
彼女も、間違いなく、虎杰の命を奪ったという確信を抱いていたのだろう。
予想外の虎杰の反応に動揺を隠せぬ声で、「無駄だ。 強がろうと、失血死は免れない」と曜が言えば、また、虎杰は低く笑った。

「鬼姫」と、曜に呼びかけて、「お前と遊べて、中々楽しかったよ。 出来れば、意識を保ったまま、お前の殺してやりたかったが、そうはいかないみたいだ」と、苦しげながらも、余裕のある声で言い、「…では…さようなら…」と静かな声で囁いた。

ミシリ…と何かが歪む音が聞こえた。


ミシミシミシと、フロア内の空気が膨張するような息苦しい感覚にエマは襲われる。



一体何が起こっている?


突然、上空からコンクリートを打ち砕く、破壊的な音が聞こえ、ついで、瓦礫フロアに雨のように降り注ぎ始めた。

上空にある月の光や、街の光が差し込み、漸くエマは今の事態を視認出来る。

だが、その光景は出来れば現実のものとは思いたくない姿をしていた。

何十本じゃ効かないだろう。
何百本もの腕が、その体から生えていた。

まるで、醜悪な鬣のように。

全長は何m程になるのか…。

何しろ、無駄に天井の高いフロアを突き抜けて、その顔が屋上に飛び出しているのだ。



歪な異物。

何百もの人を無理矢理合成したような、それはそれはグロテスクな化け物。
巨人とみるには「人の範疇」から余りに外れ、されどこれまでのように獣と人との合成とみるには、その姿に一切の獣の姿を見る事はできなかった。

よく見れば、たくさんの腕に覆われた、その顔の下に続く体には、これまた夥しい程の数の人の顔が浮かんでいる。


「…虎…杰?」

震える声で曜が呟く。


ザザザザザと不気味な漣めいた音をさせながら、顔を覆う腕が動き、その下から大きな穴の如き鋭い牙がびっちりと生えた口が覗いた。

口の中に、夥しい数のキメラ達が見える。
虎杰が咀嚼すれば、酷く耳障りな音が聞こえ、手を伸ばし、手当たり次第に触れるキメラ達を、虎杰は口の中に放り込み、己の力に換えているようだった。
見る見る間に、己が味方である筈のキメラを食い散らかす虎杰の姿を見て、エマは慄きながらこれもキメラなの?と、疑問を胸に抱く。

先ほど、虎杰が言っていた。
チェシャ猫のリミッターを外す薬液をDrが持っていると。
虎杰自身も普段は力を抑え、人間の姿を保ちつつも、この本性を隠し持っていたのだろうか?
命の危機に瀕し、自身のリミッターを解除して、この姿になったと言うのだろうか?


しかし、キメラと見ようとしても、これは余りにも醜悪で、吐き気を催さずにはいられない姿をしていた。



「ひゃああああ!!! なんだぁぁぁぁ?!!」

竜子の素っ頓狂な声が屋上から聞こえてきた。

見上げれば、大きく開けられた穴の淵に、竜子がへたり込んでいる。

巧く、二人を誘導できたのだろう。

竜子の傍には幇禍もいて、呆気に取られたように虎杰の姿を見上げていた。

「う…ええっえ…な…んだ…こいつ…」


竜子が吐き気を堪えるような声で言う。


嵐も、その醜悪さに耐えかねて「気持ち悪…っ」と小さく呻いた。

すると、虎杰が大きく口を開く。
そして、酷い匂いのする息を大量に吐き出しながら、唸り声のようなものをあげた。


「あ”…あ”…あ”あ”あ”…」



口中より、ぞろぞろと、大人の拳大程の黒に黄色い斑点の散った不気味な甲虫がぞぞぞぞ…と溢れ出てくる。


体内で、喰い散らかしたキメラを養分に変え、あの生き物を造りだしたのか?

どろどろとした粘液に塗れた甲虫達は、自分の口からも、汚らしい液体を吐き出していた。
すると、その粘液に打たれたフロアの床に敷かれたカーペットがじゅうっと不穏な音を立てる。

視線を向ければ、白い煙をあげながら、カーペットに穴が開いていて、それが極めて危険性の高い液体である事をエマは察した。

甲虫達が、ジジジジジと羽音を立てて空中に浮かび、
一気に幇禍と竜子二人に襲いかかり始める。


あんなの、対応できる数じゃない。

エマは二人に「逃げなさい!!! その蟲は、溶解液を吐き出すの!! 降りてきて、こっちに合流してっ!!!」と叫ぶ。

竜子と顔を見合わせて、幇禍が彼女の手を引っ掴むと、ぐいっと引っ張り、気持ちの悪い蟲の群れに突っ込む。

「っ!!! ぎゃーー!!! ねばねばしてるのが!! 触った!! 触ったよう!! うがぁっ!!」
喚く竜子に、「馬鹿!! 口を空けてると、蟲、食べちゃいますよ?!」と、怒鳴りながら、化け物が突き破った床より一気に幇禍がフロアに飛び降りてくる。

途中で、竜子を抱き上げて、そのまま、床に降り立つ幇禍の姿に、思わず感嘆してしまうエマ。
それは他のメンツも同じらしく一瞬事態を忘れ、「やんややんや」と皆、喝采を上げつつ幇禍を迎えた。
何にしろ、この状況で、戦力が増すのは何よりも有り難かった。

「ヒーローみてぇ!!」
「凄いわ! なんか、映画とかでしか見たことないもの!!」
「いやぁ、流石幇禍さんでス!!」
そう褒め称えれば、「いや、それほどでも…」と言いつつも、分かりやすく幇禍が照れる。

溶解液のせいか、上等なスーツの所々に穴が開いてはいるが、一気に走りぬけたせいか、肉体にまで傷は負ってないようだし、竜子も、素肌に浴びたところから、血が滲んではいるが、いずれも致命傷ではなさそうだ。
デリクが再び痣の力を使って、異空間の防護壁を作り出してくれたので、その防護壁の中で、とりあえず作戦を立て直すことにする。


だが、そんな最中、「ていうか、あいつは、大丈夫なのか?」と凄く戸惑った真面目な声で、曜が、虎杰の屋上に突き出してしまった頭の辺りを指差した。

視線を向けて、エマは固まる。


えーと…何で、あんなところに?と思えども、やはり先ほど暗闇の中で見た、下半身大蛇の女の正体は、彼だったのかと、それだけは確認出来た事を認識する。


黒須が、いた。

何か、捕まってた。

うぞうぞとした化け物の顔を覆う手に掴まれるようにして、なんか、下半身が大蛇のまま、逆さ吊り状態の、それだけで、うん、かなりホラーとして成立するね!!な、黒須の姿を視認して、エマはどうにも、こうにも頭痛を覚える。


とにかく、何とか助けてやらないと。

そう考えた時だった。


ぎゅっと目を凝らしたエマの目に、ピクリと黒須の頬が不自然に痙攣するのが映った。



意識が ある。


『庇われなくても、俺は無闇矢鱈に丈夫だから、お前は自分の身を守る事に専念しとけ』


黒須の言葉を思い出した。

なにやら、どうも彼なりに、企むところはあるらしい。


OK。

丈夫だっつってたわよね? 黒須さん。


じゃあ、したいようにさせてやろうじゃないの。

エマはそう決断し、「曜ちゃん…大丈夫…黒須さんは、無闇矢鱈に丈夫だから…」と、穏やかな声で言っておく。
にこりと笑いながら、出来るだけ軽い声音でエマが言い、曜が「いや…えーとだが、なんか、白目をずっと剥いてるんだが…」と、小声で訴えども「大丈夫、大丈夫」とニコニコしながら「私、黒須さんの事、信じてるもの」となんか良い台詞風の事を爽やかな声で言って、強引に曜を納得させた。

「ぎゃーー!!! 誠ーー!!がなんか、もう、なんか、えーー?!!! 凄い大変な事になってるのは分かるんだけどあたいの言葉では説明しきれない事にっ!!!!」と、竜子が喚き散らす。

「…ぶふっ…!!!」と、明らかに、それは噴出したんだよね?というような声を漏らしつつ、幇禍が肩を震わせた。
どうも、黒須の有り様が、彼のツボにHITしたらしい。
白目を剥いたままの黒須が何か、振り子っぽく、左右に体を揺らし出すに至って、幇禍はとうとうしゃがみ込み、耐え切れないと言った様子で、床を叩きながら体中を震わせ出した。

その様子を何を勘違いしたのか竜子が「幇禍…誠の為に…そんな風に怒ってくれるだなんて…お前、ほんと良い奴だな…」と頓珍漢な事を言い、更に、幇禍は体を大きく揺らす。

だが、そんな間抜けなやりとりのせいで、何の計画も立てられないまま、虎杰が数百の腕を振り上げ、こちらに振り下ろそうとするモーションがエマの視界の端に引っ掛かった。

「…っ!! 防ぎきれませン!! 皆さン、避けテッ!!!」


デリクは叫び、それぞれが、めいめい各所に四散する。

「あ”!!! あ”あ”あ”あ”ぁぁぁぁ!!」

虎杰の叫び声。


ぞぞぞぞ…と此方に向かって、触手のように伸びてくる腕から逃れつつ、その掌からダラダラとこれも、溶解液だと思われる粘液を生み出し、自分に浴びせようとしてくる事に、エマは心底ぞっとする。

粘液で溶かされるよりも、下手に捕まれば、あの手の群れに四肢を引き裂かれる可能性の方が高いと、本能で悟りつつ、嫌だ、溶かされながら、八つ裂きとか、凄くいやだ!!と真っ当な感想を抱き、どして、どうして、黒須が捕まったまま、殺されないのか思案して、彼に立場に思い至った。

知性すら失っていると思われる虎杰だが、それでも、黒須の存在が、千年王宮の王様であるベイブにとって、充分人質として通用する立場にある事は理解しているらしい。
自分達を始末した後、黒須を使って、ベイブとの交渉を有利な立場で進めようと目論んでいるのか…と考えつつ、(だったら尚更、速やかに救出しなきゃ、どうにもならない!という状況ではないのか)と察して、黒須に言われていたように、自分の身を守ることに専念した。


曜が紙の札を空中に投げ、印を結び、無数の鬼を召還した。
曜が一声、「行けっ!」と命じれば、鬼達は一気に虎杰に飛び掛って行く。

化け物の体中に飛びつき、噛み付き、その口中に放り込まれ、踏みしだかれ、鬼の肉の潰れる音、骨が噛み砕かれる音が響く。
虎杰に食い荒らされる鬼達という、余りに猟奇でグロな光景に「うぇ…」と咄嗟に呻いてしまい、その光景を作り出す一端を担った曜が、鬼共が食い荒らされるに従って、その身に纏う力を増していっている事に、脅威を抱いた。

あの子は 化け物に喰われた鬼の 怨みつらみ 無念 苦しみ 全て喰って 己の力に換えている

「私の背後に回れ!!」
曜の言葉に従い幇禍や嵐、竜子も、彼女が作り出した、無数の鬼の防壁の背に駆け込む。

幇禍が、曜とすれ違い様に、「あの手の中に、大きな目が見えたんです。 あすこを攻撃できれば、ダメージを与えられるかもしれない! 顔を覆っている腕を、何とか退ける事は出来ませんか?」と声を掛けた。
曜が振り返り、一瞬思案の表情を見せた後「やってみる」と一度頷く。

そして、鬼の数を更に増やすべく、再び札を空中に四散させた。

悪夢めいた光景は陰惨を極め、階下フロアにいた人間や、ビル外の者達が騒いでいる声も聞こえてきた。
人が集まりだしている。

「不味いわね…」


駆け寄ってきたエマは、我知らず小さく呟く。
下手に騒ぎになってしまい、後々警察なんかに事情聴取される事になれば、興信所的にも大変ヤバイ。
何せ、ここにいる面々の共通項と言えば、あの事務所しかないのだ。
今回事務所がらみの事件じゃないとはいえ、無関係を言い張るのはちょっと無理って、もんだろう、
出来るだけ迅速な決着の方法を考えていると幇禍が、掠れた声で問い掛けを発した。

「…一応お聞きしたいのですが……」

「あぁ?」と嵐が問い返すより早く「アレ…って、もしかしたら…呉虎杰だったりします……?」と、虎杰を指差す。

そうか、彼は、虎杰の変異の場に立ち会っていなかったっけと思い至れば嵐が数秒瞬いて、瞬きを続けたまま「ぴんぽーん」と低い声で答えた。

「あれ…は、キメラなんですか?」

そう、幇禍の重ねての問い掛けにデリクは「完全体でス」と答えてにやりと笑う。

マジマジとした目で眺めてくる幇禍に飄々とした口調で「キメラ開発の慣れの果テ。 進化の先を目指した行き止まリ」と歌うように告げ、「ねぇ、人は、もう、進化を終えているって説を、ご存知でス?」と、デリクは問うた。
エマが、「ああ、聞いた事ある。 これ以上、外見上の変化は人間は齎されないっていう奴でしょ?」と言えば、デリクは頷き、「環境にあわセ、その形態を長い年月をかけて変えていク、その『過程』を進化と呼ブ。 人間は、現状で進化の果てにアルという事が科学の力でもって証明されてしまっタわけですガ、あの男は…Drは己の仕える人間ニ、その先の生き物となる為の手術を施したのでしょウ。 材料は、獣でなクテ…『人』。 進化の果てに行き着いた同種の生き物を掛け合わセ、合成サせ、際限なく膨らませタ、異形の『キマイラ』…。 なんと醜い……。 Drが己のコンプレックスすら注ぎ込んで出来上がったあノ、異形、早く壊して差し上げねバ、むしろ気の毒というものでしょウ」と、虎杰を指差しデリクは滔々と述べる。

エマも「まぁ…早くなんとかしないと、流石に黒須さん死んじゃうかな?って感じだしね」と言いながら、はふっと息を吸い込んだ。

やれるかどうか、一か八かというとこだが、とにかくあの巨体を動揺させる程の行為と言えば、これくらいしか思いつかない。

「……五秒、私がジェスチャーで合図を出すから、みんなそれまでしっかり耳を塞いで。 出来るかどうか、自分でも不安だけど、超音波。 あの、体の表面に浮き出ている人間の顔達。 確り見ると、耳も、ちゃんとみんなついてるのよね。 あの、顔達の耳の鼓膜を、超音波使って傷付けられるか試してみる。 巧くいけば、あの腕を退けられるチャンスを作れると思うし…」
「そうすれば、俺が、あの化け物の目を撃ち抜ける…と」
エマの言葉に続けて幇禍が呟いた。
「…隙さえ作って貰えば、後は私が斬り込む」
そう凛と告げる曜に、デリクは「ならば、出来るだけ迅速ニ、そして危険なく接近できるよウ、空間を歪めた穴でお運びしまス」と、提案する。
そんなデリクを、心配げに振り返り「大丈夫なのか? 顔色が悪い。 力を行使しすぎじゃないのか?」と案じる曜。

確かに、元より白い肌をしているが、今は青ざめ、完全に血の気が引いている。
「…決めたのデ…。 全力を尽くすト」
そう言って笑うデリクの顔がいやに晴れ晴れとしていて、エマはデリクがいつになく余裕をなくし、懸命である姿に、何だかちょっと感動してしまった。
「…あたいも行く」と、竜子がマシンガン片手に、デリクに告げた。
「曜が、あいつに一発食らわせる、手伝い位は出来ると思うから、あたいも一緒に運んでくれ」と竜子が言えば「俺も、行く」と嵐が、紅色の美しい剣を片手に、そう宣言した。

「俺も、全力尽くしてぇんだ」

曜を真っ直ぐな眼差しで見て言う嵐に、何かを言いかけ、困ったような顔をして、竜子と嵐を交互に見比べ、そして、「ふう…」と溜息を吐く。

「死んだりしたら…地獄まで追っかけて、お前ら二人とも、引きずり戻してやる…」

本気極まりない声で、随分怖い事を告げ、「だから、私にいらん手間を掛けさせない為にも、絶対に死ぬな。 絶対にだ」と、曜は美しい眼差しで、二人を見据えて、願うように告げると、ツイと虎杰に視線を向けて、「では、化け物退治と参ろうか」と、淡々とした声で言った。






エマは大きく息を吸い込む。

「OK?」と指のジェスチャーで見せつつエマが、周りを見回すと皆、両耳を手で塞いで頷いた。
デリクも、しっかり耳を塞いで、コクンと頷き、エマも自身の耳を塞ぐと、酷く心臓が波打つのを自覚しつつ、虎杰に向かって口を開く。
さほど大きく開いたわけでない、エマの綺麗な形の唇から人の可聴音域の外にある、超高音ボイスが放たれた。

超音波。

鼓膜を直接細かく揺さぶり、引っ掛かれるような不快感と痛みを見たらすその音は、知識でこそ、自分なりにどのように生み出されるか原理を把握した上で、生み出す技術を取得してはいたが、実際放つのは今日が始めてだったりする。
誰かに悪戯に使うべき技術でもなく、今まで放つ機会に恵まれなかったその声を、コントロールの困難さ故に、目を細め、額にうっすら汗を滲ませながら、それでも動揺が声に滲まぬよう無表情を心掛けて声を出し続ける。

すると、最初のうちこそ、然程の変化の見られなかった虎杰が、突然その大きな体を折り曲げ、「あ”ぁぁぁっっ!!!」と耳を塞いでいても、鼓膜を揺らす苦悶の声を上げ始めた。

ゾゾゾゾと、腕がまるで反射神経であるというかのように、本体へと収縮し、そして、無数に浮き出る顔という顔についた両耳を、各々の手が塞ごうとする。
その動きによって、腕の守りが失われ、むき出しになった目玉を視認するかしないかのタイミングで、エマは「やっちゃって!!!」と叫びながら、虎杰を指差した。

間髪いれず、幇禍が、その目玉に連続して銃弾を叩き込む。
引き金を引きながら、弾切れと同時に素早く地面に投げ捨て、素早く武器を懐から引っ張り出し、持ち替え、撃ち放し続ければ目玉が弱点の見た幇禍の予想通り、痛みに身を捩じらせ、その猛攻を前に、虎杰が首を仰け反らせ、ガスン!!と轟音を立てて膝をついた。

「今でス!!」

デリクは叫び、素早く空間の歪を作り出せば、一気に竜子、嵐、そして曜の順番で飛び込でいく。


バチバチと空気を切り裂く、耳障りな摩擦音を立てながら黒い穴が生まれ、中から、まず竜子が飛び出した。
落下しながら、目の周囲を守る腕に銃弾を当て、派手な光を撒き散らしながら、その動きを止めると、次いで現れた嵐が、その剣で、目玉を斬り付けた。

火花が弾けるような派手な音と、閃光に目玉が細まり苦しげな咆哮が響き渡る。


「黒須さんっ!!! お願いっ!!!!」   


黒須が動くならここだろうと、エマが大声で合図を送る。
すると、逆さ吊りにされていた黒須があっという間に、その長い尻尾を使って、ぐるりと無数の腕の間を掻い潜り、虎杰の首をミシミシと、骨の軋む音が聞こえる程に締め上げ出す。

にいっと笑う、その顔は血に濡れ、何処か狂っていて、それは間違いなく、黒須の顔なのに、見間違いようもなく、黒須誠の姿をしているのに、その顔に、美しくも艶やかな、一人の女の顔が重なって見えた。

にいいいっと裂かれた唇から「観念するんだな…」と、怖気を奮うような、何処か甘美な声が漏れる。


「お仕置きの時間だよ…」


女とも、男ともつかぬ声が黒須の唇から零れ落ち、エマはやはり、先程感じた確信は間違いではなかったと思った。


霧華さん。
あの人が、黒須さんの、大事な大事な想い人。


艶やかで、しなやかな女蛇の気配。




「霧華さん…」

幇禍も小さく呟いた。
エマは思わず視線を向けた。
幇禍もエマの顔を見返してくる。

彼がまるで、何かに気付いたようにエマの顔を凝視するものだから、エマも、気付きたくないのに、気付いてしまった。



何だかね。


何だか、霧華さんの顔は、私に似ている。



けれど、今は、そこに興味を向けている暇はない。


バチバチバチっと、一際大きな音を、異空間の歪が立てる。




そして


穴の中から


長い髪をたなびかせながら

全ての幕引きを請け負った少女が一人、虚空より降り立つ。





剣を真下に構え、「覚悟!!」と叫んで、曜が容赦なくその目玉に剣を突き立てる。



パキン!!!とガラスが割れるような音がまず聞こえ、そして、一気に、その目玉から真っ赤な血飛沫が吹き出した。



「あ”あ”あ”あ”ぁぁぁ!!!!!」

断末魔の声を虎杰が上げる。





曜は振り返りもせず、素早く黒須を横抱きにして、床に降り立ち、そのまま虎杰から、一目散に離れた。

虎杰が硬直したまま、前のめりになり、そして轟音を立てて崩れ落ちたその姿を息を呑んで見つめていた。



すると、暫く後、ゆっくりと、その体が溶けるように分解され始める。

無理矢理に合成されたと思わしき人の体が一人、また一人と本体から崩れ落ち、そして風に吹き荒ばれ、粉に変じて消えて言った。

サラサラサラと風に吹かれ、どんどん小さくなってく虎杰は、瞬く間に元の人の姿に戻る。

倒れ伏したまま動かぬ姿に、息絶えたか?と思えども、虫の息なれど、まだ微かに意識はあるのか、その掌がザリザリと音を立てて床を這った。


「…あ…かね…茜……茜……」


繰り返し、誰かの名前を呼んでいた。

「…それが…お前の特別な人の名前か?」


嵐が静かな声で問う。

ゆっくりと、虎杰が顔を上げると、曜の攻撃の影響か、無残に潰れた目があって、それでも嵐の方をしっかり向くと、「そうだ」と静かに答えた。

諦念の滲む声。


「…茜。 それがチェシャ猫の名前ですカ?」


デリクが、穏やかな声で問い掛ける。

「……ああ」

途切れ途切れの掠れた声。

「…彼女に…一目なりとも…会いたかった…」


呟く声の温度は、彼がチェシャ猫をどう想っているかという事が一目瞭然の熱が篭っていて、ああ、つまり、そういう話だったのかと、これで、全てのピースを手に入れた満足感に漸くエマは満たされた。


「…真実を下さイ。 白雪サン」


そうデリクが声を掛けて、その表面に掌を浸せば、波紋が広がり、そして突然銀色に変じた血の池に猫の耳が生えた一人の女と、大きな姿身越しに相対する一人の男の姿が映し出された。

それは、今よりも若き日の虎杰の姿。

白雪の力を、デリクが自身の力を使って、こちら側に呼び込んだのか…。



「逢瀬。 チェシャ猫さんト、貴方の…で間違いないデスよネ?」

デリクの問い掛けに「無粋な。 覗き見るものではないだろう…」と虎杰は憮然とした声で答える。



一枚の大きな鏡に手を這わせ、チェシャ猫は頬を染めて向こう側を覗いていた。
鏡の向こう側の虎杰は、チェシャ猫と同じく鏡に手をあてて、彼女と顔を突き合わせていた。

「鏡よ 鏡 世界で一番 美しいのは だぁれ?」

無邪気な声でチェシャ猫が問う。
鏡の向こうの虎杰は少し笑って、それからチェシャ猫を指差した。

「ふふふ」と肩をすくめ、掌を唇に当てて「嘘。 違うわ」と言って、それから自分の猫の耳に手をあてる。

「だって、こんなものが生えてる」
すると虎杰は首を振って「関係ないよ」と囁いた。
「尻尾もあるのよ?」
「それも、可愛いじゃないか」
「わっち、人間じゃないの。 お城の化け物なのよ?」
「それでも、お前は美しいよ」
虎杰の言葉に、また「ふふふ」と笑い、それからピタリと鏡に張り付く。

「世界で一番?」
「ああ、世界で一番」
「わっち、お姫様になれるの?」
「俺がしてやる。 お前をお姫様に」

何度も何度も瞬いて「約束」とチェシャ猫が言えば、虎杰も頷き「ああ、約束だ」と答えた。



つまり、チェシャ猫と、虎杰はこのようにして、通じていたという事か。

恋仲。

愛しい女を お姫様にする為に。

この男は数々の悪行を働いてきたのだろう。

「この…鏡は…?」

嵐が、訝しげに呟けば「白雪。 現世と、城を繋ぐ鏡なんて、あいつ以外ありえない」と竜子が答える。
「チェシャ猫サンは、白雪サンを通じて、虎杰さンと出会い、そして恋に落ちた」と、面白がるような声でデリクは言う。


「チェシャ猫さンの為に、虎杰サンは、千年王宮を手に入れるあリトあらゆる方法を探しタ。 少しでも城に近づく為ニ、力を手に入れようと裏の世界に身を投じ、チェシャ猫さんに会いたい一心デ、組織のトップにまで登り詰メ、そシテ、彼女と同じ『獣』と『人』を融合する技術と知識を有シタ一人の男を自分の傍らに置イタ」

「それが……Dr…」
エマが呟けば、デリクは「正解」と静かに答え、「Drが、貴方が自分を裏切らなイと断言した理由が分かりまシタ。 確かに、大事な大事な恋人の兄ヲ、裏切れる筈がナイ」と、呟く。

Drという男は、そんなに、虎杰を信頼していたのか…。

嫌になる程、それは人間らしい有り様、


それを、でも、エマは肯定する気はなかった。


罪は罪だ。


人殺しは人殺しで、大量虐殺者は、大量虐殺者なのだ。

「最後のピースは、貴方と、チェシャ猫さンとの関係性だっタんでス」

デリクが、溜息を吐き出した。

「もっと早くに思い至れバ、余り遠回りをセズに済んだのデスが…」

そう悔しげに呟くデリクに「そうか…あいつは、あいつで、俺を信じてくれたのか…」と虎杰が穏やかな声で言う。
「悪党には悪党の絆がある。 人非人、外道、非道、悪逆を…尽くそうとも人は…一人では生きられない…。 笑うか? アレは、私にとって唯一信頼に足る、本当の友であったのだ…」

そう独白し、そして、虎杰は嘆いた。

「夢なんぞ…やはり、叶うもんじゃ…ないな…どんな…事もしてきたが…それでも彼女には届かなかった……」

その瞬間、嵐が爆発するような声で「この…糞馬鹿野郎っ!! 詭弁言ってんじゃねぇよ! 『何でもする』と『何でもしても良い』は全然違うだろ?!」と喚いた。

拳をぎゅっと握り締め、全身を震わせながら、虎杰をギリリと睨み据える。



「友達がいて…好きな人がいて…お前、なんでこんな事出来るんだよ?」

虎杰が嵐に、また顔を向けた。


「人を好きになる事を知ってる奴が!!! どうして、人を傷付けられるんだっ!!!」

叫ぶような声。


「だったら!!! なんで、考えない!!! お前が殺した人達にはなぁ! お前が、キメラの材料として踏みつけにしてきた人達にはなぁ!! みんな、それぞれ、大事な人が、特別な人が、誰に奪われる事も許される筈のない未来が、あったんだよっ!!」


地団太を踏む。


いつの間にか赤い色に戻っていた、床を浸す血の池が、パシャンと嵐の足元で飛沫を上げた。


「飯食って!! TV見て!! 仕事帰って酒のんで!! 嫁さんとケンカしたり、恋人とメールしあったり!! 友達と遊ぶ約束を楽しみにしたり!! 下らない漫画読んで笑ったり!! 嫌な事を電話で、田舎の母ちゃんに愚痴ったり!! そういう普通をさぁ…!!」


悲鳴のような声だった。


「そういう普通を…なぁ…誰が滅茶苦茶にして良いっつうんだよ…そんなの……誰にも許されねぇよ……っ!」

虎杰が何度も瞬いて、「何故…? なぁ、お前、なんでそんなに怒る必要が…ある? 自分の特別な人間に比べて…、そんな、取るに足らん…斟酌するに足りない命など…」と問う虎杰を、嵐は「命は比べられねぇよ」と呻くように否定した。

「自分にとって、その人の大切さという意味での価値ならば、比べてしまうのが、人間っつう生き物だ。 俺だって、ダチや家族は他の奴らより大事だよ。 それは否定しねぇよ。 でも、だからって、命を比べて、そいつらの為なら、誰かを殺して良いなんて、俺は絶対思わねぇ…。 俺のダチや家族も、そんな事は望んじゃいねぇ。 それが、俺の誇りだよ」

嵐は一歩踏み出し、言い聞かせるような、それでいて、悔いるような声で言う。

「なあ、虎杰。 お前、特別、特別っつうけどな…特別なんかじゃない、普通が、実は一番大変なんだぞ? 普通に働いて、普通に人を好きになって、普通に家族を作って、普通に幸せになって……普通は、偉いんだ。 普通は、並大抵の努力じゃ手に入んねぇんだ。 誰にも、そういうのを馬鹿にしたり、ないがしろにしたりなんて、されちゃならねぇもんなんだ。 お前みてぇな、弱虫なんか比べもんにならねぇ程な、普通っつうのは…尊いんだよ…」


エマは嵐を優しい男だと、思った。

今時稀有なまでの優しさが、なんだかエマには眩しかった。

「あんたが王宮を欲しがる理由は分かったよ。 だから尚更譲れない。 惚れた女のために、屍の山築いて、それで女を姫様になんざ仕立てあげたって、そんなの虚しいだけだろう? 寂しいだけだろう? 人を好きになるっつうのは…もっと…こう、あったけぇもんだ。 もっと、こう幸せなもんだ。 もっと……もっと、優しいもんだよ、本当は」


嵐が、不意に、慈悲に満ちた、それはそれは静かで、綺麗な、穏やかな声で言った。


「人を好きになる事の本当の喜びを、お前は知らないんだ。 可哀想に」

虎杰は、嵐に顔を向けたまま、不意に弱り果てた、子供のような声で言った。


「お前遅いよ」

「……」

「もっと早くに 俺に会いに来てくれていれば」



もしくは?







いや、そんな未来は



ない






「♪Humpty Dumpty sat on a wall
 ♪Humpty Dumpty had a great fall
 ♪All the king's horses and all the king's men
couldn't put Humpty together again」



王様の馬みんなに 王様の家来みんな合わせても
ハンプティを元には 戻せやしなかった


壊れた 卵は もう元には戻りません!






空から合唱が微かに聞こえてきた。



見上げれば、東京の夜空。
星の見えない夜空。



堕ちる。

墜ちる。

猫が。


落ちる。


チェシャ猫が、天から銀色の剣に刺し貫かれて落ちてきている。


如何なる者が、彼女を天から蹴り落としたのか?


虎杰が、どこにそんな余力が?と驚嘆せずにいられない精神力でもって、よろよろと立ち上がった。




「一度も想い人に会えた事等なかったようなのデ、本望でしょウ」


デリクは淡々と虎杰に告げる。

城も、勝利を収めたか。

安堵を覚え、エマはほっと溜息を吐く。


虎杰は、もう、何も聞こえず、何も見えない様子で、ただ、天を仰ぎ、彼女を待ちかねていた。

キメラという禁忌の術で持って、裏組織のトップに立った男。

ただ、恋の為に。

ただ、恋の為に。
滅ぶか。


満身創痍で、それでも、天を仰ぎながら、酷く明るい、悲しいほどに明るい、幸福そうな笑みで虎杰が両手を広げる。


チェシャ猫も笑った。
最期の意識で。


「やっと…会えた…」


小さく猫は呟いた。


「ずっと会いたかった」


虎杰も笑って応えた。



猫の胸を刺し貫いている銀の剣が、そのまま虎杰の心臓も刺し貫いた。
落下した猫を虎杰は抱きしめ、そして、地上に倒れ伏す。



現世と王宮、たった一度として、直接、触れ会う事もなく、鏡越しで想いを育んだ、憐れな、憐れな、恋人同士。
漸く、最期の、最期、この上ない悪辣と、暴虐の果てに、二人は抱き合う事が出来た。


悲恋の結末である。 
悲しい終末である。


しかし、悪党の恋であった。

悪党の最期であった。



「はい…お疲れ様…」


エマは、自分にそう小さく呟く。
これから先の事を考えると、ここで浸ってしまうわけにはいかなかったが、それでも自分を労いたい気持ちになるのも致し方なかった。


「お見事!! お見事!!!」



すると突然、パチパチパチと手を叩いて、「よっこらせ」という言葉と共に、何処からともなく道化が現れた。


「…っ!! お前!! なんで?!」

竜子が叫んで道化を指差せば、「さっき、魔術師殿と白雪が通じ合った時にちょっくらね」と言いつつ、そこに立つ面々を見回す。

「いやぁ、今回は君達の活躍のお陰で、本当に助かった! 礼を言う」と言いながら頭を下げる道化師に「あ、お礼は良いから、ねぇ、早く、彼、なんとかしてあげて?」とエマが指差す先には、下半身蛇の姿のまま完全に伸び切っている黒須がいて、竜子が慌てて駆け寄り「誠!! 大丈夫か?! 誠!!」と必死の声で呼んでいた。

「う…る…せぇ…」

そう言いながらも手を伸ばし、竜子の頭に手を伸ばすと、その金色の髪を優しくなでて「喚くな…響くんだよ…」と弱った声で黒須が言う。

「…ああ…よかった…」と安堵の声を漏らす竜子。

その首根っこに齧り付こうとして、今の黒須に飛びつくことすら躊躇したのか、どうして良いのか分らないと言う風に涙の堪った目を緩めて「えへへ…」と竜子は小さく笑った。

「…生きてる」
「当たり前だ」
「すっげぇ、心配したんだぞ」
「おう。 悪かったな」

黒須がそう答えながら無心になったように竜子の髪を撫で続ける。
竜子は猫のように目を細め、「みんな…が助けてくれなかったら…お前、ほんとに死んでたんだからな」と言う言葉に、黒須は頷き、それから、こちらに目を向けてくると「世話になった」と言って頭を下げた。

そんな二人の疲れた様子に「とっととお城に帰ってあげなさいな」とエマは言い、嵐が「向こうの連中にもヨロシクな」と竜子に声を掛けた。
曜が「燐に、なるだけ早く戻ってくるように伝えてくれ」と心配そうな顔で言う。
幇禍は……別段何も言うべき事が思い当たらなかったのか、笑顔で手を振っていた。

「竜子さン…ちょっとばかり、私、お城に用事がありますのデ、一緒に向かわせて頂きたいのですガ、宜しいですカ?」


そうデリクが言えば、竜子は頷き、「じゃあ、あたい、さっきの事もあるし、一足先に道をきちんと繋いでおくよ。 デリクは、その後を追ってきてくれ」と告げて、小指の鍵の力を使い、千年王宮に向かう。
竜子の姿が掻き消えたのを確認すると、デリクは道化を振り返り「貴方もご苦労様でしタ」と鮮やかに笑って告げた。


「いやいや、何々。 中々コキ使われて大変だったが、そこそこ楽しかったよ」

道化がそう言い「じゃあ、私もそろそろ戻ろうか」と言って、黒須の傍に向かう。

「いやぁ!! 酷い有り様!! ジャバウォッキー!! まぁ、丈夫なお前のこった! 大丈夫だろう、その位? ほら、とっとと帰るよ?」と手を伸ばし、その体を抱え上げようとする背中に、デリクが笑って声を掛けた。



「何処へデス? アリス」




空気の温度が、少しだけ下がった。



「道化師アリス。 ジャバウォッキーを何処へ連れて行くつもりでス? 駄目ですヨ、折角我々が助け出したのニ、貴方の手で、何処かにその人を葬られてしまってハ、元も子もありまセン」

デリクが道化を指差せば、道化は首を少しだけ傾けて笑うと、その瞬間カシャンと音を立てて、その体が崩れ落ち、黒須の上に散らばる。


「っ!!」


悲鳴めいたものをあげようとしたらしい黒須が辛うじて、叫ぶのを止め、そして、自分を連れて行こうとしていた物の正体に「んだよ…これ?!」と混乱したように喚いた。


関節という関節がぐにゃぐにゃと在り得ない方向に折れ曲がっている。

赤い糸が、その節々から垂れ下がっていた。


まるでマリオネットのように。

まるでマリオネットのように。


「いややわ…。 バレてもうた。 まぁ、流石っちゅうトコやねぇ…名探偵さん?」

道化の背後から、灰色の肌に、真っ赤な唇。 真っ黒なウェーブのかかった髪を肩まで伸ばし、白いリボンのあしらわれた、大きなヘアバンドを髪につけ、黒のエプロンドレスのワンピースを身に纏った、何処か見るからに不吉な少女が現れた。

「アリス…?」

訝しげに名を呟いた。

その名は、あの城を創ったとか言う、呪われた魔女の名前。

彼女は城の玉座に磔にされている筈なのに、何故、ここに?
「ひひひ」と口を歪めて下品に笑うと少女は「初めまして!! では、ないなぁ。 道化の格好して、色々とお喋りさせて貰うたさかい、そういう風に、びっくりした目で見られると、何や、申し訳ない気分になるわ」と言って、デリクの前に立った。
「何処までお見通し?」
アリスに問われ、「然程。 知れば知った分だケ、謎は細分化し、枝分かれをして増えていク。 いっそ、今、全て、教えてくれませんカ? 大魔女アリス」と、強請るデリク。
「…あんたは…『千年魔法の構成理論』の魔術書を持ち出しとったねぇ…なぁ、あれ、全部読めた?」
アリスに問われデリクは一度首を振る。
「そう…」とにんまり笑うアリスに「ただ、私、昔カラ、本は『あとがき』から読む癖がありマシテ」とデリクはシレッとした声で告げ、アリスは、一度ポカンとした顔を見せた後、ククゥと喉の奥で笑うと「イケズやわぁ。 その物の言い」と、何だか少し嬉しそうに言う。

何だか、デリクはあの城から、一つ重大な謎を解く手がかりとなるようなものを授かっているらしい。
魔術書なんぞ、言語マニアのエマにも解読には難航すると思われるような代物だが、それでも「新しい言葉を識る」事自体に喜びを覚える性質でもあるものだから、デリクさん、自分が読み終わったら次貸してくれないかな?なんて、呑気な事を考えてしまう。

「ちょっ!! ちょっと待て!! 悪い、話についてけねぇんだけど?」と嵐が訴え、曜が頷く。
「その…大体、君は誰だ? アリスというのは…?」と問われ、アリスは、ポリポリと頬を掻き、「そうか。 あすこを知らん子には不親切やったね」と頷いて、「色々説明するのも面倒臭いから、とりあえず、千年王宮を作った張本人と覚えて貰えりゃ充分や」と、アリスは簡単に説明した。
「王宮を…作った人? なんか…スケールが大きな話になってきて、余計に訳わかんなくなっちまった…」と、嵐が困ったように頭を掻く。
「じゃあ…なんで、こんな人形を…?」
そう曜の問い掛けに、「そっちの兄さんは、分ってるんやろうけどね…」と言ってデリクを指差すと、「もう、とっくに、本物のアリスは封印されっちまってるからねぇ…うちは、ただの幻。 ベイブが自分の心の中に抱いている幻想なのさ。 アリスは、ベイブに討たれて、お城に封じられたんだ。 ベイブは、そのせいで、アリスの呪いに掛かり、千年王宮に千年縛り付けられる呪われた王様になった。 ベイブはうちをどうしようもなく憎んでいる。 だから、うちの姿を目の当たりにする訳にはいかないし、うちはベイブの心の深層に閉じ込められて、自由に動くことは叶わない。 せやで、この人形を依巫にして、うちはずっとベイブを守り続けてきたっちゅうワケやね」と答えた。
嵐はきょとんとした顔のまま、「よく分かんねぇけど…じゃあ、あんたはその、ベイブとかいう王様の心の中にいるアリスなのか?」と問い掛ける。
「その通り」とアリスは頷くと、「どうしてなんだ? 自分を城に閉じ込めたような魔女を、どうして心の中に?」と曜が疑問を投げかけた。

その答えをエマは、前回の訪問時ウラが帽子屋の謎々に答えてくれたせいで知っていて、つまりベイブは自分をその愛情から、城に封じたアリスの事を、ベイブ自身深く想っていたらしい。
アリス自身、「だって、あの子はうちに惚れとるんやもん」と、嬉しげに、惚気るような声に、何だかメロドラマみたいよね…なんて考えてしまう。

大きな組織に引き裂かれた一組の男女…なんて昔から物語に描かれすぎた題材で、実際に目の前で、そういう目にあった人間が立っていようとも、まるで遠い世界の出来事のようにしか眺めることが出来なかった。


まぁ、確かに遠い世界での出来事ではあったのだが。



デリクが、不意に歌を口ずさむ。



「♪Humpty Dumpty sat on a wall
 ♪Humpty Dumpty had a great fall
 ♪All the king's horses and all the king's men
couldn't put Humpty together again」



マザーグースの中の「Humpty Dumpty」


魔女が問う。

「道化師が、うちやっていつから気付いてた?」

「今朝、貴方に会った時に思い至りましタ。 城の何処でも自由に行き来が出来テ、外の世界にすラ出て行ケル。 ある意味、ベイブよリ自由ダ。  だからこソ、今回のような時に、彼を救える為に奔走でキル。 この城の王様でスラ、制御できていない存在。 この城の王様を、千年王宮内ですラ越える存在。 そんなの、一人しかいナイ。 この城を作った人間しカネ?」
デリクがつらつらと並べ立てれば、アリスは「ウラが賢い子に育ったのも、分る」と頷いた。

「うちは、うちであって、うちやない。 所詮は、あの子が心の中に作り出した『理想のアリス』。 狂おしくあの子を想って殺されっちまった、可哀想な女の影。 それでもね、あの子を想う気持ちは本物。 だから、道化師になって、ずっとあの子の傍で、あの子を見守ってきた」
踊るような足取りで、アリスは血の池の化した床を、ゆっくりと歩き回る。

エマは、そのアリスをゆっくりと目で追いながら「…黒須さんを連れて行ってどうするつもりだったの?」と囁いた。

「次の人形にしよか思て」

エマの声に、アリスは笑みを深める。


「人形? こんな風に?」
黒須の上で無残な姿を晒す道化師人形をエマが指差せば、「今、一番ベイブの身近にいるんは、その男やで、バラバラに一回切断して、赤い糸をつけて、うちの思い通りにしたろうと考えたのに…」と言い、恨みがまし気にデリクを横目で見る。

「普段のジャバウォッキー相手なら、いかなうちとて早々好き勝手は出来へんけど…」
そこまで言ってアリスがついと掌を翻す。

「…こんなジャバウォッキーなら、抵抗なんて許さない!! 一度人形にしちまえば、笑うも踊るも歌うも殺すも、何もかも私の思い通りさ!」
ガバリとその身を起こし、人形が黒須の肩を掴んで、その顔を寄せる。
黒須が目を見開いて、「は…離せっ!」と、逃れるように仰け反ると、エマは黒須の身を案じて道化の肩を掴み「これ以上、もう、黒須さんを苦しめないで」とアリスに叫んだ。
だが、アリスは戸惑うように首を振り、腕をだらんと下に落とす。
すると、道化も、また元のように人形の姿に戻り、アリスは少し顔を顰め「こいつは、長く依巫にしすぎた。 人形は、唯でさえ、意思を宿しやすい媒体。 最近勝手な動きを見せる事があんねん。 そこら辺の関係もあってね、新しい人形が欲しかったんやけど…」と惜しそうに黒須に目を向け、溜息を吐いて「残念やわ…」と呟く。

「そんなに傍にいたいのでスカ? ベイブさんの傍ニ」

デリクが、愉快そうに問う。

アリスは当然という風に頷くと、灰色の目を細めて問うた。

「なぁ? そんなうちって気が狂っとる?」

デリクは、まるで、望まれているという風に頷いて「エエ。 とってモ、とってモ、気が狂ってまス」と笑い答える。


アリスは、まるで、デリクが満点の答えを出したように手を叩き、「うちは気が狂っとる。 あの子もや。 正気の者など、あの城にはいない! 一人だって! 一人だって!」と叫んだ。

アリスの言葉を聞きながら、エマはあの城の歪みを思う。


ここまで来れば、エマにも分った。


メロドラマのような恋物語。


まぁ、そんなもんじゃなかったわけだ。

もっと、もっと、生臭く。

もっと、もっと、陳腐で。

もっと、もっと、禁忌の恋。


アリスは一体何者なのか?


時の大魔女アリス。

狂った女アリス。


人を強く想うという事は、何にしろ、気が違っているという事だ。


あの城は、アリスが作った揺り篭。
赤子を千年の眠りにつかせる為の綺麗な揺り篭。



ねぇ? 揺り篭の中に赤ん坊を寝かしつけるのは、誰の役目?




答えは、簡単。




「貴方の出番はもうありまセン。 揺り篭に帰りなさイ。 ベイビーがお待ちカネですヨ? マム」





母親が、息子を愛する事に理由はいらない。



息を呑み、シンと静まり返る空気の中で、デリクが朗々と語りだす。


「かって、時の大魔女アリスは、自身が生きる悠久の時の中で、誰の子か明らカニなっていナイ、一人男の子を孕み、産み落としタ。 生まれながらにして数奇な運命と数多の謎を背負ウ、その子供は生後間もなく、聖CAROL教会が有する聖騎士団の手により保護されたが、自分の血を分ケタ、最愛の息子を奪わレル事となったアリスは悲しみに沈み、時の迷宮の中で自らの心を癒す為に長い眠りにつイタ。 アリスの子ハ、その間、母親から譲り受ケた魔法の才と、誰かは分からぬ父譲りの剣の腕にて、騎士団にて頭角を現し、団長の地位にまで登りつめ、1700年代初頭に行ワれた《魔女狩り》ニて、皮肉にも己の母の討伐を命じらレル。 激しい戦いの中、宿敵としてお互いの正体を知らズニ出会ったアリスとその息子は、更なる悲劇! 狂気と禁忌の恋に落ちてしまったのであっタ…」

デリクは口を噤み、それから「私が、あの王宮より頂いた、貴女がお書きになられた、『千年魔法の構成理論』の巻末に記された、大魔女アリスの略歴の一文です」と言う。

そして「母と子の禁断の恋…なんテ、余りに陳腐デ初めて目にした時は、思わず笑ってしまいマシたヨ。 許されざる感情か否カハ、世間一般というものから、どうニも、ズレているそうなノデ、私にハ貴女に言うべき言葉一つ見当たりませんガ…」とそこまで言ってデリクは肩を竦めた。

「…貴女が、どんな狂った母親だろうガ、女だろうガ、今は黒須さんを、無事、あの城に帰してやるノガ得策でス。 貴女には、ジャバウォッキーは無理ですヨ。 魔女。 所詮、幻に過ぎぬ貴女が表出し、悪戯に現世を掻き乱すモノではなイ。 道化人形一つ、制御しかねル貴女には、ベイブの側仕えハ荷が勝ちすぎル。 とっとト、引っ込みなさイ」

そうデリクが言えば、アリスは突如高らかに笑い始めた。




狂ったように腹を抱え、ひーひーとけたたましい声を発する。




アリス。

ベイブの母の名前。


アリス。

時の大魔女の名前。



アリス。


息子への、禁忌の恋に狂った、憐れな、哀れな女の名前。



アリス。



ALICE.






「生意気だよ。 魔術師」



突如笑いをピタっと止めたアリスが、無表情にそう囁いて、そしてその体が掻き消えた。

黒須に折り重なるように倒れていた、道化がずぶずぶと血の池に沈んでいった。

黒須が混乱極まる顔で、「な…んなんだよ…」と呻く。

幇禍も一体何が何なのか、分りかねる事ばかりだが、所詮は己に関係のない城の話。
どうでもいいやと、感情の外に投げ捨てた。

嵐が気の毒気に黒須を見下ろし「よくは分かんねぇけど、ややこしい立場みてぇだな。 おっさん。 何か、相談事があるなら、電話して来いよ。 また、話聞いてやるから…」と明らかに同情丸出しな声で言いつつ、携帯番号が書いてあるらしい紙を渡している。

なんだか、ガクリと肩を落として、その紙を握り締める黒須の肩をポンとエマは叩き、「まさか…アリスが、ベイブさんのお母様だったなんてね…」と呟いて、「どうすんの? これから」と黒須を見下ろす。

「どーするも、こーするも、ベイブがすげぇマザコンだろうが、あの道化の正体がアリスだろうが…俺にゃあ、どうしようもねぇ話だよ。 せいぜい、これまで以上に道化に寝首を欠かれぬように気をつけるだけさ」

そう黒須が投げやりに答え、デリクが肩を貸して起き上がるのを助けてやりながら、「それガ賢明でしょうネ…」と頷いた。

「幻とは言え、アレはアリス。 現世ならともかく、あの城で振るう力は絶大なモノと思われまス。 とはいえ、あの道化人形自体、自らの意思を持チ、貴方を自分と同じ、人形に仕立てようと狙っテいるのも、真実」
何だか聞けば聞くほど…な状況に、「上司は、ドS気味の犯罪級マザコンで…同僚はそんな上司命!!な意思疎通困難鏡娘に、中の人は上司のお母さんでした☆、ケド、最近は自分自身で動けるようになってきて個人的にもお前の命狙い撃ち♪な人形男。 一緒に城で暮らす唯一の心の拠り所になる筈の竜子ちゃんも、天災的トラブルメーカーだし、なんか…なんか…」と言いつつエマは、余りに状況が凄すぎて、幾分これ、面白くね?という心境に陥り、堪えきれずに半笑いになって「ガンバッテ★」と両手拳をぐーにする。

「他人事だろ? 凄い他人事だろ? しかも、面白がってるだろ? 最早面白がってるだろ?」

半眼になり、そう言い募る黒須に、幇禍も同情したように、「俺も、そんな黒須さんの力になりたいんで辛くなったら、是非ここに電話して下さい」と言いつつ思いっきり「117」と書かれたメモを手渡すって、それ時報の番号だね?!
「ほーう…お前は、俺に困った時に、時報を聞かせてどうしたいんだ?」と黒須に問われ、チロっと舌を出すと、「昔は、交換機の仕様で、同時に時報へ電話をかけてきた人と会話ができるという現象が起こったそうなので、せいぜい、何度も、何度も掛けなおして、そこで繋がった人にでも相談してはいかがでしょう?という俺の優しい心です」と照れた仕草を見せつつ幇禍は言う。
「うわー、懐かしい!! 流行った! それ、俺が若い頃、すげー流行したし、その現象を知ってるお前が凄く怖い!!ていうか、今はもう、絶対、そういう事起こらないらしいけどね! だから、何回掛け続けても、そんな見知らぬ相談相手に繋がる事はないけどね!! そもそも、見知らぬ人に、こんな状況どうやって相談すればいいか一切見えないんだけどね!! そして、お前が『え? 結局、それ、絶対相談に乗ってやんねぇよ!って事じゃん?』みたいな台詞を、なんで照れながら言うのかも全然見えない!」
そう黒須が、現在見るからに「瀕死!」の状況ながら命懸け的鬼気迫る勢いでツッコンでくるのを、カラカラと笑いながら「わぁ! この勢いが鬱陶しい!」と爽やかにいなす。

ぜいぜい肩で息をしながら「もう…いやだぁ…」と心からの声で呻く黒須を、嵐と曜が暖かな、なんか遠い、凄い遠い目で見下ろすと、「よかったな、おっさん。 良い友達に恵まれて」と、かなりの棒読みで言い放ち、曜も「感謝する事だ。 人間関係は、何よりも貴い財産だからな」と、これまた、棒読みで黒須に告げた。
完全に見捨てた!!という態度を明らかにした二人に黒須がヨロヨロと手を伸ばせど、デリクが、そんなやりとりを一切無視し「サァ! 黒須さン! 遊んでないで、行きますヨ?」と腰に手を当て、やけに張り切った声で告げる。
「遊…ばれては…いたな…」と項垂れつつ、黒須が自分の舌にある鍵穴に、霧華の小指を突っ込んだ。

「んじゃ…本当に助かった…ありがとう」

そう素直な声で告げ、小指の鍵を捻った瞬間、黒須とデリクの姿が掻き消える。
さて、漸く厄介事が全て終了し、さて、じゃあ、興信所に報告にでも…と踵を返しかけた時、タッタタッタと複数の足音が聞こえ「周囲への警戒を怠るな!」「爆発に気をつけろ!」等の声が聞こえてくる。

すっかり忘れていたが、そういえば、ビルの周りはエラい騒ぎになっていたのだ。

「騒ぎが収まったのを見て、警察が踏み込んできちゃったみたいね…」

エマは眉を寄せ「さぁて、面倒な事になっちゃったわ?」と小首を傾げると、それぞれメンツを見回した。

嵐、幇禍、曜と、三人とも、誰かの手を借りずとも危機を自分で脱する事の出来る面々だ。

コクンと頷き、一人一人の顔を覗きこみながら、エマは「みんなも多分、聞いた事があると思うんだけどね?」と何だか呑気な声で語り始める。
その口調に引き込まれ、三人、身を屈めるようにエマの顔を見返せば、「小学校の遠足で、全ての日程が終わってさぁ、解散という時に、先生は、こんな名台詞を口にしたものよ…」と、そこで一回息を吐いた。


「お家に帰るまでが 遠足です」


真顔で告げられた言葉に、何だか三人、言葉以上の重みを感じてくれたようで、真剣な顔をして皆、コクンと再度揃って頷く。

「ここで、誰か一人でも捕まって、興信所との繋がりを知られるとエマさんは、とっても、とっても困ります。 とはいえ、皆さん、もう、立派な大人! 自分の身は自分で何とかしつつ、ここで、先生は解散を宣言させていただきます。 あとは、それぞれ、無事に帰宅して、この遠足をきちんと終わらせてください」

そうまさに先生口調で言い終えると、据わった目で一声叫んだ。




「とっとと、ズラかるわよ!!」



さて、そんなこんなで、雪崩れ込んできた警官に紛れ、何とか脱出を果たしたエマ、興信所に戻れば、武彦が「そろそろ帰ってくるかなと思って」なんぞ言いつつ、お茶を入れて待っていてくれた。
TVでは、まさしく先ほどまでいたメサイアの、屋上部分の崩壊が映されていて、「派手にやったな」と言われてしまう。

屋上に顔の突き出した、虎杰の目撃証言が、これからきっと、かなりの数出るだろうが、こういった事件は大体集団ヒステリーによる妄想と片がつけられるのが常だ。
とはいえ昨今は、予期せぬ事態を目にすると、携帯等で動画を収めている者がいたりするものだし、至る所に散らばるキメラ達の屍骸や、『背徳』にて眠ったままの今日の客達から、オークションの事やキメラの事が明るみになる日も近いだろうと推察する。
そうなれば、あのような馬鹿な組織が生まれる事もなくなるだろうし、K麒麟を完全に壊滅させられるだろうという事を考えると、エマにしてみれば大変望ましい結末が待っているような気がした。

熱いお茶を啜り、ほっと一息吐き出して、それから武彦の顔をマジマジと眺める。

「何?」

咥え煙草で問い返され「んー? 何でもないっていうか、武彦さん。 お腹空いてない? 何か作ってあげよっか? 食べたいものある?」とエマが聞けば「何だよ。 いきなり」と少し驚いた顔をした。

「いや、なんか、作りたい気分になって…」といいつつ、忙しない仕草で立ち上がるエマを、武彦も立ち上がって、その肩を掴んで引き止める。

「どうした?」

顔を覗きこまれて、エマは困った。


兎角、冷静沈着を旨としているので。


あんまり、弱った姿を武彦にとて見せたくない。

見せたくないと決めているのに。

いつも武彦はエマが弱っている時を見抜いて、こうやって顔を覗きこんでくるので。

エマは困り果てたまま、ポスンとその胸に倒れこみ「う…ううう…うぅぅ…」と小さく唸った。


フラッシュバック。


シャットアウトしていたものが、雪崩を打ってエマに襲い掛かる。


「うぅぅ…う…うううう…」

救えなかった命。


『か…え…りたい…よ…。 おか…さ…ん…おと…さ……ん…。 な…んで? いやだ…こ…んな所で…死にた…くない…』

キメラの嘆き。


「何があった? 全部話せ」

そう体を抱きしめられ、優しく優しく揺さぶられ、エマは、もし、キメラ達の家族や恋人、友人がそうであったように、この人を失う事があれば、それより怖い事なんか、この世の中には何もないと思いながら、体中の力を抜いて、結局武彦に甘える事にした。


抵抗なんか 出来たもんじゃなかった。



その後、経過を説明し、一頻り泣いて、喚いて、憤って、少し心が軽くなったエマ。

自分の家に帰宅しつつ、またお礼しなきゃね…なんて、考える。
自宅に辿り着き、扉の鍵を開けようとした時だった。


「発狂運輸です」

突然背後から声が掛かり、振り返れば、顔中に包帯を巻き目だけ覗かせ、昔の郵便配達人が着ていたような、真っ黒な制服と制帽を被った男が、無表情な声で「判子お願いします」と言いつつ小包を差し出してきた。

正直、エマじゃなければ、気絶もんのシチュエーションだと思う。

「え…と、判子…は…」と言いつつ、自宅を振り返れば「あ、サインでも結構です」と言いつつペンを差し出してくる。

意味も分からないまま、受取証にサインをすれば、小包を手渡され、平淡に「ありがとうございます」と呟き、くるりと背を向け、真っ黒に塗りたくられた自転車に跨り、宅配人は立ち去っていく。

呆然と見送ったあと、「発狂運輸」の名称に効き覚えがあり、思い返せば、チーコに関わる旅路の最中で黒須が「ベイブが経営している」として口にしていた運輸会社だったと思い至った。
差出人を見れば案の定黒須の名前。
家に入り、小包を開ければ、中には緩衝材が詰められてる真ん中に、黒い液体が極少量入った試験管が収められていた。

「ああ、…お礼」

これは、黒須の牙毒に間違いないだろうと察し、早速送ってきてくれた律儀さを少し笑う。


「ありがたく研究させて貰います」と試験管に向かって語りかけ、ゆらゆらと左右に揺さぶると、その真っ黒な液体が、まるで為す術なしともいう風に、エマの手の動きに合わせて、チャポンと水音を立てた。

後日、武彦の携帯の待ち受けが、まさかの自分のフロアレディ姿に設定されていて、そのせいで、武彦の顔に大層自分の爪の引っ掻き傷をつけてやる事などは、未だ知らず、エマは、何だか面白そうな研究材料が手に入った事ににこりと満足の笑みを浮かべるのであった。













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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【3432/ デリク・オーロフ  / 男性 / 31歳 / 魔術師】
【3343/ 魏・幇禍 (ぎ・ふうか) / 男性 / 27歳 / 家庭教師・殺し屋】
【0086/ シュライン・エマ / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【7521/ 兎月原・正嗣 / 男性 / 33歳 / 出張ホスト兼経営者 】
【3678/ 舜・蘇鼓 (しゅん・すぅこ) / 男性 / 999歳 / 道端の弾き語り/中国妖怪 】
【4582/ 七城・曜 (ななしろ・ひかり)/ 女性 / 17歳 / 女子高生(極道陰陽師)】
【2380/ 向坂・嵐/ 男性 / 19歳 / バイク便ライダー】
【2863/ 蒼王・翼  / 女性 / 16歳 / F1レーサー 闇の皇女】
【3427/ ウラ・フレンツヒェン  / 女性 / 14歳 / 魔術師見習にして助手】
【4236/ 水無瀬・燐 (みなせ・りん)  / 女性 / 13歳 / 中学生】

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■         ライター通信          ■
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お届けが大変遅くなって申し訳御座いませんでした!
前編・後編共にご参加頂けた事を心より感謝します。

それでは少しでも楽しんでいただけたら幸いです。

momiziでした。