|
月齢11.3
月が満ちる。
満ちていく。
みなもの身体に張り付いて、心にまで忍び寄り、自我にまで手を伸ばす『モノ』も、み
なもの細胞に浸透し、満ちていく。
みなもの全てを掌握しようと。
月齢11.3。
丁度猫の瞳を縦にしたような半月より少し膨らんだ楕円の月を見て、みなもは公園のベ
ンチの上で「にゃあ」と鳴いた。
人間の姿を取れる時もあるし、一日中ほとんど猫のままの時もある。
猫らしい気まぐれさでみなもを振り回す寄生者。
けれど月が満ちていくのに呼応するように、確実に猫の姿でいる時間が長くなっている
気がする。
―――満月になっちゃったら、あたし、どうなるんだろ?
猫の姿で溜息をフーっと吐く。
月の満ち欠けを人の手で止めることが出来ないのと同じように、みなもは自分の変化の
前で為す術無く身を縮こませる事しかできなかった。
家に帰りたいと切実に思う。
家族に触れて、暖かい時間を温かい家で過ごしたい。
母親の作るご飯を食べながら家族と話しをし、テレビを見て笑い、携帯音楽プレイヤーでお気に入りの音楽を聴きながら本を読みたい。
お風呂に入りたい、お気に入りのソープの残り香に包まれて、柔らかいベットで眠りた
い。
寂しい。
友達や家族に会いたい。
けれど会ったところで、誰が自分をみなもとわかってくれるだろうか?
みんなに会いたい―――そう思いながら丸まっていると、カッと目の眩むような懐中電
灯の明りが目に入った。
人間の気配に身体が総毛立つ。
人間は優しいけれど、危険。
それはここ数日でよく身に染みた。
食べ物をくれる者もいれば、自分を暴力的に追い払う者もいる、無遠慮に勝手に身体を
触り回す人間多い。
咄嗟にベンチから飛び降りて、茂みの中に走り出そうとした瞬間、その聞き覚えのある
足音に心が震えた。
足音と、空気に漂う嗅ぎ慣れた匂い。
懐中電灯の刺すような光が別の方向に向けられ、公園の街灯がその人を照らし出す。
「パパ」
思わず口に出して言ってしまった。
もちろん唇から実際に溢れたのは「にゃにゃ」という不明瞭な音だったけれど。
でもそれに気がついたように、懐中電灯を手にした父親がみなもの所にやってきた。
「……」
穏やかな眼差しでみなもを見下ろし、そしてゆっくりと手を差しのばされた。
「にゃあああ」
あたしだよ、みなもだよ。そう一生懸命鳴きながら父の掌に顔をこすりつける。
父は何も言わずに優しい手つきで、みなものおでこと喉元を慰撫するように撫でた。
「にゃああん、なーん」
優しいパパ、大好きなパパ。けれど彼がどんなに優しくても、見知らぬノラ猫を家に連
れて行ってくれないだろう。
けれどこのまま別れてしまうくらいなら、怖がられたっていい。そう思ってみなもは父
の手の内から離れると、にゅ、と伸ばした爪で地面の砂の上に字を書いた。
『パパ あたし みなもだよ』
猫の手で書いたので、けして見やすいとは言えない字だけれど、でも読むことは出来る
筈だ。
父親はそれを見て―――そして、そのまましばらく何も言わず、動きもしなかった。
『しんじて ほんとうに みなもなの』
「にゃああ!にゃああああ!」
一生懸命地面に鳴きながら地面に文字を綴ると、父はゆっくりと立ち上がった。
「にゃーあー!」
帰ってしまうのかと慌てて「パパ!」と叫ぶみなもの身体が、ひょい、と抱き上げられ
る。
「捜したんだよ…みなも」
そう泣いてるように擦れた声で囁きながら、父はみなもの身体を胸に優しく抱きしめた
。
***
父の胸に抱かれて数日ぶりに戻った自宅は、何年も帰っていなかったような懐かしさに
溢れていた。
カーテンの引かれた父の書斎に入り、月の光が遮られているお陰だろうか、父がリビン
グとキッチンに行っている間に猫から着ぐるみの姿に戻ることが出来た。
もちろん着ぐるみを脱ぐことは出来ないので、半猫人といった中途半端な姿なのだが。
お腹が空いているだろうと、父の用意してくれた簡単な食事を摂りながら、みなもは事
の顛末を1から説明した―――カナリアを口にした事だけは話さずに。
「…という訳なんだけど」
父の椅子に腰掛け、くすん、と鼻をならしながらみなもが言うと、うーんと小さく唸り
ながら眉を潜めた。
だがすぐにみなもの手をぎゅっと力強く握る。
「とにかく戻れるように色々やってみよう!大丈夫!お父さんがなんとかしてあげるよ」
普段頼りない父が、こんなにも頼もしげに見えたのは初めてで、みなもは胸が熱くなっ
た。
「とりあえず、本を探してみよう」
そう言って本棚から、解呪について載っている本が無いか探し始めた父。
一番上の段から取ろうとした本が手を滑って額に直撃し、痛い!と額を抑える姿ですら
、今日ばかりは情けないとは思わなかった。
***
「こんな所かな」
そう言って家中をかけずり回り、近所の24時間スーパーで買い求めた物を床に並べて父
が鼻を鳴らした。
「これが、効くの?」
訝しげに問うみなもに、父も首を傾げる。
「一応…呪いに効くって本に書いてあったし。とにかく試してみよう!」
そう言われては、みなもも頷くしかない。
「じゃあまず銀貨から試してみよう」
そう言って父が銀貨を一枚手に取った。
ペタン。
みなもの額に銀貨が押し当てられる。
「……」
しばしの沈黙。
「何もおきないよ?パパ」
「そうだね、じゃあ鏡を試してみよう」
銀で作られたという鏡を手渡され、素直にみなもは鏡を覗き込んだが、相変わらず半猫
な姿のみなもが、猫の瞳でこちらを見返しているだけだった。
「次、塩かな」
はらぱらと塩をかけられ、みなもはプルプルと身体を振るった。
「これも駄目か…鰯の頭も魔よけだって言うから買ってきたけど…」
生の鰯の首だけ渡され、みなもは困惑して父を見た。
「頭…をどうしたらいいの?」
そうだよなぁと呟きながら、今度は日本酒を一本みなもに手渡す父。
「じゃあこっちは?お酒のお風呂」
言われるまま今度はバスルームへと向かう。
久しぶりのお風呂とても気持ちよかったが、心に住み着く猫の本能か、時々無性に水が
恐ろしく感じた。
「水が怖い人魚って、変なの」
苦笑しながら日本酒たっぷりの風呂に浸かったものの、気持ちが良かっただけで着ぐる
みは結局取れる気配も見えなかった。
再び父の部屋に戻ると、父の手には怪しいどろどろした液体がたっぷりと入ったコップ
が握られていた。
嫌な予感がして、みなもは眉を潜める。
「パパ…それは?」
「魔よけになるっていうハーブとかを全部ひっくるめて、ミキサーにかけてみたんだ!」
これなら絶対に効くよ!と、そう言って差し出された液体はお世辞にも美味しいとは思え
なさそうな、凄い匂いを漂わせている。
中身はローレル、セージ、ローズマリー、キャラウェイシード、レモンバーム(全て料
理用ハーブだったらしく、乾燥されたものだ)に、ヘーゼルの代わりのヘーゼルナッツ、
紫蘇がなかったので紫蘇の入った梅、ラベンダー、カモミールが入っているというハーブ
ティー、桃のかわりの桃缶、生のニンニク、カボチャ、小豆、そして先ほど使用方法に困
った鰯の頭。
「……」
手渡されたコップを見下ろし、思わず言葉を失うみなも。
父はどうしたの?という風にみなもを見ている。
「これ…本当に飲まないと駄目?」
おずおずと言うと、父は寂しそうな目でこちらを見た。
「や…やっぱり嫌だよね、でももう他にこれしか思いつかなくて」
頼りにならない父親でゴメン、としょんぼり肩を落として床に座る父を見て、みなもは
胸がズキっと痛んだ。
「やっぱり飲むよ!ごめんねパパ」
飲まなきゃ!そう思ってコップを握りなおすと、中でどろりと黄土色の液体が波打つ。
「けほっ」
立ち上った悪臭に思わず咳き込むが、不安そうな父の視線に気がつき、一瞬にして萎み
かけていた覚悟を取り戻した。
「…うん、飲みます」
そもそも自分のために飲むのだ、この猫の呪縛から逃れるために。
なんとしてでも人間に戻って、大切な毎日を取り戻すのだ。
父も力になってくれている、絶対に大丈夫!
力強くコップを握りしめ、息を止めてグラスの縁に唇を寄せ、目をきつく閉じて一気に
煽った。
不快な温度の液体が口内に満ち、まるでゼリー状の怪物のようにどろりと粘膜を撫で回
して、喉の奥に落ちていく。
ごくりと勢いよくグラス半分ほど飲み下した所で、形容しがたい毒々しい味にみなもは
嘔吐しそうになった。
だがそれを寸での所で止めたのは、一瞬にして身体に襲い掛かった『痛み』だ。
「ううっ」
全身に針で刺したような痛みが走り、みなもはグラスを落として床に膝を着く。
自分で身体を抱きしめて痛みに仰け反ると、慌てて父が駆け寄った。
「みなも!?」
ガクガクと全身が震える。
「くるし…っ、痛っ…っ息がっ」
きゅうっと喉の奥が狭まって呼吸が出来ない、体中が痛い、そして重い。
「大丈夫かい!みなも!みなも!!」
父が必死にみなもの身体を抱きしめる中、みなもは意識を手放した。
***
目が覚めた時には、自分の部屋のベットの上だった。
「起きたかい?」
父の声に気がついて、けだるい身体を起こすと、その手には鏡が握られていた。
「…私、気を失ったの?」
そう問うと、父は頷く。
「とても苦しそうだったから心配したんだけどね。でも―――ほら、見てご覧」
差し出された鏡を覗き込むと、そこには人間の姿のみなもが映っていた。
「あたし、元に戻れたの!?」
思わず鏡を放りだし、父にの首にぎゅっと抱きつく。
「そうだよ、薬が効いたのかどうかはわからないけど…」
あんな薬が本当に効いたなんて父も意外のようだが、飲んだみなも本人も驚いた。
「ただね、ある本には呪いを解くには強い心が一番大事だって書いてあったんだ。だから
元に戻りたい!っていうみなもの強い気持ちが、呪いを跳ね返したのかもしれないよ」
そう言われ、みなもはううん、と首を横に振る。
「あたしだけじゃきっと無理だった…パパが、一緒に戦ってくれたからだよ」
きゅうっとこみ上げてきた熱い涙で父の首元を濡らしながら、みなもが言う。
「そうかな…じゃあ2人の愛の奇蹟って事にしよう」
その言葉に、ぷっとみなもが吹き出すと、父も同じように笑い出した。
「…まぁ、本当はまだ終わってはいないんだけど」
小さな声で、父が呟く。
「え?何か言った?」
不思議そうに問い返すみなも。
喜びに浸る彼女のそのお尻に、まだ猫の尻尾が残ったままな事に彼女が気がつくのは、
もうしばらく後の事だった。
fin
***
ありがとうございました、Siddalです。
「パパ」と呼んでいるのか、「お父さん」なのか悩んだのですが、みなもちゃんの雰囲気から「パパ」と呼ばせていただきました。
「お父さん」の方が宜しければ、すぐに修正しますので、お手数ですがご連絡下さい。
またその他修正、ご意見、ご希望が御座いましたら遠慮なく仰ってくださいませ。
また機会がありましたら、どうぞ宜しくお願いいたします。
|
|
|