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【出撃のバトルメイド ー6】
頭から地面に落ちた。
カチューシャはどこかにいってしまったのだろう、後ろに撫でつけていた髪が、前髪に混じって頬にかかる。
額とこめかみのあたりがズキズキと痛む。
触ると、手袋越しに血のぬめりを感じた。
死ぬ――
殺される。
視界には、ヒビの入った眼鏡がある。それを投げ捨て、身構える。
全身に力を込め、意識を巡らし、麻痺している感覚はないかどうか、確認する。
四肢のあちこちが痛い。とくに特殊素材の生地に覆われていない、腕や太もも、無駄に広く開けられた胸元が赤く腫れ、血が滲んでいる。
ごくり、と血の混じった唾を飲み込む。首に巻いたチョーカーが、咽喉を動かしているのを鮮明に感じさせる。
両膝を少し開けば、ガーターベルトのストラップの感覚がない。外れてしまっているのだろう。
ブーツの中、左の脛は相変わらず痛みを訴え続けているが、右足は無事なようだ。ソックスの中の指も動く。
まだやれる。
まだ生きている。
生きのびてやる。
もはや任務どころではない。
館の主人は、すでに地下シェルターに逃げているはず。ファングが侵入した際の、窓ガラスが割られたときに、渡しておいた警報器が鳴っているはずだから。結界が張ってあるあそこなら、気配を読まれることもないし、隠し扉を探り出すのは骨が折れるはずである。もっとも、運が悪ければ見つかるのだが。
ま、さしあたって私だけか。運がないのは。
「根性はいい」
ファングが汚らしく咽喉を鳴らした。
「よくいわれる」
息を吐く。
ため息ではない。
腹の奥の空気をすべて出し尽くす。
息を吸い、胸を膨らませるのではなく、腹に溜めるのでもなく、肋骨の横、脇腹に注ぐように気を詰めていく。それを何度か続ければ、背筋を伸ばし、腰を落とした構えを取る身体の中に、気の柱が一本通ったような感覚がする。
「準備はいいか?」
こちらの準備が整うのを待っていたのか。
「余裕ね」
「貴様の目は、もう死んでるからな」
ぞくりとした。
気を張ったのに。
「青っちろいツラは、死相だ」
いま溜め込んだ気がすべて、するりと抜けていくような感じがした。
ぶんっ、と風を切る音。
「――っ!」
ファングは掴みかかるように、半ば開いた手の先にある、鋭い爪で空(くう)を裂く。
いや、間一髪後ろに跳びすさり、かわした私の、その浮かび上がったスカートを切り裂いた。
背中には壁。
続いて、左の爪が突き出される。
私はその腕に向かって蹴りをはなつ。
手首に当て、いなすように押しのけるが、力はファングの方が強い。
いなしきれない。
とっさに、ファングの腕を踏みつけるようにして、その上に乗る。
足を開き、殴りかかってくる反対の腕を押さえつける。
開脚したその股は、先ほど切り裂かれたスカートの切れ目からショーツが見えているだろう。太ももの内側まで見えてるはずだ。そこに向かって、ファングの足が蹴り上げられる。
私は左足に重心を移動させ、後転ぎみに頭を下に、右足を上に、右手を下に伸ばしつける。伸ばした右手でファングの蹴りを横にいなす。その蹴り上げる、上への力を利用して、足を右手で弾き、勢いをつけ身体を回転。今度こそ空中で後転し、左踵をファングの肩にぶち当てる。
「ぐっ」
呻いたのは私。
左足の脛が尋常ではない痛みを訴える。
それでも膝を曲げ、ファングの巨躯を飛び越えるべく、背を丸める。
短いヒールをその肩に引っかけて、伸び上がる。だが。
腰が引かれた。
エプロンの背中の帯が引っ張られた。
そのまま地面に叩きつけようとしたのだろうが、エプロンの素材は普通の布。ファングの爪に裂けてしまった。
背中から自由落下する身体をひるがえそうとしたときだった。
左の脇を殴られた。
そのまま地面に落とされることなく、猛烈なラッシュを受けた。
翻弄された。
巨大な肉の塊が、銀の鬣(たてがみ)を振り乱し、舞う。
殴られる一撃、蹴り上げられる一撃、頭突きを食らう一撃。そのひとつひとつが凄まじく重い。
許しを請いたい。
やめてくれと。
だが、声を上げる暇さえない。
連撃を受け続けれる間は、歯は食いしばる。
力を抜けば、私の四肢は、この首は、おそらくもげる。
あの力強い一撃に、容易く持っていかれるだろう。
どれくらい、いたぶられたろう。
最後に、両手を握りしめた拳が背中にぶち込まれ、私は絨毯に倒れ伏した。
動けない。
「立ち上がれ」
無理をいう。
喘ぐように呼吸する。吸うたびに、吐くたび、胸が上下し、腹が動く。そのいつもの動きにさせ全身が痛む。
ごふっ、と吐血。あちこちが痺れ、右の肘が痙攣している。
そうして気づく。
右腕も、左腕も、胸骨も肋骨も、何本かは折れている。ヒビが入っているのを数えれば、気を失いそうになる。それでなくとも、ファングの力で殴られ、蹴られた箇所は腫れ上がり、内出血に赤く滲む。その爪に裂かれた肌は、肉から血を流している。口からも鼻からも、とうに血が流れている。
鼓膜がおかしくなったのか、耳の奥で呼吸の息が、血流が唸っている。
そのベールのかかったような聴覚を超え、ファングの、いきり立つような声が聞こえた。
「戦うために、貴様はここにいるのだろう?」
顔だけ動かし、ファングを見上げる。
白銀の獅子。
威圧的な巨大な身体。
凄みのある赤い瞳。
鋭い牙が並ぶ、裂けた口から荒い呼吸の音が鳴る。
――獣め。
お前は、戦うためだけにここに来たのか。
剥き出しの本能。
戦闘は生存のための本能。
そこに理性はない。
相手に達するべき目的があれば、それを着実にこなす理性が発揮される。
だからこそ、こちらが理性でもって対処すれば、その目的を阻止しうるのだ。
だが、その目的がない。
戦いたい。
それだけの戦闘狂。
理性もなく、ただ感情で迫られれば、気の弱い方が負ける。
私は、ファングの気に呑まれている。
ずっと、きっと初めて会ったそのときから。
死んじゃうな、私。
かすむ視界に涙が滲んだ。
乱れる呼吸が、咽喉の奥から涙を絞り出すようだ。
涙が頬を伝うたび、四肢から力が抜けていく。
完全な畏怖。
どうしようもない恐怖。
私の理性ではない部分が、ファングに敵わないといっている。
「命請いか」
許してくれるか。
命請いなど、作戦上でしかしたことはない。
この私が。
全身が震えている。
うつ伏せに倒れている私を、その左手をファングは持ち上げ、
「弱い奴が、出てくんじゃねえ。戦場は、死を相手に刻む場だ。貴様にも、俺にも刻みつける場だ。俺にそれを突きつけられない奴が、出てくんじゃねえ」
私はこいつに、死を刻まれたのか。
戦士として、私は死んでしまったのか。
この私が。
この私が――
「じゃあな、女」
ファングは去った。
それからしばらく経って、獣の咆哮が数度響き、屋敷が崩れた。
瓦解する屋敷の建材、それが降ってくるのを見つめながら、私は思った。
ファングにとって、私は殺すに値しなかったのだ。
あいつの戦場に、屍(しかばね)を晒す価値さえなかったのだ。
これは私を埋める墓標か。
「まさかね」
わざわざ奴が、こんなことをするはずはない。
あいつにも何か任務があったのだろう。この屋敷に。
そのついでに、あいつは私を殺していく。
いや、あいつを挑発し、勝手に敗けて、死んでいく。
屋敷の壁が崩れてくる。天井が落ちてくる。
それが館での、最後の記憶だった。
下敷きになり、私の身体は潰されて、圧死するところだった。
生きのびたのは、無意識のPSI(サイ)。超能力。
まだ自在に操れないから、自分から使うことはないけれど、私にはテレキネシスが備わっている。それが崩れ落ちる天井を、柱をよけて、上手い具合に隙間を作ってくれたようだ。
生きのびた、だが、この圧倒的な敗北のあと、私は再び任務をこなすことが、できるだろうか――
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