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<東京怪談ノベル(シングル)>


吾が名は敗北 (前編)


 寄りかかった壁が冷たくて気持ちが良い。
 激しい運動で火照る全身が、痛みに燃え上がる傷口が、無機物の無関心な冷たさに束の間癒される。

―――もう、私をほっといて。

 心の中で呟く。
 どうか、どうか全てのことが、この冷たい壁のように自分に無関心であったなら。
 そう願いながら、目の前に立つ男を見る。
 ゆっくりと近づいてくるむくつけき男―――鬼鮫。
「なんだ?もう終わりか?」
 くく、と喉の奥で笑う聞こえる。
「………いいえ、まだよ」
 そう、まだ。
 まだ終わっていない。
 じゃり、戦闘の衝撃で崩れた床や壁を踏みしめ、再び身体を起こす。
 むっちりとした太股を包むニーソックスが裂け、赤く覗かせた傷口から再び血が流れるのを感じたが、それでもまだ終わらせるわけにはいかないのだ。
「終わるのは、お前の方だわ」
 鉄さびの味がする唇を引き締めて低い声で言うと、鬼鮫が再び笑った。
 何がなんでも、この男を倒さなければならない―――それが高科瑞穂の使命。
 正しくはこの男を倒してこの屋敷の潜入操作を続ける事だが、こんな激しい戦闘をやり合ってしまっては、それを続行するのは困難かも知れない。
 悔しいけれど今度のミッションは失敗に終わってしまうだろう、だからせめてこの男だけでも倒さなくては。
「さあ、覚悟は出来たの?」
 唇を拭い、男を挑発するように瑞穂が口の端を笑いの形に歪める。
 戦いはまだまだ始まったばかりだった。


***

「潜入捜査はいいとして……こんな格好で潜入するなんて何処よ?まさかメイド喫茶なんて言わないわよね?」
 備品として用意された任務専用の衣装を見て、瑞穂が呆れ声を上げたのは無理もないことだった。
 目の前に広げられたのは、巷ではニコレッタメイド服と言うらしい、可愛らしいフリルのついたワンピース。
 黒と白のモノトーンはいいとして、要所要所にアクセントのようについている赤いリボンと細かいレースが、少女趣味を思わせる。
 襟ぐりが大きく開いて、鎖骨はおろか中の下着や胸の膨らみまで覗かせそうなデザインは、少女が好むものと言うよりは男性の視線を意識したものの様だが。
 スカートは3段フリルで丈はごく短く、フレアで中に履くペチコートで膨らませるようになっているらしい。
 四つんばいになれば、スカートの中が丸見えになるであろう作りに、瑞穂は眉を顰めた。
 これではスカートの中に武器を隠すことも出来ないし、蹴りを繰り出す事も躊躇われてしまうではないか。
「……まぁ、仕方ないわよね」
 とはいえ、これも仕事なのだから仕方がない。
 気を取り直して他の備品に目を通す。 
 ガーターはともかく、ストッキングではなく厚手のニーソックスで、それもご丁寧に端にはフリルとリボンが編み込まれていた。
 膝まである皮のロングブーツ……は、まぁいいとして、上に着るらしい短いエプロン(これも、しつこいくらいにレースで飾られている)に、レースのキャップ、そして白いレースで縁取りされた、黒いリボンが2本ついている。
 一本は髪に、もう一本は喉元に巻いて飾るらしい。
 用意されたマニュアル通りに、着替えを始める。
 白いレースのショーツに足を通し、ブラジャーの代わりに裏側に金属の仕込まれた白いレースのコルセットを身につける。
 防弾チョッキほど頼りになるものではないが、それでも丸腰で潜入するのだから、こんなものでも不思議に頼もしく思え、瑞穂は姿見の前でふと微笑んだ。
 ガーターベルトを付け、ニーソックスを太股まで引き上げて止めて、一応折りたたみの小型ナイフだけでもと太股に忍ばせる。
 ペチコートを重ね、モノトーンのワンピースに袖を通してみると、瑞穂が着るには1サイズ小さいように思われた。
 なんというか……胸元がぴったりとしすぎていて、瑞穂が身体を動かす度にコルセットによって盛り上げられた胸の膨らみが揺れる。
 きつすぎるという訳ではないが、瑞穂の豊かな胸の膨らみをしっかりカバーするには、明らかに布地に不足しているようだった。
 上からレースのエプロンを付け、髪を結い、頭にキャップとリボンを付ければ、完全にメイドに扮した瑞穂の姿がそこにあった。
 似合わないわけではない……というか、むしろ似合っている。
 メリハリのある瑞穂の肉体を見事に飾った衣装は、可憐であると同時にとても扇情的で、心身共に鍛え上げられた瑞穂のナイフの切っ先のような鋭さを、上手に柔らかく隠してくれている。
 羞恥心を覚えないと言えば嘘になるが、潜入捜査という点で言えば、こんな風に無害な女性になれるというのは好ましいことかも知れない。
「『似合いますか?ご主人様』……なーんて、ネ、うふふ」
 ブーツを履き、グローブに指を通してから首にリボンを巻き付け、まるで自分は飼い犬の様だと思いつつも、満更でもない表情で瑞穂は潜入前の支度を調えたのだった。


***

 やはりスカートは短すぎたと思う。
 潜入先である豪奢な屋敷の一室で、警備員を前にした瑞穂は何度も思った。
 できればこんな格好では戦いたくなかったのだが仕方がない。
 瑞穂自身がドジを踏んだわけではなく、そもそも彼女の潜入がすでに知られていたのだから、それは組織のミスというものだろう。
 それでも―――例えどちらのミスだったとしても、瑞穂が1人で戦わなければならない事には変わらない。

 追いつめられた屋敷の一室で、瑞穂は屈強な肉体を持つ1人の警備員と対峙していた。
 1人で警備をしているらしき男は、平均的な日本人男性の肉体を軽く凌駕するような、まさに鋼鉄のような肉体を持った漢だった。
 美しい程に磨き上げられた筋肉が、男の動きに会わせて躍動する。
 振り上げられた拳の破壊力は並大抵ではなかった。
 おそらくは異能力者。
 普段ならば男性相手でも全く引けを取らない、むしろそれ以上の戦闘能力を持つ事を自負している瑞穂だが、男の纏う『気』に、一瞬にして全身が総毛立つのを覚えた。
 油断無く張り巡らされた闘気が、男が間違いなく凡人を越えた能力の持ち主だという事を教えてくれている。
 相手にとって不足無し。
 久々に心ゆくまで身体が解せると、アドレナリンがあふれ出る。
 だがそんな瑞穂の勝ち気な笑みは、男を前にしてすぐに消えていった。
 一撃で壁に大きなクレーターを作るほど強力な拳と、その俊敏な動きの前に早くも瑞穂は己のペースを崩されていた。
「くっ……はぁ……っ」
 連続して拳を突き出されているだけだというのに、瑞穂はそれをかわすだけで精一杯だった。
 為す術もなく部屋の隅に追い込まれ、辛うじてといった体で男の拳を避ける。
 言うまでもなく劣勢な自分に激しい苛立ちを覚えていた。
 男は余裕の表情で、まるで小さな虫を弄ぶように単調な攻撃を繰り返している。
 右、左、右、左、と、次に来る攻撃が何処に決まるかわかっている筈なのに、身体がついていかない自分が悔しい。
 それでもなんとか男のスピードに身体が適応しはじめ、今度こそ男の拳を受け流し、反撃のチャンスを奪おうとした刹那、拳ではなく強烈な肘の一撃が瑞穂を見舞った。
「―――ッ!」
 目の前が真っ白に染まる。
 一瞬遅れで激しい衝撃と、熱い痛みが顔面を走り抜け、意識が飛ぶ。
 勢いよく床に叩き付けられた衝撃ですぐに意識を取り戻せたのは、瑞穂も異能力者であり、数々の修羅場をくぐり抜けてきた証だろう。
 それでもすぐには動けずに、瑞穂はひんやりとした壁に頬を押しつけた。
「なんだ?もう終わりか?」
「………いいえ、まだよ……終わるのは、お前の方だわ
 そう言って立ち上がり、男を挑発するようにほつれて落ちてきた前髪を後ろに払う。
「さあ、覚悟は出来たの?」
 瑞穂の言葉に、男の顔がにやあ、と嬉しそうに笑った。  
「普通の人間は立てない一撃だった。平気だって事はお前も人間じゃ無いって事だな」
 ゆっくりと歩み寄ってきた男が、瑞穂の1Mほど前で足を止めた。
「一つ教えてやる、俺は鬼鮫だ」
 こんな時に自己紹介とは妙に律儀だ、そう思い片眉を上げる瑞穂に鬼鮫は舌なめずりをする。

「俺は人間じゃないヤツが好きだ―――そいつを、殺すのがな」


 
To be continued