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<東京怪談ノベル(シングル)>


 Behind closed doors(1)


 はあ、はあ、はあ……。
 狭い部屋に響く、低く荒い息遣い。
 高科瑞穂(たかしなみずほ)は息を切らし、汗でべっとりと顔に貼りついた髪をかき上げた。
 構えを取る。
 正面にいる男……通称、鬼鮫は汗一つかいていないように見える。この男には汗腺がないのだろうか。
 そんな事はどっちでもいい。
 瑞穂はきっと鬼鮫を睨んだ。
 今はこの男を倒さないと、先には進めない。先に進めないのなら倒すのみ。
 瑞穂は一気に床を蹴った。そのまま加速をつけて跳ぶ。狭い壁を蹴り、鬼鮫の上手を取る。そのまま鬼鮫に脚を絡め、ヘッドロックをかける。
 重力のまま鬼鮫は倒れる。倒れた鬼鮫に馬乗りに覆い被さり、何度も何度も首に手刀を浴びせる。この男は怪我をしてもすぐに修復してしまうトロールの遺伝子が組み込まれている。一体何度この男を倒せば終わるのか。
 瑞穂はこの時点で彼女の行動全てが徒労に終わる事をまだ知らない。


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 瑞穂は自衛隊の中に極秘裏に設置されている近衛特務警備課に所属している。彼女の任務は通常戦力では対抗し得ない国内の超常現象の解決や、魑魅魍魎と戦う事。今回の任務も、そんな使命の一環であった。
 瑞穂ははらりと、自分のまとっていた軍服を脱いだ。
 そして、任務用の舞踏服を身にまとう。
 彼女の今回の舞踏服はニコレッタメイド服と呼ばれるメイド服であり、丈の短いフレアスカートのワンピースにレーシーなエプロンを合わせた柔らかい装束であった。
 脚にまとうのはニーソックスであり、それをガーターベルトで留める。さらに足下には編み上げタイプのブーツを履く。
 ここまでだったら、普通の館で働くメイドであろうが、彼女はそこにグローブを嵌めた。
 戦闘舞踏服。彼女の今着ている服はそう呼ぶに相応しいものだった。
 凛と前を向く。彼女の任務先がそこから見えた。


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 豪奢で煌びやかの建物の中を、瑞穂は音を立てずに走っていた。
 広い館。この館に足を踏み入れた時、瑞穂は微妙な違和感を感じていた。館は普通に豪邸と言っていい建物であり、金の持っている人間が住むに相応しい場所であろう。
 しかし、不法侵入したにも関わらず警報装置などは作動しなかった。確かに見つからないよう、使用人通路を使い、事前に見た地図や見取り図で監視カメラの場所は把握し、それに映らないよう工夫はしている。しかし、こんな大きな館がそんな不用意でいいのか?
 瑞穂は考えながら走った。
 ふいに、足音が聞こえた。
 見張りか!?
 瑞穂は壁に身体を貼り付けて、角の様子を伺った。
 一人、二人、三人……。
 彼女の隠れる壁には数人の男だと思われる影が動いていた。話し声などは聞こえないが、何かを探しているように見えた。
 まさか館の主のペットが逃げ出したとか、そんな可愛いものではないわね。やっぱり警報装置は作動しなかったんじゃない。作動させなかったんだ。私を入れるつもりで。
 まずいわね。ここで見つかる訳には行かない。
 瑞穂はきょろきょろと辺りを見回した。幸いまだ影の主は瑞穂がここに隠れている事は気づいていないようだ。
 瑞穂が見回した先には、見取り図で確認した物置らしい部屋があった。
 しばらくあそこに隠れるか。
 瑞穂は壁を見た。影は遠くなっていったようだ。ここからは去ったらしい。
 瑞穂は音を立てぬようすばやく物置に走って、そうっとドアノブを握った。
 ドアは音を立てずに開いた。
 瑞穂はそこに滑り込むように入っていった。


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 おかしい。
 瑞穂は物置の部屋の匂いを嗅いで微妙な違和感を感じた。
 物置とは例え毎日掃除をしていても物がたくさん置いてあるために匂いが篭もっているものであり、多少は埃っぽい匂いがするものなのだが、ここにはそんな匂いがしない。
 人がここに入った形跡があるんだ。
 謀られた。
 瑞穂は窓を開けて脱出しようと飛び降りようとした瞬間。


 ギュインッッッッ


 鋭い風が吹く。
 瑞穂は反射的にしゃがみこむ。
 窓枠が壊れてガラスが飛び散った。
 瑞穂が見上げると、そこには大きな男がいた。
 黒いコートを羽織った男である。サングラスをかけていて表情が読めない。
「鬼鮫……」
 瑞穂は唇を噛んだ。
「俺を知っているのか?」
 男……鬼鮫は表情なく訊く。
「有名人よ。超常能力者殺しとしてね」
 瑞穂はそろそろと窓から離れた。背を向けて逃げようとしたら、この男に殺される。
 瑞穂は少し考えて覚悟を決めた。
 どっちみちここへの侵入は館の主には感づかれている。ならここでこの男を倒しておけば、追撃をかけるのを止める予防線になるかもしれない。
 瑞穂は立ち上がって、構えた。
 次の攻撃が来た。
 瑞穂は反射的に跳躍し、かわす。
 鬼鮫の蹴りが窓枠を完全に粉砕し、パラパラと破片を落としていた。
 狭い部屋。思うように跳べない。
 瑞穂は窓だった場所をちらりと見た後、鬼鮫の次の蹴りが来るのを待ち構え、再度跳躍した。
 跳んだ勢いで天井を蹴り、そのまま鬼鮫の首筋目掛けてドロップキックを落とした。
 瑞穂のブーツの底には鉄板が仕込んである。そのままゴキリと骨の折れる音がした。
 決まったか。
 そう思った瞬間。
「それだけか?」
 鬼鮫がしゃべったのに絶句する。
 瑞穂の足に奇妙な感覚が走った。
 ゴキゴキゴキゴキゴキ
 まるで木でも生えるような感触が伝わる。
 そう言えばこの男。トロールの遺伝子が組み込まれているんだった。
 折れ曲がったはずの首は瞬時に元に戻った。そのまま首に蹴りを入れた瑞穂の足を掴むと、まるで素振りのように振り下ろされた。瑞穂は受け身を取る間もなく床に叩きつけられた。
「くぅぅぅっっっ!!!!」
 床の底が抜ける。ニスが綺麗に施されていた床は木屑と血が飛び散って凄惨な有様だった。
 瑞穂は床に手をつき掴まれていない脚を鬼鮫の首に絡める。
 そのままヘッドロック。鬼鮫を床に叩き付けた。
 鬼鮫が起き上がる前に瑞穂が起き上がって、鬼鮫の首に向かって再度蹴りを入れようと跳んだら、鬼鮫は転がって位置を変え、瑞穂の蹴りが空振りした隙を突いて瑞穂の腹に拳を叩き込む。
 瑞穂は今度は受け身を取って床に転がり、転がりながら再度鬼鮫の首を狙って蹴り上げた。


 この戦いは美しいものではなかった。
 肉食動物の生存競争である。互いが互いを食い殺そうとする。
 しかし瑞穂は、どんどん擦り減っていった。
 まず体格が違う。瑞穂は女にしてはなかなかいい体格だがあくまで女の中である。男の体格がいいとはまた別物であり、いい体格の男と対等に戦う、ましてや肉弾戦で戦うなんて言う事は不可能だった。
 せめて、手持ちに武器さえあれば。
 瑞穂は徐々に受け身を取る回数が増えていく己を呪った。
 自分に過信した甘さに。
 汗がまとわりついて、実用性など全く重視していないメイド服が張り付いて身体が思うように動かなくなってきた。戦闘舞踏服だと誇っていた服が、今では拘束具のように感じる。


 やがて戦闘は防戦一方に変わった。正確には瑞穂の格闘技の決め技が鬼鮫には全く歯が立たず、殺してかかる技を使い続けるには、その分瑞穂の身体への負担も大きい。スタミナが全く追いつかなくなってきたのである。
 避け続けていた身体が徐々に鈍る。さながら錆び付いたネジのように。
 一瞬身体が軽くなった瞬間。
 鬼鮫の拳が瑞穂の鳩尾に入った。


<続く>