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【戦闘の遺伝子 ー1】
暗がりに男と二人。
四畳半の狭い納戸に、裸電球が吊られている。
その色あせた橙(だいだい)の灯に、埃がもやのように煌めいて、セピア色のノイズが走る。どこか寂しげで、それでいて暖色系の明かりに温もりを感じてしまう。
実際、目の前に立つ男から、温もり以上の生気を感じる。いや殺気か。
サングラスをかけ、黒い髪をオールバックに撫で付けた細面の男。くたびれた焦げ茶のコートの襟を立て、その奥に無精ひげの生えた顎を見せている。
傍(はた)から見れば、口説かれているように見えるだろう。
男の右手は私の首の横にある。背中のすぐ後ろにある壁に手をつき、いつでも髪を、それか肩口に拡がるエプロンの帯を掴んで、私をどうにかできてしまう。そんな姿勢だ。
「ありゃあ、偽名だな?」
男がいった。
険のある、低い声。濃いサングラスの向こう、かすかに男の目が見えた。
その鋭い目に、私の視線は掌握された。息苦しい。呼吸すら掴まれたような感覚。身じろぐと、背後の壁に肘がぶつかる。
メイドとして屋敷に潜入した私、高科瑞穂(たかしなみずほ)は、追い詰められてしまっていた。
「なんのことです?」
怯えたような、うわずった声を出す。
眉を寄せ、かけた眼鏡の、その硝子の上に男を見つめる。男からは、上目遣いに媚びているように見えるはずだ。
わざとらしい。
自分でも思う。
「しらばっくれんなよ。ただの女中が、あんな立ち回りできるもんか」
命令を受け、私はとある屋敷に潜入した。
某政府要人の隠れ家であるこの屋敷に、いま、超極秘事項に関する人物が囚われているというのだ。
私の任務は、その真偽を確認すること。そして可能ならば、その人物の救出を行うこと。
漆黒のメイド服に身を包み、純白のエプロンを肩に掛け、私はメイドとして屋敷に潜入。ちょうど屋敷の主人が一週間ほど前から泊まりに来ており、二十人からの身辺警備も屋敷に寝泊まりしているのだ。その大所帯の世話をするため、屋敷の女中も小間使いの男たちも、なかなかに忙しい。
私は仕事に従事するかたわら、その人物の居場所を探す。どこかに隠し部屋はないか、屋敷全体の間取り図を作成した。主人のために作った食事を、秘書が本当に主人の所へ運んでいるのか、私は注意深く観察した。
十分注意していたが、そうした行動が目に付いたのだろう、私は罠にはめられた。
屋敷の一階、その隅にある納戸の掃除を命じられた。
電球を点け、一歩足を踏み入れると、その部屋の埃っぽさと、あまりに雑然と行李や段ボール箱が置かれた狭い足場に、ため息が出た。それでも、いざやるか、と気を取り直したときだった。音がした。背後の扉が閉められたのだ。
振り返る視界に、拳が迫ってくるのが見えた。
とっさに上半身を反らしてかわし、続けざまにきたボディーブローを肘でいなす。
一歩、二歩と後ろに下がると、背中に壁の感触がした。
サングラスをかけた男は、その口元も無表情に、
「お前、誰だ?」
そういった。
「ただの雇われメイドです」
もう任務は続行できない。
「ちょっとだけ、護身術が得意なメイド」
えへへ、といった具合に笑う。
誤魔化せないのは分かってる。
先ほどの男の攻撃、一撃目はそうでもなかったが、二撃目のボディはかなり重いブローだった。あれをかわしてはいけなかった。あれではもう誤魔化しきれない。
顔が強ばる。私の目は微笑みながらも、首から下が緊張していく。
男の気に当てられて、私の身体が覚醒していく。
女性らしい柔らかな肉の下に、鍛えあげた筋肉を隠している。
一見、それは分からない。大きく開いた肩口は、華奢な鎖骨を露に見せ、強調された胸の谷間は女でしかない。そもそも私の着ているメイド服が、女性の身体を強調させるようにできている。スカートはフレアに大きく広がって、その下の柔らかなペチコートがさらにスカートを膨らませる。その膨張したスカートから伸びる足は、それゆえにいっそう細く、繊細に見えてくれる。私のハリのある太ももに引かれた縦のライン、ガーターベルトからニーソックスに伸びる白のストラップが、太もも自体の縦のラインを、その細さとともに強調する。
胸も出っ張るように脇の所が絞ってあり、胴回りから腰のラインを細く、弱々しく見せるようにできている。肩の部分も膨らんでいて、巾着を閉じるように、脇のすぐ下の所でフリルのついたレースで絞る。肩の所の膨らみが、腕の細さを際立たせるのだ。
けど、いま私の身体は戦闘モードに移行している。
指で押せば、ぷにぷにと柔らかい弾力が返ってくる腕も、いまは肉の下の筋肉が活発化し、見た目はさほど変わらないが、触ればその硬さに驚くだろう。腹筋も脇腹から背筋まで覆う、一枚の鎧のように強ばっていく。無駄に膨らんでいる乳房も、それを支える筋肉が目覚めたため、鎖骨の下で胸を吊り、脇の所から引っ張っるので、乳房自体は上を向き、そこは胸が大きく膨らみ、かえって女らしくなってしまうが。背筋から臀部へかけての肉も締まり、筋肉は拡張し、腰に巻いたガーターベルトや、へその下に穿いたショーツのゴムが伸び縮みする。太ももの筋肉も怒張を始め、瑞々しい肉の内部に力が込められていく。少しだけヒールのついたブーツも、そのヒールが猫足立ちへの移行を容易にさせてくれ、その猫足立ちで背筋を伸ばせば、おしりが出っ張り、それを引こうと腹筋と背筋に力が入る。身体はいま、全身に力が込められ、緊張の度を増していく。
その緊張をほぐしていき、筋肉に柔軟性を持たせるのは呼吸。
息を吸い、その倍以上の時間をかけて吐いていく。抜く息の代わりに、体外の気を取り込んでいくイメージ。頭頂部から注ぎ込み、胴をめぐらせ、下の穴を締めて溜める。呼吸のたびに込めていき、身体の中に気の柱を一本通す。
「あの――」
と、私は怯えたような声を出す。
「見逃してください」
潜入がバレた以上、もはやここにはいられない。
逃げるしかない。
「俺はよ」
と、男。
「メイドの尻をおっかける、軟派な兵隊じゃあねえんだよ」
やはりバレてる。
一縷の望みをかけ、ひと芝居ぶってみようとしたのだが。
この男に、気に入ったメイドを強姦しようとしている、という設定を割り振ってみたのだが、やはり駄目か。
「本国の鼠か? 大陸のマフィアか? それとも、この国の――」
「可憐なメイドです」
フッと、鼻で笑われた。
可憐? 歳、考えろ。
とでも思われているような気がするのは、私の気持ちの問題だろう。
「いえよ」
男は私の髪を引っ掴んだ。こういうとき、長い髪は不利だ。
「俺はよ、どこに情報が漏れてんのか、調べる必要があるんだよ」
掴んだ髪ごと、私の頭を引っ張っていく。
背は男の方が頭ひとつ分大きい。見上げても、その無精ひげの顎が目の前に迫るばかり。
「はなしてっ」
いたいけな声を上げつつ、私は髪を掴む男の手首に、ガーターベルトにぶら下げておいた細身のナイフを突き刺した。
「ぬあっ」
男が手をはなす一瞬の隙をつき、右肩を前にして当て身を食らわせ、男のコートに手を包ませて、足を捌(さば)く。大外刈りで姿勢を崩し、男がバランスを取ろうとして広げた腕をかいくぐる。
だが、後ろに引かれた。エプロンの帯を掴まれ、前のめりに倒れ込む。埃の積もったコンクリートの地面に手をつこうとした瞬間、身体が宙に浮き上がる。
「――っく!」
そのまま後ろに投げ出され、私は尻餅をつき、またも背中を壁に預けた。
「あと三本か」
見られた。
M字に広いた両足を閉じ、立ち上がる。
ナイフは残り三本だけ。拳銃は持っていない。SP連中が屋敷をうろついている以上、火薬の匂いは厳禁だからだ。
男は刺さったままのナイフを投げ捨て、ボクシングのようなポーズを取る。
「堅気じゃねえな。堅気じゃねえなら、容赦しねえぜ」
拳風が、空気を切り裂く音がした。
左ジャブ。
右手でいなし、半身になる。構えた左に、痛烈な衝撃。
アッパー気味の右ブローが、私の肘を打っていた。
「んなっ」
痺れる左腕を振り、身体を戻す。またも背中が壁につく。
こいつ、ボクシングスタイルか。
組み合うほどの接近戦において、その格闘スタイルは脅威。
この納戸はもともと狭く、適当に物が置かれた状況にあっては、足場は人ひとり分ほどしかない。先ほどのように脇を上手くすり抜けるか、目の前の男を倒すしか、外へ出ることはできないだろう。
いや――
と、白熱灯に照らされる、積まれた段ボールに目を向ける。
これを乗り越えれば。
私は男の隙を窺うべく、そのファイティングポーズを見つめる。
あれ?
目を疑った。
「まさか、あなた」
あれだけナイフを深く刺したのに、男の構える右の手首に、その傷がない。
「傷か?」
男は、トン、っとバックステップ。
「傷は、治るもんだ」
「うっ――」
ウソ、という言葉が出ない。
速すぎるのだ。
拳の速さも。治癒する速さも。
その右ストレートの拳圧が、左の頬をなぶっていった。
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