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【戦闘の遺伝子 ー4】
だが、鬼鮫の動きは不可解。
時間がないなら、すぐにでも私を倒すか、薬を取りに出ていくかと思っていた。私は前者を考慮し、身構えたのだが、鬼鮫はその場から動こうとしない。
私の方に向けた首が、少しだけ左右に動く。
まるで何かを探してるように。
「――そうか」
さすがに、目の前の敵を視界から外すことはできないのだろう、しかし見つけたがっている。あれを。薬の入った、自分のコートを!
先ほど、勢いにまかせ、自分で破り捨てたコート。そのポケットに入っているに違いない。任務の最中に薬が切れれば使い物にならない。そのため、常にいくつか持っているにちがいない。
私は視線を納戸中に走らせた。あった。
右壁沿いに積まれた箱の、その端に引っかかってる。
私は駆けだす。
激痛が、左右の肋骨を砕きそうだ。
「ぁあっ!」
すぐ横に積まれた行李に足をかけ、コートに飛びつく。
そのまま段ボール箱の上に転がる私の、そのスカートが引っ張られた。
「おぉいっ!」
鬼鮫が吼える。
「それは俺んだ!」
ぶちぶちと背中のファスナーが千切れていく。残っていた布が肩に食い込む。
はたして、スカートの半分が破かれて、その下のペチコートもボロボロになってしまった。
半分脱げかけたメイド服。露になってる肌は打ち身のあざが鬱血していて醜くいし、髪は固まった血であちこち絡まり、乱れている。眼鏡のレンズはひび割れていて、ほんと、もう、ほとんど敗者。
「でも、形勢逆転」
全身の骨と肉が悲鳴をあげる。耳の奥で、血がぎゅんぎゅん鳴ってる。
でも、これで私は生きのびる。
「さあ、薬が欲しかったら――」
ポケットの中を探る。
「――っ!」
ない。
内ポケットは?
ない。
私は気づいた。
これは破いたコートの右半分。
眼下に見えた。
段ボール箱の隙間に落ちていた、もう半分のコートを鬼鮫が手にしているのを。
その内ポケットからカプセル剤を取り出して、それを口に放り込むのを。
「ふぅ」
鬼鮫は息をつく。
その身体が弛緩するよう震えていった。そして、再び強ばっていくのが見えた。
「返してくれ。それは、俺の一張羅なんだ」
「破いたのは、自分でしょうに」
自分の運のなさが腹立たしい。
そして、鬼鮫は攻撃を再開した。
私はといえば、身体中の力が抜けてる。
だから落ち葉が風に吹かれて舞うように、鬼鮫の攻撃をいくつかいなすことができた。
左ジャブ、右ブロー、左ジャブが三連続で、続いて右ストレート。食らったのはジャブを二つ。それでも、トロールの遺伝子を持つ鬼鮫の攻撃は、いまや戦闘の興奮で、その力が最大限に発揮されてる。そのパンチの重さは、先ほどまでの比ではない。ただのジャブが、ブロー以上に重かった。
「はぁっ、はぁっ」
ガードはずっと下がりっぱなし。
あと数発食らったら、たぶんもう立てなくなる。
けど――
ただ一撃。
ほんの数秒。
隙を作れば逃げられる。
私はいま、出口を背中に立っているのだ。
目は半分も開けていないが、その狭まった視界の中で、鬼鮫の細い身体がぎゅんと迫る。左ジャブ。
「読めてるわ」
ワンツーパンチ。
次にくるのは、右ストレート。
ジャブをよろめくようにかわした私は、右ストレートをスウェーでかわす。
上半身を反らしてかわす。
胸骨が、肋骨がメキメキという。腹筋も千切れそうだ。
「でも、ここしかないのよっ!」
鬼鮫の手首を掴み、後転気味に身体を投げ出す。
腕に身体を密着させて、両足を絡ませる!
手首を自分の胸の谷間に挟み、固定し、上半身を捻(ひね)りながら、身体を伸ばす。
「うあぁぁぁ!」
反らした身体が、鬼鮫の腕を下げる。
額を地面に打ち付けた。眼鏡の向こう、埃にまみれた地面が見える。だが、そこが支点となって、さらに力が込められた。鬼鮫の脇腹と肩にヒールが食い込み、踏ん張りが効くのが分かる。そして。
鬼鮫の右手首と、その肘が、おかしな音を立てて折れた。
これで――
「高科、瑞穂といったなあっ!」
鬼鮫が叫ぶ。
これで。
こんなことで、鬼鮫が怯むはずなかった。
怪物の力を全開にした鬼鮫が、隙を見せるなんて、ありえなかった。
「――ひっ」
思わず悲鳴を上げていた。
お尻に指の感触がした。
太ももの裏の付け根が掴まれたのだ。
たしかに、この体勢ならスカートはめくれてしまって、中は丸見え。私の身体を引きはがすなら、短絡的には胴体に手が伸びる。それでも片手で胴は掴めないから、胴から一番近い細い部分、太ももを掴んだのだろう。
気がつくと、絡めた足に力がなかった。
限界だった。
投げ飛ばされ、私は段ボール箱と行李の上に身を横たえた。
「厄介なもの、持ってやがる」
鬼鮫は私の右足を手に取った。
足首を持ち上げて、じっと見つめる。
その視線は、ヒール付きの編み上げブーツ、白のニーソックス、さっき取れてしまったガーターベルト、ショーツからはみ出たお尻の肉へ移っていく。
鬼鮫の手がお尻を撫でる。
「や――」
カチャリ、という音。残っていた細身のナイフを奪われた。
「使ってみろ」
鬼鮫の息が頬にかかる。
「超能力を使ってみろ」
「で、できない」
できるわけない。
こんな状況で。こんな痛みばかりが意識を捉える頭でなんか、集中できない。
「使ってみろ、お前の身体は」
「はぁ、はぁっ」
私は喘ぐ。
疲労よりも、ただ痛い。
全身が痛くって、それに耐えきれなくて喘いでしまう。
着るのにあれだけ時間のかかるメイド服も、もうほとんど脱げかけている。拳風と怪力で破かれた、真っ白のエプロンと漆黒色のワンピース。かろうじて右半分と腰に巻かれたエプロンの帯だけが原形をとどめている。だが、もはや襤褸。左半身はほとんど裸。下着は露に見えているし、長手袋はボロボロに千切れていて、でもニーソックスとブーツは履いたままで、積まれた箱の上に身を横たえる私は、すべての終わりを予感した。
鬼鮫の指が、もはや力の入らなくなった私の腹を、その柔らかな部分を撫でた。
「この身体に、持ってるんだろう? あの力を」
ぎうと押され、私は呻いた。
「それともここか?」
左の乳房、その下の肉を掴む。
「くぅ」
心臓をえぐり出そうというのか。
爪をたて、食い込ませる。その動作に、フロントホックのブラが外れた。
こぼれる胸に、私は途端に恥ずかしくなる。
「ちょっ――」
私は左足を振り上げた。
これはきっと最後の力。
つま先が鬼鮫の股間に刺さる。
「ぐぁっ!」
鬼鮫の悲鳴は、無様(ぶざま)。だが、
「やはりここか」
と、なおも爪を食い込ませる。
五指の爪が、ブラジャーと、その周りの肌に刺さり、血が流れだす。
「ばっ、かっ」
いったいじゃない。
私はもう一度、鬼鮫の急所に蹴りをぶち込む。
「邪魔な足だぁっ!」
鬼鮫は私の足を持ち上げた。
そして捩(ねじ)った。
「あぁっ」
生理的に、受けつけない音がした。
「あ、あああぁぁっっっっ!」
左膝が熱い。感覚がないのに熱い。
見るのが怖い。
あらぬ方向に曲がっているだろう、自分の足を見るのが怖い。
「おとなしくしろ」
地面にのたうち、まわりの箱に身体をぶつける私に囁く。
「殺しゃしねえ。まだお前には、してもらうことがあるからな」
のたうつ私は、その腹に重い一撃を受け、気を失った。
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