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【戦闘の遺伝子 ー5】
気持ち悪い。
目が覚めたとき、腹の底で嘔吐感が渦巻いていた。
どれくらい気を失っていたのか、左の胸がやたら痛い。
乳房の下の肉が抉(えぐ)られ、血が固まって変色している。
心臓なんて、素手で取れるもんですか。
たとえ人外の力があったとしても。
「……っく」
そう信じたい。
ジーンキャストのすべてに当てはまるかどうか分からないが、怪物の遺伝子が全開に覚醒すると、ヒトとしての理性はトンでしまうようだ。
「目ぇ、覚めたか?」
鬼鮫の、落ち着いた口調。
戻ったみたい。
おそらく途中で、我に返ったんだろう。
「いけねぇなあ。戦闘ってのはいけねえ」
その静かな声が、私の意識を落ち着かせる。そのせいで、気持ち悪さより、本来最初に感じるべき痛みが意識に上ってきた。
「う、うぅ」
呻いたが、鬼鮫は興味なさそうに自分のことを話しはじめる。
「血だよ。血なんだよ。ああ、いけねえなあ。いけねえよ。お前を殺しちゃいけねえだよ」
どうやら、私は生かされるようだ。
「なんだあ? ホッとしたか?」
鬼鮫が、横を向いて倒れる私の顔をのぞく。
「じゃあ、寝とけ」
いって、私の腹を蹴りつけた。
痛すぎて、気が遠くなる。
次に目が覚めたとき。
両手首にひどい痛みを感じていた。
全身の痛みはなぜか収まっていたが、気だるさが肉と骨に澱んでいる。そんな感覚。
臓器やら身体の内部のあちこちで出血して、内側から腫れているせいだろう、呼吸をするたび、身体の中でいろいろな物が圧迫されて、胃のあたりから苦しくってしょうがない。
目を開くと、露に濡れた石畳。首を回せば、そこが石牢だと分かる。
地下牢か。
こんな場所があるなんて、知らなかった。
広さは納戸と同じ四畳半ほどだろうが、荷物がない分、とても広い。
ガチャ、と重い鎖の音。
両手首には、それぞれ鉄の輪が嵌められており、それに鎖がついている。その鎖が、背後の壁の上の方に繋がっていた。
両手を鎖で吊るされた格好で、私は横座りに座っていた。
その傾ぐ身体が、その自重が手首の鎖を引いていた。長手袋は外されていて、錆びた鉄が直に手首の肌を擦ってくれる。その痛みで、目が覚めたのに違いない。
ひんやりとした石畳は濡れていて、ショーツは水滴を吸い、湿っていた。ブーツは履いたままだったから、ニーソックスはそんなに濡れてはいなかったが、水気はショーツの生地に染み込んで、繊維を伝ってガーターベルトを濡らしきってしまっていた。
まったく、いやらしい。
もはや原形をとどめていない、襤褸となったメイド服。血がこびりついた眼鏡と、首に巻いたチョーカーはまだついたまま。ブラとショーツ、ガーターベルトにニーソックス、編み上げブーツだけをつけた女が、両腕を吊るされて地下牢にいる。
腕を持ち上げられているから、乳房が前に突き出ている。
ブラがきつい。
白のブラは血で汚れ、その血も黒く変色している。
細かい刺繍の施されたブラは、乳房の膨らみ、その変なところに引っかかってる。
あれ? と思う。
私のブラ、フロントホックが外れてたはず。理性のトンだ鬼鮫が心臓を抉り取ろうとしたときに。
「――あっ」
急に赤面してしまう。
あいつ。
私のブラを、わざわざつけた?
あの納戸から運び出すとき、恥ずかしくって着けたのか。
しかも、こんな不格好に。
くそ。
なんか、変なことされるより、そっちの方がずっと嫌だ。
「おっ」
と、その男の声がした。
「目が覚めたか」
「お、鬼鮫!」
鉄格子をくぐり、サングラスをかけた男が入ってくる。
「威勢がいいな」
「おまえ――」
「薬が効いたか」
なに?
「薬?」
「痛み止めだ。いろいろ、しゃべってもらうためによお」
だから、あれだけの痛みがなくなっていたのか。
「何を話せと?」
「お前の組織。お前みたいな戦闘員が、あとどれくらいいるのか、だ。詳しく話してもらいたいな」
「そんな時間、あるかしら?」
「なに?」
私は不敵な笑みを浮かべる。
痛み止めのおかげで、いま、意識はすべて思考に回せる。
「いま何時?」
「夜の二時まで、あと少し、ってところだが」
「じゃあ」
ふふ、と私は薄く笑った。
「今頃、一個部隊がここに到着する頃ね」
「なんだと?」
「ゃっ」
鬼鮫は、私の髪を掴んで引いた。
「は、放してよ、痛い」
「そりゃあ、本当か?」
髪が引っ張られる痛みに、私は顔を歪め、目を細める。
「残念だけど、もう時間よ。本当はね。私たちは、ここに何があるか知っているの。私は陽動。本当なら、あちこちに爆弾を仕掛けるはずだったんだけど、あなたの方が先に動いてくれちゃったから、残念」
全部ウソ。
でも、鬼鮫は動揺したようだ。
「くっ、女ひとりで潜入たあ、おかしいと思ったんだ」
それはうちが、慢性的な人手不足だから。
「じゃあ、死んどくか」
鬼鮫の右拳が左胸の下を打った。
「ぅぅ」
心臓が止まったかと思うくらいの衝撃だった。
「なっ、なによ。私は、生かしておくんじゃなかったの?」
「そんなにすぐに来るんじゃあ、お前の存在価値はねえ。ここにお前がいるってことは、自衛隊連中がIО2に反抗している証拠になった。だから、むざむざ殺しちゃ、政治的に使えねえ。だから、わざわざ生かしておいた。だが、そんなすぐ仕掛けてくんなら、そんな交渉、してる暇ねえだろうが。だから、死ね」
「まっ――」
また殴られた。
今度は左拳で左頬を。
「ま、待ちなさいよ。私、しぶといんだから」
「ああ?」
「速く逃げなきゃ、あなたこそ、死ぬわよ」
鬼鮫が鼻で笑う。
「いいさ」
「え?」
「お前。PKなんだろ? 俺ぁ、PKってのが嫌いなんだ。なんでだかは分からねえ、分からねえが。そうなんだ」
「お、鬼鮫っ!」
身じろいだが、鎖に繋がれた手が痛いだけ。
その反動で、変な位置で着けられたブラのホックが弾けてしまった。胸がこぼれ、ブラは前を閉じていない紐状のベストみたいに垂れ下がった。
その両方の乳房の間、胸の中央にアッパー気味の右ブローが入っていく。
「なんだ? よっぽど見せてえのか、お前は」
「や、やっぱり、あなたがホック付けたの? 変態」
呻きながら、悪態をついてやる。
「なんだあ? 運ぶときに、垂れて邪魔だから押さえただけだ」
「垂れるくらい大きいんだから、しょうがないでしょ」
私は立ち上がり、両手を掲げたまま壁に寄りそう。
「うあ」
思わず私は悲鳴を上げた。
左膝が、変な方に曲がっている。それが見えた。
痛み止めは強力なものらしく、今まですっかり忘れていた。
「大丈夫か? これから死ぬのに、大変だな」
「はんっ。私がPK? 超能力者? だから殺すの?」
「ああ、そうだ」
「じゃあ、殺す必要、ないわね」
ブーツの中、右の親指をくいと動かす。
その瞬間、つま先から鍵爪のついたワイヤーが飛んでいく。それが石壁に当たり、カランと音を立てて転がった。
たいした殺傷能力はないから、実践ではまず役に立たない。崖から突き落とされたときに使え、なんて兵装部からはいわれているが、使ったことはない。
「これで、引っ張っただけ」
「なんだと?」
誤魔化せるか。
騙しきれるか。
「興奮していて、小さい音が聞こえなかったようね。納戸の壁に跳ね返らせて、それで箱に引っかけさせたの」
「こ、小賢(こざか)しい真似しやがって!」
鬼鮫の右ブローを横によける。
その一撃は、石壁の表層部を砕いていた。
さらに左のパンチが飛んでくる。
私は鎖を掴み、壁を蹴った。
蹴るというより、その壁を駆けのぼった!
右足だけで、壁を蹴り、鎖が、時計の九時の位置を指すくらいまでのぼっていった。
ガチャガチャと、鎖が鳴る。
壁に打ち付けられた鎖は強固。私の体重に引っ張られ、鎖はギンッと真っ直ぐ張られた。
そして。
私は宙を舞う。
半裸の身体が旋回する。
「おに、ざめぇっ!」
パンチをはなった鬼鮫の後頭部に、踵落としを決めてやった。
「ぬあぁっ!」
頭を押さえる、鬼鮫が吼える。
着地したとき、鎖のどこかが金属疲労で欠けたような音がした。
逃げ切れる――
そう思ったとき。
殺気。
猛烈な殺気。
再び、鬼鮫のトロールの遺伝子が覚醒したのか!
「PKだろうが、なんだろうが――殺してやる」
「ま、」
まずい。
いま、まだ私は両手を吊るされた状態の無防備。
この鎖を外すには、あとどれくらい衝撃を与えればいい?
「高科瑞穂。お前は殺す」
「くっ!」
そのとき、サイレンが鳴り響いた。
「なに?」
鬼鮫が我に返る。
「き、来たようね」
来てくれた。
さっき鬼鮫に話した、私が陽動係という作戦はウソ。
だけど、それでも定時連絡の時間はとっくの昔に過ぎている。人手不足でも、人材不足なんだから、見殺しにはしない。逃げる隙を作るくらいの陽動くらい、してくれるのだ。
「ちぃっ!」
鬼鮫は舌打ちし、後ずさる。
「覚えとけ。次、会ったとき、それがお前の命日だ」
「ええ。覚えておくわ」
鬼鮫は去った。
「ふぅ」
息をつく。
生きのびた。
まったく、とんだ相手だった。
ジーンキャスト、IО2の鬼鮫。
「恐ろしい、敵だった」
呟いたとき、猛烈な痛みが全身を駆け巡る。
痛み止めが切れはじめたようだ。
「っな――」
こ、これ。
膝が痛い。
いまなお骨を砕き、もいでいこうとしているような、それほどの激痛。
いや、それと同じくらいの痛みがある。あばら骨に、両の腕に、肩に、胸に、腹に背中に。頭のあちこちに鈍痛が響く。耳がおかしくなったように、空気の音がくぐもって聞こえだす。
「うあ」
錆びた鎖をガチャガチャ鳴らし、私はのたうつ。
これが、戦い。
鬼鮫との戦い。
さっきまでの、勝ったつもりの気分が台無し。
せっかく逃げのびることができたのに。
次会ったときが、私の命日。
それは、本当かもしれない。
私がいま、鎖に繋がれ、石牢に囚われているのは、そうなのだ。
鬼鮫に、命を掴まれている、その状況を表している。
「ふぅあぁっ」
喘ぐように息を吐く。あまりに痛くて呼吸もままならない。
もう体力がない。
痛みにのたうつ力もない。
冷たい石畳に膝をつく。
私は両の手を上に掲げ、剥き出しの乳房を垂れる。
私は、断頭台の前に引っ張り出された、かのマリー・アントワネットのような姿だろうか。
首に巻いたチョーカーが、その気配が、嫌だ。ここは、断首される箇所だ。
生きのびた。
自由を得た。
だが、それは与えられただけにすぎない。
「鬼鮫――」
あまりの痛みに、意識が薄らいでいってしまう。
次に目が覚めたとき、そばにあいつがいないことを、ただ、いまは祈る――
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