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闇の中を三つの影が疾走する。
それはいかにも奇妙な、しかし真剣な鬼ごっこだった。
二つの影が一つの影に追われている。それだけ見れば、何の変哲もない鬼ごっこ。
しかしその二つが、妙齢といわないまでも女の子ではなく女性だと分かる時点で何かがおかしい。
大体にして、追いかける一つの影はまさに鬼とでも言うべき存在である。
(な、何なのよ…!)
闇の中でもその中に溶けない鮮やかな金色を揺らしながら少女が毒づく。
こんなことは彼女にとって想定外だ。いや、普通誰であろうと想定外なことには間違いないが、彼女にとっては殊更酷い想定外と言える事態だった。
(何であいつが私を追いかけてくるのよ…!)
そんなことを、背後の影を眺めずに思う。
そう、二人は以前に出会っている。それと今日の事態は全く関係ないが、彼女からしてみればその偶然は必然と思えるような悪夢だった。
奇妙な鬼ごっこは続く。終わりが何時やってくるのか、そんなことは彼女に分かるはずもなかった。
○Begin
理由なんて、何時だって単純なものだ。きっと誰だってそうなのだろう。
金色に波が揺れ、夜の帳に華が咲く。
一際鮮やかな少女は、しかしそんな鮮やかさなどどうでもいいかのように夜の街を練り歩く。深夜帯だからだろうか、普段は人の喧騒が途切れないそこも今はひっそりと静まり返っている。
それは普通のことだが、今の彼女にとっては都合が悪く、思わず舌打ちを漏らしていた。
少女は退屈が嫌いだ。それは同年代の子たちなら誰しもそうだろう。
普通ならそれを色々な方法で紛らわせる。しかし彼女にはその方法が特になかった。
勉強は人並み以上に出来ているし今更必要以上にすることもない。友達と遊ぶだなどという選択肢は最初から存在しない。そもそも彼女にとって本当の意味での友達など一人もいないのだから。
ならばどうする?
答えは一つだった。その代案を探せばいい。
少女――アヤカ・レイフォードにとっての楽しみは、普通の嗜好とは違う。だからこうやって夜の街へ繰り出したのだ。
幾ら深夜とはいえ、探せば人はいるものである。
「…ラッキー」
小さく呟いた声は闇の中に消えていった。
彼女の見つけた女は、人目で日本人ではないとすぐに分かる風貌だった。
彼女と同じ鮮やかな金糸を揺らし、その瞳にも青いものが混じる。染めたものでもコンタクトを入れたものでもない自然な色は、彼女の佇まいと相まって実に自然なのだ。
そして何より、感じるものが違う。普通の人間とは明らかに違う【匂い】は、彼女を大いに刺激する。
どれほど隠そうとも、そうそう隠し切れないそれは確かに異質で、そして彼女にとっては馴染み深い。
(魔術師かしら? あの風体だし…)
なんとなく、そう思う。それはあくまで予想であり、しかし確信に近い予感でもある。
(いい声出すでしょうねぇ…)
そう考えると、アヤカの顔に昏い笑みが浮かんだ。
彼女にとって、他人など所詮は糧でしかない。
全ては決まった。彼女はまだ自分に気付いていない。そうと分かれば後はやることも決まっている。
善は急げ…この場合は悪は急げだろうか。何はともあれ彼女はそれとなく、しかし確実に近づいていく。
そこで、何かがおかしいことに気がついた。
その女性は、自分に一切気を向けていない。それはいい。
しかし、明らかに様子が変だ。
まるで何かを気にするかのような。というよりは、まるで何かに怯えているような。
忙しなく周囲を見渡す彼女は、誰がどう見ても何かがおかしい。
「…何なのよ」
軽く苛つく。その表情は自分が見せるはずだったものだ。それを既に浮かべているとなると、興醒めもいいところである。
しかし、そんなアヤカのことなど未だに見ようともせず、女の挙動はいよいよ酷くおかしくなっていた。
まるで何かが近づいてくるかのように、その蒼い瞳が一点を捉える。丁度そこには、今まさにその女性へ、と考えていたアヤカが立ち塞がっている。
今度こそアヤカは確信した。彼女は怯えていると。
蒼い瞳が、じっとアヤカを見つめていた。いや、アヤカの後方を凝視していた。
目が見開かれている。若干血走った感のあるそれは、アヤカの方向をじっと凝視して動かない。
女が小さく震えているのも分かる。まるで冷や汗をかいているかのようだ。
(何なのよ…)
何故それほどまでにこちらを見ているのか。つられるように、アヤカは振り返る。
この時ほど、彼女は人につられるものではないなと思ったことはないだろう。
闇が濃い。雲が出ていて、月の光は期待できない。
まともに見ていたのではきっと何も視えないだろう。だから彼女は瞳に力を込める。
アヤカは純粋な人間ではない。だからこそそういった類の芸当も出来る。彼女の力が視界を開かせ、闇の中であってもまるで昼のように見えていく。
だからこそ、はっきりとそれを見た。
「…ぇっ…?」
震えるのが自分でもはっきりと分かった。それを見た瞬間、冷や汗が止まらない。
まるでそれは目の前にいる女性と同じようで。しかしそれにアヤカが気付くことはない。
何時か出会った、彼女にとっては思い出したくもない忌々しい記憶。
その悪夢とも言うべき記憶の中に、それはいた。ジュネリア・アンティキティという一人の女性が、そこにいた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
理由は何時だって単純だ。
ジュネリアにとって、その女は忌むべき存在だった。
思想の違いか。それとも余程彼女にとって許せない存在だったのか。はっきりとしたことは彼女だけが知っている。
ただ、彼女にとってその女ははっきりと滅するべき存在であり。故に、その女はジュネリアに狙われることになる。
まさかこんな極東の地で、そんなことになるなどと女が想像しただろうか。
追われ続ける鬼ごっこ。それは正しく女にとっては悪夢であり、ジュネリアにとっては当然の行為だった。
追われ続ければ何時かは追い詰められる。それは自明の理。
そしてジュネリアの前に、二人の女が立っていた。
二人はジュネリアを凝視している。
ジュネリアは後方にいる女を凝視している。
その中で、ある意味一番混乱していたのはアヤカだっただろう。
(なんで、なんであいつがここにいるのよ!?)
アヤカからすれば訳の分からない事態が続く。出来るなら頭を振り乱してしまいたいくらいだ。
混乱の極みに陥るアヤカを尻目に、ジュネリアが闇の中でゆっくりと口を開いた。
「悪に染まりし魔導の者よ…我が信念の元に汝滅べ、この正義の名の下に」
それは確かに後ろの女に向けられた言葉だったが、実際その言葉はアヤカにもそっくりそのまま当てはまる。それがアヤカの混乱を助長させた。
(まさかあいつ、私を…!?)
そしてそれは、アヤカの中で確信に変わる。何故なら、
「変身」
そんな冗談めいた言葉を、あの時と同じようにジュネリアが呟いていたのだから。
その言葉が、ジュネリアの体を変化させていく。
頭部はこの極東の地でも神獣と崇められるそれに近くなり、細身であったはずの体躯も膨張し、収縮する。
その姿はまるで竜かゴーレムか。いや、その二つをあわせたものというべきか。
「ひっ…」
それはどちらが発した言葉だったのか。
あの日と等しい悪夢がそこに顕在する。それがどれほどの恐怖かなど、恐らくはアヤカにしか分からないだろう。
だから、
「ふ、ふざけんじゃないわよ…!!」
駆け出した。彼女自身のプライドが許さないほど惨めでも、そんなことに気をかける余裕もなく一目散に逃げ出した。
当然のように、その『巨大な何か』が追い始める。その先にいるのは、アヤカ。
「やっぱりあいつ、私を…!」
彼女がそう思ってしまったのも、その状況では仕方がないことだろう。
しかし現実は違う。
「……」
ジュネリアに言葉はなく、その視線はただ一点を見つめている。
アヤカは気付いていない。その視線が、あの女と同じように自分を見ていないことに。アヤカの前方、そこには変わらずあの女がいた。
そう、何の不幸か女とアヤカは同時に、そして全く同じ方向に逃げ出していたのだった。
端からジュネリアはアヤカのことなど気にかけていない。今回に限って言えば用があるのはその女だけであり、そもそもアヤカのことなど眼中にすら入っていなかった。
いいとばっちりを受けたのはアヤカの方だった。気が合うのか動転しているのか、何故か女とアヤカの向かう方向は常に一緒だった。
少し冷静に考えれば分かるような事態も、しかし今のアヤカには余裕がない。
「ふざけんじゃないわよ!!」
全く彼女にとってはふざけた状況である。だから、
「舐めてんじゃないわよっ!」
声を荒げた。
それは精一杯の強がりで、しかしその状況をどうにかしようとする咄嗟の判断だった。
ジュネリアは一直線でこちらに向かってくる。ある意味愚直とも言っていい。それならばまだやりようもある。
駆けながら手を広げ、指を振るわせる。明確な意思が、アヤカの爪に目には見えないほど細い黒い糸を呼んだ。禍糸と呼ばれたそれは、文字通り縦横無尽に広がり、そして脇にあったものを掴む。
何時の間にか公園の中を通っていたらしく、糸はベンチやダストボックス、果ては樹までをも掴み引き裂き、あろうことかそれを後方へと投げ飛ばした。
スピードもある、あれは避けられるはずがない。幾ら巨大になろうと、あれが直撃してはさしものアレもどうにかなりそうだ。
一瞬、勝ちにも似た笑みがアヤカに浮かぶ。しかしそれは、やはり一瞬で消えていた。
ベンチもダストボックスも、太い幹を持ったはずの樹木でさえも。ジュネリアにとっては、まるで風に舞う埃に等しい存在だった。
気にもかけず、ただそのままぶつかっていく。それだけでそれらは簡単に拉げ、砕け散った。
「な、何よそれ…ッ!!」
ジュネリアの追いかけるスピードが一切変わることすらなく、最早狼狽することすら億劫になってきた。それだけそれは非常識であり、彼女にとっては悪夢に等しい事態だった。
前を向く。女は相変わらず一目散に逃げている。
「捕まって、たまるか…!」
搾り出すように呟いて、アヤカは果てのない追走を走り続ける。
「…………っ…ぁ…!?」
しかし、体力にも限界がある。
空が白む頃、遂に限界を迎えようとしたとき、その足はもつれ地面へと転がり込んだ。
肺が酸素を求め、忙しなく収縮を繰り返す。
心臓が送っても送ってもまだ足らないとばかりに脈打つ。
全身を流れる汗が、明け方独特の冷たい空気に触れて急速に熱を奪っていく。
もう駄目だ。もう無理だ。これ以上は一歩たりとも走るどころか歩くことすら出来ない。
しかし、そんな状況であってもアヤカはアヤカだった。
「こ、殺すならさっさと殺しなさいよ…!」
忌々しげに、しかし高圧的な態度は一切変えることはない。
そして、
「……ぇ?」
それに答える声は、そこにない。
振り向いた先に、悪夢の影はない。
そしてまた前を見れば、そこに走っていたはずの女の影もない。
そこで漸く得心がいく。
「なんだ…あいつを追いかけていたのか…」
少し考えればすぐに分かったはずのことを、今更のようにアヤカは呟いた。
文字通り棒のようになってしまった足はまともに動かず、仕方なく膝と手を使って四つん這いになりながら近くにあったベンチへと向かう。そこに腰掛ければ、今までのことが全て夢のように感じられた。
しかし、汗と朝霧で冷えた体が。動かない足が、それは夢でないと告げる。
「あはっ…逃げ切れた……」
本当はありもしなかった鬼ごっこ。しかしそれでも、アヤカは小さく呟く。
思えばあの日から、自分はジュネリアの影に怯えていた部分があったのかもしれない。惨めではあったが、それを振り切れたということは彼女にとっては大きなことだった。
ベンチに腰掛けながら、太陽が昇るのを見つめる。足が動くまで、まだ暫くかかるようだ。
そして一つ決心する。学校はサボると。
優等生を気取った彼女ではあったが、流石にもう動く気力は残っていない。こんな状態で学校に行ったら何を仕出かすか自分ですら分かったものでもない。
だから今日は一日寝ると決めた。
「いい夢が見れそうだわ…」
それはささやかな自分へのご褒美。偶にはこういうこともいいだろう。
心の底から浮かべる安堵の笑みは、一体何時振りに浮かべたものだっただろうか。
おやすみなさい。そんな言葉で、彼女の一日は始まりにして早々に終わりを告げた。
<END>
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