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『紅月ノ夜』 其ノ弐
今日も月が見える。もっと空気が澄んだところへ行けば、綺麗なんだけど。
樋口真帆は空を見上げて歩いていたが、視線をもとの視線の高さに戻して慌てて足を止めた。
目の前には街灯の柱。危うくぶつかるところだった。
胸を撫で下ろして真帆はそういえばと思い返す。この辺りで、一ヶ月ほど前に彼女に会ったのだ。
フードをかぶった彼女は日本人にしては白い肌をしていた。それに……。
真帆は背後を振り返る。誰もいない。
彼女は……追われていた。天敵とも言える、退治屋に。
(やっぱり心配……)
あれから無事だっただろうか? いくら目くらましを使ったとはいえ、退治屋とはかなり厄介な存在だ。
黒い髪をした、美しい退治屋。それとは対照的だった、怯える吸血鬼。
暗い夜道を歩く真帆は公園を発見し、そこをそっと覗き込む。変質者とか、居ないよね?
「ん?」
目を凝らす真帆は、ベンチに座る人影を凝視する。
パーカー姿の人物は顔を隠すようにして、背中を丸めていた。なんという……頼りなげな姿だ。
(あれは……)
*
近づいていく真帆は、その人物を正面から見下ろした。
「こんばんは。お元気でしたか?」
真帆の声に、ベンチに座っていた人物は顔をあげる。陰になった顔から驚きの気配を感じ取った。
真帆は少し顔をしかめた。
「まだ、顔色悪くないですか?」
「え……? そ、そう?」
彼女はうろたえるように声を詰まらせ、俯いた。
そんな様子を気にもせず、真帆は隣に腰を下ろした。彼女――藍靄雲母の隣に。
「最近、冷え込むようになりましたね、夜は」
「う……うん。肉まんがコンビニに出てるし、おでんも……。もう秋から冬になるんだよね」
「そうです! 先月にはもう店頭に肉まんが出てました! ちょっと気が早いと思いません?」
「そ、そうかな……」
「早いですよ。
そうそう、3丁目の、あっと、私が住んでるところのですけど、そこの仔猫が可愛いんですよ」
「そ、そう」
だんだん声から力がなくなってくるようだ。
雲母は暗い表情のままで、フードを外そうとしない。
思い切って真帆は話題を変えた。本当に訊きたかったのはこれだ。
「ところで、あれから退治屋さんとはどうなりました?」
「っ」
雲母が明らかに動揺し、手を震わせる。一気に顔が青ざめたのがわかった。
「あ……えっと、あの退治屋は……まだ私を追ってるけど……。なんとか、逃げてる」
眉をさげる雲母は嘆息する。疲弊しきったその溜息に、真帆は心配になった。
「あのぉ……あなたは吸血鬼なのに血を吸っていないとか……。本当なんですか?」
「ほ、本当……だよ。だって、気持ち悪いもん……」
「きもちわるい?」
吸血鬼にあるまじき発言だ。
雲母は頬を少し赤らめ、恥ずかしそうにさらに顔を俯かせた。
「あ、呆れたでしょう? 吸血鬼なのに、なに言ってんだこいつって。
で、でも、気持ち悪いものはしょうがないから……。そ、そう思わない?」
「思いますけど……。
元々吸血鬼だったんじゃないんですか? そのままじゃ、飢えません?」
「っ……、えっと」
雲母は視線をこちらに一瞬向けるが、すぐに伏せた。
おずおずとフードをとる。月光にさらされた淡い紫色の髪と瞳は、やっぱり綺麗だ。幻想的にすら見える。
「……私、元は人間なの」
「人間?」
もしかしてあれか? 噛まれて吸血鬼になっちゃったとかそういう?
予想している真帆に気づかず、雲母はどこか泣きそうな表情で言う。
「人間だったんだけど……その、今はこんなのになっちゃって……」
「それで人間の生き血が必要なんですか?」
「あっ、いや!」
雲母は潤んだ目でこちらを慌てて見遣る。よく見れば雲母の紫の瞳はどこか赤味がかかっていた。
「ち、違うの! すごく必要ってわけじゃなくて……」
「でも、この間私に……」
「あ、あれは、その……」
彼女はもじもじと俯き、恥ずかしそうに目を伏せた。
「人間の食べ物がね、その、味がしなくなっちゃって……。紙とか、そういうの食べてるみたいな感じで……」
「ええっ!?」
驚く真帆が乗り出す。すると、雲母はその分、身を引いた。
「味がしないって、大問題だと思うんですけど!」
ラズベリーパイ、イチゴのショートケーキ、シュークリーム、レアチーズケーキ……その美味しい美味しいスイーツの味が堪能できないなんて!
そ、そんなことにもしもなったら……。
想像するだけで絶望的だ。
「食べるだけなら……今のままでもいいんだけど……いいと思うんだけど……」
「いいわけないと思いますけど」
そう真帆が言い切るには理由がある。
先月会った時より雲母の顔色が白いのだ。本当に紙のように白い。
「だ、だって……生き血をすするなんて……気持ち悪いじゃない?」
「えっと、じゃあ猫とか兎とかはどうです?」
一応提案はしてみた。だが雲母は眉をひそめる。
「……樋口さんは、兎や猫に歯を立てて血を飲める……?」
「……すいません」
できません。むり。
「というか……藍靄さんて、ここで何してたんですか?」
「え……」
雲母は白い肌の頬を赤く染める。
「あ、え……と、ね……。こういう体質になっちゃって……太陽が出てる時は外に出られないの。だから、夜の間にバイトして、こうして散歩もしてるの」
「……………………」
真帆はぱちぱちと瞬きをした。
……そりゃあ……吸血鬼という言葉に真帆は馴染みが浅いわけではない。なにせ見習いとはいえ真帆は魔女だ。闇に属する存在は、見知っている。
でも……なんというか、ここまできっちりと「吸血鬼」という存在なのは初めてかもしれない。
「太陽が出てると、やっぱりダメですか?」
「う、うん。ちょっと視界に入れただけで灰になっちゃうし……。あ、指先ね、指先。
それにすごく怖いし……本能的に太陽が出てる間は眠くなったり……避けるようになってるみたい」
雲母の声は揺れている。なんだろう……? なんだか無理に喋っているみたいな……。
彼女は少しまた目を伏せた後、こちらをうかがってくる。
「……樋口さんて、本当に驚かないね。……気色悪くない?」
「気色悪い? 何がですか?」
「…………こんな、吸血鬼とかって」
「…………」
目を泳がせる雲母に、真帆はしばし悩んだ。彼女は……あまりよくは知らないけど、今の状況を良く思っていない。
安心させなければいけないのではないか? だって彼女は……。
(すごく……不安そうな目……)
それはそうだろう。元々は人間で、そうではなくなり、そして退治屋に追われるようになり、太陽を見ることができなくなり……。すべての生活がなくなったのだ。
「藍靄さん」
「……ん?」
「私のこと、聞いてもらえます?」
「? いいけど……」
「私、実はこう見えても、魔女なんです」
「…………まじょ?」
「はい。えっと、一般的にはほら、有名なアニメで宅急便してるのあるじゃないですか、あれです」
「……………………」
「だから、今の藍靄さんと似たようなっていうのは変ですけど、似たようなものです」
「…………そう、かな」
「でも見習いだから、あの、あんまり偉そうなこと言えないんですけど」
「…………」
雲母は少し安堵したように、真帆につられて微かに笑う。
よかった。少しは安心してくれたみたいだ。
「前にも言いましたけど、血を分けるくらいなら構いませんよ、私。貧血になっちゃうほどは、勘弁してもらいたいですけど」
えへへ、と笑いを含んで言う真帆を、雲母は疑り深そうに見てくる。
雲母はまた視線を伏せた。もしかしなくても、彼女は後ろ向きな性格をしているようだ。
「あ……えと、でも、首か……手首に、歯を立てるけど…………」
「いいですよ。あ、でも条件があります」
「条件?」
びくりと反応し、雲母はごくりと喉を鳴らす。
「友達になってください」
そう言って、手を差し出した。
差し出された手を見下ろし、雲母は頭の上に疑問符を浮かべている。
「とも……だち?」
「はい。雲母さんって呼んでもいいですか?」
「…………う……」
小さく唸り、雲母は真っ赤になった。そしておずおずと手を出してくる。ちょっと指先が触れただけですぐに引っ込めるが、もう一度チャレンジしてゆっくりと握った。
(う、うわぁ、折れそうなほど細い〜)
完全なる栄養失調気味ではないのか???
「あ、ありがとう……樋口さん」
「真帆でいいですよ」
「……ま、ま、」
どもる雲母はさらに顔を赤くして、手を離した。
(はわ〜……雲母さんて、すごい恥ずかしがり屋さんというか……)
真帆は照れたように微笑む。
「でも血を誰かにあげるのって初めてです。痛くしないでくださいね?」
「…………や、やったことないからわかんない」
「そっか。でも、責任、取ってくださいね?」
冗談めかして言うが、本気だった。
彼女は人間と吸血鬼の間で揺れている。ならば血を吸うという行為がどういうことか、わかっているはずだろう?
雲母はちょっと怯えたように身をすくめた。
「…………やっぱり、やだな。だ、だって……う……」
眩暈を感じたのか雲母はよろめく。吐き出した息には苦痛が満ちている。
「……雲母さん、血を吸ってないってどれくらい?」
「……吸血鬼になって……四ヶ月以上だと思う」
四ヶ月も絶食状態なわけだ! それは顔色が悪くなるはずだ。
一ヶ月前も、仕方なしに真帆に声をかけたのだろう。解決策が見つからないうえ、飢えが続いていたのだから。
彼女は無意識なのか、真帆の指の一本を口に含んだ。歯が突き立てられ、真帆は「う!」と呻く。
流れる血を吸われているのがわかる。それに……。
(雲母さんが……)
みるみる生気に満ちていくのがわかった。おかしい、まだ3滴やそれほどの……。
ハッとして雲母が指から口を離した。
「ごっ、ごめん!」
真帆は傷に視線を落とす。小さな穴が二つあいていた。でもこれはかなり小さい。思っていたよりも痛くなかった。
「う…………」
突然雲母が泣き出す。ぼろぼろと涙を零した。
「ごめん……ごめんね……。あ、う……や、やっちゃった……わ、私も……化物の仲間に……うぐっ、え……っ」
「雲母さん、そんなに泣かなくても……」
「うっ、ううっ、えっ……ひぐっ」
彼女は立ち上がってそのまま逃げるように走り去ってしまう。残された真帆は呆然とした。
(え? ええ〜?)
前途多難な予感、である。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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PC
【6458/樋口・真帆(ひぐち・まほ)/女/17/高校生・見習い魔女】
NPC
【藍靄・雲母(あいもや・きらら)/女/18/大学生+吸血鬼】
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■ ライター通信 ■
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ご参加ありがとうございます、樋口様。ライターのともやいずみです。
とうとう血を吸われましたがNPCが逃走してしまいました。いかがでしたでしょうか?
少しでも楽しんで読んでいただければ幸いです。
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