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宵待ちの宿 中秋の名月
「月見を、しましょうか」
一匹の狐が、唐突に呟いた。
宿の縁側に座って毛づくろいをしていた猫又が顔を上げる。
「なんだよ、急に。十五夜はとっくの昔に過ぎただろ」
怪訝そうに言った猫又に、宿の塀の上に危なげもなく座り、丸々とした月を見上げていた狐の影が振り返った。
「いいのです。我々にとって大切なのは、人が定めた日付ではないのですから」
言葉と共に、九つにわかれた黄金色の尾が、ゆらゆらと揺れる。
狐が塀の上から庭へ飛び降りると、その姿はみるみる内に人のものへと変わった。狐だった男――ミツルギは庭を横切り、下駄を脱いで縁側から宿の中へと入っていく。
「イチ、月見の用意をお願いします」
「はい只今」
なんの戸惑いもなく、明るい室内から返る女の声に、猫又――ヤサカニは肩をすくめる。
「ミツルギさんの考えることは本当にわかんないな」
後ろ足で立ち上がったヤサカニは、十代半ばの少年に姿を変え、宿の主を追った。
人のいなくなった宿の庭先を、青白い満月が照らし出す。悲しげに、寂しげに、月明かりはその存在を主張していた。
チベットから来日した密教僧――天・孔雀がそこへ訪れたのは、果たして偶然だったのか必然だったのか。
月のよく見える明るい夜、月夜の散歩と洒落込んだのが始まりだった。
特に行く先を決めるわけでもなく、足の赴くまま気の向くまま。手にした錫杖がしゃらしゃらと鳴り、月明かりを浴びてはきらきらと光った。
涼しげな虫の声に目を瞑り、孔雀は一歩また一歩と歩みを進める。
「いい夜だなあ」
昔から、満月は人や獣、物の怪の心を狂わせるというけれど、その晩は珍しく静かで穏やかな夜だった。
普段なら血に餓えた人ならざるものたちが出歩くような時間だというのに、孔雀の周りにはなんの気配もない。
――だから、少し油断していたのかもしれない。
孔雀は世界と世界の境界線を越えてしまったことにも気がつかなかった。
ふと目を開ければ、見覚えのない木造の日本家屋が佇んでいる。
「およ? ここどこだ?」
思わず目をぱちくりとさせ、目の前の日本家屋をまじまじと眺める。
看板を見るからには、どうやら宵待ちの宿――という名の宿らしい。中からわいわいと賑わう声が聞こえてきていた。
「なんだ?」
門から中を覗き込めば、宿の庭先に幾つかの人影があった。
しかし、それは――尻尾だの獣の耳だの――人と呼ぶには不要なものを備え付けた影。
「……妖怪、だよな? なのに、邪気がまったく感じられないなんて……」
一体、どうなってるんだ?
庭の飛び石を飛んで遊ぶ――猫又と思しき少年と、その後を追いかける一見普通の少女に見えなくもない――雪んこ。
人間の兄弟がふざけ合うように、無邪気にじゃれ合うその姿を見て、孔雀はしばし閉口した。そこへ、男の声がかかる。
「こんばんは、良い夜ですね」
いつの間にか、孔雀のすぐ後ろに数本のススキを手にした金髪の男が立っていた。その斜め後ろに控えるようにして、同じ金髪の女がはさみを持って立っている。
「ああ、どうも、こんばんは……って、ん?」
極々自然に挨拶を返して、孔雀は微かな違和感に首を傾げた。
見た目は間違いなく、普通の人間であるはずなのに、どこか人とは違う空気。夜の空気に紛れるように浮かび上がる顔を見つめ、まさかと思って口を開く。
「あんたたち、狐か?」
孔雀の問いかけに、女のほうがにこりと答えた。
「はい。おっしゃるとおり、私もミツルギさんも狐でございます」
「……もしかして、夫婦?」
「ええ、そうです」
孔雀は交互に男女の顔を見比べ、肯定した狐の男は碧い双眸を細めた。
「私はこの宿の主、ミツルギ。こちらは妻のイチです」
「こりゃご丁寧にどうも。俺は天・孔雀っていうもんだ。まあ、見てのとおり――退魔師をやってる」
錫杖で軽く自分の肩を叩いて、孔雀はにかりと笑った。
「ま、ここはそんなもの必要なさそうだけどな」
冗談めかしてそう言えば、狐の男女――ミツルギとイチも微笑む。
ミツルギは浮かべた微笑を絶やさず、手にしたススキを胸に、口を開いた。
「我々は今から月見をするところなのですが――孔雀様もいかがですか?」
「俺も月見の仲間に入れてくれるのか?」
「ええ、猫又と雪んこもいますが……孔雀様がよろしければ」
そう答えたミツルギと同じ気持ちなのか、イチも頷く。
突然の誘いに孔雀は少し考えたものの、断りきれずに誘いに応じることにした。
「んじゃ、お言葉に甘えて」
「ではこちらへ」
ミツルギに案内され、孔雀は猫又とゆきんこが遊ぶ庭先へと通される。
その足音に気がついたのか、はたまた気配を感じ取ったのか、真っ先に気づいたのは猫又のほうだった。
「あれ? ミツルギさん、その人は?」
くりくりとした大きな瞳に孔雀を映して、こてんと首が傾く。遅れて気がついた雪んこが、猫又の後ろに隠れるようにして孔雀とミツルギとの間で目を動かした。
「お客様ですよ。一緒に月見をすることになりました」
「天・孔雀だ。ちょっくらお邪魔するぜ」
「孔雀か、人間だよな。おいらはヤサカニ、猫又だよ」
「ミカガミです……孔雀さん、よろしくお願いします」
「おう、よろしくな」
孔雀が笑ってみせると、猫又も雪んこも釣られるように笑った。
宿の縁側はちょっとした宴会場のようになっていた。幾つかある丸い皿の上には白い団子が山と積み上げられ、傍らには好みで味付けができるように、あんこやたれ、きな粉が小皿に盛り付けられている。漆塗りのとっくりと杯もあった。渦を巻いた蚊取り線香から細い煙がたなびいていた。
「孔雀様はお酒は飲まれますか?」
花瓶に取ってきたススキを生けながら、縁側に腰かけた孔雀に向かってミツルギが尋ねる。
月見団子に手を伸ばしかけていた孔雀は、ミツルギを振り返り「あー」と少し言いにくそうに苦笑した。
「俺、下戸なんで一滴も飲めないんだ。茶ならいただくぜ」
「そうでしたか。でしたら、私も茶にしておきましょう――イチ」
「はいはい只今」
くすくすと微笑んだイチが縁側を上がって宿の中へと消えると、程なくして白い湯気をたてる湯飲みが、お盆にのって運ばれてきた。
「月見団子食って、茶を飲みながらの月見もオツだねえ。あやかし連中が一緒、ってのが変わっているけどな」
ずずずと淹れ立ての緑茶をすすって、息を吐く。
そんな孔雀の言葉に、ヤサカニが言った。
「おいら達からしたら、人間と一緒ってほうが変わってるんだけどな」
「はは、違いねえ」
空に浮かぶ丸いそれを眺めながら、孔雀は笑って団子を口の中に放り込む。
――そして、それは突然だった。
ふいに、涼しげに鳴いていた虫の声がやむ。それにミカガミが顔を上げた瞬間だった。
「……え?」
どこからともなく、真っ白なうさぎが降ってきた。
「おっ、うさぎ登場か。いいねえ」
どこかのん気に孔雀が笑う傍で、ミカガミは小さな声で呟いた。
「……違う。うさぎじゃない……」
孔雀がその言葉を耳にしたのとほぼ時を同じくして、庭先に落ちたうさぎが大きく膨れ上がる。
うさぎがゆっくりと面を上げた時、既にそれは『うさぎ』ではなくなっていた。
「いかにも、その通り。あたしはウヅキ、夜を統べる天の『月』じゃ」
白銀に輝く長い髪を揺らし、赤い瞳をいたずらに光らせて、うさぎだった女――ウヅキが笑った。
「は?」
素っ頓狂な声を上げたのは、ヤサカニ。
こいつ頭大丈夫? とでも言いたげに顔を歪ませるその隣。孔雀は思わず湯飲みを落としそうになった。
「何!? おまえが『月』だって? 月って、まんまるなアレだろ!?」
慌てて立ち上がった孔雀の指は、空に浮かぶ青白い満月を差し示す――はずだった。
「って、月がねぇ!!」
先刻まで、確かにあったはずの月がない。
月に成り代わるようにあるのは、ぽっかりと開いた丸い穴。そこには星も瞬かず、黒々とした空が見えるだけ。
「だから言ったじゃろう。あたしが月なのじゃ、地に降りたものが天に在るはずはあるまい」
自らを『月』と称したウヅキは、軽くパニックに陥っている孔雀をよそに、つかつかと縁側に歩み寄る。
「ほうほう、これは美味そうな月見団子じゃ。どれ、ひとつ――んむ、美味い!」
なんの断りもなく、細い指で団子をつまみ上げた団子を口に入れ、にっこりと笑う。イチの「ありがとうございます」という返事が、場違いに響いた。
「こいつ、本当に月なのか……」
「え、孔雀、そんな話信じんの?」
ぼそりと呟かれた孔雀のそれに、ヤサカニがぎょっとする。
その瞬間、ウヅキの赤い瞳が一瞬だけ伏せられた。けれど、すぐになんでもない表情を繕う。
「信じる信じないは勝手にするがよかろ。あたしには関係ないんじゃからな」
再び月見団子に手を伸ばしたウヅキの手は、けれど、孔雀の言葉で止まった。
「話次第じゃ、信じてやるよ」
「――なんじゃと?」
「だから、話次第じゃ信じるって。帰れないんだったら、帰る方法が見つかるまでここにいればいいじゃん。な? なんなら、俺と一緒に東京めぐりでもするか?」
「…………」
「ん? なんだ、どうした?」
そう言う孔雀を見つめて、ウヅキはぱちりぱちりと瞬きをした。
「……君、名はなんと言う」
「俺? 俺は孔雀だけど」
孔雀が名乗ると、ウヅキは「このように人と話すのは何年ぶりじゃろうのう」と唸る。
「孔雀よ、あたしは空から降りて来たのじゃ――君達が、あまりに楽しそうにあたしを見上げるから、つい嬉しくなっての」
団子を頬張りながら、ふふふとウヅキが笑った。
「何、別におかしなことではない。昔は、誰もがあたしを見上げてはこの美貌に見惚れたものよ」
「……自分で言うか?」
「ヤサカニ、少し黙っていなさい」
呆れた目でぼそりと言ったヤサカニを、ミツルギが静かに嗜めた。
「しかしの、時の流れとは恐ろしいものじゃ。長い年月を経て人の生活は変わり、皆――空を見上げることを忘れてしもうた。人間は十五夜なぞと月見の日を決めたものじゃが、今となってはこうして月見をする者はほとんどおらぬ」
物憂い気にため息を吐きながらも、団子を食べる手は止めない。ミツルギに黙るように言われた手前、声を出せないヤサカニが「食い意地張ってるな」と思ったことは、おそらく誰も知らないだろう。
白く長い睫に覆われた赤は、やがて瞼に隠された。
「じゃから、あたしはもう空には戻りとうない。暗い空で一人でうずくまっているのは、もう嫌じゃ!」
ウヅキがかっと目を見開いて空を睨みつける。
「君達がなんと言おうと、あたしは帰らぬぞ!」
長い髪をひるがえして鋭い目つきで縁側に座る面々を振り返った。
何がなんでも帰らない――紅の瞳が如実にその意志を表す。
けれど、
「だったら、ここにいればいいじゃん」
あっけらかんと言い放った孔雀の言葉に、ウヅキも宿の住人たちも彼を見た。
「気がすむまでここにいて、月見団子食って――そんで、帰りたくなったら帰ればいいじゃん。な?」
にかっと笑った孔雀を、ウヅキは大きな目を見開いたまま見つめていた。
大きな柘榴石の瞳から、小さな雫が零れ落ちる。
「……狐、こいつの面倒頼む。俺、自分のことで手一杯だから」
ウヅキの細い肩を叩いて笑った孔雀に、ミツルギも「もちろんです」と微笑んだ。
そして、月が不在の月見の宴が再開される。
酒が入っていないはずの宴の最中、誰もが頬を赤らめて、満面の笑みを浮かべていた。
宿の主は一人高い塀の上に腰をかけ、夜通し続くだろうその宴の音を聞いていた。穴の開いた夜空を眺め、近づいてくる猫又の足音に耳を澄ます。
「……ミツルギさん、あんたあのうさぎのこと知ってて月見しようって言い出したんだろ」
塀の下からかけられたその声に、狐の男は振り返らなかった。
「――さて、ね。私が知ることはそう多くはないですよ」
ただそう返して、湯飲みに口をつける。
飲めや――茶を――食えや――月見団子のみを――歌えや――月とは全く関係ない歌も――の大騒ぎを、月のうさぎは懐かしむ。
遥か古の公家が催した宴のようで、親子だけのささやかな催しのような、しあわせだった思い出を。
今その胸に刻みつつある、しあわせな思い出を噛み締めて。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【7740 / 天・孔雀 / 男 / 26歳 / 退魔師】
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■ ライター通信 ■
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初めまして、諸月みやです。この度は『宵待ちの宿 中秋の名月』を発注してくださり、まことにありがとうございます。
中秋の名月と銘打っておきながら、実際はとっくに中秋を過ぎてからの受注開始で、窓開けには然程時間を取れなかったのですが、天・孔雀様が参加してくださり、ほっといたしました。
ウヅキもきっと嬉しかったことでしょう。月見酒ならぬ月見茶を飲みながら、月を見上げる日はそう遠くないかもしれません。
天・孔雀様にお楽しみいただけることを切に願って、またの機会がありましたら、ぜひよろしくお願いいたします。
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