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<東京怪談ウェブゲーム アンティークショップ・レン>


西洋人形回顧録

◇ 序 ◇
「拾い物の人形?」
 仄暗い店内で、不意に女の驚いた声が聞こえた。
 声の主は、この店――一見胡散臭そうなアンティークショップだ――の主、碧摩蓮である。
 カウンターの上には、精巧に作られた一体の西洋人形。その人形を挟むようにして、蓮と痩身の男が顔を突き合わせていた。
「はい。町外れの洋館から、娘が拾ってきたそうなのですが」
 おずおずと人形を差し出してくる男に、女は目をすがめるようにしてそれを見つめる。手に持った煙管を小刻みに揺らして、蓮は無言で話の続きを促した。
 町外れの洋館と言えば、何十年か前に主を失った、資産家の家だ。当主が自殺したということもあり、買い手が付かず、今は廃墟と化している。
 当主に家族と呼べそうな者が居なかったせいで、金目の物は全て慈善団体に寄付されたと聞いたのだが……。
「夜中の〇時になると、小さな声で泣くのです。翌朝起きてみると、頬に水の滴った痕があって……」
「なるほど。それであんたは、それをここに売りに来た、と」
「はぁ」
 男は、弱った調子で頷いた。人形に睡眠を害されているのか、男の目元にはくっきりと隈が浮かんでいる。見たところ、呪いや怨霊といった類のものではなさそうだが、彼の様子に女はふん、と鼻を鳴らした。
「良いよ、買おうじゃないか。もっとも、客が付くかどうかは定かじゃあないけどね」
 趣味で店を経営している蓮にとって、品の買い取りに重要なのは売れるかどうかではない。
 それが面白いか、面白くないかである。
 人形を受け取った女は、しかし悠然と笑いながら首を傾げた。
「何だって、こんなものが残ってたんだろうね?」
 問いかける口調とは裏腹に、彼女の笑顔は全てを知っているようなものだ。
 女の言葉に首を捻りながらも、男は店を後にする。文字通り憑き物が落ちた男の背中は、店に入ってきたときよりも随分と晴れやかなものだった。

◇ 一 ◇
 キィと小さな軋みと鈴の音を上げて、その扉は開かれた。
「いらっしゃい。あんたはどんな品をお探しだい?」
 それとほぼ同時に聞こえたのは、気怠げな、それでいて張りのある女性の声だ。奥でランプが揺れるのを目に留めて、店へと入ってきた女性――川那辺樹里は、辺りを見回しながら朧気に声をかけた。
「もし。こちらで、泣いておられる方はおりませんか?」
 古びた書物やカンテラのような何か。足の踏み場が僅かに残る程度までせり出している品々に視線を移しながら、姿を現さない店主の代わり、樹里は一歩一歩暗い店内を進んだ。
 重苦しい雰囲気と相まって、古物独特の古びた匂いが鼻を突く。
 やがて辿り着いたちょっとだけ開けたカウンターには、彼女が予想もしなかった人物達が居た。
 一人は、煙管をふかしながら台に寄りかかるチャイナドレスの女性。赤い髪を結い上げたその女性は、微かな妖艶さすら纏っている。このような陰気臭い場所には、似つかわしくない容貌の女だ。
 もう一人は、やはり骨董品店という場所には似つかわしくない、今時の格好をした青年。樹里と同じ――とはい言うものの、樹里の方が彼よりも幾分柔らかい色合いをしているが――赤い髪と金の双眸を持つ、二十ほどの男だった。
「泣いてる者? あぁ、ここには沢山居るだろうねぇ。ここに来られたのなら、あんたも感じるだろう?」
 辺りを見回しながら、店の主である女性はニッと意味深に笑った。彼女の言う通り、確かに樹里は外界で感じえなかった違和感を覚える。
 ここにあってはいけない者達が、密集しているような感覚。
 同じ瞬間、もう一人の客人と思われる男も、彼女と同じものを感じたのかもしれない。
 ふい、と手の中に落とされていた男の視線が、店内の至る所を彷徨った。
「……あ」
 そこで樹里は、不意に小さく声を上げる。青年の影になっていて見えなかった彼の腕の中には、一体のアンティークドールが抱かれていたのだ。
 金糸のウィッグに、紺碧のドール・アイ。ふわふわとしたドレスを纏う、典型的なフランス人形。
 その人形と目を合わせた瞬間、彼女は魅入られたかのように視線を逸らせなくなった。
「おや、やっぱりあんたも呼ばれたんだね」
「……わたくしめ、も? 呼ばれた、と仰いますと?」
「毎夜深夜〇時になると、悲しそうに泣く……曰く付きの人形さ」
 紫煙をくゆらせながら、女は闇色の瞳をフランス人形へと向ける。
「ここにある品々は、どれも事情アリのものばかりでね。そういう品は、自らを救ってくれるものを呼ぶんだよ。そこの人も、恐らく呼ばれたんだろうねぇ」
 そこの人、と示しながら、次に店主が目を向けたのは人形をしげしげと眺めている男性だった。
 一見ちぐはぐなその組み合わせに、しかし彼は気にする様子なく人形を観察している。
 何分もそうしていた青年は、視線を上げて漸く、二人の女性に見られていることに気付いたようだった。
「この人形……やっぱり、何か……あるみたい。色々、情報を教えてほしい、かな。取り敢えず、〇時までは……様子見だけど」
「情報を教えるのは構わないよ。だけど、〇時まで待つって言うなら他の場所でね。こんな狭い場所で待たれてるんじゃ、商売の邪魔になるから」
「他の場所……」
 にべもなく店主の告げた一言に、男性が首を捻って考え込むようにひとりごちる。それを見た樹里が、ハッとしたように提案を持ちかけた。
「それでしたら、わたくしめの元へお招き申し上げましょう。生家はお寺ですから、お泣きになっても周辺の方々にご迷惑をお掛けすることはないと存じ上げます」
 今度は店主と青年の視線が、彼女へと注がれる。けれどどういうわけだか、店主は目を細めて笑い声を漏らすではないか。
 それはどこか、樹里の申し出を楽しんでいるようだ。
「良いね。面白いじゃないか。その人形はあんた達に譲るよ。勿論、お代は要らない。その代わり、その人形の心をほどいてやって欲しい。できるかい?」
 まるで挑戦状でも叩き付けるかのように、店主は煙管の灰を捨てながら嫣然と笑った。
 店主の問いに、青年と女性は目を丸くして顔を見合わせたのだが、すぐに彼は無言で頷き、彼女は微笑んで「はい」と答えたのだった。

◇ 二 ◇
 アンティークショップ・レンへと訪れた青年は、鳴沢弓雫と名乗った。
 樹里と同様、赤い髪に金の双眸といった容姿だ。少々人目を惹くその外見に反し、彼はゆったりとしたテンポで喋る人物だった。
「寂しい、のかな」
「え?」
「このお人形……毎日、夜中の〇時にだけ……泣くって。泣きやむ時間……まばらだって言ってた、けど。どうして、かな」
 人形を連れ帰ってからこの方、座敷に座ってずっと人形を観察していた弓雫が、途切れ途切れのテンポでそう告げた。
 結局幾つかの情報――当主の名前や屋敷の正確な位置、死亡年月日や時間などだ――を得た二人は、当初の予定通り、樹里の生家という寺で深夜〇時まで待つことにしたらしい。互いに沈黙を守っていただけに、女性の方は余計驚いたようで目を丸くした。
 けれど小首を傾げて幾分考え込んだ後、彼女はぽつぽつと言葉を口にする。
「わたくしめには、彼の方の想いはわかりませんが、夜毎涙を流すほどに胸に抱える想いがあると申されるのなら、わたくしめはその想いを受け止め、なぐさめとうございます」
 彼女もじっと人形を見つめながら、答えは至極穏やかに紡がれた。
 ふむ、と呟きながら緩慢な動作でこくりと頷いた青年に、樹里は首を傾げる。けれど、すぐに抑揚のない声で返された言葉にはにこりと微笑んで見せた。
「うん。……そう、だね。そういう風に考えられるのは……素敵なことだと、思う」
 それから、不意にごそごそとポケットを漁り始めた弓雫は、ほどなくして摘み出した何かを樹里の掌に乗せた。
 ころんと転がった包み紙は、ビー玉ほどの大きさで丸い。
 不思議そうに無言で彼と包み紙を交互に眺めた樹里へ、青年は表情一つ変えず呟いた。
「まだ、時間……あるから。飴でも舐めて、待とう」
 これ、美味しいから。そう付け足しながらまた人形へ視線を落とした弓雫へ、樹里は一つ礼を言ってから甘い飴を口に含んだ。

◇ 三 ◇
 どれほど経った頃だろうか。黙々とひたすらフランス人形に視線を注いでいた弓雫は、ふと部屋に飾られていた時計に目を向ける。
 窓の外はとうに日も落ちており、薄青い闇と微かな街灯の明かりばかりが窓から差し込んでいた。
 時刻を確認すれば、二十三時もとうに回っており、くだんの〇時まであと十分を切たようだ。
 向かい合うように人形の前へ座っていた樹里を見れば、うつらうつらと船を漕いでいる。そう言えば、いつもは早寝早起きが習慣なのだと昼間に言っていたことを思い出した。
「……時間」
 静寂に染み入るような声音で告げながら、弓雫は樹里の肩を軽く叩く。意識は夢と現の境をさまよっていたのだろう。彼女は一瞬ビクリと身体をつっぱねて、すぐに顔を上げた。
「ハッ……わ、わわわたくしめは一体何を――」
「寝てた、かな……」
 頭が回っていないのだろう。女性は状況を理解していないようで、辺りを見回した。やがてすぐ側の人形に気付いたとき、樹里は漸く自分が何をしていたのかに思い当たったらしい。
「もう、五分と残されてはおりませんか」
 弓雫と同じく時計に目をやった樹里は、それ以上の言葉を紡ぐことなく人形を凝視していた。
 微かな、けれど耳鳴りよりも鮮明な秒針の音が、断絶的に二人の耳へ入ってくる。極めて小さな音だというのに、それは静かな部屋では異様に大きく聞こえたことだろう。
 時計とフランス人形とを二人で交互に見比べながら、ついに時間の〇時まで十分を切った。
 心音と重なるように、秒針はゆっくりと時間までの間を縮めていく。
 二十五、二十四……十、九、八……。
 どちらからともなく漏れたカウントダウンが、〇に重なろうとしたそのときだ。
 青年と女性の間に置かれた人形が、目に付くか否かというほど希薄な動きで震えた。もしかすると、何の力も持たない人間ならば、僅かな震動にさえ気付かなかったのかもしれない。
 成り行きを見守っていた二人の顔が驚愕に彩られたとき、その部屋に初めて、聞き覚えのない少女の声が響いた。
『ひっ……っく、……すん』
 声と言うにも惑うような、小さな小さな泣き声だ。まだ十と数えていない年頃の、少女の声。しゃくり上げたかと思えば、こらえるように鼻を鳴らす、そんな泣き声だ。
 ハッと息を呑んだ樹里がフランス人形を見下ろすと、ガラスの双眸からは二筋の雫が流れている。
 彼女は懐から袱紗を取り出すと、人形のその目元にそっと当てた。
「ぬしさまは、なにゆえお泣きになりますか?」
 それから人形の心に語りかけるように、樹里は優しく微笑んで問うた。けれど人形は、ただただ泣き声を上げ、涙を流すばかりだ。
「何か、怖いことが……あるの? それとも……寂しい……?」
 今度は弓雫がそう問いかけてみるが、人形はすすり泣きながら僅かに震えただけだった。
 横に震えたような気がして、二人はそれが否定の意であることを知る。意味を成す言葉の一言も発してくれない人形に、困り果てていたが、やがて人形はしゃくり上げながら、やはり小さな声で呟いた。
『キヨタカ、様』
 確かにそう呟いた人形の言葉に、二人は顔を見合わせた。清孝。それは、この人形の嘗ての持ち主であった、自殺したとされる当主の名前だったのだ。
「ご当主様を、お慕い申し上げておいででしたか?」
 今度は人形の頭を優しく撫でながら、樹里がもう一度問いかける。
 効果はてきめんだった。
『キヨタカ様……きよたか様…。清孝様』
 人形は狂ったように、その名を口にする。がくがくとのたうつかのように人形が激しく震え、女性は慌てて人形を宥めようとする。
「ご当主様は、遠い昔に天へ召されておいでです。ぬしさまには辛い現実でありましょうが――」
「待って」
 眉を悲痛に歪めて言い聞かせようとしていた樹里へ、不意に弓雫の静止の声が飛んだ。遮られた言葉に彼女が首を傾げたのを見て、青年は立ち上がる。
「お人形さん……元居た場所に行けば……もしかしたら、何かわかるかもしれない」
 そう言って彼が指さしたのは、町外れの洋館があると噂される方角だった。

◇ 四 ◇
 弓雫が先導するように前を走って、その後を人形を腕に抱いた樹里が追いかける。
 十分、それとも二十分以上だろうか。どれだけ走ったかわからなくなってきた頃、目的の邸はその全貌を現した。
 つたが複雑に絡まった門は、鍵が壊れて簡単に中へ入れるようになっている。同じように屋敷の外壁にも、無数の植物が這っていた。
 息一つ乱していない青年に対し、女性の方は少々酸欠状態にあるのか肩で息をしている。
「ここが、ご当主、様の、お屋敷で……ございますか」
「そう、みたい。念の為……倒壊とか……変なものが居ないか、確認してもらう……から……まだ、入らないで」
 確認? と樹里はキョトンとした様子で弓雫を見るが、彼はそれには構わずに、右手を宙へと差し出した。
 小指には、銀の指輪が填っていた。
「我が声に応え、我が命に従え……“朔”」
 まるで呪文のように唱えられた言葉で、ふと辺りが張り詰めたような空気へと変容する。彼の背後に控えていた樹里はぶるりと一つ身震いをしたが、何が起こったのかわからない様子だった。
 空気以外には、特に変わった様子はない。けれど、弓雫にはそれが見えていた。
 青年の目の前には、長い黒漆の髪を持つ女性の姿。その瞳は紫水晶のようで、ただ主である弓雫だけを見つめている。
「朔、中を視たい。脆くなってる所とか……あると、いけないから」
 青年がそう呟くや、朔と呼ばれた彼の守護霊は、こくりと頷いて屋敷の中へと身を滑らせた。
 彼女の姿を目にすることのできなかった樹里には、微かな風が吹いた程度にしか思わなかったのだろう。何が起きたのですか? と不思議そうに尋ねた。
「守護霊を通して……屋敷の中を、視てる。……こっち、かな。“死の跡”が、残ってる? ロープも。そこで、当主が……うん、大体わかった。大丈夫そう、かな」
 暫く目を閉じていた弓雫は幾つか独りごちてからそう答え、行こう、と洋館の扉を指さした。
 蝶番は扉に絡まる蔦により、どうにか扉へとくっついている状態だ。慎重に開かれた扉が錆び付いた音を立てて、耳障りだった。
 当たり前ながら、電気など通っていないエントランスは暗い。二人はそれぞれ寺から持ってきた懐中電灯を付けて、古びた屋敷の中を進んだ。
 二階建ての洋館は、屋敷と言うにはこぢんまりしていて狭い方だろうが、歩いてみれば中々に広かった。足を動かすたびに埃が舞い上がるのには困ったが、放置されていた年月を思えば仕方のないことだろう。
 錆び付いた扉のノブ。
 カーペットは色褪せて、ネズミにでもかじられたのか毛が不揃いだ。
 その洋館の、奥の奥。二階の左端の部屋が、当主が命を絶った場所らしい。先を進んでいた弓雫が扉を開いて、二人は当主の部屋だった場所へ足を踏み入れた。
 全盛期には豪奢なカーテンがかかっていたのだろう窓は、今は蜘蛛の巣一つを垂らすばかりで白い月光を全面的に受け入れている。
 辺りを見回しながら、樹里が窓辺へ近付いたとき、彼女の腕の中に抱かれていた人形が大きく震えた。
『ここ、は』
「如何なされましたか?」
 初めて人形が、泣き声でも気が触れたものでもない、掠れた声で呟いた。それにぴたりと足を止めた樹里が、腕の中の人形を覗き込む。
 人形がその顔に表情らしきものを浮かべることはないが、再びほろりと流れた涙に、悲しんでいるのだろうとわかる。
 人形を下ろして自らも床へと座り込んだ樹里が、再び問いを投げかけた。
「言葉は、口に出さねば誰にも伝わりません。かようなわたくしめでよろしければ、ぬしさまの思うこと、お教え頂きとうございます」
『ここ、は、きよたかさまの……おへや』
「……うん。お人形さんは、ずっと……ここに居たの、かな?」
『いい、え。……いいえ。わたしはずっと……まってい、ました』
「待ってた……? どこ、で?」
 不自然に途切れがちながらも、人形は絞り出すように言葉を紡ぐ。弓雫の問いかけにも、今度は混乱した様子なく答えてくれた。
『くらい……くらい、ばしょで。いつか……むかえにくると。きよたかさまは、おっしゃいました』
「だから、ずっとここで……待ってた?」
『ええ、ええ。けれど、かのかたは、いつまでたってもいらっしゃらない。わたしはしがない、つくもがみ。あるくことすら、ままならない。それでもわたしは、かのかたの《あい》でうまれたモノなれば……ずっとおまち、もうしあげて……』
 何度目だろう。そこまで続けた人形が、またひくりと涙をこぼす。次から次へと流れる水滴は、この人形の背負った悲しみの分だけ溢れていく。
 しゃくりあげながらも言葉を続けようとする様は、人形と言うにはあまりにもリアルで人間じみていた。
『どれくらいか、ぶりに、ひかりを……みたとき、ようやく、むかえにきて、くださったのだと……けれど、それは、きよたかさまで、は……ござい、ませんで……した』
「それが、あの骨董店へぬしさまをお連れもうした方の、娘御様にありますか」
「多分……」
 人形へと尋ねた樹里の言葉は、弓雫によって答えを得る。もしかすると、この人形は主人が亡くなってしまったことに気付いていないのではないだろうか。
 二人がそう思いかけた矢先だ。
『けれども、わたしは、わかっていました。きよたかさまは、もうここにはいらっしゃらないことを』
「「え……」」
 樹里と弓雫の声が重なる。すんなりと耳へ入ってきた人形の言葉は、諦めの色ばかりを含んでいた。
『それでも、まっていたかった。しんじて、いたかった。……だから、きよたかさまではないだれかのてによってひかりをみたことが、とてもかなしかった』
 清孝様はもう居ないのだと、言い聞かされているようで。
 人形はそうこぼして、小さく震える。
『このじかんは……』
「……?」
『このじかんは、きよたかさまが、まいにちわたしにはなしかけてくださっていたじかんでした。ほんのうがおぼえている、から。このじかんにおこえをきくことができないという、それだけで、わたしにとってはつらかった』
「……けれど、当主さんは、もう居ない。そうしてここに、一人留まっていても……君が苦しい、だけ」
 残酷な真実を告げる、弓雫の表情が悲痛に歪んだ。愛するものも、守るべきものも失った妖は、ただただ何を考えることもない亡霊へと成り果てるだけだろう。
 それでは、最後には何の幸せも残らない。
 青年の言葉に黙り込んでしまった人形を見かねたのか、一つ微笑みを浮かべた女性がこう提案した。
「ならば、わたくしめの元へおいでませ」
『……え?』
「長い年月をお一人でおられるのは、どれほど悲しいことでしょう。けれど二人ならば、悲しみと同じだけ、喜びも生まれるというものではありませんか?」
 この言葉に戸惑ったのは、言った樹里本人でも隣で聞いていた弓雫でもなく、問われた人形の方だった。ぎぎ、と非常に緩慢な動作で首が動いて、女性と青年を交互に見る。
 初めて与えられたのだろうか、その選択肢に、どうすれば良いのか迷っているようだった。
「選ぶのは……君。君の待っていたご主人に、会いたいなら……供養も、できる。でも、まだ、この世界に在り続けたいと思うなら……彼女の手を、取っても良いと」
 彼の言葉は、人形の背中を押すようにゆっくりと紡がれた。
 なげやりなものでも、まして急かすものでもなく、ただ自分で選べば良いのだと。
 そうして人形が選ぶ道は――。
『あなたさまのもとへ、わたしをおつれください』
 碧いガラス玉の双眸は、しっかりと樹里を見てそう告げる。
 表情に変化はないというのに、二人にはその人形が、初めて微笑んだように思えた。

◇ 終 ◇
 障子の向こうから、僅かに差し込んでくる朝日が眩しい。
 それは、一体どちらが思ったことだろう。或いはどちらともが思ったことかもしれないし、どちらもそうとは思わなかったかもしれない。
 畳に敷いた布団から起き出した樹里は、すぐに閉じられていた障子を開けて昇り始めたばかりの朝日を全身で浴びた。
「本日の朝は、いつにも増して清々しいと思いませんか」
 早朝特有の澄んだ冷たい空気を目一杯吸い込みながら、彼女は誰も居ない空間へそう語りかけた。
 否。そこには、人ならざる者が一人だけ居たのだ。
『あさひが、こんなにもうつくしいものだということさえも……わすれていました』
 やはり表情のないままにそう呟いたのは、机の上にちょこんと座ったアンティークドールだった。年代物であるにも関わらず、その金糸の髪は傷むことなく朝日に煌めいている。
 まるで今にも感嘆の息がこぼれそうな人形の言葉に、樹里は何を言うこともなく微笑んでいた。
 それから顔を洗おうかと部屋を出ようとしたところで、ふと彼女は足を止める。そのまま何かを思い出したように人形の元へ戻って行くなり、女性は人形を抱き上げてこう言った。
「思えば、わたくしめはぬしさまの名を知りません。教えてもらいとうございます」
『なまえ……?』
「はい、名前を」
 にっこりと破顔する樹里へ、人形は不思議そうに言った。
『なまえは、ありません。とおいむかしに、きよたかさまがよばれたなまえは、いまはふようのものだから。ですからどうぞ、じゅりさまがおつけになってください』
 やはり錆び付いたオルゴールのように、ゆっくりと首を左右に振った人形は、それだけを言って黙り込んだ。
 それは悲しみや諦めなどではなく、ただ幼い子供が新しいおもちゃを待つように、そこには期待が込められている。
 ならばと考え出した人形への名前を、女性はそっと唇に乗せた。
「では、ぬしさまの名前は――」

◇ 了 ◇
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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【7653 / 川那辺・樹里 / 女性 / 20歳 / 仏具職人】
【2019 / 鳴沢・弓雫 / 男性 / 20歳 / 占師見習い】

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■         ライター通信          ■
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 川那辺・樹里様、鳴沢弓雫様。
 初めまして、こんにちは。
 この度は、「西洋人形回顧録」への参加依頼ありがとうございます。
 当作品は初めてアップしたオープニングでしたので、思い入れがあり、今までで一番時間を掛けて書き上げました。
 書き始めた当時は川那辺様の特殊な口調に悪戦苦闘したり、鳴沢様の口調のテンポを実際に声に出して読んでみたりとお二方の特徴には特に力を注いだのですが……み…実になっておりますでしょうか(汗
「まだまだじゃボケェ!!」という方は、ファンレターからこっそりと耳打ちくだされば、PC画面の向こうから土下座させて頂きます^^;
 それでは、ここで個別コメントをしたためさせて頂きます。

川那辺・樹里様
「四」の後半部を書くまで、お人形を持って行ってもらうか、お人形のつくも神に成仏してもらうかと散々悩み、また持って行ってもらうならお人形が選ぶのか、お人形が成仏した後で「外身」だけを持って行ってもらうという流れにするのか、ここでまた散々悩みました。
 しかし、折角出会った縁なのだからと、お人形には自分の意思で川那辺様の元へ行ってもらうことになりました。
 名前は、敢えてありません。お好きな名前を付けて可愛がってあげてくださると嬉しいです。

 それでは、今回はこの辺りで締めくくらせて頂きたいと思います。
 この作品がお二方のお気に召すもの・お心に残るものでしたら幸いです。