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【2分49秒 ー4】
瑞穂は眼鏡のツルをやっとの思いで操作して、扉を開けた。開いた扉の向こうから、涼しい空気が入ってくる。生きているのを実感する。
ファングは瑞穂を捨て置き、先に進む。だが、すぐに戻っていた。
「おい、パスワードはなんだ?」
端末を起動させるには、パスワードが必要だった。ファングはそれを知らない。そして瑞穂も知らなかった。
「し、知らない」
「ウソをつくな!」
ファングは瑞穂の頭を踏みつける。
額を踏まれ、涙が目の端に滲む。
「うぅ、はぅ」
口から漏れるのは嗚咽だけで、声にならない。
ヘッドドレスが外れ、前髪が散らばった。
「や、やめて」
ワンピースの肩口を掴まれて、瑞穂はまたも持ち上げられた。
「いえっ!」
ファングは瑞穂の身体を壁にぶつける。一度、二度、三度。何度も何度も、激しい力で壁にぶつける。
薄く開いた瞳にレンズ。端のところが明滅している。定時連絡の時間を知らせる。
「パスワードだ。いえ」
パスワード。それをいわなければ、瑞穂はきっと解放されない。
なに?
なんなの?
パスワードって。
「ふあっ!」
全身を何かが駆けた。
血が、血管の外へ染み出ていくような感覚。血が肉と骨に流れ込んでいくような感覚。そしてその、肉も骨も、消し炭のように脆く崩れていくような感覚。
高度三千メートルからの降下作戦のときに感じた、重力に引かれる感覚。今、壁に引かれた。
浸透勁とも呼ばれる、衝撃波。接触する一点にだけ力を集中するのではなく、面をイメージすることで、対象の内部すべてに力を加える。
瑞穂の全身に、その体内に、ファングの激烈な力が走り、その力によって蹂躙され、痛めつけられた。内部から破壊されたようだ。実際、細胞の何パーセントかは死んでしまった。
その衝撃は着ていたメイド服をビリビリに破き、さらには瑞穂の背後にあったコンクリートの壁まで崩した。その壁のなかに、瑞穂の身体は壁に埋もれている。
「……パスワード」
朦朧とする意識のなかで、瑞穂は必死に考えた。この任務を任されたとき、上司に何かいわれてなかったか。
「あ」
と気づいた。
定時連絡のときに用いる合言葉。
《秘め事は?》
《子の親殺し》
この屋敷を建てたのは英国人。
秘密は英語で、《secret》。
子の親殺しは、《子音が残って母音が消える?》
「SCRT」
「ほんとうか?」
ほんとうに?
分からないが、瑞穂はいった。
「え、ええ……」
これが間違いであったなら、戻ってきたファングに殺されるだけだろう。
もう、終わりにして欲しかった。
「ちょうど四文字か」とファング。
端末の入力スペースは、四文字しかない。ファングは瑞穂が真実をいうかどうか、試していたのかもしれない。
ファングは一人頷きながら、奥に戻った。
しばらくして、ファングは戻った。手にはDATテープ。
「これだけか? ここにあるのは」
その声で、瑞穂は覚醒した。ファングがいなかったほんの数分、眠っていた。
「し、知らないわよ」
壁を背に、座っていた瑞穂は答える。
「私は、ここの警備を任されただけ――っ!」
ファングの巨大な足が、目の前に迫っていた。勢いよく飛んできた足は顔の横を通り、壁に穴を開けた。
「知ってることを全部、吐け」
瑞穂は涙を堪えながら、しかしわずかに流しながら、口を開いた。
「ここは二十世紀初頭、大英帝国時代のイギリス人が建てた洋館。この地下室には、お前が今、行ったところだけど、通称《サーバー》と呼ばれる巨大電子演算装置がある。あの時代にしてみれば、オーバーテクノロジー。でも、世界各地にあるというわ。けど」
「サーバーのくせに、どことも繋がっていない」
「そう。現代のWWWネットワークからは完全に切り離された、データの孤島。でも、かつてはデータを受け取っていた。何かのデータを、何かから。ここにあるのは送られてきたデータでしょうね。私もくわしいことはわからない」
「貴様も、いち兵士ということか」
「ええ。全部を知るには、世界各地の《サーバー》を手にすることね。私は失敗したけれど。他の隊員が、いいえ、きっと別の機関だって、所有しているかもしれない。それを、全部陥れることね」
「ああ。わかった。俺もいち兵隊だ。上官にそう伝えよう」
ファングは廊下を歩きだす。地上に向かう方だ。
「じゃあな」
「ええ」
ファングの背中を見送った。
ホッとした。生きのびた。
目を閉じて、深く呼吸を吸ったときだ。
体内に空気が満たされ、生きている感触を味わっていたときだ。瑞穂の心が、弛緩したときだった。
ファングに頭を殴られた。
まるで、天国から地獄に落とされたような衝撃。
緩みが硬化し、心臓が跳ね上がる!
「不意打ちってのは、汚えだろうっ!」
一番最初の一撃を、覚えていたのだ。
「あ、うあっ」
もう一度、殴られた。
地面に顔から倒れ込み、瑞穂は意識を失った。
薄れゆく意識のなかで、
ようやく眠れる。
そう安堵した。
この眠りから、きちんと目が覚めてくれることを祈りながら、瑞穂はブラックアウトしていく視界を眺めていた。
ぼろぼろのメイド服を着た、女兵士。
彼女が救助されるのは、それから十三時間後のことだった……
<了>
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