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<東京怪談・PCゲームノベル>


お願いBaby!【2nd_Season】



〜OP〜

嗚呼、嗚呼、嗚呼、こんな場所に来てしまって。

君は…トム・ソーヤか…それとも、アリスか?

君の好奇心が、この王宮の扉を開く鍵となったのか?
無邪気に、さまよい歩いて此処まで来たのか?
ならば、猫をも殺すの言葉通り、その身を一思いに喰らうてやろうか?


それとも…、


違うのか?
切なる願いを抱えているのか?
それは、千年の呪いに匹敵する願いなのか?


動かしてみよ。


私の心を。
君の言葉が、私の心を動かせば、或いは…。

嗚呼、或いは、この王宮で飼っている、大事な「奴隷」を貸してやらない事もない。
それとも、この孤独の王の力、奮ってやらない事もない。

さぁ! 言葉を!
私の退屈を癒す言葉を………頂戴。




【本編】


『プロローグ』



ふつーじゃなきゃよかったのに。

興信所の古びたソファー。
小さな足をフラフラ揺らし、いずみはぼんやり考える。

例えば、羽が生えているとか…大きな牙が唇から見えていたり、そうね、角なんかが生えていても良いかもしれない。

出来れば、今のいずみを、もっと、もっと強く見せてくれるような、そんな普通じゃない姿。
いずみを子供扱いなんて、出来なくなるような頼り甲斐のある姿。

そんな人間いないよなんて、鼻で笑う人もいるだろう。

だけど、いずみは知っている。
この世は不思議で満ちている。
常識では計り切れない力を持った人々が、平気な顔して街を闊歩しているのだ。

怖い事も、楽しい事も、悲しい事も何もかも。
教科書に書いてあるような事や、これまでたくさん目を通してきた本等には、少しも書かれていなかった、論理的には、どうやったって説明出来ない事柄が、この東京では毎日のように起こっている。

そんな不思議の吹き溜まり、興信所の客室ソファーに座るいずみを、興信所の主、草間武彦がコーヒーの入ったカップ片手に困ったように眺めている。

いずみは小さな体に不似合いな程に、分厚く大きな本を抱えていた。
タイトルは「これぞ決定版! 世界の拷問術百選」と書かれており、各国津々浦々の拷問術について詳細に書かれた学術書に顔を埋めるようにして本を熟読していたいずみに、「あー…いず…み…?」と、何だか恐る恐るといった様子で武彦が声を掛けてきた。

「はい?」

魔女狩りにて、魔女裁判に掛けられた者が受けさせられる身の毛もよだつような拷問に目を走らせるいずみの前には、他にも尋問術やら、黒魔術の類の本を机の上に山と積まれ、本から顔を上げもせずに彼女は冷静な声で返事をした。

「そ…れは、学校の図書館で借りてきたのか…?」

武彦に問われ、「個人的な蔵書です」と即座に返答するいずみ。
冬の休日。
窓から差し込む午後の光は暖かく、あどけない顔立ちには真剣な色を浮かべ、凛々しい眼差しを本に注ぐいずみの横顔は、古ぼけた興信所に漂うある種の雰囲気とも相まって大変知的で、好ましい情景に見える。
しかし、そんないずみが抱える本は物騒極まりなく、お昼を過ぎてから、二時間以上、ここでこうして、本を読み続けるいずみに戸惑いの色を隠せない武彦は、とうとう音を上げた!という風に「いずみぃ〜、そんな拗ねんなよぉ〜」と情けない声をあげた。

ピクリと形の良い眉が微かに揺らぎ、それでも、頁に目を落としたまま「拗ねる…ですか? 私は、そのような『子供じみた』事をしているつもりはありません。 拷問術・尋問術は歴史的視点から見れば、当時の文明度を測る為に重要な指針となり得る一要素として、学術的にも認められていますし、私は、知識を求める行為の一環として、このように目を通しているだけです」と、立石に水の如くの口調で言い切る。
しかし、武彦が「そこで、どんだけ粘ってもな、メサイアビルの件に関しては、俺ぁ、口を割らねぇかんな?」と半眼になって言うに至ると、いずみはヒョコンと顔を挙げ、抗議の意思を存分煮込めた険しい眼差しで、じっとりと武彦を見つめた。

「…サン・アンドレの十字架という恐ろしい拷問道具を、草間さんはご存知ですか? 中世ヨーロッパを席巻した、魔女狩りの嵐の際に、魔女であると言う自白を強要する為に行われた拷問に用いられた道具のうちの一つなのですが、その方法は、手足を十字架上に鉄の輪で固定されて、その状態のまま周囲から鎖で身体をゆっくりと引き延ばしていくという、大変シンプルながらも、恐ろしく苦痛を伴うものでして、具体的に、その拷問に掛けられたものがどうなるかと言いますと、まず、首の骨が…」

幼い少女の姿をしたいずみが、淡々と恐ろしい内容を口にする情景は、一種異様な迫力があり、思わず武彦「ごめんなさい、もう、聞きたくないです!」と、心からの声で訴えてしまう。
「ていうか、そういう、何? そういう本って有害指定図書とかの対象になってねぇのかよ? 18歳未満の閲覧を禁止にしろよ!」と指差す武彦に、無表情のまま「…と、まぁ、大の大人の男である草間さんが聞くに堪えない拷問の内容を熟読しても、私は、自分の精神が歪められる危険性を覚えた事はありませんし、結局、R−18やR−15等という、年齢による線引きは、実際年齢よりも、精神の年齢を適応すべきだという、ごく個人的意見ながらも、極めて正当性の認められる主張をさせていただいているのですが……」とそこまで言い、「…どのような、凄惨な事柄があったにせよ、自分の関わった事件の顛末位、聞かせて欲しいと思うのは、おかしい事でしょうか?」と、言いながら澄んだ眼差しを武彦に向ける。

「チーコの話を…知りたいんです…」

ぎゅっと、キュロットスカートの裾を握り締め、いずみは思いつめたような目で言う。

「チーコに関わる話を、私は知る権利があると思うのです」

武彦は、胸ポケットを探り、煙草を引っ張り出しかけて、子供の前だと思い出したのだろう、所在無げに指先を彷徨わせ、カリカリと頬を掻く。

「メサイアビルの、屋上倒壊事件。 当初集団ヒステリーによる幻覚症状として報道され、その後、動画サイト等に携帯のムービーにて撮影されたものが大量にUPされ、管理者による削除と、UPのいたちごっこが展開された、メサイアビル屋上に現れた異形の化け物の映像。 そして先日、群馬にて、自衛隊まで出動し、かなりの厳戒態勢をとって、立ち入り捜査がなされた、『カルト宗教の研究施設』。 報道規制こそ敷かれましたが、世間の人は、皆、事件の奇妙さに気付いています。 無論私も…というよりも、他の方々より、得ている情報は多いわけですから、自然と推察の可能範囲は広がります。 群馬にあった研究所と、メサイアビル騒動、そしてチーコ。 全てが、私の目には繋がって見えるんです。 あの研究所は、チーコを酷い目に合わせた、黒塗りの車に乗って追っかけてきた悪い奴らと、何か関係があるんじゃないんですか? 繰り返し見た、ネットでの動画。 あの、大きな化け物に、私、見覚えがあるような気がするんです。 鳥取砂漠で、少しだけ見かけた、悪い奴らの、トップだと思われる男の面影が、化け物に見えたんです。 それに、TV中継を見ている時に興信所の関係者の方々が、人混みに紛れてTVの端に映っている姿を私、見ました。 逃げるようにして、皆さん、あっという間に消え去っていきましたが、ここの興信所があのメサイアビルの事件に関わっている事は確かですよね? 加えて、動画で見た化け物は、人の手によって作り出された生き物のような印象を受けました。 画像が鮮明なものを、よく観察すれば、明らかな手術痕のようなものがありましたし、ここのお仕事で、何度か目の当たりにしたような、生まれながらにして人とは人に在らざる生き物である妖怪や、異業の類とは異なる生き物のように見えたのです。 有体に言えば、人の手により、開発された生き物のように、私は思えた。 群馬の研究施設は、ああいう生き物を開発する為の施設だったんじゃないんですか? あの化け物は、チーコを攫った悪い奴らの、トップその人だったんじゃないんですか?」

追い詰める口調で、いずみが推測を並べ立てていく。
いずみの言葉に圧倒されたように、少し身を引く武彦の表情から、僅かでも真実を読み取ろうと身を乗り出した瞬間、「はい、いずみちゃん。 喉渇いたでしょう?」と、絶妙のタイミングで、銀色のお盆に林檎ジュースを載せた零が入ってきた。
ニコニコと、いずみの前にジュースを置き、本の山に目を止めて目を見開くと、凄い、凄いと言いながら小さくパチパチと拍手をする。
「いずみちゃん、えらいなぁ…。 難しそうな本を、たくさん読んで…!」
そう言いながら、感嘆したようにいずみの顔を覗きこんでくる零に、少し怯む。
余りにもタイミングが良すぎたために、外でタイミングを計ったのでは?と疑う事すら、良心が咎める程の、純粋な眼差し。
「いえ…ただの…趣味ですから」
そう答えれば、益々感心したように「趣味が読書って、よく言う人多いけど、いずみちゃんの場合、読んでる量が桁外れに違いそう! ねぇ、また、面白い本あったら、教えてね?」と言いながら小首を傾げてくる。
まるで、先程まで狡猾に武彦から、欲しい情報を引き出そうと立ち回っていた自分の様子と相反するような、その素直な言動に、若干の自己嫌悪を感じていずみが頷けば、その間に立ち直ったらしい武彦が零に向かって「おーい、悪い! 俺に、コーヒーの御代わり作ってきてくれないか?」と声を掛ける。
「兄さん、あんまり飲みすぎると、胃を悪くしちゃいますよ?」と、気遣わしげに声を掛けつつも、お盆の上にカップを乗せて、いずみに小さく手を振り、部屋を出る零を見送った。
溜息を吐き「零さんには、お話になったのですが? 全ての事の顛末を」と問い掛ける。
彼女も、随分とチーコの事を気に掛けていた。
立場は、いずみと変わりない。
「いいや? あいつは知りたがらなかったからな」
武彦の言葉に、少し唇を噛む。

私が子供だからか?

私が子供だから教えてもらえないのか。
私が子供だから関わりを断たれたのか。

悔しい、そう思いながら同時に悟る。

私は子供だから知りたいのだ。
自分の関わった事、大事な友達に辛い思いをさせた、組織の末路を。

知ってどうするなんて、考えるのは大人のやる事で、終わったことだからと頭を切り替えられるのも大人の証拠で、私は子供だから、全てを知りたい。

「…チーコは、幸せそうだったんだろう?」
武彦の言葉に、いずみは唯々諾々と頷く。

「それ以上、お前が知って為になるような話は、何もないよ」

柔らかい笑みを浮かべて諭すように言う武彦に、いずみは、もう、何も言えずに、ただ、黙って林檎ジュースに浮かぶ氷が眺めていた。


「トランスパーソナル入門」と書かれた心理学の本に視線を走らせながら、自宅の学習机に齧り付くようにして読書に耽るいずみは、不意に時計を見上げ、その針が小学生児童にとっては深夜と呼べる時間帯に突入している事に気付くと「あ…、いけない…!」と慌てたように呟いて、スタンドライトを消灯させ、とてとてと、ベッドに向かう。
ベッドサイドには、両親に買ってもらったぬいぐるみが並べられ、きちんと整頓されていながらも、女の子らしい可愛げもある部屋を見回した、ふぅ…と溜息を吐く。

煩わしい。

最近頻繁に沸き起こる厭世観にも似た憂鬱な感情。
手を翳してみれば、月灯りの差し込む薄暗い部屋で小さな、いかにも子供めいた掌が目に入る。
机の上には、きちんと積み上げられた心理学書。
種類は雑多で、難解な、学術書の類もあれば、一般書店でも販売されているような「人の心を読み解く」事を主題とした如何わしいハウツー本も入り混じっている。
仕草や、言動、ちょっとした、ファッションの違いから、その人が今、どのような心境にあるかを指南してくれる本もあり、それはそれで、興味深く読み進めることができたが、だからといって、いずみの心を満足させてくれるわけではなかった。

己が子供である事を、厭う気持ちが書物などでは、到底癒える事はないのだと、読めば読むほど思い知らされる。

千年王宮に関わる事で、目の当たりにした、人の狂気や、理性。
理不尽な事を行える非道さも、その非道に毅然と立ち向かうのも、『大人の仕事』であった。
非戦闘員として扱われ、場合によっては情報すら満足に得られない。
興信所の仕事に関わる際もそうであったが、年若いという事は、やはり一般的には、それだけ無力だという事なのだろう。
肉体的な意味だけでない、精神的な意味でもだ。
未熟さが理由で黄色いテープを引かれてしまう、立ち入り禁止区域の向こう側の風景を望むのは、何も好奇心のみの理由ではない。

力になりたいと、目の前で起こる様々な事件、怪異に際し、困っている人間、大事な人の力になりたいと、毎回、毎回、悔しい気持ちを味わうが故に、いずみは今、苦しんでいるんだ。

チーコ。
炎となって散った命。
結局私は、あの子の為に一体何が出来たのだろう?
消えいく命を繋ぎとめる事は叶わず、有事の際とて、唯、見守る事しか出来なかった。

ベイブや黒須の狂気や、辛い事も静かに秘める、いずみの知る大人達の強さなど、彼らの心を理解しようとして、足掻いてはみたものの、知識が増せば増すほど思い知る、分析と理解は別であるという事実の前に、これ以上どう手を打てば良いのか分らず項垂れる。

実のところ、自分がどうありたいのかすら、いずみは、巧く把握できていなかった。
冷静に考えれば、そもそも、比較対象としている相手が、超常的な能力を持つ、びっくり人間大集合市状態の興信所スタッフの面々である事自体大間違いだし、誰か、そこら辺のところを客観的に判断できる人間が傍にいれば「うん、まず、世間には、貴女が知り合ってるような大人達は、そうそういないから…」と教えてやる事も出来たろうが、いずみにしてみれば、周囲の人間が一般的な人間よりも、特殊仕様の人間の方が多い現状、大人=興信所に集うような面々という認識になってしまっているのも、致し方ない現実なのだろう。
己の幼さに煩悶する事自体が、子供の証明なのだが、子供である事が我慢できない今の苦悩と、大人になる余裕を与えない危機に瀕した際の、怒涛の展開の兼ね合いに、他の誰を責めるでもなく、自分自身の幼さを思い煩う。

強くなりたい。
大人になりたい。

憧れる人はいる。
いつだって、冷静に、どんな時でも適切な行動を取り、強大な力を持たずとも、誰からも頼りにされて、その期待に応える大人の女性。
目を閉じれば、瞼の裏に浮かぶのは、興信所の事務を勤める、知的美人が微笑む顔で、ああいう大人の女性になりたい…等と切望すれども、望んだとて、今の自分に届かぬ場所にいる事も理解している。
何より、「誰かみたいな自分」に本当になりたいのか?と問われれば、頷けない自分がいるのだ。

そう、悶々と悩むうちに知らず眠りに落ちる…そんな夜を、いずみは最近重ねていた。


「あふ…っ…」

図書館に本を返した帰り道、冬の木漏れ日が差し込む並木道を歩きながら、いずみは唇を手で押さえつつ、小さく欠伸をする。
休日といえども、規則正しい生活を心掛けるいずみは、学校に行っている時と、変わらぬ時間に起床していたが、それが故に、最近の寝不足が祟って、どうにも眠気が去ってくれず、小さな瞬きを、パチパチと繰り返しつつ、冬の乾いた空気の中をのんびりと歩く。
図書館の目当ての本もあらかた読みつくしてしまい、手提げ袋の中には、今は本の姿はない。
他の市の図書館に行っても然程ラインナップが変わるとは思えなかったし、他に、たくさん本のある場所も思い当たらない。
小学生のお小遣いと、興信所のアルバイトで貰える微々たる収入では、大型書店にて読んだ事のない本を片っ端から購入するなどという狼藉が出来る筈もなく、どうしたものか?と思案に暮れる。
普段以上に根を詰めて読んでるせいか、視神経の疲労感に悩まされてもいるし、ちょっと読書休憩しようか…と思えども、今は本を読む事にでも打ち込んでないと、完全に思考が停滞してしまいそうで、それが怖かった。

まるで、己の成長を少しでも促進するべく、形振り構わず栄養を摂取しようとしているかのように、本を読みたい。
本を読むことが具体的に何かの役に立つだなんて、心底思っているわけじゃない。
自分だけの強さを探す余りに、自分が迷走している事だって分っている。

私の強さって何だろう?

辺りを見回し、周囲に誰もいない事を確かめて、木から風に吹かれてヒラヒラと落ちてくる葉っぱをじっと見据える。
すると、ひらひらと「落ちて」いた葉が、いずみの持つ「ベクトル変換」の能力によってふわりと浮き上がった。
いずみは、自身の判断能力の優秀さ故に、他者との比較や、謙遜によって、自身の能力を見誤るという愚を侵さない。
自分の持っている力は、使い方によっては、とても恐ろしい力だと自覚しているし、無闇矢鱈に行使すれば、大変な事態を引き起こすものである事も理解していた。
だから、誰かに言い触らす事もなく、ただの子供を装う為にも、能力を人前で行使してしまった際には、幼い頃から習っている合気道の技である…と誤魔化してきていた。
10歳といえば、人よりも優れた能力を持っていれば、何だかんだと自慢したくなるのが通常の感覚であろうに、ひたすらに自分の力を押し隠し生きてきた点から見ても、充分賞賛に値する自制心を有していると言えるのに、今は、そんな自分の自律能力すら恨めしい。

もっと物事を単純に考えられればよかったのに…と、自身の賢さゆえに苦しむ、自縄自縛の状態になっている事を自覚しながら脳裏に「単純な人間」の代名詞とも言えるような女の顔を思い浮かべる。

竜子。

千年王宮に住む、化粧のド派手な、単細胞娘。
兎角、呆れる程に物を考えず、言動、行動、全てにおいて、直情傾向の目立つ彼女の事を思い出し、知らず唇が緩んでしまう。
幾ら単純を望むとて、彼女のようになりたいとは思えない。
興信所事務員を「目標とするべき女性」と目するならば、竜子は、なんかもう、いずみ的に「こうはなりたくない…っていうか、むしろ目指してもなれない」日本代表とも言える、憧れ対象にはならない女性像だった。
とはいえ、軽蔑すべき人格か?と問われれば、そういう訳でもなく、いずみからすれば、山に棲んでる野性の狸…みたいな、目指す目指さないの境地から遥か離れた場所にいる存在だったりする。
だが、いずみ相手であっても対等に…ともすれば、いずみよりも遥かに幼く、物の道理を知らぬ様子で、彼女に無邪気に接してくる竜子を、いずみは然程憎からずも思っていて、チーコの件以来会っていないが、彼女は元気にしているだろうか?と、ぼんやり考えた。

まぁ、何故か異常に丈夫な彼女の事だ。
風邪等という文明人の病チックなものをひいてはいないだろうが、あの「メサイア」ビルでの騒動に彼女も関わっていたとするならば、何某かの怪我を負っている可能性もある。

そんな思考を巡らせるいずみの前に、まるで、回答を示すかのごとく、ピンクのジャージに、派手な金色の髪をポニーテイルにして結わえ、サンダルを履いてたらたらと歩く、女の姿が目に入った。
小脇に、茶色の紙袋を抱え、棒付きの飴玉らしきものを咥えつつ、歩く女は視線を上げ、それから「あ」と大きく口を開く。

噂をすれば…等とはよく言うもので、まるで、いずみが頭に思い浮かべたから、ここに現れたのだと言わんばかりのタイミングでばったり出会った竜子が満面の笑みを浮かべて、いずみを見ている。

ガーゼが頬にあてられていた。
前髪やらが、ザクザクと不器用に切られ、いたるところに火傷を負っている。


予想通り怪我は負っているようだが、見る限り重篤な状態ではないらしい。

「おーい!」と嬉しげに大きく手を振り、その直後に「イテテ…」と引き攣ったような顔を見せながら、手を頬にやる竜子の傍へと駆け寄ると、まず「大丈夫ですか?」といずみは竜子を気遣った後に「お久しぶりです」と挨拶をして、ぺこんと小さな頭を下げた。
「おお、久しぶり! どうしてた?」
にこにこと笑いながら、嬉しげにいずみの頭に手を伸ばし、わしゃわしゃと撫でてくる竜子に、今は特に子ども扱いをされたくない心境である事もあいまって、不満げな表情を見せれば「ありゃ?」と言いつつ首を傾げる。
「どうしたんだ? なんか、元気ないぞ?」と言いつつ、いずみの柔らかな頬をふに…と指先で突く竜子。
「何でも…ないです…」と答えつつ、「竜子さんこそ、どうされたんです? 随分と、お怪我をなさってるようですが?」と問い返す。
すると、案の定「うん? いや、ちっと前にな、えらい騒動に巻き込まれっちまって…」と、メサイアビルの件についてらしき事を言い、それから「まぁ、でも、こん位で済んであたいは運が良かったんだ。 誠なんか、骨とかまでヤられっちまってたからな。 ベイブの息の掛かってる病院に入院してるよ。 体の作りが、あたいら普通の人間とは違うとかってんで、なんと、担当医が獣医らしいぜ?」と、竜子が面白そうに言うのに驚いて「獣医…ですか?」といずみが目を見開けば、如何にも、嬉しげに頷き、「あいつも、ショック受けてたけどな、まぁ、しょうがねぇやな、半分蛇なんだから」と、明らかに面白がっている口調で告げた。
いずみとしては、是非レントゲンの写真等を見せてもらって、体内構造がどうなっているのか知りたい所だが、今はそれよりも、メサイアビルでの出来事の当事者が目の前にいるという事の方が大事だった。
彼女から巧く、事の真相が聞きだせないか?と思い質問を試みかけて、ふと気付く。

果たして、竜子にいずみの知りたい情報を巧く説明する能力があるのだろうか?と。

と、いうのも、いずみが知りたいのは、あのメサイアビルの屋上に現れた生き物の正体であり、チーコを攫った組織の詳細な顛末である。
どのような事態があったにせよ、そこそこ、複雑な背景があったであろう出来事の仔細を竜子に尋ねるのは、余りに無謀でなかろうか?と、竜子にとって見れば余りに失礼な、しかし、流石、いずみ、竜子の性格を承知していると言わざる得ない正確な判断により、いずみは開いた口を一度閉じ、メサイアビルについて問い掛けるのは諦めると、その代わりに何の気もなしに「あの、竜子さん…。 千年王宮が広大な場所である事は、私存じているのですが、もしかすると、王宮内に、本がたくさん納められているような、そういう場所ってありませんか?」と別の質問をしていた。

というのも、これも前々から気になってはいた事なのだが、あれだけ広く、様々な所蔵物のある城なのだから、きっと城内に珍しい本がたくさんあるような、そんな施設もあるのではないだろうか?と推察はしていたのである。
すると、竜子は「おう、確か図書館があんぜ? あたいはあんま縁ないけどな。 時々誠やベイブがふらっと、時間潰しに行ってんだよ」と言い、いずみは「図書館」などという名称に、自分が想像しているよりも、遥かに立派な施設なのかもしれないと思い、途端に興味を引かれた。
「あの…不躾ですが…その図書館には、どれ位の本が納められているんでしょう?」
そう問い掛ければ、竜子は眉を寄せ、「んーと…なんか…凄い、いっぱい…」と、あ、この人は両指の数以上の数字は、全部「なんか、いっぱい」と認識される人なんだ…と、即座に理解後、同情の目で眺めつつも、あんな城にある本なのだから、此方の世界では手に入らない稀少本もあるかもしれないと考えて、思わずいずみは「あの、竜子さん、もし宜しかったらなのですが…その図書館に今から案内して貰う事は出来ませんか?」と、おずおずと尋ねてしまっていた。
前回の経験により、然程、積極的に訪れたい場所でない事は確かなのだが、それでも本の魅力には抗えない。
今は心理学書ばかり読み漁っているが、王宮の本ならば、別ジャンルの本とて、面白いものもありそうだ。
竜子は一瞬キョトンとした後、「図書館になんざ行きてぇなんて、いずみは変わってんなぁ…!」と目を剥きつつも「構わねぇよ? 今なら丁度、鵺もこっちに来てんだ。 あんた確か、仲良かったよな?」と問われ、いずみは頷きつつも疑問に思う。
(鵺も、何か、あのお城に用事があったのかしら?)
とはいえ、鵺に会えるのも随分久しぶりだ。
彼女も元気にしているだろうか?と懐かしく思いつつ、思わぬイベントに、少し心が浮き立つのを感じる。
千年王宮では怖い目にも合ったが、楽しい事もたくさんあった。
ここで竜子に会えた事が、今の鬱屈した自分の現状を打開してくれるかもしれないと期待しつつ、竜子が周囲を確認し、千年王宮の扉を開け、光の扉を抜ける後に続いて、久しぶりの王宮に足を踏み入れた。



『Case.1 鬼丸・鵺』



「いっずみー!!」

明るい声がロビーに響き渡り、勢いよく飛び込んでくる姿に思わずいずみは微笑んでしまう。
ここは光の扉を抜けて辿り着いた、螺旋階段のある豪奢なロビー。
竜子が、何処からか取り出した白い薔薇に、何か言葉を吹き込み、空中に放り投げ、その薔薇が中で忽然と消え果る…なんていうパフォーマンスを目してから程無くの来訪である。
回廊の向こうから現れた人物は、相変わらずの作り物めいた美貌に、能天気な明るい笑みを浮かべ、銀色の美しい髪を揺らし、紅玉の如き目を細めていた。
鬼丸・鵺。
何度か、興信所がらみや、この城に関わる事件で顔を合わせ、仲良くなった友人は、嬉しげにこちらに走り寄ってくる。
転びやしないかとハラハラしつつも肩を竦め「そんなに急がなくても、私は逃げないわよ」と冷静に言った後、唇を緩め「久しぶり。 元気そうで何より」と言いながら、いずみからもパタパタと鵺に近寄っり、彼女を迎え入れた。
「薔薇、無事届いたみてぇだな」と言いながら、にっと笑ったので「薔薇ってこれの事?」言いつつ、鵺が細長い紙をヒラヒラと揺らす。
どうも信じがたい事だが、あの白い紙の元は、先程竜虎が空中に放り投げた白薔薇らしい。
「おう! この城無闇矢鱈に広いし、ここ入ると携帯も使えねぇもんで、連絡のやりとりに、あの薔薇使ってんだ。 気付いてくれてよかった」と言いつつ、竜子がいずみに視線を向ける。
「えーと、図書館に行きたいんだったよな?」
竜子の問いに頷くいずみ。
「図書館〜?! そんな場所に行く為に、わざわざここに来たの?」
鵺の素っ頓狂な問い掛けに、「ええ、知識を蓄える事は、いつだって歓迎したいものでしょ? ここの施設も気になっていたとこだし、そうね、ちょっと色々あったから…、気分転換したかったのもあってね…」といずみは答え、竜子が「気分転換に、図書館っつう発想がまず、ねぇわな…」と呆れたように言う。
一度読書に耽溺してみれば、いずみの発想にも頷いてくれるだろうに…と思えども、読書に耽る竜子の姿が思い浮かばず、理解される事は一生ないだろうなぁ…とあっさり諦める。
鵺が、この城の特異性故にだろう。
どうやってこの城に来たのかと問うてくるので、いずみは竜子に連れてきて貰った事を素直に告げる。

「地元の図書館の目ぼしい本を読み尽くしちゃって、何処かに、他にたくさん本のある場所ないか、悩んでた所だったの」
いずみの言葉に鵺は呆れたような顔を見せ、その後疑問を浮かべた表情で竜子に視線を送る。
すると、その意図を察したのか「あたいは毎月購読してる雑誌の発売日だったから、コンビニに行って来たんだよ。 そんで、その帰り道に偶然いずみに会ったんだ」と説明し、竜子の外出理由をいずみも知る事が出来た。
何でもありの王宮とて、さすがに城内にコンビニはないらしい。
矢張り、ここに篭りっぱなしという訳にもいかないのだな…と思っていると、突然竜子の頭の上に、ポトンと白い薔薇が落ちてきた。

「んあ? 何だ?」

そう言いつつ、竜子が頭上の薔薇を取り上げる。
そして、花弁の端を指先で摘み、薔薇をクルリと回せば、そのまま面白いように、クルルと花弁が茎から剥がれていった。
見る間に先ほど鵺が見せたような、白く細長い紙へと花弁が変じる。
紙には、何やら伝言が記されているらしい。
伝書薔薇とは、ああいう仕組みになっているのかと感心しつつ眺めていれば、竜子はその内容に目を走らせ、「お茶会のお知らせ…? 薔薇園で、お茶会が催されるので、ご友人達をお誘い合わせの上、来られたし…って何じゃこりゃ?」と呟き、首を傾げる。
「お茶会? なんか、美味しいものが食べれるの?」
色気より食い気を地でいく鵺が、嬉しげな声を上げれば、竜子は「んー、ちょっとこんだけじゃ、事情が分んねぇから、あたい、ちょっと、どういう事か誰かに聞いてくるわ」と言い残し、竜子はロビーを後にした。
鵺が「いってら〜♪」と手を振り竜子を見送る姿を横目で眺め、いずみは「で? 鵺は、どうして此処に?」と問い掛ける。
「んー? まぁ、鵺も色々あってぇ…」と言いながら鵺はヘラリと笑い、こちらに顔を向けると、いつもよりも、少し余裕のない表情を気にしてか、「…どうしたの?」と言いながら、トンといずみの眉間を指先で突いてきた。
「ここ…、ふかーい皺が、出来ちゃってるよん?」
そう言いながら、えいえいっと、指で突かれ、思わず「やめなさいっ」と、制止しつつ、その指先を掴んだいずみは、鵺の手を離さないままに「貴女は、子供よね…」と言って、少し笑う。
無邪気な、思うが侭に行動しているのだと感じずにはいられない天真爛漫な行為。
年齢だって三つしか違わない。
鵺は子供だった。
いずみに比べて、年相応と言わざる得ない程に、子供だった。
「ん? そうだよ? だって、まだ、13歳だもん!」
何故か胸を張るように言う鵺に「…その事が嫌だなぁ…って思ったことない? 例えば、子供を理由に、仲間はずれにされた時…とかね?」といずみは問う。
同年代だからこそ問い掛けたい。
子供ながらに異常な世界を数多目にしている立場は同じだからこその質問。
しかし、鵺は心底不思議そうに、「えー? そんな事、誰も鵺にしないよ?」と首を傾げる。
鵺の答えに、いずみは、パチパチと瞬き「ああ…まぁ、貴女はそうでしょうね…。 仲間はずれにされても、無理矢理首を突っ込むタイプでしょ」と、思わず納得したように言えば、「だからぁ、鵺は、仲間はずれになんかされた事ないもん! ただ、『子供は来ちゃだめ』とか『子供は見ないように』とか『18歳未満の閲覧を禁じる』とか、時々意味の分からない事言われたり、見たりするケド、まぁ、鵺、フリーダムだしね☆」と笑う鵺に「うん、言われてるって時点で、仲間はずれにされようとしている事に気付いて欲しいんだけど、どうしてかしら? 鵺=フリーダムとか言われると、納得しちゃう私がいるのよね…」と落ち込んだように言ってしまう。
子供らしく振舞いながら、同時に、子供の領分以上の世界に足を踏み入れる。
そんな鵺の強引さを羨みつつも、「え? 何々? 仲間はずれにされちゃって、落ち込んでるの?」と、鵺が問われれば、「というよりも、仲間はずれにされても、その事に反論できない自分が歯痒いというかね…自分が何の役に立てない事を思い知らされちゃって…」といずみは困ったように答える。
すると鵺は、「そーんなの!」と言って笑い、「いずみは、いずみのやれる事をやれば良いんだよ」と気楽な声で言った。
「ケ・セラセラ! なるようになるし、なるようにしかならない。 いずみだって、いつまでも子供じゃないでしょ? 鵺だってそう、いつか大人になるもん。 べっつに焦る必要なーし! ていうか、今やりたい事や、やれる事で鵺は精一杯!」
そこまで言って、不意に、鵺は唇をきゅっと引き結ぶ。
「…それに…子供とか、大人とか関係なくさ、現実とかって容赦ないじゃん? 時の流れって奴がさ、鵺達の幼さを理由に、穏やかになってくれる訳もなし、良いんだよ。 そんな焦らなくても。 いずれ、いずみも、立ち向かう時が来る。 何者でもなく、自分自身で向かい合わなきゃならない現実に」

鵺の言葉に息を呑む。
これまでの彼女の言動からは、想像が付かないほどに老成していて、だからこそ、他にない説得力すらもって、鵺の言葉はいずみの心に響いた。

鵺は、今まさに、対面しているのだ。
容赦のない現実に。

そう確信し、いずみは思わず問い掛ける。

「…何があったの?」

紅い目を、真剣に見つめれば、鵺が何ともいえない、優しいような困ったような表情で笑みを浮かべた。

一世一代。

そんな言葉が唐突に思い浮かぶ。
人の人生、それぞれがそれぞれなりに、山なと、谷なとあるのだろう。
鵺の言う通り、それは、その人自身で相対し、対処せねばならない現実。
誰も守ってくれはしない。
いずみとて、そうだ。
子供には、子供ならではの現実があり、そこには大人は立ち入れない。

立ち入り禁止区域は、子供のみならず、大人にだってある。
今いずみは、自分が鵺の立ち入り禁止区域の前に立っているのだろうと悟る。
此処で踏みとどまるのが大人なのだろう。
相手の領域に無闇に足を踏み入れない。
それが、人付き合いにおけるマナーというものなのだろう。
それでも問わずにいられなかった。

だって、子供だから。
もし、知ることで、何か鵺の手助けが出来るのなら、マナーも、何も知らないよ。
人と、人の間に、境目なんて本当はない。
「そんなに急いで大人になろうとしなくていいよ」と鵺が優しい声で言ってくる。
(違うわ。 私は今、自分が子供である事に甘えて、貴女に踏み込んでいるのよ)
そう心の中で反論し、「子供だろうが、大人だろうが、関係ないわ。 私が、私である限り、友人が困っている事態を見過ごせないの」といずみは真面目な調子で言い返した。

それでも、言いたくない事ならば、目の前の中々油断ならない友人は、いつもの如く、心の内を見せてくれない笑みを浮かべていずみを煙に巻くのだろう。
されど、鵺は、彼女なりに、自分の際している事態を誰かに聞いて欲しいと思ったのか、存外素直な様子で、口を開く。

「…鵺ね、詳しい事は、鵺にもよく分んないんだけどね…」

その声は、鵺には似合わない程に弱弱しい声で、いずみは、その声の音だけで、何だか、ぎゅうっと胸が痛くなった。

「……幇禍君に、命、狙われちゃってんの」

一瞬、何を言われているのか分らなくなった。
こんな時にふざけないで!と怒ろうとして、鵺の表情が至って本気である事に、また戦慄を覚える。
如何なる理由があって、そんな事になったのか?
想像をめぐらせるより早く、いずみは見る見る顔を強張らせ、「嘘…っ」と息をひゅっと吸い込みながら小さく呟くと、両手で唇を覆う。
血の気が引いていくのが分った。
だが、目の前にいる鵺が、こんな時、どういう表情を浮かべれば良いのか、まるで「分からない」かのように、曖昧に笑い続けている表情を見て、いずみは飛びつくようにして、その首根っこに齧り付く。

鵺が健気に思えたのだ。
こんな時に笑う彼女が、とてつもなく…。

一人で生きてきた子なんだ…といずみは思う。
子供ではない。
鵺は子供ではない。

では、大人かと問われれば、それにも頷けずに、いずみは漠然と思う。

この子は、孤独な獣ののようだ…と。

「…鵺…な…んで? どうして? だ…だって、凄く…凄く…仲良かったじゃない? ず…ずっと一緒で、わ、笑い合ってて…」

幇禍と鵺が一緒にいる姿を見るのが好きだった。
鵺が、心底、楽しげに笑うから。
幇禍は、彼女にベタ惚れで、鵺は、それを軽くあしらうような、そんなやり取りばかりを目にしていたが、それでも、お互いがお互いにとって必要不可欠な存在であろう事は、いずみにもようく分っていた。

そんな幇禍が、どうして、鵺の命を狙うのか?

「どうして…?」

震える声で問ういずみの暖かな体を抱き返し、鵺が背中をポンポンと落ち着かせるかのように叩いてくれると「『理』」とただ一言述べる。

「幇禍君が鵺の傍にいてくれる理由であったものであり、同時に、鵺から幇禍君を奪ったものでもある。 幇禍君に課せられた、意味の分からない約束事のようなものだよ。 とっても厄介なね。 鵺が此処にいるのは、幇禍君から避難する為でもあり、幇禍君を何とか『理』から取り返す為でもあるの。 これは、鵺にしか出来ない事で、鵺が今、出来るだけの事をやって、取り組まなきゃいけない事なの。 悲しんだり、落ち込んだり、躊躇だってする気はないよ。 この命だって、賭けるつもり。 そしてね、この鵺が、命まで賭けてやるって決めた事で、叶わなかった事なんか、今まで一つだってなかった。 大丈夫、大丈夫だよ、いずみ。 鵺はね、また、幇禍君と一緒にバカ言い合ったり、美味しいもの食べたり、いずみに呆れられたりしてさ、そういう『普通』、絶対取り戻すから、鵺は、諦めるつもりは、全然ないんだから…」

そう言いながら、いずみを一度強く抱きしめると「ありがとう」と、優しい、優しい声で言った。

いずみは、体をぶるりと震わせる。
まるで今生の別れの如き、覚悟の決まった感謝の言葉だった。
こんな声で礼を言う人間を、いずみは他に知らない。

「鵺は、悲しくないの。 辛くもないの。 怖くだってないんだよ? やるべき事が分ってる。 まだ、足掻ける。 絶望には程遠い。 この事を切っ掛けに、前よりずっと良くなる事だってある。 だから、何も起こってないんだよ」
またも、健気な…と胸を打たれる。
まるで、運命に裏切られる事に慣れているかのように、鵺はたった一人で過酷な状況に立ち向かう事を当然と考えているようで、そんな鵺の力になる方法が、何も思いつけない自分が歯痒い。

強くなりたい。
今、強くなりたい。

チーコの時にも思った。

私は、無力だ。

それでも、いずみは、唇を震わせながら顔を上げ「何が出来る?」と問うてしまった。
「ねぇ? 鵺? 私、何か出来る?」
鵺は笑う。
「笑って? いずみの笑い顔、鵺、大好きなの!」

嗚呼、悔しいなぁ…。

鵺自身が、己で決着を付けるべき事と認識している事柄に、無粋に首を突っ込む事が良いのか悪いのかは判断できないが、少なくとも、こういう時、友人に頼りにして欲しいと思う気持ちに偽りはない。
今はただ、鵺の為に出来る事が笑う事でしかない自分が情けなくって、いずみは、くしゃっと顔を歪め「馬鹿じゃないの?」と、無理した嘲るような声を出した。

コレが自分の今の精一杯。

鵺がきっと今、望んでいる声音で、憎まれ口を叩き、唇の端を持ち上げる、不器用な微笑を見せて「巧く笑えないわ…」と小さく呟いた。
「…笑わせてよ。 鵺。 早く、その面倒な事を片付けて、幇禍さんと二人で、私の事を、笑わせて」
彼女の心の重荷にだけは、絶対になってはならぬと思いながら、告げた台詞に鵺は「合点承知!」と明るく答え、それから、いずみの体から身を離すと、にっこりと笑って手を打ち合わせた。

そうしている姿は、ただの華奢な少女にしか見えず、考えてみればどうやって、幇禍に対抗すつもりなのだろうと、若干の不安を覚え、「大体…幇禍さんって、ほら、一番最初に、黒須さんや、竜子さんと知りあった時に、黒須さんと一対一で勝負したじゃない? あの時の様子を見る限り、相当、腕の立つ人だと思うんだけど、鵺は、どうやって対抗するつもりなの…?」と、問えば「にっ」と鵺は笑って「そっか…! いずみの前では、まだ、見せたことないもんね〜」と言いつつ、ひらりと、黒いくちばしが前に突き出たカラスのお面を一枚、何処からともなく取り出した。
「これは、鵺の打った面。 この子は、妖怪『鴉天狗』。 いずみなら知ってるかな?」
鵺の問い掛けにいずみは頷き「鴉天狗って、山に住む修験者や、山伏をモデルして創られた鴉の顔をした、空飛ぶ伝説上の生き物でしょ? 鞍馬山の鴉天狗なんかは、牛若丸に剣を教えたとして有名だったっけ?」と、つらつらつらっと知ってる雑学知識を並べ立てれば「へー、そうなんだぁ!」と鵺は、目を見開く。
「…で? その鴉天狗の面がどうしたの?」
いずみの問いに頷いて、「ま、見て貰った方が早いね」と言いつつ、鵺は面を付けた。

その瞬間、鵺の背中に黒い羽が現れ、鵺は軽く地面を蹴ると、羽ばたきながら高い天井のロビーを一通り飛び回る。
突然の「変身」に呆気に取られて、見上げている内に、鵺は、再び地に降り立った。

ぽかんとした表情のまま、鵺を眺めるいずみの前で、面を外し「これが、鵺の能力。 鵺が打った妖怪の面を付ければ、その妖怪の能力を使う事ができるの。 とはいえ、まぁ、出来るってだけで、さっきの鴉天狗とかも、本来ならば、もっと素早く飛べるし、振るえる力も強大なんだけど、それにしたって、相手がただの人間ならば、そこそこ、頼りになる能力だと思わない?」との言葉に、いずみはコクンと頷いて、それから「そっか…鵺にも、そういう能力があるんだ…」と少し寂しげに言ってしまう。

彼女が尋常じゃない力の持ち主である事は、薄々は感じ取っていた。
黒須達と最初に出会った時や、前回訪れた王宮内で、あれ程、動揺なく振舞っていた姿を見ても、単純に性格の問題と言いきるには躊躇を覚える程に、普段と変わらぬ陽気な言動を見せていて弱冠13歳の少女と見るには違和感を禁じえなかったからだ。
何か、自信の根拠となる、力を持っているのだろうと思ってはいたが、想像以上の能力に、少々ショックを受けずにはいられない。
何だか寂しいような気持ちになっていると、「まぁ、それでも、相手は鵺の事を知り尽くしてる幇禍君だし、正面からぶつかれば、かなりヤバイっていう状況には間違いないんだけどねぇ…」と思案気に言葉を続け、彼女としても状況を楽観視している訳じゃないのだと伝わる台詞を口にした。
いずみから見れば、先程の面の浮遊能力に加え、鵺が他にも面を所有しているらしい「妖怪」の能力を、例え100%の力でないにせよ行使出来るというのは、充分驚異的な力だと思うのだが、幇禍相手だと、それだけではまだ、足らぬらしい。
「他に、何か能力はあるの?」と、問い掛ければ、「んー、他に…っていうか、まぁ、面打ち能力に付随してって感じなんだけど、妖怪のみならず、鵺は、どんな相手の面でも打つ事ができるし、その面を付ける事によって、相手の能力を、劣化はするもののコピーしたり、相手の本性が分かったり…とか位かな? まぁ、面を打つ為の材料として、ある程度、対象者の観察が必要なんだけどね…」と、教えてくれた。

対象者のコピー能力も持っているのか…と、いずみは目を見開く。
では、例えば彼女が、興信所の人間の面を打つという事を試みれば、あの事務所にはシャレにならないような強大な力を持つものもいるし、劣化された力とはいえ、恐ろしい脅威ともなり得るだろう。
その上、面を打った相手の本性まで分かるとなれば、敵対する相手の精神を壊す事とて彼女の手に掛かれば簡単に出来るという事になる。
目の前の少女が持つ力を、素早く頭の中で分析しつつ、ただただ感嘆したいずみは、それでも…と、今回のケースに照らし合わせて、我知らず首を振る。
「…凄い能力だとは思うけど、今回の件では、巧く活用できそうにないわね…」
頭の中で素早く、対幇禍に有効な策を練ってみるも、目ぼしいものが思い浮かばず残念に思い呟いた。

小手先の、知識では、今鵺が瀕している事態に何も有用な策を見出せない。
そんな現実に、暗澹たる思いを味わえば、「ていうか、そんなことよりもさ? 折角、久しぶりに会えたんだし、図書館でお勉強より、もっと愉しい事しようよ! このお城、色んな面白い場所があるんだよ? 鵺、結構ここにお泊りとかしちゃってるから、もう、案内だって出来るんだから!」と、鵺が慌てたように並べ立ててきた。

鵺が、自分を巻き込まぬよう配慮している事は、即座にいずみは理解した。
巻き込みたくないのだろう、自分を。

実際何が出来る?と言われて、笑う事しか求められない自分が今、出来る事は何もない。
ここで食い下がった所で、鵺を困らせるだけだと思い、いずみは、知らず大人びた笑みを浮かべ、「そうなの? まぁ…そうね…。 そういう風に此処で過ごしてみるのも、良いかもしれないわね」と頷いた。
正直、図書館で読書に耽りたい等という欲望は、もういずみの中から消え果ていたので、鵺の申し出はありがたかった。
今は、目の前の友人の危機を救えない、全ての知識が疎ましい。
鵺が、安堵の笑みを浮かべた所で、竜子がタイミングよく「悪ぃ! 待たせた!」と言いつつ、帰ってくる。

「お竜さん! お竜さん! 図書館中止ー! それよりもさ、ほら、遊園地みたいになってる、プレイゾーン連れてって?」
そうはしゃいだ声で言う鵺の口にする耳慣れぬ言葉に「プレイゾーン?」といずみは首を傾げる。
「そう! すんごいの! もう、なんか、ありとあらゆる法則を無視して、『わぁ、これ、間違いなくネバーランド!』と言わざる得ない遊園地ゾーンがね! この城の中に存在するんだよ!」
そう興奮したように言う鵺に、いずみが「こ、個人所有の遊園地って…確かに、ちょっとスケールが大きすぎて、受け止め難いわね…」と戸惑った表情を浮かべてしまう。
まぁ、そんなものがシレッと存在しても不思議ではない城ではあるが、それにしたって遊園地を個人所有するなんて、今時子供でも夢見ない発想に、いずみはただただ呆れ果てる。
「うん…ていうか、あたいが、ベイブに『東京には、こんなトコがあんだぞー? あたいは一回、誠達と行った事あんだぜ? 良いだろー』って、あの時思えば、無防備レベルにガイドブック見せながら自慢しちまったのが原因でさぁ…」
そう戸惑いの表情を見せる竜子に、「あ、ベーやん、年甲斐もなく、羨ましがったんだー」と鵺が言えば、竜子はこくんと、大きく頷き「そんで、何か、すげぇ拗ねて…、最終的に、そんなトコ、全然興味ないね!とかって態度になった癖に、遊園地を、いきなり作っちまったんだよ。 ガイドブックを参考にさ」と言いながら頭をかく。
いずみが、竜子の自慢に盛大に不機嫌になっているベイブの姿を脳裏に浮かべて、ちょっと噴出すれば「いや、もう、笑い事じゃねぇんだって!」と、腕をブンブン振りつつ抗議してきた。
「朝起きてさぁ、『遊園地、創ったし』とか、なんか、フフンとか笑いつつ、事も無げに遊園地製造宣言とかかまされたら、マジド肝抜かれっぞ? ちょっと、手に負えねぇ…とか、思うぞ? 大体、えー? この城で、そんなトコで、誰が遊ぶよ?っていうか、あたいと、ベイブと、誠の三人で、無人遊園地で遊ぶ姿って、一言で言うなら、地獄じゃねぇ?みたいな状態になっちまっててさぁ…」と愚痴られて、ああ、やはり、こんな場所で過ごす人間は、上司の愚痴まで、次元が違うんだなぁと、呑気な事を考える。
「まぁ、でも、これで、その遊園地行かなきゃ、ベイブ、不機嫌超えて、多分泣くだろ? 涙目っていうか、泣くだろ? したら、機嫌取るのは結局あたいと誠だからさぁ、遊んだよ! 三人で! 広大な遊園地で! したら、なんか、ガイドブックの煽り文句どおりに、適当なイメージであいつ造ったせいか、本気でアトラクション命懸けで、なんか、一歩間違えたら絶命?みたいな、死の遊園地になっててよぉ…」
竜子の切々とした訴えに、青ざめたいずみは「ええ、ああ、うん、はい、ちょっと、はい、ちょっと待って下さい。 え? 鵺? ごめん、貴方、私を何て場所に誘おうとしてるの?」と、真顔で問い掛けてしまった。

具体的に言うならば「私、ここで、殺 さ れ る?!」位の明確な死の予感に怯えるいずみを全く無視して、ペロリと舌を出しつつ「だってぇ、すっごい愉しかったんだよ? 生きるか、死ぬかの地獄遊園地! あんな遊園地、絶対東京にはないっていうか、世界中探してもありえないって感じで、ジェットコースターとか、もう、コースとかが、途中でなくなってて、勢い良く空中浮遊…」と、「そこに連れて行かれたら、死ぬ!!!」と確信せざる得ない言葉の数々に、「はい、聞きたくない!」といずみは鵺の言葉を遮る。
「うん、いや、あたいも、あの遊園地で、あんな楽しめる人間がいるたぁ思わなかったよ。 色んな意味で流石だよ、鵺」とか、感心してるんだか、呆れてるんだかな賞賛の言葉を口にする竜子に、心から嬉しげに「ありがとう☆」と鵺が礼を述べ、ああ、もう、先ほどまで色々心配していた、私の心配成分(?)を返せ!!と怒鳴りたい気分にすらなった。

「誠とか、無理矢理ベイブに乗せられた、『ミラクルファンタジーツアー☆夢の拷問列車』とかいうアトラクションを乗り終えた後、なんか異常にボロボロになって、目ぇ引ん剥いたまま、泡吹いてたもん。 しかも、暫く悪夢にうなされて夜眠れねぇ、オプション付きで」

そう竜子の言葉に、事前に遊園地情報を入手できて心底良かったと、命拾いできたことを神に感謝しつつ、「うん、絶対、そんな場所、私行きたくないです」といずみは必死な声で訴えた。
「うっそー? 拷問列車愉しかったよ? エキサイティングで!」と鵺は本気の声でいずみに薦めてきて、ええい、黙れ、宇宙人!!と、己との余りの人種の違いに、喚きだしそうな自分を押さえ込むと、ふと、鵺の台詞を斟酌して、ある事に思い至り、「乗ったの?! そして、楽しんだの?!」と、勢い込んで尋ねてしまう。
信じられない思いでいれば、表情に出ていたらしく、「いや、そんな、珍獣を眺めるみたいな目で見なくても…」と怯んだように鵺が言う。
「まぁ、とにかく、鵺位、頭ぶっ飛んでねぇと耐えられねぇ、阿鼻叫喚遊園地なんだけど、いずみは…」と言いつつ竜子がいずみに目を向けてくるので、即座に首をブンブンと振り「うん、行きたくねぇよな」と大いに同意して「んじゃ、妖精どもがたむろってる部屋に案内してやんよ。 あそこは、何にも怖い事ねぇし、中に花の入ったシャボン玉がそこ等中を飛びまくってて、中々綺麗な部屋なんだ」と竜子が言い、いずみは、死の遊園地よりも余程楽しそうな場所の提案に、目を輝かせて頷いた。
だが、竜子の示したスポットは鵺にとっては、どうも不服が残る場所らしい。
遊園地をまだ諦めきれないのか、何事か目論む鵺の横顔を眺め、いずみは「絶対、変な事を考えないように…!」と釘を刺しておいた。

「が、その部屋に案内する前に、どうも、薔薇園でのお茶会っつうのに、あたいら全員招待されてるらしい。 ベイブも、呼んで来た方が良さそうだから、まず、玉間寄って、あいつ誘った後、薔薇園覗いてから、妖精の部屋には案内してやるよ」と竜子が言えば、嫌が応もなく、いずみは頷き、鵺も賛成した。

さて、ロビーを後にし、虹色の水が脇を流れる回廊を、三人で歩いていた時だった。

見れば回廊の向こうから、華美な衣装に身を包んだ、人形めいた美少女が歩いてくる姿が見えた。

ハートの飾りがあしらわれた、光の当り方によっては銀色の光沢も放つ黒いフェイクファーケープを羽織り、袖口が広がり、黒のレースが施された、ワインレッドのワンピースの裾が揺れていた。
黒いレース地のリボンが、至る所に飾られた、赤×黒のビビットな色彩のワンピースではあるが、色合いに深みがありシックな印象を見る者に抱かせる。
綺麗な黒髪には、赤いハートのワンポイントが可愛らしい大きなリボンの髪留めをつけ、踵の高いダークブラウンの編み上げブーツを履きこなし、黒いタイツで細く形の良い足を益々格好良く見せた。
少女は、ベースに薄紅色のマニュキアを塗り、キラキラと光るラインストーンをちりばめた綺麗な爪先を煌かせながら、髪を掻き上げ、此方にヒタリと印象的な眼差しで視線を送ってくる。


「あっれー? ウラだよね? ね?」

そう言いながらピョンピョンと跳ね、鵺はウラを指差す。
あんな姿が様になるのは彼女以外に在り得ないと思いながら、一度、この城で一緒にお茶会をして時間を過ごした少女である事を確信しつつ頷いた。


「お久しぶりです」と律儀な声で挨拶するいずみにウラが目を細め、「よお!」と片手を挙げた竜子は「お茶会ってぇのは、あんたの仕業か?」と笑いながら問うた。

彼女の姿がここにあるという事は、きっと、そういう事なのだろう。
確かに薔薇園でのお茶会なんて趣向は、如何にも彼女好みに思える。
ウラは「相変わらず、がさつな挨拶ね」と肩を竦め、それから「そうよ? 感謝なさい。 そして、おまえ達は運がいいわ! また、私が主催のお茶会に参加出来るのですから」と肩をそびやかして見せた。
ウラの見た目は不恰好だが、味は絶品なケーキを思い出していると、「お茶会♪ お茶会♪ ウラ、またモンスターケーキを作ってくれるの?」と、鵺がかなり失礼なデスワードを盛り込みつつも嬉しげに問い掛ける。
「残念ながら今回は、あたしのケーキはなくってよ、っていうか、てめぇ、聞き逃してやろうかとも思ったけど、そこまで大人になんかなってやんないわよ? 何よ?! モンスターケーキって!! 単純だから余計に腹立つわよ。 そのネーミングは一体、いつ、勝手になされたのよ!!」とウラが言われ、物凄く悪気の一切なさそうな顔で「えー、だってー、なんか、前のケーキって、中からどれだけ控えめに言っても未知の生物、どれだけ大げさに言っても未知の生物、つまるところ未知の生物とかがコニャニチワー!ってしそうな見た目だったじゃん」と鵺は素直な声で言う。
「コニャニチワするかー!! むしろ、あたしが、お目に掛かりたいわよ! 中からコニャニチワなケーキはあたしがお目に掛かりたいわよ! そして、料理オンチの癖して、あたしのケーキに文句付けるなんて、身の程知らずにも程があるわ!」
そう半ギレになりながら応戦されて、ムッとした表情を見せる鵺。
「オンチじゃないもん!! ちょっと、野菜の皮を剥いたら剥き終わった時には鵺の手の中には何もないとかいう状態だったり、ガスコンロの火を付けたら常に火柱が立ったり、作った料理が全部黒いなんか、これは魔王の食物か?!と目を疑うようなボロボロの消し炭になってたりするだけだもん!!」と反論になってない反論を繰り広げる。
「あー、確かに、それはオンチとか、そういう範疇にないわね」といずみが冷静に頷く声に、ウラも「別の意味で、奇跡の腕前だわ」と、納得&落ち着きを取り戻した。
「まぁ、その代わり、あたしのケーキに比べりゃあチンケなものだけども、メリィのお菓子を持参したわ?」
そうウラ言うものだから、竜子が歓声めいたものをあげ、一度口にして以来、すっかりあの店のお菓子の虜となっていたいずみも嬉しげに「メリィのですか…! 私も最近、あのお店行けてないんです。 季節毎に商品のラインナップが変わるようですから、ずっと気になっていたんですよ」と言いつつ、手を打った。
鵺は、メリィを知らないのか「メリィ? 何それー! 鵺、知らないよー? そこのお菓子って、そんなに美味しいの?」と顔を巡らせてくる。
すると、ウラはそんな鵺の鼻先に指を突きつけて「メリィを知らないなんて、チェック、あま〜〜い!」と勝ち誇ったように言った。

鵺はウラの言葉にプクッと頬を膨らませると、「いいもん、鵺は、川商メイツだし!」と、不満げに告げる。
ああ、あの駄菓子屋…と、古ぼけた、たが、いつも子供たちの活気に満ちた店を思い浮かべて微笑めば、ウラは川商を知らないらしく、「川商?」と首を傾げる反応を見せた。
ここぞとばかりに、にっと笑い「川商知らないなんて、チェックあま〜〜い!」と、鵺は指を突きつけ返す。

なんて子供な会話なんだろうと、呆れつつ、「はいはい。 そんな意地悪言い合わないで、また、お互い案内し合えばいいでしょう? どっちも素敵なお店なんだから」と、先ほどのように、不毛な言い合いに発展しないよう、一番年下にも関わらず、大人びた声で諌めたいずみは、「で? ウラさんは、どうしてこちらに?」と問いかけた。
「あたしは、ここの図書館に用があって来たの」と意外な答えを聞き、彼女のような人間が目当てにする位なのだから、余程充実した施設なのだろうか?と思いつつ、またも、図書館に心を惹かれる自分に気付く。
竜子に頼んで帰り際にでも覗かせて貰おうか?と思案していると、「まぁ、とはいえ、このお城に来て、埃臭い本にすぐ直行なんて、無粋が過ぎるわ。 とりあえずは、芳しいお茶と、甘いお菓子で幸せな時を享受しなきゃ、馬鹿馬鹿しくってやってらんないってなものじゃない?」と、鵺と同じ人種である事を示すような事を言い、鵺が両手を挙げて「賛成、さんせーい! 何でもいいよ! 美味しいお菓子が食べられるのなら」と、即座に賛同の意を表す。
先ほどまで、あんなにいがみあってたのに…と苦笑を浮かべつつ、「現金なものね」と、苦笑して、「まぁ…ご相伴に預かれるのなら、文句なんて私にもないけど」と、メリィの可愛いお菓子を思い浮かべ、いずみは澄ました顔をして答えた。
ウラは、にんまりと満足げな笑みを浮かべ、「クヒッ! 竜子、白雪と薔薇達に、薔薇園にて用意をさせているから、先に向かっていて頂戴」と、ウラが竜子を振り返り言う。

白雪?

初めて聞く名前に首を傾げれば、竜子がそんないずみに気付いて、「この城の世話役みてぇな女さ。 正体は、何でも見通す大鏡でね、ベイブにベタ惚れてるからか、口うるさいし、鬱陶しくて堪らないんだ」とぼやき、いずみは、竜子の口にした「正体は、何でも見通す大鏡」という言葉に、一体どんな人物なのか、少し会うのが楽しみになる。
不思議な生き物が、この城には多い事は知っているが、正体が大鏡の女なんて想像すら出来ない。
そして竜子はウラに「いや、あたいら、ベイブを呼びに行こうかと考えてたんだけど…」と言い、それから、ふとウラの肩に視線を向けた。
竜子の眼差しにつられて見れば、ウラの肩に、青い薔薇が飾られていた。
よくよく見れば、大きく花開いた薔薇の花弁の下に、小作りな少女とも少年とも取れる淡白な顔が覗いている。
緑の手足をした、その薔薇は、青い花びらのような衣服を身に纏い、ぺこんといずみに向かって頭を下げた。

(え…? この子…まさか、動く薔薇なの…?)

なんだか、小さく可憐なその姿に、思わずいずみは好奇心にかられてマジマジと凝視する。

竜子は薔薇を見たまま「ああ、白雪に、ベイブの元に行くよう言われたんだな?」と言いつつ、ちょんちょんと指先で薔薇を突いた。
竜子を見上げ、「キィ!」といった甲高い声を挙げた薔薇は、立ち上がり、その指先に緑の手を纏わせる。
「なーにー? これ! 可愛い!」と、鵺が薔薇を覗き込み、いずみも不思議そうに、その小さな指で薔薇を優しくなでた。
ひやっとしてサラサラとした感触。
気持ち良さそうに笑う薔薇の姿に、いずみも思わず微笑んでしまう。
「薔薇園の薔薇。 普段は、眠ってんだけど、何か用事があるときゃ、起こしてんだ。 おい、大丈夫、ベイブがあんたを虐める事ぁないよ。 ウラもついてるし、そんな事したら、あたいがベイブを〆てやる。 安心して行きな。 この『女王』が請け負ってやる」
そう竜子が言えば、漸く安心したのか見る見る薔薇は白くなり、「キィキィ」と声をあげた。
どうも、青くなっていたのは、ベイブの元を訪ねる恐怖に青ざめていたかららしい。
(ベイブさんって、どれだけ怖がられてるんだろう…)と呆れれば「あたいが一走り行ってやってもいいんだが、そうすると、今度は言いつけを守らなかったとかって、白雪に苛められっちまうからね。 悪いな、ウラ。 言葉に甘えて、先に薔薇園に向かっておくよ。 ベイブをつれてきてやってくれ」と、薔薇の立場を慮ったらしい竜子に言われ、元よりそのつもりだったらしいウラは「言っとくけど、貴女のお遣いで行くんじゃないわよ?」と竜子に凄んだ。
「分ぁってるよ。 この世界中のどこ探したって、あんたみたいな子を使える奴ぁいないだろうさ」
そう肩を竦める竜子の言葉に、「フフン」と一度頷いて見せ、それからクルリと踵を返してウラは玉間に向かって歩き出す。
その背を暫く見送ると「んじゃ、あたいらは薔薇園に行こうかね?」という竜子の言葉に頷いて、方向音痴の竜子はあてにせず、王宮滞在期間の長いらしい鵺先導の元、無事薔薇園に辿り着いた。


『Case.2 ウラ・フレンツヒェン』


薔薇園には、この世のものとは思えない程の美しい光景が広がっていた。


パウダーローズスノウ。


それは、マシュマロ大の白い薔薇の形をした雪。
白雪が用意したという、天井から降り注ぐ、その雪は触れても冷たくはなく、フワリとした光を放って消える。
そんな雪が、ゆるり、ゆるりと降り注ぎ、黒い蝶が薔薇園内を飛び交っていた。
どういう仕組みかなんて、この城内では、もう考える気すら失せてしまった演奏者のいない、楽器のみの楽団の奏でる音色が辺りを満たし、黒いベンチの上、どうやら、未だ体と合流できていないらしいエリザが、小鳥の如き澄んだ歌声で歌っている。
美しいキャンドルが、銀燭台の上に乗り、そこらかしこに浮き上がって、暖かな光を灯していた。
薔薇園の薔薇は、全て白色に変じ、蝶の黒と薔薇の白のコントラストは鮮やかで、虹色の水を噴き上げる噴水のすぐ傍に、大きな丸い黒檀製のテーブルが用意されていた。
真ん中に、白い薔薇が飾られたそのテーブルには既に、美味しそうなお茶菓子が所狭しと並べられてて、会場の準備を進めてくれていたらしい真っ白な髪、肌をした無表情な女が、此方に向かって頭を下げる。
唯一、耳に飾ってあるハート型のイヤリングだけがピンク色をしていたが、全身が白い白雪の耳元で揺れるそのアクセサリーは殊更明るい色に見え、思わず挨拶よりも先に「可愛いですね」とイヤリングを差して言ってしまった。
すると、白雪は照れたように微笑んで「ありがとうとうございます」と告げ、即座に無表情に立ち戻ると「お初にお目にかかります。 私は、白雪と申します。 以後、お見知りおきを…」と丁寧な口調で挨拶をしてくれた。
慌てていずみも、「ご丁寧にありがとうございます。 私は、飛鷹いずみです。 この度は、素敵なお茶会にお招きいただきありがとう御座います」とお礼を述べる。
そんな礼儀正しいいずみの様子に、白雪は目を細め、「是非、ゆっくりとしていって下さいませ。 このように、お茶も用意させて頂きましたし、ウラお嬢様がお持ちくださったお菓子もたくさん御座いますから…」と、テーブルを指し示しつつ優しい声で言った。

見れば、テーブルの上にはウラが持参した「メリィ」のお菓子も、銀食器の上に美しく並べられていて、相変わらずの可愛いフォルムに、夢中になってしまった。

ウラを待ちつつ、白雪や、竜子と談笑していると、鵺が我慢し切れなかったのか、ひょいとクッキーを一つ摘む姿が、目の端に入る。
お行儀が悪い…と注意しようとした所で、丁度タイミングよく、薔薇園に戻ってきたウラが、形の良い眉をくいっと上げ、鵺をキロリと睨みつけた。
「あ、やっときたー! ほら! 主催がいなきゃ話にならないでしょ? 早く座って、座って!」と、悪びれもせず、鵺はウラを促す。
「おまえはもう、つまみ食いしてたじゃないの」と指摘しつつ、勝手に身を引きウラに腰掛けやすいように体勢を整える黒檀製の椅子に腰を降ろした。
「あれ? ベイブは?」
竜子にそう問われ、澄ました顔で「所用を済ませてから来るそうよ? さて、待たせたわね」と、ウラが言い、いよいよ始まるお茶会に、わくわくしながら視線を落とせば、まるで湧き出すように白磁のティーカップの中に紅茶が現れ、甘く芳しい香りがいずみの鼻先を擽った。
ウラが持参したという、紅茶の甘い香りに微笑めば、「じゃあ、お茶会を始めましょう」と気取った声でウラが告げて「クヒッ」と笑う。
いずみも、待ちかねたというように笑みを浮かべ、竜子なぞは、ガブリと熱い茶を急いで飲み「あっつ!!」と悲鳴のような声を上げた。
白雪が白い指先を伸ばし、メリィのハート型チョコレートを摘んで口の中に入れると、「アラ…」と目を見開いた。
余程美味しかったのだろう。
いずみも、手を伸ばして口に入れれば、中にキャラメルソースが入っていて、噛み締めるとトロリと口の中に、甘い味が広がる。
こんなフレーバーのチョコがあったなんて…!と感激しつつ、紅茶で、口の中を湿らせ、甘い香りで一杯にすると手近にあった、スコーンにクリームチーズを乗せてサクリと食み「美味しい…」とうっとりと呟いてしまう。
他の面々もめいめいお菓子に手を伸ばし「絶品〜!」だの、「これもイケてんぞ? ちょっと食ってみろよ」だの、感想を述べ合う光景に、いずみは、何だか幸せでたまらない気分になった。
気持ちを切り替える為に、この城を訪れたのだが、やはり、その選択は正しかったらしい。
それはウラも同じなのか、「クヒヒヒッ! ヒヒッ!」と、両手で唇を抑え、笑い声をあげる。
そんなウラにいずみがにっこりと笑って「随分とご機嫌ですね?」と問えば、「ご機嫌? 当然よ。 だって、不機嫌も、ご機嫌も、自分次第。 目の前に美味しいお茶と、お菓子があって、世界はこんなに美しい。 これでご機嫌でないなんて、それは随分と愚かで不幸な人間だわ?」と答えた。

そしてウラは唐突に、竜子と白雪に、視線を向けた。

「悲しいことがたくさあった。 けれど、それ以上に嬉しいことも見つけてやる。 でなきゃ帳尻が合わないわ。 そうでしょ?」
ウラの言葉が何を指すのかいずみには分からない。
だが、彼女は、彼女で、自分と会わない間にきっと色々あったのだろう。
前に会った印象よりも、より美しく、それでいて強かな表情を見せるウラに竜子が頷く。
「ああ、全くだ。 あんたのお陰で、楽しい時間を過ごせてるよ。 ありがとうな」
そう言いながら竜子が手を伸ばし、ウラの頭を優しく撫でた。
白雪も「気分転換には…なりますわね」と小憎らしい声で言い、それでもよっぽど気に入ったのか、また、メリィのチョコレートを一つ摘んで、嬉しげに口の中に放り込んだ。

さて、そんなこんなで、歓談しつつお茶を楽しんでいると、竜子がソワソワとした様子で「悪い、あたい便所!」と言いながら立ち上がった。
「竜子…デリカシーがないわ?」とウラが眉を潜めれば、「こういう時は、飲食が終わるまで席を立たないのがマナーですよ?」といずみも文句を言う。
「だって、我慢できねぇんだもん!」と、もじもじしながら反論してくる竜子に、鵺が「良いから行ってきなよーん。 あ、でも、迷子には気をつけてね?」と言い「あいよ!」と気軽に返事をして駆け出していく。
竜子の背中を呆れたように眺めれば、鵺がふと、思い出したという風に、白雪に問い掛けた。

「ねぇねぇ! あのさぁ、気になってたんだけど、ゆっきーってば、何でも知ってるんだよね?」

鵺の言葉に、(ゆっきー…?)と首を傾げれば、白雪が顔を上げ、「まぁ、何でもというと語弊が御座いますが…」と答える。
(ああ…白雪だから、ゆっきー…)と、何だか釈然としないものの、とりあえず納得するいずみを他所に、「でも、この城の中の事なら、全部お見通しでしょ?」と鵺が問いを重ねる。
「ええ…まぁ、城内の事でしたら…」
そう無表情に答える白雪に、鵺がにこりと笑いかけ、
「だったら、ねぇ、ゆっきー? 『アリス』の居場所を教えて?」と、無邪気な様子で強請った。

アリス。

その名前に、目を見開くいずみ。

それは、この城の天井に磔になっていた、魔女の名前。
居場所?
どういう事?
彼女は玉間に封印されているんじゃないの?
タルトの欠片を指先から取りこぼしつつ白雪に視線を向ければ青ざめ目を見開いて鵺を凝視している。

「アリス…何故? 彼女の居場所を探りあてて、どうしようというのです」

凍ったような声。

何が何だか分からないけれど、多分鵺は、白雪にとって、大変不味い事を聞いている。
今、彼女が「アリス」に会いたがっているのは、きっと、幇禍に対抗する際においての必要に迫られてであろうと推測は出来るが、この調子じゃ、素直に教えて貰えそうにない。
白雪の表情に尋常ならざるものを感じ、いずみは咄嗟に「鵺…白雪さんはご存じないのかも知れないわ」と取り成すように告げた。

「知らない? 違うよ、この反応は。 知ってて言いたくない、拒否反応だよ、コレ」

そう白雪を指差しながらいずみを振り返り言う鵺に、そんな事は分ってるんだ…という気持ちを隠しきれずに溜息を吐き出し、何とか事態を打開してくれまいか…とウラに視線を送る。
すると、指先についたマドレーヌの欠片を、ピンク色の小さな舌で舐め取ると、ウラは小悪魔めいた表情を浮かべ、そのまま首を傾げた。

ウラの反応に、彼女が何かを知っている事を察したいずみ。
その、企みの表情に、今は黙って成り行きに任せるのが得策か…と口を噤めば、ウラがトンと爪先を地面に軽く打ちつけ、指先に小さく電撃を宿らせる。

パチパチと青く光る指先に目を見張り、(小さな…雷?)と、その正体を見極めつつ、ウラも只者ではないだろうとは分かっていたものの、その力を行使する所を目の当たりにして息を呑むいずみ。

ウラがその小さき指先を振るえば、白雪の皿の上にあったアップルパイの中に、小さな電撃の塊が吸い込まれる。
その様子を(どうするつもり?)と首を傾げれば、ウラは「クヒッ」と小さく笑い、唇に人差し指を当てて、「しーっ」と黙ってみておくようジェスチャーで告げてくる。
白雪がとりあえず心を落ち着けるためにであろう。
銀製のフォークで、震えながらパイを切り、白雪が唇の中に運んだ瞬間だった。

白雪が、目を見開き、「いっ! いいいいっ! ひぃっ!!」と全身を震わせながら奇妙な叫び声を上げて後方にぶっ倒れる。

「し、白雪さん?!」
「ゆっきー?!!」

驚き名を呼びながら立ち上がれば、鵺も同じように慌てた様子で白雪を覗き込んでいた。
「ちっちっち」と指を振り、ナプキンで唇を拭うと、そんな二人の様子など、全く頓着せぬように、ウラが、「白雪姫が、林檎なんか食べちゃあ、ぶっ倒れるのは当然でしょ? 特に、魔女が手を加えた林檎はね」と、にいっと唇を裂いて告げた。

「鵺? アリスの事は、白雪のタブーよ? 聞いたって教えてくれるどころか、全力で貴女とアリスの邂逅を邪魔してくるに違いないわ」
ウラが、鵺に向かってそう言いながら立ち上がり、白雪の顔を覗き込んだ。

アリスは白雪のタブー?
白雪は、アリスを敵と目しているのだろうか?

ピクピクと震えながらも、完全に失神してる様子をウラは確かめ「電撃アップルパイ、思ったよりも効いちゃったみたいね」と呟くと、「食器が銀製で良かった。 ステンレス製だったりしようものなら、フォークに感電してしまって、静電気程度の威力しかなかったでしょうね」と言いつつ「鵺、おまえ運がいいわ」と言ってクヒッと笑う。
「…どういう事ですか?」
そう訝しげに問ういずみに、「どうもこうも、白雪は毒林檎にやられちまった。 残って、この世の春を謳歌するのは、魔女って相場は決まっているでしょう? あら、三人の魔女だなんて、むしろ、マクベスみたいじゃない? 万歳マクベス! さぁて、悪巧みを始めましょう?」とウラは捲くし立て、鵺に視線を向けて「会いたいの? アリスに」と問い掛けた。

知っているのか?
アリスの居場所を。
そのアリスとは、天井に磔にされているアリスとは、別人なのだろうか?

どうも、いずみの知らぬ間に、かなり根深いところまで、この城に関わっているらしいウラの様子に驚きながら、鵺が唇を引き結んで、コクンと頷くのを確認する。

すると、ウラは「だったら…道化を捜すのが一番、手っ取り早いわね」と、意味の分らぬ事を呟いた。

「道化…って、前にお城で会った、天井からぶら下がってた、変な男の事?」

鵺の言葉を聞いて脳裏に浮かぶは、前回、此処を訪れた際に、奇妙な言動で竜子を苛立たせていた、道化の姿。
ウラは鵺の言葉に更に頷き、「道化が何故?」といずみが問えば、「あれがアリスよ」と端的に告げられる。

道化がアリス?!

息を呑み、何を冗談を言っているのだと、その顔を見返せば、至って真剣といった調子で、ウラはペラペラと滑らかに動く舌を大活躍させて言葉を続ける。

「ベイブの心の内に棲まうアリスは、ベイブの心の最奥に潜む存在ゆえに、この城の最深層に存在する。 彼女とコンタクトを取るのは、並大抵の努力だけでは叶わないわ? あたしは一度彼女に会っているけど、その時は、最深層とこの表層が逆転する特殊な状況だったから、彼女とあいまみえる事が可能だった」
ウラの言葉にいずみは、視線をかすかに巡らせ、思考する。

ベイブの発狂により、城が大変不安定な状況に陥った城での騒動や、遊園地のような施設を突然、自らの意思で城内に「創造」するというエピソードを思い起こし、この城は、どうもベイブの心情によって、様相が大いに変化するのだろうというおおよその見当をいずみは付ける。

つまり、この城には「ベイブの心に住まう」住人が具現化して存在する。 
ならば、アリス…、どうも、ベイブにとって、余程根深い感情を抱かずにいられないらしい彼女が、「ベイブの心に棲まう」存在として、城内に具現化していてもおかしくない。

それが、最深層にいる、アリスか。

そう判断すると、「つまり、最深層にいるアリスさんに代わって彼女の意思通りに、この表層にて活動をしているのが道化さん…って事でいいんでしょうか?」と言えばウラは満足気に頷き、「飲み込みが早くて、いいわね。 おまえ」と褒めてくれてクヒッと笑う。
鵺も「最深層まで行かなくても、道化君さえ見つければ、アリスに鵺の気持ちを伝える事が出来るって訳なのね?」と、呟き、一度頷いた。
「彼女自身は、ベイブと一回邂逅を果たし、ベイブが彼女の存在を受け入れたから、多分表層まで自由に行き来は出来るようになってるでしょうけど、白雪の手前、彼女の縄張りを荒らすような事はしてないでしょう。 この表層では道化を捜す方が、余程アリスに会える公算が高い。 ただ、じゃあ、その肝心の道化が何処にいるか?って聞かれると、あたしにも見当がつかないのだけど…」と、ウラがそこまで言えば、この王宮内も、激動と呼べる変化があったのだ…と思いつつ、不意に閃光のように、あるアイデアに思い至り、いずみは「あっ!」と声を上げた。
どちらも、精巧な人形めいた美貌の二人が、同じタイミングで視線を向けてくる事に、少し怯みつつ「白雪さんのお面!」と言って、倒れている白雪を振り返る。
「ほら! 鵺! 面を打って付ければ、100%の能力じゃないけど、相手の能力が行使できるようになるって言ってたじゃない! それに、相手の隠している事も分るって」

いずみの言葉に、鵺が、ポン!と手を叩くと、にっと笑って「いずみ、賢い!」といずみを褒める。
何がなんだか分からないのだろう。
目をパチクリさせているウラに、にこりと愛らしく笑いかけ「見てて、ウラ! 鵺の、超必殺技だよーん」と言いつつ、ごそごそと「え? そんなものを、何処に?」と疑問を抱かざる得ない、大きめの紙袋を取り出した。
「じゃじゃーん! お久しぶり!!って事で鵺の愛用能面製作キット!」
そう言いながら示されて、「は?」といずみは首を傾げる。
「いつでも、どこでも、気軽に能面が打てるキットです」と、思いっきり通販番組の商品紹介口調で説明されて、怯みながらも聞き入れば、「お値段、19800円」と、別段知りたくもない値段まで教えてくれる。
思わずと言った調子で、「それって高いの、安いの?」とウラが聞けば「いや、間違いなく世界中で鵺以外に需要のない商品だから、そこら辺は分んないんだよねー」と言いつつ、白雪の顔を凝視して、「じゃ、ちょっくら打っちゃいますか!」と気軽な様子で宣言した。

いずみが思っていたよりも早く、器用な手付きで面を打ち終えた鵺の手の中に、まさしく能面というべき真っ白ながらも、白雪の面影を如実に写し取った面があった。

「これを…付ければ…」と言いつつ、面を顔につければ、まるでひたりと張り付くように鵺の顔を覆い尽くす。

そして、鵺は、突如自分の胸に指先を突き立てると、ずぶずぶと己の胸を「押し開いた」。

「っ!! きゃあ!!!」

突如、予期せぬままに目の前で繰り広げられる、余りに衝撃的な光景に悲鳴を上げるいずみ。
しかし、ウラは、既に白雪が、こういう風に能力を発動させる姿を見た事があるのか、落ち着いた様子で、鵺の胸の中に出現している、小さな鏡を覗き込む。
いずみも、顔を覆った手の隙間から覗き見れば、そこには、暖炉に薪がくべられ、赤々とした光の灯るレンガ造りの暖かそうな小部屋にて、ロッキングチェアに腰掛揺られる道化の姿が映し出されていた。

ずずず…と胸が閉じられ、鵺が面を外す。

「居場所、分った?」

ウラが問い掛ければ、鵺は頷き、いずみとウラ両方に「ありがとう。 お陰でアリスに会えそう!」と嬉しげに礼を述べると、ふと、不思議そうに「そういえば、ウラは、こうやって協力してくれたのに、何で鵺がアリスに会いたいのかって聞かないのね?」と問うた。

「あら? おまえ、聞いて欲しかったの?」

そうウラが問えば、鵺は「んー、分んない…かな?」と素直な口調で言う。
ウラは「クヒッ」と小さく笑うと「だったらいいわ。 言いたくない事は聞きたくない事! 面白いか否かが重要。 でも、おまえにとっては大事な用事なんでしょ? 早くお行きなさいな。 白雪が目を覚まして、面倒な事になる前にね。 鉄の靴を履かされた後じゃあ、どうしようもないでしょう」と告げる。
ウラの、その、きっぱりと割り切れる性格を羨みつつ、いずみも深く頷くと「…鵺。 頑張ってね」と言い、その肩を叩いた。

「…何もかも、貴女が悲しい事全てに決着を着けたなら、また、一緒に遊びましょう。 待ってる。 私、待ってるから」

心からのいずみの言葉に鵺は笑って頷いて、それから、くるりと身を翻し鵺が中庭を後にする。

いずみが、鵺の背を見送るのを他所に、ウラはさっさと椅子に腰掛けると、「あら…お茶が冷めちゃったわ…。 暖め直して頂戴」と、昂然とした声で命じた。
すると、たちまち紅茶に湯気が立ち、ウラは満足の笑みを浮かべて、熱い紅茶をゆっくりと啜る。
今まであった出来事なんて、全く気にも留めていないような、その行動に、「ウラさんって…本当にマイペースなんですね…」と、呆れたように言えど、ウラは、聞いちゃあいないらしい。
「クヒッ」と、引き攣ったように笑うと、「ほら、おまえもとっとと座りなさいな。 鵺は行っちまったわ。 まぁ、どういう理由かは、全く知らないんだけど、それでも、中々良い目をしていたからね。 きっと、アリスに会えるでしょう」と言い、「中々魔女に向いてるわ。 おまえもね」といずみを指差し言ってきた。

魔女?
私が?

魔女と言われる程に、大それた事は、自分には出来ないと認識しているいずみは、「私の、何処がですか?」と心底不思議そうに問うてしまう。
「悪巧みが、上手な所がよ」
そう言い、またクヒッと笑うウラに、「悪巧みだなんて…。 私の場合は、唯、保有している情報量・知識量の差異により、手段の構築の選択肢の幅が若干同年代の人間よりも広いだけであって、決して他人よりも狡賢い等というわけではありません」と、一気に並べ立て、それから、数秒ほど間を置いて「…多分」と随分と自信なさ気な声で答えてしまった。
まるで、時々自己嫌悪の対象となる、己の小賢しさを見抜かれたようで、真っ向から否定できなくなってしまったのだ。

いきなりのトーンダウンに、ウラが小首を傾げて、顔を覗き込んでくる。
その、吸い込まれそうな程に美しい瞳に惑わされ、いずみは意識しないまま、口を開いていた。

「…でも、幾ら、手段を構築する知識を有していても、そんな小手先の力では、どうにもならない事だって多いですし、いつだって、私は口ばかりで、子供だからっていつも、カヤの外に置いてかれてしまう。 力が、どうしたって足りないんです。 目の前の出来事は、どんどん進行していって、私の手の届かない場所で、解決したり、どうしようもなくなってしまったり…。 守られてばかりで、私は誰も守れない。 狡猾って言葉が、言葉通り狡い賢さを示しているのなら、自らを傷つく事のない場所に置き、ただ、知識の提供だけを行う私は、狡賢いのかも知れないですね」

鵺に対する態度を見ていても、ウラはきっと、自分と、自分が好ましいと認識しているものにしか興味を示さない。
心理学書を読み漁っていた経緯もあり、幾分前より、人の気持ちに技術的な意味で聡くなったいずみはそう確信し、だからこそ、悩みめいたものを口にしてしまった。
聞き流してくれると思うからこそ、素直な言葉を吐き出せた。

ウラは、何度も瞬いて「おまえ、歳は幾つ?」と問いかけられる。
しかし、いずみは、年齢を唐突に問われる事には慣れっこなので、「10歳です」と、すぐさま答え、ウラは益々目を剥いた。
そして、その表情のまま「馬鹿ねぇ…」と、しみじみとした声で呟く。
掌を伸ばし、いずみの頬をむにっと掴むと「こんなに肌が美しい時から、そんな事を考えるなんて、馬鹿よ、大馬鹿」と言ってクヒッと笑った。
「女と生まれただけでも、人生大儲けだって言うのに、子供っていう限られた黄金の時を謳歌しないでどうすんの? 狡賢くって結構。 綺麗な顔に傷なんかついちゃ、大変よ。 大人に守ってもらうのが、子供の仕事なんだから、そんな風に自分を卑下するなんて愚の骨頂よ。 あたしなんて、守って貰ってばかりだわ。 でもね、守って貰う事こそが逆に、誰かを守る事になる場合もあるの。 おまえを守る事、その事で、きっと気持ちが救われてる人間だっている筈よ? 大人に仕事をさせてあげなさいな。 子供を守るっていう仕事をね?」
ウラの言葉に、それでも眉を下げたままのいずみを見て、ウラは一つ溜息を吐くと、「でもね、おまえがそれをどうしても許容出来ないというのなら、どうしても、守りたいものを探し出すのも手だと思うわ」と、言って、また紅茶を啜った。
「どうしても…ですか?」
いずみが問い返す言葉に、「ええ」と頷き、「これだけは、後ろになんて引っ込んでいられない。 守られてばっかりは我慢ならない。 どんな手段を講じても、絶対に自らの手で守る…っていうものをね、見つけるの。 人でも良い、物でも良い、主義主張、信念だって構やしない。 あたしはそうね。 あたしの美意識。 あたしが心から美しいと思える物の為なら、自分が傷つく事も厭わないわ」

私の、どうしても大事なもの。
鵺も言っていた。

そのうち、どうしようもなく、自分自身で対面すべき問題に出会うと。

来るのだろうか?
そんな時が。

絶対に自分の手で守りたいもの。
見つかるのだろうか?
そんなものが。

「おまえも、そういうものを探して、心に決めるの。 これだけは、絶対、大事だって。 目に入るものを全て守る事なんて不可能だし、出来やしない事を意地張ったって出来るって言い張ったって、それは愚か者のする事でしょ?」とウラが言えば、いずみは素直に頷く。
出来ない事を出来る振りして、後々大きな問題になった例は幾らでもある。
正しい処置があれば救われたものを、愚かな思い込みと、誇大自己評価により、取り返しのつかない状態にしてしまう、愚かさだけは自分自身には許したくない。
「だから、欲張らない事。 素直に守られるという事も、必要だって理解する事。 でもね、これだけはって物に対しては、遠慮しないの。 他人への迷惑だって考えない! 何もかもを巻き込んで、どんな事をしたって守る。 クヒッ! まぁ、あたしは元から、他人の迷惑なんてもの考えたことはないけど、おまえみたいな子は、きっと、色んな人間の事を考えちまう性質だろうからね」
そう言いながら、首を傾げると「そう決めたなら、おまえ、きっと楽になるわ」とウラは言い、澄ました顔で、マカロンを口に運んだ。

一つだけ。
一つだけ、決める。
誰に迷惑を掛けても、どれだけ制止されても、渦中に飛び込み、命を懸けられるものを、見つける。

それも良いのかもしれない。
そういう我が儘を自分に許しても良いのかもしれない。

いずみは、少し微笑んで「魔女の入れ知恵ですか?」と問い掛けてくる。
「クヒッ!」とウラは笑い返すと、「そうよ。 あたしの言う事を素直に聞いて、おまえ、もっと悪女におなりなさいな」と答え、いずみは眉を顰めると「既に、将来を危ぶまれている身の上ですので、これ以上、大人を怖がらせるのは、御免蒙ります」等と小憎たらしい口を利いて、それから「ふふふっ」と、柔らかに笑った。

エリザの、澄んだ歌声に添うような、その笑い声に目を細め、ウラは唇を緩ませる。

そうやって、二人穏やかにお茶を楽しんでいると、漸くがやがやとベイブの他に何名か男性が一緒になって中庭に足を踏み入れてきた。



『Case.3 兎月原・正嗣』


視線を向ければ、チーコの件で一緒になった、色気のある大人の男性兎月原と、ここに来るまでに何があったのか、「え? ボロ雑巾の妖怪?」的な惨状を呈している黒須の姿も見られる。
久しぶりの邂逅に、席を立ち、笑顔で挨拶しかけたいずみは、ピシリと音がする程に硬直した。


いる。

ここにいちゃいけない人間が、いる。

魏・幇禍。
鵺の家庭教師であり、婚約者でもある男は、相変わらず端正な顔立ちと、見惚れるように均整の取れたスマートな日本人離れした体型をしていて、本当に、鵺の言う通り、彼女の命を狙うような、そんな物騒な人間には到底見えない、穏やかな表情を浮かべている。
「あ、いずみさん! お久しぶりです〜」と、嬉しげに手を振られ、硬直しつつも手を振り返すいずみは、今の事態を目まぐるしく考慮し始め、とにかく、彼に鵺がこの城に来ている事を知られてはならないと判断した。

彼を迎え撃つには、鵺は、明らかに準備不足に見えたし、今、下手に、鵺対幇禍戦なんて繰り広げられれば、何もかも収拾がつかなくなる。
見れば、鵺以外には、全く殺意も敵意もないらしく、普段の様子と変わりない幇禍を、下手に刺激する事もあるまい。
むしろ、このまま鵺と王宮内で鉢合わせしないよう、事情を知っているいずみが巧く立ち回る事が、今自分に課せられた、取るべき最善の振る舞いだろうと確信し、いずみは「お元気そうで何よりです」と、出来るだけ表情や声に、動揺を出さぬように、挨拶をした。
何故か皆、一様に疲れきった表情を浮かべ、唯一、明らかに気力に満ち満ちている幇禍のみが、キラキラと輝くばかりの笑顔を美貌に浮かべ、「楽しかったですよー? ウラさんも来られれば良かったのに」と明るい声で告げている。
彼女が、玉間にベイブを呼びに言った時に何かあったのだろうか?と考えて、あの時、もし、ウラに出会っておらず、あのまま三人でベイブを迎えに玉間に足を踏み入れていれば、鵺と幇禍が鉢合わせしていた事に気付いて青ざめる。
知らず危ない橋を渡っていた事に気付けど、事情を知らぬ黒須達は、そんないずみの内心には、勿論気付かず、「…よくも…一人だけ…逃れやがったな…?」と、そのまま「祟りじゃあ〜〜」等と言い出してもおかしくない風情でウラに詰め寄っている。
その形相に、爬虫類+不気味人相のコンボにて自分ならば、多分涙目を逃れ得ないだろうと思えども、思った言葉がそのまま口に出てしまうらしいウラは無表情に、「唯でさえ、良くない人相が、最早、MAXレベルでヤクザ状態になっていてよ?」等と怖いもの知らずに告げている。
「おっまえ…凄かったんだぞ? 阿鼻叫喚ぞ? 俺は、もう…うっかり、前章にて、人生最大の命の危機を何とか免れたのに、まさか此処で、俺…此処で、死ぬのかな…?って切ない決意を固めたんだからな!!」
そう必死に訴える姿に、ああ、また、このままでは話が進まない、ていうか、文字数既に凄い、ストップ・ザ・長文化!と、心に決めたいずみが、あくまで良心に従って真顔で「あの…黒須さん…必死すぎて、鬱陶しいです」と告げたものだから、撃沈!と言わんばかりに黒須は崩れ落ちる。
そんな最中、竜子が漸く、そして案の定「迷ったー!! やばかった!! ありとあらゆる意味で、人間としてやばかった! 具体的に言えば、最終的にはチョイ漏れっていう、セーフかアウトかでいったら、うーん、ギリギリアウト?な結末を迎えざる得ない位やばかった!!」と、女子として、もう、終了宣言をかましているのと同じ位の台詞を吐きつつ、中庭に戻り、そして、突如増えている人数に目を見開く。

「あっれ? 幇禍! それに、兎月原さんも、来てたのかよ」と、竜子が言えば「俺が連れてきた」と言いながら、黒須が手をヒラヒラさせる。
だが竜子はその台詞より、満身創痍の姿に目を見開き、「…どーなってんだ? あれ?」と黒須を指差しながら竜子がベイブに問えば、何ごとか説明しようとして、明らかに面倒臭くなったという風な表情で「…あいつの趣味だ」と真顔で答え、その答えに「ふうん」と竜子が、物凄く即座に納得すると「ほどほどにな?」と何か、もう、若干いたわりの表情すら浮かべつつ、慈愛の篭った声を掛けた。
「うん、やめてくれ。 また、無駄に、信憑性が高い誤解を蔓延させるのは、心からやめてくれ」と、黒須が本気の声でベイブに頼んでいる。
ここに来る前に、どうも、死の遊園地と同じような、この追う今日に点在する阿鼻叫喚施設に、足を踏み入れてきたのだろうと、いずみは察し、この王宮三人組が揃うと、どうして、こうも下らないコントが繰り広げられてしまうのか?と、げんなりする。
折角素敵な庭園のお茶会途中だというのに…等と思いつつ、お茶を飲み飲み、観覧していると、不意に竜子が「あっれ? 白雪?! あんた、なんでこんなトコで寝てんだよ!」と不思議気に喚く声が聞こえ、咄嗟にウラと顔を見合わせた。

わ す れ て た!!!

「う…ううん…」

竜子の声に眉を寄せ、そう呻きながら起き上がりかける白雪を見て、ウラがスクッ!と立ち上がると「さぁ! あたしのお茶の時間はお仕舞い! さっさと、図書館に言って、レポートを仕上げなくてわ! おまえたちはゆっくりしていくといいわ?」と言いつつ、スタスタと歩き始める。

置 い て い か れ る !

最早、樹海一人ぼっちよりも恐ろしい事態に自分が見舞われつつある事を悟ったいずみは、震える足で立ち上がり、「ちょっ! ウ…ウラさん?!」と悲鳴めいた声をあげつつ、後を追いかけた瞬間だった。

ひたり

と、服越しなのに、ヒヤリと冷たい白い手に肩を捕まれ、静かな、静かな、だからこそ恐ろしい声で「逃がしませんよ…?」と耳元に囁かれた。

一瞬、失神状態に陥るいずみのすぐ背後に、振り返らずとも分る白雪の気配がある。

「…ひっ!」と小さく悲鳴をあげた、その声に振り返ったウラが、背後の白雪の様子が余程恐ろしかったのか、全くの無表情のまま、彼女にしては珍しいほどの沈黙を貫き、何も見なかったと言わんばかりにクルリと顔を背け、竜子の腕をひっぱり「図書館! さぁ! あたしを図書館につれてって!!」と言いつつ、小走りに駆け出す。

見 捨 て ら れ た !

倒れんばかりの風情になりつつ、いずみはパクパクと口を開閉させて、震える手を虚空に伸ばす。

「あ…?! え!! いや、あたい、まだ、あの、クッキー、喰えてないんだけど…」と名残惜しげな竜子声が微かに聞こえた直後、「ウゥゥラァァお嬢様ぁぁぁぁ???!!!」と、「こーれは、地獄の釜の蓋が開いたな。 お盆シーズンとか、無視して、地獄の釜から、この声が聞こえている事は間違いないな」と言わざる得ない、白雪の怨嗟の声が響き渡る。
赤子や心臓の弱い方なら、ここで、心停止も已む無しボイスにいずみも、完全に竦みあがり、呆気に取られたようにこちらを眺めてくる兎月原や、黒須達を置いて、一目散に中庭を飛び出すウラの背中に「カムバーーック!!」と洋画のラストシーンの如く呼びかけたい気持ちを必死に抑える。

何にしろ 事態は最悪を極めている。

幇禍には鵺の存在を悟られないようにしなければいけないし、怒りに震える白雪を、何とか宥めねばならない。

泣きたい。
此処は一つ、いずみが普段は、「子供ね」と感じている、同級生達のように、手に負えない困難を前にして、子供の特権を行使し、ここに座り込んで大声で泣き出したい。
しかし、そんな事をすれば、カタストロフは目に見えていて、じわじわといずみの首に手を回し、「一体何があったのか、説明して下さいますわよね? いずみお嬢様?」と、冷え冷えとした声で言う白雪をどう誤魔化すべきか、煙を出しそうなほどに、脳を回転させ続けた。



とにかく、鵺の名前を出さないまま、白雪を納得させるのは、至難の技だった。

これ程までに、自分は嘘が上手だったのだろうか?と、悲しくなる程、手替え、品替え言葉を駆使し、「ウラが、『白雪姫ごっこ』をしてみようと、ちょっとした悪戯のつもりで、パイに電撃を仕込んだら、思いの外、威力があってこんな事態になってしまった」という、普段のいずみからすれば、そんな子供っぽい遊びはしない!と言わざる得ないような嘘の理由をでっちあげる。
幸い…というべきか、電撃のせいで、前後の記憶があやふやらしく、白雪は鵺にアリスについて問われた事を忘れてしまっているようだった。

「…そんな…下らない悪戯で…私をこのような目に合わせる等と……」

そう言いながら、どうも倒れた際に出来たらしい瘤を撫で擦りつつ、「ウラお嬢様には、お仕置きが必要なようですわね」と言ってひっそりと笑う。
その瞬間、ベイブを除くテーブルについている人間が一斉に目を逸らさずにはいられない程、怪談めいた幽気が白雪の周囲に立ち上ったのだが、あえて誰も触れないでおく。
ウラには悪い事をしたのかもしれないが、これで、置いてかれた事と相殺だろうと考え、罪悪感を打ち消すと、いずみの隣に座った兎月原が、手を伸ばしても足りないお菓子を取ってくれ、綺麗に皿に盛って微笑みながら手渡してくれた。
「ありがとうございます」
「いえいえ。 どういたしまして」
礼を述べれば、微笑まれ、「う…」と、ちょっとドキッとする自分に、苦笑する。
興信所に集う面々は、何だかんだと、大変美形が多いのだが、兎月原もその例に漏れず、整っているというよりは、むしろ何処か危うく、崩れた、いずみが接した事のない大人の雰囲気を身に纏っていて、じっと見詰められると、赤面せずにいられない色気を持っている。
立ち居振る舞いも大変紳士的だし、そういえば、あの3日間の旅の間も、チーコの事もまるで姫君のように扱っていて、大人の世界の住人である事を如実に悟らせてくれる男性の一人であった。
甘い蜂蜜めいた声音で、「どうしたの?」と首を傾げながら問われ「何でも…ないです…」と呟く。
そのまま、気持ちを落ち着けるべく、視線をスススと、逆に逸らせば、そこには、ありとあらゆる意味でいずみを、今一番落ち着かせない相手であるモデル風な美貌をした幇禍が座っていて、いずみの視線に気付くと、にっこりと笑いながら「このお茶美味しいですねぇ…」なんて、呑気な事を言っていた。
向かい側には、黒須とベイブが、何事か言い合いながら座っていて、白雪が不意に席を立ち、何後とかの用意に向かうのを心細げに見送った後、ハタと、今自分が、大人の男たちの中で、紅一点である事に気付いてしまう。
今まで、興信所絡みの事件や、王宮絡みの出来事では、同年代の子や、気安い相手が傍にいる事が多かったが、こうやって取り残されると心細くて不安が募る。
加えて、鵺の存在を幇禍に知らせないようにせねばならない緊張と不安感に、目を泳がせれば、そんないずみの様子に気付いたのか「大丈夫?」と言いながら、兎月原がいずみの顔を覗きこんできた。
「あ…大丈夫…です…」
そう言いながらも、優しい顔をする兎月原に、何もかも曝け出して頼りたくなってしまう気持ちを抑えつつ、「何だか、ちょっと体調が悪くて…」と小さく呟く。
すると、「そりゃ、大丈夫じゃねぇだろ」と言いつつまず、黒須が傍に来て、いずみの顔を覗きこみ、次いで、ベイブも、いずみの傍らに立って、思案気な表情を見せた。
「…折角、久しぶりに遊びに来てくれたから、ちょっとのんびりしていって貰おうかとも思ってたんだがな…」と言いつつ、視線を緩めて黒須が言えば、「無理はいかんだろう。 風邪でも引いてしまっては、可哀想だ」とベイブが呟く。

なんか大事になってる。

思わず、益々青ざめてしまういずみ。
黒須も、幇禍も、兎月原も、ベイブですら、心配そうにいずみを眺めていて、その事に対し、「私って大事にされているんだなぁ…」と、大らかに思える性格だったら、それはいずみじゃない。
申し訳なさと、でも、今更後戻りの出来ない状況に、「アワアワアワ」となっていれば、幇禍が綺麗な掌を、ゆっくりといずみの額にあて「熱はないようなのですが…」と言いつつ、「でも、顔色は確かに悪いですし、大事をとったほうが良いでしょうね…」と頷くと、「いいですよ。 俺、いずみさんの事送っていきます」と、他の三人に告げた。

いずみは、大の大人の男四人を、不用意な台詞で、これ程浮き足立たせてしまっている事に、混乱状態に陥ってはいたのだが、ハタと、幇禍の台詞を聞いて、「これって…瓢箪から駒じゃない?」と気付く。


だって、鵺に、幇禍を会わせたくないのなら、このまま、幇禍を外の世界に連れ出してしまえば良い。


避難先として、ここが最良なのは確かで、通常の手段ではおいそれと足を踏み入れられない場所だ。
このまま返してしまえば、後は鵺が全ての準備を整えた後、任意のタイミングで、彼と相対する事が出来るようになるだろう。

人間万事塞翁が馬。

この言葉をこれ程実感出来る機会もなかろうと、しみじみと噛み締めれば、「玉間に向かえ。 準備が整い次第、外界に送ってやる」とベイブが言い、幇禍が「じゃあ、申し訳ないんですけど、兎月原さん、いずみさんを連れて、先に向かってて貰えます? すぐに後を追うんで」と幇禍が言った。
兎月原は頷いて、まるで、宝物を扱うような手付きで、突然いずみを抱き上げる。
「きゃあ!」と小さく声をあげ、咄嗟に兎月原にしがみ付けば「ああ、驚かせちゃった? ごめんね?」と言いつつ「…やっぱ、黒須さんと、全然違う…」と聞きようによっては恐ろしい事を、大変しみじみとした声で言い、「いや、一緒だったら、すげぇ怖ぇよ!」と黒須に怒鳴られていた。
何かあったのだろうか?と思えども、聞いても愉快な気持ちにはなれまいと確信し、口を噤んだまま、こんな風に自然に女性を抱き上げられる兎月原の性格に、改めて、「流石」と唸る。
そのまま、中庭を出て、玉間に向かう途中も、兎月原は、何かといずみを気遣ってくれて、思わずいずみは「ごめんなさい。 私が素敵な大人の女性じゃなくて…」と言ってしまった。
紳士的な振る舞いや、一人前のレディに対するような口調全て、自分には早すぎるような、勿体無いような気がして、申し訳なくなってしまったのだ。

今日一日で、随分と、いずみ自身、自分の思考に変遷があった。
鵺の言葉、ウラの言葉、それぞれが頭を巡り、結局自分は、未だ子供でしかないと深く自覚する。

諦めるのではない。
受け入れた上で、自分が出来る事を探す。
そんな事に漸く気付けた子供の自分に丁寧に振舞ってくれる兎月原の優しさは、どうにもいずみには荷が重かった。(しかも、仮病だし)
だが、兎月原は、心底意外なことを言われたという風に目を見開き、それから首を傾げると、「…君は、素敵だよ」と真顔で言う。
いずみは、余りの言葉に、一瞬で、赤面してしまうのを自覚しながら「す…素敵じゃないです。 子供です。 色々未熟で、分ってなくて、それでも、大人に憧れて…成長したいって、こんな自分から、変わりたいって足掻いてる、子供です…」と訴えれば、「変わらなくて良いよ」と兎月原は言った。
「そのままでいいよ。 充分、君は素敵だよ。 どうして、焦ったの? 大人とか、子供とか、実は、この世では、そんな線引き大した事じゃないって、俺は思うな。 いずれ、時が経てば、飛び越えられる境界線なんて、然程重要じゃないだろう? それよりも、素敵か素敵じゃないかが、大事じゃないか? みんな、素敵を欲しがってる。 君は、それを、その手に一杯抱えてる。 君は素敵だ。 他の女の子がみんな羨むくらい素敵だ。 ねぇ、いずみさん。 それ以上に、君は自分に何を望むの?」
目を見開いたまま、兎月原の言葉に、何も言い返せなくいずみ。
その内、玉間に辿り着き、壁際に置いてある柔らかな猫足のソファーにいずみをそっと降ろす。
「もう少し、君は、自分に優しくなっても良いと俺は思うよ? 今の君を、肯定的に認めてあげなきゃ、毎日頑張ってる君自身が可哀想だ」
兎月原に顔を間近に寄せられ言われ、混乱と、緊張と、胸のドキドキと、色んなものが入り混じり「あー」とか「うー」とかしか言えなくなってしまったいずみは、「そ…そうでしょうか…?」と辛うじて、それだけ呟き頷いた。

だって、自分が素敵だなんて、そんな事、心から認められる人がいるなら、会ってみたい!

だけど、そんないずみの逃げ腰を、許さないと言うように、「俺の言葉が納得できないって言うのなら、今から君がどんなに素敵か、全部言葉にして教えてあげようか? 毎日だって、君の耳元に囁いてあげられる。 君が降参!って、白旗上げるまでね?」と、至って本気らしい声で言われ、ただでさえ、ゾクゾクと、甘い震えが背中や腰に走る声に、毎日囁かれ続けたら、自分が完全にダメになってしまう事を、如実に悟ると、恐怖心すら滲ませつつ、ブンブンと首を振り「もう…降参です!」と、震える声で兎月原に敗北宣言をした。
ゆったりとした笑みを浮かべ「よろしい」と言っていずみの頭を撫でる兎月原。
その指先からすら、甘い痺れが走るようで、自分が、もっと年を重ねていたならば、即座に落ちてしまっていた事を確信する。
「あれ? お邪魔でした?」なんて、傍目には完全に小学生児童を口説く、いけないおじさん状態になっていた兎月原に、からかうように幇禍が言いつつ、玉間に現れ「邪魔だよ。 折角、お姫様を誘惑してる真っ最中だっていうのに」と答えて兎月原は立ち上がると「とはいえ、俺程度の男には、これ程の女性は靡いてくれそうになくってね。 騎士役は譲るから、無事、この子のお城まで届けてやって下さいね」と幇禍に告げる。
「はい、了解です」と幇禍も笑って答え、再び中庭へと戻る兎月原を見送ると、幇禍が、「あと、もう少ししたら、扉が開くそうなので、一緒に帰りましょうね?」と笑って告げた。


『Case.4 魏・幇禍』


いずみは、友人を守る為とはいえ、幇禍にとっては不利益な思惑の為に、彼に手間を掛ける事に罪悪感を抱き、「何から、何まですいません。 幇禍さんも、お忙しい身の上でしょうに…」と、気遣う。
「あ、いや、俺、今、家庭教師の仕事はやってないんで、そういう意味では、そんなに忙しくないんですよ。 まぁ、だからこそ、こんなトコに来れてるんですけどね」と笑い「あ、そういや、いずみさんって、お嬢さんと仲良かったですよね? ご存じないです? お嬢さん何処へ行かれたか」と尋ねてくる。

いずみは、自分が不用意な事を言ってしまった事を後悔しつつ、平然とした表情を心掛けながら「あら? そういえば、今日も一緒じゃなかったし…また喧嘩ですか?」と問い掛けて「似たようなものです」と幇禍も、まるで、何も異常な事はないかのような普通の顔で答えた。
「なーんか、俺、ずっと、あの人の後、追っかけてばかりいるような気がするんですよねぇ…」と愚痴るように言う幇禍の口調は、恋人の行動に思い悩む、極普通の若者と同じ様子で、その事に、いずみは例えようのない恐怖感と違和感を覚える。
「逃げるんですよ。 絶対に俺から。 目の前で姿を消してしまうんです。 俺は、いつでも、いつも、お嬢さんを探してて、それが時々辛い」
深く立ち入れば、ボロが出そうで、いずみは「そうなんですか…」と当たり障りのない答えを返し「子供には、少し難しいですね」と、自嘲めいた言葉を吐いた。
「子供…? ああ、そうか、いずみさんって、なんか、大人びてるから、俺、一瞬、その事忘れてた…」と幇禍が、呟く。
「そう考えると、お嬢さんも、まだ、子供なんだよなぁ…。 なのに、どうして、あんなに、あの人は、俺を振り回すんだろう?」
「子供だから、大人を振り回すんですよ」
いずみは、大人びた事を言い、幇禍は「そういうものですか…」と頷くと「…やっぱ、子供っぽくないですね。 いずみさんは」とからかうように言った。

「でも、もうじき、何処にも逃げられなくなります」
「え?」

穏やかな会話の延長線上にあるように、幇禍は平和そのものの表情をして言った。

「だって、俺がこの手で殺しますから」

寒気がする。

だって、この人、こんなに静かな声で、鵺を殺すだなんて…。

幇禍の口から直接聞いて、漸くいずみは、この人、狂っているんだ…と、心底確信した。

どう答えれば良いのか分からない。
だって、余りにも普通の顔で、きっと、彼は何も自分が異常なことを言ってるとは分かってなくて、だから、どう言えば…、どう言えば、鵺を少しでも守れるのかなんて、そんな事…

「どうして…ですか?」

考えが及ばぬままに口を開いていた。
幇禍が、静かな眼差しでいずみを見つめてきた。

「鵺の事、好きじゃないんですか?
「大好きです。 この世の何よりも」
「じゃあ、どうしてですか?」
「だからです。 大好きだから、殺すんです」

言葉なんて通じないよ。

分かっていた、それでも言わずにいられなかった。

「それは、好きじゃないんですよ。 幇禍さん、鵺の事、好きじゃないんですよ」

いずみの言葉に表情を変えない幇禍は、それでも口を噤んだままいずみを見つめ続ける。


「相手の事を思いやれない感情の名前に『好き』って言葉を付けないで下さい」

「じゃあ、愛しています。 お嬢さんの事を」

静かに言う幇禍は、全くもって、いずみを子ども扱いしていなかった。
一人の人間として、言葉を交わしていた。
そういう、常識とか、認識自体が、彼から剥がれ落ちているような印象を受けながら、同時に、今やっと、いずみは、自分を何処にも立ち入り禁止にしない存在を目の前にして、恐怖を感じずにいられなかった。

この男は、躊躇なく私を傷付けるだろう。
この男は、躊躇なく私を苦しめる事が出来るのだろう。
この男は、躊躇なく私を殺すだろう。

子ども扱いされないと言う事は、こういう事か。
子供を殺戮の対象として認識する事を厭わない、幇禍の平等性は、いずみにはむしろ新鮮で、だからこそ、普段どれだけ自分儀色々な人間に守られてきたかを悟らずにはいられない。

「…殺しませんよ。 俺の邪魔さえしなければ」

ふっと、息を吐き、幇禍がいずみの気持ちを見抜いたかのように告げる。
だが、いずみは怯えを凌駕した、充実感を確かに感じながら、自分が今大変危険な状況にある事すら忘れて言ってしまった。

「愛してるんですか? 鵺の事」
「そうです。 愛ならば納得して貰えますか? 俺の殺意に」
「いえ、それは、尚更納得できません」
いずみは、きっぱりと答える。

「私は子供なので、頑是無い事を言いますが、愛を言い訳にするのは、尚更、間違いだと思います。 人間は、余り、愛するという事に不向きな生き物であると、常々思ってはおりましたが、貴方の場合は、0点です、落第です」
いずみの言い方に、幇禍は目を見開き、「落第…ですか…」と若干落ち込んだように、肩を落とす。
「はい。 愛してるから、殺すという事はありえないんです。 貴方がどういう理由で、鵺の命を狙っているにせよ、相手を『殺したい』と思った時点で、それは、愛ではないんです。 もっと、幸福なものです。 愛って」
そういずみが言い、「どうして分るんです? そんな事。 『子供』なのに」と、幇禍が揶揄するように言えば、「だって、人間って大人になればなる程馬鹿になっていく生き物でしょう?」と、いずみはシレッと嘯いて「あなたに、鵺は殺せないと思います」と告げた。

「どうして?」

「私が許さないから」

強い声。
幇禍が静かな眼差しのまま「だったら、俺、貴方の事殺しますよ?」と告げる。

「あなたに何が出来るんです? 子供の貴方に」


玉間に光の扉が現れた。
ベイブが用意してくれた出口だろう。

「行きましょう?」

優しく笑い、足を進める幇禍の後に続く。
いずみも理解した。
この物騒な会話の後ですら、いずみに、幇禍は親切に振舞う事ができるのだろう。

だって、彼にとって、鵺以外の存在は「無」に等しい、どうでも良い存在だから。
彼は皆に申し出たとおり、いずみを無事家まで送り届け、別れ際には笑顔で手を振り、そして婚約者の姿を探して東京を彷徨い続ける。
いずみが、鵺の殺害を阻む為に立ち塞がれば、即座に殺し、鵺に対しても「愛してる」と心から言いながら、向けた銃口の引き金を躊躇いなく引くのだろう。

矛盾はない。

きっと、彼の中には。


先に光の中に足を踏み入れた幇禍に続いて、光の円陣に足を踏み入れようとした時だった。


唐突に扉が開かれた。
まるで運命に導かれたように、そこに鵺が立っている。


嗚呼。


何故か、鵺は笑って、大きく手を振った。
まるで、ここに幇禍がいるのを知っていたかのように。
光の外に飛び出そうとして、一度足を踏み入れたら、もう抜け出せないのか、幇禍が足掻く気配がする。
そして、脱出を諦めたのか、「…お嬢さん?」と呆然とした声で幇禍が呟くのをいずみは聞いた。
その瞬間、幇禍が懐に手を入れ、素早く銃身を鵺に向かって構えようとするのを悟り、咄嗟にいずみは、鵺の前に駆け寄り、二人の間に立ちはだかる。

何をしているのか、分からない。
さっき決めたのに。
たった一つだけ、何をおいても守るって。
こんな風に自分が首を突っ込まなくったって、鵺は凄い能力を持っていたのだもの。
無駄に自分を危険に晒しているのかもしれない。
私のしている事は余計なお世話で、何も分からないままに、自分の我が儘を押し通そうとしているだけなのかもしれない。

それでも。

目の前で友達が撃たれようとしている。

理屈じゃない。

命を懸けるのに、理屈はいらない。



「いずみ?!!!!」

鵺が叫ぶ。

いずみは両手を広げたまま、幇禍を睨む。

宣言どおり、幇禍は一瞬も躊躇わなかった。

銃声が、響き渡る。
異常なまでに発達した視神経が、くっきりと、その銃弾の軌道を捉える。

ベクトル変換。

弾丸は、反射され、幇禍の頬を霞めて、背後にある玉間に穴を開けた。




子供と侮っていたら、火傷じゃすまない怪我をするよ?




予想外と言うようなな表情を浮かべていずみを凝視する幇禍に凛と告げる。

「私は、確かに、ただの子供です。 でも、大事な友達位は守れるんです!」

膝がかすかに震えていた。
みっともない。

しっかりしろ、いずみ!

自分を叱咤するいずみから、幇禍は視線を逸らし、鵺を見つめて優しげに微笑むと、小さな声で「見つけた…俺の鵺」と呟いた。

狂ってる。
確信するいずみの背後で、鵺が答えた。


「次にお会いする時を 
   
    心より
     
      お持ち申し上げます」


聞くものの背筋を震わせるような、掠れ、色めいた囁き声。
幇禍は、そんな鵺を飢えたように凝視しながら、光の中に消え果てる。

男女の仲とは、かくも複雑怪奇を極めるものなのか。
これ以上は、確かに立ち入り禁止区域。
男と女の話になるのだろう。

そう悟り、やれるだけの事をやったという充実感を噛み締める。

大人だろうが、子供だろうが、大事だろうが、そうでなかろうが、信念、人情、義理、美学、そんな理屈をすっ飛ばし、どうしようもない時は、自分は体が勝手に動く人間である事を知ってしまい、何だが、その本能的な感覚に「案外、私って野蛮人…」と少し落ち込む。
絶対嫌なのだが、竜子みたいだ…と、本能だけで生きてるような女の顔を思い浮かべ、まぁ、それでも、結論が出ただけ良いのかと、何だか吹っ切れた気持ちになった自分に気付く。

理屈じゃない。

鵺が、「ありがとう」と心からの声で言ってくれた。
それだけで、命を懸けた甲斐があったなんて、酔狂な事を思えた。
「守ってくれてありがとう。 いずみのお陰だよ」
鵺の声が震えていた。
だから、振り返らないようにした。
きっと、彼女は今の自分の顔をいずみに見られたくないだろう。
いずみが今、少し震えている自分に、彼女に気付かれたくないように。
鵺は「ありがとう、いずみ」と礼を述べる。

いずみは、暫く黙って立ち尽くしたまま、ぼんやりと、神様に鵺が、無事にいられるよう、祈り続けていた。

きっと、この先自分が鵺のために出来るのは、祈る事だけなのだと、理解して。




『エピローグ』



現世に戻り帰宅したいずみは、何て休日だったのだろうと、ぐったりしつつも、随分と心が軽くなった事に気付く。

鵺はきっと大丈夫だ。
根拠なくそう思う。
兎月原に言われた言葉が効いているのかもしれない。
何だか、少し、自分が能天気になったような気もする。
鵺は負けない。
だって、私が許さないから。

ケ・セラセラ。
これは鵺の言葉だっけ?
なるようになる。
そう、大丈夫。

私もいつか、目指す自分自身になれる。
今日出会った人々の、一つ一つの言葉を思い出し、最後に、再び、鵺の無事を心から祈ると、いずみはすっきりとした気持ちで、ベッドの中に入った。




fin



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【3427/ ウラ・フレンツヒェン  / 女性 / 14歳 / 魔術師見習にして助手】
【2414/ 鬼丸・鵺 / 女性 / 13歳 / 中学生.面打師 】
【1271/ 飛鷹・いずみ   / 女性 / 10歳 / 小学生】
【7521/ 兎月原・正嗣 / 男性 / 33歳 / 出張ホスト兼経営者 】
【3343/ 魏・幇禍 (ぎ・ふうか) / 男性 / 27歳 / 家庭教師・殺し屋】



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■         ライター通信          ■
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少数受注ノベルという事で、私の集合ノベルとしては、いつもの半分の、5名受注にて書かせて頂いたにも拘らず体調不良等の事情により、納品が遅れましたことを心よりお詫び申し上げます。
これに懲りずに、また、お会いできます事を心より望む次第です。

それでは、少しでも楽しんでいただけたら幸いです

momiziでした。