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いきなり!新婚旅行
零が行きつけのスーパーマーケットは、昼間になると井戸端会議をする奥様方でごった返す。まずは家を出る前にテレビで見たワイドショーのネタで盛り上がるが、しょせん自分たちからは年齢も世界も遠い次元の話である。それほど盛り上がれるわけでもない。そんなネタで少し場が暖まってきたら、身近な話題で一気にヒートアップしようというのがいつもの流れだ。たとえそれが根も葉もない噂であろうとも関係ない。この時間がそれなりに楽しくなればそれでいいのだ。むしろ適度に虚構が混じっていれば、本人たちの食いつきもよくなる。あまり身近な話は己を危険に晒すこともあるし、家庭に戻った時、疑心暗鬼の種にもなりかねない。現実と非現実の狭間に浮かぶ、中途半端な話題がこういった場では好まれるようだ。
零は奥様方から『丁寧に挨拶するいい子』と評判だ。それに加えて、兄の武彦譲りの聞き上手が幸いして人気がある。しかし『人気があればいい』というものでもないらしい。店に入るタイミングが悪いと、何度も奥様方に捕まって3時間くらいは出れなくなる。もちろん零が話のネタを提供することはないが、野菜コーナーや精肉コーナーなど移動した際に呼び止められ、そのたびに似たような話を何度も聞かされるというわけだ。本人はそんなことを気にもしていないが、買い物ついでにタバコを頼んだ時の武彦はたまったものではない。ヘビースモーカーにとって、タバコのない時間は地獄以外のなんでもない。武彦は何度かこういう目が遭っていたので、いつしか零にタバコを頼まなくなった。タバコが切れたら、自分で買いに行く。それが草間興信所の小さな約束になっていた。
ある日のこと。
零はいつものように買い物にやってくると、まず奥様方の輪がいつもより大きいことに気づく。しかもそれがいくつも点在していた。こういう時は決まって『ご近所の最新の噂』をしているのだが、この日に限っては零も無関係ではなかった。いや、無関係ではいられなかった。
「あ〜ら、零ちゃん。お兄さんは元気ぃ〜?」
「ええ、兄さんは元気ですけれども……それが何か?」
「ここだけの話なんだけどねぇ。お兄さん、新婚旅行に行くらしいじゃないのー!」
「っていうか、結婚式が先だと思うけど、もう済ませちゃったのかしらねぇ……」
「今は婚前旅行なんて堅苦しいことも言わないですしー、帰ってきてから挙式なんじゃありません?」
「そーゆー風に考えるものなのかしらねぇ、今の新婚さんって。私たちの頃とは大違いだわねぇー。」
これは寝耳に水。零は奥様方の一言一句に頷きながら、重要な部分は聞き逃すまいと前のめりになった。しかし兄が結婚するなんて聞いてないし、ましてや新婚旅行なんて……腑には落ちない点が多くあったが、これらの噂が『情報』であることには違いない。零は話の輪から抜け出すと次に行き、また同じような話が出るのを待った。そして無意識のうちに情報の精査を行う。結局この日はいつもよりも長い間、スーパーマーケットに居座ってしまった。
興信所に帰ると、武彦がいた。いつものように軋むソファーに寝そべって、だらだらと新聞を読んでいる。正直、とても婚前の男には見えない。零は食品などを片付けると、さっそく兄に話しかけた。
「兄さん、新婚旅行に行くんですか?」
「ん……お前もしかして、スーパーでそのこと聞いたのか?」
零が「ええ」と頷くと、武彦はにやりと笑った。そして素早く身を起こすと、妹にいくつかの質問を投げかける。
「誰がお相手か、聞いたか? どこに行くか、知ってるか?」
「えっと、どっちも詳しくは聞いてないです。」
「よしよし、これで準備はできた。あとは俺が……」
それを境に武彦は仕事を始めた。どうやら難しい仕事を抱えているらしい……少なくとも、零にはそう見えた。だからいつものように、彼女は頼れる人物に連絡を入れる。そう『兄が新婚旅行に行くんですけれども』と安易に言ってしまうのだ。だらしなく流れた噂と零の良心が狂想曲を奏で、草間興信所に勘違いの嵐が吹きすさぶとは誰も予想していなかった。
「で、何か言うことはないの?」
事務員のシュラインは草間の前に立ち、腰に手を当てたポーズのまま動かなくなった。三十路を哀れんで周囲がお見合いのセッティングまでするほど浮いた話のない所長が、結婚を飛び越えて新婚旅行とはとても考えられない。彼女も頭ではわかっている。いかにおかしな状況かは十二分にわかっている。だがらこそ、納得できる説明がほしい。それが今の彼女の気持ちだった。ところでシュライン本人はまったく気づいていないようだが、実は草間兄妹が遠慮するほどの迫力を体中から放っている……それに加えて無言。とても話を切り出せる雰囲気ではなく、ふたりとも首をすくめて黙りこくってしまった。
とても耐えられない重圧を変な方向に導いたのが、興信所の常連である冥月だった。零からの電話で事情は知っている彼女はあえて怖いお姉さんをスルーして、緊張で固まっている武彦の元まで歩み寄る。そして何も語れないのをいいことに、冥月は札束を出して武彦を弄ぶ。
「結婚するんだってな。聞いたぞ、献身的な妹からな。お祝いに旅行代を出してやろう。世界一周でもドバイで豪遊でも何でもできるぞ。お前の思うがままだ。」
「あら、素敵な新婚旅行ねー。そうなったら大きなトランクにいっぱいの下着がいるわねー。じゃあ私はその準備でもしようかしらー。」
さすがの冥月もシュラインの笑わない表情から放たれる冷たい棒読み口調を聞くとぞっとする。どうやら武彦は、完璧にシュラインを怒らせてしまったらしい。まぁ、原因は冥月の悪乗りにもあるのだが……もちろん本人はそんなことなどお構いなし。自分に火の粉が降りかからなければそれでオッケー。ここはしばし武彦をおちょくろうと、いつものソファーに腰掛けた。
すると優雅だが控えめな衣装に身を包んだ女性が、開け放たれた扉から静々と登場する。彼女は「失礼します」と扉の前で一礼すると、武彦の前にやってきて自己紹介を始める。
「この度の新婚旅行のお手伝いをさせていただくエリヴィア=クリュチコワと申します。どうぞよろしくお願いいたします、草間武彦様。」
「う、うう、おお、よ、よろしく……」
メイド服の可憐な女性を前に、いよいよ苦しい表情を見せる武彦。そんなことはお構いなしに荷造りをはじめるシュライン。その表情を見てニヤニヤする冥月。そしてとりあえず人数分のお茶を出そうとする零……すでに場は混沌としていた。トロッコの速度は勢いを増すばかり。いよいよ話は核心へと突入していく。
「武彦様、旅行先のご希望などございますでしょうか。」
「ご希望だとさ、草間様。」
「ちっ、近場で……1泊2日程度……」
「ずいぶん質素だな。それとも何か、近場で豪遊したいのか?」
ご丁寧にもいちいちわざとらしく復唱し、そしてデカいリアクションをする冥月を睨みつつ、天然ボケかと思うほど生真面目なエリヴィアの質問に答えさせられる武彦。一方の事務員は黙々と作業をしているように見えるが、しっかり話は聞いているらしく、たまに手が止まることがある。だが所長にとって、それこそが最大の苦痛だ。エリヴィアは「わかりました」とだけ伝え、何やら考え始めたらしい。この合間を縫って、武彦は心の平安を零に求めようとした。
「おっ、零。ちょ、ちょうどいい。そのお茶、くれないか。」
「零、お茶はお客に出すのが先だろ? こっちに来て兄さんについて話そうじゃないか。」
彼に平安は……訪れなかった。零はお茶だけ渡すと、冥月の隣にちょこんと座る。彼女の顔に不安げな表情はなかったが、実は「兄の結婚」というものにピンと来てないのだろう。冥月も『シスコンの奴が妹より先に他言するとは信じ難い』と目していた。しかし冗談でも結婚するというのなら、ほんの少しだけどんな相手なのかに興味がある。それを聞き出すため、そして武彦で弄ぶために零を確保したのだ。彼女は茶を一口すすると、デカい態度のまま質問を始める。
「ああ、うまい。ところで草間の結婚、どう思ってるんだ?」
「え……兄さんだけで決めたことではないでしょうから。別に……」
「健気だな。兄とは大違いだ。」
冥月がしみじみとした表情を浮かべながら頷くと、横目で見ていたシュラインもつられて頷いてしまった。それを武彦が見ていたらしく、柄にもなく目くじらを立てて怒り出す。
「おっ、お前ら……揃いも揃って!」
「あんまり騒ぐな。エリヴィアの邪魔になるだろ?」
「はっ、お前悔しいのか。そうかそうか、だったら今度お前にもいい女を紹介してやろ……ぐぼっ!」
勢いに任せて景気よく言い放った冗談は、相手に喉を突かれて最後まで言うことはできなかった。冥月は「私は女だ」と崩れ落ちる武彦に言い放つと、零への質問を続ける。そう、彼女は常人には見えないスピードでツッコミを入れたのだ。
「草間にはどこを旅行してほしい? そこにこっそり零も連れて行ってやるぞ?」
「景色のいいところですかねぇ。青空がきれいなところ……」
「武彦様の意識があるようなので、このまま報告させていただきます。候補地といたしまして『鎌倉ガーネットホテル』をお薦めいたします。スイートルームからは四季折々の海景色が楽しめ、観光地へのアクセスにも便利な最高級のホテルでございます。なお、費用は私の主人が用意いたしますのでご心配ありません。」
「ほら、零も行くといい。なんだったら、シュラインも一緒に行けばいいんじゃないのか? 慰安旅行の名目で。」
「いいのよ、冥月さん。私はここに残って鍵を替えておくから。」
リアルに怖いことをさらっと言ったシュラインに武彦も冷や汗を流した。こんな冗談も通じなくなっているとあっては、いよいよ物理的に危ない。シュラインがマジなら、エリヴィアもマジ。冥月はひとしきり遊んで楽しんだところで、武彦に真相を話すよう促した。これ以上やると、いろいろと面倒になると踏んだのだ。
すると武彦は素直に事情を話し始めた。話は遡ること1ヶ月前、ある名家で起こった事件に関わった際に、小学生になる娘と過ごすことがあったらしい。目立たないタイプの子で、今までも両親の言うことならなんでも守る典型的な優等生だった。そんな子どもがどこからか「新婚旅行」なる知識を手に入れたらしく、近い将来それを実現させたいと考えていたらしい。健気に話す彼女を見た武彦が事件解決の報告をする時に、両親を交えて「夢を叶えましょう」と提案したのだ。
つまり「新婚旅行」とは名ばかりで、その辺の観光をしたらさっさと帰ってくるだけの日帰り旅行なのだという。しかし彼女にとっては「新婚旅行」という響きが必要だった。ただ本人の名前を出して噂を流すとよろしくないので、ここは武彦がその役目を買って出た……というのが真相であった。
シュラインはこの話を聞くまでは嫌味で着替え満載のトランクを押し付けようとしていたが、真相を聞いて「ふーっ」とひとつだけ長いため息をつくと、武彦の前でお小言をはじめた。
「そんなに他言無用の話じゃないわよね、武彦さん? そういう時はちゃんと零ちゃんや私にも言ってくれないと。今回みたいに外で戸惑うのは私たちなんだから……まったく。」
「こ、興信所がみんなで休み取ったらまずいだろ。だから、慰安旅行するのに口実をだな……」
「慰安旅行って、それは冥月さんがそう言ったから使ってるだけでしょ?」
付き合いの長い事務員を黙らせることはできず、所長は頭を掻いた。これは完全に武彦の負けだ。しかしメイドの鏡たるエリヴィアは彼を立てることを忘れない。
「わかりました。ご予約を4名様にしておけばよろしいのですね。お手数ですが、ご両親へのご説明は武彦様にお願いいたします。そして宿泊費はこちらで負担いたします。ごゆっくりとご旅行をお楽しみください。」
「そ、そんなエリヴィアさん。こっちが気を遣うじゃない……」
「まぁまぁ、それは俺がなんとかするよ。今度の騒動は俺の責任だ。ちゃんとまとめるから、その日に旅行な。零、お前もだからな。あちらさんも賑やかな方が歓迎のようだし。」
こうして思わぬ格好で草間興信所の慰安旅行が決まった。エリヴィアは武彦に逐一報告をしている。今さらこの流れを変えることはできそうにない。どこかすっきりしないが、今回はいろんな人のお言葉に甘えるしかないようだ。シュラインはとりあえずトランクを所長の机の近くまで運んだ。
これで一件落着かと思われたが、ひとりだけ口元をひくつかせている者がいた……そう、冥月である。こんなバカバカしい話に付き合わされたのかと思うと我慢ができなくなり、無意識のうちに自らの能力で鞭を作り出したかと思うと、その一閃は的確に武彦の尻を捉えた!
ピシッ!!
「うんぎゃあぁぁぁーーーーーっ!」
「人が仏心を見せてやったというのに、なんて下らないオチなんだ……お前には久々に地獄の制裁フルコースだ。シュライン、手を出すな。」
「止めたってするくせに……」
「そういうことだ。」
武彦は縄で縛られ、この後2時間たっぷりフルコースを味わうこととなった。彼にとって不幸だったのは冥月のお仕置きではなく、エリヴィアが密かに一部始終を録画していることであった。実は主から密命を帯びており、今回の事件のすべてを隠し撮りしていたのだ。さすがはできるメイド・エリヴィア。お仕置きまで事件と判断して映像に収める手際のよさは褒めるしかない。
ご近所まで巻き込んだ騒動は武彦の悲痛な叫びで幕を閉じたのであった……
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号/ PC名 /性別/ 年齢 / 職業】
0086/シュライン・エマ /女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
2778/黒・冥月 /女性/20歳/元暗殺者・現アルバイト探偵&用心棒
7658/エリヴィア・クリュチコワ /女性/27歳/メイド
(※登場人物の各種紹介は、受注の順番に掲載させて頂いております。)
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■ ライター通信 ■
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皆さんこんばんわ、市川 智彦です。納品までにお時間を頂き、本当に申し訳ありません。
今回の事件……というか、騒動ですね。こんな感じでまとまりました(笑)。
最近は草間興信所の日常的な風景を書いてなかったので、個人的には新鮮でした!
それでは通常依頼やシチュノベ、特撮ヒーロー系やご近所異界でまたお会いしましょう!
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