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桜の木の下で
<オープニング>
桜が舞う。
ひらひら、ひらひらと。
一人の男がその桜の木下に居た。
男は泣いていた。
静かに、静かに涙をこぼしていた。
誰に見られようともかまうことなく泣いていた。
美しい黒髪を持つ、着物姿の男。
その美しい男の噂は水の波紋のように静かに広がっていった。
その噂がアトラス編集部の碇編集長の耳に入るにはさほど時間は要さなかった。
*
「……桜の木下にたたずんで嘆く美しい男性……ですか」
碇編集長に書類を渡されたチェルノは、書類を眺める。彼女の目の前にいる、オカルト雑誌の碇編集長は、彼女の言葉にうなずいた。
「アルバイトの中で、あなたが一番適任じゃないかなって思ったのよ。どう? やってみない?」
チェルノは書類を眺めてから顔を上げて、少しだけ笑った。
「……ふふ……いいですね……キノコの繁殖に好ましい湿度を感じます……」
「そ、そう、ありがとう」
キノコを好むチェルノは、碇編集長の引きつった笑顔に気づかず、再び書類を眺めた。書類には美しい桜の木が一本、寂しげにたたずんでいる写真が添えられていた――。
*
風が吹く。桜の木が一本だけたたずんでいるその場所は、荒れ野原だった。桜の木以外は雑草に埋もれているその場所は、都会の喧騒の中でも長い間人の手が入っていないようだった。チェルノの望んでいたキノコは生えていなかったものの、全体的に寂しい雰囲気の場所だった。
チェルノが必死に情報を集めたところ、あの桜の木は近々家を建てるために切り倒されてしまうといううわさを耳にした。美しい桜の木なので、両手を挙げて賛成する者はいなかったものの、住居事情や荒れ野原をどうにかしたかった者の後押しもあり、伐採の案が挙がったのだという。
チェルノは風に吹かれながら、花びらを落とす美しい桜を眺めた。
しばらく我慢比べのように眺めていると、桜の木の下の空気がまるで陽炎のようにゆがむ。明らかに陽炎ではないと思ったのは、夏ほど暑くない気温のためと、一部だけ大きくゆがみを見せたためだった。
チェルノはその陽炎のようなゆがみを見つめながら、桜へと近づいていった。チェルノが近づくころには、桜の木の下に一人の男が現れていた。
黒く滑らかな長い髪と、濃紺の着物を身に着けているその男は、チェルノに気づいているのかいないのか、はらはらと涙を流していた。
「あの……」
チェルノが声をかけると、涙にぬれている男の瞳がまっすぐチェルノを捕らえる。
「何か?」
彼が声を発した瞬間、チェルノの脳裏にひとつの声が聞こえた。
―――会いたい
誰に?
―――彼女に、会いたい
―――愛している、彼女
―――美しい離れていってしまった人
「あの」
男の声にチェルノははっとわれに返った。彼の心の声が流れ込んできたということは明白だったので、ゆっくり、男に近づいた。
「……あの、誰に……会いたいのですか?」
男はチェルノの言葉に、大きく目を見開いた。まさか初対面の人間に言い当てられるとは思っていなかったのだろう。男の驚愕した表情に、さらに追い討ちをかけるかのように、チェルノは言葉をつむぐ。
「……愛している……人に会いたいのですね」
「……ああ」
男はまぶたを閉じ、また一筋の涙を流した。
「数年前のことだ。ここに一人の少女がよく遊びに来ていた。人間の若い女が遊びに来るのは珍しく、私は彼女の前に姿を現した」
話し出す男の声に、チェルノはゆっくりまぶたを閉じた。
「美しく優しい娘だった。だが、ある日、彼女は突然ここを訪れなくなった。私は桜の精だ、自らの体がある範囲にしか現れることができない。娘を探すこともかなわぬまま、今は伐採を待つのみだ」
寂しげな声音には、伐採よりも娘と二度と会えなくなることを嘆く響きがあった。
「わたくしなんかがお役に立てるかどうかわかりませんが……その方を探し出すお手伝いをさせていただけませんか」
「探して、くれるのか?」
「はい」
男の顔に笑顔がよみがえる。
「頼む……娘の名前は東堂 可憐だ。それ以外の情報はないが、頼む」
「はい」
桜の精の言葉をかみ締めるように頷いて、チェルノは彼に背を向けた。
「東堂 可憐?」
「はい」
何度目の聞き込みになるかわからなかったが、チェルノは人通りの少ない住宅街の一角で一人の老婆に声をかけた。
老婆は考え込むようにしわくちゃの顔をゆがめると、思い出したかのようにぽんっと手をたたく。
「ああ、あれね、東堂さんの娘ね。たしか数年前から桜木病院に入院しているはずだよ。お嬢ちゃん、東堂さんの娘さんと友達なのかい?」
「いえ……ありがとうございます」
ふふふと不気味に笑い出したチェルノに、老婆は面食らったようだった。チェルノはそんな老婆の様子に気づいているのかいないのか、歩いて桜の精の元へ向かった。
(病院……あの場所に来るのは難しそうですね……)
数年も入院しているような重い病気では桜の木の元へいけなかったのも無理はない。
桜の精と相談しなくてはならないことが山のようにあった。
チェルノがぼんやりしながら歩き、桜の木が生えている荒れ野原にたどり着くと、桜の精が姿を現した。
「どうだった?」
明らかに緊張しているのが伝わってくる。チェルノはついふふふと笑ってしまった。
「可憐さんは、数年前から桜木病院に入院しているようです……重病ならここに来ることはできません……」
「病気、なのか」
「おそらく」
桜の精は、長いまつげを伏せた。チェルノは彼が涙を流すのではないかと考えたが、その予想は大きく外れることとなった。
「……では、女、頼みがある」
静かで冷静な声音。チェルノは思わず首を傾げてしまった。
「はい?」
「私の枝を切ってくれ。そして、なるべくすぐに枯れないようにして、彼女の元へ運んでほしいのだ」
「?」
「私は私の本体がいる場所だったら現れることができる。彼女を、見守ることができる」
桜の精の瞳には深い決意が宿っていた。チェルノは彼の言葉にゆっくり頷いた。
*
病室の名前には『東堂 可憐』と書いてあった。一人部屋。彼女が重病患者であることを思わせる。幸いにも面会謝絶の文字はなく、チェルノはすんなりと病室へ入ることができた。病室を眺めると、チェルノが入ってきたことに気づいているのかいないのか、一人の少女が窓の外を一心に見つめていた。頭には包帯が巻かれ、病院特有のパジャマが痛々しい。
「あの……」
チェルノが声をかけると少女が、今人の存在に気づいたかのようにゆっくり振り向いた。黒い瞳は濡れている黒真珠のように美しい。
「はい」
「あなたに……会わせたい人がいます」
チェルノはそういい、桜の枝を彼女のそばの棚に置いた。
彼女は不思議そうな顔で、その枝を見つめていた。
一瞬の沈黙の後、大きく空気が揺らめいた。
ベッドのそばで起こったその不思議な現象に、彼女は目を細めた。
桜の精が現れた瞬間、少女の顔に驚愕が広がり、それから大きな瞳に涙が溜まっていった。
「あ、あ」
「久しぶり、可憐」
「どうして……」
「この人に頼んだ。どうしても、死ぬ前にお前に会いたくて」
「死ぬ……?」
「私は伐採されるのだ」
「そんな……」
「いいのだ、私は生きた。お前のいるこの時代に死ぬのも悪くはない」
桜の精はそういって、可憐を抱きしめた。
チェルノは、彼らに気づかれないようにそっと扉から出て行った。
「美しき……愛、ですわ」
この取材の記録をどのように碇編集長に伝えようかと、チェルノは考えながら歩き出した。
END
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号/ PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【7808/チェルノ・チェトリーリャ/女性/23歳/元ハウスメイド】
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■ ライター通信 ■
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チェルノ・チェトリーリャ様
依頼、ありがとうございます。
自分なりに精一杯書かせていただきました。
次回も精進していきますのでよろしくお願いいたします。
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