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<東京怪談ノベル(シングル)>


     アクア戦記 〜人魚姫と海の魔女〜

 扉以外の壁を本におおわれ、床にも沢山の本が積み重ねた部屋には、燭台の炎だけが揺らめいていた。
「元々は、何の危険もない魔本なんですよ。物語の中に入って、それを疑似体験するものです。怪我をしたって痛くないし、本を出れば元通り。ゲームオーバーになれば強制退出、という形のシリーズでして……」
 汗を拭きながら、男は言った。魔力のこもった本の売買が彼の仕事だが、そのシリーズは貸出も行なっていて、色んな冒険ができると人気なのだそうだ。
 テーブルの上に置かれた本は立派な装丁で、表紙には海を泳ぐ人魚の絵が描かれていた。
 一見すると、普通の童話のように見える。
「――それが今では、魔力が狂ってしまい、暴走している……ということですわね」
 イアルは静かに答えて、湯気のたちのぼるティーカップに口をつけた。
 香りはよいが、抽出しすぎたのか若干渋みが出てしまっている。
「えぇ、その通りです。何故か、この本だけなんですよ。物語にそってクリアしなくては出られませんし、その条件も難しいものに変わってしまっているようで。何とかしていただけませんかね」
 この依頼人とは初対面だが、どうやら呪われた物品の解除や修復を請け負っていることを人づてに聞いたらしい。
 イアルはカップをソーサーに置き、足を組みかえる。
 そして金色に輝く髪をかきあげ、微笑んでみせた。
「わかりましたわ。お任せください」

  ***

「ただいま」
 勤めを終えて自宅に帰ると、カスミは室内に声をかけた。
 返事はなかったが、浴室の方からかすかにシャワーの音が聞こえた。
 そのままヒールを脱いで中に入る。
 鞄を置いて、リビングのソファーに身を沈めた。
 そこで、テーブルの上に一冊の本を見つけた。
 ハードカバーで、装丁の凝った古い本だ。
「あら、綺麗な絵ね。童話みたいだけど、イアルさんのかしら」
 カスミは何のためらいもなく、その本を手にとってパラパラとめくった。
 すると本が光り出し、引きずり込まれるような感覚を覚える。
「きゃっ」
 短い悲鳴と共に、カスミの姿はかき消えてしまった。


 気がつくと、彼女は表紙に描かれていた絵と同じように、人魚の姿になっていた。
 耳が長くひらひらしたヒレに変わり、喉元のエラで呼吸をする。
 そして腰から下は、人の足ではなく尾ビレになっていた。
 場所も自宅ではなく、碧い碧い海の底。
 赤や黄色、緑など色とりどりの珊瑚礁や揺れる海草の合間を、小さな魚たちが群れをなして泳いでゆく。
 ――私、きっと夢でも見てるんだわ。
 カスミは自分の両頬に手を当て、自身の尾ビレをまじまじと見つめた。
 真珠や珊瑚、貝殻を使ったアクセサリーまでまとっていて、まるで人魚姫のよう。
 それならいっそ、夢を堪能してしまおうと、カスミは海の中を泳ぎ出した。
「カスミ姫、カスミ姫。あまり奥にいっちゃいけないよ」
「向こうの方には、アレがいる。近づいたら危ないよ。父王様に怒られるよ」
 魚たちが、歌うように声をかけてくる。
 ――アレって、何かしら。
 カスミはその言葉に興味を抱いた。
 本来なら、危険だといわれたものに近づくことのないカスミだったが、夢だと思っているせいか少し気が大きくなっていた。
 そのまま、先へ先へと泳ぎ進める。
 すると段々、景色が薄暗くなっていくのがわかった。
 水の中で乱反射する太陽の光が、ここには届かないからだろうか。
 珊瑚礁は姿を消し、泳ぐ魚も黒っぽい色の大きなものばかりで、歌声は聞こえない。
 怖い。
 そう思って、引き返そうとしたときだった。
 背後の岩場の影で、赤い二つの光が揺れた。
 
   ***

「……あら?」
 風呂からあがったイアルは、髪をタオルで拭きながら、リビングに置かれた鞄を目にした。
 カスミのものだ。
 玄関の閉まる音も聞こえたし、帰ってきているのは間違いない。
 けれど姿は見えず、気配すらなかった。
「カスミ?」
 大げさかもしれないと思いながらも、うろうろと家の中を探し回る。
 寝室やベランダ、お手洗いまでノックしてみるが、やはりいない。
 リビングまで戻ってきて、イアルはテーブルの上に置かれた本を目にする。
 ――いつの間に……?
 カスミが間違って手に取らないように、きちんとしまっておいたはずなのに、と心の中でつぶやいた。
 まさかと思って本を開くと、そこには人魚の姿で石化したカスミの姿があった。
「カスミ!」
 思わず声をあげた。
 石化? どうして、そんなことに……。
 わけがわからないながらも、彼女を助けなくてはと、イアルは自ら本の中へと飛び込んでいった。

 童話の中だからか、それとも鏡幻龍(ミラール・ドラゴン)の加護のおかげか、水の中でも不思議と呼吸には困らなかった。
 イアルが海の底に辿りつくと、宮殿に住む人魚たちはさめざめと泣いていた。
「何を泣いているんです?」
 尋ねると、彼女たちはいっせいに顔をあげて。
「姫様が、石にされてしまったんです」
「シー・メデューサの仕業ですわ」
「あぁ、恐ろしい」
 と口々に語りだした。
「シー・メデューサ?」
「海に住む、醜い怪物です。きっと、姫様の美しさに嫉妬したんですわ」    
「ひどすぎますわ。石に変えられただけではなく、砕いて迷宮に隠すだなんて」
「お可哀想なカスミ姫様!」 
 砕かれて、迷宮に隠された――!?
 新たな事実を聞かされ、イアルは青ざめた。
「砕かれたって、どういうことなの? 迷宮って一体……」
 慌てて問いただすと、カスミの石像は頭、胸、腹、右腕に左腕、そして尾ビレと6つに分断されたのだと告げられる。
 そして迷宮というのは、人魚たちでさえ恐れるサンゴ礁の迷宮のことらしい。
「あそこにいった人魚は誰一人帰ってきませんわ。恐ろしい場所なんです」
「怪物がいるという噂ですわ」
「そんな……」
 イアルは柳眉をひそめた。
 自分の身を案じたわけではなく、そんな場所に置かれていて彼女は大丈夫だろうか、と心配したのだ。
 石化の苦しみはイアルもよく知っている。
 その上、砕かれて誰も近寄らないような場所に隠されるなんて。
 臆病なカスミのことを想うと、いてもたってもいられなくなった。
 人魚に道を尋ね、迷宮へ向かう。
 ぜひ使ってほしいと、人魚たちから宝石に彩られた剣と盾まで渡されてしまった。
 
 そこは、打ち捨てられたような寂しいところにあった。
 すぐ近くに舟の残骸が沈み、岩場に囲まれているせいもあって妙に薄暗い。
 固く真っ白なサンゴが周囲をおおう様は、横たわる動物の死骸を連想させた。
 内部には、漂う海藻や泳ぐ魚の姿も見えない。
 海の中にぽっかりとあいた入り口に、イアルは息を呑んだ。
 それでも意を決して、中へと進んでいく。
 天井はところどころ隙間があいていたので、手探りならば何とか歩いていくことができる。
 迷宮の中は、外から見るよりもずっと広く、入り組んでいた。
 白い珊瑚は森のように密集して、壁をつくっている。
 その上にテーブルのような平たい珊瑚が乗っているのは、どう考えても自然の産物ではない。
 誰かがつくったものに違いなかった。
 誰が何のためにつくったのかは、わからないけれど。
 静かで、生き物の気配がしない場所だった。
 それでいて、何か恐ろしいものが常に見張っているような気もする。
 ――怖くなんかないわ。
 イアルは心の中でつぶやいた。
 本当に怖いのは、大事な人を護れないことだから。
 分かれ道になると、剣や盾から宝石をとって、進む方角にしるしを残した。
 片方の壁に手をつき、慎重に足を進めていくと、やがて行き止まりにあたった。
 何もないかと探ってみてから、分岐点まで戻り、地面にバツと書く。
 そして宝石を別の方角に移動し、今度はそっちに進んでいく。
 迷宮を進むには、冷静さを欠かないことが何よりも大切なのだ。
 ようやくのことで頭部を見つけたときには、思わず抱きしめてしまったが、その後もまた平常心を取り戻して探索を続けた。
 そんな風にして、イアルは1つ、また1つと、カスミの身体の一部を見つけていった。
 ぐるぐると回り道をしながらも奥へ、奥へと進んでいくと、何故か天井部分が高くなり、暗さが増してくるのに気がついた。
 海底を歩いているせいで気づかなかったが、どうやらより深いところに来ているらしい。
 このまま真っ暗になってしまったらどうしよう、と不安になりながらも、引き返すこともできずに前へと進んでいく。 
 そして大きな、広場のような場所に辿り着いたとき、ようやく最後の1つである尾ビレを発見することができた。
 だがそのとき。
 ズシン。
 突如、地響きがして手を触れていた珊瑚が震動した。
 ズシン。
 更にもう一度。
 イアルは宝石の剥がされた剣と盾を手に、身構える。
 現れたのは、巨大な牛の頭に蛸の足をうねらせた、怪物だった。
 石化させたのが海のメデューサなら、こちらは迷宮にすむ海のミノタウロス、というところだろうか。
「おれのイケニエ、とるやつはどいつだ!?」
 迷宮中に響き渡るような怒号だった。
「誰があなたのイケニエですって?」
 しかし、イアルも負けてはいられない。
 カスミを護るためにと、慣れない剣をふるった。
 普通の剣なら水の中では抵抗を受けるはずなのだか、人魚から預かった剣は違った。
 そんなものはものともせず、すばやく切りつけることができる。
 敵の持つ蛸足もすばやかったものの、それも一本減り、二本減りと、切りつけられる度に動きが鈍くなってゆく。
 最後には上半身から両断し、海のミノタウロスは文字通り海の藻屑と化す。
「……鏡幻龍(ミラール・ドラゴン)の力を借りるまでもなかったわね」
 イアルは金髪をかきあげ、軽く息をついた。

 イアルはかき集めたカスミの身体を1つ1つ、元通りに合わせていった。
 1ミリのズレもないよう、慎重に。
 石化した状態でバラバラになっても、死ぬことはない。
 だけど石化が解けたとき、もしも欠けていたりズレていたりしたら大変だ。
「邪魔をするんじゃないよ」
 しゃがれたような声がして、振り返ると赤い眼を光らせ、牙をむき出す老婆がいた。
 その髪は全て、縞模様のウミヘビだ。
「その子は、死ぬ運命なんだから」
「――あなたが、シー・メデューサね」
 イアルはカスミの前に出て剣を構えたが、それだけでは勝てそうにないと思った。
 その顔を目にしたせいか、石化こそしていないものの身体がひどく重い。
「鏡幻龍(ミラール・ドラゴン)、お願い。力を貸して」
 祈るように、そうつぶやいた。
 五つの首を持つ、東洋の龍の姿が頭に浮かぶ。
 いつもは見守っていてくれている、その優しく強大な力が、イアルの身体にそそぎこまれていく。
「こしゃくな!」
 老婆がイアルに飛びかかった。
 剣で応戦し、退けようとするが、猛毒のウミヘビが今にも噛みつきそうだった。
 龍の口からそれぞれ発せられる攻撃は、火炎・電撃・冷気・金属分解・石化ブレスの5種。
 塩分を含んだ海の水なら電撃が一番なのだが、他の生き物にも被害が及びかねない。
 それなら――。
 ゴォッと、勢いよく吐き出されたものは、石化のブレス。
 至近距離でそれを受けたシー・メデューサは、憐れにも一瞬にして石化してしまった。
 本来なら、他人を石にするはずの彼女が、自ら石像となったのだった。
 術をかけた本人を倒せば、石化は解ける。
 そのはずなのだが、しばらく待ってみてもカスミの身体に変化はなかった。
「――どうしてなの? 敵は倒したはずなのに……」
 イアルは困惑して、形を崩さないよう注意を払いながらも、そっとすがりつく。
「カスミ。お願い、元に戻ってちょうだい。今までみたいに話をして、笑ってよ」
 数百年もの間、石版に封じ込まれ、美術品として扱われた。
 それを救ってくれたのは、あなただったのに。
 わたしは、あなたを助けることができないの……?
 魔女を倒したところで、人魚姫を救えなければ意味がない。
途方に暮れ、涙を流すイアル。
 しかしようやくのことで思い至る。
 いつも彼女が、自分を救うときにしてくれること。
 おとぎ話のような、呪いの解き方。
 イアルは両手で彼女の頭部を支えるように手をそえると、その唇に、そっと唇を重ねた。
 すると、冷たく固かったその身体が、みるみる体温を取り戻し、元の柔らかな身体になっていくのがわかった。
 カスミはぱっちりと目をあけて、間近にあるイアルの顔を見た。
「イアル、さん……?」
「カスミ……よかった」
 イアルは思いきりカスミに抱きつき、今度は喜びの涙を流した。
「怖かったでしょう? 助けにくるのが遅くなってごめんなさいね」
「それが、怖かった……ような気はするんだけど、気絶してしまっていたから」
 照れくさそうに答えるカスミに、イアルは微笑んだ。
 とりあえず助かったことを報告しようと、二人は人魚たちの村まで戻った。
 泣き伏せていた人魚たちは、無事に戻ってきた人魚姫の姿を見て狂喜乱舞。
 魚たちも貝も、海に住むものたちが皆、歌って踊り出した。
「ハッピーエンド、かしらね」
 それを眺めながら、二人は笑い合った。
 物語はこれで、ハッピーエンド。魔力を狂わせていたらしき魔女も倒したし、これで正常に帰れるだろうと、イアルが思ったそのときだった。
「よくぞ娘を救ってくれた、イアル王子」
「――王子?」
 王様らしき、派手な王冠を被った人魚の言葉に、イアルは首を傾げた。
「その勇敢さ。力強さ。そして何より、我が娘への愛に、いたく感銘した! 娘の婿には、そなたしかおらん!」
「ええ? あの……」
 物を言う暇もなく、周り中から拍手喝采が起こる。
「そうと決まれば、早速婚礼だ、宴会だ。さぁ花嫁と花婿を飾りつけてやってくれ」 
「ちょっと待って。わたし、女なんですけど――」
 そんな言葉はなんのその。
 何人かの手によって衣装を変えられ、宝石で飾られ。半ば無理やりに結婚式が執り行われる。
「なんなの、これ……」
「いいじゃないですか、イアルさん。せっかくだから、楽しみましょ」
 カスミは未だに夢だと思いこんでいるのか、イアルと腕を組んでのんきに笑った。
 そうして二人は手に手をとって、再び元の世界へと戻っていくのだった。