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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


『夜の蒐集者』



 明滅する街灯の下、幾何学模様のワンピースを纏った少女が立っている。
 電球が切れかけており、街灯の明かりは闇を払うには心許ない。そんな中、幼い少女がぼんやりと突っ立っているさまは、見ている者を不安な気持ちにさせた。
 少女は誰かの帰りでも待ち侘びているのだろうか、人待ち顔をしている。気になって、彼女は少女に声をかけた。
「ねえ、こんな所で何してるの?」
 問いかけられ、少女は顔を上げて彼女を見た。
「誰かを待ってるの? こんな時間に危ないわ。送っていってあげるから、お家に帰りましょ」
 伸ばした手を、少女は嬉しそうに見た。飛びつくように彼女の手を握り、笑顔で言う。
「捕まえた!」
 ちくり、と握られた手が痛んだ。まるで棘でも刺さったかのよう。
 気がつくと彼女は、立っていられずにその場に崩れ落ちていた。
「お姉ちゃん、とっても綺麗ね」
 少女の、邪気の無い笑い声が響く。
「またひとつ、宝物が増えたよ。嬉しいな」
 ひらり、と少女のワンピースの裾がひらめいた。
 ──いや、裾ではない。それは蝶の羽だった。
 彼女の意識が途切れる。

 目覚めた彼女は硝子ケースの中にいた。
 虫ピンで手足を縫い留められて。
 昆虫標本さながらに。

 硝子の向こうで、蝶の少女が幸せそうな笑顔を浮かべてこちらを眺めていた。



 最初は自分が寝惚けてでもいるのかと思った。
 自由の利かない手に目を向ければ、何と虫ピンが刺さっている。
「うわぁ……」
 これは一体どういうプレイなのかしら、と咄嗟に思ってしまってから、シュライン・エマはそんな自分に思いっきり引いた。いわゆるその手の場所では、パートナーを拘束して『遊ぶ』ための器具が置かれている事もあるらしいが、いくら何でもこれはない。手には完全に穴が開き、いちおう拭われているとはいえ、ピンには血がこびりついてしまっているではないか。
 窮屈だと感じるのは、自分のすぐ目の前に硝子があるからだろう。これだけ近ければ、硝子の分子の固有振動と共鳴する周波数の『声』を出して、割って逃げ出す事も可能かもしれない。そう冷静に判断し、シュラインはいったん安堵する。
 それにしても、痛みを感じないのは何故なのだろう。シュラインは自分が少女に『捕まえられた』時の事を思い返した。刺されるような痛みのあと、言葉を発する間もなく人事不省に陥ってしまった。おそらく麻酔のようなものを投与されたのだろう。だとすると、自分の喉は大丈夫だろうか。こうして首を巡らせて自分の手の状態を確認できるくらいだから、全身が麻痺しているわけではなさそうだが。
「ねえ、お嬢ちゃん」
 声が出るかどうかを確認するのも兼ねて、シュラインは硝子の前でにこにこしている蝶の少女に声をかけた。幸い喉には何の異変もなく、普通に声を出す事ができた。
「なあに? 綺麗なお姉ちゃん」
 少女は無邪気に首を傾げる。
「このピン、外してもらえないかしら?」
「やーだよ。外したら逃げちゃうでしょ?」
「逃げられないわ。だって硝子があるじゃない」
 少女はシュラインの言葉を吟味しているのか、思案顔になった。少し考え込んでから、ぷるぷると首を横に振る。
「ダメ。人間はずる賢いから、騙されるかもしれないって教わったもん」
 シュラインは少女のその言葉に引っかかりを覚えた。この子に『人間はずる賢い』と教えたのは一体、誰なのだろう。
「ピンが刺さってるとこ、ちゃんと感覚を麻痺させてあるよ。痛くないでしょ? だから外さないよ。それに、広げてあるほうが綺麗に見えるもん」
 言われ、シュラインは自分の装いを改めて見た。寒いからと羽織っていた白のパシュミナストールが、それこそ羽のように広げて両腕に掛けてある。
「動くともっと綺麗かもよ?」
 シュラインの言葉に興味を惹かれたのか、少女は軽く身を乗り出した。けれど、すぐに我に返ったように首を振る。
「とにかく、今はまだダメ」
 くるりと背を翻し、少女は歩き出す。
「どこへ行くの?」
「採集だよ。もっともっと『コレクション』を増やして、お友達に自慢しなきゃ」
 少女の爪先が床を離れ、羽がひらりとはためく。ふわりとした動きは、まったく体重を感じさせなかった。
「硝子ケースをいっぱいにして、宝物にするんだ。他の誰も持ってないような、私だけの宝物」
「待って。もう少しだけお話ししない?」
「採集から帰ってきたら、またお喋りしてあげる。それまでいい子にしてなきゃダメだよ」
 言って、少女は開け放たれた天窓から、ひらひらと飛んで行ってしまった。
 シュラインは溜息を落とし、視線で辺りを探る。とにかく今は正しく状況確認をし、冷静に対処法を考えなければならない。
 シュラインがいるのは、無機質な真っ白い部屋だった。小さな天窓と、自分が『収められた』硝子ケース以外には何もない。そしてシュラインの横には一人の男がいた。気を失っているのか、それとも眠っているのか、目を閉じたままピクリともしない。今時めずらしい着流し姿で、どことなく風格のようなものを感じさせる容貌の持ち主だ。思わずしげしげとその横顔を眺めてから、シュラインはそっと彼に声をかけた。
「あの、大丈夫ですか?」
「……うん?」
 男は目を瞬かせ、寝惚けたような表情でシュラインのほうを見た。瞳が焦点を結ぶや否や、その顔がぱっと輝く。
「おお! 何と美しい!」
「……はい?」
「愛らしい胡蝶殿との他愛無い会話も楽しゅうござったが、何せ無粋な硝子越し、もう少し華があってもよかろうと思っておったところ。そこへ斯様に美しい女性が現れるとは、いや、囚われの身というものも存外に悪くはござらぬな」
 時代がかった口調で、男は畳み掛けるように言う。
「それがしは辰海蒼磨と申す。よろしければ御名をお聞かせ頂けましょうや」
「あ、あの、シュライン・エマです、けど」
 辰海と名乗った男の勢いに押されながら、やや当惑気味にシュラインは答えた。この男、自分が標本にされている事に、全く不都合を感じていないらしい。
「修羅院殿……? 修羅とは、美しい御姿に似合わぬ厳つい名。差し出がましい事を申し上げるようではあるが、改名をお勧め致す。……いやいや、女性は嫁げば姓を変える事も出来よう。どうでありましょう、ここで出会ったのも運命と思い、いっそそれがしの妻に……」
 標本箱に入れられた状態で初対面の相手に口説かれるとは、ある意味で稀有な体験と言えるだろう。軽い頭痛を感じながらシュラインは答える。
「いえ、あの、シュラインは名前です。エマが苗字で……」
「何と。それでは異国の御方か」
 辰海は『異国』という言葉を、『いこく』ではなく『とつくに』と発音した。現代人とは思えぬ言葉遣いと純和風の装いから鑑みるに、どうやら普通の人間ではないようだ。――標本箱の中でピンに縫い留められた状態でナンパができるくらいだから、その時点で既に普通の神経の持ち主ではないのだが。
「えっと……辰海さん?」
「水くさい。どうぞ蒼磨とお呼び下され」
 何だか一を許すと十を持っていきそうな相手だと判断し、シュラインは彼のナンパ的発言を一切きれいに黙殺する事にした。
「辰海さんは、ここに閉じ込められて何日くらいですか?」
「ふむ。かれこれ三日は経過しておるかと」
 シュラインの素っ気ないあしらいを特に気にしたふうもなく、辰海は答える。
「脱出を試みた事は?」
「ござらぬよ。そのような真似をしては胡蝶殿が悲しまれよう」
 胡蝶というのは、あの蝶の少女の事だろう。それは彼女の正式な名前ではなく、辰海が少女に冠した呼び名だという気がした。いかにもこの古風な男が好みそうな、雅な名前だったからだ。
「それがしは暫し、胡蝶殿にお付き合い申し上げる所存。が、シュライン殿は如何なさる? もし帰る事をお望みならば、この辰海蒼磨、助力は惜しみませぬ。必ずや無事にお返しして差し上げよう」
 辰海は自信に満ちた表情で、そうあっさりと言ってのけた。どうやらやはり只者ではないらしい。シュラインは彼に、首を横に振って見せた。
「私も暫く付き合う事にします。あの子の真意を確かめたいし、何より……」
 彼女は、コレクションを増やすのだと言った。シュラインが逃げたとしても、また新たな被害者が虫ピンに縫い留められてここに飾られるだけだ。それを食い止め、彼女がこんな真似を続ける事のないように説得しなければ。
「おお。では我等は暫し、『これくしょん仲間』という事になりまするな。仲間ならば、まずは親睦を深めねば。……という訳でシュライン殿、理想の男性像をお聞かせ願えましょうや。お好みの『でーとすぽっと』とやらも。あ、いやいや、それがしは紳士ゆえ、『すりーさいず』まではお訊ね申さぬ」
 嬉々としてシュラインを質問攻めにする辰海から顔を背け、シュラインは深々と溜息を落とした。これくらいの窮地は自力で何とかしなければ、草間興信所スタッフの名が廃る。とはいえ、囚われの身なのはともかくとして、ここまで臆面なく迫ってくる男が隣にいては、さすがのシュラインも調子が狂うというものだ。
「……あーあ。武彦さん、助けに来てくれないかしら……」
 辰海に聞こえないよう、思わず本音をぽろりと零すシュラインだった。



 相棒が三日ほど帰ってこない。
 それ自体は、さほど心配な事ではない。少なくとも氷室浩介にとっては。
 心配なのは相棒・辰海の安否ではなく、彼が一体どこで何をしでかしているのか、なのである。夜の蝶に誘われて怪しい店に入り、「三千円ぽっきり」という言葉に騙されてしこたま酒を飲み、後で巨額の請求を突きつけられ、それを突っぱねて店の裏に連れて行かれ、強面の男に脅され……などというのはまだ可愛い方だ。理不尽な請求額に怒り、暴れて店を壊滅状態に陥らせ、背後のヤクザ屋さんの怒りを買い、ほとぼりが冷めるまで身を隠さなければならなかったりするのに比べれば。
 氷室と辰海は、ある意味で一心同体だ。そのせいか、氷室が感覚を研ぎ澄ませば、辰海の大体の居所くらいは掴める。だが、そこでどんな光景が繰り広げられているのかを想像すると、行くのが非常に怖くなる。多少の危険は望むところだが、金銭的な負担を強いられるような状況は激しく辛い。何せ、氷室の営む『何でも屋』は、燃費の高くつく相棒のお陰で万年貧乏に拍車がかかり続けているのだから。
 顔の広い草間武彦なら、何がしかの情報の片鱗でも耳にしているのではないかと思い、氷室は草間興信所の扉をノックした。呻くような返事に扉を開けると、中にはうず高く積まれた煙草の吸殻と、その向こうで仏頂面を浮かべている草間の姿があった。そして所長の机にもたれかかるようにして、陸玖翠の姿も。
「ちはー。あれ、翠さん、どうしたんすか?」
「所長のお守りです。有能な事務員が一人、無断欠勤をしているそうなので」
「やかましい」
 草間がボソリと答えた。声には生彩がない。言われて見ると、確かにシュラインの姿がなかった。彼女は辰海に爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいほど勤勉な女性なのである。そのシュラインが無断欠勤となると、何かあったのではないかと誰もが心配しても不思議はない。
「七夜に情報収集を命じています。何かあれば知らせてくれるでしょう。心配は御無用」
 翠は言った。七夜という黒猫は、陰陽師である翠が使役する式らしいが、氷室は丸くなって寝ている姿しか見た事がない。まあ、曲がりなりにも神である辰海がアレなら、眠り猫が式でもおかしくはないのだが。
「取り込んでる所に悪いんだけどよ、草間さん、蒼磨の奴を知んねえか? 三日ほど行方知れずなんだよな、あいつ」
「知らんな」
 草間の返答は冷たい。シュラインが心配でそれどころではないのかもしれない。確かに、真面目な美女とお調子者の大の男では、圧倒的に前者の安否の方が気がかりである。辰海の事は一旦横に置き、氷室は訊ねた。
「俺に手伝える事、あったら言ってくれよ。何だったら俺も聞き込みに行こうか?」
「その必要はありません」
 翠が答えるのと同時に、氷室の足元をするりと抜けて、七夜が翠の傍に走り寄った。翠は身を屈め、その頭に手を置く。
「……どうやら昨晩から自宅には戻っていないようだな。帰宅路の途中で、シュラインの気配が途絶えているらしい。私は今からそこへ向かうが、武彦はどうする?」
 草間は無言で立ち上がり、上着を引っ掴んで先に事務所を出て行った。翠は七夜に対し、引き続きシュラインの行方を捜すように命じ、草間の後を追う。
 何だか自分がみそっかすのように思えて、氷室は後に続く事ができずにその場に立ち尽くした。気後れするなんて自分らしくないと思うが、草間と翠がいるのなら、自分の出番などないような気がしてしまう。
「……氷室殿、一緒にいらっしゃいますか?」
 翠が足を止め、氷室を振り返った。「へ?」と呆けた返事をする氷室に、翠は言う。
「面白いものが見られるやもしれませんよ」
「お、面白いもの?」
「ええ。女房に逃げられた亭主のような草間武彦です」
 翠は真顔で言うものだから、冗談なのか本気なのかが分からない。事務所の外から、苛立ったような草間の声がした。
「翠! 道案内はどうした!」
「御覧なさい。早くもヒステリーを起こしています」
 氷室は思わず吹き出した。これは確かに、辰海の事は一旦あと回しにして、草間達についていった方がよさそうだ。草間は平常心を忘れかけているようだし、何よりシュラインの気配が消えているというのが気になる。無事でいてくれればいいのだが。
「足手まといにゃならねえ。連れてってくれ」
 自分の胸を叩いて答えると、翠は小さく頷いた。



 今日の生物の授業では、牛の目玉の解剖をするのだという。
「あーあ……、何だか憂鬱……」
 呟きながら、海原みなもは通学路を辿る。勉強の為には必要な事だし、用意されるものは食用牛から採集した物であって、解剖する為に捌かれたものではない、と分かっていても気が重い。
 教科担任によっては生きたカエルやマウスの解剖をさせる事もあるらしいから、その点で言えば、みなもは恵まれている方かもしれない。そう自分を騙しながら歩いていると、唐突に頭の上から声がした。
「可愛いお姉ちゃん、見ーつけた!」
 幼い声だ。驚いて振り仰ぐと、公園の木の枝に、幾何学模様のワンピースを着た少女が腰掛けていた。少女は白く細い足をぷらぷらさせ、みなもの顔を覗き込むように前屈みになる。
「ほんと可愛い。ね、よく言われるでしょ?」
「え? そ、そんな事ないです、けど」
 みなもはハラハラしていた。少女の姿勢は不安定で、今にも木から落っこちそうだ。下が植え込みとはいえ、落ちて無傷という訳にはいかないだろう。
「それより、そんな所にいると危ないですよ。落ちたら大変。早く降りて下さい」
 みなもが言うのに、少女はにっこりと微笑んだ。
「落ちたりしないよ。でも、ありがと。優しいね、お姉ちゃん」
 まるで紙が舞うように、少女はひらりとみなもの目の前に降り立った。身軽な子だな、と感心するよりも先に、少女がみなもの手を取った。
 何の邪気も感じなかった。敵意も、悪意も。なのに鋭い痛みが、みなもの手のひらに走る。「あれ?」と思った時には既に、みなもはその場に膝をついていた。
「綺麗なものや可愛いものは好きだよ。優しいのはもっと好き」
 満足げな口調で少女が言うのが聞こえた。徐々に、みなもの意識が遠くなっていく。
「また宝物が増えたよ。ずーっとずーっと一緒にいてあげるからね」
 くすくすともれる忍び笑い。いとけない笑い声が恐ろしかった。罪悪感の欠片もなく、自分の行いの是非も分かっていない、そんな気がしたからだ。
 意識が途切れる直前、みなもは道端の水溜りに手を突っ込み、倒れた。ほとんど咄嗟の行動だった。そこで彼女の意識はぷつんと途切れた。



 翠は路傍に佇み、街灯を見上げる。調子が悪いのか、明かりは点滅を繰り返していた。
 七夜の調べ通り、確かにシュラインの気配はここで途切れていた。そしてそれとは別に、人ではないものの気配がうっすらと残っている。だがそれも、早朝に降った雨と、今も強く吹きすさぶ風によって消えかけてしまっていた。
 草間はあちこちを探り、シュラインの遺留品がないかと探しているようだ。氷室も一緒になってゴミ箱の中までのぞいている。
 シュラインは聡明な女性だ。もしも自分が危険と遭遇したら、うまく回避する術も心得ている。それでも自分の身に危害が及んだ場合、周囲にそれと分かるよう、何らかの痕跡を残しておくくらいはできる筈だ。草間も氷室も、翠と同じ事を考えているから、こうしてくまなく周囲を捜索しているのだろう。けれど何も見つからないという事は、現在、シュラインは危険な目に遭ってはおらず、ただ連絡手段がないだけなのかもしれない、という気がした。
 無論、危険を回避する間も、ましてや手がかりを残す暇もなく連れ去られてしまった可能性もあるから、捜索に手を抜く気はない。ただ、翠は前線向きで、失踪者の捜索には正直言って不向きなのだ。七夜に情報収集をさせる以外は、せいぜいが八卦を使って我流の占いをするくらいしか出来そうにない。
「……くそ!」
 草間が忌々しげに街灯を蹴り飛ばした。ジジ、と音がして、明滅していた明かりがちゃんと灯る。どうやら蹴られたショックで直ったらしかった。とはいえ、公共物を蹴る大人には感心できない。
「物に当たるな、武彦。焦ってもどうにもならぬぞ」
 分かってる、と吐き捨てるような返事があった。翠に向かって、氷室が草間に気づかれぬよう、こっそりと肩を竦めて見せる。翠は頷き、七夜を呼ぶ。ややあって、黒猫の鳴く声がした。
「成果は」
 返答はない。七夜にも探し出せないとなると、今回の捜索は難航しそうだ。だが口には出せない。大切なスタッフの身を案じる草間の気を、いたずらに揉ませるだけだ。
「どうだ? 何か分かったか?」
 草間が問うのに首を横に振り、翠は再び七夜に情報収集を命じた。せめて目撃者なり、他の被害者なりいれば、もう少し手がかりが掴めようものなのだが。
 唐突に草間の携帯電話が鳴り出し、彼はジャケットの胸元を引っ掴んだ。もしやシュラインから何か連絡があったのかと、翠も氷室も黙って草間の様子を見守る。
「……はい、草間ですが」
 どうやらシュラインからではないようだ。軽く落胆を感じた時、草間の声音が変わった。
「みなもが帰ってこない? ……学校にも行かずにですか?」
 馴染みのある名前に、翠と氷室は顔を見合わせる。草間は何度か頷き、通話を切った。
「みなもがどうかしたのか? まさか、あいつもいなくなったってんじゃ……」
「そのまさかだ。朝、学校へ行くと言って家を出て、そのまま戻ってこないらしい」
 氷室がサッと顔色を変える。
「マジかよ! シュラインさんと同じ、って事か?」
「さあな。とにかく、俺は今から彼女の通学路を当たってみる。お前達はどうする?」
「みなものヤツまで攫われちまったかもしれねえって聞いて、引っ込んでられっかよ! 俺も一緒に探すぜ!」
「ですが氷室殿、貴方はそもそも、ご友人を探されていたのでは?」
 翠に問われ、氷室はようやく思い出した、というような顔をした。
「あ? アイツはいいんすよ。どうせ殺しても死ぬようなタマじゃねーし。それにゴユウジンなんて上等なモンじゃねえから」
 氷室は先頭を切って駆け出していく。その後姿を眺めながら、翠は内心で密かに溜息を落とした。どうも今回の捜索は難航しそうだ。そのうち、人探しのための術を新たに開発するべきだろうか。そう考えながら、草間と一緒に氷室のあとを追った。



 どれだけ熱心に掻き口説いても、一向にシュラインからは色好い返事がこない。どうやら今回は諦めたほうが良さそうだ。そう判断し、辰海は口を閉ざした。
 それにしても、本当に何もない部屋だ。相棒の氷室と暮らすアパートが常に雑然としているせいか、ここはまるで別世界のように感じた。おそらくこの部屋は、あの蝶の少女の心を投影しているのだろうと辰海は思っている。空っぽに近く、他者の存在によって満たされるのを待っている。そんな風に感じていた。
 辰海の隣でシュラインが、何回目かの溜息を落とした。美女に憂い顔は似合わない。辰海は思わず訊ねる。
「如何なされた? シュライン殿」
「……あの子、『採集に行く』って言ってました。それが気になって……」
 少女の新しい『コレクション』が増えるという事は、この硝子ケースに閉じ込められる人間がまた一人増えるという事だ。彼女はそれを心配しているのだろう。
「なあに、心配は御無用。新たな『これくしょん』にされた御方が戻る事を御所望なら、必ずそれがしがお助け申し上げる」
「辰海さんはどうなさるんですか? まさかずっとここに居るつもりじゃありませんよね?」
「無論。我らがこうして箱の中に閉じ込められ続ける事は、真に胡蝶殿の御為にはならぬであろうと思うておりまする。そろそろ出して頂いて、直接触れ合う……、こ、こみ、『こにみけーしょん』? とやらの良さを胡蝶殿に教えて進ぜねば」
 シュラインはようやく、ちょっと微笑ましそうな表情を浮かべてくれた。
「えっと、コミュニケーション、です」
「そう、それ」
 辰海もにっこり笑って答える。
「随分、時代がかった話し方をなさるのね。現代の人ではないのかしら?」
 シュラインは少しばかり、こちらに興味を持ってくれたようだ。辰海は飄々と答える。
「生まれは二百五十年ほど前、と申し上げて信じて頂けるかどうか」
「冗談でないなら信じます」
 ほう、と辰海は僅かに目を見張る。この女性、やけに肝が座っていると思っていたが、こちらも只者ではなさそうである。この手の事件に慣れているのか、不可思議な目に遭って動揺する様子がないばかりか、辰海のような非日常的な存在にも驚いた様子を見せない。信じていないからではなく、おそらく耐性を持っているのだろうと思われた。辰海が竜神だと名乗っても、シュラインはさして驚かないであろうという気がした。
 そんな事を考えていたら、天窓が開く音がした。ようやく少女のお帰りのようだ。彼女は腕に、セーラー服姿の女の子を抱えていた。よいしょ、と呟きながら女の子を床に寝かせ、額の汗を拭う。
「ただいまー。新しいコレクションが増えたよ! 今度のはとっても可愛いんだー」
 言って、少女は新たな『コレクション』の顔をこちらに向けた。シュラインが息を呑む。
「……みなもちゃん!」
「シュライン殿の旧知であられるか?」
 辰海の問いに、シュラインは勢い込んで頷いた。
「ねえ、その子は家に帰してあげて。きっと今頃、家族が心配してるわ。お願い」
「やーだよ。これは私が捕まえたんだから、もう私のものだもん」
 歌うように答えて、少女は再び『みなも』と呼ばれた女の子を抱きかかえた。その表情には、罪悪感の欠片も見当たらない。
「……もしや、胡蝶殿には家族がおありでないのか?」
 辰海が訊ねると、少女はこくんと頷く。
「うん、いないよ。ミナシゴ、って言うんだよね? 私みたいなの」
「御両親は、何ゆえ故人に?」
「人間に捕まって、標本になったよ」
 そうか、と辰海は呟いた。シュラインが痛ましげな表情になる。
「……ひょっとして、これは復讐なの?」
 問いかけに、少女はあっさりと首を横に振った。
「違うもーん。だって私、人間が私のパパとママ、捕まえて飾っておきたくなっちゃう気持ち、分かるんだあ」
 だってとっても綺麗なんだもの、と少女は夢見るように呟く。
「綺麗なものや素敵なものは、大切にしまっておきたくなるでしょ? だから私も人間をしまっておくの。誰かに取られたりしたら大変だもん」
 どう受け答えしたものか悩んでいるのか、シュラインは黙り込んでしまった。辰海は少し考え込んでから訊ねる。
「もしも胡蝶殿の御両親をお返し申せば、我らも帰して頂けましょうや?」
「えー。何でそうなるの? 帰してなんかあげないよ。パパもママも、もう死んじゃってるもん。私、死体を飾る趣味なんかないよーだ」
 よいしょ、と呟き、少女は硝子ケースを開いた。逃げるには格好のタイミングだったが、辰海はそうしなかった。シュラインも心得ているのか、逃げ出す素振りも見せない。
 みなもの両手両足が虫ピンで留められていった。シュラインは顔を背けている。いくら痛覚が麻痺させられているとはいえ、見ていてあまり気持ちの良いものではなかった。
「……胡蝶殿は、生きた『これくしょん』を欲しておられるのだな?」
「そうだよ。あ、そうそう。お兄ちゃんが昨日聞かせてくれた、ケンカっ早い男の子お話、面白かったよ。またお話してね」
 無邪気に笑い、少女は綺麗に飾りつけた新たな『コレクション』を見て、満足げに言った。
「これでよし、と。さあ、この可愛いお姉ちゃんは何をお話ししてくれるのかなあ?」



 みなもの痕跡を捜して彼女の通学路を辿り、公園に差し掛かった時だった。翠が声を上げたのは。
「……何だ? これは」
「何か見つかったか?」
 草間が駆け寄る。氷室も続いた。翠は公園を縁取った植え込みの傍らに立ち、足元の水溜りに視線を落としている。
「糸、か?」
「糸?」
 氷室は闇夜に目を凝らし、翠の視線の先を探る。何も見えない。
「……微かにだが、血の匂いがするな」
 翠の言葉に、氷室は息を呑む。
「嘘だろ。みなもの……じゃないよな?」
「さあ、そこまでは。ですが、量から察するに大した怪我ではないようです。それよりも、この糸……」
 翠の目には一体、何が映っているのだろう。氷室にはさっぱり分からない。草間が訊ねた。
「糸……。ひょっとして、水の糸か?」
 草間に言われ、翠は得心したように頷く。
「何かの物質が、細い糸のようなものになって、この水溜りから流れ出ているのが見えるのだが……。そうか、これは水か。武彦、何か心当たりがあるのだな?」
「ああ、みなもの得意技だ。水の分子配列を変えて、質量を増やす。応用すれば、細長い水の糸を作るくらい造作もない筈だ」
 なるほど、と氷室は納得した。ヘンゼルとグレーテルが道標に落としたのはパンくずだったが、みなもは水の糸で捜索者達を導いてくれているらしい。もっともそれは、氷室の目には見えないのだが。
「肉眼で見えるものではない。分かりやすいよう、七夜に糸の出元を探らせる。その後を追おう。うまくいけば、みなも殿に辿りつけるやもしれぬ」
「よっしゃ、行こう!」
 黒猫の後を追い、氷室は走る。その時点で、行方をくらましたままの相棒の事はすっかり忘れ去っていた。



 ようやく意識を取り戻し、みなもは目をしばしばさせながら辺りを見回す。見慣れない場所。そして耳には、聞きなれない声が飛び込んできた。
「おお、何と愛らしい! 『せえらあ服』の持つ清楚さと相まって、実に愛いのう。うむ、これが世に言う『両手に花』か。実に男の冥利に尽きるというもの」
 みなもはきょとんとして、声のする右隣に目をやった。最初に視界に入ったのは、虫ピンで留められた自分の右手。そして、その向こうでにこにこ笑っている和装の男。
「みなもちゃん、痛いところはない?」
 そして男の向こうからは、耳に馴染みのある声がした。みなもは目を丸くする。
「えっ、シュラインさん?」
「私達、生きたまま標本にされてるのよ。前を見て。自分が硝子ケースの中に居るのが見えるでしょ?」
 まだよく事態が飲み込めないまま、みなもは目の前の硝子を見、そしてその向こうで微笑んでいる少女の姿を見つけた。その顔を見た途端、自分の身に何が起こったのかを理解する。
「……捕まっちゃいました。えっと、どうしましょう……?」
「こんな機会は滅多とござらぬ。まずは堪能されるがよろしかろう」
 男が鷹揚な口調で言う。彼は一体誰なのだろう。初対面のはずなのに、どこか懐かしい感じがした。まるで、自分の祖先が生まれ育った大海原のような。
「ご紹介が遅れましたな。それがしは辰海蒼磨と申しまする。暫し、みなも殿とは『これくしょん仲間』という事になりますな」
「え? はい、あの、よろしくお願いします」
 みなもが咄嗟に返した生真面目な台詞は、どうやら辰海と名乗った男の笑いのツボを直撃したらしい。彼は快活な笑い声をあげ、楽しそうに言った。
「実に素直な娘御だの。ほんに退屈せぬ事よ」
「みなもちゃんはとっても真面目な子なの。あまりからかわないであげて下さいね、辰海さん」
「やや、これは心外な。それがし、女性と語らう時は常に真剣でありますぞ」
「……さっきまで私を口説いていらしたのに、随分と変わり身が早い事。それで真剣なんて言われても、説得力がありませんわね」
 シュラインの顔は辰海の陰に隠れてしまって見えないが、その口調からは、辰海をからかうような軽妙さが伺えた。きっと微笑んでいるのだろうとみなもは思う。
「むむ、シュライン殿、それはいわゆる『じぇらしー』というやつですかの?」
「あら、うふふ。違います」
 にこやかに、ばっさりと切って捨てられ、辰海がガクリと首を落とす。みなもは思わず笑ってしまった。本当に自分は囚われの身になってしまったのだろうかと疑うほど、硝子ケースの中の空気は和気藹々としている。それにいらついたように、少女が足を踏み鳴らした。
「もー! みんな私のなのに、私を除け者にして勝手に喋っちゃダメなんだからあ!」
 子供特有の、かんの高い声だった。これはこれは、と辰海が取り成すように言う。
「失礼を致した。しかし我等は胡蝶殿の『これくしょん』。主を蔑ろになど致しませぬぞ」
「ウソばっかり! さっきからずっと、そっちで話してばっかじゃないの!」
「それはどうか御寛恕願いたい。そもそもこの硝子の壁は、我らが胡蝶殿と親しくなるには少々邪魔というもの。この無粋極まりない壁を取り払って頂ければ、今まで以上に楽しく語れましょうぞ」
「…………」
 蝶の少女は唇を引き結び、辰海の言葉を吟味するような表情を見せた。辰海はここぞとばかりに畳みかける。
「実はの、胡蝶殿。それがし、斯様な杭や硝子などには縛られぬ。逃げ出そうと思えばいつでも逃げ出す事が可能であった。そうせなんだのは、ひとえに胡蝶殿の信頼と御寵愛を得たいがため。どうかここはひとつ、それがしの願いをお聞き届け頂けぬであろうか」
 沈黙が落ちた。
 みなもは少女の顔を見つめる。まだ幼い少女だ。彼女がどうしてこんな真似をするのか、みなもには分からない。ただ、自分が捕らえられた時、少女がこぼした言葉が気になっていた。
 
 『ずーっとずーっと一緒にいてあげるからね』

 いてあげる、という言い方をしながら、少女は一方的に人間を捕らえている。まるで、本当は誰かに『いてほしい』のは自分の方だと言っているように思えた。
 それにこの硝子ケースも、少女の心を映しているように見える。『コレクション』の自由を奪い、狭い箱の中に閉じ込める行為は、『独占欲』の現れなのではないだろうか。みなもはそう考えた。
 だからと言って、このまま全員が少女に捕われたままでいてやるわけにはいかない。逡巡する様子を見せる少女に向けて、意を決してみなもは言った。
「あたしも逃げたりしませんから、ここから出して下さい。もっと近くに寄ってお喋りしませんか? その方が、きっと楽しいと思いますよ」
「私も賛成。こんな窮屈な場所に閉じ込められたまんまじゃ、息が詰まっちゃいそう。ここから出してくれたら、色んなお話を聞かせてあげるわ。うんと楽しいお話」
 シュラインも続く。三人の顔を見比べ、少女は訝しげに口を開いた。
「……ほんと? 楽しいお話、してくれる? 絶対に逃げたりしない?」
 三人は揃って頷いた。少女は硝子ケースに歩み寄り、蓋に手をかける。
「言っとくけど、逃げようとしたら、その時はころすからね」
 殺す、という物騒な単語にギクリとしたが、みなもは笑顔で答える。
「逃げません。信じて下さい」
 言いながら、みなもは自分の手のひらから滲み出した血を操り、細い水の糸を編み出した。それを少女に気取られぬよう、そっと彼女の周囲に巡らせる。
 水の糸は少女の放つ『気』に干渉し、その性質をみなもに教えてくれた。
 彼女は真実、『無邪気』だった。けれど少女の背後に、彼女のものとは違う強い邪気を感じ、みなもは微かに身を強張らせる。
 三人がかりの説得が功を奏したのか、少女は戒めを解く気になってくれたようだ。用心深く様子を伺いながら、虫ピンと硝子ケースから三人を解放してくれた。ぽっかりと手に開いた穴を眺めているシュラインにそっと近寄り、みなもは囁く。
「シュラインさん、あの子の後ろに……誰か、います。何だか、人間に悪意を持ってるみたい……」
「……やっぱり、そうなのね」
 シュラインも何やら感づいていたのか、驚いた様子はなかった。辰海だけが一人、陽気な声を上げる。
「さあ、楽しき宴の始まりですぞ。盛り上がって参りましょうぞ! ……むむ、それにしても殺風景な。酒はまあ無理として、せめて茶と茶菓子でもあればのう」
 何とも呑気なものである。みなもはシュラインと顔を見合わせて、揃って苦笑を浮かべた。



 三人は七夜に導かれるまま袋小路に入り、そこで足を止めた。どうやら水の糸はここで途切れているらしく、七夜は追跡を諦めたように、その場に腰を下ろして一声鳴いた。
「御苦労だった、七夜」
 労われた黒猫は、翠の影の中に溶けて消える。翠は口元に手を当て、何かを考え込んでいる様子だった。
「行き止まりじゃねえかよ。……これからどうすんだ?」
「どうやら、みなも殿は異空間に連れ去られたようだな。この袋小路には、異空間へと繋がっている空間のねじれがいくつか存在しているようだ。だが、一体どこへ連れていかれたのか……」
「そのねじれ、正確には幾つだ?」
 草間の問いに、翠は目を眇めて答える。
「五つ……、いや六つか」
「早く助けに行ってやらねえと! こうなったら、片っ端から当たって行こうぜ!」
「一体どんな場所に出るのか見当もつかんのに、総当りするつもりか? いくら何でも危険すぎる」
 氷室の無謀な提案は、即座に草間に却下された。それでも氷室は食い下がる。
「んな悠長なこと言ってる間に、みなもに何かあったらどうする気だよ! シュラインさんだって、ひょっとしたらこの先にいるかもしれないんだぜ!」
「お前も『ミイラ取りがミイラになる』って言葉を知らん訳じゃないだろう? 俺達まで行方不明になったら目も当てられんぞ」
 言い合う草間と氷室をよそに、翠はおもむろに懐に手を差し入れた。もしや何か策があるのかと問いたげに、草間がそちらに視線を遣る。
「こうなっては仕方ない。占いでも試してみるか」
「すげえ! さっすが陰陽師! そういう手があんなら早く言って下さいよ、翠さん!」
「あまりこの手は使いたくなかったのですが、こうなっては致し方ないでしょう」
 言って翠が取り出したのは、何の変哲もない長い木の棒だった。彼女はそれを地面に垂直に立て、手を離す。当然の結果、木はカランと音を立てて倒れた。
「……西北を向いたな。という事は、乾か」
 確かに木の棒は西北の方向を向いて倒れている。だが、これは正式な占いというよりも、下駄占いや花占いといった子供の遊びに近いもののような気がするのは氷室だけだろうか。
「……おい、翠。それは本当に占いか? お前、真剣にやってるんだろうな?」
 どうやら草間も同じ事を考えていたらしく、訝しげな視線を翠に向けた。翠はそれに真顔で答える。
「略式すぎるのは認めるが、これも立派な占いだ。八卦と言う。名前くらいは聞いた事があるだろう? 何ならもう一度やって見せよう」
 翠は棒を拾い上げ、再び手を離す。今度は棒が東を向いて倒れた。
「……さ、最初の結果と全然違うじゃないっすか!」
「そうでもありませんよ。最初の結果は西北――八卦においては『乾』を示しました。そして次は東。これは『震』を示しています」
 草間が俯いて考え込む。
「……八卦、か。『乾』が示すものと言えば、天・健・父・首――だったか」
「よく勉強しているな、武彦。それ以外にも馬や虎、そして竜を示しているとも言われている」
 意味ありげに、翠が氷室の方を見た。当の氷室はその視線の意味が分からず、ただひたすらきょとんとする。
「そして『震』。これは雷・動・長男・足を示している。それから馬、そして竜」
 翠の言葉に、草間も氷室の方を見た。氷室もつられて思わず自分の胸元を見下ろしてしまった。
「……え、え? ……竜?」
「そういやおまえ、辰海の奴がいなくなったとか言ってたな」
 得心したように頷き、草間は氷室の胸を軽く叩く。
「おまえ達は一心同体みたいなもんだろ。辰海の気配くらい感じ取れないのか?」
「そ、そりゃ本気出しゃ分かるだろうけどよ、マジかよ? 蒼磨のヤツも、みなもと一緒にとっ捕まっちまってるってのかよ? 下手したら、シュラインさんとも一緒に?」
「占いを信じるならば、そういう事になるかもしれませんね」
 氷室は、自分の顔色が一気に青ざめていく音を聞いた。これは最初に恐れていた通り、とんでもない事になっているような気がする。
「な……っ、あのバカ! デカい図体して何とっ捕まっちまってんだよ! やべえよ草間さん! 早く助けに行かねえと……!」
「何でだ? 辰海は戦闘能力もあるし、まがりなりにも竜神だろう。あいつが傍についてるなら、他の被害者の身に危険が及ぶ確率は低くなると思うがな」
「いーや! あの女好きが、美女や美少女と一緒に捕まえられて、おとなしくしてるたあ思えねえ! ぜってー片っ端から口説き回ってやがるって!」
 氷室の叫びに、草間がようやく直截的な危機感を抱いたようだった。氷室に詰め寄り、低い声で問う。
「早く辰海の居所を探れ。奴はどこだ?」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ」
 氷室は胸に手を当て、自分の体の中に置かれた辰海の竜玉の気配を探った。そしてそれに導かれるまま、何もない空間を指差す。
「……あっちだ」
 翠が懐から符を取り出し、氷室が指し示した場所に向かって掲げた。闇に包まれていた袋小路に光の亀裂が生まれ、ぽっかりと口を開ける。
「行くぞ」
 何の躊躇も見せず、翠は真っ先にその中に飛び込んだ。続いて草間も。氷室は頭を両手でガリガリと掻いて、大きな溜息を落とした。
「……行きたくねえ。あー行きたくねー! あのバカが何しでかしてっかと思うと、もう本気で行きたくねえー!」
 そう叫んでいる間に、光の入り口は徐々に狭まっていく。それに気づいて氷室も慌てて飛び込んだが、運悪く腰の辺りでつっかえてしまった。
「やべえ! 詰まっちまった! ちょ、草間さん、手ェ貸し……」
 だが草間も翠も、氷室の視線の先にはいなかった。ただ、眩い真っ白な空間が広がっているばかり。氷室は冷や汗をかきながら呟く。
「……え? マジ?」
 完全に出遅れてしまったようだ。とにかく、何とかしてここを抜けなければどうにもならない。氷室は葉の上を這うイモムシのようにモゾモゾし続けたが、なかなか亀裂を抜ける事はできなかった。



 四人で輪になり、部屋の真ん中にちょこんと座った。辰海ではないが、本当にお茶とお菓子くらいは欲しかったかもしれない。贅沢を言うなら、テーブルと白いクロスと人数分の椅子があればもっと良かった。それが駄目なら、せめて敷物だけでも構わない。見上げた天窓からは光が差し込み、白壁は燦然と輝き、お茶を飲むにも食事をするにも絶好の場所に思えた。
 気を取り直して、シュラインは少女に問いかける。
「そういえば、まだお名前を聞いてなかったわね。私はシュライン・エマよ」
「……エルカだよ」
 少女は羽をたたみ、幾何学模様のワンピース姿になって答えた。まだ少し警戒しているようだが、自分達が彼女の気持ちを無視せず、逃げ出したりしないで向き合えば、少しずつ心を開いてくれるだろうという気がした。
「そう、エルカちゃんっていうの」
 頷きながら、シュラインは違和を感じていた。ラテン語で芋虫の事を『eruca』と表記するが、彼女は既に羽化している。それは本当に彼女の名前なのだろうか。
「あたしは海原みなもっていいます。よろしく、エルカさん」
 続いて、みなもがにこやかに挨拶する。先ほどまで硝子ケースの中に閉じ込められていたのに比べれば、随分とのどかな光景だ。これで三人の手足に穴が開いていなければ、もっと良かったのだが。
「ところで胡蝶殿、語らいの前に今一度、御身の事をお伺いしてもよろしいか?」
 辰海が問うと、エルカは「いいよ」と素直に頷いた。
「御両親は故人と仰いましたな。では、今までどのようにして暮らしておられたのであろう?」
「王様の所にいたよ。昆虫のミナシゴはね、みんな王様の所に集められるの。そういうキマリなんだって」
 シュラインは軽く目を見張る。もしも虫達の国というものがあるなら、それはなかなか細やかなところまで統治者の配慮の行き届いた国であるらしい。
「では、寂しゅうはなかったと?」
「うーん。まあ、ね」
 エルカの答は歯切れが悪かった。みなもが心配そうに表情をかげらせる。
「でも、私はトクベツだから」
 すぐに誇らしげな表情を浮かべてエルカは言う。シュラインは小首を傾げた。
「特別、って?」
「ほら、見て」
 エルカは両手を広げて、自慢げに言う。
「上手に人間に変身できてるでしょ? 私達みたいに、人間に化けられる子はトクベツなんだよ。王様に、うんと大事にしてもらえるんだあ」
「確かに、大層お上手であられる」
 辰海に褒められ、エルカは嬉しそうに微笑んだ。しかしシュラインは、何だか話の風向きが変わってきたような嫌な感触がして、思わず自分の二の腕を掴む。
「特別、ですか。……人間に化けられる蝶々さんは、皆そうなんですか?」
 みなもも何か感じているのだろう。問う表情はどこか不安げだ。それに気づいた風もなく、エルカは平然と答える。
「そうだよ。数が少ないから貴重なんだって。だから滅多に『外』には出して貰えないんだ」
「『外』っていうのは、『王様の所を出た場所』っていう意味かしら? それとも、『人間の住む世界』っていう意味?」
 シュラインは慎重に問いを重ねた。エルカは頷く。
「両方だよ。そもそも人間に化けられないミナシゴは、その時点でショブンされちゃうから、王様の所を出られないもん」
 処分、という残酷な言葉を、エルカは平気で口にした。思わず顔を見合わせるシュラインとみなもをそっと一瞥し、辰海が静かな声で問いかける。
「それほどまでに稀有なる存在の胡蝶殿が、どうして人間の住む世界にいらしたのであろう?」
「んー?」
 エルカは視線を宙に向け、記憶を探るような表情を浮かべる。
「えっとね、王様が私の所に来て、シャシンっていうのを見せてくれたの。私のパパとママが標本になってるシャシンだったよ。でね、私に『どうしたい?』って訊いたの」
 シュラインは密かに眉をひそめた。酷い話だ。自分の身に置き換えてみたら寒気がするほど。だが、当のエルカはそれを酷い事だとは認識していないらしい。
「だから、『私も同じ事をしたい』って答えたよ。でも私は、死体を飾るのなんてつまんないと思うし、同じ蝶々の仲間の姿はとっくに見飽きてたんだ。でもね、その時、パパとママのシャシンの中にいた人間がとっても綺麗だって事に気づいたの。だから私、こういう綺麗な人間を捕まえて、生きたまま飾りたいなって言ったんだ。そしたら王様は喜んで、私を『外』に出してくれたよ。人間を捕まえる為の毒針をくれたのも王様だよ」
 シュラインが覚えた嫌な感触は、ほとんど確信へと変化していた。エルカの言う『王』は、人間に対して悪意を抱いているようにしか見えない。エルカに対し、明らかに復讐を唆している。
「私、綺麗だったり可愛かったりする人間が気に入ってるの。特に、色が白くて青い目の人間はとっても綺麗で大好きなんだ。私に優しくしてくれる人間は、嬉しくなるからもっともっと好き!」
 無邪気な笑顔を浮かべてエルカは言った。三人は顔を見合わせる。言われてみれば確かに三人が三人とも、白い肌に青い目の持ち主だ。それでこの少女のコレクションに選ばれてしまったという事か。
 何と言うべきか、背後に悪意的な存在こそあれど、エルカ自身は人間に対して害意を抱いているわけではないようだ。それならば、自分はどうやって彼女を諌めるべきだろうか。シュラインがそう思考を巡らせていると、頭上で何やら音がした。
 エルカがビクリと身を竦ませて、みなもに縋り付いた。みなもは反射的にエルカを抱き締め、天窓を仰ぎ見る。
「ど、どうかしましたか?」
「誰か来た。……ケイファだったらやだな。私、あいつキライ」
「ケイファ、って、誰ですか?」
「王様のオメツケヤク。王様の言う事聞かなかった私の友達を、うんと殴った事があるんだよ。すごく意地悪な乱暴者なの」
 どうやらエルカは、そのケイファというお目付け役に対して酷く怯えているようだ。みなもに縋り付いたまま、身を硬くしている。辰海が構え、シュラインもエルカを背に庇う。だが続いて聞こえてきたのは、三人にとって聞き覚えのある声だった。
「シュライン、みなも。……辰海もそこにいるな?」
「武彦さん!」
 シュラインは思わず立ち上がっていた。エルカが怯えた声で問う。
「誰なの? シュラインの知ってる人間?」
「ええ、そう。だから大丈夫よ、エルカちゃん。……武彦さん、そこに他にも誰かいるのかしら?」
「翠が一緒だ。浩介の奴も途中まで一緒だったんだが、どこかで道にでも迷ってるらしい」
「何じゃ。浩介め、ようやくわしを探しに来てくれたかと思うておったのに、ここぞという所で道になぞ迷うとは……。ほんに間の抜けた事よ」
 辰海が呆れたように溜息を落とした。
「三人とも無事か? 怪我はないか?」
「大丈夫。無事よ」
 草間の問いかけに、シュラインは穴の開いた両手を背中に隠して答える。
「それよりも武彦さん、中に入るなら紳士的にお願いね。間違っても窓を蹴破ったりしないで。エルカちゃんが怯えるから」
「おまえ達の他にも被害者がいるのか?」
 シュラインは思わず黙ってしまった。正確に言えば、エルカは加害者の側という事になるのだが、その辺りの事情をいま話すとややこしくなりそうだ。
「話はあとよ。翠も降りてきて、皆で話をしましょ。……エルカちゃん、今から私の友達が二人、あの天窓から入ってくるわ。白い肌や青い目じゃないけど、歓迎してくれるかしら?」
 エルカは少し迷ったあと、こっくりと頷いた。



 翠は、三人の手足にぽっかりと穴が開いているのをあっさりと見抜き、それを人型の符で撫でて治してやった。
「これだけ盛大に穴を開けられておいて、『怪我はない』とは良く言ったものだな? シュライン」
「だって、心配させるといけないと思って……」
 確かに「怪我を負っている」などと答えようものなら、誰かさんは顔色を変えて天窓を突き破っていただろう。エルカと名乗った少女や、彼女に囚われた三人の話を聞いて、翠はシュラインの判断が正しかった事を知った。シュラインだけではない。みなもも、そして辰海という男も、エルカの感情を逆撫でする事なく、上手に話を聞き出してくれていた。
「その、『王』とやらの目論見が気になるところだな……」
 草間は呟き、ちらりと翠に視線を送る。
「おまえはどう思う? 翠」
 翠はあえて答えず、ただ肩を竦めて見せた。草間が僅かに眉をひそめ、シュラインも不思議そうな表情を浮かべてこちらを見る。翠はそれに気づかない振りをした。
「……ねえ、ミナモ」
 みなもの顔を見上げ、エルカは不安そうに問う。
「ひょっとして私、王様に騙されてるの? 何か悪い事、したの?」
「その質問の答は、ちょっと難しいです……」
 みなもは困ったような顔をしながらも、優しくエルカの頭を撫でた。
「でも、ひとつだけ確かな事がありますよ」
「なあに?」
「少なくとも私は、エルカさんの事を怒ってません」
 にっこり笑ってみなもが言うのに安堵したのか、エルカは表情を和らげた。シュラインと辰海もそれに同じる。
「そうね。私も怒ってないわ」
「無論、それがしも立腹などしておらぬ」
「じゃあ、じゃあ、みんなずっと私のものでいてくれるよね? いつまでも一緒にいられるよね?」
 みなもの制服の袖を掴み、エルカは真剣な眼差しで問う。それをやんわりと否定したのは辰海だった。
「ずっとこの部屋で、あの箱の中に張り付けられ続けるのは御勘弁願いたい。そんな事をせずとも、我等は共に過ごす事が出来よう」
 エルカは顔色を変えた。握りしめていたみなもの袖を素早く振り払い、身構える。
「何でダメなの? 怒ってないって言ったじゃない。逃げたりしないって約束したのはウソだったの?」
「嘘じゃありません。エルカさん、この事については、もう少しゆっくりとお話しましょう」
 みなもが取り成すように言うのに、エルカは大きく首を横に振った。
「じゃあ、どうしてみんな私の傍から離れようとするの? 本当は私の事がキライなの? そうなの?」
「嫌いなんかじゃないわ。本当よ」
 シュラインの言葉に、エルカはすうっと目を細めて言った。
「それが本当なら、三人ともあの硝子ケースの中に戻って。でないと信じない」
「……あのな、お嬢ちゃん」
 エルカを説得しようと、草間が一歩を踏み出す。敵意をむきだしにした声で、蝶の少女は叫んだ。
「来ないで! 近寄ったらころすからね!」
 望まない言葉を振り払うように、エルカは右手を振り回した。その手首から鋭い針が伸びる。それは水に濡れたように光っていた。おそらくは毒が塗られているのだろうと翠は推測する。
「もう一回だけ言うよ。三人とも、硝子ケースの中に戻るの。ずっとずっと私のものでいるって約束してくれなきゃ、全員ころしちゃうんだから」
「悪いが三人とも、待ってる相手がいるんでな。おまえのものにはならん」
 シュラインや辰海、みなもが言えなかった言葉を、代わりに草間が口にした。エルカはわなわなと唇を震わせ、二度、三度と地団駄を踏む。
「何で? どうして私だけダメなの? そんなのズルい! 人間は私のパパやママを捕まえて標本にしたんでしょ? なのにどうして私が人間を捕まえるのはダメなの? そんなのおかしいじゃない!」
 理不尽に対して憤る少女の声が、白い部屋に響き渡る。暫しの静寂のあと、みなもがぽつりと口を開いた。
「……エルカさんは、ご両親の写真を見せられた時、お二人が飛んでる姿を見てみたかったと思いませんでしたか?」
 不意の問いかけに、エルカは僅かにたじろぐような表情を見せる。
「え? それは……。見て、みたかった、けど……。でも、もう死んじゃってるから無理じゃない。それが何よ?」
「あたしは、もしもエルカさんが標本にされてる姿を見たら、きっと残念に思います。……悲しいと思います。エルカさんは、きっと標本にされるよりも、生きて空を飛んでるほうがもっといきいきしてて、ずっと綺麗に違いないのに、って」
 みなもの言わんとするところを悟ったのか、エルカは口を噤んだ。
「左様。宝物として飾るのも良いが、これから我らと友達として一緒に御茶を飲み、甘味を食べ、歌って踊って酒を飲むというのは如何かな?」
 場の空気を塗り替えるような、明るい口調で辰海が言う。
「共に楽しむ時、人間の表情や仕草は千変万化。見ていて本当に飽きませぬぞ。張り付けておくだけでは見えぬ魅力に満ちておるのです。胡蝶殿は、それを見てみたいとはお思いになられませぬかな?」
 興味を惹かれたのか、エルカは目をぱちくりさせて辰海の顔を見た。
「ご両親の事、残念だったわね。でも、エルカちゃんが見せられた写真が、本当にご両親のものだったとは限らないんじゃないかしら。調べてみる価値はあると思うの」
「……それ、どういう意味なの? シュライン」
 エルカは毒針をしまい、シュラインの傍に寄った。草間が頷く。
「おまえ達三人がさらわれた事を差っ引いて、冷静に傍で話だけ聞いてると、確かにその『王様』って奴は信用ならんな。そもそも、人間に化ける事のできん孤児は処分するって時点で明らかにおかしい。おまえ達孤児は、その『王様』のいいように扱われてるようにしか思えん」
「そうよね。まるで、特殊な能力を持った子供達を洗脳して、復讐のための兵士にでも仕立てたがっているみたいに思えるの」
 草間とシュラインの読みはあながち間違ってはいないだろうと翠は思う。けれど、それを肯定するつもりも裏打ちするつもりも自分にはなかった。少なくとも今の時点では、自分は傍観者を決め込んで沈黙を守るべきだろう。
 何故なら翠は、エルカに対して幾許かの共感を覚えるからだ。
 そんな自分が、彼女を説き伏せる役に回るのにはやはり違和感がある。
 時折、翠の意見をうかがうように、草間やシュラインがこちらに視線を寄越したが、翠はそ知らぬ顔でそれを受け流した。
「ここに浩介の奴がおったら、おそらくは武彦やシュライン殿の意見に頷くであろうな。それがしにとっても、その『王様』とやらは信用ならぬ。もしも本当に胡蝶殿の御両親が標本にされていたとしても、多感な少女にそれを知らせる事の残酷さに思い至らぬのであれば、民を思う王としても、孤児を預かる保護者としても失格であろうよ」
「とにかく、エルカさんのご両親を探す事から始めてみませんか? あたしも協力します。一緒に探しましょう、エルカさん」
 みなもに言われ、エルカはワンピースの裾を掴んで俯いた。
「……よく、分かんないよ。私、何を信じたらいいの? ……王様はオンジンだし、私に優しくしてくれたタツミや、シュラインや、ミナモの言う事も信じたいよ。でも、標本にされたのが私のパパとママじゃなかったとしても、人間に閉じ込められてころされた仲間がいるのはジジツでしょ? ……そうだよね?」
 少女は重い逡巡を抱えて、今にもその場に膝を折りそうに見えた。誰も言葉を発さず、ただエルカが自分で答に辿り着くのを待つ。
「でも、ミナモは私が標本にされたら悲しいって言ってくれたよね。タツミは、閉じ込めたりしないほうが楽しく過ごせるって言ったよね。シュラインは私の事、嫌いなんかじゃないって言った。……私、そっちを信じたい。でも……」
 迷える少女を見つめ、翠は微かに目を伏せる。
 孤独に震えた事がある者は、自分を受け止め、受け入れてくれる存在にひどく弱い。エルカが自分の心に素直になって、彼女をあたたかく受け入れようとしている彼らに歩み寄ってくれればいいのだが。
 少なくとも、他者に敵意を抱き、復讐に生きるのが幸福ではない事を翠は知っている。
 だからエルカに、その道を選ばせたくはないと思った。
「……ひとつだけ、いいかしら?」
 黙り込む翠とエルカを見比べて、シュラインが口を開く。
「確かに、人間は罪もない生き物を殺して標本にしたり、檻の中に閉じ込めて鑑賞したりするわ。でも、それに罪悪感を感じないわけじゃないの。だから最近は、生き物を傷つけなくても鑑賞できるよう、色んな工夫がされてるのよ。例えば蝶や鳥の飛ぶ姿を映像に収めて楽しんだり、できるだけ自然に近い環境下で動物達と触れ合えるようにしたり……」
 シュラインが言うのに、草間が頷いた。
「共生、ってヤツか。今までは人間の方が一方的に生き物に害を与えてたが、相利共生――『生き物に益を与えて、人間も利を得る』って考えが生まれつつあるらしいな。動物園なんかでも、ただ動物を檻に入れておくだけの形態展示より、動物を自然に近い状態で生かす行動展示の方が歓迎される風潮のようだしな」
「ええ。旭川動物園なんか特に有名よね。エルカちゃんは知ってるかしら?」
「あさひ……、どうぶつ、えん?」
 エルカはきょとんとしている。
「あ、あたし、行った事ないんです。ねえエルカさん、よかったら一緒に行ってみませんか?」
「いいわね、それ。とっても楽しそうだわ」
「無論、それがしもお供つかまつる」
「……一緒に? みんなで?」
 問うエルカに、三人は同時に頷いて見せた。
「うむ。『硝子けえす』など無くとも、共に参りましょうぞ」
「虫ピンなんかなくたって、ちゃんと手を繋げば、はぐれたりしません」
「私、うんとおいしいお弁当作っちゃうわ。エルカちゃんは何が好き?」
 エルカは顔を歪ませた。大粒の涙が頬を伝ってぽろりと落ちる。
「……エルカさん、あたし達とお友達になりませんか?」
 言って、みなもが手を差し伸べた。エルカはごしごしと涙を拭き、みなもの手に縋ろうとする。
 その時だった。黒い疾風が幾何学模様のワンピースを裂き、血をしぶかせたのは。



 みなもが悲鳴を上げ、くずおれるエルカを抱き止めた。シュラインは手にしていたストールで、素早く彼女の傷口を塞ぐ。白いストールは少女の血で瞬く間に赤く変わっていった。
 即座に身構えたのは辰海と草間。翠は視線だけを闖入者に向けている。相手は少年だった。エルカよりは年上のようだが、顔にはまだ幼さが残っている。
 彼は手に黒い剣を提げ、エルカに侮蔑の眼差しを向けて吐き捨てるように言った。
「これだから頭の悪い芋虫は困るんだよなあ。王への恩を忘れて、人間なんかに媚を売りやがって。バカすぎるにも程があるってーの。さっさと死ねよ、クズ」
「……なんて、事を」
 みなもの声は震えていた。シュラインは彼女の肩をしっかりと抱き、エルカの様子をうかがう。傷は大きいが、すぐに適切な処置をすれば命は助かるだろう。だがそれを、あの少年がやすやすと許すとは思えなかった。
「あなたが『お目付け役』のケイファ?」
 シュラインが訊ねると、少年は器用に片眉を吊り上げた。
「その芋虫から俺の事を聞いたわけ? ……ふーん」
「何故この子を斬った?」
 詰問口調の草間に対し、ケイファは心底どうでもよさそうな顔で答える。
「役立たずを生かしとく義理なんかねえ。それだけだ」
「おまえ達の目的は何だ? 復讐か?」
 問われ、ケイファは歌うように答える。
「べっつにぃ。目的って言う程のモンなんかねえよ」
 ただ、と少年の声に悪意がこもる。
「俺達を『虫ケラ』って呼んで蔑んで、何の理由もなしに叩き殺したり、俺達の命を勝手に売り買いしてるお前ら人間に、少しでも不快な思いをさせてやりたいだけだ。それこそ、羽虫がお前らの顔にたかるみたいにな」
 意地の悪い笑みを浮かべ、ケイファは黒い剣を振りかざした。
「復讐なんて大層なモンじゃねえ。俺達はな、ただお前らが不愉快な目に遭って、泣いたり怒ったり、恐怖を感じて喚いたりする姿を見て、腹ァ抱えて笑いたいんだ。のた打ち回るお前らの姿を蔑んで、ちょっとばかり溜飲を下げられりゃ、それだけで愉快なんだよ」
 ケイファは復讐ではないと言うが、復讐の仮面を被っていない分、彼らの憎しみは深く濃く感じられた。むきだしの悪意と敵意と蔑みに、肌がちりちりと痛むようだ。シュラインは慎重に口を開く。
「ひとつだけ、教えて貰える?」
「答える義理はねえけど、聞くだけなら聞いてやるぜ?」
「エルカちゃんのご両親は……本当に標本にされてしまったの?」
 何だ、そんな事か。そう呟いてケイファはあっさりと答えた。
「ウ・ソ。その芋虫を、お前らに対する嫌がらせの道具にする為の嘘さ。つっても、変身能力を持った個体は普通の昆虫よりも寿命がうんと長いから、そいつの親なんざとっくの昔に死んじまってるけどな。どのみち、コイツは王を裏切ったんだ。もう俺達の国にはコイツの居場所なんかない。いっそひと思いに死なせてやった方が親切ってモンじゃねーの? ま、お前らが面倒見るってんなら止めねえけど」
 言って、ケイファはくつくつと笑う。
「孕ませないように気をつけろよ。虫の子供が一気に百も二百も生まれたら、さすがに面倒見切れないだろ? ……ああ、こういう嫌がらせの手もあったな。新発見だ。ま、コイツはもう使いモンになんねえけど、それなりに収穫はあったから良しとすっか」
 ケイファの体がふわりと浮いた。逃がすまいと草間が手を伸ばしたが、少年は素早くかわして逃げる。
「この空間は外側からきっちり閉じて、お前らが二度と元の世界に戻れないようにしといてやるよ! じゃあな!」
 辰海が腰の竹筒に手をやり、中の水を使ってロープを作り出した。ケイファの足を狙って投げられたそれは、彼が手にした剣によって断ち切られてしまう。
「はっ! 捕まるかよ、バーカ!」
 黒い羽を広げて高らかに嘲笑し、天窓を抜けようとしたケイファが、突如として外から現れた脚に勢いよく蹴られ、体勢を崩した。ジーンズに包まれたその脚を見るなり、辰海がニヤリと笑う。
「さんざ迷って遅れておいて、ここで登場するか浩介。おいしいとこ取りじゃの」
「ぬかせ。お前こそその図体で、囚われのお姫様役はねーだろ。王子役なんざ死んでもゴメンこうむるぞ、俺は」
 氷室はケイファの胸ぐらを掴み、自分の全体重をかけて彼を床に叩きつけた。ケイファはカエルのような呻き声をあげてもんどりうつ。
「この羽虫野郎! さっきから黙って聞いてりゃテメー、やってる事がハンパすぎんだよ! 俺達人間に腹ァ立ててんなら、正面切って戦争しかけて来いってんだ!」
「おい浩介。おまえは何に対して怒ってるんだ?」
 論点がズレてるだろう、と呆れたように草間が言う。氷室はそれに顔をしかめて答える。
「だってよ、罪のない子供を利用して、さんざっぱら人を引っ掻き回しといて、自分は高みの見物だなんてよ。んなの、趣味悪ィにも程があんだろーが。そういうの、何かヤなんだよ。気にくわねえ」
 この陰険野郎、と吐き捨て、氷室はケイファの背中を踏みつけた。
「それってよ、自分で『自分達は虫ケラだ』って言ってるようなモンじゃねえのか? 正攻法で撃破できなくても、力やずる賢さで敵わなくても、せめて一矢報いてやろうって気概くらい見せろよ。でないとこっちも、叩き潰してやろうって気にもなんねーだろうが」
 少しばかり乱暴な論旨ではあるが、氷室の言う事にも一理あるような気がした。草間もそう思ったのか、軽く肩を竦めて同意するように言う。
「コソコソと陰口言われたり、見えない所で嫌がらせをされるくらいなら、麺と向かって『嫌いだ』とか『怒ってる』とか言われるほうがまだマシ、っていうのは判らんでもないな」
「だろ? 正面切って売れねえケンカなんざ、ハナから売るんじゃねえよ!」
 もう一度、氷室はケイファを踏みつける。気でも失ったのか、少年はピクリとも動かない。
「もう放っておけ、浩介。それよりも胡蝶殿の傷の手当てをせねば……」
 辰海が言うのに氷室が脚の力を緩めた途端、ケイファは勢いよく跳ね起きた。足をすくわれて転んだ氷室の鼻先を、黒い剣がかすめる。その切っ先を止めたのは、凛とした翠の声だった。
「……ケイファ殿、とおっしゃいましたか」
 ふと気づくと、翠はシュラインのすぐ前に片膝をついていた。懐から取り出した符でエルカの体を撫で、彼女の傷を癒してくれる。翠はケイファの方を見て、静かな声で言った。
「貴方がたにも容易くできる復讐があります。方法を教えて差し上げましょうか?」
「ちょ、ちょっと翠さん!」
 冗談キツいぜ、と叫ぶ氷室の隣で、草間が微かに眉根を寄せた。シュラインも、怪訝な思いで翠の横顔を眺める。
「有料だったら遠慮すんぜ」
 ケイファはしれっと答えた。その冗談に僅かな笑みも浮かべず、翠は淡々と答える。
「簡単な事です。人間を憎む全ての種族が手を取り合って、人間の世界とは隔絶された、ここのような場所で暮らせばいい。そうすれば『虫ケラのように』仲間を殺される事もなく、人間を憎む事もなく、心穏やかに生きられるでしょう」
 翠、と呼びかけようとして、シュラインはやめた。きっと彼女には何か思惑があるのだろう。そう信じて、黙って見守っていようと思った。
「それのどこが復讐なんだよ」
 ケイファは鼻白んだ。分かりませんか、と呟いて翠は立ち上がる。
「貴方がたは、力や頭脳では人間に敵わなくとも、確かにこの世界の一端を担っているのです。その貴方がたが揃っていなくなれば、世界に生ずる破綻は容易に知れましょう」
「……ああ、つまり、食物連鎖の底辺がいなくなって、頂点に居座ってる人間どもに深刻な影響が出るのを待てってのか。……随分と気の長い話だな、オイ」
「そうですね。ですが確実な方法です。おまけに人間は失って初めて、貴方がたの存在の大切さに気づいてくれるでしょう。……もっとも、その頃にはもう取り返しがつかないでしょうが」
「でも、それだと」
 エルカの体をしっかりと抱き直しながら、みなもがおずおずと声を上げた。
「閉じこもった方も、食物連鎖の輪から外れて……滅びてしまうんじゃないでしょうか?」
「無論です」
 あっさりと返答し、翠はケイファに一歩詰め寄った。
「貴方がたはこれを復讐でないと仰いますが、自分達が受けた不条理な行為に対する報復的行動ならば、それはやはり復讐と呼ぶべきものだと思いますよ。そして復讐というものは、満足を得る代わりに、必ず何がしかの代価を支払わなければならぬもの」
 そして、と翠の声が低くなる。
「その対価は往々にして、本来は己が求めていた筈のものである事が多い。……そう考えると復讐というものは、実に愚かな行いだとは思いませんか?」
 シュラインには何となく、翠の言いたい事が理解できるような気がした。
「そうね……。例えば、殺人を犯した人間は、被害者の遺族から死刑を求められる事が多いわ。それはきっと報復感情のなせる業なんでしょうけど、死刑が執行されて失われるものは、被害者が失ったのと同じ、『命』ですものね」
 翠が静かに頷く。
「人間に苦しみを求めるなら、貴方がたも苦しまなければならない。……その事をよく理解してから、もう一度、自分達の本当の望みについて考えてごらんになる事です。それでもなお、人間に対して復讐すると仰るのならば――」
 辰海がポキリと指の骨を鳴らした。
「我らが相手をしてやろうぞ」
 ケイファは唾を吐き、再び宙に浮かぶ。
「ケッ、バッカバカしい。……やってらんねえぜ」
 反射的にその後を追おうとしたのは氷室だった。草間がその肩を掴んで制す。
「あまり追い詰めてやるな。それこそ何をしでかすか分からん」
「うむ。それに『王』だなどと呼ばれておるが、あの輩の背後にいるのはおそらく小物であろうよ。血気盛んな若者が、愚かな遊びを目的にたむろしておるだけだろうて。……昔の誰かさんのようにな」
 言われて氷室はばつの悪そうな表情を浮かべ、ケイファを追うのをやめた。
 その時だった。ぽつりと呟くような声が聞こえたのは。
「……フクシュウ、だったのかな……」
 斬りつけられたショックから回復したのか、ようやくエルカが口を開いた。
「私も、フクシュウしてたのかな……? パパとママ、ころされて、人間を憎んでたのかな……?」
「……エルカさんは、そう思うんですか?」
 優しい声で、みなもが問う。エルカはそれに小首を傾げ、自力で身を起こした。
「分かんない。……自分の事なのに、何でだろう? よく……分かんないの」
「おそらく胡蝶殿は、自分の本当の気持ちを認める事が怖くていらっしゃるのであろうよ。それさえ認めてしまえば、あとは簡単な事ですぞ」
 悠然と言う辰海に、エルカは目をぱちくりさせた。
「私の本当の気持ち? タツミには、それが分かるの?」
「うむ」
「私にも分かると思うわ」
 にっこりしてシュラインが言う。エルカはシュラインに飛びついて答えをせがんだ。
「どうして分かるの? ねえ、教えて!」
 エルカを除く全員が、互いにちらちらと目配せして微笑む。
「胡蝶殿に御理解頂くには、やはり……」
「はい。あたしもそれが一番だと思います」
「そうね。折角これだけの人数が集まったんですもの」
「でもよ、いくら何でもここじゃ無理だろ。何にもないにもほどがあるぜ」
「いや、そうでもないぞ」
「ええ。心配は御無用」
 翠がおもむろに懐に手を入れた。



 草間は今回もその光景を、まるで手品でも見るような気持ちで眺めていた。
 きっと翠の懐は四次元と繋がっているのだろう。そう単純に受け止めて、あまり深くは考えないようにする。突き詰めようとすると、何やら怖い考えになってしまうからだ。
 まずは緋毛氈が取り出された。続いて野点傘。純和風で風流にいくのかと思いきや、次に取り出されたのは魔法瓶だった。きっとあれはコンセントになど繋がなくても、とめどなくお湯を注ぐ事のできる本物の『魔法』瓶に違いない。
 和洋それぞれの茶道具と、それに合いそうな菓子が飛び出す頃には、みなもが手を叩いて翠を絶賛していた。
「すごいです、翠さん! 本当に魔法みたい!」
 素直なみなもは翠の懐のカラクリや謎を深く追求する事はなく、純粋に手品だと受け止めて楽しんでいるらしい。
「翠がいると手荷物要らずよね。ほんと助かっちゃう。あ、私、豆大福が食べたいなあ」
 シュラインは屈託なく喜び、ご贔屓の店の出来たて豆大福を手渡されてにこにこしていた。
「す、すげえ……! い、一体どういう仕掛けになってんだ……?」
 氷室の視線は、今度は重箱弁当を取り出す翠の懐に釘付けになっている。無理もない。だが、覗き込んだところで何のタネも見つかりはしない事を知っているだけに、草間は複雑な気持ちになる。
 とはいえ無論、自分も今では翠の懐から出現したものを口にするのに、何の抵抗も感じないのだが。
 エルカはひたすら目を輝かせ、自分の前に並べられたご馳走を眺めている。
「ねえねえ、これから何をするの?」
「胡蝶殿と我々の親睦会ですぞ」
「しんぼく?」
「仲良くなるためのパーティーです」
「そうよ。もうエルカちゃんが寂しくないように、ね」
 人差し指を唇に当て、シュラインがにっこりと笑う。そこへ大量の酒がどどんと取り出された。
「おい、未成年がいるのに酒はまずいだろう」
 草間が言うと、翠はジロリとこちらを睨んだ。三度の飯より酒が好きな彼女に、こういう場で酒を自粛しろというのがそもそも間違いだったかもしれない。舌鋒でこてんぱんにされる前に、草間は口を噤む事にした。
「おい、エルカ。おまえは飲むなよ」
 みなもはともかく、好奇心旺盛そうなエルカは何をしでかすか分からない。案の定、エルカは草間の言葉など耳に入っていないように、ひたすらきょろきょろしている。
「大丈夫よ、私がちゃんと見てるから。折角だもの、武彦さんも遠慮なくお酒を頂いたら?」
 シュラインは、どうやら酒を飲まずに未成年者の監督にあたってくれるらしい。その言葉に甘える事にして、草間は酒瓶のひとつに手を伸ばした。
「……翠殿、とおっしゃいましたか」
 ずらりと並べられた酒肴を穴の開くほど見つめ、辰海は心ここにあらずといった様子で問う。呼ばれ、翠は辰海のほうに視線を向けた。
「辰海殿、でしたか。如何なさいました?」
「この品は、全てあなたが?」
「この場へ持ち込んだのは確かに私ですが、勿論、既製品ばかりです。味の保障は致しますよ」
「……何と。これはいわゆる『まじっく』とやらでありましょうか?」
「御想像にお任せ致します。誤解を招かないように申し添えておくならば、盗品などではありませんので御安心を」
「おお……!」
 辰海はしげしげと翠の姿を眺め、何度か頷く。
「こうして改めてお姿を拝見すると、何とお美しい……! おい浩介! おぬし、シュライン殿といい、みなも殿といい、斯様に美しいおなご達と知り合っておいて、何故わしに紹介せぬ!」
「んなの、てめーが片っ端から口説きまくって、迷惑かけっからに決まってんだろーが!」
「何を言う! 美しいおなごを口説くのは、男としての礼儀であろう!」
 氷室が呆れ返るほど、胸を張って堂々と言い、辰海は翠に向き直った。
「という事で翠殿。あなたには、将来を誓った相手がおありでしょうや?」
「……いいえ?」
 答える翠の声には、いつものように抑揚がない。だが、付き合いの長い草間には分かってしまった。翠の周りに何やら不穏な空気が漂うのが。
「おい、蒼磨! おまえ、翠さんを口説き落とそうなんて、いくら何でも無謀にも程が……!」
「辰海、悪い事は言わん。今だけは自重しろ」
 氷室と一緒になって、草間は必死に辰海を思いとどまらせようとする。だが、いろんな意味で大らかな辰海に、その助言は届かなかった。
「その冷厳たる美貌、そしてその豊かな懐……! 翠殿はそれがしの理想の女性であらせられる」
 そうですか、と答える翠の声は淡々としている。だが、今まで白く明るく照らされていた室内が、曇り空のような灰色に変化していった。そして遠くからは何故か、雷鳴が。
「おい、辰海! 今なら間に合う! その先を言うな!」
 以前、翠にその手の冗談を言って真冬の海に叩き落とされそうになった事がある草間は、顔色を変えて辰海の袖を引いた。だが当の辰海は、諫言などには耳も貸さない。事もあろうに翠の手を握り、ずずいと顔を寄せる。
「この妙なる縁に、それがしはいたく感謝致しております。翠殿、これを機にそれがしと、結婚を前提としたお付き合いをしてみるというのは……」
 がらがらぴっしゃん、という音とともに、雷が辰海を直撃した。白蛇の下半身を持つ少年が翠の懐から飛び出し、辰海に対してふーふーと威嚇している。
「これ、常葉。おとなしくしていなさい」
 翠にたしなめられ、常葉と呼ばれた少年は「きゅう」と一声鳴いて翠の懐にもぐり込んだ。翠はやんわりと辰海の手を解く。
「失礼を致しました、辰海殿。私の式の無礼をお許し下さい。……ところで今、何と仰いましたか?」
 既に一同は、辰海を遠巻きにしていた。黒焦げになり、頭のてっぺんからぶすぶすと黒い煙を立ち上らせた辰海は、それでも懲りない。
「ですから、それがしの妻に……」
 どこからともなく現れた七夜が、性懲りもなく翠の手を握ろうとする辰海の顔に向けて、猫パンチと猫キックを食らわせる。これは翠の式が、主の身に迫った危機を察知した上での行為なのか、それとも翠の意思によって動かされたものなのかまでは分からない。
「あはは! タツミ、フラれたー!」
 手を叩き、エルカがそう叫んではしゃぐ。堪え切れないというようにシュラインが吹き出し、氷室と草間は揃って「だから言わんこっちゃない」という表情で肩を落とした。
「た、辰海さん、大丈夫ですか……?」
 おろおろするみなもに、氷室が溜息混じりに答える。
「心配ねーよ。アイツは殺しても死なないタイプだから」
「ウワキするから、フラれちゃうんだよーだ!」
 エルカが舌を出す。その言葉に、辰海はよろよろとその場に崩れ落ちた。
「こ、胡蝶殿、慰めては下さらぬのか……?」
「お前が節操なく、誰でも彼でも片っ端から口説くのが悪いんだろ」
「何を言うか浩介! ひとを軽薄者のように言うでない! わしは常に本気だ!」
「それがまずいんだろうが……」
 草間は深々と溜息をつき、場を取り成すように言う。
「折角の宴だ。今のはなかった事にして楽しむぞ」
「わ、わしの『ぷろぽおず』が、なかった事にされてしまった……」
 うちひしがれる辰海をよそに、翠はさっさと自分の杯を酒で満たした。シュラインは濃い目の日本茶を淹れ、せっせと豆大福を口に運んでいる。みなもとエルカはジュースの入ったコップを手に、二人してどのケーキを食べようかと延々迷っていた。氷室は氷室で、「今食わないと死ぬ」と言わんばかりの勢いで弁当を掻き込んでいる。
「くっ、こうなったら……!」
 一番大きな杯に遠慮なく手を伸ばし、辰海は強い酒をなみなみと注いで一気に飲み干した。どうやら袖にされた悲しさを、飲んで忘れるつもりらしい。
「……まあ、食え」
 スルメをちぎって渡してやると、辰海はそれを噛みながら呟いた。
「一体、わしのどこがいけなかったのじゃろう……?」
 草間は、一途じゃないところだろう、とは言わずにおいてやった。



 珍しい事に、辰海は真っ先に酔い潰れて眠ってしまった。
 恐ろしいのは翠だ。辰海よりもハイペースで飲んでいたのに、顔色ひとつ変わらない。大吟醸をちびりちびりと舐めながら、氷室はぼんやりと周りの様子を眺めた。
 ティーカップを手に、色とりどりのマカロンを味見しているシュラインとみなも、そしてエルカは、三姉妹に見えるほど仲睦まじい。草間もその様子をどこか微笑ましそうに眺めていた。
「これ、ジャスミンの匂いがする!」
「へえ、花の香りのマカロンもあるのね。私のは、キャラメルかと思って選んだらエスプレッソだったわ」
「あ、私が選んだのがキャラメルですよ、シュラインさん。次はピンク系のを食べてみません?」
「今度はバラの匂いがするよ。おいしーい!」
「あら、素敵ね。私のは……フランボワーズだわ。これ、酸味が絶妙でおいしいわよ」
「私のは桃の味がします。これもまろやかでおいしいですよ。次は何色を試します?」
 エルカは先ほどから笑みを絶やす事がない。自分の本当の気持ちを理解し、芯からの願いを叶えた少女はようやく充足したのだろう。氷室はゆっくりと立ち上がり、彼女の前に座った。
「なあ、ちょっといいか?」
「なーに? コースケ」
 今、これをエルカに言うのは酷だろうか。けれど、きちんと言わなければいけないと思う。氷室は意を決して口を開いた。
「悪いんだけどさ、あいつ、返してくれねえか」
 大の字になって眠る辰海を指さして、氷室は言う。
「あんたの大切なコレクションかも知れねえけど、俺にとっても掛け替えの無い奴だから……。いや、どうしても返したくないってんなら、暫くこっちに置いといても良いんだけど」
 照れ隠しにボリボリと頭を掻きながら言うと、エルカは素直にこっくりと頷いてくれた。
「うん。タツミには、帰りを待ってるコースケがいるんだよね。だったら返すよ。勝手に捕まえちゃってごめんなさい」
 ぺこりと頭を下げられると余計に面映い。いやいや、と首を振りながら、氷室は慌てて答えた。
「別に待っちゃいねえけど、いないならいないでホラ、何てーかその、物足りないっつーかさ」
「辰海が聞いたら泣いて喜ぶぞ、その台詞。どうしてあいつが起きてる時に言ってやらなかったんだ?」
 揶揄するように草間が言う。氷室は唇を尖らせて答えた。
「んな事言ったら、あいつが調子に乗るからに決まってんだろーが!」
 その時、辰海がゴロリと寝返りを打った。起きたかと思ってドキリとしたが、すぐにすうすうと寝息が聞こえてくる。氷室は安堵の息を吐き、エルカに向かって囁いた。
「ま、あんな奴でよけりゃ、あんたが寂しい時にはいつでも貸し出してやっからさ」
「ありがと! その時は、コースケも私と遊んでくれる?」
「おう! 約束してやるよ」
 氷室はエルカの手を握って拳を作らせ、そこにコツンと自分の拳を当てた。エルカは嬉しそうに「約束かあ」と呟く。
「シュラインも、ミナモも、また私と一緒にこうして遊んでくれる?」
「勿論よ」
「動物園、きっと行きましょうね」
 こくこくと頷き、蝶の少女は笑み崩れた。
「約束がいっぱいだね! 私、これでもう寂しくないよ」
 一緒に過ごしてくれてありがとう。エルカはそう言って、深々と頭を下げた。





 実家から届いた珍しい酒を手に、氷室は草間興信所の階段を上った。
 いつもなら、これくらいの時間でも事務所はまだ煌々と明るいはずなのに、今日に限って窓から明かりが見えない。もしや草間は中で仮眠でもとっているのかと思い、いちおう控えめにノックしてみた。
 ややあって、またもや仏頂面の草間に出迎えられた。やっとシュラインが無事に戻ったというのに、どうしてまだ機嫌が悪そうなのだろう。
「氷室くんだったのね。コーヒーでも淹れるわ」
 お構いなく、と返したのだが、シュラインはそそくさと給湯室のほうに消えてしまった。草間はおもむろに煙草を取り出して、スパスパと吸い始める。氷室は小首を傾げながらも、所長の机の上に酒瓶を置いた。
「なあ草間さん、悪いんだけどさ、この酒を翠さんに渡してもらっていいか? 色々食わせてもらった上に、蒼磨の奴が迷惑かけたみてえだし、お詫びって事で」
「用件はそれだけか?」
 草間は随分と機嫌が悪い。どうやら自分は間の悪い時に来てしまったようだ。氷室は首を竦める。
「いや、もいっこ気になる事があってよ。ちっと草間さんと話したくて来たんだけど……。何か機嫌悪そうだから、出直した方がよさそうだな」
「構わん。……何だ? 気になる事ってのは」
 問われ、氷室は真顔になって答える。
「あのケイファって奴もそうなんだけどさ。あいつの話だと、他にもエルカみたいな子がいるんだろ。……それ、何とか俺達で探し出して助けてやれないかな」
 草間は煙草を揉み消した。その顔には「言うと思った」と書いてある。溜息をつかれても氷室は食い下がった。
「蒼磨の奴にも言ったんだけどよ、あいつ、あっさり『そんな事しても意味がない』なんて言いやがるんだ。対症療法じゃどうにもなんねえって。そりゃそうかもしんねえけどさ、知ったからにゃ何もしねえでいらんないだろ?」
「青いな、おまえは」
 以前の氷室なら、草間のその言葉に怒ったり拗ねたりしていただろう。だが、氷室は頷いて答えた。
「んなの、百も承知だ。でも、青い俺にしかできねえ事だってあるんじゃねえかって、最近思えるようになったんだ。だから……」
 草間は肩を竦め、厳しい表情になる。
「おまえの気持ちは分かった。だけどな、現実問題としてどうするつもりだ? 『王』とやらに洗脳された子供達が皆、エルカみたいに無邪気で寂しがりやで、物分かりが良ければいいがな。おまえには、どんな相手でも説得できるだけの自信があるのか? もし相手が臨戦態勢になった場合、おまえはどうする?」
 畳み掛けられ、氷室は黙り込む。指摘されるまでもなく、自分には何の策もないのだ。ただ、エルカの言う『特別な子供』達の事を考えると居ても立ってもいられなくなって、思わず草間を訪ねてしまっただけで。
「……分かんねえ。俺、バカだからさ。でも、バカなりに最善を尽くしたいって思うのって……やっぱバカなのかな」
 情けねえ、とこぼすと、草間の表情が和らいだ。
「おまえらしいな。……とは言っても、俺達にやれる事なんてたかが知れてるってのは動かしがたい事実だ。何をしたって焼け石に水だ。だからと言って、何もしないでいるのは落ち着かない、っていう気持ちも分かるんだがな」
 草間に同意してもらえて、ほんの少し心強かった。氷室は拳を握りしめて呟く。
「……何も変わらねえのかな。俺達がいくら足掻いたってさ」
「辰海の奴は? 他にも何か言ってたか?」
「何とか方法はねえのかって俺が言ったら、『無益な殺生はせぬよう心がける事じゃな』だってよ。……んなの、今更だろ?」
「あら、難しい話?」
 コーヒーの入ったマグカップをトレイに乗せて、シュラインが戻ってきた。氷室は勧められるままソファに腰掛け、熱い一杯を有難くご馳走になる事にした。
 シュラインにも草間にしたのと同じ話をすると、彼女は小首を傾げる。
「うーん。辰海さんの言う事、あながち間違ってないんじゃないかしら?」
「シュラインさんも蒼磨の奴と同意見か……。俺一人が今になって虫の命を尊重したところで何になるんだ、っていう気がするんスけど」
 丁寧に淹れられたコーヒーを一口飲み、氷室は小さな溜息を落とす。
「そうかしら。氷室くんはこんな話を知ってる? ……ある人物に対して、とある記者がこう尋ねた事があるんですって。『世界平和の為に、私達一人ひとりに何かできる事はありますか?』 ……その問いかけの答はこうだったわ。『家に帰って、あなたの家族を大切にしてあげて下さい』」
 目をぱちくりさせる氷室とは反対に、草間は思い出したように頷いた。
「マザー・テレサの言葉だな?」
「ええ、そう。……私達、一人だけでは世界を変える力なんて持ってないけど、自分を変える事はできるのよね。多くの人の意識が変われば、きっと世界も変わる。……そう信じられる、素敵な言葉だと思わない?」
「家に帰って……か」
 氷室は草間の机に置いた酒瓶に目をやった。そういえば、実家に住む家族はいつも氷室の事を気にかけて、こうして時おり仕送りをしてくれる。それなのに氷室は自分の生活を維持するのに精一杯で、家族に対して何もしてやれていない気がした。
 とはいえ、先立つものは生憎ない。それならせめて、久し振りに自分の元気な顔を家族に見せに行こうかと思う。父の仕事を手伝い、母の肩を揉み、弟妹と遊んでやるくらいなら、自分にもいつだってできる。
 氷室はコーヒーを飲み干し、立ち上がった。
「ごっそさん。……じゃあ俺も、自分にできる事から始めてみっかな」
「おう、頑張れよ」
「気をつけてね」
 二人に見送られ、氷室は草間興信所をあとにした。
 まだ眠らない街を足早に歩く氷室の目に、携帯電話のショップの明るいディスプレイが飛び込んでくる。思わず足を止め、氷室はそれを眺めた。古い機種が廉売されており、店頭のポスターには大きな文字で『今なら家族と一緒に、お得なプランに加入可能』と書かれていた。
 古風なくせに、やたらと携帯電話に固執する相棒の顔が脳裏をよぎる。彼もまた、今では氷室の大切な家族の一員だ。たまにはあいつの事も喜ばせてやろうと、氷室はパンフレットを手に取った。
 携帯電話を手に、子供のようにはしゃぐ相棒の姿を想像して微笑みながら。





■登場人物(この物語に登場した人物の一覧)■

【整理番号/PC名/性別/年齢/職業】

【0086/シュライン・エマ(しゅらいん・えま)/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【6118/陸玖・翠(リク・ミドリ)/女性/23歳/面倒くさがり屋の陰陽師】
【6725/氷室・浩介(ひむろ・こうすけ)/男性/20歳/何でも屋】
【6897/辰海・蒼磨(たつみ・そうま) /男性/256歳/何でも屋手伝い&竜神】
【1252/海原・みなも(うなばら・みなも)/女性/13歳/女学生】