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<東京怪談ノベル(シングル)>


Corruption



 ふわふわと、まるで浮いているような感覚だった。
 動く必要など一切ない。寧ろ動くことが億劫になる。
 本当に『何もしないでいい』というのは、これほどまでに楽だったのか。
 思考が支配されていく。何もしたくない、ただその言葉だけに。
 それは果たして生きていると言えるのか。
 自分は何もせず、全てをしてくれる。見方を変えれば、それは『生かされている』というべきなのではないか。

 そんなことを、今の少女に考えろというほうが酷だったのかもしれない。





◇ ◆ ◇ ◆ ◇



「そいつをちょっと着てくれないかねぇ?」
「これを、ですか?」



「あぁ、いいところに来てくれた」
 店主の言葉は少女にとって意外であった。
 その日、少女がその店に立ち寄ったのは本当に偶々のことだった。
 最近顔を出していないし、久々に顔を見て挨拶をするついでに何か面白いものがあれば。それくらいのことしか考えていなかった。しかし、それは丁度店主にとっても都合がよかったらしい。
「丁度こいつをどうにかしたいと思ってたところでねぇ……」
 そういう店主――碧摩蓮の前にあるのは一つの箱だった。

 そうして冒頭の会話に戻る。少女――海原みなもが箱を開けると、中には何も入っていなかった。いや、
「……なんでしょうか、これ。スライム……?」
 正確には透明な何かが箱の中を一杯にしていた。試しに指で触ってみると、液体とも粘液とも取れない微妙なものが感じ取れる。
「あぁ、正確には魔法生物の一種」
 火種が切れたのか、煙管に新しい刻み煙草を入れながら彼女は言う。
 魔法生物が服だとか、これを着ろだとか、みなもには謎かけのような言葉ばかりだった。首を傾げる少女を眺めながら、蓮は小さく笑った。
「なんでもねぇ、どこぞの物臭魔法使いが、着替えや洗濯やらが面倒くさくてしょうがないから作ったもんらしい。そいつ自身が服になってくれるんだそうだ、衛生管理までやってくれるそうだよ」
「これが服に、ですか……」
 一体何処まで面倒くさがり屋になればそんなことを思いつくのだろうか。そんなことを思いつつも、みなもの興味は既にそのスライムへと移っている。
 もしそれが本当だとしたら、それこそ世界に一つかそれくらいの珍しいものだろう。そんなものをお目にかかる機会はそうそうなく、誰であっても興味が沸くのは自然とも言えた。みなもにとってみればそうでもなかったが、よくお世話になっている店主の頼みとあっては無碍に断るわけにもいかなかった。
 また指でそれを触る少女に蓮は語りかける。
「で、着てくれるかい?」
 少女の答えは一つしかなかった。

 首を縦に振ったはいいものの、これをどういう風に「着る」のかは見当もつかない。
「どうすればいいんでしょうか?」
 とりあえずみなもは箱を逆さにしてみた。そうすると当然のように中のスライムは床に落ちていく。ただ水のように広がらず、一山のようなゼリー状で止まっているのはスライムたる所以か。
 で、そこからどうすればいいか全く分からない。すると、
「あぁ、素っ裸になって適当に足でも突っ込めばあとは勝手に服になるらしいよ」
「そういうことはもうちょっと早く言ってください……」
 何処かみなもの口調は恨めしい。何故ならスライムを箱に入れるのが面倒だったから。



 流石に女同士であったとしても裸を晒すのには抵抗がある。というより、店内でいきなり脱ぎ出せばそれこそどうかということになる。幾ら客が少ない店だとは言え、何時誰が来るかは分からないのだから。
 蓮に一言言い残し、みなもは奥にある倉庫部屋を借りることにした。
 薄暗い部屋に灯りが点り、そしてそこにあのスライムが鎮座する。蓮に言われた通りみなもは何時もの制服を脱いで一糸纏わぬ姿となり、その細い足をスライムへと近づけた。
 スライムらしい、冷たくも何処か粘液質な感触が親指に触れた。その瞬間、
「っ……!」
 スライムがその身を広げ、一気にみなもの体を包み込んだのだった。
 一瞬のことに思わず身を強張らせたみなもだったが、すぐさま何かの異変に気がついた。
「これは……」
 全身を、なんとも言えない暖かさが包み込んでいく。同時に何かが体にある穴と言う穴へと入り込むような感覚も襲ってきた。
 別段それは嫌なものではなく、寧ろ快感を伴ったそれは自然とみなもに受け入れられた。
「……確かに、服ですね」
 その感覚が終わり、みなもが瞳を開いて自身を眺めると。そこには確かに服を着た自分がいた。
 服はいたって普通のワンピース。触ってみるとその感触はシルクに近い滑らかさを持っている。さきほどまでのスライムとは大違いの感触がみなもを楽しませる。
「……」
 一応確認してみたが、しっかりと下着まで再現されていた。流石に少し恥ずかしいが、きっとそういう生物なのだろう。

「お、着たみたいだねぇ」
「はい。普通の服みたいで驚きました」
 店に戻り、軽く体を回してみる。ふわっと裾が広がるそれは、正しく服であると言えた。
 蓮も面白いらしくワンピースのあちこちを調べ周り、そして不意にスカートを捲し上げた。一応彼女も下の確認をしようと思ったのだろうが、流石にそれはみなもに怒られてしまった。
「とりあえず数日くらい様子見。それから返しておくれ」
「分かりました」
 何時の間にかみなもはスライム服のモニターにされてしまったらしい。尤も当の本人も少し面白がっていて、分かっていても断ることはなかっただろうが。
 それを楽しげに眺めていた蓮の瞳が、不意に細まる。
「何か異常があればすぐさま脱ぐかここに来るんだよ。いいね?」
 みなもは忘れていたが、これは魔法生物である。一体何が起こるかは蓮自身予測もつかないのが現状だ。
 しかしみなもは小さく笑った。きっと大丈夫だと、何故かそう思ったから。

 制服を鞄に入れ家につく頃には随分と遅くなっていた。どうやらアンティークショップで時間を潰しすぎたらしい。
 彼女はそのまま夕食をとり、部屋へ向かう。そのままベッドに体を投げ出せば自然と眠気が襲ってきた。
 勉強もしなくてはいけない。お風呂にも入らないと。他にも…。
 そう思っていながらも、その眠気には抗うことが出来なかった。毛布に包まれているような心地よい暖かさが彼女を深い眠りへといざなっていく。
 その眠りがどのような意味を持つのか。彼女はまだ知らない。



 数日後、蓮はある書物を見て毒づいた。
「……ったく、なんて代物だいあれは」
 どうやらそれはあの『服』に関して書かれているものらしく、その中に書かれている事実は蓮を毒づかせるに足るものであった。
「こんなもんだと分かっていれば、ほいほいと勧めたりはしなかったんだがねぇ」
 荒く煙を吐き天井を見上げる。しかしそんなことをしたところで何が変わるわけでもなく、仕方なく蓮は立ち上がる。
 責任は自分にあるのだから。





◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 起きてみれば汗も流していない体であるはずなのに、まるで今しがたシャワーを浴びたかのような清潔感に包まれていた。軽い驚きを心に含みつつ、みなもは何時ものように朝食をとる。
 どうやらあの服は思い描くものに変わる能力も持ち合わせているらしく、時間を見て学校へ行かなければ、そう思ったときには何時もの制服瓜二つのものへと変化していた。
 確かにこれは便利だ。一切の着替えが必要ないという言葉も強ち嘘とは言えないだろう。
 しかしそれにしても、と髪を梳きながら思う。丸一日風呂にも入っていないのに体は何かしらの汚れと無縁であったし、自慢の髪も艶を失わず綺麗なまま。下世話なことではあるが便意なども一切ない。
 これもこの服のおかげなのだろうか。一体どういう原理なのかは全く分からないが。

 みなもは何時ものように学校へ向かい、何時ものように授業を受けた。腹だけは空くらしく、何時もより少しだけ多めの昼食を食べた。やはり学校でもトイレなどにいくことはなかったが。
 丸一日を費やし、みなもは自分なりの服について仮定を立ててみることにした。
 服は一応生物であるらしく、それならば何らかの生命活動を行っているはず。ならそのエネルギーは何処から来ているのか?
 その答えは程なく分かってきた。体育の時間、体操服に姿を変えてからそれは確信に変わる。激しい運動を行った後ですら汗を一切かかなかったのだ。いや、正確には『かいたがその直後に消えている』というべきだろうか。
 つまりこの服は、恐らく着ているものの排泄物などを取り込み栄養としているのだろう。それならば便意などが一切ないことも、また入浴していないにも関わらず体が汚れていなかったことも十分な説明がつく。
 次にその限界について。どうやら服と定義されるものであればなんにでも変化するらしい。やろうと思えばそれこそ所謂裸の王様の状態にもなれるようだ。一度裸になった後、なるメリットなど一切ないと気付いたが。
 また、蓮が言っていた衛生管理という意味も偶然ではあるが発見できた。古びた教室を移動する際、壁に釘が出ていたらしくそれに手を引っ掛けてしまった。当然のように傷を負ってしまったわけだが、次の瞬間絆創膏が現れ傷を覆っていた。
 これも服の効果かと思っていたら、一時間後にはその傷が消えていたのだ。なるほど、衛生管理とはこういう意味だったのかとみなもも納得した。

 確かにこれは便利だ。便利すぎてたまらない。家族には何も言わず、また同じように一日を過ごしてみたが結果は同じ。仮定は正しかった。
「これは本当に凄いですね…しかし、こんなものが作れるのならもっと色々出来たでしょうに」
 みなもはふとそんなことを考える。しかしそれが面倒だからこそこんなものを作ったのだろう。
 今なら少し分かる気がした。これを作った者の気持ちを。完成させたときの喜びを。
 ただこのとき不幸だったのは、その先に待つことを予測できなかったことだろう。



 ところで、この世界を生きる以上ストレスと戦わなくてはいけないのは誰であっても同じことである。みなもであっても例外はない。
 日頃の学生生活は元より、何かにつけてやっているバイトやニュースで見かける事件など、みなもにとってこの世界はストレスの塊であった。
 しかしあの服を着てから、みなもは不思議とストレスを感じることがなくなっていた。どんなものでも受け入れるというのではなく、どんなものもどうでもよくなってきていたのだ。
 これも服の作用なのだが、服自身がある種の快楽を生むホルモンを分泌し続ける。やはり物臭が日頃のストレスから逃げるために作った機能であったが、これが恐らくもっとも悪い結果を生んだといえた。

 最初はその服の恩恵を有難み、普通に日々を過ごしていたみなも。しかし、数日と身に着けるうちに少しずつ変化が出てきていた。
 服を着替える必要もない。風呂に入る必要もない。トイレに行く必要もない。食事さえあれば生きていける。その状況がもたらすもの。
 体は何時でも気持ちのいい感覚に包まれている。最早動くことさえ億劫であるし、そも食事さえ取っていれば、後は全て服がやってくれるのだ。ずっと気持ちがいいのならこのままでいればいい。心の底からそう思うようになっていた。
 何時からだろうか。学校へも通わなくなり、ちょくちょく受けていたバイトも辞め、遂には部屋から出ることもなくなったのは。
「あはは…」
 ベッドの上で薄ら笑いが漏れる。気持ちがいいのだから仕方ない。寝返りを打つのも面倒だ。そのままでいれば褥瘡がそのうち出来るだろうが、それならそれで放っておけばいい。服が勝手に治してくれるのだから。
 服もそうやって自身の排泄物を食べて生きていける。自分は服の恩恵に預かり生きていける。考えることは面倒だが、考えることもなくていい。最高の循環ではないか。

 果たしてそれが生きていると言えるのか。生かされていると言うべきではないのか。最早快楽の中毒者とでもいうべき状態のみなもには、そんなことも分からない。





「……なも、みなも。ったく、最悪の状態だねこりゃ」
 一体何時振りだろうか。瞳を開けたのは。何か小うるさいものが耳を叩き、仕方なく瞳を開けてみれば、そこにはあの女性が立っていた。
 あぁそうだ、この服をくれた人だとみなもは思った。名前を思い出すのが面倒なので、心の中での呼び方はあの人扱いであったが。
「完全に依存しちまってるねぇこりゃ……これじゃ麻薬をやってるのとなんら変わらないよ」
 そんなみなもを見下ろしながら蓮が頭を掻く。しかし責任は自分にもあるのだからこのまま投げ出すわけにもいかない。
「いいかい、よく聞きな。この服を脱がすよ、じゃないとあんたが壊れちまう」
 その言葉に、初めてみなもが反応らしい反応を見せた。
「……脱がす……?」
 首があまり動かない。当然だ、ずっと寝続けていてまともに体を動かしていなかったのだから筋肉が萎縮しているのだ。しかしそんなことには構わずみなもは大きく瞳を開け、蓮を睨みつけた。
「ふざけないでください! 絶対に嫌です!!」
 久しぶりの発生は怒号となって鳴り響く。それも当然だろう、今のみなもにとってこの服はまさに体の一部なのだから。これがないと生きていけないのだから。
 それを脱がす? 馬鹿なことを言うにも程がある。しかしそんなみなもを見つめる蓮の視線はいたって冷ややかだった。
「はいはい分かりやすい反応ありがとさん。だけどそいつは聞けないねぇ」
 言うが早いか、蓮は手に持った煙管を逆さにして火種を落とした。その服の上に。
 小さな火種ではあったが、火は瞬く間に服を焦がし、すぐさま勢いをつけて大きくなっていく。スライムは服という状態になったとき、その組織をも変化させているようだった。
 みなもはそれでも熱さを感じなかった。当然だ、服が火を消そうと燃やされた組織をその部分から修復し続けているのだから。みなもに燃え移ることは一切なかったのだ。
 しかし焼失による崩壊と再生を繰り返した結果、服は少しずつ覆っていた面積を小さくしていき、炎が消える頃には一欠けらの布にまで体積を減らしていった。ありとあらゆる部分から組織を動員したのか、それが再生する気配は見受けられない。
「ったく面倒かけて……」
 その布を蓮はやはり煙管の先で器用に掬い上げ、小さな箱の中に入れる。その様子をみなもは一糸纏わぬ姿で呆然と眺めていた。
「なんで……なんでこんなことしたんですか……ッ……」
 動こうとした瞬間、みなもの全身を激痛が走り抜けていく。全身の萎縮した筋肉が動き伸びることを拒んでいるのだ。
「そういうことになるからだよ。こいつは確かに便利だけど、依存しすぎてはただの毒だ。生きているのか生かされているのか分かったもんじゃないよ」
 分泌されていたホルモンが漸く消え、みなもは言葉の意味を理解し始めた。そしてその結果がこれだ。
 あまりの激痛に涙が溢れ、しかしそれがまた更なる筋肉の動きを誘発して新たな痛みを呼ぶ。
 酷い激痛に泣き声さえ上げられない。そんな少女の体を蓮がそっと抱き上げた。
「こうなっちまったのもあたしのせいだからねぇ。ちゃんと世話は見てやるよ。リハビリに暫くかかるけどね」
 そんなことを言う蓮の笑みは優しく、みなもはただ後悔した。原因は店に行ったことであっても、あの服に依存することを選んだのは自分なのだから。



 少女の体を抱え歩きながら、蓮は例のものが閉じ込められた小さな箱を見下ろした。
「道具を生かしているのか、道具に生かされているのか。……考えてみれば、今の世の中そんなものだらけだねぇ」
 そう自戒のように呟いて。腕の中で眠る少女を小さく撫でるのだった。





<END>