コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


森林浴

 ファルス・ティレイラほど不幸な者はいない。
 彼女が何か行う度に、まるでホラー小説のような恐怖体験を味わってしまう。これほどの不幸はあるまい。
 だが…ある意味では、こういう体験を経験できるという事は、幸せな事なのかもしれない。
 より強大な恐怖を前にした時、ある程度の耐性があった方が、生存できる確率が上がるからだ。
 それは、彼女が宅配を終えた時のこと。

 その時のティレイラは疲労していた。
 急な依頼であった為、食事を抜いて休憩も取らぬ強行軍であったのだ。
 その疲れが出たのだろう。帰り道を半分過ぎた頃には、体力が尽きかけていた。
「あー…疲れた」
「いい加減休憩しないとなぁ…お?」
 遅々と翼をはためかせつつ地上を見ると、黒い森の中に巨大な幹があった。腰掛けるには丁度いいサイズだ。
「いい所発見。ちょっと休んじゃお」
 軽く鼻を鳴らし、ティレイラは下界へと降り立った。

 森というものは闇だ。
 古代の人々は山に神を、森に精霊を見出す事で精神の安定を図った。そうする事で、森という深淵に一人でいても誰かが見ていると錯覚し、心を保つ事ができたのだ。
 まだ痛む尻を擦りながら、ティレイラはしかし、と思う。
 巨大な幹に降りた所まではよかった。が、足を乗せた途端幹が折れてしまい、彼女は重力に従って落下し、強かに尻を打ち付けてしまったのだ。
「まぁ、横になれると思えばいいけどさ…」
 彼女が休む森の中では獣の吐息も、風のざわめきも、虫のささやき声すらしない。
 感じるのは、舐めつくような木々の視線と恐ろしいまでの静寂のみ。
「なんかいそうだよね、これ…」
 このような場所にいては、本当に何かがいてこちらを伺っているような感覚を覚える。
 だが、もしいたとしてもそれが神話や童話に語られるような平和な存在とは思えない。この周囲から放たれる邪悪な気配を考えれば、いたとしたら悪霊の類だろう。
 気配が邪悪と感じるのも、それが孤独故に想像力が豊かに働いた結果に過ぎぬとはわかっている。しかし、それでも不安を抱かずにはいられないのだ。
「そろそろ、行こうかな。充分休憩したしね」
 忍び寄る恐怖を払うように大きな声で立ち上がるティレイラ。ぱきり、と足元で何かが音を立てた。
 ぞわり、とティレイラの全身を寒気が包む。なんだろう、と足元を見ると折れた木の枝が転がっていた。
「なんだ、木の枝か…」
 ほっと安堵の吐息を吐き、何気なく枝を手に取った。そのまま翼を開いて飛ぼうとして…
「え?」
 左足が動かない。また何か踏んだか引っかかったのかと苦笑したティレイラは、足を見て戦慄した。
 木になっていた。膝までが。いや、左足だけではない。枝を持つ右手も、柔肌から硬い木へと変貌していく。
「え、ちょっ!? 何これ!?」
 混乱するティレイラ。だが、侵食は止まらない。あっという間に首までが木となってしまう。それだけでなく、近くの大樹がその枝を伸ばし、ティレイラを取り込もうとしだした。
 静寂の闇の中に、ティレイラの絶叫が木霊した。

 それからどれだけの刻が過ぎたのか。
 今やティレイラは大樹の一部となっていた。意識はまだはっきりとしていたが、頭の働きが鈍い。具体的な脱出方法も浮かばぬまま、恐怖だけが心に刻まれ時は過ぎていった。
 そんなある日、無音の世界に侵入者が現れた。
 異形の生物だった。四肢があり、直立歩行をしている所から人類に近い種族なのだろう。人類に近い、と表現したのはそれが人類であるとはどうしても思いたくなかった為だ。
 歩行のバランスは全く取れていないし、恐ろしいまでに猫背だ。唇は異様なまでに薄いが、口は獣のように大きく耳障りな声を発している。
 彼は邪悪と狂気そのものの顔で、のろのろとティレイラが捕らわれた大樹に向かってきた。
 一人かと思ったが、どうやら後続がいたらしい。一人、また一人と増えていき、あっという間にその数は三十人を超えた、
 彼らは大樹の一部となったティレイラの目の前に集まると、見るも醜悪な石像を掲げた。太古の邪悪が込められた冒涜的なその石像は、ティレイラの足元に置かれた。
 そしてバケモノどもは、吐き気を催すほど下劣で冒涜的な儀式を開始した。

 彼らが行う儀式は、恐らく古代から繰り返し行われてきた密議なのだろう。彼らの儀式の体系は非常に原始的で、現代に至るまでの間に洗練されていった他の儀式は明らかに一線を駕していた。
 彼らの崇める石像は見た事もない生物を形取っている。ぱっと見山羊に似ているのだが、全身から触手らしきものが生えていて、またどことなく不安感を呼び起こすのだ。
 困惑するティレイラを尻目に彼らはいあ、しゅぶにぐらすと聞こえる掛け声を発しながら交わり、石のナイフで互いを傷つけ合う。
 詠唱の声が一際大きくなる。凄惨な儀式はクライマックスを迎えようとしているのか。
 ティレイラがそんな事をぼんやりと考えたその時だ。
 突如空に巨大な穴が穿たれた。バケモノどもはいっせいに恍惚の表情で黒い穴を見上げた。彼らの期待に応えるかのように穴から何かの触手らしき物体が現れると、歓声を持って出迎えた。
 触手は音も無く地上に降臨し、バケモノどもへと迫っていく。
 触手は何なのか。あの穴はどうして出来たのか。無数の疑問が湧き上がってきたが、まだ微かに機能していた脳が、人としての精神が理解を拒んでいた。
 逃げろ。本能が叫ぶ。しかし、大樹の一部となった今ではそれは不可能だ。
 動く事も、目を逸らす事もできぬままティレイラはそれを凝視し続けた。
 触手の先端部が触れる度に、バケモノどもは触手に吸い込まれていく。しかし恐るべき事は、バケモノ達は吸い込まれる事が名誉なのか、我先にと触手に向かっていくのだ。
 十数人程食らった所で、ようやっと腹を満たしたのか触手は穴へと還っていった。
 ほどなくして異界への穴は消え、残った化け物どもは闇の中に帰り、森に静寂が戻った。ただ一人、焦点の定まらぬ目で虚空を見つめるティレイラを残して。
 あの時。穴が消える直前、ティレイラは見てしまった。穴の向こう側からこの世界を嘲笑している存在を。
 その瞬間、ティレイラの精神は限界を超えてしまったのだ。

 木々の気紛れか、はたまた暗黒の神々の慈悲か。満月が頭上に輝く頃になって、ようやっとティレイラは大樹から開放されたのだった。