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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


dwarf tree

 ほんの昨日までの忙しさは、一体何処へ消え去ってしまったのか。
 アドニス・キャロルは座椅子にゆったりと背を預け、雪見障子から日本庭園を眺めながら、とりとめのない思いを巡らせていた。
 本日は一月一日。即ち、元旦だ。
 師走とは良く言ったもので、十二月に入ってから大晦日に到るまでの忙しさは実に目まぐるしい。
 けれども年が変わった途端、時間の流れはぴたりと止まってしまったかのようだ。
 その感覚は、状況の変化による所も大きいのだろう。
 隠れ里の風情のある温泉地の、小さな温泉宿に着いたのは年が変わるほんの一時間前だ。
 モーリス・ラジアルと共に慌ただしく宿に入り、入浴時間外だと言うのに、寒かったろうと露天風呂を開けてくれた宿の主人の厚意に甘えて露天風呂で除夜の鐘を聞きながら新年を迎えた。
 その後は蕎麦を頂き、ふかふかの布団を並べて就寝、気の済むまで惰眠を貪って昼近くにもう一度風呂に入り、やけに豪華な雑煮を頂いて、今に至る。
 コンビニバイトの立ち仕事から一転して、上膳据膳。
 箸の上げ下ろし以外は手を動かす必要もなく、意識に差違が生じて当然だろう。
 広い縁に出されたこたつでじんわりと暖を取りながら、ひたすら降る雪を眺めるより他、するべきことは何もない。
 否、正確には能動的に動く気が起きない。
 そうと思えば、庭や館内の散策に出たり、土産物屋を冷やかしてみたりと、出来ることはいくらもある気がするのに、霞のように漂うやる気を掴みかねるのに、キャロルはその原因にふと思い至った。
 こたつには、魔物が住んでいると聞く。
 足を入れていると、じんわりとした暖かさが体の芯まで染み渡り、それはのんびりとした正月気分に拍車をかけて、こたつから出ようという気を失わせる。
 いつまでも温もりに浸っていたいと願うのは、恋しい人と迎える朝のぬくもりにも似て、キャロルは何気なく長い息を吐いた。
 吸血鬼の特性か、寒暖の差にあまり左右されず、屋根の破れた教会に起居していても、不便を感じない身だが、手軽に得られるこのぬくもりは癖になりそうだ。
「どうかしましたか、キャロル?」
襖を引き、浴衣姿に丹前を羽織ったモーリスが、部屋に戻ってくる。
 片手には五段の重箱、そして熱燗と御猪口を二つずつ乗せた盆を乗せ、重たげなそれを炬燵の天板に置いた。
「することがなくて、飽きてしまいましたか」
炬燵の真正面に座し、空に漂うキャロルの思考の断片を掴んだかのような指摘に、内心舌を巻きながらキャロルは首を横に振った。
「こたつとはいいものだな」
しみじみと日本文化を堪能しているキャロルに、モーリスが目を細める。
「気に入ったなら、一式プレゼントしましょうか」
言われて脳裏に浮かぶ風景は、人気のない教会、教壇と聖体があるべき場所に鎮座坐す、炬燵。
 天板には、籠に盛り上げたみかんを設置しておくべきか。
 廃屋のうら寂しさがいや増す、かなりシュールな光景だ。
「……いや、いい」
己の想像を頭を振って打ち消し、キャロルはモーリスの厚意を辞退する。
「普段から、動けなくなるのは困る」
日常生活と天秤にかけ、犠牲にすべきを見誤らなかったキャロルに、モーリスも笑顔で頷いた。
「そうですね、変に暖房器具などない方が、あなたのぬくもりを堪能できて良い」
あまりにも素直で率直なモーリスの物言いに、キャロルは頬を赤らめた。
「おや? まだ呑んでもいないのに、顔が赤いですよキャロル」
「……こたつが熱いんだ」
顔の赤さを炬燵の責任にして、キャロルはモーリスの差し出す御猪口を取って酌を受け、水のように澄んだ清酒を一口含み。
 キャロルは、思わず動きを止める。
「……美味いな」
猪口に接がれたのはほんの一口分だが、口に含んだ瞬間に、香しさが全身に染み通るようで、後味までがすいと喉の奥に滑り込む。
「東北の方の地酒を、蔵から直接仕入れているそうですよ」
情報の仕入れにぬかりないモーリスに返杯しながら、豊かな香気を含んで立ち上る湯気を吸い込み、キャロルは感歎を口にした。
「酒を暖めて呑むのは邪道だと思ってたが、日本酒はこうして呑むのも美味いな」
「グロッグなどはお嫌いでしたか?」
「あれは酒と言うより、薬だ」
グロッグとは、ホットワインに代表される、熱を加えたアルコールのことだ。
 ジンジャーや各種香辛料を加え、冬場に体を温める飲み物だが、折角のワインの風味を飛ばしてしまう飲み方は好きではない。
 きっぱりとしたキャロルの主張に、モーリスは「覚えておきましょう」と微笑むと、自身も猪口の中身を飲み干す。
「うん、確かにこれは美味ですね」
満足そうに微笑んで、モーリスは今度はお重の蓋をかぱりと開けた。
「おせち料理も作ってみたんです。肴代わりにどうぞ」
表は黒漆に金や銀で模様を配し、内は鮮やかな朱塗りで仕立てられた重には、つやつやと輝くような黒豆、金色の数の子、飴と胡麻に絡まった田作りに叩き牛蒡と、おせち料理の定番、祝い肴にちょろぎを加えて彩り良く配されている。
「三つ肴は関東風にしようか、関西風にしようか悩んだんですが、どれも縁起ものならばと纏めてしまいました」
田作りを入れるのが関東、叩き牛蒡を入れるのが関西風だということを、キャロルはモーリスの説明で初めて知った。
「……これをモーリスが?」
器用であることは知っていたが、此処まで小技の効いた才能を見せつけられると、感心するより他なくなる。
 次いで二の重には、伊達巻きや紅白の蒲鉾、栗きんとんの甘いものや紅白のなますの酢の物、三の重には鯛の姿焼きが一尾、中央で存在感を放っている。
「お互いに、長生きはしても腰が曲がるのは難しそうなので、『めで鯛』にしてみました」
モーリスが五世紀、キャロルが七世紀。ぴちぴちの若人の姿を保っている彼等に腰が曲がるまで長生きがしたいと願われても、海老とて迷惑だろう。
 他にも海産物を煮たり焼いたり、鯛には及ばなくとも若布や蛤が詰められた重は、最も日本酒に適した段だろう。
 与の重には様々な煮物が、九画に分けられた区域に行儀良く納まり、隙一つない。
 モーリスが次々に開いて机上に並べる重に圧倒され、キャロルは僅かに身を引いた。
 お重自体は小振りとはいえども、ぎっしりと詰まったお節料理は、二人だけではとても完食しきれない量がある。
「そして最期に、五の重ですが……」
「まだあるのか」
思わず白旗を揚げたくなるキャロルの心持ちを余所に、モーリスはかぱりと最期の段を開けた。
「空です」
四段目までの充実度を無視して、空気しか入っていない重に、キャロルは思わず脱力する。
「五段目は、これから訪れる繁栄と幸福の為にわざと開けておくのがしきたりだそうですよ」
恐るべき、和の風習。見ているだけで胸がいっぱいになりそうな食材の数に、キャロルは最早コメントする余力もない。
「……すごいな」
長く生きれば生きるほど、季節の行事に疎くなる。
 というよりもその都度に新年を寿いだり、収穫を祝ったり、短命だからこそ命に対する感謝の行事に参加することがおこがましいような気持ちになり、イベントに参加することすら稀であったキャロルには、知る余地すらなかった習慣だ。
「他文化から隔絶されていただけあって、日本の風習は面白いものが多いですね」
全てを披露して満足したのか、モーリスは手際よく小皿にキャロルの分を取り分けて、祝箸と一緒に差し出した。
「これだけの量を……二人で?」
吸血鬼なだけあって、キャロルの食は細い。モーリスも健啖といえる向きではなく、食材を無駄させない為にはどれだけの努力が必要か、考えただけで眩暈のするキャロルだ。
「あ、ご心配なく」
その懸念をあっさりと受け止め、モーリスはにっこりと微笑んだ。
「この分量で、三日分ですから。三箇日の間の食事は、これだけです」
「三日?」
「えぇ、三日」
今が元旦の昼。今日の夕食に明日、明後日の六食分と併せて計八食。そう聞くと、途端に心許ない量に思えてくる。
「……この宿は、食事を出さないのか」
日本人は、正月だけは梃子でも働かない。
 来日するまではその俗説を信じていたが、正月から始まる商戦などは熾烈というより他なく、それは他国人の思い込みであったと知った。
 日本人の中でも特に商売人は休日などあってなきが如しであることが真実だと思っていたのだが、ここに来て自分が培った常識が覆されようとは思わず、キャロルはさり気なく動揺する。
 鄙びた温泉街で、コンビニエンスストアは営業しているのだろうか。
 何某かの食材を確保する為に、今から外へ出ようと腰を浮かしかけたキャロルだが、立ち上がろうと込めた筈の力が入らず、体勢を崩して床に手を着く。
「あ……っ?」
「足が痺れてしまいましたか。足を崩して入っていいんですよ?」
慣れない正座をし続けていた為、足先まで血が通わずに、すっかり感覚を失ってしまっている。
 手で押しても形容のし難い痛みが走るばかりで、キャロルはその場で固まった。
「足の親指を反らせば、直ぐに治りますよ。どちらの足ですか?」
何処か嬉しげなモーリスの申し出に、キャロルは頭を振るだけでどうにか拒む。
 永劫にも思える長い時間をかけて、どうにか痺れを克服したキャロルは、モーリスの勧めの通りに足を伸ばした。
 キャロルが落ち着いたのを見て、モーリスが中断していた先の話を続ける。
「そうそう、宿の食事は大丈夫ですよ。持ち込みのお節とは別に、ちゃんと出ますから」
昼食はお断りしているだけです、と自分の反応を見るために伏せていたとしか思えない情報を開示し、モーリスはどことなく満足げだ。
「お節料理は、正月の間台所を騒がせない為と同時に、女性が三日間家事を休めるように、という配慮があるそうです」
それを証拠に、生物は一つもないでしょう、とモーリスが示すとおり、直ぐさま傷むような品は見受けられない。
「安心して下さい。勿論、キャロルの主食もたっぷりと積んで来てありますから、困るようなことは何一つありません」
成功率100%の手術に臨む、患者に向けるような笑顔で保証されて、キャロルは今年一年の自分の立ち位置を見る思いだ。
「久し振りに二人の時間が取れたんです。ここは古式ゆかしく、日本の本来のお正月を堪能するのもいいかと思いまして」
何処か詭弁を感じさせる物言いだが、モーリスがこの旅行を楽しみにして、何かと準備をしてくれていたのは真実だ。
「……日本の正月は、正式には三箇日の間、何をするものなんだ?」
「何もしません」
キャロルの問いに、モーリスはまたもやきっぱりと言い切った。
 キャロルとて、元々、多趣味とは言えないが、何もするなと言われるとそれなりに困る。
 モーリスはキャロルの困惑を見て取って、補足した。
「あ、遊びに出るのは構わないらしいですよ。後で凧でも揚げに行ってみましょうか」
流石に、自分達がたこ揚げに興じて良い年代でない位は解る。
 黙って首を横に振るキャロルに、モーリスは指先で顎に触れて、空を見た。
「後は……そうですね、初詣ですか。近所に小さいですが、歴史のある神社があるそうです。縁結びに良いらしいので、行きましょう」
何でも、地元の娘が願をかけた所、保養に訪れた貴族と恋に落ちたという伝説があるらしい。
 キャロルに玉の輿願望がある筈もないが、この際出来ることには何でも挑戦したい気持ちになっていた。
「宿で出来ることはないのか」
するなと言われればしたくなる、それが人間心理の不思議というもので、キャロルは他に何かないかと問いを重ねる。
「そうですね……双六、歌留多、コマ回し、福笑いなどもありますが」
どれも子供の遊びである。
「……本当に何もしないんだな」
どこまでが本当かは判らないが、神を騒がせないためだと聞けば腑に落ちるような気がしてしまう。
「はい。来客を迎える他は、家族でゆっくりとした時間を過ごす為に、何もしない。それが日本流だそうですから」
家族と言われて、キャロルはまじまじとモーリスを見た。
「それを俺と?」
「はい」
頷いてモーリスが差し出す熱燗を、キャロルは杯で受ける。
「……そうだ、お見せしたいものがありました」
何度か注しつ注されつを繰り返し、徳利の中身が空になる頃、モーリスがそう言って席を立った。
 残されたキャロルが小皿の中身を食べきらないうちに戻ってきたモーリスは、新たに熱燗を手にしていた他は小振りの風呂敷包みを下げていた。
「それは?」
また食べ物かと首を傾げるキャロルに、モーリスは炬燵の上の重箱を隅に寄せ、包みを置く。
「少し前に入手していたのですが、雰囲気に会うかと思って連れてきていたんでした」
連れて来たという表現にキャロルが訝しく首を傾げる間に、モーリスは天で結んでいた風呂敷を解くと、中に入っていた物を取り出した。
 それは、松の盆栽だった。
 海辺の強風に曲がったような樹姿、濃い緑の松葉は冬だと言うのに落ちることなく密生している。
「雰囲気に合うでしょう?」
姿形だけを見ればまるで数百年の年月を重ねたような風格があるが、机上に丁度良いミニサイズだ。
「良い子でしょう。まだ若い木なのですが、樹齢に見合わぬ幹の太さと枝葉の勢いの良さに、つい求めてしまいました」
モーリスの本分は庭師である。その職業病的な拘りに、見るべきものがあるからこそ、こうして旅先まで持って来ているのだと理解は出来たが、キャロルにはその拘りが何なのか判らない。
「……モーリスが世話を?」
「はい、若いだけあって中々やんちゃな部分もありますが、そろそろキャロルに紹介しても良い風合いが出せたかな、と思いまして」
見れば見るほど、小さな松である。
 モーリスの曰わく所のやんちゃな風合いとやらが、何を指すのか判らず、キャロルは取り敢えず、松を鉢ごと取り上げて両手に掲げ、まじまじと見た。
 小さな鉢に収められた松が、狭苦しそうに根元を波打たせているのがやんちゃなのか、緑の苔が地面から幹へと生えているのが風合いなのか、キャロルは観察眼を総動員して、何か気の利いたコメントを捻り出せないものかと頭を悩ませる。
「そんなに近付けたら、目を突きますよ」
尖った松葉を警戒して窘めるモーリスに、キャロルはふ、と脳裏に浮かんだ単語に、一つ頷く。
「……趣がある」
日本に渡ってから知った言葉は、終ぞ使ったことはないが、この場にこそ相応しい。
 褒めて欲しそうなモーリスの眼差しに、キャロルは胸にさざめく愛しさを抑えられずに微笑んだ。
 凧も双六も、提示して見せた三箇日を過ごすための道具を全て、言えばモーリスは全て持ち出してきたに違いない。
 キャロルと過ごす時間のために、考えられる全ての品を用意して、雅趣を添える盆栽もそうしたものの内の一つだったのだろう。
「どういった経緯で手に入れたのか、知りたいな」
炬燵に入り直し、話題を振るキャロルに、モーリスが眉を上げた。
「初詣はよろしいんですか?」
「何もしなくていいなら、何もしないでいよう。モーリス」
キャロルの寝正月宣言に、モーリスも頷きかけて小さく手を打った。
「そうでした、全く何もしないわけにはいきませんよ、私達は」
掌を返したようなモーリスの意見に、キャロルは目を丸くする。
「古川柳に、二日の夜波乗り船に舵の音、と言うらしいので。これだけは外せません」
「二日? 船でも乗るしきたりがあるのか?」
温泉地は山の中である。
 一体どうやってと首を傾げるキャロルに、モーリスは目を細めて笑んで見せた。
「それは明日のお楽しみ。夜にはきちんと乗せて差し上げますから、何の心配もありませんよ」
それまでは、何もしないでいましょうと、モーリスの言の意味を察せられぬまま、キャロルは深く追求すべきではないのかと一歩退いて頷く。
「それまでは、のんびり英気を養いましょう」
 モーリスに勧められるまま、猪口に注がれた日本酒を味わう。
 その穏やかさは、昨日までの忙しさがあってこそ際立つのではないかと、キャロルはふと悟る。
 愛しい人と、時間や日常に追われることもなく。
 ぬくもりを共有しながら、何もしないのが、一番の贅沢だと。

 そうして、和の正月を堪能していたキャロルが、姫始めという言葉とその意味を知るのは、翌日のことである。