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縁繋がる冬の日
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「インフルエンザ?」
東京の一等地にある広大な屋敷。いつもの様に目覚めていつもの様に制服に着替え、朝食をと思って食堂に姿を現した斎瑠璃は、母が口にした言葉を繰り返した。
「そう。全員感染したみたいなのよ」
「感染って…みんなうちの病院で予防接種は受けているはずでしょう?」
母、美鈴の言葉に、瑠璃は椅子を引いて座りながら眉を顰める。斎家の系列には病院もある。双子の父がそこで院長を務めていた。ゆえに斎家に仕える使用人達は全員、毎年インフルエンザが流行する前に予防接種を受けることになっていた。
それなのに、母によれば使用人が全員高熱でダウンしたという。
「予防接種を受けていたから重くはならないと思うのだけど、数日の間は不便だと思うわ」
「その割には、食事は普通に出てきているみたいだけれど?」
そう、使用人が全員ダウンしたはずなのに、テーブルにはいつものように朝食の準備が整っている。
「ああ、それは――」
美鈴が口を開こうとした時ティーセットの乗ったワゴンを載せて厨房から出てきた女性がいた。そちらに視線を向けた瑠璃は、見覚えの無い顔を見て表情を変える。
「お初にお目にかかります、お嬢様。私、エリヴィア=クリュチコワと申します」
金の髪に透き通るように白い肌の女性。メイド服に身を包んだ彼女、エリヴィア・クリュチコワは深々と頭を下げた。
「至急都合がつく人を雇うことになってね。彼女にお願いしたの」
瑠璃の「この人は?」という視線に答えるように美鈴はエリヴィアを紹介する。
「彼女一人? うちがどのくらい広いと思っているの? 本当に大丈夫?」
瑠璃の値踏みするような視線。だがエリヴィアはそれに動じた様子も無く、瞳を閉じたまま黙っている。
「彼女の前の奉公先でも、良く仕事をこなす、手際がいいって評判だったらしいのよ。だからコネを使って引き抜いてみたわ。この通り、朝食の準備もしっかりとしてくれたし」
「……わかったわ。お母様がそういうなら私はもう何も言わないけど、学校に行っている間に家の中の事を彼女一人に任せるのね? もし手の届いていない部分があれば、追加で人を雇いましょう。いいわよね?」
瑠璃は母とエリヴィアを交互に見、そして軽く暖められたロールパンをちぎる。母とて料理教室の講師をやっている都合上家事をしている時間は殆ど無い。いくらエリヴィアが優秀だとて、一人でこの家を切り盛りできなければ追加で人を雇うことを選択するだろう。母は瑠璃と同じ。緋穂と違って現実主義者だ。
「――ぁ」
そこで初めて気づいたように瑠璃はパンをちぎる手を止めた。そしてエリヴィアに、彼女からの最初の仕事を命じる。
「早速で悪いけれど、緋穂を起こして来てくれない? 毎朝起こされないと起きれないのよ、あの子は」
軽い溜息と共に吐き出された言葉に、エリヴィアは深く頭を下げた。
「かしこまりました」
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エリヴィアは「夢幻分身」を使い、自分の分身を作り出した。
インフルエンザにかかった使用人達は皆他に移さないようにと系列の病院に収容されたという。それならば今この屋敷にいるのは双子の母・美鈴と瑠璃、緋穂の三人だけ。よくよく気をつければ分身複数を一度に見られる事態を避けることは簡単だ。
分身の数人が客間の掃除を始め、一人はキッチンに残る。そしてエリヴィア本体は緋穂の部屋へと向かった。
コンコン‥‥
二度、ノックする。
コンコンコン‥‥
再びノック。だが返答は無い。毎朝起こされないと目覚めないというのはどうやら相当寝起きが悪いらしい。
「失礼いたします。緋穂お嬢様」
一応断りをいれ、ドアノブを回す。ゆっくりと扉を押すと、ふわりと甘い匂いが鼻腔をついた。アロマキャンドルの匂いだろうか。
室内は実に女の子らしい装飾品で満ちていて、レースのカーテンや人形やぬいぐるみ、アンティーク物の花瓶に入った花に可愛らしいフォトフレームに入れられた写真。一歩ずつ奥に足を踏み入れればいれるほど、この部屋の主が可愛らしい少女であることが想像できて、何となくこころがふわりとする。
「ん‥‥」
部屋の奥に置かれたクイーンサイズのベッド。ふかふかの布団に埋もれるようにして、銀色の髪を波打たせた少女が眠っていた。彼女が緋穂、だろう。
「お嬢様、お目覚めのお時間です」
ベッドサイドに立ち、エリヴィアは淡々と告げる。だが、緋穂は目覚める気配が無い。
「緋穂お嬢様」
俯くようにして少し顔を近づけてみる。だがやはり反応はない。よほど眠りが深いのかそれとも夜更かしをしたのか。
さてどうしよう。一瞬、迷う。
お嬢様の身体に無闇に触れていいものか、けれどもこのままただ呼びかけていても一向に目覚める気配はないし。
「失礼いたします」
意を決して緋穂の背中と布団の間に腕を入れ、思い切って彼女の上半身を起こさせる。そしてそのまま支え。
「おはようございます、お嬢様」
ベッドサイドに膝を着いて耳元で囁けば、
「――……ん、おはよぉ」
半分寝ぼけたまま、緋穂はエリヴィアに笑みを向けた。誰――と問わないところからして、まだ寝ぼけているようだ。
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「………」
午後、学校から帰宅した瑠璃は屋敷の有り様を見て絶句していた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
深々と頭を下げるエリヴィアは朝と同じく無表情。だが洗濯に掃除、庭の手入れ、そして午後のお茶の準備まで全て完璧に整えられているのだ。
「これ…貴方が全部やったの?」
「はい」
訝しげに問う瑠璃に、エリヴィアはただ頷いて返す。
「すっごーい! エリヴィアさんって優秀なんだね!」
緋穂は無邪気に喜んでいるが、そういう問題ではない。この屋敷に通常どれほどの使用人がいるのか、どれほどの仕事量かあるのか、瑠璃は頭の中で計算していた。とても二人が帰宅するまでの間にこなせる量ではない。
「瑠璃ちゃん、他に人を雇う必要なくなったね! エリヴィアさん一人でこんなに出来ちゃうんだもの」
「……ええ、そうね」
瑠璃はどこか腑に落ちない様子だが緋穂はエリヴィアをいたく気に入ったらしく、家庭科の課題を手伝ってほしいなどとせがんでいるようだった。
「お嬢様方、まずはお茶はいかがですか? スコーンとパウンドケーキを用意してあります」
ほぼ無表情なのは変わりないが、親しみを込めてエリヴィアは二人をテラスへと促した。
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庭に面したテラス。まだ風が冷たいのでガラス張りの窓は締め切ったままたが、そうすれば日差しが差し込んできて暖かく感じる。
エリヴィアは双子の皿に菓子を取り分け、緋穂には入れたての紅茶を、瑠璃には挽きたての豆で入れた珈琲を出した。双子の好みをすでに頭の中にいれていることに、瑠璃は驚いているようだった。
「瑠璃お嬢様にお手紙が届いております」
一旦下がり、銀盆に手紙とペーパーナイフを載せて戻ってきたエリヴィアは、それを瑠璃に差し出す。ありがとう、そう言って手紙とペーパーナイフを受け取った瑠璃はナイフをいれて封を開き、そしてさっと手紙に目を通して――
「どうしたの、瑠璃ちゃん」
緋穂が片割れの異変に気がついて、紅茶の入ったカップを手に持ったまま首を傾げる。エリヴィアは使用人として主人の手紙を後ろから読んでしまわないようにと少し離れたところでその様子を伺っていた。
ぱさ…
瑠璃がテーブルに便箋と封筒を置く音が聞こえた。そして腕と足を組み、椅子に深く座る。大きく一つ溜息。
何か悪いことが書かれていたのだろうか。だが乞われもしないのにこちらから訊ねる訳にもいかず、エリヴィアは静かに瑠璃の後姿を見守っていた。
「……この子、先週学校の屋上から…」
封筒の差出人を見た緋穂の言葉に、エリヴィアは僅かに眉を顰める。ということは瑠璃に届いたのは遺書ということだろうか。
「……自分の口ではっきりと、言えばいいのに」
ぽつり、呟かれた瑠璃の言葉は硬くて。
もともと死に近い場所にいる彼女達。
手紙を送ってきたのは、彼女達とそんなに接触の無かった者なのかもしれない。
だが、たとえ瑠璃が気丈だとはいえ彼女はまだ14歳の少女。
表に現さないのだとしても、遺書を受け取って心揺れぬはずは無い。
エリヴィアはその書面に書かれた言葉を知らない。こっそり盗み見るつもり問うつもりも無い。
だから彼女は二人に気取られぬように室内へ戻り、そして救急箱を手にして瑠璃の隣へ跪いた。便箋で切ったのだろう、その細い指先に血がにじんでいることに気がついたから。
「……手当てをいたしましょう」
瑠璃の指先は冷たく感じた。エリヴィアはその手を温めるように取り、そして丁寧に手当てを始める。
きっと見上げれば、瑠璃の表情を見て取れるだろう。だが彼女はそれをしない。
ただ、指先からぬくもりだけを、伝え続けた。
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程なくして使用人達もだんだんと回復し、現場に復帰し始めた。これでエリヴィアはお役ご免となる。
だが――
「貴方さえ良ければ、もう少しうちに仕えてみない?」
どこか気恥ずかしげに、視線をややそらしながら口にしたのは瑠璃。
「緋穂も貴方のこと、気にいったみたいだから」
緋穂『も』ということは――
「はい。喜んでお嬢様方に、お仕えいたします」
エリヴィアはさらりと金の髪を揺らして、いつもの様に深々と頭を下げた。
――Fin
■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
【7658/エリヴィア・クリュチコワ様/女性/27歳/メイド】
■ ライター通信 ■
いかがでしたでしょうか。
使用人という一線を守りながらも双子を気にかけてくださる、その優しさを出せるようにと思いながら執筆させていただきました。
気に入っていただける事を、祈っております。
書かせていただき、有難うございました。
天音
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