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ヘイ、ハニー!
蜂は、花に一体どんな魅力を見出しているのだろう。香りか、色彩か、蜜か。風に揺れる影か。人ならざるものの気持ちを汲み取る事など、人には出来ない。……シリューナ・リュクテイアの場合も、そうだ。黒く長い髪をゆっくりとかきあげ、赤い瞳で目の前の扉を見つめる彼女は、別次元からやってきた――竜の女性である。
ぽつりぽつりと何かを呟きつつ、扉に下がっている鏡を弄る。縁を指でなぞり、まばたきをしてはそっと鏡を覗き込む。そしてほんの少しだけ首を傾げ、再び鏡に手を伸ばす。片手で抱えているのは、何冊もの色褪せた古い本だ。金のインクで書かれたタイトルだけが、辛うじて読み取れる程度の。
「お姉さま、中のほうの魔法装飾品、準備できました!」
シリューナが弄っていた扉が開き、一人の少女が顔を出す。
「ありがとう、ティレ。数は間違えてないだろうね?」
「大丈夫ですよ。ちゃんと二回は確認しましたから」
ティレ……もとい、ファルス・ティレイラが、元気よく頷いてみせる。その表情を見て、シリューナは目を細めた。
「そうだね。下手に弄ったら、ティレがここに帰って来れるはずは無かったし。さて、戻るぞ」
ぴしり、と、ファルスの表情が凍りついたのを知ってか知らずか、シリューナが踵を返す。廊下を歩いていく彼女の背中をしばし見つめ、扉に視線を移すファルス。二回確認してよかった、と、心の底から溜息を付いた。
しかし、そんな事を聞いてしまえば、扉に何が仕掛けてあったのか、どこに繋がる魔法がかかっていたのか、気になってしまうのが人情……竜情と言うものだ。否、こんなに好奇心旺盛なのは、ファルス個人……個竜だけかもしれないが。
「お姉さまが私に任せたってことは、私でも大丈夫な場所に飛ばされる、ってことだったのかな」
それとも、失敗したらシリューナですら面倒な事になるのか。
じーっと扉を見つめ、そこに飾ってある鏡と、それに映る自分を眺める。どうしよう? どんな場所に繋がっているのだろう? そんな気持ちが、自分自身でも見て取れるほどに、瞳からきらきらとした光になって溢れている。
「やっぱり、気になるよね」
文字通り、自分に言い聞かせるファルス。うんうんと頷いて見せれば、鏡の中の自分が小さく手招きしているように見えた。ドアノブに手をかけ、扉を開けるまでに、時間は必要ない。ファルスを後押しするのは、不思議な出来事と未知のものへの期待、そしてそれに見合った好奇心だ。
扉を開けて飛び込んできた景色に、ファルスは溜息に近い感嘆の声を上げた。目を見張るような青空と太陽の光、そして巨大な花たち。瑞々しい茎があちらこちらから生えて、花びらがまるで雲のように空を覆い隠している。葉はファルスの背丈の二倍以上もある場所に広がり、そよ風に揺れている。
見たこともない花、……否、世界。
「お姉さまったら……こんな素敵な世界だったなら、言ってくれればいいのに!」
帰ってこれないなどと言われれば、嫌が応にも恐ろしい場所を想像してしまうだろう、と、悪態をつくファルス。
早速、一番近い花のもとへと駈け寄る。何十年も生きる大樹の幹よりも立派な茎は、耳を澄ませば水を吸い上げる音すら聞こえてきそうなほど活き活きとしていた。銀色のふわふわとした毛や、肉眼では確認できないほどの凹凸まで、手にとるように見る事が出来る。太陽に向かって開かれた花弁は、頭上遥か遠く遠くに。すうと漏れた光に、目を細める。
ファルスはきらきらとした瞳でそれらを見て廻った。もしも木登りのように上ってみれば、花の上に座る事も出来るだろう。まるで御伽噺の小人や妖精の様だ。
「『楽しい世界だから帰ってこなくなる』って意味だったのかな」
ふわふわの地面を歩きながら、ひとりごちるファルス。
「どれも知らないお花ばっかり!」
一つとして同じ花が植わっていることは無い、無限に続くであろう花畑。夢のような場所である。もしも隠されていたのだとしても、納得できる場所だ。
下から見上げる花もまた美しいものだ。ひとつの花をじっくり眺めては、もう一つの花の傍へと駈け寄る。それはとても楽しい過程だった。足の下の地面の感触、夏を思わせる晴れ晴れとした空、香るのは花と土の素朴であたたかい匂い。ファルスはそれらひとつひとつを確かめるように歩いて回った。夜になったら、また素敵な景色が見れるのだろう。
「確かに、今日一日は帰れないかも。お姉さま、ごめんなさい!」
心の中で手を合わせながらも、ついつい笑顔を零してしまう。
「こんな世界、独り占めしようとするから。私にだって教えてくれればいいのに」
一日なんて、きっとあっという間に終わってしまうだろう。店の手伝いや仕事も忘れ、ぱあっと遊べる日の一日や二日、あっても誰も咎めないはず。
しかし。ファルスの耳に、風の音とも、それに吹かれる花のこすれる音とも違う響きが聞こえてきた。最初は気にならないほどの小さな音であったが、いつからともなく大きくなってきた。
「何……?」
突風の音や、何かの鳴き声かと思い、足を止めて耳を澄ましてみる。だが、今までに一度も聞いた事の無い音だった。流石に不審に思い、花を楽しむ事も止め、警戒し始めるファルス。音は波打ち、大きくなり小さくなり、ゆっくりとこちらへ向かってきている。
記憶を手繰り、一番近いだろうイメージを引き出してみる。
「(……羽? 昆虫の羽の音? それにしては大きすぎる)」
羽音が近づいてきた。さらさらと揺れていた葉と花が、何枚か千切れて舞い上がる。吹き付ける風と突き刺さるような音に、ファルスは眉をひそめた。首筋を撫でるのは波打つ自分の髪。目の前に手を翳すも、吹きすさぶ突風は前髪を躍らせ目を乾かす。だんだんと大きくなる音に、黒い影が花畑を覆い始める。
通り過ぎるいくつもの風を耐えた時。鼓膜を劈くような羽音を立てて現れたのは、視界を半分以上も遮るほどの巨大な蜂の影だった。予想よりも一回りも二回りも大きい蜂の出現に、かろうじて開かれていた瞳はその色を変える。太陽の光を遮り、真っ黒に染まったその昆虫は、ふらふらと飛び回りながらあちらの花へこちらの花へと移動していた。
誰かの悲鳴と聞きまごうほどの羽の音は、もはや風とそれに吹き飛ばされる葉の音も消してしまっている。あまりにも不自然なほどのその蜂の巨大さ、羽音の響きに、ファルスの驚きと恐怖の呟きは吸い込まれていってしまった。
複眼が、かちり、と、ファルスの影を捉える。
ごうと言う音に、ファルスは反射的に飛び退いた。蜂が、ここへ向かってきたのと同じ速さで飛んできたのだ。振り返れば、自分が先ほどまで居た場所を蜂が通り過ぎ、植わっていたはずの花から花弁が散っている。奴がこちらに向き直るまでの間に、なんとかして出口を探さなければ。音を立てて落ちる巨大な花弁を尻目に、ファルスは駆け出した。
一歩二歩と跳ぶように走り、三歩目、足が地面に付くかつかないかという一瞬で、ファルスは飛び立った。背中には大きな翼、頭には角が生え、すらりとした尻尾も見える。大きく翼をはためかせれば、空気を扇ぎ押しのける音。飛行を妨げるものは何もなかった。
「(そうだ、この前お姉さまが持ってた童話の絵! ここはあの絵の花畑なんだ)」
脳裏に蘇るのは、古い絵本の挿絵だ。話の中に出てくる花畑。文中には蜂や花の細かい描写こそなかったものの、巨人がこの花畑を見れば挿絵と同じだと頷くだろう。手で描かれた花に、同じものなど一つとしてあるはずない。逃げながらも振り返ってみれば、蜂がぐらりぐらりと揺れながらこちらに近づいてくる。
いくつもの茎を通り過ぎ、何度も道を替えて飛ぶ。それでも、自分よりも数倍も大きな羽を持つ蜂を引き離す事など出来ない。羽音はもうそこまで迫り、風は背中を打つ。振り返る暇すらなくなった。
悲鳴半ばに飛びつづけているファルスの耳に、ふと妙な音が聞こえた。水に泡が爆ぜるような音。
その音にファルスが振り返るのと、彼女の腕に冷たい感触があったのは、丁度同じ時だった。小さく「あっ」と悲鳴を上げるファルスの腕には、黄金色をしたどろどろの蜜がからみついていた。
「何、これ」
直後、片翼ががくんと何かに引っ張られた。蜂の口から発射された蜜が、翼にも付けられたのだ。
「嫌!」
どさりと地面に落ち、なすすべなくもがくファルス。腕も翼も思うように動かせず、それでも地面を這って進もうとするが、動けば動くほど蜜の感触が伸びていく。肩、首、腰。声を上げて逃れようとするファルスの傍へ、蜂の影が落ちる。髪、足、尻尾。蜜が固まり始めた。腕を動かそうとするが、無駄だった。指も、数センチさえ曲がらない。首を動かすことすら出来ず、あとは悲鳴を上げるだけ。翼を広げ、片手を遠くに伸ばし、膝をついた状態のまま、ファルスは蜜の中に囚われてしまった。
蜂はしばらくその様子を上空から観察していたが、ファルスが声を上げることも出来なくなったと見るや、花を押しのけて地面に降りてきた。餌となった彼女を巣に持って帰るつもりなのだ。
しかし。
「全く、どこにも居ないと思ったら」
はあ、と、溜息。きわめて落ち着いた表情で、その様子を眺めている人影があった。当然と言えば当然。帰ってこないファルスを探しに、その師匠であるシリューナが迎えに来たのだ。
「注意すればいいのか、しない方がいいのか。ティレ……もしかして、頭から爪先まで好奇心で出来てるのか?」
そちらを振り向く暇もなく、蜂は消し飛んだ。シリューナの力を持ってすれば、ファルスには逃げるだけで精一杯だった昆虫ですら、風前の灯火。シリューナは、悲鳴なく消えた蜂とそれが居た場所を一瞥すると、さて、とファルスへと視線を移した。
「黄金色の蜜、か」
こつん、と、凝固した蜜を叩いてみる。悪くない。強度も申し分なしだ。まじまじとそれを観察するシリューナ。
全速力で敵から逃れる為に広げた翼。鞭のようにしなる尻尾。恐怖と対峙した時の表情。躍動感溢れるポーズで停止したファルスは、シリューナの観賞欲を刺激するのに適当すぎるオブジェだった。蜜色の塊を、遠くから眺め近くから眺め、表情を観察し、まるで高尚な美術品と出会ったかのように……無論、シリューナにとっては、このファルスはそれ以上の価値をもつ可能性があるのだが……興味が完全に移ってしまった様だ。本来の目的は、この部屋に作った異空間の調整と、ファルスを助け出す事だったはずなのだが。
「店に置いても、いいかもしれないな……」
置くのに丁度いいスペースがあっただろうか、と、首を捻るシリューナ。心なしか、ファルスの表情が、別の気持ちを訴え始めた気がした。扉に手をかけたときから気づけばよかった……“約束は守られる為にあった”のだと。
「実験的には失敗だが……この世界はこの世界でとどめておくのも悪くない」
本来ならば、花畑は普通の大きさで、蜂も無論普通の大きさだったのだが……蜜色の彫像を作るのに、数匹飼いならしてみるのもいいかもしれない。シリューナが顎に指をあてて考え込んでいる間も、ファルスはただ恐怖の表情のまま凍りついていた。
結局、ファルスが絵本の世界から助け出されたのは、それから随十分後の事だった。
自業自得といえばいいのか、シリューナに向かって怒っていいのか。何を言ってもあしらわれるだろうと解りつつも、ファルスの胸の中にはそれなりの文句の言葉が渦巻いていた。
金色の檻から助け出されるのは、まだまだ先のことなのだが……。
「ああ、そう言えば」
ファルスと共に扉の向こうから戻ってきたシリューナが、感慨も無く言う。
「ティレが戻ったら食べようと思っていたハニーパイだが、あまりに帰りが遅いので全部食べてしまった」
あまりにしれっと言い放つので、ファルスがそれに反論するまで、随分間があったそうだ。
まあ、ファルスもファルスで、もうハチミツは見たくない心持だったろうが。次の日シリューナが買ってきたティーハニーも、しばらく使う気にならなかったほどだ。美味しい上に高いものだったのに。それで作った紅茶が美味しかったことに気付いた暁には、ファルスはおそらく今までより行動を起こさないようになるだろう……と言う予想は、ものの数十分で打ち崩されたらしい。
ファルスから好奇心を除いたら、何が残るのか……。彼女らを眺めている人々は、何度そう思ったことだろうか。
もしかしたら、食欲が残るかもしれない。と言うのは、シリューナの持論の一つである。
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