コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ウェブゲーム ゴーストネットOFF>


もといぬ☆

 霧のような雨が降っていた。
 小さな箱の中から覗ける、灰色の雲に覆われた空。その四角く切り取られた空の中、ご主人様が私を見下ろしている。
 私は、自分が捨てられたのだと気づいて、ご主人様に必死で問いかけた。「何故?」と。
 でも……その頃は小さくてわからなかったけど、ご主人様は私の言葉なんてわからない。私の問いかけに、ご主人様は答えない。
 必死で鳴いてる私に向けたその顔。あまり好きじゃない顔。私が何か失敗した時、私を叱りながら浮かべていた顔。
 きっと、私が悪かったのだ。でも、私の何が悪いのだろう? そんな事を必死で考えていた覚えがある。
 戸惑う私の見ている中、ご主人様は隣にいた人の方を向いた。
 私が褒めてもらえた時、見せてくれた顔。優しい顔。それをその人に向けている。
 その人は手に傘を持っていて、ご主人様に雨がかからないようにしていた。
 そして、ご主人様は私に背を向ける。その人と肩を並べて去っていく。
 ああ、私は捨てられた。それは、私がご主人様の隣にいた人のようじゃないから?
 私の前足じゃあ、傘は持てない……

 目を覚ました時、目に入ったのは霧のように降りしきる雨。まるで、あの日と同じ。
 だから夢を見たのだろうか? 私を捨てた最初で最後のご主人様の夢を。
 捨てられた事も含めて、今となってはどうとも思っていない。今は顔も憶えていないくらい……
 私は立ち上がり、寝そべっていた川縁の茂みの中から這い出す。
 ただ、あの日の疑問は私に残っている。だから……私は神様にお願いしてみる事にした。
 蔵前八幡。昔々、二十一日の裸足参りの満願成就、一匹の犬を人間にしたと伝えられる。
 もし私が人間だったなら……
 人間として愛してもらえるだろうか?



「狼女ですか?」
「そ! 狼女!」
 晴れ渡る空の下、街の雑踏。後を付いてくる影沼ヒミコの質問に、SHIZUKUはずんずんと歩みを止めることなく元気よく答える。
 とある公園に最近、狼女が出るらしいのだ。で、怪奇探検クラブの一員としては、当然のように調査を行うべしと件の公園へ突撃を敢行中。
「実は、公園生活者のファングさんだったとかでは?」
「あー……あの人もふさふさだしねぇ。でも“女”って言われてるのよ?」
 ヒミコに言われて、東京で傭兵をやってる男を思い出す。変身するとふさふさになるが、どう見ても女っぽくはない。
「ま、捕まえてみればわかるよね」
「で……どのような算段で?」
 公園について足を止めたSHIZUKUに、ヒミコが問う。
 そこそこ広い公園であり、木陰や茂みなんかもあって、ここを探し回るのは少々手間だろう。
 SHIZUKUは、ヒミコのそんな問いに自信満々で答えた。
「大丈夫よ! 何日か前から、手は打っておいたの!」
 言いながら取り出す缶詰と皿。缶の表面には、犬の絵が描いてある。
 SHIZUKUは、皿を適当にその場に置くと、缶を開けて中身を皿の上に落とした。
「これでよし!」
「あの……餌付けですか?」
 こんなので狼女を捕まえられるなんて言う事を本気で考えてるわけ無いと思わせておいて、本気でそう考えているんだろうなぁSHIZUKUちゃんは、ああ素敵ですわぁ。などと言うような生暖かい視線でSHIZUKUを見るヒミコ。
 SHIZUKUは、やっぱり確信を持ってうなずく。
「何日か前から、餌を置いて帰っているの。そろそろ気を許して近寄ってくる筈! そこが捕獲の大チャンスよ!」
「さすが、SHIZUKUちゃんですわぁ」
 ヒミコはにこやかに微笑みつつ、SHIZUKUを本当に尊敬しつつも、さすがにそれで捕まったりはしないんじゃないかなぁと常識的に考えた。
 が……その時、二人の側の茂みが揺れる。
「ん!? 来た! ヒミコちゃん、シャッターチャンスを逃さないで!」
「あっ、はい!」
 瞬間的に反応して、どこからともなく虫取り網を取り出すSHIZUKU。正直、SHIZUKUじゃあトンボだって捕まえられないだろうに……それで何をするつもりなのかは言うまでもない。
 そして、ヒミコはカメラを構える。茂みじゃなくてSHIZUKUの方へ向けて。何を撮るつもりなのかは、言うまでもない。
 そんな二人の前、揺れていた茂みから何か大きな物が飛び出した。
 それは、一度の跳躍でSHIZUKUに覆い被さると、彼女の体を押し倒す。
「きゃっ!?」
「SHIZUKUちゃん!?」
 SHIZUKUの悲鳴。ヒミコの驚きの声。そして、
「ご飯くれる人だぁ!」
 何だか、微妙に抜けた声と、ぺちゃぺちゃと濡れた音。
「SHIZUKU……ちゃん?」
 ヒミコの見下ろす先、白いふさふさした物の下敷きになったSHIZUKUがいた。
 ヒミコはとりあえず、SHIZUKUの上にいる物を観察する。
 頭は犬みたいってーか犬。白くて、耳は垂れている。可愛い。
 しっかり人間サイズの体は人型で女性……何か凄くプロポーションが良い。お胸の辺りなんか、高峰さんに匹敵しそうな勢いだ。ヒミコはもちろん、SHIZUKUなんかとは比べてはいけない。
 ただ、全身をふさふさした白い毛が覆っているし、お尻で箒みたいな尻尾がばふばふと左右にはね回っている。やっぱり、犬? 犬娘?
 そして、何かすっごい嬉しそうにSHIZUKUの顔を舐め回している。
 そこまで観察した後、ヒミコは少し考えてから、おっぱいの下敷きになって顔を舐められているSHIZUKUの写真を撮った。
「……ひみおひゃ〜ん」
 唾でどろどろになりながら助けを求めるSHIZUKUに、ヒミコはちょっとだけ頬を染めて答える。
「ああ……これはシャッターチャンス。SHIZUKUちゃんは、犬娘に食べられてしまうのですね。主に三大欲求の食欲と睡眠欲を除いた分野において」
 何となく人ごとなヒミコ。しかし、彼女の不用意な一言は、犬娘の反応を呼んだ。
「え? 食べて良いの? ご飯? ご飯くれるの? 嬉しい!」
「きゃあああっ!?」
 SHIZUKUの上にいた犬娘は、今度はヒミコに襲いかかった……

 神様は応えてくれた。
 私を人間にしてくれた。
 私は人間として恋をしたい。人間として愛されたい。
 そうしたらきっと……

 いやまあ、そんな事よりも今は、餌をくれる優しい人間に念入りに挨拶しよう。
 犬娘は、ヒミコをおっぱいで押し潰しながら、ヒミコの顔を満遍なく舐め回した。
「……し、しじゅくひゃ〜ん」
「……ヒミコちゃん、さっき何かとんでもない事言ってなかった?」
 唾でどろどろになりながら助けを求めるヒミコに、SHIZUKUは自分の顔の唾を袖でぬぐいながら聞く。もちろん、ヒミコはその問いに黙秘権を行使した。
「と……ともかく……」
 SHIZUKUは立ち上がり、思い直して犬娘を見る。
「どうしよっか? 見つけちゃったからには、知らん顔出来ないよね」
 世の中というのはなかなか面倒な物で、知ってる人には人外が普通に外を闊歩している様に思えても、やはり今は人の世界。見た目でいきなり人外とわかるような犬娘が歩き回るわけにはいかないわけだ。
 これが大事になる前に、この都心の公園から何処か安全な場所に匿ってやるべきかなと思うわけだが、こんな大きな犬娘を隠して運ぶ算段はSHIZUKUには無い。
 それに、安全な場所と言うのもあまり心当たりがない。草間興信所は探偵が嫌がるだろう。あやかし荘にやっても家賃が払えそうにない。神聖都学園でこっそり飼うとかそんなレベルでもなさそうだし。
 それに、匿ったとしてもこれからどうしたものか?
「ねえ……って、名前わかんないや。犬さん?」
「? シロよ」
 SHIZUKUの問いに、犬娘……シロは、ヒミコを舐めるのを止めて答えた。
 シロ……犬だった時に、人間が呼んでた名前。白犬だからシロ。
「じゃあ、シロちゃん? その……」
 名前を教えて貰ったSHIZUKUは、とりあえず今後の事を聞こうとして、どう言ったものかと迷った。
「これから、どうする? って、ちょっと違うな」
 質問の意味が微妙に違う気がする。SHIZUKUは、いきなり変な事を聞いてしまったと、別な言葉を探しつつ眉根を寄せた。
 一方、シロの方は質問をそのまんま受け取り、あまり考えずに答える。
「恋して愛したい! 人間がどんな気持ちでそうなるのか知りたい! 神様も、頑張れって言ってたの……夢かな? でも、みんなに好かれる人間になれって言われた気がする! あと、お肉をいっぱい食べたい! 体がおっきくなったから、すぐお腹空いちゃうの。それから、お腹いっぱいで、草っぱらでお昼寝したい! 今日は晴れだから、気持ちいいよ! すっごく、気持ちいいよ! あっ、ボール投げて! 拾ってくるよ! すっごく、上手いんだよ!? そしたら、よしよしってして! それから……」
「えーと、OK! わかったから!」
 目をキラキラさせながら怒濤のごとくまくし立ててくるシロに、SHIZUKUは困りながら声を上げてシロを止める。
 無論、シロの答えは、現状の差し迫った問題の解決には全く役に立ってない。
「ともかく、どうしよっか?」
 SHIZUKUは、いまだシロに押し倒されたままのヒミコに聞く。ヒミコは目を閉じて、ちょっと考えた後にSHIZUKUを見上げて答えた。
「とりあえず、助けを呼んでみては? 私たちだけじゃ、どうにもならないようですし」
「……そだね」
 SHIZUKUはうなずいて携帯電話を取り出し、誰を呼ぶか考えた後に電話をかける。やがて繋がった相手に、SHIZUKUは歯切れ悪く切り出した。
「……あ、もしもし? SHIZUKUなんだけど……ちょっと、犬を拾っちゃったっていうかその……困っちゃって。あはは」



 SHIZUKUとヒミコの二人から、犬を拾ったとの連絡を受け、隠岐・明日菜はその公園へと車を走らせていた。
 SHIZUKUの口ぶりからして、いつも通りに普通ではない事に巻き込まれているのは自明の事。それなりに事情を聞き出し、用意して公園へと向かったわけだが……

「世の中不思議な事ばかりだけど……これはある意味最大の不思議ね」
 公園の奥の方。芝生の上で、フサフサの生き物に乗っかられているヒミコとSHIZUKUを見て、隠岐は苦笑した。
「隠岐さん、助けてよぉ」
 SHIZUKUが、舐められてどろどろになった顔を上げて助けを求める。
 ヒミコも、たっぷりじゃれつかれたらしく、同様の状態だ。
 電話をしてきてから結構な時間があったはずなのだが、そのあいだどれだけこういう状態で居たのやら。
 ともあれ、二人の上に居る犬……ぽい何かは、新たにやってきた隠岐に興味深げな目を向けていた。
「この子が、お話の“犬”ね?」
 隠岐は犬っぽい何かを素早く眺め回し、簡単に観察する。
 頭部は犬のまま。身体は、多少の差違はあるものの人間の女性と同じ。胸に大きな肉球が二つついたその体型だけ見れば、猥褻物陳列罪的にとてもよろしくない。毛がフサフサしていて概ね隠れているのが救いだが、お腹の方の毛は薄いので少々……というかかなり際どい。
 で、SHIZUKUとヒミコの二人に激しめのスキンシップをとっている所を見るに、元々、人懐こい性格なのだろう。毛皮に覆われているとは言え、裸でじゃれついてくるとか……おそらく男には毒だ。
 隠岐は少し離れて、犬の動きを探る。
 迂闊に手を出せば、SHIZUKUとヒミコの代わりに、自分が犬の下敷きになるだろう。それはちょっと避けたい。
「ん……と」
 隠岐はふと視線を外し、そこに転がっている皿に目をやった。
 中は既に空。舐められた様に……実際舐めたのだろうが、ピカピカに綺麗になっている。
「なるほど、ちょっと待ってなさい」
 隠岐は助ける二人に無情にも背を向けて、公園の外へ向かって歩き出した。
 コンビニの品揃えが良い事に期待しつつ……



 知り合いの女の子が、公園で犬を拾って困っているみたいなので、犬を引き取ってあげて欲しい。深沢・美香が不意の電話で聞かされたのは、要約するとそんな話だった。
 深沢にはSHIZUKUやヒミコとの接点がないので、電話をくれたのは共通の知り合いの人物である。本当は彼が頼まれたのだが、引き取るなど出来ないので、代わりにとの事だった。
 特に断る理由もないし、ペットというものにも興味があったので、深沢は教えられた公園へとタクシーを走らせている。
 お金が無かった以前ならJR地下鉄バス辺りを乗り継いでという所だったろうが、今ではこれくらいの事は出来る位の財力はあった。無論、ペットを飼える資金と部屋もである。
 やがてタクシーは公園の入り口で止まった。タクシーの運転手に運賃を払い、深沢はタクシーを降りて公園へと足を踏み入れる。
 久しぶりに緑の濃い風景の中を歩く事もあって、公園の中はなかなか気持ちが良い。
 散歩の気持ちよさに当初の目的を忘れかけた頃、深沢はそれを見つけた。
 二人の女の子を抱え込む様にして、地面に伏せていたフサフサの生き物。その生き物から少し離れた所で、女性が缶を開いて中を皿の上にあけている。
 その女性が皿を地面に置くと、フサフサの生き物は女の子達から離れて、地面に置かれた皿に口を突っ込んで餌を食べだした。
 一心不乱に餌を食べるフサフサの生き物はパッと見は犬に見えるが、どこか違和感がある。その違和感の理由を考えて、すぐに体つきが犬とは違うのだと察した。その身体は、犬ではなく、人間の女性に見える。
 とりあえずフサフサの生き物の姿形には目をつぶり、深沢は女の子二人に歩み寄って話しかける事にした。
「すいません。失礼ですが、SHIZUKUさんと、影沼ヒミコさんでしょうか?」
 女の子二人は、電話で聞いていた特徴に合致する。間違いはないと思うのだけど……と、違った時の事を考えて不安に思う深沢の前で、SHIZUKUは大きく笑みを浮かべた。
「はい、何ですかー? サインなら無しの方向で!」
「はい、その通りですけど、どちらさまでしょうか?」
 SHIZUKUに続いて、控えめに笑みを浮かべたヒミコが答える。
 二人とも涎でベトベトにされているのが気になったが、ともあれ深沢は二人に会釈で応えた。
「はじめまして、深沢・美香と申します」
「あーっ! お手伝いしてくれる人!? 話は聞いてるよー」
 深沢の名を聞いて、SHIZUKUが手を打ち鳴らして声を上げる。
 電話で助けを求めた時、代わりに深沢に頼んだ事を聞かされていたのだ。
 そんな三人の様子に気づき、フサフサの生き物に餌をやっていた女性も、深沢に会釈をしながら話しかけてきた。
「はじめまして隠岐・明日菜よ。貴方も、この子達の助っ人?」
 無論、隠岐がそう問うまでもない。が、深沢はその問いに笑顔で頷いた。
「はい、よろしくお願いします」
「このくだらなくも厄介な出来事に巻き込まれたのが私だけではないというのは、喜ぶべき事なのか、それとも自分と隣人を哀れむべきなのか? 迷う所だな」
 深沢の答えに続き、無遠慮に響いたのは新たに現れた少女の声。
「手当たり次第に助けを求めたな? どうして、お前達は人を厄介事に巻き込むのか」
 公園に立つササキビ・クミノは、そう言いながらSHIZUKUとヒミコを一瞥した。
「あはは。て言うか、ササキビちゃんの周りには厄介事を持ち込む人しかいないじゃん」
 苦笑混じりにSHIZUKUが返す。
 考えてみると確かにそうかも知れなく、ササキビは返す言葉がちょっと見つからない。オカルト探偵といい、ラーメン屋の親父に成り下がった秘密組織の戦闘員といい、そんな奴等ばかりだ。
「……まあ良い、こうやって煩わされるのも避けがたい運命という事なのだろう」
 諦めの気分に浸りながら言い捨て、ササキビはSHIZUKUから視線を外し、隠岐の足下に向けた。
「それで……これが“犬”か?」
 餌を食べ終えて、「もっと無いの?」とでも言いたげに隠岐を見上げているフサフサの生き物がいる。
 ぺたんと座り込んでいるその身体の形は、犬ではなくて人間の女性だ。もっとも、そのお尻の辺りでは、尻尾がバフバフと左右に揺れていたが。
「……私が知っている犬とは、少し違うようだな」
 言いながら犬からSHIZUKUとヒミコへと視線を移したササキビに、SHIZUKUとヒミコは困った様子で頷いた。
「ちょっと違うから困ってるの。ほら、シロ。挨拶して」
 SHIZUKUに促されて、犬……つまりシロは、ササキビの方に顔を向ける。
「新しい人間? 新しい人間? 何かな? 何かな? 撫でてくれる?」
 シロのキラキラの目が、まっすぐにササキビを見上げた。
「お手? お手するよ? チンチン? お座り? ボール投げて? とってくるよ!」
 はふはふと息を荒げながら、とても楽しそうに言葉を並べ立てる。
 元々、人懐っこい犬なのだろう。一所懸命にじゃれつこうとしてくる仕草は実に微笑ましい……と言いたい所なのだが、姿形が女性なのでどうにも倒錯的で具合が悪い。
 それはともかくとして……
「理解出来るかわからないが、一つ言っておこう。少なくとも餌をくれるからとて、必ずしも相手がお前を好きな訳ではない。そこのSHIZUKUの様にな」
「酷いなぁ。何か、餌で釣ろうとしたみたいじゃない」
 シロに重々しく告げたササキビに、SHIZUKUは不満一杯に抗議した。
 とは言え、事実そのまんま餌で釣って捕まえようとしたわけだから、ササキビの言葉は何一つ間違っては居ないわけだが。
 ササキビはSHIZUKUの発する雑音は気にせず、シロに話を続けた。
「人全てが善ではない。お前に悪意を持つ者も居るだろう。警戒は怠るな。いつでも牙はむける様にしておけ。理解できないようだな」
 シロは、ササキビが何を言っているのかわかっていない風で、全く気にもしないで尻尾をボヘボヘと打ち振るっている。
 ササキビはこれ以上の忠告は諦め、深く溜息をついた。
 と、ササキビがシロとの会話を終えたと見て、ちょっと戸惑い気味に深沢がシロに声をかける。
「あの……はじめまして、シロさん。その……お話し出来るんですか?」
「わかるよ? シロは人間になったんだもん。あのね? 犬を人にしてくれる神様がいてね? そのお家に通って、お願いしたら……」
 シロは元気よく答え、シロが人になったいきさつを話し始めた。子犬の頃に捨てられた所から、蔵前八幡に到るまでの話を。
「全く、何と言う悪魔な神だ」
 姿を変えてやるのは良いが、結局は何一つシロの為にはなっていない。身の上話を聞き終えて、ササキビは苛立ち気味に呟いた。
 一方で深沢は、しんみりと言葉を吐き出す。
「シロさんは……捨てられてしまったんですか」
 深沢も、男に捨てられた身であり、同じ境遇と言うわけではないが捨てられた者として同情してしまう。もっとも、シロの方はそれほど深くは気にしていない様だが。
 ともあれ、それは深沢に一つの決心を付けさせる十分な理由となった。
「SHIZUKUさん。ヒミコさん。私、シロさんを飼います!」
 ペットを飼った事など無いので、全くもって知識不足。体当たりで飼ってみようという状態なのだから、普通の犬と違っても別に構わない。シロを飼うのに、普通の犬と違う所があったなら、シロを飼う方法を探し出せばいいのだ。
 ただ、シロは犬の様で犬ではない。今のマンションはペット可なので問題ないとは思いたいが、これはひょっとすると同居人という方が正しいのだろうか? 契約がどうなっていたか、確認した方が良いかも知れない。
 等と、決心の後に幾つか考え事が付いてくる。
 が、今はこの決意の方が重要なのだ。何故ならこの決意は、新しい生活の始まりを意味するのだから。
「本当!? やったよヒミコちゃん!」
「良かったですわねぇ。SHIZUKUちゃん」
 深沢の決意の声を聞き、SHIZUKUとヒミコが手をハイタッチさせて喜ぶ。
「ご飯くれる? ご飯くれる人?」
 その横でシロは、目をまん丸に見開いてキラキラさせながら深沢を見ていた。
 SHIZUKUは、そんなシロをチラと見下ろし、それから深沢に問う。
「あ、でも、シロはこんな格好なんだけど……」
「目立ったら、大騒動ですわね」
 ヒミコが頷きながら懸念を口にした。
 犬と人の中間のようなこの姿が明るみに出れば、普通の人は驚き、騒ぐだろう。この世の中、オカルト的な存在が目立っても良い事など何も無い。
 シロは隠して運ばなければならないのだ。
「……そうですよね」
 深沢は、小首を傾げて考え込む。
 普通の犬なら、大きさを見た後でケージでも買い求め、それに入れて運べば良かった。ケージに入らない様な大型犬とかだと困るが、それでも運んでいて不自然はない。
 しかし、このシロはアウトだ。大きすぎる上に、犬だと言い張るには体型が違いすぎる。
 そう、犬は無理。犬が無理なら……
「そうだ、私のコート、フードついてますし、これで」
 言いながら深沢は着ていたコートを脱いだ。春先の冷たい風除けに着てきたコートだが、これなら身体の大部分を覆い隠す事が出来る。
 まあ、足とか顔とかがどうしても露出してしまうのだが、見えているのが身体の一部だけなら、ファッションかあるいはコスプレ位にとられるだろう。
 フードから犬の顔が覗いているのを見た時、犬獣人の存在を確信するより、マスクか何かだと考えるのが普通の人間というものだ。その辺り、あまりじっくりと観察させなければ、タクシーでの移動くらいならどうにかなるだろう。
「ちょっと立ってくださいね?」
 深沢は、シロの手を取って引き上げる様にして立たせると、コートを着せ始める。シロは、何をしているのか興味津々といった様子で着せられるままになっていた。
 コートに袖を通した後、上からボタンをはめていく……が、ボタン二つ目辺りで深沢は一度手を止める。
「入るでしょうか……これ?」
 深沢よりもずっと大きな胸が、コートを内側から押し広げていた。とは言え、ここで諦めても何も解決はしない。
「ちょっと苦しいかも知れませんが、我慢してください」
 そう、シロに断ってから深沢は力を入れてコートを引っ張り寄せてみた。
「痛い! 痛いよ!」
 シロが悲鳴を上げる。コートの前は閉じようともしない。
「ダメみたいです」
「じゃあ、私が用意してきたコートじゃどうかしら」
 落胆した深沢に代わり、隠岐が用意してきたコートを取り出した。
 同じ事を考えていたわけだが、隠岐の方が少々用意が良く、身体全体を隠せる様な大きめのコートを持ってきていたのだ。
 深沢のコートを脱がせ、改めて隠岐がコートを着せる。サイズが大きいだけ合って、問題だった胸の部分はもちろん、全身がコートに入る。
「良いみたいね。格好は良くないけど」
 着せてみてから、隠岐はシロの全身を見回してそう結論をつける。
 身体は全部隠れている。フードを深く被らせれば、突き出た口もそう気にはならない。真正面から見られるとアウトだが。
 問題は、身体を隠す事を最優先にして大きいサイズのコートを着せた為、だぶだぶの服を着ているみたいで格好が悪い事。そして……
「なにこれ気持ち悪いよぉ。絡まるぅ」
 着せられて落ち着いてくると、全身を布で包まれる事が気にくわなくなったのか、シロはコートを噛み、爪でひっかき始めた。
「ちょ……ダメよ、そんな事しちゃあ」
 隠岐が止めると、シロは素直に止める。だが、シロは、訴えかける様な目で隠岐を見ていた。その潤んだ様な無垢な瞳は、隠岐の良心をチクチクと刺激する。
「苦しいよぉ。尻尾が動かなくて気持ち悪いよぉ」
「今まで全裸が当たり前だったのだからな。そうなっても仕方がないだろう」
 ササキビが、一人納得した様に頷いていた。そして、その場で提案する。
「光学迷彩の用意もあるが、これは同じ事か。あれも身体に色々付ける代物だしな。ならば、幻術符なる物もあるが? これならば、身体にそう触ることもない」
「……でも、結局はちゃんと服を着る習慣を付けなきゃ困るのよねぇ。躾だと思うから、ここでわがままを聞くのも……」
 ササキビの出した御札を横目で見ながら、隠岐は腕を組んで考え込んだ。
 嫌がるのが仕方ないにしても、服を着て貰う必要はどうしてもある。いつまでも裸でいて貰っては何かと困るのだ。
 その辺り、隠岐はしっかり躾なければと思うので、別の手段があるにしてもそれを使いたくはない。
「そうだな。見た目は幻術でごまかせても実体は伴わない。服は必要だろう」
 ササキビにしてみても、見た目は幻術でごまかせても、触った感触までとなると難しい事はわかっている。所詮は、裏で買ってきた符にそこまでの期待はできまい。
 今の一時だけならば幻術だけでもかまわないが、社会に出るなら服くらいは着て貰う必要はある。剃毛も必要と思う位だ。
「……そうですね。ではシロさんには、ちょっと我慢してもらいましょうか?」
 そんな二人の話を聞いていた深沢は、先に結論を出してシロのもとへと歩み寄る。
「ごめんなさい。少しの間だけ、辛抱してくださいね」
 謝りながら深沢は、シロの手を取った。
「……うん、わかった」
 シロは辛そうに頷く。
「ありがとうございます。シロさんは良い子ですね」
 申し訳なく思いながら、深沢はシロの頭を撫でてやる。シロは嬉しそうにしながら、少しだけ微笑み……尻尾が動かない事に改めて気付いてお尻を見て、それから悲しそうな顔をした。
「……早く脱げる様に、すぐ移動しませんか?」
 あまり長い時間、辛い思いをさせてはおけないと、深沢はそう提案した。それを受けて、隠岐が答える。
「そうね。私が車で来てるから、移動はそれで……まずは何処に運ぶ? 私の家で良いかしら? マンションなんだけど、安全は保証するわ」
 他にもっと安全な所があればと、隠岐は深沢とササキビを見る。
「私も、シロさんを飼うのには、自分のマンションでと思ってたんですが……」
「私も自分の店を開放しても良いと思っていた。だが今は、道案内などと余計な事が増える事は望まない。実際に飼う場所は後で決めるとして、とりあえずと言う事ならば何処でも構わないのではないか?」
 深沢に続いてササキビが答える。
 二人とも自宅でシロを暮らさせる事を考えていたが、今、隠岐に送らせるならば道案内などが必要となる。隠岐の家なら、そういった面倒はない。
 なら、まずは隠岐の家に運び込み、別の場所で暮らす事が決まったなら万全の態勢で改めて移動すれば良い。
「じゃあ、とりあえずって事で私の家でへ」
 隠岐はそう言ってから、SHIZUKUとヒミコを見た。
「貴方達も来るの?」
 聞かれて、SHIZUKUは顎に指を添えて少し考え込む仕草をし、それから首を横に振る。
「ううん、今日はもう良いかなぁ。シロちゃんといっぱい遊んだし、お風呂入りたいし」
「じゃあ、私もSHIZUKUちゃんと帰ります。お風呂に入りたいですし」
 ヒミコも、にこやかに微笑んで追従する。
 それを聞いて深沢は、SHIZUKUとヒミコに軽くお辞儀をして別れを告げた。
「では、これで失礼させて頂きます。
「深沢さん、ありがとう。あ、連絡先教えておくね?」
「落ち着いたら、ご連絡ください。出来る事なら、何でもお手伝いいたしますわ」
 応えて、SHIZUKUとヒミコは携帯電話を懐から取り出し、深沢と電話番号とメールアドレスの交換を行う。
 その後、二人と別れた深沢はシロと手を繋いで、先に歩き出した隠岐とササキビの後を追いながら公園を出た。
 繋いだ手が、ふさふさした毛に覆われているからか、とても温かい。肉球の様な物は無い様で、毛に覆われている事を除けば、ほぼ人間の手だった。
 また、シロは意外にも上手に二足歩行している。その点は、人間の様に見せかけるのに好都合だった。
 四人はそのまま公園の外で隠岐の車に乗り込み、移動を始める。
「お外が動いてる!? 凄いね! 凄いね!」
 シロは移動中、窓に張り付き、興奮してずっと歓声を上げていた。
 外から窓越しにシロの姿を見られたかも知れないが、それで特別何か大きな騒ぎが起きるでもなく、やがて四人を乗せた車は隠岐の住むマンションへと到着する。
 マンションの入り口から、隠岐の部屋につくまで誰とも会わなかったのは幸いだった。
 マンション入り口に設置されている監視カメラには写ったかもしれないが、コートで身を隠している以上、特に問題はないだろう。
 隠岐は、自分の部屋のドアを開き、後からついてきていたシロとササキビと深沢を招き入れた。
「いらっしゃい。まあ、みんな遠慮無く入って」
「わうー、人間の家?」
 言いながら、シロはそのまま玄関に上がっていく。ぺたぺたと廊下に転々と土汚れがスタンプされた。すぐ後ろにいてそれに気付いた深沢が声を上げる。
「あ、足! 足を拭かないとダメです!」
 考えてみれば、シロは靴など履かず裸足。つまり、土足と変わらない。
 とっさに深沢はハンドバッグを探る。そして、中からウェットティッシュを見つけて取り出し、深沢はシロの足に手をやった。
「片足ずつ上げて? 綺麗に拭いちゃいますから」
「ん? こう?」
 シロは何をするのかわかってない様だったが、それでも素直に足を上げた。
 シロの足の裏には肉球がある。ここは犬に近いらしい。どうりで、裸足で平気で歩いていたわけだ。
 土に汚れたそこを、深沢は丹念にウェットティッシュで拭った。
「うふふふ、くすぐったいよ」
 シロが笑いながら身を捩る。
「ちょっとだけ我慢してくださいね。はい、もう一方の足の番ですよ」
 何というか、人の身体を洗うのには慣れているので、深沢は手際よくシロの両足を綺麗にしていった。
「シロ、ダメよ? 汚れた足で、家に上がっちゃ。ほら、床が汚れてる」
 隠岐はシロが汚した床を指し示しながら、シロを叱る。が、シロはわからないらしくて、床を少しの間眺めてから、隠岐を見つめ返した。
「汚れるって?」
「足跡が付いているでしょう?」
「足跡、ダメ? 朝露の草っ原とか、雨上がりの水溜まりとか、掘られたばっかりの柔らかい土とか歩いたら、ぺたぺた付くよ? ダメなの?」
「お外は良いけど、人間の家の中だとダメなの。誰かに綺麗にして貰ってから……って、靴を履いて貰うから良いかしら」
 わかっていない様子のシロに、隠岐はゆっくりと教えていき……そして、家に上がる時は足を拭いてと言おうとして気付いた。
 靴を履かせるなら、足を拭って貰う必要はない。外から帰った時は足を拭いて貰えと教えたら、靴を履かせた時に混乱が生じそうだ。
 と、隠岐の迷いを見て、シロを観察していたササキビが言った。
「足の構造が少し違う様だ。靴を履かせるのは難しいな。少なくとも、人間用である市販品では、形が合わないだろう。よくよく中途半端な事だ」
「そうなの? 見せて……ああ、本当ね。この足じゃあ、靴は難しいわ」
 ササキビに言われて、隠岐は深沢が拭っているシロの足を見た。
 足は人間の物よりも若干大きくて厚い。そして、肉球や爪もある。普通の靴では、形が合わないだろう。
「サイズの大きい靴なら……ああでも、形が合ってない靴は、足に悪いわね。当面は裸足で過ごすしか無さそう。じゃあ、シロ。家に上がる時は足を綺麗にするのよ? 後で、自分で足を綺麗にする方法を教えあげる」
「うん綺麗にする!」
 やはり、訳はわかっていない様だが、シロは素直に返事をした。
 そんなシロの返事を聞きながら深沢はシロの足を拭き終え、それからシロに言う。
「綺麗にすると気持ちいいですよ? 後で身体を全部綺麗にするのに、お風呂にも入りましょうね?」
 外暮らしだった為か、シロはちょっと臭う。洗ってあげる必要はあるだろう。でも犬の身体を洗うのはボディソープなのだろうか? それともシャンプー? 深沢には判断がつきかねる。
 もっとも、シロの方は深沢の迷いなど知る由もない。と言うより、風呂という物自体、知る由もない。
「お風呂? 何それ? あ、でもお腹空いた! お腹空いたよ!? さっきのじゃ、ちょっと足りないの。身体が大きくなったから、もっと食べないと、ぐーぐーするの」
「え? お腹……」
 深沢は迷った。餌は何を食べさせれば良いのだろうか? ペットフード? それか、人と身体が同じという事は、人間と同じ食事で良いのかも知れない。
 確か、SHIZUKUと隠岐があげたペットフードを美味しそうに食べていたから、きっと犬と同じ物でも良いのだろう。まあ、ペットフードの類は、人間が食べても基本的には大丈夫なので、安全だと癒えるかも知れない。
 と、隠岐が考え込む様にしながら言った。
「今は、ペットフードの方が良いわ。あれなら人間が食べても大丈夫だから。人間の食事にも慣らしていきたいけど……人間に大丈夫でも、犬には危険な物もあるから、それは調べてからね」
 シロは、単純に人間の身体なのではなく、犬の部分と人間の部分が入り交じっている様に思える。もし消化器系が犬のものであるなら、人間の食べ物を安易に与える事は出来ない。
「とりあえずは、明日にでも、こういったオカルト方面でも見てもらえる病院に連れて行って、精密検査を受けさせて来るわ。人間とどれだけ近いのか調べないとね。それにこの子、野良だったのなら予防注射の類もしてないでしょうし、その辺りの事も……」
「拙い、止めろ!」
 隠岐の話を、ササキビの鋭い声が遮る。直後、隠岐と深沢の視線がシロの方に向けられた。
 シロは廊下の壁際に四つん這いになっていて……
 シャーという音。シロの足下に広がっていく水溜まり。なるほど、メスだから片足は上げないらしい。
 何か、人が普通に暮らしている部屋の廊下で、人間の女の子っぽい生き物が堂々と用足しをしているのは奇妙な風景に思えた。
 いやまあ、この場にいる三人の内とくに深沢は、そう言うのが趣味の人が居たり、そういうプレイをするお店があるのを知らないわけではないのだが……一応、三人共通して、それらは今まで縁のない世界である。
 トイレの躾はどうしたらいいのだろう? 確か、箱に砂を入れた物を用意して……いや、本当にそれで良いのかという気もする。人間らしい、用足しを憶えさせないと。
 実際、目の前で起こっている事は……
「きゃーっ! おトイレ! おトイレにいかないとダメです!」
 深沢が驚いて悲鳴を上げる。
「シロ! ダメでしょ!」
 隠岐の怒声が上がる。
「?」
 シロはやっぱり良くわかっていない様子で、深沢が取り乱し、隠岐が怒っているのを見て身体を竦ませている。
 ササキビは一人騒動から離れ、溜息をついた。
「想像以上に難儀だったな」
 最初に連れてきたのが、自分の店でなくて良かったとも少し思う。
 シロとの生活は、最初から混迷に満ち、険しい道程となることを示していた。もっとも、どんなペットであれ、ほとんどの場合は混迷に満ちて険しい道程が最初には待っているのかも知れないが……



 たぽたぽと湯船の中にシロの長い毛がたゆたう。
 粗相の始末と食事を終えた後、深沢はシロと一緒に風呂に入っていた。
 今は、問題は何一つ解決はしていないが、後始末だけは終わったという状況にある。しかし、トイレの躾などを根本的に何とかしていかないと、これからもずっと悩まされ続ける事になるだろう。
 そんな今日一日で疲れた心身を癒す為にも、お風呂は効果的だった。
 他人を洗うのは得意だが、その技術はほとんど使う必要の無いものばかり。とりあえずと石鹸で擦ってみると、シロの方が身体を洗うスポンジの様になっていた。
 身体をふるって泡を飛ばそうとするシロを抑えてシャワーで泡を落とした後、一緒に浴槽に身を沈めて、今の状況がある。
 シロは、深沢に抱えられている為か、大人しく湯につかっていた。
「もっと撫でてぇ」
「はいはい」
 深沢の腕の中で、シロがねだる。深沢は、返事をしながら湯の中でシロの身体を撫でてやっていた。職業上の癖が出ない様、触る場所に気を付けながら。
 触ってみて改めてわかるが、やはりシロの体つきは完全に女性の物だ。若干の差違はあるし、毛さえ生えていなければという決定的な違いもありはするが。
 ともあれ、胸は大きい。これくらいの人は、仕事仲間にもめったにいない。そんな事を冷静に考えてみる。男の人は喜ぶだろうなとも。
 そこまで考えて深沢は、シロが身の上話の中で恋がしたいとの願いを語っていたのを思い出した。
「そうだ……シロさん。恋がしたいんですか?」
「ん? うん、そう。してみたいの」
 何か、恋に憧れる少女の様にシロは答える。具体的に何がどうという知識もないし、人を好きになった経験もないのだろう。犬だったのだから当然だと言えば当然だが。
「そうですか……」
 そう言う事にも力になってやりたいと深沢は考えたが、残念ながら自分の恋愛経験はあまり良いものではない。それを引きずったか、今では恋愛と無縁な生活を送っている。
 知り合いと言える男性も多くはないわけで……まさか、客を紹介するわけにもいかないし。などと考えていた深沢の脳裏に、以前の大晦日に出会った男達の事が思い浮かんだ。
「……まずは、出会いをつくらないと。ですよね」
「何? ねぇ撫でて? 気持ちいいの」
 考え事をしていた深沢の独り言めいた言葉にシロは首を傾げ、それからいつしか止まっていた深沢の手を再び催促する。
「はいはい」
 深沢は、再び手を動かし、シロの長い毛を梳く様に撫でてやる。シロは気持ちよさげに、深沢に身体を預けていた。



「裏口? じゃなくて、隠し通路があるのね? 連絡方法は……あ、してくれるの? ありがとう、助かったわ」
 居間に置かれた電話で話をしていた隠岐は、感謝を述べてから受話器を置いた。
 オカルト生物相手でも診てくれる病院を調べて貰っていたのだ。幸い、その試みは上手くいき、信頼出来るまともな病院を紹介して貰えた。
 シロの身体を調べる算段はつき、これで安心して飼育ができる。
 隠岐はそのまま居間のテーブルに戻り、そこに置かれてたノートを開き、ペンを手に取る。
 そして、シロの基礎体温や健康状態、見た限りの身体の機能などを記録していく。
 それを面白くも無さそうに見ていたササキビが、ポツリと呟いた。
「実験のつもりか?」
 その問いに、隠岐の手が止まる。
「……否定はしないわ。観察し、記録する。まるで実験よね。でも、観察日記を付ける事は、彼女の教育や健康管理に役立つ筈よ」
 ササキビを見もせずにそう言ってから隠岐は、再びペンを走らせ始めた。ササキビはそれを咎めるでもなく、かといって隠岐の答えに満足した様子もなく、ただ隠岐が書き進めるノートの上を見続ける。
 そして、隠岐がシロの身体の形状について書き始めたのを見て、ササキビは再び口を開いた。
「シロの形状をどう思う?」
「人間と犬の中間ね。二足歩行に完全に適応している所や、人間同様に器用そうな指のある手を持つ所を見ると、人間寄りだとは思うけど」
 シロは人間としての基本的な性能を持っている。だからこそ、人間よりと判断した。
 いや、人間の性能を取り込んだという意味で、人の形をした犬と言うべきか?
 隠岐が迷いながらも実態そのままを語ると、ササキビは苛立ちを滲ませながら誰に問うでもなく言った。
「そうだ、あまりにも中途半端だ。何故、ああなった?」
 ササキビにとっては全てが悪意の様に思える。
「あの犬は子供の頃に、去りゆく飼い主の為に傘を持ちたいと願ったらしい。だがあの有様はどうだ? 傘は持てるが、その体が人としての人との接触を妨げる。あの状態で、願いが叶った等と言えるのか? 神は願いの何を聞いたのか。ましてや……恋愛を頑張れだの、好かれる人間になれだの、ふざけているのか?」
 言い切って、ササキビは怒りを噛み殺す様に奥歯を噛みしめた。
「さあ……神の意志なんてわからないわ」
 隠岐は首を横に振って、答えが無い事を示す。
 頷くべき所はあった。確かに、人になりたいという願いを叶えたにしては、随分な仕打ちだ。だからといって、それが何か意味のある事なのか、もしくは悪意があっての事なのかは、神本人ではない隠岐には推し量る事も出来ない。
「出来る限り、手伝ってあげるしかないんじゃないのかしら? 人間と恋愛がしたいとシロが望むなら、何処に出しても恥ずかしくない立派なレディにしてね」
「そこだ……時間と本人の性質が原因だとしても、捨てられた事をどうとも思わない様で愛だの恋だのが解るのか? あの犬の言う恋愛など、単語として知ってたという程度の事でしかないのではないか?」
 ササキビは言い終えてから、皮肉げに口元を歪め、席を立った。
「無駄口が過ぎた」
 ササキビ自身にも恋愛など語る資格は無い。“憎悪と愛情を同じと断じる馬鹿よりはマシ”と思いたいが……
「そろそろ失礼させて貰う。明日は行く場所が出来た」
「そう……明日はシロを病院に連れて行くから、こっちには来なくても大丈夫。病院の結果が出たら、こちらから連絡を取るわ。今日はありがとう。またよろしくね」
 玄関に向かって去りゆくササキビに、隠岐はそんな言葉を投げる。ササキビは、その言葉にチラと振り返り、小さく頷くとそのまま去っていった。
 隠岐は再び観察日記を付け始める。風呂場の方で、シロと深沢が出てくる気配がした……



 人通りも絶えた夜の街路。ぺたぺたと足音を立てて、コートを着てフードを被ったシロが歩いていく。
 風呂から上がって毛を乾かした後、深沢はシロを連れて高架下の赤提灯を目指していた。
「良い匂いがするよ?」
「あれがラーメン屋さんですよ」
 匂いを嗅ぎ付けて嬉しそうな声を上げるシロにそう説明をしてから、深沢は犬にラーメンは食べさせても良いのかどうか考える。身体に悪いかどうかは深沢にはわからない……だが、箸が使えないから食べさせる事自体が難しいだろう。
 ひょっとしたら、鬼鮫に頼めば何とかなるかも知れない。
 そんな事を考えながら、深沢は高架下に止められたラーメン屋台に歩み寄った。
 屋台の中では鬼鮫が暇そうにしており、席には草間武彦一人がいてコップ酒を片手にラーメンを啜っている。そして、二人はほぼ同時に、深沢とシロの方を見た。
「う……うぅぅぅぅぅぅっ!!」
 鬼鮫と視線を合わせたシロは、警戒を露わに唸りだす。上半身を沈め、いつでも飛びかかれる様に全身をバネにし、鬼鮫に向かって牙と爪を剥き出しにした。
「シロさん!?」
「ちっ」
 シロの変容に驚く深沢。舌打ち一つして、屋台の中に隠し置かれていた白木の棒……仕込み刀を取り出す鬼鮫。彼を、草間が静かな声で止めた。
「止せよ鬼鮫。血の臭いの中でラーメンを食う趣味はないぞ」
 鬼鮫は、犬であるシロ以上に獰猛な印象の笑みを浮かべ、草間に言い返す。
「もう看板にしたって良いんだぜ?」
「それこそ止せ。まだ俺が喰ってる」
 鬼鮫と草間は普通に会話しているが、鬼鮫の殺気は本物だった。素人である深沢を竦ませるのに十分な位に。
「あ……あの、草間さん?」
「ああ、知らなかったか? 嫌いなんだよ、この男は。化け物って奴がさ」
 深沢に問われて、草間は何でもない事の様に答える。
 本来、鬼鮫は、IO2というオカルト対策機関の戦闘員で、化け物を殺す事に生き甲斐を見出す剣呑な男なのだ。ラーメン屋の親父というのは、本来の姿ではない。
 そして草間は、深沢の方を親指で指し示して見せながら、鬼鮫に言った。
「化け物でも何でもないお嬢さんを泣かすのは筋じゃないだろう、鬼鮫?」
「……けっ」
 深沢は普通の人間であり、術の類が使えるわけでもない。そんな“人間”に手を出すのは、鬼鮫にとっても本意ではない。
 故に、鬼鮫はこの場は退く事に決めた様だった。
 仕込み刀を元の場所に片づけ、未だに警戒を続けているシロを一瞥してから、鬼鮫は深沢に問う。
「で……犬のお嬢さんをつれて、夜食にラーメンか?」
「え? その……そうじゃなくてですね。このシロさんが、男の方と恋愛を前提としたお付き合いをしたいと……ですから、鬼鮫さん達に会わせてみようと思っただけなんです」
 それでまさか殺されかかるとは思わなかったが……
 その答えを聞いて、草間が肩をすくめながら笑った。
「はっはっは。こんなヤクザな男達に、うぶなお嬢さんをあてがうもんじゃない。と言うか、ここにたむろする様な男はダメだ。女を不幸にする」
 この場にササキビがいたら、この男達を紹介するのは問題外と切って捨てただろう。
 “女”と“男の矜持”を天秤にかけて、“男の矜持”に傾く様な男には女を幸せになんぞ出来るはずがない。古風な連中なのだ、ここに集まる鬼鮫や草間、ファングのような男達は。
「ま、そう言うこった。悪い事をいわねぇから帰りな。その犬のお嬢さん、さっきから牙を剥いてるが……怯えてるんだぜ?」
 鬼鮫も忠告をしてくれる。
 シロの威嚇は、怒りではなく怯えから来るもの。つまり、鬼鮫に対して怯えているのだ。
 化け物殺しのエキスパートの半ば本気の殺意を、野良とはいえどもかなり暢気に暮らしてきたらしいシロが受け止めてしまえばそうもなるわけだ。
 何にしても、この状態では出会いも何もあったものではない。かえって、人間に対する悪い印象を与えてしまいかねないだろう。
「そう……ですね。帰ります。今日はすいませんでした」
 深沢は一礼してから、シロの腕を引いた。警戒しているシロは鬼鮫から目を離さなかったが、深沢に腕を引かれるままに移動はする。
 やがて、赤提灯の灯が遠く灯る点にまで小さくなった頃、シロはようやく警戒を解いてそのままそこへ座り込んだ。
「怖かった! 怖かったよ! 食べられるかと思った! 帰ろう? あの人、怖い! 帰ろうよぉ!」
「ごめんなさい。怖い思いをさせてしまって。もう大丈夫ですから、帰りましょうね?」
 震えて泣きながら帰りたがるシロを、深沢は抱きしめる様にして抱え起こす。
 シロの恋愛を成就させてやりたいが、シロを鬼鮫に会わせたのは失敗……そう結論を出さないわけにはいかなかった。



「犬が変身? ああ、落語の話ですか?」
 翌日。シロが人間に変身した件について、蔵前八幡に裏付けを取りに出かけたササキビだったが、話しかけた神主は訝しげに話を聞いた後に笑いながらそう問い返してきた。
「落語?」
「ええ、元犬っていう演目がありましてね。昔、犬が人になって一騒動という」
「それだ。それがこの蔵前八幡で起こったんだな?」
 同じ事象があったと聞き、身を乗り出したササキビに、神主は苦笑を見せる。
「ですから、落語ですよ。本当に犬が人になるわけないじゃないですか」
「くっ……」
 ササキビは恫喝という手段に出ても情報を聞き出すつもりだったが、神主の対応に嘘がない事を見抜いて止めた。
 落語の演目であって、現実ではないと神主は信じている。なるほど、世の怪奇現象は表沙汰にならない様に隠蔽されているというわけだ。
 あまり日常的にそういった存在と関わるので失念していたが、現実世界ではオカルトは存在しない事になっている。神主が現実世界の常識の中で生きているなら、犬が人になるなどというオカルト現象について聞いても意味はないだろう。
 それに、そもそもはシロが伝え聞いていた伝承……と言う事は、犬に伝わっていた伝承なのだから、人間が知らないと言うのも有り得ない事ではない。
 調査が初動段階から思い切り滑った事を悟り、ササキビは思案に耽った。
 そんなササキビが考え込む様子に、落語の演目に興味があると勘違いしたのか、神主は簡単なあらすじを話しだした。
「面白い演題ですよ? 蔵前八幡に詣でた犬が人の姿となり、旦那に拾われる。人相手と思って犬に話す旦那と、人になったは良いが中身は犬のまんまで返す犬との擦れ違いを滑稽に表現すると言う……一度、聞いてみると良いですよ」
 思案の傍ら、神主の話を流し聞いていたササキビだったが、一つの事が気になって、改めて神主に問いを放つ。
「まて、その演目では、犬は完全に人間になるのか?」
「完全に? ええ、人間になりましたよ。頭の中身……心は犬のまんまですけどね」
 ササキビの問いを、神主はあっさり肯定した。
 落語の演目の中では、犬は完全に人の姿となる。これはシロのケースとは違う。思っても見ない方面からの貴重な情報であった。
「……貴重なお話を、ありがとうございました。それから、失礼な言葉遣いをしてしまい申し訳ありませんでした」
「え? いえいえ、それでは失礼します」
 ササキビは神主に礼を言うと共に無礼を謝罪する。シロの件に関わっていない神主に対する態度ではなかった事を流石に反省して。
 神主が去っていくの見送り、ササキビはこの場を立ち去るべく歩き出した。
 ここに来る時までは、神を脅すという心づもりもあった。
 だが、光臨して地上に姿を現しているわけでもない相手を脅せるものではないし、そもそも彼我の能力差が大きすぎて話にもならない。神は伏し拝んで助力を願うもので、襟首を掴んで怒鳴る相手ではない。
 どうも、シロへの仕打ちに怒っていたようで、あまり冷静な対応が出来ていなかった様だ。
 神主と思ったよりも穏便に話が出来たから良かったものの、もっと強圧的に接していたら警察くらい呼ばれたかも知れない。
 一般市民の所に「犬が中途半端に人になったどうしてくれる」という様な事を言う女がやってきて、責任を取れとばかりに脅し始めたなると、警察はどうするか……
 ササキビは思わず足を止め、傍らにあった鳥居に手をついて自分のやらかしかけていた事を深く反省した。こればかりは自分でも最悪だと感じたし、何より恥ずかしい。
「と……ともかく、図書館に行こう」
 自分に言い聞かせる様にしながら、ササキビは再び歩き出す。
 図書館に行けば、伝統話芸の資料として落語のCDなどが置かれている。探せば、元犬という演目も見つかるはずだ。
 この演目自体は創作された物であろうから、あまり意味はないかも知れないが、同様の事件という事で聞いてみる価値もあるだろう。
 それに図書館の環境は静かで良い。ちょっとした反省をするにもちょうど……

 ササキビは図書館の視聴ブースで落語“元犬”を聞き終え、ヘッドセットを外した。
 先に落語の歴史も調べたが、この演目がフィクションである事は確実らしい。
 内容自体は神主に聞いたような滑稽話で、旦那の話に犬が珍妙な返答をするというものだ。異種族である事の常識の違いによる騒動という意味では、昨夜の隠岐の家での騒動と同質と言ってしまえるかも知れない。
 それはともかく、ササキビが知りたかったのは、犬が人になった方法だ。それは、あまり細かい描写はなかったが、元犬ではこうあった。
 「白犬は人になる」という、ちょっとした都市伝説が発端となる。
 主人公の犬は、可愛がってくれる人達から「お前は白犬だから人になるんだよ」と吹き込まれ続けて、ついその気になった。
 そして、蔵前八幡に二十一日間の裸足参りをして、人に変わる。
 同じ事をシロもやったと言っていた。では、何故結果が違うのか? 元犬の方はフィクションだからと言うのは容易いが、それでは調査が行き詰まってしまう。
「発端は共に蔵前八幡……か」
 考えてみればおかしな話でもある。
 蔵前八幡に祀られている神は、他の八幡神社と同じだ。蔵前八幡の神が叶えられる願いなら、他の八幡神社でも叶えられて然るべきではないか。
 それとも蔵前八幡だけ何か特別なのか? 犬の姿を変える話の舞台となった場所。そこで願いを叶えてくれる者……願いを叶えてくれる神? それは、本当に八幡様か!?
 ササキビの頭の中で、その存在の事が思い出された。
「……まさか蔵前八幡の神ではなく、創られた神の類か!?」
 願いが集まって生まれる“創られた神”は、一定の儀式を捧げる者の定められた願いを叶える。帰昔線事件という草間興信所が過去に関わった事件で、その存在が確認されていた。
 落語の演題として親しまれた結果、犬の姿を変える神として創られたか……
 しかし、そうだとすると八幡様を祀る神主はその存在を知る由もないだろう。それに、ササキビが神に直接当たるという方法も使えない事になる。
 これら“創られた神”は、良く知られる多神教の神々とは違い、あらかじめ決められた条件を満たし、決められた儀式を行い、決められた種類の願いを捧げた者以外には一切反応しない。
「奴等を動かすのに必要な物は、儀式と願い……儀式は既に実践された筈。同じ事をやらせればいい。肝心なのは願いか?」
 では、モデルになった元犬と、シロは何が違った?
「人になれと言われた元犬と、自発的に願いをもったシロ。シロの願いは……人になりたいと言うものではなかった? 恐らくは、あの姿は失敗ではなく、そうシロが願った……」
 “人”になりたかったのではなく、“人の形の犬”になりたかったのか?
 手に傘を持ちたいという様な事が願いの根元だとしたら、そう願う事は有り得る。今の中途半端な格好でも、傘を持つ事位は容易かろう。
「神め。お前の尻尾を掴んだぞ」
 ササキビは視聴ブースの中で立ち上がり、自らの内に芽生えた確信に呟く。
「となれば、完全な変身方法も、犬に戻る方法も、単純にして難解だ。蔵前八幡で、同じ儀式を神に捧げさせればいい。ただし今度は、“完全な人間”あるいは“完全な犬”になりたいという願いを抱かせてだ」
 “創られた神”の前では、願いを偽る事は出来ない。本心から望んでいない限り、願いは聞き届けられないのだ。すなわち、本心からそう願う様にさせなければならない。
 しかし、心を動かす事はとても難しい。とくにササキビにとっては……
「恋などすれば心も変わるのだろうがな」
 ササキビはその言葉を呪う様に吐き捨てた。



 隠岐は朝方に病院へシロを預け、検査を一通り見学して回った。
 検査結果としては、内臓はほぼ人間と同程度の機能があり、人間と変わらない生活が出来るとでている。嗅覚は犬のままで、視覚は人間と同等など、基本的に人間と犬の良い所取りといった所だ。
 そして、幾つかの犬と人間の病気の予防接種も行われた。検査で散々弄り倒された所でされた注射は、シロをすっかり病院嫌いにさせている。
「帰ろぉ? ねえ、帰ろうよぉ。ここ、酷い事ばかりするの」
「ダメよ、我慢しないと。シロの為なんだから」
 病院の廊下の壁に爪を立てる様にしてしがみつき、検査着からはみ出した尻尾をだらんと下げて哀願するシロに、隠岐はしっかりと言いつけた。
「ちゃんとお医者さん……白い服の人の言う事を聞いてね」
「うん、わかった……」
 シロが素直に頷く。
 検査の担当医はそんなシロを微笑ましげに見ていた。
「素直な子ですね」
「ええ、良い子なんです。ちょっと、元気の良すぎる所もありますが」
 担当医にシロの事を話す隠岐の顔に笑みが浮かぶ。その笑みを見た担当医は、何故か少しだけ表情を曇らせた。
「……先生、どうしました?」
「いえ……次の検査に行きましょう。君、シロさんを案内して」
 担当医は隠岐の問いには答えず、傍らの看護師に命じた。そして改めて隠岐に向き合う。
「隠岐さんには、お話があります。私と一緒に来てください」
「……わかりました」
 隠岐は、歩き出した担当医の後について行こうとした。それを見て、看護師に導かれて別の方向へと行こうとしていたシロは慌てて声を上げる。
「何処行くの!? 一緒にいないの?」
 シロにとっては嫌な事ばかりの病院で一人にされる事に不安を感じたのだろう。
 隠岐はそんなシロに、安心する様に笑いかける。
「馬鹿ね。大丈夫。また、すぐにまた会えるわよ。だから、良い子でいるのよ?」
「そっかー。すぐに会えるんだ。良かったー」
 シロは隠岐の言葉を素直に聞いて微笑んでいた。
 そして、シロと隠岐の二人は別れる。別の場所へと……

 シロとは別に院内の一室。
 そこへ案内された隠岐を待っていたのは、担当医と黒服にサングラス姿の男だった。
「どういう事ですか? それにそちらの方、IO2の捜査官ですよね?」
 黒服の男を見て、隠岐は僅かに緊張する。
 黒服の男は、オカルト対策機関IO2の捜査官……それは良く知っていた。無論、彼らは敵ではない。
 しかし、捜査官がここにいる理由とは?
「隠岐・明日菜さん、まずはシロさんを保護して頂いた事に対して感謝させてください。それから……彼女は、こちらで引き取らせて頂きます」
 とても言いにくそうに言った担当医の話に、隠岐の表情が険しくなる。捜査官は、隠岐に対して静かに話し出した。
「彼女は、IO2のオカルト生物保護プログラムの対象となりました。あの姿では、人間社会に適応して暮らす事は出来ません。知識や技能の点から言っても無理でしょう。そこで、IO2が用意している隔離地域に輸送し、そこで生活して貰います」
 銃創を受けた者を病院に担ぎ込んだら通報される。それとほぼ同じ事をされたわけだ。
 社会生活困難なオカルト生物を病院で保護、通報でやってきたIO2が、法に従って対処したというところか。
 これは、隠岐の想定外の事だった。
 考えてみれば、IO2の介入は有り得る。IO2としては、シロの様な人外の外見の生物が一般市民の目に触れかねない状態で居る事は放置できないのだ。
 ならば、IO2の目につく所に連れて行けば、何らかの対応をしてくる事は十分に予想が出来た……
「勝手だわ! 私の許可もとらず……」
 隠岐の抗議を担当医が真摯な態度で遮った。
「そうは言われましても法で定められた対応です。そもそも、彼女は知的生物ですから、貴方には……いえ、誰にも所有権は主張できません」
「所有権だなんて! 私が、彼女をペットか実験動物の様に扱っていたと?」
 担当医の余計な言葉に苛立ちを見せた後、隠岐は努めて落ち着きを取り戻してから、言葉を続ける。
「私達が保護していたんです。それを勝手に……」
「民間の方では、ちゃんと保護されていると認めるわけにはいかないんですよ。過去にオカルト生物の保護に携わっていたという経験も、個人でオカルト生物を保護し長期間の隠匿が成功していたという実績も無いようですし」
 捜査官は冷静な声で、隠岐達にはIO2を信頼させるだけのものが無いという事を指摘した。そして、説得をしようと口調を和らげて話を繋げる。
「それと、保護したのは昨日でしたよね? そのケースですと“深い関係があり心情的に離れがたい”などの考慮すべき関係も無いと判断されます。つまり……他人でしょう? いえ、情が移ったというのは理解します。良くある事です。しかし、それは法的な例外となるほどの感情でしょうか? ゆっくり考えてみてください」
 要するに、家族や恋人レベルの深い関係があれば、その事も考慮して対応されるが、昨日会ったばかりというのでは特別な対応をとる事はないと言われているのだ。
 互いの関係は時間をかけて育んでいくべきものだが、隠岐や深沢、ササキビにとっては、その時間を得る前に終わりが来てしまった。
「行き先は、収容所のような場所ではありませんから安心してください。彼女も快適な生活が出来ます」
「そこでの管理はどういう方針なの? あの子は、人間になる事を望んでいたの。人間社会での生活を学習させてあげられる?」
 それは、隠岐がシロにしてやろうと考えていた事。
 しかし、捜査官は少し考えてから答えた。
「その辺りは彼女自身と専門家の意見を聞きつつ判断する事になると思いますが……現段階では、外見上の問題から人間社会で生活する事は難しいと考えられています。人間社会での生活の許可は、何らかの擬態や変身手段を持っている者が対象ですので」
「人間の姿になれない以上、人間になる学習は無意味だからしないって事ね?」
「恐らくはそう判断されます。彼女には、人間社会から隔離された安全な場所で自由な生活を送ってもらう事になるでしょう」
 人の形をした犬として生きる自由は保証されるだろう。
 ただし、シロがここから更に先へと進み、人となっていく試みは出来なくなる。
 しかし現状、隠岐にそれを阻止する事は出来なかった。
 相手が法に従って居る以上、ここで反抗する事は状況を悪化させるものでしかない。
「……さっき、またすぐに会えるって言ったの。それに、あの子を保護したのは私だけじゃない。最後に、あの子に会わせて……」
「申し訳ありませんが、それは出来ません」
 隠岐が申し出た事を、捜査官は即座に拒絶する。
「別れが辛くなるだけです。大概、良くない結果になる。どうしようもないのだと、諦めてください。大変、申し訳ない事なのですが……」
「…………」
 ちょっとした想定外の事から発生したこの事態に、隠岐は後悔と怒りが綯い交ぜとなった重い感情に囚われて押し黙る。
 捜査官と担当医は、そんな隠岐を少しの間だけ見ていたが、隠岐がもう動かないと判断して先に捜査官が口を開いた。
「質問などが無いようでしたらこれで失礼を。今回の件につきましては、ご協力を感謝いたします」
 そして、隠岐の返答を待たずに捜査官は出て行く。
 残された担当医は隠岐の反応を待っていたが、隠岐が動かない事に待つ事を諦め、深く息をついてから慰めるように言った。
「そんなわけですので、シロさんの事はIO2にお任せしてください。それでは玄関までお送りします」



 その日……隠岐の部屋にシロが帰る事はなかった。

□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
6855/深沢・美香/女性/20歳/ソープ嬢
2922/隠岐・明日菜/女性/26歳/何でも屋
1166/ササキビ・クミノ/女性/13歳/殺し屋じゃない、殺し屋では断じてない。