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Secret
窓もなく、ゆえに月明かりも届かぬ地下室にて。
彼女は足音を忍ばせ、わずかな廊下から漏れる光だけを頼りに資料を漁っていた。
ツンとするのは埃の匂い。
紙のある場所と言う物は常に掃除を施してもどこか黄ばんだような、かび臭いような匂いがするものである。
現に埃が視覚できるほどに舞うのが見える。
ふいに人の気配がした。
高科瑞穂(たかしなみずほ)は任務で着た舞踏装束を身に纏い、辺りをぐるりと見回した。
瑞穂は脚を高く掲げて蹴り出した。
バシッッ
脚は難なく受け止められた。
「何者?」
「霧嶋徳治(きりしまとくじ)……もっとも今は鬼鮫を名乗っているがな……」
鬼鮫……。
瑞穂は任務前に頭に叩き込んできたデータベースを反芻する。
確かIO2のジーンキャリアだった奴では……。
なるほど。今回の任務は当たりか。
瑞穂は鬼鮫に受け止められた脚をそのまま踏み出して、鬼鮫の胸を強く蹴り上げて鬼鮫から逃れ、高く飛んだ。
「始めましょう」
瑞穂は体を構えた。
/*/
瑞穂は自衛隊の中に極秘裏に設置されている近衛特務警備課に所属している。彼女の任務は通常戦力では対抗し得ない国内の超常現象の解決や、魑魅魍魎と戦う事。今回の任務も、そんな使命の一環であった。
その日、彼女は支給された服を見て、しばし硬直した。
軍服とは縁遠い、優雅なメイド服が目の前にあったのである。
これを着て潜入捜査?
これを着て歩く自分の姿を想像し、正直くらくらと眩暈がした。
にっ、任務だから、しょうがないわね。うん。
女は度胸。
瑞穂は迷いを無理矢理断ち切って、服を脱ぎ捨てた。
素肌で触れると、布地は思っているより柔らかいのに驚いた。使っている素材がいいのだろうか?
まずペチコートを履く。スカートをふんわりさせるために履くのだが、ペチコート自体がふわふわしているのには驚いた。
そしてワンピースに袖を通す。そして「ん……」と息を止めてファスナーを最後まで上げる。胸が少し苦しい。ファスナーを上げてからスカートを見下ろしてみると、スカートが波打ってふんわりと広がっているのが分かる。
「スカート、思ったより短い……」
瑞穂は少しうろたえた。
彼女の脚はすらりと長く伸びており、それに対してスカートの丈はやや心もとなく感じたのであった。
とりあえず気を取り直し、脚にニーソックスを履き始めた。ニーソックスは無地であり、スカートが短くて露わになった脚をきれいに隠してくれたのにほっとした。最も、それをガーターベルトのクリップで留めたら隠すつもりが逆に扇情的になってしまったような気がする。これを選んだのは一体誰なんだろうとも思わなくもないが、とりあえずそれは置いておく事にした。
最後にエプロンをするりと付け、リボンをギュッと結ぶ。エプロンは全体的にふわふわした印象のメイド服をうまくまとめてくれているような安心感があった。心なしかエプロンのレーシーな部分が天使の羽のような雰囲気を醸し出している気がしたが。
「さて……」
ニーソックスで包んだ脚を編み上げブーツに通しながら今回の任務の命令書に目を通していた。
今回の任務は敵の屋敷への情報奪取。ただ、今回は不確定要素が多い。敵が持っていると言う情報自体、こちらに意図的に持っていると情報を流してきた可能性もあるのだ。見せ罠か囮と考えていい。
これにあえて乗れと言うのか、上層部は……。
私は「チッ」と毒づいた。
仕方ない。これも任務。乗ってそれが罠かどうか証明してやろうじゃないか。
私はそう思いながら命令書をビリビリと引き裂き、口に詰めて飲み干した。
極秘任務の情報秘匿は絶対。これも仕事だ。
唾をごっくんと飲んで最後まで飲み込んだ後、手にグローブを嵌めた。
よし、準備完了。
さあ。任務の始まりだ。
瑞穂はそう自分に言い聞かせて立ち上がった。
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そして、時は最初にまで巻き戻る。
瑞穂は鬼鮫と名乗る男と対峙していた。
鬼鮫は長身で黒いロングコートに身を包んだ男であった。
表情は目をサングラスで覆っているのでよく分からない。
そして身構えて思うのは、この男は身構えるとかは一切しないと言う点である。
何か策があるのか?
確かに、この部屋は限りなく狭く、たくさんの資料庫のせいで動きも絞られてくる。しかし、それは向こうだって同じなのだ。
やるなら、先手必勝。こちらから仕掛ける。
瑞穂はそう決心し、少しだけ息を吸い込んだ後、間合いを詰めて膝を折って鬼鮫の鳩尾に打ち込んだ。
相手が息を飲んだ隙をついて肘を顔に打ち込み、そのまま体を大きく回した。
全体重をかけて鬼鮫の首をへし折る。
資料棚がぐらりと揺れる。鬼鮫が「ゴハァ」と呻き声を上げるのを聞きながら、鬼鮫から膝と肘を離す。
資料棚が鬼鮫の体重に負け、そのまま倒れる。暗くても分かる、白く舞い散る埃を上げて。
さあ、任務を再会しましょう。
この男が寝ている間にさっさと資料を奪って退散……。
そう資料棚の1つから背を向けようとした時だった。
倒れた資料棚が音を立てた。
「えっ?」
瑞穂が振り返る。
「たったそれだけで終わりのつもりか?」
「こいつ……」
首の骨は、確かに折った。このまま放っておけば動かないはずだったのに……。
瑞穂は冷や汗をかいて、気がついた。
そうだ。この男はジーンキャリアだった。
折れた骨が治るなんて、この男、トロールの遺伝子でも組み込んでいたのか。
一筋縄じゃ、いかないわね。
じりり、と後ずさって気がついた。
この部屋は狭い。一定の距離を保とうと思っても、どうしても限界が出るのだ。
瑞穂の背筋が冷や汗で汗ばんだ瞬間。
今度は鬼鮫が間合いを詰めた。
大柄な身体に似合わず、その動きは俊敏であり、それは肉食動物を思わせる動きであった。
肉食動物の牙ならぬ手が飛んでくる。
手は拳を作り、拳は正確に瑞穂の胸に入った。
「ぐわぁっは!!」
一瞬息ができなくなり、心臓を掴まれたような感覚が瑞穂を襲った。
肉食動物は「ニィィィッ」っと笑ったような気がした。
それはまさしく肉食動物の捕食の瞬間。
鬼鮫は今度は脚を大きく蹴り上げ、瑞穂の脇腹に入れた。
「ゴハハァァァ!!!」
瑞穂は大きく口から血を吐いた。
息が、できない……。
蹴られて体勢が立て直せず、距離を取ろうにも倒れた資料棚が邪魔をして素早く動けない。
瑞穂がもたついている間にもなお鬼鮫は詰め寄る。
ここは、撤退するしかない……? でもまだ任務も何も片付いていないじゃない。
瑞穂の思考より先に鬼鮫の蹴りが飛んでくる。
瑞穂が寸での所で交わした瞬間、目の前が急に真っ白になった。
鬼鮫の蹴りは、資料棚に積もった埃を拭い、その埃を全て瑞穂に振りかけたのである。
「ゲホッ……ゲホッ……」
埃で涙が止まらず、視界が定まらない間に鬼鮫の手が瑞穂を捕まえた。
瑞穂が抵抗して肘鉄を何度胸に打ち込んでも、胸はまるでタイヤを叩いているような感覚がするだけだった。
「さあ、おとなしくしてもらおうか」
ぴちゃり、と舌なめずりの音がする。
捕食の時である。
<Secret・了>
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