コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


Bleeding - 2



「さて、女。おとなしく投降しろ。まさか、俺に勝てると思ってるわけでもあるまい」
 太い声で、鬼鮫は言い放った。腹の底に響くような声である。恫喝や脅迫を生業にしてきた人間だけが持つ、独特の声質。
「勝てるかどうかは別として、とりあえず見逃してくれないかしら」
 かるい調子で、瑞穂は答えた。かるいのは口調だけだ。目は油断なく周囲を見まわし、鬼鮫のどんな動きにも対応できるよう、神経は張りつめられている。
「おもしろいことを言う女だな、おまえ」
「そう? じゃあそれに免じて見逃してくれる?」
「ふざけるな」

 その一言を鬼鮫が言い終えるより早く、瑞穂は走りだしていた。まっすぐ、真正面に向かって。早い。走るというより、跳ぶような動き。暗い地下室では、残像さえ残らないほどの動きだった。まるで、はじけとぶバネのような瞬発力。
 鬼鮫との三メートルほどの距離を、瑞穂は一瞬でゼロにした。生じたのは、かすかな衣擦れの音。そして、ブーツの底が軽やかに床を踏む音。上半身を折り曲げ、瑞穂は低い姿勢で鬼鮫のふところにもぐりこんだ。

 ゴヅッ、と重い音がした。岩をハンマーで叩くような音。瑞穂の肘鉄が、鬼鮫の腹に叩き込まれたのだ。それも、鳩尾である。狙いすました会心の一撃。並の人間なら内臓が破裂するほどの打撃である。
 ──が、鬼鮫は倒れるどころか顔色ひとつ変えることもなかった。そればかりか、彼は右腕をうならせて反撃にさえ出たのだった。並の人間ではなかった。事実、彼は能力者なのだ。トロールの遺伝子を宿す、ジーンキャリア。

 顔色を変えたのは、瑞穂のほうだった。クリーンヒットした肘の一撃が、まるで効かなかったのだ。完全な見込みちがいである。目の前にせまった鬼鮫の右腕をどうにか避けると、彼女は後ろへ飛びのいて距離をとった。
 さがったのと同じだけの距離を、すかさず鬼鮫が詰めた。体格のわりに動きが軽い。無造作に繰り出される左のストレートもまた、常人の目には到底追うことのできないスピードだった。
 だが無論、瑞穂は常人ではない。腕が伸び切るぎりぎりの距離をスウェーバックしてよけると、パンチのもどりにあわせて右の前蹴りを叩き込んだ。硬いブーツの底が、ふたたび鬼鮫の鳩尾をとらえる。さすがに今度は効いたらしく、男は一歩よろけて腹をおさえた。

「どうやら、二発は耐えられなかったみたいね」
 乱れた髪をなでつけながら、瑞穂は言った。廊下から差し込む照明に照らされて、薄茶色の髪がなめらかな光を反射する。
 鬼鮫は何も答えなかった。わずかに口を動かすと、横を向いて唾を吐き捨てた。ぺしゃっ、という音。血の混じった唾だった。
「汚いわねぇ」
「おまえはもっと汚い姿をさらすことになるさ」
「あら、そう。やれるものなら、やってごらんなさい」

 相手を休ませるほど、瑞穂は温情家ではなかった。相手が能力者だということぐらい、すでに察しがついている。畳み込めるときに躊躇なく畳んでしまうのが、かしこいやりかただった。
 瑞穂は、もういちど同じ箇所を狙って左のボディブローを放った。実際はオトリだ。ブロックするかスウェーするか、なんでもいい。とにかく相手が対応した瞬間、右の蹴りを放つ。そういうつもりだった。脇腹か側頭部の、あいているほうへ。
 鬼鮫は、なにもしなかった。ただ黙って突っ立っていた。正確には、なにもしていなかったわけではない。彼は薄笑いを浮かべていた。そして、その微笑のまま瑞穂の攻撃を受け止めた。
 三発目になる、鳩尾への打撃だった。素手ではない。格闘用グローブをつけて殴ったのだ。いままでのダメージの積み重ねから考えて、決定打になりえる一撃だった。

 ──これで倒れるかもしれない。
 瑞穂の考えは、しかしまったく甘かった。
 一瞬後、彼女の左腕に激痛が走った。鬼鮫が、腕を握ったのである。ただ握っただけだが、その握力たるや尋常なものではなく、どうかすれば骨を砕かれそうなほどだった。万力のような握力。
「くああああっ!」
 痛みに声を上げながらも、瑞穂はそれを気合に変えて右足を振り上げた。風を切る音。フレアスカートの裾から脚がのびて、ブーツの軌跡が弧を描く。その爪先は鬼鮫の脇腹にめりこんで、肋骨の折れる音を地下室に響かせた。

 ──これで決まったはず。
 瑞穂の口元に笑みが浮かんだ。肋骨が、四、五本は折れたのだ。場合によっては、折れた骨が内臓に刺さっているかもしれない。戦うことはおろか、立っていることもできないはずだった。──普通なら。
 鬼鮫は普通ではなかった。ひるむこともなければ、瑞穂の左腕を離すこともなかった。
 メキッ、という音がした。瑞穂の左手首が軋む音だった。

「つ……っ!」
 左腕をつかまれたまま、瑞穂はもういちど右の蹴りを放った。今度の狙いは足元だ。鬼鮫は、やはり避けなかった。硬い音がした。まるで鉄柱を蹴るような音。
 痛みに顔をしかめたのは瑞穂のほうだった。鬼鮫は何もしてはいなかった。ただ、万力のような手で彼女の腕を握っているだけだった。
「はなしなさい!」
 このままでは腕を折られると判断して、瑞穂は鬼鮫の右腕を攻撃した。手首に向けて手刀を打ち下ろしたのである。その瞬間、思いきり腕をひっぱられた。

「あ……っ!?」
 バランスを崩してよろけた瑞穂の顔面に、鬼鮫の脚が飛んできた。丸太のような脚。その図体からは想像もつかないほど、あざやかなハイキックだった。
 瑞穂は体をひねってかわそうとしたが、片手をつかまれている状態ではうまく体を動かせなかった。どうにか頭部へのダメージは回避したものの、右肩を蹴りつけられて彼女は横へ吹っ飛んだ。腕を握られていなければ、床に転がっていただろう。それが良いことか悪いことかは別として。
 ともかく、瑞穂は倒れなかった。鬼鮫がそれを許さなかったのだ。
 蹴りの衝撃で横ざまに崩れた瑞穂を、鬼鮫は振り回すようにひっぱった。ぐるりと、円を描くように。まるで、ちいさな踊り子をリードするダンサーの動き。あるいは、子供と戯れる大人。圧倒的な膂力だった。
 瑞穂の足がもつれて、宙に浮いた。鬼鮫は彼女の腕をつかんだまま、二回転、三回転と振り回した。次の一回転の途中で、ようやく彼女は解き放たれた。鬼鮫が、手を離したのだ。振り回されていた勢いのまま瑞穂はキャビネットに背中を打ちつけ、床に崩れた。

「……う」
 痛みと衝撃で、意識が一瞬遠のいた。力なく投げ出された脚の上に、カチューシャが落ちて転がる。鬼鮫の足が、それを踏みつぶした。パキッという音をたてて、カチューシャは二つに折れた。
「おまえも、こうなる」
 冷たい声で、鬼鮫が告げた。
 言い終えるのと同時に、その右足がうなりをあげた。まっすぐに、瑞穂の腹部を狙っている。重い一撃。受けてしまえば致命的な結果を招くのが明らかだった。
「くああっ!」
 悲鳴のような声を上げて、瑞穂は横に飛びのいた。飛びのくというより、床に転がったというほうが近いかもしれない。
 金属のひしゃげる音がした。鬼鮫の右足がキャビネットを蹴りつけたのだ。スチール製の扉がぐにゃりと曲がって、書類の束が落ちた。

「また、備品を壊しちまった」
 つぶやくように言って、鬼鮫は舌打ちした。