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<東京怪談ノベル(シングル)>


Bleeding - 1



 真冬の夜だった。
 月明かりの下、凍りつくような夜気がゆるやかに渦を巻いて降りてくる。完全な真円を描いた満月は青白く冴えて金属にも似た輝きを放ち、地上のすべてを青々と染めている。まるで、深海のような色。
 しずかな夜だった。風はなく、遠く離れた街の喧騒もここまでは届かない。星々のまたたく音さえ聞こえてきそうなほどの静寂。──あるいは、嵐の訪れを告げる前触れなのかもしれなかった。

 東京の郊外。青白い満月を突き刺すようにして、ひとつの尖塔が立っていた。古い礼拝堂を改修したこの建築物はかつて高名な牧師の私宅として使われたものだったが、いまは払い下げられて、ある資産家の所有するところとなっている。
 その尖塔も、しかし広大な敷地の中ではたった一つの建造物にすぎない。尖塔に隣接してそびえる巨大な邸宅はヨーロッパの城郭もかくやというほどの代物で、青ざめた月光に照らされるその威容は、さながら深海を治める宮殿のようでさえあるのだった。

 深夜。午前二時。深海の宮殿は、眠りについていた。
 いずれの窓もカーテンが閉じられて、完全に消灯している。屋根の四隅に灯る赤い常夜灯。そして玄関先でささやかな光を放つオリエンタルなストーンランプだけが、凍てつく夜の暗さを払うわずかばかりの照明だった。

 邸宅の一室。明かりの消えた部屋で、高科瑞穂はそっとカーテンを開いた。ほそく切り取られた月明かりが斜めにさしこんで、その頬を冷たく撫でる。腰のあたりまで伸ばされたブラウンの髪は濡れたようにきらめいて、彼女の指が髪の上を流れると、それは魔法でもかけられたごとく完璧なストレートに整えられるのだった。
 瑞穂は、そのセットが完璧すぎたことに不満を感じて髪をすこしつまむと、指先でくるりとカールさせてアクセントにした。だがもちろん、そんなことで彼女の完璧さに傷がつくことなどあろうはずもなかった。

 月の高さをたしかめるように空を見上げると、瑞穂は溜め息をついて窓際から離れた。クローゼットを開き、支給品の制服をベッドに並べる。
 パフスリーブつきの、濃紺色のワンピース。真っ白なサロペットエプロン。スカートをフレアさせるためのペティコートに、ガーターベルトつきのニーソックス。そして、フリルのあしらわれたサービングキャップ。
 この屋敷で働くメイドたちの制服だった。機能性より装飾性を重視した、前時代的なデザイン。伝統的なメイド服の手本のような制服である。

 瑞穂はもういちど溜め息をつくと、覚悟を決めたように部屋着を脱ぎ捨てた。淡雪を思わせる白い肌が、月明かりを照りかえして蛍光色に輝く。長い髪に隠された背中のラインと、白い下着に覆われた胸のライン。どちらも、完璧といってさしつかえないものだった。窓越しに映える満月にさえ劣らず。

「寒……っ」

 暖房の切れた室内で、瑞穂は白い息を吐いた。ちいさく肩をふるわせ、体温を逃がさないよう、そっと腕をのばしてベルトをつまみあげる。なれた手つきでそれを腰に巻きつけると、次に彼女はニーソックスに手をのばし、しかし寒さを思い出してワンピースを先に持ち上げた。
 背中のファスナーを開けて、軽く上半身を折り曲げる。長い髪がさらりと流れて、床に触れそうだった。それを気にもせず、彼女はニコレッタ調のメイド服を頭からかぶった。質の良い生地は、するりと滑るように彼女の体をつつみこむ。
 ゆったりしたサイズのワンピースは、腰も袖も問題なく瑞穂の体にフィットした。ただ、胸のあたりは少々きつい。おまけに脚が長いせいか、もともと短いスカートは余計に短く見えて──、鏡の前で着こなしをチェックしながら、瑞穂は少しでも脚が隠れるようにとスカートの裾を引っ張ってみるのだった。無論、気休めにもならないことは言うまでもなかったが。

 彼女はベッドに腰かけると、その長い脚をニーソックスに通していった。
 自衛隊特務警備課の一員として鍛えられた瑞穂の体は、見かけと裏腹に強靭な力を秘めている。引き締まった脚には無駄な贅肉などカケラもなく、陸上選手のような力強さとモデルのような美しさを兼ねそなえている。ヒザの上まであるニーソックスは、その脚線美を引き立てるのに一役かっていた。
 鏡を見つめながら、「こういうのも案外悪くないかも」と瑞穂は思う。真っ白なソックスは足を細く見せるし、なにより暖かい。ただ、ガーターベルトのクリップで留めると、むやみに扇情的な雰囲気を醸してしまうのは問題だった。

 ベッドから立ち上がり、つづいて瑞穂は純白のエプロンをワンピースの上にまとった。袖のないタイプで、肩口には大きなフリルが波打っている。背中で結ぶリボンは肩口のフリル同様ふんわりとしたデザインで、見方によっては鳥の翼のようでもあった。
 まるで、不思議の国のアリスね。
 心の中でつぶやきながら、瑞穂は鏡の前でくるりと一回転してみせた。どこから見ても、完璧なメイドの完成である。髪をとかしてヘッドドレスをつけると、完璧さは揺るぎないものになって思わず彼女は微笑むのだった。

 だがもちろん、彼女の本職はメイドではない。
 それを行動であらわそうとするかのように、瑞穂はロングブーツをはき、グローブに指を通した。どちらも、いざというときのために欠かせない。
 無論「いざというとき」など起こらないようにするための潜入捜査だったが、仮にそういう事態が生じたとしても難なく切り抜けられる程度の自信と実力を彼女は持っていた。

「……さて、と。仕事の時間ね」

 自室を後にして、瑞穂は地下へ向かった。
 すでに、邸内の構造は把握している。目的の場所まで一直線。迷うことはなかった。だれかに見つかったときのためのメイド姿だったが、幸か不幸かそれが役に立つこともなかった。

 彼女が足を踏み入れたのは、地下の一室。無数のキャビネットが並べられた資料室である。立ち入りは認められていない。見つかれば、当然ただでは済まなかった。メイド姿に扮しているからといって、言いわけの余地もない。手早くすべてを終えなければならなかった。
 地下室に月明かりは届かない。蛍光灯のスイッチを入れるわけにもいかず、暗がりの中ペンライトの明かりをたよりに瑞穂は目的のファイルをさがしはじめた。──そのとき。

「暗いところで字を読むと目が悪くなるって、ママに言われなかったか?」
 廊下から、低い声が聞こえた。
 思わず立ちすくむ瑞穂。男の声が続いた。
「おまえが敵側の人間だってことは察しがついてた。俺たちは、それほど馬鹿じゃない」
「……わかってて泳がせたってわけ?」
 反論の術もないと見て、瑞穂はひらきなおった。
「まぁ、そんなところだ」
 男が室内に入ってきた。
 声の低さと反比例するように背が高い。瑞穂も低いほうではないが、その彼女より頭ひとつぶんは大きい。肩幅は広く、首も太かった。
 あきらかに「なにか」をやっている体格だ。スポーツか、あるいは格闘技。しかし、人相を見ればどちらでもないことが明らかだった。視線だけで大抵の人間を威圧してしまうような目つき。蛇みたいな目だ、と瑞穂は思った。
 しかし男の名前を知ったなら、彼女は考えなおしたに違いない。蛇の目ではなく、鮫の目だと。
 男の名は、鬼鮫といった。