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<東京怪談ノベル(シングル)>


月の下で〜前編〜

 冷たい夜風が肌に入り込む。普段ならばそれほど感じない冷気も、今ばかりは警備員よりも厄介な手合いというほかない。
 辺りに人の気配はない。小鳥さえずりさえない暗闇の中に影が見える。今宵は満月。窓から入り込んだ月の光から隠れるように、壁を背にした影から一つの嘆息が漏れた。
「‥‥時間、ね」
 軽快に見えて冷静沈着。それでも興奮を孕んだ口調は、任務の始まりを告げる合図である。
 念のためもう一度首を巡らせて、高科瑞穂(たかしなみずほ)は自分の胸元に手を宛がった。
 彼女の服装は世に言うメイド服だ。今高科のいる場所はかなりの規模を持つ屋敷であるから、使用人の一人や二人が居ても何の不思議もない。だが、彼女の表情が非常に釈然としない顔をしている。
(まさかこんな服を着ることになっちゃうなんてね)
 二コレッタメイドメイド服と呼ばれる服を、清々すると言わんばかり早々と脱ぎ捨てていく。いまいち馴染みのない服だから、脱ぐのも一苦労だ。ぴったりと張り付いていた服から解放されたことで、女性らしい魅惑的な胸が豊かに弾んだ。ガータベルトのニーソックスなど、完全に彼女の範疇外のもの。膝まである編み上げのロングブーツにグローブ。正直眩暈がする。
 そもそもこんな服を着ることになったのには理由がある。ではなければ、こんな服を着るわけがない。
 高科はメイドでもなければ、この手の類の服を好む種類の人間でもない。使用人でもないし、廊下から時折聞こえてくる足音、警備員というにはごつ過ぎる黒服のお兄さんとも異なる。
 近特務警備課。自衛隊の中に設置されている機関であるが、公には公開されておらず、一般人は決して知りえないものだ。極秘裏に設立され、闇の中で機能する機関。超常現象と呼ばれる異質な事件を扱い、彼女もまたその機関の一員であり、魑魅魍魎との戦いを主な任務としている。
 ここに侵入してきたのもその任務の一つだ。この屋敷の要人を拉致することが目的なのだが‥‥。
 胸元に入れ込んでいた手を、諦めたように何度目かのため息を吐いて止めた。
 メイド服を着たのはこの屋敷に潜入するためだ。無事潜入に成功し、後は要人を拉致するだけならば、このような服を着ている必要はない。しかし、与えられた任務がそう命じているのであるから、それに反するわけにもいかない。胸元にぴったりと張り付いた服が女性らしい胸を上へと押し出して、豊かさと柔らかさを余計に強調している。傍から見れば(特に男性からすれば)、思わず目を見張ること当然なのだろうが、本人からすれば、苦しいだけでいい迷惑だ。
 壁越しに聞こえてくる廊下の足音。ターゲットである屋敷の主が雇った警備員たちが、定期的に屋敷のあちこちを巡回しているのだ。よほど警戒心の強い人物なのか、だがそれも一般人に有効な手段に過ぎない。常人とは一線を画す自分にとっては、然したる脅威ではない。巡回経路や警備時間、交替の時間帯なども事前に把握済み。後は‥‥。
 こきりっと、可憐な外見とはかけ離れた音を拳から鳴らして。
「‥‥さて、それじゃ始めましょうか」
 興奮に熱くなる身体が廊下へと飛び出した。



 世界の中でもトップレベルの治安を誇る日本の夜にしては、似合わない音が屋敷の中に鳴り響く。
 花火としては短く、鼓膜に木霊する音調は高い。防音設備が施されているからといって、さすがにすき放題やり過ぎだろうと、眉間に皺を寄せたのも一瞬。
 壁に隠れていた身体を晒し、それと同時に十にも近い音が立て続けに放たれた。
 通路を塞ぐように待機していた黒服の男たちが持つのは紛れもない拳銃。
 銃口が吹き荒れ、直線の軌道で飛来してくる弾道は常人には捉えきれないもの。だが、まるで己の手足のようにその軌跡を見抜いた高科は、自らに着弾するまでのコンマ何秒間の間に、肉体の下部へと力を集約させた。
 使用人らしからぬ、いや人らしからぬ身体能力に屈強な男たちの顔が醜く歪んだ。膨大な脚力は高科の体を滑るように高速で運び、拳銃を突き出していた男たちの懐へと潜り込ませる。
 目に映った情報に脳が反応しようと伝令を送る。拳銃の横っ面を顔面に叩き込もうとした男の顔が先ほどよりも大きく歪んだ。振り上げられた高科の蹴りが、逆に男の顔面に容赦なく叩き込まれていたのだ。
 鼻から噴出する鮮血は膨大で鼻が折れたことを伝えるには十分であり、そしてまた周りの男たちの恐怖感を抱かせるにも十分過ぎるものだった。竦む身体に鞭打ち、前へ出ようとした懐にカウンター気味の右拳が一撃。嘔吐すらする暇もなくそのまま壁にめり込んだ巨体ががっくりと倒れ伏す。
 不幸にも最後に一人取り残された男が、情けない悲鳴を上げながら拳銃を突きつけようと腕を上げるが。
「こんなに近くで拳銃を使おうなんて。男なら自分の身体を使わないと」
 片手で押さえつけられてしまう。
 折角の助言にも悲鳴を上げるだけの男がそれでも反射的に拳銃に頼り力を込めた瞬間、
風が切り裂かれるような鋭い音がしたかと思うと、男の意識は闇の中に沈んでいった。





 難なく警備員という名の黒服たちを撃退した高科は、暢気に寝こけているであろう屋敷の主の部屋に向かっていた。屋敷の見取り図によれば、目的の三階までもう数分も掛からない。警備員は全員仲良く廊下でお寝んねしている。後はターゲットを確保するだけ、楽な仕事のはずだった。
 二階から三階へ。進路上にある小さな部屋に押し入った瞬間、高科の本能が身体へと危険信号を放った。
 反射的に、本能が伝えるがままに大きく横へ飛んだ数瞬後、入り口の扉が轟音に飲み込まれた。
 飛び散る木片を乗せて凄まじい風圧が身体をより遠くへと押し退ける。抗うことをせず、勢いに乗ったまま転がり、体勢を立て直そうとするものの、すぐさま壁に道を塞がれてしまった。
 床に伏したこちらへと、巻き上がった埃の中から飛び出した影が凄まじい速度で接近してくるのが見える。その速度に回避は無理と判断して両腕で顔の側面をガードするものの、数秒後、それがほとんど意味を成さなかったことを知った。
 両腕ごと吹き飛ばされた身体が壁にめり込んで崩れ落ちる。背中に受けた衝撃が身体全体を付きぬけ、肺の中にあった空気がすべて押し出された。速いだけではない、重い。無駄のない動きは明らかにプロのもの。そして身体全体を軸として右腕を巻き込むような動きはボクシングの右フックに近い。
過呼吸気味に喘ぐところへと、高科の懐に鈍い音が響いた。
 膝を付いて蹲った高科が薄めを開いて視界を確保する。黒いブーツの足元からゆっくりと上へ、黒尽くめの服装は暗闇の中に溶けそうで、朦朧とする意識ではなんとも捉えがたい。
 激痛に耐える中で登っていく視線。その途中で喉を無造作に掴まれて持ち上げられてしまう。
 こちらの手助けのつもりかなどと考える暇もなく、見下げた瞳に映った顔は‥‥。


「―――――――鬼鮫」