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月の下〜中編〜
喉を掴んだまま、こちらを見上げる顔は見覚えがあった。
こいつは見覚えがある。確か機関の報告書に載っていた、あの‥‥。
「ほう、俺の名前を知っているのか?」
「‥‥当然、よ!!」
相手の腕を両腕で掴み、それを地盤として右のつま先を男の喉元へと叩き込んだ。弱まった力を強引に引き剥がし、相手の胸を蹴って距離を取る。
相手にとってそれは予期せぬ反撃だったのだろう。まるで傷口を確かめるように、先ほどまでこちらの喉を掴んでいた手で自分の喉元を、ゆっくりと撫でていく。
サングラスの奥にあるはずの瞳を窺い知ることはできない。だが、暗闇の中でもくっきりと浮かび上がる影は、自然の闇とは異質のもの。例えるならば、黒い墨の中を漂う廃液とでもいうのだろうか。
「先ほどの動きといい、やはり超常能力者か」
「おまえこそ、資料で見たことがあるわ。IO2所属のジーンキャリア、霧嶋・徳治(きりしま・とくじ)。いえ、鬼鮫」
「‥‥俺の攻撃を二度も受けて立ち上がるか。少しは骨があるようだな」
それはこちらの台詞だ、という言葉は飲み込んだ。何事もなかったように立っている鬼鮫の姿を、高科は苦々しく睨みつける。
不安定な状態からとはいえ、急所である喉へと一撃を放ったというのに、鬼鮫は平然と立っている。まるで蚊にでも刺されたようにしか感じていない。一方、こちらはどうかといえば、すでに満身創痍だった。最初の一撃で右腕の骨にひびが入ったようで力が上手く入らない。受けられないと悟り、咄嗟にスウェーすることで衝撃を緩和したが、それでも余りある威力は殺すことが出来なかった。
「‥‥私の目的はここの屋敷の主を連れて行くこと。おまえとやり合うつもりはないわ」
IOSという機関は必ずしも近特務警備課と敵対しているわけではない。可能性は薄いが、もし目的が異なるならば、争う必要はなくなる。任務遂行が第一である以上、無用な戦いは避けるべきだった。
「任務など、関係ない」
背中に仕込んでいた刀をゆっくりと取り出して、鬼鮫の口元が狂喜に歪んだ気がした。
「超常能力者は殺す。お前のような獲物を前にして、黙って見過すことなどできんな」
予想通りの展開とはいえ、微かな希望が途絶えたことに頭が揺れた。この男の超常能力者に対する固執は異常だと聞いている。何でも昔、家族を超常能力者に殺されたらしいが、今では復讐心すら忘れ、殺意に囚われた鬼と化しているとも。
どこまでいけるか。未だに足からダメージが抜け切らない。視界はしっかりと確保できているが、ろくな反撃をすることすら難しい。
「見たところ、お前は素手のようだな。刀は使わないでおいてやる。来い」
「それは、どうも!」
気合一声。
掛け声と共に一か八か、相手との距離を一気につめた高科が拳を突き出した。風を切る音は刃物の如く、常人ならば避けることすら難しい。受ければ骨が折れ、肉が砕かれる威力を持つ。だが、鬼鮫はそれを避けなかった。正確にいうならば、避ける必要がなかったのだ。繰り出される乱打の嵐が胴体に、懐に、脇腹に、急所へと的確に叩き込まれていくが、盛り上がった筋肉の壁が悉くそれを遮ってしまう。
鬼鮫の右手が僅かに後方に下がったのを確認して。
「――――――――がっ!?」
衝撃が、身体中の神経を引き裂いた。まるで鉄球でも受けたかのような衝撃。鳩尾に叩き込まれた鬼鮫の右拳はめり込んでも尚、しなやかな高科の身体の貫くように前へと押し出されていく。
壁に叩きつけられた背中の衝撃はほとんど感じなかった。それを圧倒的に上回る激痛が鳩尾から登り、五感のほとんどを封じてしまっている。
折れた膝を奮い立たせ、水平に上げられた視線は弱々しい。押し上げられた、窮屈そうな胸元が荒い息に呼応して上下に揺れる。口元から零れ落ちた鮮血が胸の間に垂れ、純白のメイド服に斑点を生んでいた。
たった一発。相手からすれば、ただのストレートだったのだろう。だが、それは到底人間のものとは思えない。
「いくぞ‥‥」
先ほどとはうって変わって、飛び込んできた鬼鮫の動きが残像のように目に焼きつく。あまりの速さに逆にスローモーションのように感じてしまい、腕を上げようとした時には高科の顎が跳ね上がっていた。
視界が未だ上に向いている間に感じたのは胴体へ叩き込まれた三つの拳。
何とか距離を取ろうと右に逃げるものの、狭い部屋ではそれをすることも間々ならない。ようやく顔を相手に向ければ、目の前にまで迫っていた拳。必死に顔を横に逸らすが、完全には叶わずその頬に紅い筋が浮かび上がった。
相手の腕に重ねるように拳を前に。カウンターを狙った右フックは鬼鮫の顔面に届く前に、止まった。否、遠ざかった。こちらの拳が届くよりも早く、相手のもう一つの拳が再び鳩尾へと炸裂し、身体全体が大きく後方へと吹き飛ばされていたのだ。
「‥‥お‥‥えっ」
無残な嗚咽が高科の口元から零れた。鍛えぬいた肉体が、今は全くの役に立たない。想像しえる状況に対応すべく、日々鍛錬してきた高科だが、その何もかもが通用しない。
尚も続く鬼鮫の攻撃を浴びながら、高科は逃げ続けることしかできなかった。
狭い部屋に逃げ場はない。さながらこの部屋は、二人のために用意されたリング。どちらかが死ぬまでは逃げられない死の闘技場だった。
不意に、背中全体に嫌な汗が流れた。それは入り口で感じたものと同質のもの。数々の戦場を経験してきた高科の直感とでもいうのだろうか。
鬼鮫の右腕が振り上げられるというよりも、僅かばかりに後方へと引かれるのを見て、高科はほぼ反射的にすべての力を振り絞って大きく屈んでいた。
ドオォォォォォォォン!!!!!
危うく抜けそうになった腰を辛うじて保たせる。頭の少し上に穴が開いていた。それも拳によって開けられる小さな穴ではなく、有り得ないほどの巨大な空間。吹き込んでくる風は外から流れ込んでくる夜風だろう。まるで大砲でも打ち込まれたように開いた風穴は部屋の壁を貫いて外にまで到達していた。
もはやストレートなどという描写では済ますことは出来ない。一種の大砲だ。
どう足掻いても、常人では作り出すことができるわけがない一撃に、高科はひしひしと死の恐怖を感じていた。あれをくらえばどうなるか、子供でも容易に予想が付く。あんなものを喰らえば、骨どころではなく、身体に大穴が開く。そう、この壁のように。
恐怖を振り払うように、高科は苦し紛れの拳を鬼鮫の顔面へと繰り出した。
当然、そんな攻撃が届くわけがなく、鬼鮫の右腕がその二の腕を握りつぶす。
「あ‥‥‥‥」
強烈な握力で完全に砕かれた右腕に、僅かな声が漏れる。
それから鬼鮫は腕を掴んだまま、その後方へと回り込んだ。
「ああああ―――――――――!!!!」
ごきりっと鈍い音が沈黙の部屋に鳴り響いた。
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