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<東京怪談ノベル(シングル)>


 月の下で〜後編〜

「‥‥‥‥‥‥‥まだ立つか。しぶといな」
 ドンッと鉄棒で殴りつけられたような感触が高科の頬を襲った。
 一度、二度、三度、痛ましい光景が続いていく。
「‥‥‥‥‥っ、ふっ‥‥‥ふっ、ふっ」
 喉と鼻が血でつまり、まともに呼吸すら出来ない状況がもう何分も続いていた。
 残った精力を振り絞って、身体を持ち上げるものの、もう高科にはろくに反撃する力も残っていない。骨を粉砕され、関節を外された右腕はもう使いものにならない。敵の手の甲と掌によって何度となく打たれた頬は腫れ、砕けた頬骨は整った高科の骨格を大幅に歪めていた。
 面倒そうな動作とは反対に、鬼鮫の表情は嬉々として、別の意味で歪んでいた。黒い服は開いた穴から差し込んだ月光に照らされ、くっきりと浮かび上がっている。閉ざされていた時とは違い、その狂喜に歪む表情はしっかりと高科の目に映っており、その残酷さは紛れもない狂気に他ならなかった。
 純白のメイド服は鮮血に染まり、立ち上った僅かな埃に煤汚れていた。ガータベルトは千切れ、膝上までしかなかったミニスカートも今はほとんどが破れ、その機能を失っている。床に叩き付けられた摩擦で焼ききれた太腿には紅い直線の筋がいくつ刻まれ、女性としての美しさを見事なまでに乱している。
 もう立つこともままならない状態だった。意識も朦朧として、逃げることが叶わないことも悟っている。それ以前に、もうそれだけの力が残っていない。自分に残されていることといえば、相手のサンドバックになることくらいか。
 糸が切れたように膝が折れて倒れようとしたところ、両頬を挟み込まれるように二つの平手が叩きつけられた。痛覚すら麻痺した状態で、意識が一瞬遠のいたところに、意識を引き寄せるほどの強烈な刺激が鼻から後頭部へと突き抜けた。
「が、ああああああああ!!?」
 メキリッと不快音がした少し後、高科の身体が地面で蹲った。
 もう出ないと思っていたのに、悲鳴が上がったことに驚いてしまう。喉から溢れてきたのは肺に溜まっていた悲鳴だけでなく、喉のすぐ近くまで上がっていた内臓の血だった。鼻から逆流した鮮血が口に流れ込み、鉄の味が下の上で踊りまわる。思わず口元に当てられた手は反射的なもので、何の意味も持たない。
 芋虫のように転がった姿勢で、目に映る光景に集中すれば、鬼鮫の前頭部が血で濡れているのが見えた。鬼鮫は傷一つ負っていない。たとえこちらの拳が届いたとしても、相手には傷一つつくことはないのだ。ならば、あの鮮血は大方私の血。先ほどの顔面に響いた一撃は、やつの頭突きということか。
「言い残すことはあるか?」
「‥‥‥‥ふっ、あ、‥‥」
「もう喋る力さえないか」
 転がった高科を見下したまま、鬼鮫がつまらなさそうに鼻息を出した。真っ赤に染まった拳と前頭部を意に介することもなく、悠々とこちらに近づく様は、まさに鬼というに相応しい。復讐心に染まった、人であることを忘れた男。家族を失い、何もかもを捨てて復讐を誓った男は、今では力に魅入られたただの狂人に過ぎない。資料でこの男の危険性についても示唆されてあったが、まさかここまでとは思わなかった。そしてその戦闘能力も。今まであまり信用していなかった資料だが、どうやら考えを改める必要があるようだ。
(‥‥もう少し、資料を真面目に読んでおけばよかったかな)
 鬼鮫が近づいてくる間、どこか冷静な思考が頭の中を巡っていた。死を覚悟し、受け入れたことで得た平穏な心。死が近づいてくれば、人は恐れるが、最後に死を受け入れてしまえば、どうということはないのだと、高科は悟る。それとも、これほどまでに冷静でいられるのは、これまでの長い鍛錬のおかげだろうか。
 すぐ近くで、鬼鮫の足音が止まった。
 床に飛び散った鮮血を無慈悲に踏みにじる様子がよく見える。もうすぐ、自分もこんな風になってしまうだろうと、まるで数分先の自分の様子を見ているようで、思わず笑ってしまう。
 覚悟はいいかとか、言葉はなかった。無言のまま、鬼鮫が右腕を引く様子が克明に映った。
 その光景を見た瞬間、高科の脳裏にある文面が浮かび上がった。資料に載っていた文章、死を前にして浮かんだそれは、光の速さで高科の情報と結びつき、ある推測を創り上げていく。
 どこにこんな力があったのだろうかと、自問してしまう。
 死を覚悟して諦めていた高科の身体は、鬼鮫と距離と取る位置にまで動き、構えを取っていた。
「何のつもりだ?」
 疑問というよりも、嘲笑に近い。半死半生の高科が足掻く姿を見て、鬼鮫は残酷な笑みを浮かべていた。
 挑発の言葉でも言えれば、すっきりしたのだろうが、生憎そんな余力はない。動けるとしたら、ほんの数秒。そのための力を残すためには、もう余計な動きは許されない。
 悪あがきと判断を下した鬼鮫が拳の届く距離まで近づくと、右腕を引いた。風穴を開けたあの大砲のような一撃が放たれるだと、高科は察する。そしてそれは彼女の予定通りだった。
 これで終わり。これが成功するにしても、失敗するにしても全てがこれで終わる。
 一秒にも満たない時間に、見えない何かが鬼鮫の右腕に収束していくのが肌でわかる。強烈な殺意と同調して、それが爆発すると同時に大気がはじける。
 高科が立ち上がって、それが放たれるまでの時間は僅か数秒。
 それでも、その短い時間の間に高科の思考はフル活動し、ある決断を下していた。
 それは慈悲か。醜く腫れ上がった高科の顔面へと、右腕の何かが弾けようとした刹那、高科はこともあろうに、受けるのではなく、右腕へと自ら飛び込んでいた。
 高科の脳裏に浮かび上がったのは鬼鮫の能力に関して。やつの強靭に肉体の源は、体内の組み込まれたトロールの遺伝子。人間をはるかに凌駕する文字通り化物染みた力はその遺伝子に起因する。化物の肉体を持つこの男には、どんな攻撃も通用しない。だが、完璧な存在など存在しない。ありすぎる力は逆にそれだけのリスクを伴う。トロールの余りある力は人間に扱いきれるものではないのだ。
 見えない力の膜に纏われる右腕。それは紛れもない異形の力。瞬間的に見える筋肉の異常膨張は紛れもないトロールの力の発動がしている証。
思えば、やつはこの力を直線的な攻撃、即ちストレートにしか使っていない。それはなぜか。答えはその力が生むエネルギーを制御できないから。ならば、その軌道を変えてやればどうなるか。
「はああああああああああ!!!!」
「――――――――――――なっ!!」
 猛スピードで走る車が急カーブに直面すれば、脱線するしかない。高科が捨て身で発動する瞬間の右腕の向きを大きく後ろ側へと変えてやったことにより、鬼鮫の身体は台風にでも巻き込まれたように回転する。軸となる右腕は肩の関節から大きく捩れ、ちぎれる勢いで荒れ狂う。そして行き場を失った力はその場で膨張し、
 巨大な爆発が、部屋の全てを吹き飛ばしたのだった。



 屋敷の庭で高科が目を覚ました時、すでに鬼鮫の姿はなかった。
 鬼鮫の死体はなく、あったのは肩からねじ切れて落ちてあったやつの右腕だけ。
 救助に駆けつけた仲間たちによって高科も一命を取り留めた。
 トロールの力を持つ鬼鮫ならば、高科よりも早く回復していたはず。右腕もすぐに再生していることだろう。それにも関わらず、高科に止めを刺さなかったのは、勇敢に戦った高科に対する敬意か、それとも気紛れか。
 全ての謎は、暗闇の中に閉ざされたままだった。