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Aggressive −Round.1−
男の拳が、左頬をかすった。
避けた拍子に、長い艶やかなブラウンの髪が乱される。
高科瑞穂(たかしなみずほ)は慌てて後退する……と見せかけて、力の限りに右足を蹴り上げた。
「――ッ!」
けれど、とある理由から足を振り切る事が出来ずに、眉をひそめて今度こそ本当に後退した。後退したと言っても、六畳程度のこの部屋では、その意味もあるのかないのか。大きく二歩ほど下がっただけで、すぐ後ろにコンクリートの無機質な壁の感触に当たってしまった。
相手の男は一瞬驚いたように目を見開いていたものの、後退した瑞穂を見るやいなや、小ばかにしたように片眉を跳ね上げた。
高科瑞穂。自衛隊、近衛特務警備課に所属している、極秘の軍人。
けれど今の瑞穂は、あまりにも軍人らしからぬ姿をしていた。
今着ているのは、ニコレッタメイド服だ。ただのメイド服じゃない、ミニのニコレッタメイド服。やわらかなフレアスカートと、ガーターベルトの付いたニーソックス。膝まである編み上げのロングブーツは、メイドとしてもどちらかと言えば機能的ではなく、この屋敷の主人は絶対に変態だと瑞穂は思っていた。
唯一それらの服に似合わない、戦闘用のグローブだけが今の自分を落ち着かせてくれる。
瑞穂は今、敵対勢力の屋敷への潜入捜査の真っ最中だった。真っ最中だったと言っても、敵方に潜入がばれてしまったのだから、このままでは情報を持ち帰るどころではない。
ここに何かあるっぽい、という何となくの勘だけで、この奥部屋に足を踏み入れた事がそもそもうかつだった。自分とした事が、目も当てられないミスに思わず舌打ちしたくなる。
部屋に入った瑞穂を待ち受けていたのは、この屋敷の警備戦闘員と思しき一人の大柄な男だった。「まさかおまえみたいなのが潜入者だったとは」と低く冷たい声をかけられた時には、さすがの瑞穂も戦慄した。
待ち伏せなんて予想外でとっさに反応も出来ず、気付いた時には出入り口はふさがれていた。
そうしてぽつり「……鬼鮫」と、まるで独り言のように名乗りを上げたその大柄の男は、直後、明らかに常人的ではないスピードで瑞穂に迫ってきた。そのまま遠慮の欠片もない右ストレートを繰り出してきて、冒頭に至るわけである。
「………………」
「どうした、無意味な反撃も一発で終わりか?」
瑞穂は、無表情のままに挑発を寄越す相手の、目に見えない威圧感や違和感に警戒しながら、それでも苛立ちを覚えずにはいられなかった。
この服が、こんなにも動き難いものだとは思ってもいなかった。
豊満なそれを押さえつけるキツイ胸元とかエプロンとか、最初は思わず可愛いななんて思ってしまった重ねられたペティコートとか、わざとギリギリ中が見えるか見えないかくらいにデザインされた半端ないミニのスカート丈とか、その辺にもかなりイラッとした。
けれど一番の問題は、この腰から下げたガーターベルトだ。
歩く走るに対応出来る伸縮性は持っていても、蹴り上げるという行為にはさすがに対応していなかったらしく、さっきは後ろ側のベルトが突っ張って、思い切りつっかかってしまった。
武器は己の身一つ。相手の瞳に、人間かどうかと疑ってしまいたくなるような獰猛な輝きが宿っている事に気が付いた瑞穂は、出来る限り、己の全力で相手に向かいたいと思っていた。それなのに、その矢先から早速足が自由に使えないときた。
鬼鮫の速さに驚きはしたものの、フォームを見る限り、相手はボクシングを得意としていそうだという事は見て取れた。とすると、明らかにリーチの短い瑞穂は、使えるものはとことん使うくらいでないと不利だと言うのに。
瑞穂は自分をなだめるように細い呼吸を繰り返しながら、どうしたものかと頭をめぐらせた。
「……おまえが来ないなら」
不意に鬼鮫はそう呟くと、トントン、と軽く跳ねるようにしながらその両拳を握り締めた。
やっぱり、ボクシングだ。
「俺から行く」
一気に緊張感が高まり、瑞穂も低く構えなおす。
――ところが、一瞬、何が起きたのか解らなかった。
ずん、と酷く鈍い、生々しい音が耳に届いた。次いで瑞穂の体は自然と前のめりになり、思わず足も浮き上がる。
目の前には、たった今、壁際と壁際の距離を保って相対していた鬼鮫の、嫌に冷酷な、けれど何かの興奮に燃えるような光を宿した瞳があった。
「――……あッ」
そうして、そんな不可思議な状況を認識した事と同時に、
「か、は……ッ」
酷い息詰まりと、腹部に走ったあまりにも鋭く重い痛みを自覚した。
右拳でボディを叩き込まれた瑞穂は、膝をつくどころか一気にくず倒れ、短い、けれど耳をつんざくような甲高い悲鳴を上げた。
「あアッ! う、あ……ッ、は……」
床にもんどり打ち、びくびくと体を痙攣させる。
痛みにじっとしている事すら出来なくて、腹を抱えてうつ伏せる。豊かな胸が押しつぶされて、服がはちけそうになった。でも、胸をクッションにしようとも結局は真っ直ぐになんて寝ていられなくて、まるで腰を突き上げるようにしながら足をもがかせる。その形のまま、またどうと横に倒れ込み、腹を体全体で包むように体を折り曲げながら、小刻みに痙攣を繰り返す。
それでも、無意識下で何とか少しずつ鬼鮫との距離を取ろうとする瑞穂を、鬼鮫は変わらず冷たい目で見下ろしていた。にやりともしないその表情を見た時、瑞穂の背には、また別の意味で震えが走った。
しばらくの間、鬼鮫は追撃を寄越して来なかった。
しかしそれが「これ幸い」と言える状況ではない事を重々承知していた瑞穂は、どうにかこうにか気力を振り絞り、震える体を叱咤して立ち上がりながらも、全神経を鬼鮫に集中させていた。
「……まだ立つか」
そのまま気を失うと思っていたのだろうか。瑞穂が何とか立ち上がりきると、鬼鮫は一言そう呟いて、またトントンと軽いフットワークの構えを見せた。
あの男、速さが尋常じゃない。最初のアイサツは本気じゃなかったのか。
近衛特務警備隊員としてかなりの戦闘力を誇る瑞穂ではあったけれど、いくら何でもあれは想定範囲外だった。もう、人間とは思わないほうがいいと、そう心に言い聞かせた。
鬼鮫は、ひゅっと息を吐くと同時に、また一気に距離を詰めてきた。
今度はその姿をしっかりと視界に捉え、瑞穂は避ける為に真横に飛んだ。けれど床を蹴った瞬間、腹部の痛みが体に電流を走らせ、そのままよりかかるようにして横の壁にぶつかってしまう。部屋が狭い事も、瑞穂にとっては不利だった。
鬼鮫は、そんな瑞穂の背に、スイングを叩き込んできた。
「ぅあァッ!」
何をなす事もなく、のけぞる。
胸がまるで天井に吸い寄せられるように揺れ、髪がそれを追うように踊った。苦悶の表情を浮かべている瑞穂とは裏腹に、スカートとペティコートも、まるで風にそよぐ花のごとく舞う。
鬼鮫は続け様、瑞穂の横っ面目掛けて左拳を繰り出してきた。瑞穂はとっさに体を折り曲げてそれを避ける。痛みを堪えてしゃがみ込み、そのまま片手を軸にして足払いを仕掛けた。長くすらりとした足の、その付け根辺りまでが惜しげもなくさらされる。
けれど鬼鮫はそれを露ほども気にかけず、その図体に似つかわしくない軽やかさで跳び避けると、着地と同時に瑞穂の横腹を蹴り上げた。
「んあッ……!」
吹き飛ばされ、文字通り転がりながら倒れ込む。
蹴りなんて反則だ。遠のきかける意識を何とか保ちながら、瑞穂は急いで、けれど自分で思っているよりも緩慢な動きでもう一度立ち上がろうと腕をついた。
と、不意に静かに近寄ってきた鬼鮫にその腕を掴まれ、引っ張り上げられた。大柄で長身な男に持ち上げられてしまうと、特別背が高いわけでもない瑞穂は宙吊りのような状態になってしまう。
瑞穂は小刻みに呼吸を繰り返しながら、乾いた唇をその赤い舌で湿らせ、鬼鮫を睨むように目を細めた。
さすがの鬼鮫も、そんな瑞穂の挑発とも取れる態度に口を歪めると、また瑞穂のボディに重い拳を叩き込んできた。
「か、っは……ッあ」
あまりの苦しさに目の前がスパークする。
けれど瑞穂の心の中では闘争心がくすぶり続け、萎えるどころか次第に小さな火を起こしかけていた。
瑞穂はまだ諦めるつもりも、負けてやるつもりも、一切なかった。
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