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<東京怪談ノベル(シングル)>


Blood Dust
 考える暇は無かった。
 男は、その巨躯に見合わないほどの速度で高科瑞穂との間合いを詰める。そして次の瞬間には、深遠が瑞穂の視界を遮っていた。それが男のまとうコートの裾であることに瑞穂が気がついたのと、鈍い衝撃が体を貫くのはほとんど同時であった。
 勢いの上に、体重を乗せた男の後ろ回し蹴りは瑞穂をキャビネットに叩きつける。巨躯とそれに見合わぬシャープな動きは瑞穂に回避を許さなかった。瑞穂の肺腑からは、苦悶の声が漏れる。一拍遅れて、盛大な音と共にファイルが床に散らばった。
 「当たりが軽い割に勢いが良すぎるな」
 男の蛇のような目が喜色に歪むのを、瑞穂は注意深く感じ取っていた。いや、違う――あれは蛇なんて可愛い目じゃない。例えるなら、あれは鮫だ。瑞穂は神経を研ぎ澄まして、好機を探る。男の示唆するとおり、蹴りの勢いそのものは殺していた――だからまだ闘える。
 男が囃し立てるように口笛を短く吹く。
 「誘ってるのか?」
 そう言って獰猛そうな歯を見せて笑う。瑞穂が視線を下げると、濃紺のミニスカートそしてペチコートの一部が、ファイルの金具で切り裂かれその役目を果たしてはいなかった。瑞穂の頬に朱が差す。
 その瞬間を男は狙っていたのだろうか、瑞穂に向かって再び間合いを詰め始めた。イニシアチブを取られてばかりだ。瑞穂は咄嗟に跳ね起きて、男から距離を取る。
 今だけは忘れよう――この男は強い。
 「行くわよっ!」
 そう気合をかけて、瑞穂は一気呵成に男に襲いかかった。

動くたびに、瑞穂の淡雪のような白い肌が、ミニスカートの切れ間からのぞき鬼鮫の目を眩ませる。下手な閃光弾よりも、ことによっては幻惑されるかもな――。鬼鮫は口の端をニヤリと歪める。
 動くにはここは狭すぎたな、そうひとり胸中で呟いた鬼鮫が女の蹴り足を掴もうとした瞬間、不意に蹴り足の軌道が変わった。そして女の蹴り足は鬼鮫の両手を掻い潜り鳩尾に重くのめり込む。見た目の細さと比べて、重い――それに妙な動きだ。
 「次からは、刃物でも仕込んどくんだな」
 ただ耐えられぬほどではなかった。鬼鮫は、大気まで痺れさせるそうな底冷えのする低音で獰猛に唸りをあげた。

 渾身の一撃を鳩尾で受け、なお平然とうそぶく男に瑞穂は舌打ちする。
 「どんな体してるのよ、あれでびくともしないなんて」
 瑞穂の蹴り足を掴もうとした男の右腕を、軸足で蹴って瑞穂はもう一度距離を取り直す。この狭い部屋じゃあれ以上に力を込めた蹴りなんて出せやしない、出せたとしてもそれじゃ大振りすぎる。
 男はシャープなボクシングスタイルで、瑞穂をじわじわと追い詰めることに決めたようだった。今までの大振りには無い手数の多さとキレは、かわすだけでも一苦労だ。その上、あの豪腕――、かわしきれなければ――。
 重い拳が、風を切るたびに純粋な恐怖が瑞穂の心に沸き上がる。これじゃジリ貧だ。瑞穂の繰り出す拳と蹴りは、人体の急所であるひざやあごを狙うが、致命打を繰り出せずにいた。なんて体の硬さだろう、こいつ本当に人間なの? 
 瑞穂の胸中を疑念がかすめるが、思索に割けるほどの余裕はどこにも見当たらなかった。ほどなく半歩後退させた足が、キャビネットに遮られる。
 先に動いたのは、男だった。右拳を辛うじて避けたものの、瑞穂は男が巨躯を前のめりに突っ込んでくるのを避ける手段を持たなかった。しまった――、そう思えた時にはもう直撃していた。
 瑞穂の額に激痛が走る。
 「――あああああああ」
 単音で意味を成さない瑞穂の絶叫が、部屋中を満たす。崩れ落ち、額を押さえ無様にのた打ち回る。濃紺のメイド服が埃にまみれることすら厭わない、まるで赤子のようにわめき叫ぶ。その痛みは、純粋で――それだけに耐えることすらできなかった。

 鬼鮫はじっと女を見下ろし、血痕のべったりと付着した額を指先で拭って、舐める。
 「血の味だな」
 感情のこもらない低音は背筋の凍るような、冷気を孕んでいた。
 立ち上がった女の姿は、酷いものだった。ファイルの金具で肌を切ったのか、濃紺のメイド服はところどころほつれ――埃と血で汚されていた。それでもなお女の瞳は、まっすぐに鬼鮫を睨み付けていた。割れた額からは、鮮血が滴り、床をゆっくりと潤す。
 奇妙な光景だった、目の前の女は既に弓折れ矢尽き、諦観を覚えても遅くはない。それでもその瞳には、強さが失われてはいなかった。
 面白い、鬼鮫は舌なめずりをする。口内に残る女の血の味が、甘美さを増したようだった。拳が空を切る。女はそれでもなお、まだ闘い続けるつもりなのだろう。幾度目かの鬼鮫の拳が無防備な腹部に、吸い込まれる。
 「が――――」
 肺腑の空気を搾り出すような悲鳴が、拳越しに鬼鮫に伝わる。女は蹲って、空気を求めるように口を何度も開いては、かすかな呼音を響かせる。それでもまだ、女は立ち上がった。
 女は拳を固めて、鬼鮫を見据える。鬼鮫は無言で立ち上がった女に拳を繰り出す。女の狙いはワンパターンなままだった。あごかひざ、人体の急所をひたすら狙い――哀しくもむなしい抵抗を繰り返すだけだ。
 女の動きにはキレがもう、無い。鬼鮫はただ無慈悲に女の腹部にもう一度拳を突き入れた。呻き声も無く、女の動きが止まった。鬼鮫の右拳に体重を預けるようにして倒れる。
 気絶したか――それとも――。
 覗き込んだ鬼鮫のあごを女の拳が掠める。左腕で女の腕を掴むとそのまま壁に向かって無造作に放り投げた。
 キャビネットに受身も取れずに衝突した女は、呻きながら――それでもなお三度立ち上がった。その瞳には既に余裕は無い。ぼろぼろのメイド服は、ところどころ裂け、下着や肌が露出している。
 女は、それを気にする余裕すらなく、それでもなお闘おうとしていた。その瞳と、拳には、今もなお戦意が宿り続けている。
 鬼鮫は再び拳を固め女へと歩みを進める、慎重な歩運びだった
 女だけではない――鬼鮫の表情からも、余裕めいたものは既に消えていた。