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<東京怪談ノベル(シングル)>


Blood Lust
 常であれば、情報が眠るその場所には静謐が満ちていただろう。うっすらと溜まった埃は、侵入者不在の証。けれども今、その場所を支配しているのは静謐ではなかった。
 荒い呼音が狭い室内に、かすかに反響を起こす。薄暗い室内に舞い立つ埃と、キャビネットから無造作にこぼれたファイル群――そして対峙する人影。かつて静謐があり、そして今は――戦闘が存在していた。

 瑞穂の息は荒い、額を流れる血は未だ止まってはいない。痛みも当初の耐え難いそれと比べると、幾分楽にはなっていたが――それでも周期的な鈍痛は、瑞穂の表情を歪ませるには十分だった。
 「はぁっ、はぁっ――」
 苦しげにあえぐたびに、埃や血で汚れにまみれ、ところどころほつれたメイド服に包まれた瑞穂の胸が激しく上下する。どれだけ馬鹿力なのよ、片手で投げ飛ばすなんて――。鮫のような、冷たい男の瞳を見据えながら瑞穂は胸中で、罵倒する。
 逃げるにしても、この狭い部屋じゃ、迂回なんてできやしない――。瑞穂の視界には慎重に歩みを進める男と、その軽く握られた拳がまるで部屋全体を覆うかのように、圧倒的に映っていた。
 けれども、瑞穂は胸中で言葉をつなげる。諦めるわけには、いかないじゃない――だからっ。
 一息、吸い込むと、瑞穂は再び男に踊りかかる。狙うはひざだ、ボクシングスタイルなら、ルール上下半身のガードは甘くなる――いくら丈夫な体でも、間接だけは鍛えるにも限界があるはず。
 踊りかかる一刹那、男の鮫のような瞳が喜色に歪むのを瑞穂は見ていた。男は、関せずと言った風情で瑞穂の蹴り足をただ受け止める。手ごたえはあった――それなのに、瑞穂の心中には不安が、沸き起こる。
 この一撃も、効かないんじゃ――そもそも、なんで無防備なままなの――。瑞穂の思考はそこで一瞬切断される。なぜならばその腹部に、男の強烈なストレートが突き刺さっていたからだった。

 「いい当たりだ。ただ、俺の体は特別製でな――諦めたらどうだ」
 鬼鮫は、膝に突き入れられた蹴りを無視して、女の腹に右ストレートを叩き込んだ。この程度で壊れるほどやわな体じゃないのは、自身が一番よく知っている。とはいえ、女の細身とは思えないほどの威力はあった。
 ――痛みがない訳じゃねぇ――やるじゃねぇか。そうひとり嘯きながら、鬼鮫は油断せず女の出方を伺う。
 鬼鮫が突き入れた右の勢いに、女の体が力なく床に崩れ落ちた。
 肺の空気が抜けたのか、女はぐぇっなのか、ぐはっなのか、カエルがつぶれたような名状しがたい苦悶の声を上げ、空気を求めのた打ち回る。
 鬼鮫は、そんな女を無造作に左手一本で首を掴んで持ち上げた。もうダメだな――意識はあるが、もうこれじゃ戦えねぇな――鬼鮫は、そう女の状態を分析する。
 「なぁ、いい加減――諦めたほうが楽だぜ」
 女が恭順の意思の代わりに示したのは、鬼鮫の頬に血交じりのつばを吐きかけることだった。鬼鮫は、二ィと口の端を歪めて笑むと右手で女の頬を勢い良くはたきつけた。狭い室内に音が爆ぜる、そして女の甲高い悲鳴がほぼ同時に響き渡った。
 残響の響く中――鬼鮫は攻撃の手を緩めなかった。悪くない声だ、女の悲鳴が鬼鮫の胸中に獰猛な渇望を呼び起こす。戦いなれたパターンに相手を追い込めるように、鬼鮫は女を無造作に部屋の角に放り投げると、即座に間合いを詰めた。
 この女に、距離を与えると厄介だ――。筋力もそれなりだ、そのうえに予備動作を乗せられるときついかもな。女に蹴り足を叩き込まれたわき腹が、ズキッと軋みをあげた――。そのうえ、重いときたか――本当に、厄介だな――もう手は尽きたと思えるが、な。

 これで何度目なんだろう。瑞穂は本日何度目かのキャビネットとの激突を最早、ただなすがままに受け止めるしかなかった。蓄積されたダメージは重い、鮫のような瞳の、大柄な男は――強い、少なくとも私よりは――。勝てないよ――。
 瑞穂が歯噛みすると、酷い血の味がした――鉄っぽい嫌な味だ。男の手が瑞穂の首を掴んで持ち上げると、顔をのぞきこむ。唾を吐きかけてやった。
 男の平手が、飛んでくる。防ごうと腕を伸ばしたけれども、思うように右手が伸びない、男の平手に腕ごとはじかれて、瑞穂は頬を強かに打たれる。一度だけではなかった、男は首をつかまれ防ぐことも出来ない瑞穂に、何度も執拗に平手を往復させた。
 瑞穂は幾度目かまでは耐えた、けれども男の平手は無慈悲に瑞穂の顔を往復し続ける。
 「――ひ……ひぃっ――やめ、やめて――」
 何往復目だろうか、瑞穂がそうか細く口にした時には――その顔は、酷く腫上がってしまっていた。男は、詰まらなそうに一言短く呟いた。
 「なんだ、案外早かったな――」
 男はそう嘆息すると、両の手のひらで瑞穂の顔を掴みその顔面に、鋭く重い自身の膝を叩きいれた。瑞穂の意識はその瞬間――ぷっつりとブラックアウトする。

 それはある意味では、瑞穂にとって幸運なことであったのかも知れない。限界以上の苦痛に対して、人体が半ば自動的に選択する対処法――それが意識の喪失であった。
 鬼鮫が、倒れ伏した瑞穂を見下して笑みを零す。終わってしまえば戦いとは呼べないほどの一方的な惨劇だった、けれどもしかし――悪くは無かった。鬼鮫の胸中には、充足し、満たされた感覚が広がっていた。――だからこそ、この仕事は辞められない――。
 女のメイド服はその機能を、ほとんど失い――ぼろきれのようになりながらも辛うじて体に張り付いているだけに過ぎなかった。時たまピクピクと痙攣する女の体にはもう戦力は、無く――戦意――意思すらも失われているようだった。
 鬼鮫は瑞穂に背を向ける――依然として、その場所には埃が高く舞っている――けれどもそこはもう戦場ではなく、静謐の支配する場所に戻っていた。