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<東京怪談ノベル(シングル)>


花、墜つ。
 強く握りしめた拳を、容赦なく男の腹に殴り当てた。
 分厚いタイヤを殴ったような、肉に打ち込んだ感触に、一瞬手ごたえを感じる。
「…!」
 追撃は、しなかった。狭い部屋の中で距離を取り、目の前の筋肉質の男を見上げた。
「どんなもんかと思ったが…、なるほどな」
 男が唇を、楽しそうに舐めた。


 かつん、と高くブーツの音が響き、彼女―――高科瑞穂は少し足を止めた。
 いや、足音を気にする必要などない。人気もなく、誰もいないのだから。
 その屋敷は随分と広く、主の財力や社会的地位を想像することは、決して難しくはなかった。
 瑞穂は、豊満なバストを収めるようなメイド服のスカート裾を揺らし、慎重に目当てのものを探していた。
 しかし、彼女は屋敷のメイドではなかった。ニコレッタ調、青と白のメイド服は、屋敷に勤める他のメイド達とまるで同じものだったが、手に嵌めているグローブが異様だった。
 そう、そのグローブは、軍部で使われているもの。メイドに変装している、というのが彼女の真実だった。
 自衛隊、―――その中の近衛特務警備課。そこに所属している軍人だと言っても、彼女の外見を見ただけでは、首を傾げてしまうだろう。
 年の頃は二十歳ほど、柔らかい茶色の髪と瞳。整った顔立ち。見る者が見なければ、同じ屋敷のメイドたちと同じく、普通の―――年頃の女性にしか見えない。
 近衛特務警備課の中では、ベテランの域に達する彼女の、これは任務だった。
(…おかしいわね)
 その彼女の感覚が告げている。何か、妙ではないかと。
 任務の内容は情報奪取だった。そのための潜入任務であり、年格好を利用してメイドになり済ましたのは、自分でも驚くほど上手くいっていた。
 瑞穂も、潜入任務は初めてではない。さすがにメイド服なんて代物を着用するのは、始めてのことではあったが。
 ベテランと呼ばれても恥ずかしくない成果を挙げている。潜入に成功したのは、そういった己の腕が活かされたのだと思っている。
 だが…、肝心の―――、
(奪取すべき情報は…、どこにあるの…?)
 侵入できたとしても、目的のものがなければ意味がない。丁度、屋敷の一角はこの部屋で調べ終わる。それが終わった後、一度引き返して様子を見たほうが良いのかもしれない。
 そう思い、グローブを嵌めた手が、殊更慎重にドアノブに触れた。ゆっくり回し、するりと部屋の中に滑り込む。
 その部屋を見渡し…、いや、見渡すほど広くもない部屋を瞳の中に捉えて、軽く驚く。
 屋敷はどれも、その財力を誇示するかのように広かったというのに、この部屋はひどく狭い。余計な物が何も置かれておらず、物置というわけでもなさそうだった。
 その、刹那。
「ネズミが一匹か」
 声は、すぐ背後から聞こえた。驚くより先に、身体が反応する。太い腕が繰り出してきた拳を、瑞穂は寸前で避けていた。
 腰を少し落として構えを作りつつ、向き直り「敵」の姿を確認する。
 男―――中年。しかしがっしりとした、強靭そうな肉体は年齢と相まって一筋縄ではいかない気迫を突きつけている。
 体格差だけを見れば、不利かも知れない。だがこちらも軍人。魑魅魍魎を相手に命をかけた戦闘もこなしてきた。勝つまではいかずとも、隙を見て逃げ出すことくらいは、できるかも知れない。
 牽制に腰を落とした体勢から、強く握りしめた拳を容赦なく男の腹に殴り当てた。
 分厚いタイヤを殴ったような、肉に打ち込んだ感触に、一瞬手ごたえを感じる。
「…!」
 追撃は、しなかった。狭い部屋の中で距離を取り、目の前の筋肉質の男を見上げた。
「どんなもんかと思ったが…、なるほどな」
 男が唇を、楽しそうに舐めた。少しも効いてはいないのだろうか。身につけているメイド服が、急に鬱陶しく思えてしまう。まだ靴が、編上げブーツであることが幸いだった。
「おまえは…警備の者…?」
「そうだ。IO2エージェント…、鬼鮫だ」
「ご丁寧に…、どうも!」
 重いブーツが回転の力を得て、鬼鮫の腿を撃った。ぴくり、と眉を寄せて鬼鮫がその攻撃を受けた。スカートのレースが舞い、彼女の無駄がない動きに彩を加える。
 相手に攻撃の隙を与えてはいけない…、瑞穂は懐に潜り、肘打ちから拳を当てる。鬼鮫はその攻撃を受け、少しは効いたのか―――真剣な眼差しで、素早い瑞穂の攻撃を受け続けた。
 少しは圧している…。このままいけば、と瑞穂が顎を引き、床を踏みしめた、その時のことだった。
 とん、と背に冷たい壁の感触。
「…な、っ」
 見出した希望めいたもの、それが血の気が引くのと同時に絶望に変わった気がした。
 なぜ。なぜ気付かなかったのだろう。この男は―――ただ私の攻撃を受けていただけでは…、なかったのだと。
 見せてしまった隙を、鬼鮫が見逃すはずがなかった。瑞穂の掌より、ずっと大きく分厚い手が、瑞穂の頬を強く強く、打ち付けた。
 強烈な平手打ちは、そのまま左右に打ち込まれる。一撃の平手で、脳が揺さぶられる感覚だった。
 赤く腫れた頬は、見るからに痛そうな感想を覚える。美しい顔をしていたために、余計に痛々しい。ヘッドドレスのリボンが片方解けたが、瑞穂にはもちろん、それを気にする余裕などあるはずがない。
 だが、それだけで済むわけがなかった。よろめいた瑞穂の頭を掴み、相応に太く丈夫そうな脚が、彼女の腹に膝蹴りを浴びせた。
 何度も繰り返されるその攻撃に、上手く息が出来ず。放り投げるように腕を離されたが、
「っ、かは、…、はっ…」
 まるで打ち上げられた魚のように―――無様にも床の上で痛みに悶えた。
 短いスカートから覗く足からは、ガーターベルトで止めたニーソックスが見えるが、それも所々痛んで破けていた。美しい青と白のメイド服も、のたうち回る内に乱れていき、それが違う状況で、このように痛みに震えていなければ、異性の気を惹けたかもしれない。
 その色香が、無残な様子によって艶を増しており、戦闘の最中というこの空間で、一際異色だった。
「もうおねんねか? 能力者なら、まだやれるんだろう?」
 挑発に身体が勝手に乗るように―――、瑞穂は腕で身体を支え起し、膝をゆっくりと立てて立ち上がった。痛々しい打撃の痕や乱れた衣服を、直す余裕も、暇もなく。
 鬼鮫の右フックが、鳩尾にめり込む。ドッ、という打撃音は重く、低く。そのフックの強さをありありと表している。
「がっは、…!」
「おら、どうした!」
 男の攻撃は、またひとつ、またひとつと加えられた。鳩尾、顔や頭、また手足にその体格からなる打撃を刻まれていく。
 めきっ、と身体が軋む音に、
「ぎっ、く、あああああ、あっあああ!」
 瑞穂はあられもない悲鳴を挙げた。
 再び地に倒れ、意識が保てなくなっていく。
 その霞む意識の中で、鮫島が屈みこむのを、瑞穂は見た。