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記憶の行方
「お前が知ってるか知らないか知らないけど、実は俺さ、一か月程、記憶が飛んでてさ」
隣に座る戸田は、突然そんなことを言って、忠也のことを唖然とさせた。
「半年程前かなあ。ある日からある日までの記憶が、俺にはないんだ」
新郎新婦は各テーブルに置かれたキャンドルに火を灯して回った後、衣装直しをする為に別室へと移動した。式場内は、どこかほっとしたような雰囲気が漂い、前の席に座る人々は出番を終えた後の役者達のような表情でくつろいでいる。忠也はさほど、盛り上げ要因として期待されているわけでもないので、蒸した伊勢海老の身の上に、見たこともない色のソースがかかっている、見たこともない料理を、ちびちびと、食べていた。
そこで戸田の、「俺さ、実は一か月程記憶が飛んでてさ」という、良く分からない話が展開され始めたので、忠也は呆気に取られ、まず、海老を止める手を止めた。
「え、何それ」
食べかけの海老の乗った皿に目を戻す。「全然面白くない」
すると何そのリアクション、というような若干白けた表情を浮かべ、戸田がこちらを見た。
「だって記憶が飛んだなんて冗談言われるの初めてだし、どういうリアクションとったらいいかわかんないよ」
忠也がぼやくと、戸田はこれみよがしに、拗ねたような表情をした。「誰が嘘だなんて言ったんだよ」
反射的に、変わってないなあ、と思い、呆れる。「また戸田の良く分かんない話が始まったぞ」と、大学生の自分が言うような気がして、懐かしいような感じもした。
「そんな話の何処を嘘じゃないと思えばいいんだ」
「全部、全部だよ。俺はある時からある時の間の、一ヶ月間の記憶がないんだ。本当だよ、全部本当の話なんだ」
だとしたらそれは、もっと深刻で切実な顔をして言うべきではないのか、と言いたくなったが、それについてくどくどと述べられても面倒臭いので、言わないでおくことにした。
ワイングラスに注がれた水を、口に運ぶ。そこで戸田が、まるでボールを持った飼い主の行動を見守る、犬のような表情でこちらを見ていることに、気づいた。
「あのさ」
「なに」
「もう引っ張らなくていいんだけど、その冗談」
「だから、冗談じゃないんだって、疑り深いなあ、お前も」
そう言う貴方はしつこいですよね、と思う。
「じゃあさ、もしそれが本当だったとしてだよ」
「本当だけど」
「あ、俺、一か月の間の記憶がないってなった後、なんで今まで放っておいたのさ。おかしくないか?」
「記憶無くしたことないくせに」
「いやないけど」
「ないだろ」
心なしか戸田は、勝ち誇ったような表情を浮かべた。
「ないよ」
こいつのこういう顔は何だかとっても癪に障るなと思いながら、忠也は素直に頷く。「記憶を無くしたことはない」
「だろ」
と、戸田はやっぱり少し優越感を滲ませながら頷いて、勿体つけるように白ワインのグラスを口に運び、別に聞いてやるとも言っていないのだけれど、話し始めた。まるでこの時を待ってました、とでもいうような滑らかさだった。
「ある朝目覚めた俺は、いつもどおり普通に会社に出勤した。俺はその二か月程前から、有給休暇の申請をしてたから、その次の日から、一か月仕事を休む予定だった」
「休んで、何するつもりだったの」
アルバイトで食いつなぐ失業中の身としては、有給で一か月もの休暇を取れる戸田が妬ましく、ついついムッとしたような声が出る。知ってか知らずか、戸田は「旅行だよ、旅行」と、暢気な声で答えた。
益々、ムッとする。
「旅行が悪いんじゃないかそれは。仕事休んで旅行しようとか考える邪な心が悪いんじゃないか、それは」
「でも俺は、旅行した記憶なんてない」
忠也の嫌味は無視して、戸田が言った。「次に目覚めた時には休みが終わってて、また一ヶ月後の日常が始まってた。つまり、これから旅行だ、休みだ、と思ってたのに、知らない間に終わってた。俺の中では休みもとってないし旅行も行ってない。損した気分だ」
「それはきっと、お前に損した気分を味あわせたかった誰かの嫌がらせだよ」
それが結論だ、と、良かったじゃないか、と、もとよりそれで終わるとは到底思えなかったが、とにかく面倒臭さを前面に押し出し、言った。頭の何処かでは、そんなことがあるか、と、戸田に反論されるのを漠然と予想していたので、予想に反し「だよな」と、彼が頷いた時には、聊か、驚いた。
思わず、え、そうなの、と級友の顔を振り返ってしまう。
戸田は、「嫌がらせ以外の何者でもないよな、こんなの」と、何処か他人事のような口調で、言いながら、空席になった、新郎新婦席に目を向けている。その視線を辿って、同じ方向をぼんやりと眺める。「こんなのって、どんなの」
式場内を包む喧騒に忠也の呟きは吸収され、混じり合い、溶けて消えてしまったかのようだった。戸田の耳にも届いたかどうか、分からない。二人は、しばらく、黙った。自分から「記憶がなくて」なんて、突飛な話を持ち出してきたくせに、そこで黙るなよ、とおいてけぼりを食らったかのような心細さを感じる。
そこで不意に、テーブルの向いから、「君達」という声が聞こえてきた。え、と二人は同時に振り替える。戸田は、何なのこの人と不意を突かれた表情になり、忠也はその人物を認識した途端、居心地の悪そうな表情を浮かべ、顔を伏せた。
「まさかその話、そこで終わらせようとかしてないよね」
「はあ」
「君」と、その眼鏡をかけた男は、戸田を指差した。「記憶がないなんて、おおごとじゃないか。放っておいていいのか、え? 忠也君。君も君だよ。友人が記憶ないって言ってるのに、ふうん、みたいな、それはどうかなあ、って思うよね」
「はあ」と、戸惑いながら、頷く。頬に、あれ? この人お前の知り合いだったの、とでも言うような視線を感じる。忠也は薄く眼を上げて、今はどうか、深くそこを追及しないでくださいという表情を浮かべ、また目を伏せる。
何でこんなところに、この人が居るのだ? という疑問はもちろんあったが、話の流れを変えてまで口にしてよいものかどうかの判断がつかず、結局忠也は、そのことについて付言するタイミングを逃した。
「でもあの、おおごとじゃないかって、どうしたらいいんですか? 病院を受診させた方がいいって、ことですかね」
おおごとじゃないか、と自信満々で言い切られたので、何となく、あれ、そうですかね、おおごとですかね、と、不安になってくるから不思議だった。「病院って言っても、精神科ですか、それとも、脳外科?」
「病院は駄目だな」
眼鏡の男は、忠也の意見をばっさりと切り捨て、忠也の前においてあった料理を自分の方へと寄せた。「まあ不安なんだったら行ったらいいと思うけど」
「はあ」
「どんな理由で記憶がなかったと言っても、その間にやったことは自己責任になるしね」
彼は、忠也の食べかけた海老の料理をつまみながら、興味があるのかないのか、いやむしろ絶対興味がないだろう、というようなライトな口調で、偉そうなことを述べた。
「例えばその間に悪いこととかしてたら、絶対警察に捕まるしね」
「それは、病院に行かなくても捕まるんじゃあ」
もはやそれは記憶どうのという話ではなかった。犯罪にかかわっていたりしたならば、記憶がないと言っても、きっと警察は「ああそうですか、それじゃあ仕方ないですね」とは引き下がってくれない気がする。
「発覚する恐れがある、ってことだよ、俺が言いたいのは。わかってないなあ、忠也君は」
俺こそは世の中の何もかもをわかっているのだ、と言いたげに、眼鏡の男は胸を張る。「半年間、何もせずに居たっていうのも、彼なりにそのリスクを考えてのことだと俺は思うね。そうだろ、君。これが病院なんかにのこのこ行ったとたんに、すべてが明るみに出てしまう可能性だってあるんだ」
戸田はしばらく、呆気に取られたような表情で、眼鏡の男のことを見つめていたが、やがて、「うん、そう、そうなんだよ」と、考え深げな表情で、頷いた。頷くのかよ、と、驚き、何でおまえはそこで納得するんだよ、と戸惑う。そんな自覚あんのかよ、とも、思った。
「それじゃあ結局、どうしようもないじゃないですか」
二人の男の顔を見比べて、忠也は途方に暮れた声を出す。
「ああ、そうなんだ、どうしようもない」と、戸田が深刻な声を出し、「まあ、そうだね。結局、正攻法ではどうしようもないね」と、話を引き延ばした張本人まで匙を投げたので、忠也は益々、どうしたらいいか分からなくなった。
「とりあえず人様の結婚式で話す内容じゃないですよね」
不安げな表情のまま、心細げに呟いて、「あの、どうしましょうか、草間さん」と、絶対この目の前の男からは有益な意見は出そうにないと確信にも似た思いがあっても、聞かずにいられない。
「うーん」勿体ぶっているのか、本当に名案が思いつけずに居るのか、おそらくは前者だろうが、眼鏡の男は、長い脚なんぞを組んで見せたりする。「忠也君がこないだ絶対見たくないって言って、一緒に見てくれなかったホラー映画、ちゃんと一緒に見てくれるなら、考えてあげても、いいよ」
「戸田、どうするんだよ」
そのくだりについては何かを言うのも面倒臭かったので、聞かなかったことにして、戸田を見た。「だいたいお前が言いだした話じゃないか」
「そうだなあ」
欠片も緊張感が感じられない声で、戸田が呟く。それからはっとしたように忠也を振り返り、「え、でも、どうする、ってどういうこと? どうにもできないって話してたんじゃないの」と、議会中に居眠りをしていた国会議員くらい誠意の感じられない不謹慎な発言をした。
なんだよ、お前はそれでいいのかよ、と怒りそうにはなったものの、良くよく考えたら怒る理由など何もなかった。ああそうですよね、それでいいですよね、別にこの話とか広げる必要なかったですよね、と思う。
「そうだよ、どうにもできないよ。この話はこれで終わりだよ」
「もう終わらせちゃうの」
「ところでさっきから思ってたんだけど、この人、誰なの」
もう聞いてもいいかなあ、とでもいうように、戸田が目の前の眼鏡の男を見て、忠也を見た。
「え、この人?」さー、というような表情で小首を傾げる。このまま知らん振りを通せるなら、通したいと、絶対無理だろうが、思った。
「あ、俺ですか?」そういえば言い忘れてましたね、と眼鏡の男は、ジャケットの内ポケットから名刺を取り出しテーブルの上に滑らせた。「俺は草間武彦といいます」
草間興信所、所長、草間武彦とある。その標準より小さめに作られた名刺をじーっと見て、で? とでもいうように、戸田は忠也を振り返った。
いや、で? と言われましても、と戸惑う。「まあ、興信所の探偵さん、ってことみたいですよね」
「その人が何でお前のこと知ってるんだ」
「さ、さあ?」
「だからさ」
もう口を開かない方が、というこちらの心配はよそに、草間はフォークを行儀悪く突き出して、言った。「だからあれだよ、友人を救いたいなら俺と一緒にホラー映画をだね」
「もういいよ、誰だよこいつ」
戸田の草間を見る目が既に、胡散臭いものを見るような目になっていた。こんな短時間で人に胡散臭がられるなんて、それはそれですごい才能だと思うけれど、自分のアルバイト先の上司だとは、社会人として絶対言ってはいけない言葉のような気がする。
「この人は草間興信所の所長の草間武彦で、この子はその草間興信所で雑用をする、待望のアルバイト、忠也」
それなのに、絶対言って欲しくないそのことを言った冷たい感じのするハスキーボイスは、テーブルの外から聞こえてきた。声の主を振り返ると、そこに、ベージュのワンピースを着た、背の高い女性の姿を見つけた。
「やあ、シュラインくんじゃないかー」
草間が組んだ足をぶらぶらとさせながら、のんびり言った。
「もうそろそろからかうのとかやめてくれないかなあ」
女性は、草間の隣の空いていた席に、腰かける。その動作に、どことなく上質な品の良さを感じる。凡庶の男が気軽に声をかけられないような気高さというか、気品が、ある。
彼女は、自分の前に置いてあったナプキンを脇に寄せて、空いたグラスを手元に寄せた。
式も中盤になったとはいえ、そこに座るはずだった招待客が来ないとは限らず、それは草間も同じなのだが、絶対ここが結婚式場だってこと忘れてますよね、と今更ながら、忠也は言いたくなった。
「いつまでたっても出てこないから様子見にきたのよね。そしたら案の定というか、やっぱりというか」
彼女の切れ長の目が、忠也に向く。「アンタさ、ばっかじゃないの」
え、それは、俺なんですか、こいつらじゃないんですか、と忠也は戸惑い、目を瞬く。
「何その顔可愛いー」棒読みで言って、鼻で笑われた。「そんな可愛いするからこの暇児とかにからかわれるんじゃないの」
冷たい目が草間を見て、忠也を見る。「偏った性癖の持ち主なんだから、隙見せたら、アンタ、間違いなくめちゃくちゃにされるね」
親切なアドバイスを言ってくれている人の顔というよりは、興味深い新種の珍獣の行く末に面白みを感じている研究者のような顔で、言った。
「め、めちゃくちゃって」
「シュラインくんはさっさと物事の本質を的確に指摘しちゃうから面白くないんだよ」
「私別に、茶番に付き合う義理ないよね」
本番はなしって言ってましたよねと、途端に冷たく客を見下して、現実へと引き戻す風俗嬢のように言ってから、彼女は、忠也を見た。「アンタの友達は嘘をついてて、武彦さんはそれに繋がる秘密を知ってる。二人とも、悪ふざけしてんのよ、アンタをからかうために」
しらっとした顔でそんなことを言うシュラインと、戸田と、草間と、その三角形をそわそわ見渡して、
「だと、思ってました」
かろうじて言う忠也の向かいで、「あーあ、言っちゃった」と、草間がのんびりボヤいた。
一台の赤い軽自動車が駐車場へと滑り込んできた。
運転手は若い女性で、彼女はエンジンを停止させると、パソコンケースを小脇に抱えて、表に降り立った。助手席からバックを取り出して、肩に下げる。
前方に、古めかしく薄汚れた定食屋がある。灰色の外壁は、たぶん元々は白かったんですよね、と憶測できるくらいでしかなく、お食事処、と書かれたプレートが、建物の上部に、かろうじて読める程度に張り付いていた。
運転席の鍵を閉めた彼女、シュライン・エマは、鍵をポケットの中に押し込みながらだだっ広い駐車場を、店舗に向かい、歩いた。その最中、元は明るい赤だったんでしょうね、というような、赤黒い店舗の屋根が目に入り、白いペンキでドライブインと書かれた跡があるのを発見した。
その店を愛用するようになってから半年くらい経っているはずだったが、そんな文字を見つけたのは初めてだった。これでも一応、大きな国道に面して建ってはいるし、駐車場も広かったため、時折、大型トラックなどが止まっているのを見たことがあるが、かといってドライブインとして賑わっているかどうかといえば、あの消えかけたペンキくらい、頼りない。
左右にスライドするタイプのドアを開いて店内に入る。これって昭和初期に買いましたよね、といような、木製のテーブルが四つとお座敷的なスペースが奥にあり、その上部には木の棚に乗っかったブラウン管テレビが設置されていた。瓶の詰まった赤い冷蔵庫と、銘柄が四つくらいしか並んでない煙草の自販機が入ってすぐに目に入り、壁には、手書きの御品書と、いつの時代の人か分からない、もしかしたらまだグラビアアイドルなんて言葉すら発案されてなかった時代の人かも知れない女性が、ビールを片手に水着を着ているポスターが貼られてあった。
店主は毎度の如く愛想がない。入ってきたシュラインをちらりと見て、またテレビに目を戻す。
席に座ってパソコンを開くと、「注文は?」と、背を向けたままの主人が言った。「カレー」と、手元の御品書を眺めながら、そっけなく、答える。手帳と辞書、書類の束をテーブルに広げ、パソコンを起動し、ファイルを呼び出して、昨日の翻訳作業の続きを再開する。
暫くするとテーブルの上にカレーと水の乗ったお盆が、無言で置かれた。主人はまたテレビの前に戻る。画面を見ながらスプーンを掴み、口に、運ぶ。
おいしい、と思う。
毎度のことながら、味だけは、悪くない。
スプーンを置いては画面を見て、沈黙し、考え、キーボードを打つ。時には水を飲んでみたり、窓の外を眺めて見たりしながら、とにかく、キーボードを打つ。そんな作業を黙々と続ける。
がらがら、と店の戸が開く音がしたのは、目途をつけていたところまであと一息、というところに差し掛かったところでだった。
入ってきた人物は、シュラインの向かいに腰かけると、この体勢が一番落ち着くんですよねーと言わんばかりに足を組み、テーブルの上をこんこん、と指の関節で打った。
パソコンから目をあげて、目の前に座った人物の顔を確認する。
「やあ、シュライン君、元気?」
草間武彦だった。
「見てわかると思うけど、私、仕事中だから」
「カレー食いながら〜?」
「カレーはいいでしょうが、別に」
「だよね、いいよ、別に」
御品書に目を落としながら、素っ気なく、言う。注文は? と、背後に目がついているのではないか、というようなタイミングで問うてくる店主に向かい、「俺もカレー食おうかなあ、とか見せかけといて、じゃあ生姜焼き定食で」などと注文した。
シュラインはキーボードを打つ作業を再開する。黙々と仕事を消化していくシュラインの向いで、草間はぼんやりテレビを見ていたかと思うと、思い立ったかのように、漫画やら週刊誌やら新聞やらが押し込まれている棚から、一冊の漫画を取ってきて、読み始めた。
「あのさ」
「うん」
漫画に目を落としたままの彼の口からは、どこか上の空の返事がかえってくる。
「あのさ、なに」
ちょっとした間があった。「何が」
「何か用があって来たんじゃないの」
「うん、別に」草間はひょい、と肩を竦める。「ここにきたら会えるんじゃないかなって思って」
「だから、何」
「何が」
「用もないのに昔付き合ってた女のこと探して近づいてくるとか、ストーカーに近いものがあるんですけど」
「いやん、ばれた?」
漫画が面白かったのか、自分の台詞が面白かったのか、草間はにやり、と口を歪める。「未練、たらたらなんです、俺」
「もう何でもいいからさ、とっとと用件話してくんないかなあ、気になるし」
「なんだかんだ言って優しいよねえ、シュラインくんは」
閉じた漫画をテーブルに置き、肘をつく。「そんな君の優しさを見こんで一緒に見て欲しいホラー映画があ」
「いや」
「だろうねえ。お、生姜焼き来た」
体を揺らしながら生姜焼き定食がテーブルに置かれるのを待っている姿は、どこからどう見ても馬鹿馬鹿しく、どうしてこんな男と付き合っていたのだろうと、シュラインは、改めてそんなことを考える。
「昔から思ってたけど、相変わらず良く分からない人だよね、武彦さんて」
「知ってる。だけど、それは、君も」
「こんな分かりやすい私のことすら分からないとか言ってるから、恋愛できない奴だって判断されたんですよ、たぶん」
「恋愛してるじゃないか。別れたいって言ったのは君の方だろ。俺はいやって言ってる」
生姜焼きを頬張りながら、絶対その話そんなに興味ないですよね、と確認したくなるような口調で言い、草間はついでのようにジャケットの内ポケットから一枚の紙を取り出す。
「はい」と、シュラインの方に差し出した。
「はい?」
「今調べてんだよ、その男のこと、というか、探してる」
シュラインはその免許所のコピーを三秒くらい眺めて、テーブルの上に置いた。「ああ、そうなんだ」
「まるで他人事だ」
「まあ基本的に武彦さんは他人だしなあ」
「女って怖いよね、切り替えが早いよね、俺なんかは全然ついてけないよね」
「かわいそうに」辞書をめくり単語を探しながら、言う。
「手伝ってくんないかなあ」
明日、晴れたらいいなあと、遠足の日の天気を心配する子供のような口調で言って、草間はまた、生姜焼きを、頬張る。
「早くアルバイト入れた方がいいよ」
「手伝ってくんないかなあ。報告書とか、書いてくんないかなあ」
「行ってことの経緯を説明したらいいじゃん、どうせ小さな興信所なんだし、誰も期待してないって」
「だって、怖い顔した人らがいっぱい居るような事務所とか、のこのこでかけたくないだろ」
「そういうところからの仕事を受けるからじゃん」
シュラインはまた辞書に目を落とし、パソコンのキーボードを打つ作業に戻る。
草間は拗ねてるのか、何も考えてないのか、内心の読み取れない表情で、生姜焼きの皿に盛りつけられたキャベツをぐちゃぐちゃとかきまぜた。
「これって絶対、キャベツにかけるのはドレッシングじゃなくて、マヨネーズにした方がいいよね」
誰に言うでもなく、つぶやく。
キーボードを打つ音と、テレビから漏れ出す音声が店内に、漂う。
あらかたの部分を食べ終えると、草間は、ポケットから取り出した煙草に火をつけて、テレビの画面を、ぼんやりと、見た。
「今日は、忠也君がうちに来る前からやってた人探しの仕事の件でね。その探してた男の居場所がめでたく分かったからって言って、俺に依頼してきた人達がそいつを連行しに来ることになってるんだよね」
忠也は、衣装直しに出た新郎新婦はまだか、などと、頭の片隅では考えながら、「連行って……まさか、それが戸田だとか」
と、不審な物を見るような目で、戸田を見る。
「まさか」
戸田は顔をひきつらせて、笑った。「身に覚え、ねえよ」
「だって、一か月間、記憶なかったんだろ」
「いやだからそれはさっきもそこの女の人が言ったみたいに、ほんの軽いジョークで」
「軽いジョークで、本当は、何かやばいことやったの、ちゃんと覚えてるって話?」
「いや、俺が何かやばいことしたって発想から離れて」
「まあまあ君達、落ち着きたまえよ」
困った人達だなあ、と彼は、一番困った人物臭い男には言われたくないのだが、言う。徐に、またジャケットの内ポケットから、一枚の紙を取り出し、テーブルの上に滑らせた。いちいち注目を集めようとしている一挙一動が腹立たしいのだけれど、見ないわけにもいかず、そのコピー用紙を手に取る。
そして、俄に、驚く。
「これって」
二人は顔を見合せて、それから、空席になった式場の新郎新婦席を振り返った。「あの新郎」
「そう、乾義男だ。俺に依頼してきた人達は、どうも物騒な人達だったから、今頃、顔にも服装にもセンスはないけど、脅威があるような人達が、控え室に押し掛けてるかもしれない。いや、押しかけてる、たぶん」
草間は、何が面白いのか、薄く笑う。いや絶対、笑うところじゃないですよね、と忠也は慌てる。
「性格悪いよねえ。本当はもっと前から居場所わかってんのに、結婚式の当日にぶつけてくるんだから」
「俺は別に今日を指定したわけじゃないよ。ただ、報告しただけじゃない。なんか結婚式とか予定してるらしいですよ、って。そしたらあの物騒な人らが、その日だったらあいつも逃げられねえだろ、とか言って、喜んだだけじゃない」
「でも何でその乾義男は、そんな物騒な人らに追われてるんですか」
「そんなの」
草間は、一瞬呆気に取られたような顔になって、何でそんなことを聞かれているのか分からない、というような表情を浮かべた。「俺が知るわけないじゃない」
「し、知らないで探してたんですか、それって、人としてどうなんですか」
「知らないでも探すよ、俺の仕事だもん」
「そんな。乾さん、悪いことしてないかもしれないのに、かわいそうですよ」
陳腐だけど人として正しい意見を述べたつもりだったが、草間は、気味の悪いものでも見るかのような憐みの目で、こちらを、見た。忠也は気まずくなって顔を伏せる。
「それでさ、別に、アンタに言うつもりとかなかったんだけど」
シュラインが、戸田を見て、言った。「っていうかだいたい、私らがここに来る理由もないんだけど」
「面白いから、見たいじゃん」
「ね、怖いよね、この人」
「そういう君も来てるだろ」
「まあ……物騒な人が乗り込んでくる結婚式なんて……面白そうだから」
「ほらみろ、やっぱり」
「とにかく、別に私らには、アンタにこのことを言う義務はなかったんだけど」
「そうそう」
草間が、便乗して後を続ける。
「だけど居たし、記憶ないんだ、とか、面白い話してし、つい話に入っちゃったよね」
「良かったじゃない。今日、男らしく祝福しに来てあげて」
「それは、つまり」戸田は、困ったような表情で二人を見比べた。「俺が新婦の彼女と付き合ってたことも知ってるって、話なんですかね」
え、そうなの、と思わず、忠也は級友の顔を振り返る。「付き合ってたの」
「付き合ってた。振られたけど」
恥ずかしげな苦笑を浮かべる。「だけど何か腹立つから、記憶ないとか言って、お前にごねてみた」
「何で俺にごねるんだよ、しかも記憶ないってなんだよ、振られたって言やあいいだろ。馬鹿じゃないの、お前」
「そうは言うけど」すねたように唇を尖らせる。「言えるかよ、そんなこと。お前だって、仕事辞めたこと言わないだろ。何だよ、アルバイトって」
「それは」と、忠也は顔を伏せて口ごもる。
「俺達は、乾を調べる過程で、その彼女のことも調べてたからね。君がその彼女と付き合ってたことも知ってるし、だからつまり要するに、これは君にとって、チャンスかも知れないという話なんだよ、いやあ、俺っていいことするなあ」
草間は一人で悦に入ったように足を組み、ポケットから取り出した煙草に火をつけようとして「あれ、ここって禁煙なんだっけ」と、言った。
式場を出た三人は、目的地が定まっていない難破船のようにだらだらと歩き、Y字に伸びる道の所で立ち止まった。
「私、駅の方」
シュラインが、右の道を指差す。
「俺、草間興信所の方」
草間が、左の道を指差す。
「じゃあ、そういうことで」
またね、と歩き出そうとするシュラインを、「あ、ちょっと待って」と呼び止めた草間は、何を想うのか突然その手をぎゅっと掴んだ。
うわ、と思った時には、草間の唇がシュラインの唇の上に重なって、そして離れていた。
「何てことするんですか」
「いいじゃない、別に。減るもんじゃないんだし」
のんびりとした声で言って、草間はひらひらと手を振った。「ねえ、シュラインくん、今度こそ二人でホラー映画みようね」
目の前に広がるY字路の、左側の道を歩いて行く。
ふん、と呆れたような溜息が聞こえ、忠也は恐る恐る、シュラインの美しい顔を見上げた。怒っているのか、怒っていないのか、抑揚のない表情からは分からなかったが、でも彼女がその能面のような顔で、「まあ、別に減るもんじゃないしね」と言ったことを考えると、別にどうでもいい、と思ってるのかも知れない、とも思う。
いいんですか、それで、というか、貴方がたは一体どのようになっているのですか、と、男女の機微には疎い忠也は、付き合っているのか別れたのか、友情なのか愛情なのか、恋愛なのかそうでないのか、何だか良く分からない二人の関係が、何だかもう分からない。
「じゃあ、またね、忠也くん」
「あ、はい、どうも」
だから、Y字路の右と左に別れて歩いて行く、どこか浮世離れした、美男美女の背中を、ただただ、呆気に取られたような表情で見送るしか、なかった。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 0086/ PC名 シュライン・エマ (しゅらいん・えま)/ 性別 女/ 年齢 26歳/ 職業 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
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■ ライター通信 ■
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こんにちは。
このたびは当ノベルをご購入頂き、まことにありがとうございました。
愛し子をお預け下さった懐の深さに感謝を捧げつつ。
また。何処かでお逢い出来ることを祈り。
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