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<東京怪談ノベル(シングル)>


No Mercy
 背を向け、鬼鮫は一歩ずつドアへと向かう。鬼鮫自身は気が付いていなかったが、その足取りは――戦い終わって尚、慎重な歩運びだった。あるいは、鬼鮫の無意識はその時既に――知っていたのかもしれない。
 戦闘が、いまだ終わってはいないことを――。
 ふと、鬼鮫の足が止まり、鬼鮫は後ろを振り向く。女は倒れ込んだまま何も変わっていなかった――時たま、肩が上下するのは未だ生きているだけ、脅威とは思えない。
 何を俺は、考えていたんだ――。自分自身の馬鹿げた考えを振り払うように、鬼鮫は足を進める――不安は、払拭した――しかし、何かが妙だ。再度、足を止めて振り返ろうとする鬼鮫の頬を不意に何かが掠めた。
 暫時、鬼鮫の頬に熱さが奔る。鬼鮫をかすめドアにぶつかったそれは盛大な音を立てながら、床に転がった。恐らくファイルの金具か何かだ――。ドアとの硬質な激突音、そして頬を奔る熱が刃物によって切り裂かれた痛みであることを、鬼鮫はこれまでの経験から良く知っていた。ゆえに、それ以上の確認をしなかった。警戒すべきは眼前だからだ――女が、膝に手をついて立ち上がろうとしている。
 投擲したのか――音も無く――違うな、あの体でできるわけがねぇ――。鬼鮫の胸中では、女に対する疑念がどす黒い疑惑となって、鎮火しかけた血の渇望の赤さと絡み合う。そして疑惑の黒が、渇望の赤を爆発的に再燃焼させる。悪くない気分だ――鬼鮫は、ぎゅっと拳を眼前で固め、前のめりに身をかがめ、細かくステップを刻み、女を見据える。その瞳は、黒い炎を溶かし込んだように――無慈悲に女を見据えていた。

 高科瑞穂に残された手は少なかった。意識が戻った瞬間――激痛に声を出さなかったこと――これには成功した。けれども、全身の激痛と酷い疲労感、そして力量の差は――絶望を再びその胸中に沸き起こさせるだけだった。
 私は――負けた。背を向ける男を視界に捉えながら――瑞穂はそう、自らの無力さを噛み締めた。ううん、違う――瑞穂は胸中でそう頭を振った――今が最後の好機なんだ。鮫の瞳の男は、私の力を知らない。蹴り足を途中でずらし、あいつの腹部に落とし込んだ力を――。
 何か――そう、ファイルなら――あの金具だけなら、そう重くはない――できるはず。男の足が止まったことを瑞穂は床の振動で感じ取り、注意深く倒れ付した姿のままに動きを止める。いくばくかの時間が過ぎ、男の足音が再び床伝いに瑞穂の体に伝わりだす。今だ――そう思った、けれども瑞穂は背を向け油断した相手に奇襲を仕掛けるようなやり口に、ほんの一瞬戸惑いを覚えた。
 プロとしては失格だったのかもしれない、けれども瑞穂の集中の乱れ、あるいはその意思の奥底での拒否反応なのか――ファイルの金具は一瞬遅れて空を舞う。
 けれどもその狙いはわずかに逸れていた。不意の気配を敏感に察知したのか、再び振り向こうとする男の頬に、金具は浅い切り傷を与えただけにとどまった。
 これなら動かない方が良かったかな――、でもまだ私はっ。まだ。私は負けていないわ――少なくとも、まだ私の体は――動くんだからっ。傷だらけの体を引きずるようにして、瑞穂の戦意はそれでもなおその体を立ち上がらせる。
 全身ぼろぼろだった――。しかし、瑞穂は立ち上がる――その意思によって。

 鬼鮫が距離を詰める。立ち上がった女に、もう何もさせるつもりは無かった。構えようとする予備動作ですら、女に満足に行わせるつもりは無かった。鬼鮫はその勢いのままに、女の心臓めがけて右のストレートを放った。
 渾身の一撃だった、未だ舞い立つ埃を、拳でなぎ払い――ブン、という風きり音すら伴う貫き通す一撃は、足先をもつれさせながらという女の粗末な体捌きで狙いがわずかにずらされる。結果、女の右胸に深々と拳が突き刺さった。苦悶の叫びを女があげる――息も絶え絶えで、言葉にならない苦悶を、鬼鮫は意に介さない――当たればどこでも良かった。次は女のあごを狙う、左拳が空を裂いた。
 女はもうかわすこともできなかった。あごを揺らされ、脳震盪を起こした女の膝がすとんと床に落ちた。鬼鮫は、ちょうど胸の高さにまで落ちた女の顔を、まるでボディーブローの要領で、右拳で大きく振りぬいた。
 女の体が、床に勢い良く叩きつけられる。女の顔は大きく腫れ上がり、鼻血や埃がべったりと付着していた。
 鬼鮫は、なおも手を緩めなかった。油断が――傷に繋がった。その失意は、女をズタボロにすることでしか解消できないとでも言いかねないほどの、鬼気迫る形相だった。
 倒れ込む女の腹部に蹴りを入れてその体を浮かせる。吐しゃ物が鬼鮫のコートを汚すがそれすらも鬼鮫は、意に介さなかった。続いて女の、未だ血が乾きもしない額を狙って肘を振り下ろす。
 その一撃は、意識を喪失していた女を再び苦痛に叩き落すに十分な衝撃だった。
 「あ――あ……あ――」
 単音のかすかな組み合わせとしか、その苦悶は表現できないものだった。一音ずつ、その意味や響きは異なるが、絶望と苦痛だけはどれも等しく満ちていた。
 倒れ付す女の額から鮮血があふれ出る。しかし、それでもなお鬼鮫の攻め手は緩まなかった。返り血を頬やコートに浴びて、鬼鮫の姿はまるで鮫が獲物をほふるその姿にも似ていた。鬼鮫は女を後ろ手に抱え込むと、強靭な背筋で一気に持ち上げて床にたたきつけた。
 叩きつけた場所は、肘鉄が穿った額と寸分狂いも無く――狙い通りだった。女の細く白い足がピィンと天に伸び、二、三度痙攣する。それで終わりだった。
 女はもう声を上げない。四肢をだらんと、弛緩させ――無造作に崩れ落ちる。
 鬼鮫は女の腹を再度、蹴り上げた。
 意識が戻ったのか、女は割れた額を押さえ転げのた打ち回る。
 「い……や、いや――や……めて――」
 女が無様に一声あげるたびに、鬼鮫の頬の痛みを癒していく――。全てが一方的だった、女の体にはもう何の艶も無い。服は乱れ、ところどころほつれ、汚れていた。そこに美はなく、ゆえにその姿は醜く無様で敗者に相応しい、鬼鮫はその姿にやっと溜飲をくだすことができた。