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【バレンタイン2009】バレンタインパーティー
■01
その日、草間興信所はいつものように暇だった。
いやいや、決して、経営難に陥るほど依頼主が来ないわけではない。ただ不況不況と世間が騒ぐので、依頼主の財布の紐が緩まないのだ。頻繁に相談に来ないし、追加料金を払うオプションを嫌がる。
だから、この日も、興信所の所長である草間武彦はストーブの前で丸まっていた。
他に誰もいないので、気が緩んでいるのだろう。
シュライン・エマは区切りの付いた帳簿をしまい、そっと立ち上がった。
武彦の背中をゆっくりとつついてみる。
「ん?」
「あのね、武彦さん。食べ放題があるの」
器用にバランスをとりながら、武彦が振り返った。
一緒にどうかしら、と、シュラインは首を少しだけ傾げる。
「そうだな」
一度屈伸してから武彦が立ち上がる。
(……食べ放題か。ずらりと並ぶ温かな料理。好きな物を好きなだけ選び心行くまで食べる事ができる。しかも、誰をそれを咎めない。いや、むしろ、必要以上に食べなければ、元が取れない。だから、沢山食べて当たり前。そんな風潮さえも許してしまえる。素敵な食事のスタイルだ。食うぞ。俺は食う。この時ばかりは、クールな俺を脱ぎ捨ててもいいんじゃないか? いや、あくまで紳士的に食えば良い。きっとそうだ)
嬉しそうに頬が緩む様を見て、何となく、武彦の考える事が分かってしまったような気がする。
シュラインは頷く武彦に「出来ればそれなりの格好だと嬉しいな」と付け加えた。
「ホテルのイベントか?」
「うふふ」
余程楽しみなのか、武彦はそれ以上疑問を口にしなかった。
まさに、思うツボである。
■02
待ち合わせに現われた武彦は、意外と言っては失礼だが、随分とピリッとしたスーツを身に纏っていた。上着も、いつものくたびれたコートではない。シンプルだが、さりげなく上品な素材が見て取れる。
「悪い。待たせたか?」
「大丈夫。行きましょうか」
きちんと気を使ってくれたのだろう。
素直に嬉しい。
シュラインは、自然に武彦の腕をつかんだ。
振り払われない。
ちらりと見上げると、武彦の腕が緩んだ。そこへ手を通し、腕を組む。
「こっちよ」
「ん」
二人は並んで歩き出した。
会場は、小さなレストランだった。ドアベルがカランと可愛い音を立てる。
「いらっしゃいませ」
初老の男性が、二人を迎えてくれた。
ふわりと、甘い匂いが鼻腔をくすぐる。コートを店員に預け、店の奥、外の景色が楽しめる広いテーブルに案内された。当たり前だけれど、他に客の姿はない。
「本日は、バイキング形式となっております。お料理はあちらに。ご自由にお楽しみ下さい」
食べ放題の店にありがちな説明だったけれど、にこやかに頷いた。
「さて、行きますか」
「そうだな」
店員の姿が見えなくなると同時に、二人はさっと立ち上がった。
■03
ホワイトチョコレート、ミルクチョコレート、チョコレート。三種類のチョコレートファウンテンがぱっと目を引く。周りに並んでいるのは、イチゴ、パイナップル、キウイフルーツなど、色とりどりのフルーツ類。チョコレートでコーティングすれば、さぞ美味しいことだろう。
固形のチョコレートの種類も豊富だ。
キャラメルをミルクチョコレートで包みコーティングしてあるもの。
チョコムースをダークチョコレートで包みミルクパウダーをふってあるもの。
林檎フレーバーをミルクチョコレートで包みフレークの飾りをつけているもの。その他、カラメルソースでデコレーションされているものやホワイトチョコレートで包まれているものなどなど。トリュフだけでも数えればキリがない。
ハート型の一口チョコも色々な種類があるし、スタンダードな一口チョコも、板チョコも多数用意されている。変わったところでは、ショコラのマカロンなども見える。
また、生チョコやチョコレートケーキなどは、専用のケースにずらりと並んでいた。
とにかく、チョコ、チョコ、チョコ!
食べ放題は食べ放題でも、チョコレートの食べ放題でした。
シュラインは、可愛いプレートに一種類ずつチョコレートを取る。バレンタインパーティー開催のお知らせを受け取ってから、この日のために、入念な打ち合わせをしたのだから。
その隣で、武彦は、口の端を引きつらせて呆然と黒い塊を眺めていた。
店員が、新たなチョコレートケーキを並べ始める。二人の到着に合わせて、出来立てを用意したのだ。店員は、不思議そうに武彦をちらりと見た。
食べ放題なのだから、沢山手に取れば良いのに。
そう、言われて居る気がする。
食べないわけにはいかない、か。
武彦は、不承不承幾つかチョコレートを自分のプレートに乗せた。
先に席へ戻ったシュラインが、温かい飲み物を二人分持って来る。当然……ホットチョコレートだ。
「シュライン、たしか、食べ放題って言わなかったか?」
ホットチョコレートを受け取り、武彦がひくひくと頬を引きつらせる。決してチョコレートが嫌いなわけではない。ないのだけれど、チョコレートだけ、山ほどと言うのは一体どう言うことだろう。
一方、シュラインはほくほくと幸せな笑顔を浮かべトリュフチョコレートを口に放り込んだ。
「そうよ。チョコレートの食べ放題なの」
口に広がる甘い香り。まろやかな舌触り。とろりと溶けていくチョコレート。ああ。何て幸せな味なのだろう。一つ一つ微妙に味が違う。これならば、いくつ食べても食べ飽きない。
その後も、シュラインはもきゅもきゅと幸せを噛み締め続けた。
何度もチョコレートと席を往復し、止め処なくチョコレートを飲み込む。
チョコレート狂だから! いくらでも大丈夫!!
そんなシュラインを、武彦は諦めたように眺めていた。付き合い程度に数粒口に運んだようだが、結局手は止まっている。
「本当に好きなんだな」
「ええ。大好きよ」
大好きよ、とても。その言葉も、チョコレートと一緒に噛み締めた。
武彦は頬杖をついてシュラインを見ている。もうチョコレートは食べない様子だ。
「ふっふっふ」
ようやく食べるのを止め、シュラインは優しく微笑む。
手を伸ばし、武彦の口の端に付いたチョコの欠片をぬぐってやった。
ゆっくりと手を下ろし……。
シュラインはニヤリと口の端を持ち上げた。
「今日のコレは武彦さんを苛める為だったのよー」
人差し指を立て、意地悪く相手を睨みつける。
「なにぃ?!」
今気が付いた、と言うようなオーバーアクションで武彦がのけぞった。もし効果音が必要なら、ががぁーんと大げさな音が響いただろう。
「すっかり騙されたようね、最後の拷問を受けるがいいわ」
「そ…………」
シュラインの言葉に何かアクションをしかけた武彦は、言葉を引っ込めた。
取り出したのは、バレンタインのチョコレート。
渋い包装の中身はウィスキーボンボン。
それを、そっと両手で差し出す。
「……なぁんて、一度山ほど食べてみたかったのつき合わせちゃってごめんなさい」
いたずらっ子のような表情を浮かべるシュライン。
「いや」
それ以上何も言わず、武彦はチョコレートを受け取った。
■Ending
「それは無理して食べなくても良いのよ」
「食うよ、ちゃんと」
手渡されたチョコレートの箱に手を置き、武彦は静かに笑う。
ようやく人心地が付いたような表情だった。やはり、チョコレートの山には疲れたのだろう。
二人の前には、口直しの軽食が並んでいた。
最初から、きちんと用意しておいたのだ。
「帰ってからな。今は……無理だ」
「どうぞ、ご自由に」
まだチョコレートの甘い匂いに包まれていたけれど、冷えたワインが、喉に心地良かった。
<End>
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【0086 / シュライン・エマ / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
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■ ライター通信 ■
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シュライン・エマ様
こんにちは。いつもご参加有難うございます。
チョコレートを山ほど食べる……それは、乙女の夢だと思います。いかがでしたか。甘い夢を堪能していただければと思います。チョコレートの山を前に呆然とする武彦氏を想像すると、非常に楽しく思いました。
では、また機会があリましたらよろしくお願いします。
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