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<東京怪談ノベル(シングル)>


 Secret(3)


 空は洗われるかのように夜が明け、淡い陽の光が世界に溢れていた。
 もっとも、陽の光の届かぬ地下室には、その光の恩恵が届く事はない。
 豪奢な館の片隅にある、人に存在を忘れられたかのように存在する地下室。
 そこでは、凄惨な光景が繰り広げられていた。


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 ヒューヒュー。ヒューヒュー。
 高科瑞穂(たかしなみずほ)は、文字通りに虫の息であった。
 時間はもうどれだけ経ったのだろう? 暗闇は、時間感覚さえも麻痺させる。廊下からのみ漏れる光だけでは、この時間感覚が狂わされると言う恐怖からは抗えないようである。
 折れた鼻からは、血が止まらない。止まらないと言う事は、永遠に続くような時間だけれど、まだそんなに経っていないんだろうかと思ったりもする。
 歯が折れ、歯茎からは血が溢れ、口の中は鉄の味がいっぱいに広がる。
 自身の汗と血と埃の匂いが染み付いているのが、何ともみじめであった。
 しかし、自分には反抗するだけの力は、もう余り残されていない。
「起きろ」
 何度目か忘れたが、何度目かの、鬼鮫による暴力の開始は、瑞穂の髪を千切れんばかりに引っ掴んで、瑞穂を無理矢理起こす事から始まる。瑞穂の髪は、本来ならライトブラウンの綺麗なストレートなのだが、何度も床を転げ回ったせいでもつれ、汗と血と埃のせいでべっとりとしていた。
 顔は既に腫れ上がって、目を大きく開ける事すら叶わないが、それでも瑞穂は鬼鮫を睨んだ。
 鬼鮫はその瑞穂の瞳が憎いらしく、その瞳を見るたびに殴りつけるのだが、彼女に残された抵抗はその瞳だけであった。
 瑞穂は最後の抵抗に唾を吐いた。
 ぺちゃり。
 鬼鮫の顔にかかった。
 顔はキスできそうな位に近い。
 もっとも、この男のキスする位だったら、まだここで嬲り殺された方がマシなのだけど。
 瑞穂にはこの男を嘲笑う力も残されず、口角をかろうじて「きゅう」とだけ上げるのだけが精一杯だった。
 鬼鮫の先程まで満足していたのか、眉間の皺が消えていたのが、再び蘇り、青白い(と思われる)血管が浮き上がっているのが分かった。
 もう瑞穂は、この男をわざと怒らせる位にしか、抵抗はできないのだから。
「まだこの俺を怒らせるか?」
「ヒューヒュー………ええ……何度でも………殺したければ殺せばいいわ……私の身体は死ぬかもしれないわね……でも……私は折れないわよ………魂までは………」
 そこまでしか、彼女は言えなかった。
 出血過多で、意識が朦朧としてきたのだ。
 彼女はもう任務の事などとうの昔に忘れていた。
 世界がトローンとしており、自分がそこにまどろんでいる。
 先程まであんなに痛かった身体の痛みも、自分が今ボロ雑巾のように埃だらけで転がっている事も、全て人事のように思えるのだ。
 鬼鮫はやはり逆上している。
 瑞穂は最後に意識朦朧としている中手を伸ばした。
 手を伸ばして何するつもりだったのだろうか。
 しかし最後まで手を伸ばす事は叶わず、鬼鮫に叩かれた。
 何度も何度も浴びるように打ち込まれる拳。身体が何度もバウンドするが、それでも髪を掴まれ、逃れる術はなかった。
 ふいに髪は離された。そのまま瑞穂が崩れ落ちようとした途端、今度は両手で頭を掴まれた。
 頭には激しい頭突きが打ち込まれる。
 星が飛ぶとはこの事を言うんだろうか。
 瑞穂はぼんやりとした意識で思った。
 脳味噌が揺れる画像を連想する。それはグロテスクな色をしているような気がした。
 そのまま瑞穂は崩れ落ちた。
 鬼鮫は崩れ落ちた瑞穂にも、容赦はなかった。
 腹が蹴られた。
「……ハッ、ガハッッ」
 それは肉体的な条件反射の声だった。
 瑞穂の腹は、サッカーボールのように何度も何度も蹴られた。
 瑞穂はそのまま転り続ける。
 自身が転がり続ける事も、瑞穂にとっては人事であった。

 死ニタクナイ、死ニタクナイ、死ニタクナイ、死ニタクナイ、死ニタクナイ、死ニタクナイ、死ニタクナイ、死ニタクナイ、死ニタクナイ、死ニタクナイ、死ニタクナイ、死ニタクナイ、死ニタクナイ、死ニタクナイ、死ニタクナイ、死ニタクナイ。

 自身の身体に残った僅かな、しかし確実にある生存本能。それだけが、瑞穂の身体を動かしていた。

 でも、それももう終わり。
 残念ね、鬼鮫。お前は私が必死で命乞いをする姿が見たかった。そうでしょう? でももう私にはそれができない。
 その後の事は知らない。好きにすればいいわ。運がよければ私が生きている事もあるでしょうね。でも、もう私は貴方の思うようにはならないわ。
 さよなら。

 瑞穂は、とろとろと襲ってくる意識のまどろみに身を委ねた。
 彼女の身体がリバウンドする。
 既に彼女の意識はなかった。


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 あの女は逝ったのか?
 既に夜は明けたはずの時刻の中、床に転がり落ちてぴくりとも動かなくなった女を一瞥した。
 鬼鮫はそれを確かめる気にはなれなかった。
 自身は勝った。はずだった。
 しかし何故かしこりが残るのである。
 あの女の瞳が憎かった。
 どんなに汚しても潰しても消えない光が憎かった。
 今はその光はない、はずであるが、釈然としない気分は拭えなかった。
 あの女が生きていたらいい。そう思った。
 もしあの女が死んでいたら、まるで勝ち逃げされた気分である。
 鬼鮫はこの自分の胸中に沸く何とも言えない渇望を抑えつつ、地下室から出た。
 あの女のいる場所の空気を一刻も早く吸うのを止めたかったのである。


 捕食した獲物なれば、渇望しなかったであろうに。
 手折った百合は、また季節が巡れば咲き誇る。
 止まった百合の花は高科瑞穂。
 今は手折られ脆く崩れ落ちたが、季節が巡れば再び咲き誇る花。


<Secret(3)・了>